日本産植物研究の歴史の概略
→ホーム

 江戸時代のわが国は鎖国政策をとり、欧州諸国のうちオランダだけが長崎の出島を窓口として交流が許された。そのオランダによってわが国の豊かな自然が欧州に広く紹介された。まとまった数の植物が欧州に紹介したのはドイツの医師ケンペル(Engelbert Kaempfer; 1651-1716; 1690-1692年滞在)であり、1712年に出版した『 廻國かいこく奇観きかん(Amoenitatum exoticarum politico-physico-medicarum fasciculi V)に一部である『日本の植物』(Plantarum japonicarum)には324種が記録されている。ケンペルはこのほかグルジア、ペルシア、日本で見聞したことを書き留めた膨大な原稿を残した。彼の死後、英国のスローン卿(Sir Hans Sloane1660-1753)がこの原稿を買収し、スイス人学者ショイッヒツアー(Johann G. Scheuchzer; 1672-1733)によって日本に関する部分が翻訳され、1727年、『日本の歴史』(The History of Japan)2巻として出版した。後にドイツ語など各国語版に翻訳されたが、ドイツ語版は英語版を翻訳したものであり、ケンペルのオリジナルの記述は出版されることはなかった。しかし、その原稿は大英博物館に所蔵されている。この書は日本の歴史に関する記述のほか、2度江戸を訪れ当時の将軍に謁見しており、17世紀の日本の社会、政治、自然の状況を詳しく記述した第一級のもので、これによって日本はアジア諸国の中でもいち早く欧州に知られることになったのである。リンネは植物分類学の始祖として知られるが、1753年の『植物の種』(Species Plantarum)初版にはケンペルの知見をもとにして日本で採集された植物(イチョウ、ツバキなど)を取り入れている。すなわち、リンネが初めて学名を与えた植物の中に欧州からはるかに離れた極東の島国日本の植物が含まれていたのである。1775年には、リンネの後継者として後にウプサラ大学教授となったツンベリー(Carl P. Thunberg; 1743-1828;1775-1776年滞在)が来日し、1784年には『日本植物誌』(Flora Japonica)を出版した。ツンベリーの日本植物誌には812種の日本産植物が記載され、そのうち新属26、新種418種が発表されており、当時としては第一級の著作であった。また本書には日本人が植物をどのように利用しているかについても記述しており、貝原益軒(1630-1714)の著『 大和やまと本草ほんぞう(1708年)などに代表されるわが国の本草学の影響を垣間みることができる。日本の植物をもっとも精力的に採集、研究したのはシーボルト(Philipp F. von Siebold; 1796-1866; 1823-1829年、1859-1862年滞在)をおいて他にいないだろう。彼はリンネやツンベリーなど初期の植物学者の多くがそうであったように医師であった。当時は薬といえば生薬の時代であり、薬用植物にとどまらず植物に関する知識をシーボルトは豊富にもっていた。彼は1823年にオランダ東インド会社によって天然資源の調査などの特命を負って日本に派遣された。日本滞在中、尾張の医師で当時の日本を代表する本草学の泰斗であった伊藤いとう圭介けいすけ(1803-1901)水谷みずたに豊文とよぶみ (1779-1833)をはじめとする本草学者とともに多くの植物試料を収集したことはよく知られている。伊藤はシーボルトから博物学、蘭学を学び、本草学で培ったわが国の伝統的博物知識を近代科学の枠組みへ橋渡しする役目を果たし、後に東京帝国大学教授として日本植物の分類学的研究の発展に貢献した。シーボルトが日本の協力者とともに採集、欧州に持ち帰った標本を詳細に研究、記載したのがミュンヘン大学植物学科教授ツッカリーニ(Joseph G. Zuccarini; 1797-1848)であり、共著で『日本植物誌』(Flora Japonica)第一巻(1835-1844)を出版した。第二巻は1870年、ライデンのミケル(Friedrik A. W. Miquel; 1811-1871)によって出版されている。この書は150枚の美しい植物画で知られるが、ここで記載された植物にはアカマツ、アスナロ、イチイ、カヤ、コウヤマキ、モミ、ヤマモモなどがある。またアジサイも含まれており、シーボルトはその学名をHydrangea otaksaと妻である滝の名を付けたことは広く知られている。しかし、アジサイはこれ以前に欧州に知られツンベリーが記載している[現在の学名はHydrangea macrophylla (Thunb.) Ser. f. macrophylla]ので国際植物命名規約からシーボルトの学名は異名となっている。シーボルトの採集した植物標本は現在ではライデン大学国立植物学博物館に保存されている。ミケルは、シーボルトの後、東インド会社によって日本に派遣された収集家によってライデンにもたらされた採集試料についても研究を進め、『日本植物誌予報』(Prolusio Florae Japonicae; 1865-1867年)を出版している。ミケルはオランダ領インドネシアを中心とした熱帯植物に深い造詣があり、日本産暖帯亜熱帯植物との比較を行っている。 以上は鎖国下の日本で行われたものだが、1853年、アメリカのペリーが率いる黒船が浦賀沖に出現、いわゆる黒船騒ぎが起きたことはよく知られている。この騒ぎの間に日本の植物が採集され、その中にダイズが含まれていたといわれている。とすれば、今日、米国は世界最大の大豆生産国だが、それはペリーが日本から持ち帰ったものに起源を発することになる。翌年、再びペリーが来日し、1855年6月まで本邦各地で植物調査を行っている。この時の報告書をもとにハーバード大学教授グレー(Asa Gray; 1810-1888)は、1859年、北米及び日本の温帯地域の植物相の類似性を指摘し、植物地理学上注目すべき仮説を発表した。すなわち、第三紀中新世(1200-2800万年前)には現在のベーリング海峡はつながっていて北米大陸とユーラシア大陸の北方地域は温暖であったが、後の寒冷期になると氷河などのため多くの植物が死滅した。しかし、あるものは太平洋をはさんで両大陸を南下、生き延びたという壮大な仮説である。日本列島周辺と北米東岸の植生が類似し類縁植物が多く分布するのはそのためというわけである。開国から明治維新に至る激動期にも多くの植物学者が日本を訪れている。後にサンペテルブルグ植物園長を勤めたロシアのマキシモウィッチ(Carl J. Maximowicz; 1827-1891、1860-1864年まで滞在)もその一人で340種という多くの日本産植物を記載、発表したが、維新後、育ちつつあった日本人研究者にも協力を惜しまなかった。マキシモウィッチこそ黎明期の日本の植物学を育てた最大の貢献者といえるだろう。彼は岩手県出身の須川すがわ長之助ちょうのすけ (1842-1925)を助手として積極的に日本産植物の収集につとめた。マキシモウィッチは自ら記載した多くの植物(イヌシデCarpinus tchonoskii、ミネカエデAcer tchonoskii、コメツツジRhododendron tchonoskii、ズミノキMalus tchonoskii、シロバナエンレイソウTrillium tchonoskii)に長之助の名を冠してその労に報いている。マキシモウィッチの標本はロシア科学アカデミーコマロフ植物学研究所に所蔵されている。他に、官営横須賀製鉄所に雇われたフランス人医師サヴァチエ(Paul A. L. Savatier; 1831-1891)も1871年、1873年から1876年まで日本に滞在、多くの植物試料を採集している。その採集品は中国産植物について多くの業績を残したフランシェ(Adrien R. Franchet; 1834-1900)に研究され、サヴァチエとの共著で『日本植物目録』(Enumeratio plantarum in Japonia sponte crescentium)二巻(1874-1878)を出版した。これには2547種の日本産野生植物が収載され、今日知られている本邦産植物種総数(5565種)の約4割以上に当たる。これ以降、日本産植物研究は牧野まきの富太郎とみたろう (1862-1957)ほか日本人研究者の手にゆだねられることになる。牧野は邦人植物学者でもっとも多くの日本産植物種を記載したことで知られ、604種の新種を発見、命名した植物は2500以上といわれる。牧野の収集した標本の多くはは首都大学東京(旧東京都立大学)牧野標本館に所蔵されている。日清、日露戦争の勝利で、台湾そして日韓併合で朝鮮半島を領有したあと、台湾では九州帝国大学林学科教授金平かねひら亮三りょうぞう (1882-1948)、東京帝国大学植物学科教授早田はやた文蔵ぶんぞう (1874-1934)ら、朝鮮では東京帝国大学植物学科中井なかい猛之進たけのしん (1882-1952)らが精力的に研究を進めた。1953年、国立科学博物館大井おおい次三郎じさぶろう (1905-1977)によって『日本植物誌』が刊行されたが、屋久島以北の植物相を集大成したものであり、日本列島の全ての植物を網羅した訳ではなかった。トカラ列島以南の南西諸島については1971年の鹿児島大学林学科教授初島はつしま住彦すみひこ (1906-2008)による『琉球植物誌』および1976年の米国国立標本館(スミソニアン研究所)のウォーカー(Egbert H. Walker; 1899-1991)による"Flora of Okinawa and Southern Ryukyu Islands"まで待たねばならなかった。また、小笠原諸島については、1981年、豊田とよた武司たけし (1934-)によって『小笠原植物図譜』(1981年)が刊行され、以上をもってわが国の植物相の概要がほぼ明らかになった。1987年発行の環境庁自然保護局編『植物目録』によると、わが国に自生する高等植物(在来種)として5565種124亜種1612変種815品種2亜品種が確認されている。 以上述べたように、日本の植物はリンネによる近代植物学の勃興直後から欧州の第一級の植物学者によって19世紀後半まで研究されていたことが理解されよう。わが国の植物学名でLinn.(リンネ)、Sieb. et Zucc.(シーボルト、ツッカリーニ)、Thunb.(ツンベリー)、Miq.(ミケル)、Maxim.(マキシモウィッチ)、Fr. et Sav.(フランシェ、サヴァチエ)など外国人命名者が多いのは以上の経緯によるものである。そして種小名にjaponicaなど日本を表わす名が付けられたものの大半は彼らによって記載されたのであるが、欧州から遠く離れた地で採集した植物に日本の名を冠するのは成り行きからして決して不思議なことではない。因みに邦人学者によってjaponicaなどと名付けられたものは多くない。