この牧野富太郎直筆の手紙は昭和7年7月19日に当時の東京帝国大学薬学科生薬学教室の藤田直市助教授(東京大学大学院薬学研究科ホームページ参照)に宛てたものです。かなりくせのある字ですので読みづらいと思います。周防、伊予、土佐と時代を偲ばせる旧地名が出てくるのも、これはもはや古典文献として扱った方がいいのかもしれません。
さて、本ホームページ開設3ヶ月記念としてこの手紙の判読結果を公表*しますので読み比べてください。なお、判読は東京薬科大学教授指田豊先生と岐阜県保健環境研究所主任研究員田中稔幸先生によるものです(一部判読できなかった部分があります)。ここにお礼を申し上げます。
牧野富太郎は植物分類学の泰斗であることはいうまでもないことですが、帝大理学部植物学教室の所属であったはずです。なのに何故帝大薬学科生薬学教室と交流があったのでしょうか。牧野富太郎が植物学教室において当時の松村任三教授との間で確執があったことはよく知られていますが、その窮地を救ったのが生薬学教室主任教授朝比奈泰彦博士といわれています。朝比奈教授は「植物研究雑誌」の主幹であった牧野富太郎を財政面でも面倒を見ていたそうで、同誌の編集部が当時武田薬品工業(株)にあった(後にツムラに移管)のもその縁のようです(以上は大阪大学薬学部生薬学教室名誉教授吉岡一郎先生の談話に基づいたものです)。藤田博士は昭和7年当時48歳、一方牧野富太郎は75歳を越えていたはずで、この手紙の文面にはその年齢差が全く反映されていないのは上述のような背景があったからでしょう。
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