世界遺産バナウェの棚田から学ぶこと
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(Uploaded '06/9/16; Updated '10/4/28; Updated '11/11/2)
(関連ページ) 日本人、日本文化と植物

 フィリピン・ルソン島中部の急峻な山岳地帯にバナウェ(Banaue)という少数民族イフガオ(Ifgao)族の村がある。マニラ首バナウェの棚田都圏のクバオ(ケソン市)からバナウェ行きの長距離バスが運行されているが、順調にいっても9時間かかる。その上、早朝というより真夜中の3時に出発するので、バナウェツアーは外国人観光客にとっては決して楽ではない。そんなに朝早く出発するのは理由があって、一つはマニラ首都圏の交通渋滞がそれだけ深刻であるということだ。通常の時間に出発していたら、バナウェに到着するのは夜遅くになってしまう。バナウェのあるイフガオ州は大半が急峻な山岳地帯で、道路事情が悪くて夜間に運転するのはきわめて危険であり、ましてや雨期では所々に土砂崩れがあるのでなおさらのことなのだ。もう一つは、夜中に出発すれば正午から二時頃には到着するので、一泊するだけで十分に観光できるからである。
 前置きが長くなってしまったが、マニラからバナウェまで直通の長距離バスが運行されているのは、1995年に世界遺産として登録された世界最大規模の棚田(rice terrace)があるからだ。棚田はルソン島中部の標高1000メートルから1500メートル、約一万平方キロメートルの山岳地帯に散在するが、もっとも美しく規模が大きいのがバナウェの棚田である。日本にも各地に棚田があるにはあるが、バナウェの棚田は桁違いに規模が大きく、しばしば世界八大不思議の一つとも形容されるほどだ。右の写真はバナウェ棚田地帯の一部であるが、急峻な山岳地帯の中腹に集落と棚田が存在していることがわかるだろう。イフガオ族は典型的な山棲み農耕民であるが、なぜこんな急峻な地形を農耕地に選んだのだろうか。一つの理由として、年中を通して初夏のような快適な気候が挙げられる。熱帯の高地であるから、最高気温はせいぜい27、28度、早朝はかなり冷え込んで15度くらいまで下がるが、日本でいえば夏の軽井沢のような気候である。但し、晴れ上がった時の日射は強烈で肌を突き刺すようで、日焼けですぐに炎症を起こし、それだけ紫外線が強いことが実感できる。この地域はモンスーン気候帯に属するが、明瞭な乾季がなく毎日雨が降る可能性がある。山岳地帯であるから、ルソン島東部の太平洋(フィリピン海)から湿った空気が流れ込んでくれば確実に冷やされて雨雲をつくり、雨をもたらすからだ。ここでしばらく稲作について筆者の知るところを述べておきたい。稲作の起源は、かつてはインドアッサム・中国雲南付近といわれていた。世界でもっとも古い稲作遺構は揚子江下流域の江蘇省呉県の草鞋山遺跡(約6000年前とされている)から発見されているから、この地域からアジア各地に伝播したといわれる。大陸から遠く離れているフィリピンに稲作が伝わるには南方のインドネシア島嶼経由以外は難しいからかなり遅く伝わったと思われる。フィリピン低地の水田日本の稲作はアジアで最後発といわれるが、それでも2500~2600年前の水田遺跡(福岡県菜畑なばたけ遺跡)が発見されているから、フィリピンも同程度の稲作の歴史があると考えてよいだろう(国立歴史民俗博物館によれば、弥生時代の始まりすなわち稲作の起源は紀元前十世紀以前にさかのぼるというが、専門家の間でも年代の判定に対して根強い批判があって、今のところ信用するにあたらない)。バナウェの棚田は2000年以上の歴史があるといわれているが、無論、そんな昔からこれほどの規模の棚田があったわけではなく、長い年月をかけてこの地に稲作がもたらされ、2000年以上をかけて今日みるような立派な棚田が造られたということでであろう。普通、稲作といえば平坦な見渡す限りの水田(右上写真:ルソン島中部平原地帯の水田)を想像するが、世界のどこの地域の稲作も平地での水田耕作は、天然の湿地帯を利用した稲作(中国揚子江流域が典型的で、世界最古の稲作遺構もこのタイプであった。東南アジアからインドのモンスーン帯には、雨期に氾濫して水位があがって広大な水域が数ヶ月維持されるスワンプフォレストがあり、浮きイネといわれる特殊な品種を利用して稲作が行われている。日本では大きな河口の葦原がこれに近い存在であって、古くは直まきの稲作が行われていた。低湿地における稲作は生産効率に勝るが、洪水などの災害リスクが大きいので、後に治水を整備した稲作に転換していった)を除けば、近世になってからつくられたものであり、古い時代の稲作はごく小規模であったはずだ。山岳地帯の水田耕作は低地よりずっと困難にみえるが、よく考えてみると実は意外に簡単であることがわかる。水田耕作には経常的な灌漑が必要であるが、平地での灌漑は河川からの導水を必要として大規模な土木工事を伴うので、ある程度の文明が発達してからでないと難しい。一方、山岳地帯ではちょっと山を切り開いて棚田を造り、山から流れる小川をせき止めて水を通せば、水は上から下に流れるから、最小限の工事で灌漑は完成するのである。バナウェでは棚田の上部の熱帯雨林が拠水林として機能しており、水源として手付かずにしてある。山岳地帯の代表的な農耕に焼き畑農耕がある。日本にも比較的近年まで山間地に残っていた。焼き畑ではイネの陸生型である陸稲が植えられる。今日のバナウェでは水田しか見当たらないが、古くは焼き畑もあったと思われる。山腹に農地と住居を構える農耕の形態は、日本を含めてアジアの各地域に共通し焼き畑が営まれているからだ。中尾佐助氏はヒマラヤ山腹ほかアジア各地の棚田を焼き畑起源と考え、根栽農耕の基層の上に焼き畑の陸稲栽培から棚田水稲耕作へ進化していったと述べている(「栽培植物と農耕の起源」岩波書店、1966年)。これに異を唱えたのが池橋宏氏であり、野生イネはもともと湿地に生えるから、湿地でないところでも生える品種として選抜された陸稲を水稲に戻すのは育種学上難しい(「稲作の起源」講談社)といい、水稲耕作は根栽農耕文化でサトイモとともに植えられていたのが起源と考えた。今日、サトイモは畑地に植えるが、沖縄ではターム(田芋)と称して水田に植えている。数千年前の揚子江流域に熱帯型の根栽農耕があったかどうか定かではないが、湿地はいくらでもあったから、池橋説は説得力があるようにみえる。しかし、イネの遺伝形質はきわめて多様であり、水生・陸生のどちらにも適応できるような形質のイネもあった(とりわけバナウェのように雨の多い地域で栽培される陸稲は多量の水分を必要とする品種が選抜されてきたとしても不思議はない)はずで、こう考えると中尾氏の説も捨てがたいのである。とりわけ山岳地帯であるバナウェでいきなり水田すなわち棚田が作られたとは到底思えないので、焼き畑から出発しその発展型として棚田が作られたと考えざるを得ない。焼き畑は地味が衰えると別の場所に移動するが、バナウェのような急峻な地形のもとで新たな焼き畑を求めて移動するのは大変な労力であったはずだ。当地では浅い谷筋に小さな小川が多く、水量も豊富であるから、この水をせき止め焼き畑に水を引いて地味の回復を図ったのではなかろうか。あるいはたまたま小川の水がせき止められ、焼き畑に定常的に導水されるようになったところに、旺盛に生育するイネがあり、これをみて水田に転じたとも考えられる。一般に、陸稲よりも水稲の方がずっと高収量であるから、山腹を削って急峻なバナウェの棚田焼き畑から水田に転じるのはごく自然の成り行きであると考えられる。また、導入した水は、森の養分を運ぶとともに、連作による忌地の原因となるものを洗い流すことも継続的な水田への転換を加速した要因だったに違いない。バナウェから焼き畑が消え去ったのは、年中を通して降水があって山地熱帯雨林からの水が豊富であったことも理由の一つであろう。棚田を造る初期投資とそれを維持する負担は膨大であるが、その持続的システムがもたらす富は半永久的に続く。驚くことに、イフガオ族はこれを全て人力だけで、それも掘り棒一本という信じられないほどの貧弱な道具を使って造り上げたのである。左の写真をみれば、重機どころか水牛のような家畜すら使用不可能であることがわかるだろう。棚田へ行くために造られた石段も急で、日本でいえば高野山や比叡山の古参道に近いが、それよりずっと急なのだ。こんな環境の中で熱帯林を切り開き、土を削り、石を積み上げて棚田をつくるというのは大変な労力である。それ故、ピラミッドを造るに等しいということで世界の八大不思議に列挙されたのであろう。日本の歴史家の間では、自然科学者の多くが支持する縄文時代の栽培の存在を否定する意見が根強く、その論拠に農耕用具が出土していないことを挙げる。

水田稲作を行うには、苗代、代掻きなど、特有の耕作方法とその道具が必要である。それ以上に、用水量などを見積もりした用水路の建設など土木工事が大切である。また、収穫物をどのように貯蔵し、調理するか、その道具と知識が必要である。(池橋宏著『稲作渡来民』)

これは池橋宏氏の稲作文化論の一部を抜き書きしたものであるが、稲作を行う最低要件としてあまりにハードルを高く設定しすぎていないだろうか。イフガオ族の稲作はその要件のいずれも満たしていないが、実際に立派な棚田を作り上げ、地域経済を維持するのに必要な米生産を継続的に実現してきたのである。田舟や鍬鋤、その他のりっぱな農具なしで農耕が成立することについて、実は、筆者も半信半疑であったが、バナウェにきて初めて知ったのである。農具が棒切れ一本というのは根菜農耕文化の特色であり、熱帯高地にあるバナウェでは、それを基層として稲作を受け入れたことがわかる。工楽善通著『水田の考古学』は水田立地の展開が次のように進行したと述べている。

  1. 山岳・丘陵地の焼畑耕作
  2. 小河川の河谷盆地や小湖沼周辺の湿地
  3. 河川中流域の山寄りの扇状地での天水田稲作
  4. 海岸寄りの小平野の低地
  5. デルタ上部
  6. デルタ下部の沖積地

 確かに、ほぼこの順で水田耕作の規模が拡大してきたことは間違いないだろう。しかし、この説はある重要な点を見落としている。それは風水害による稲作へのダメージである。湿地帯や扇状地、デルタ地はもっとも風水害に弱い立地であり、台風や集中豪雨では一瞬のうちに土砂流で埋没する。古い時代では風水害による水田の破壊は地域社会に致命的なダメージとなるはずで、おそらく復興されることはなかったであろう。登呂とろ遺跡(静岡県)菜畑なばたけ遺跡(福岡県)のような水田遺構が発掘されること自体、風水害により致命的ダメージを受けて水田耕作が放棄されたことを示唆し、持続的に水田耕作が行われていれば遺跡とはならなかったはずである。棚田による水田耕作は、拠水林から持続的にもたらされる小規模の水流を水源とするので、思ったほど風水害に弱くない。そのことは台風が頻繁に上陸するルソン島にあるバナウェの棚田が大した破壊も受けずに古い時代から継続してきたことでわかるだろう。
 おそらく、平地での水田耕作は歴史的にはずっと後世になって始まったものであり、古い時代は一部を除けば、ほとんど棚田であったとさえ思われる。中山間地、平地いずれの稲作においても、コムギ耕作に比べて格段に労働集約的であり、農耕の明日香村の農業風景大規模化、家畜の利用や農機具の進歩という点で大きく遅れをとってきたという事実は否定しがたい。右の写真は奈良県明日香村の光景であるが、写真では見えないが、背後(左側)に鬱蒼とした森を擁する山地があり、その延長になだらかな裾野地帯が発達した地形が特徴であり、湿地・扇状地・デルタ地のいずれでもない。今日、奈良盆地の北部は広大な水田地帯となっているが、地形的には全く平坦であり、灌漑水路がないと稲作はできない。古代日本でこれほどの灌漑水路をつくるには大変な労働力を要するはずで、遷都が頻繁に行われた時代にあってはそのような余力があったとは到底思えない。しかしながら、明日香村の地形からすれば、奈良盆地北部に見られるような大規模な灌漑水路は必要でなく、山地から流れ出る水を引き込むだけで済む。すなわち、明日香村にはバナウェの棚田の傾斜をずっと緩やかにしたものがあったと考えることができる。実際、右上の写真にあるように、今日でもその面影を見ることができる。飛鳥時代にはこの地に都があり、また多くの渡来人が集積した地ともいわれる。奈良県立万葉文学館の位置する地から、日本最古の古銭である富本銭ふほんせんとそれをつくる工房が出土している。また、高松塚古墳も明日香村にあり、見事な極彩色の壁画が発見されている。すなわち、古代日本の文化の中心地であったわけで、それを支えたのが当地の稲作とは考えられないだろうか。今日的視点からすれば、明日香村の農業形態は零細かつ非効率ということになるが、古代ではもっとも効率がよかったのではなかろうか。当時としては豊かなコメ生産が渡来人を引き寄せ、高い文化を創出したと考えられるのである。
 以上、バナウェにおける稲作の状況をふまえた上で、改めて日本における稲作の起源について考えてみると、教科書などで記述されていることに違和感のあることがわかる。現在の歴史教科書は日本の稲作(水田耕作)は朝鮮半島で完成された方式が伝えられたとしている。実はこれを支持するのはほぼ歴史学者に限られており、農具ほか大陸系磨製石器、鉄斧などの金属器、無文土器、支石墓などが日本・朝鮮で共通し、中国とは異なることを論拠としている。すなわち、金属器など稲作とは直接関係のない文化要素まで取り上げて、それらが朝鮮とは類似するのに対して中国とは異なるから、水稲耕作はまず朝鮮半島に伝えられ、そこで熟成されてから日本列島にそのシステム一式ごと伝わったと考えているのである。稲作農耕の起源は世界最古の稲作遺構が発見されている揚子江流域の中国であることはいうまでもないが、それが風土的に異なる地域に伝えられたとき、当地に順応するには相当の期間を要するはずである。仮に朝鮮半島で熟成した稲作技術が伝えられたとしても、台風が頻繁に襲来するなど朝鮮半島よりずっと風水害の多い日本列島ではそのままでは順応はできないだろう。一方、最古の水田遺構は日本も朝鮮も誤差範囲ぐらいの違いしかない。揚子江流域から朝鮮半島への陸路による伝播は、寒冷で水稲耕作の困難な遼東半島を経ることになるから、およそあり得ないと考えるのが普通である。ところが、九州大学の宮本一夫氏は、牧畜社会からキビ・アワの農耕が朝鮮半島に伝わり(第一次伝播)、つぎに山東半島から遼東半島に稲作が伝播し(第二次伝播)、さらにそれが朝鮮半島に伝わり(第三次伝播)、最後に朝鮮半島から農耕が北九州に伝わった(第四次)というふうに、大陸から北九州への農耕の伝播を四段階に分けて説明し(『農耕の起源を探る-イネの来た道』、吉川弘文館、2009年)、冷涼地帯を経て稲作が伝播したと主張している。宮本氏は考古学者であり、中国・朝鮮の考古学遺物を基にしてこれを説明しているが、文系学者にありがちな観念的思考の結果、農耕を語るに必須というべき実学的視点が全く欠如している点が気になるのは筆者だけではないだろう。日本の農耕文化は、中尾佐助氏(『栽培植物と濃厚の起源』、岩波書店)も述べているように、東南アジア起源の根栽農耕やアフリカ・インド起源のサバンナ農耕から受けついだ南方系の要素を濃厚に残しており、宮本氏のいうように全て北方から伝わったというのはあまりに暴論というべきである。また、農耕伝播を大陸と日本列島の間だけに矮小化し、さらにこれを考古学というごく狭い視点(農耕とは直接関係のない考古学的遺物を間接的証拠として取り上げるなど)だけをもって論じるのは驚くほかはない。環境の変動で稲作の伝播の矛盾を説明しようとしているが、朝鮮北部で稲作が可能になるほどの温暖化があったのは山内丸山時代の縄文中期ころ(約五千年前)までさかのぼる必要がある。これだと中国北方や朝鮮への稲作伝播とは大きく時代がずれているし、また水田耕作における気象要件を十分に理解した上で論じているのではなさそうである。以上、稲作の陸路による朝鮮への伝播は非現実的といってよく、海を越えて稲作が伝播したことになるが、揚子江流域と朝鮮半島・日本列島は距離的に大差はなく、古い時代には地図はなかったのであるから、どちらの経路もほぼ同じ確立で伝わったと考えるのが自然であり、最近では中国から朝鮮半島西南部と北九州へほぼ同時期に伝播したとする説が支持を集めつつある。農耕具を含めて周辺文化要素の共通性は海峡を越えた交流によると考えれば十分に説明できるはずだ。無論、交流は一方通行ではなく相互に行われたはずで、日本固有の硬玉性の勾玉まがたまや縄文土器すらも朝鮮半島で出土しているのであるから、全て朝鮮から日本へ伝えられたとする考え自体ばかげている。もともと稲作の朝鮮経由説は伝播経路を大きく迂回させているなど不自然な部分が多いのであるが、中でも朝鮮半島で水稲耕作が熟成する間、中国から日本列島に稲作の直接伝播の可能性を全く考えていないのはその最たるものといえるだろう。また、水稲耕作の可能な地域は温暖湿潤気候のいわゆる照葉樹林帯であるが、日本列島では九州から関東地方までの南半部で相当広い地域を占有するが、朝鮮半島では南西部の海岸地域に限られる。朝鮮半島の平均降水量は日本の約七割であるが、その大半は夏期に集中し、秋期から春期までの数ヶ月間は乾期といってよいほど降水量が少なく乾燥する。冬季にも比較的降水量があり、三月から四月になたね梅雨、六月から七月に本梅雨のあるわが国では田植えに際して十分な水があるのに対して、朝鮮では五月、六月に雨が降らなければ田植えは大きく遅れることになる。すなわち、限られた時期の天水に頼るので、朝鮮半島における水稲耕作は必ずしも恵まれているとは限らないのである。以上、水稲耕作の適地がごく限られる上に気候的にも恵まれない朝鮮では稲作文化の熟成は期待する方が無理というものである。
 再び、話をバナウェに戻そう。バナウェでは年間を通して安定した降水量があるから、その気にさえなれば三期作、すなわち年に三回収穫が可能である。いや、実際には季節はないに等しいからいつでも水田耕作が可能であるが、年二回ぐらいバナウェでは穂刈りが主のペースで収穫されているようだ。日本では、季節がはっきりしていて田植え、収穫期はほぼ同じであり、田植えの後は一面の青い水田、実れば黄金の水田となり、とにかく一色で埋め尽くされるのだが、ここでは水田一枚ごとに色が違う。つまりタイムシフトによって稲作が行われているといえばわかりやすいだろう。一定の時期に労働が集中しないので、それだけ耕作民に負担が軽くなる。日本では農繁期には非常に忙しくなり、昔の農村地帯では学校が休みになったほどだ。一方、農閑期はないので、一年中、何らかの仕事をしなくてはならず、労働からのまとまった解放はない。つまり、何か革新的な変革が起きにくい社会構造とならざるを得ない。バナウェで栽培される米は2種類ある。一つは東南アジア島嶼部で広く栽培される熱帯ジャポニカ(別名ジャバニカ)であり、フィリピン米は特に日本のジャポニカに近いようだ。もう一種は赤米であり、日本で古代米と称する古い品種である。収穫した稲はまず乾燥しなくてはならないが、右上の写真にあるように穂刈りしたものを束ねて陽光の十分なときに外に出して干すのである。雨が降りそうになれば直ちに家の中に取り入れなければならない。日本では秋は晴天が多く天候が安定しているの高床式倉庫で、たいてい、刈り取った田で櫓を組んで束を干し、その光景が日本の農村の風物詩でもあるのだが、通り雨がいつ来るともしれないバナウェでは必ず自宅に運び入れなければならない。農民がもっとも神経を使うところである。イフガオ族の伝統的家屋は左のように高床式である。最近はこのような家屋はごくわずかしか残っていないが、アジアの熱帯から暖温帯の湿潤地帯に共通してみられるものであり、収穫した米を保存するだけでなく住居としても用いる。日本の弥生時代から古代でも倉庫は高床式であったが、住居は竪穴式といわれている。暖帯とはいっても冬の寒さは高床式では耐えられないほど厳しいからである。
 バナウェには小さな博物館があり、この地域の文化の概略を知ることができる。バナウェを世界に紹介したのは米国の人類学者であり、約100年前のことである。1898年、米西戦争に勝利して米国がフィリピンを手に入れて間もなくのことであった。博物館にこの人類学者の報告書および当時撮影した写真が展示されている。どのように棚田を造営し維持するかが克明に記録されている。学芸員が常駐していて説明もしてくれる。いくつかの展示品の中でもっとも興味を引いたのが、バナウェの民族衣装であった。三種類あって、最富裕層用、中産階級用、貧困層用と説明されたが、驚くべきことに全部同じに見えてさっぱり区別できない。イフガオ族最初は学芸員がジョークでも飛ばしているのかと思ったほどだ。詳しく聞いてみると、模様だけが違っていて残りの部分は全く変わらないので、衣装の機能は同じなのだ。推測するに、貧富の差は非常に少なくその差はスピリチュアルなものにすぎないようだ。例を挙げて説明すれば、エルメスやグッチーのハンドバッグに目も飛び出るようなお金を払って買う女性がいる一方で、その偽物であれば品質はほとんど変わらないのに、値段は一桁以上違う。すなわち、差はブランドというソフトにあるにすぎない。バナウェの衣装の差もそれと似たり寄ったりといってよい。稲作の豊穣を祈る儀式があるのは、アジアの稲作地帯に共通することであるが、バナウェでも宝物や祭祀器は共同体の所有になっている。稲作は他の濃厚と比べて格段に労働がきつく、共同体の結束が必要不可欠にならざるを得ない。連作が可能とはいえ、稲はもともと熱帯が起源であるから、水田に競合して生える雑草は温帯での麦作農耕(冬作だから雑草は少ない)とは比較にならない。それを怠れば収穫減になるばかりでなく、夾雑物の種子が混ざれば健康被害も起こりかねない。これら稲作に付随する労働はいずれも個人の能力差はほとんど問題にならない。つまり、共同体の結束さえ維持できれば確実に一定の収穫が見込めるのだ。このような社会では共同体の維持に全力が注がれて、その中から絶対的な権力は生まれにくい。一方、貧富の差もそれほど大きくはならないので社会としては安定する。また、共同体の結束は各個人の人数分以上の活力も生む。例えば、バナウェの棚田を初めて造るとき、相当勇気がいったはずだ。それだけの労働力を投入するに値する富を生むのかという心配が必ず湧き上がるはずだ。しかし、一旦、そうとわかったら将来の投資を惜しみなく、将来得られるであろう富で対価を受け取ってもかまわないという風潮が必ず出てくる。持続的安定成長はこういうところから生まれるのだ。一方、共同体の結束が弱ければ、自分の労働の対価をリアルタイムで要求するはずだ。これから何年先の利益なぞ信用できないと考えるからだ。日本統治時代の朝鮮で働いていた筆者の祖父の友人の話を思い出す。朝鮮は、当時、禿げ山だらけで朝鮮総督府は植林事業を進めた。無論、朝鮮人労働者に混じって日本からの入植者も事業に参加していたのだが、これにもっとも抵抗したのが朝鮮人だったそうだ。植林してもその利益が上がるのが30年から50年先のことで、そんなことのために働くという発想が全く彼らになかったというのだ。だから、黙々と植林したのは日本人だけだったという。決して朝鮮人が日本人より怠け者といっている訳ではない。朝鮮では一旦伐採すると森林は容易に再生しないから、植林によって立派な木が育つと信じる人が少なかったらしい。伐採して20年から30年すればうっそうとした森林が回復する日本とは根本的に自然条件が異なるのであるから、当然、日本と朝鮮の共同体社会の基盤も大きく異なってくる。それを知らずに戦前の日本は朝鮮の統治をしていたのである。バナウェでは、強固な共同体が各メンバーに一種の信用や保障を暗黙のうちに与えていたともいえる。弥生時代の日本の社会構造もこれと似たものだったに違いない。朝鮮半島と日本の弥生時代は、祭祀に用いる道具類はほとんど共通だったことは各遺跡からの出土品をみれば明らかだが、ただ一点、大きく異なるのは、日本ではそれらが共同体の所有であるのに対して、朝鮮では首長の所有物であったといわれる。これは、日本では気候が温暖なため稲作の比重が高まって共同体の結束という方向で社会が構築されていったのに対して、朝鮮では粗放的な畑作が主で農耕労働における共同体の重要性が低かったと考えれば理解できるだろう。植林で朝鮮人が抵抗したのもこういう社会体制であることを知れば理解できる。共同体の比重が低ければ、各個人は生活リスクを負うことになり能力差が大きく増幅され強大な権力を生む。一方、それが高ければ各共同体に留まることで生活リスクは少なくなり閉鎖的になるのである。今風にいえば、バナウェや弥生時代の日本は勝ち組と負け組の不明瞭な社会であったともいえる。日本の農耕地帯で、豪農という富裕層が存在するのは、北陸から関東以北の一毛作地帯で、二毛作が主体の西南日本では豪農という階層はほとんど存在しない。年中、労働に明け暮れるような社会構造では、富者と貧者の分化が生まれにくいことを示している。バナウェの稲作農耕は典型的な山棲み農耕であって、耕地面積は小さくて開墾で拡大の余地も少なく、決して生産効率が高いとはいえない。したがって経済的文化的には停滞せざるをえない。一方、低地湿地帯での稲作は災害リスクは高いが、生産効率は高いので富の集中が起きやすく、それに伴って権力が集中し、よりリスクの低い灌漑設備をもった低地稲作へと進化することを可能にした。タイ、カンボジア、ベトナムなど東南アジア大陸部のモンスーン帯では歴史はその方向に進展したし、日本でもそうであった。リスクの許容が文明の進展を左右してきたのであるが、政治的経済的に閉塞状況にある今日の日本は何となくバナウェに似ているといえないだろうか。
 現在のバナウェの状況に付いても述べてみたい。若い世代は労働のきつい農耕を好まず、棚田の景観がもたらす観光産業に目が向きがちであるという。その結果として、経常的な棚田や階段の補修が労働力不足で思うに任せず、棚田の荒廃を招いているという。また、皆が農耕に従事していた時は生活水準に差はほとんどなかったが、観光産業の比重が高まるにつれて、勝ち組と負け組の両極に分裂しつつあるようだ。最大の生活資源である棚田がなくなればこうした産業も成立しないのは明らかだが、さて、バナウェはどうこのジレンマを解決していくのか注目される。棚田を売り物にしながら、村ではバナウェ産の米は入手できない。ここでは全く農薬を使用しないので、完璧な有機米として売ればそれなりの付加価値をもつはずである。棚田を維持するにはこういう面での工夫もあるのではなかろうか。