ソメイヨシノとその近縁種の野生状態とソメイヨシノの発生地
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 引用文献:筑波大農林研報3:95―110, 1991.
岩崎文雄
要旨
 ソメイヨシノの起源の問題を研究するために、ソメイヨシノとその近縁種の野生状態を調査するとともに、ソメイヨシノの発生地の問題にも検討を加えた。野生状態の調査は伊豆半島、三浦半島(鎌倉を含む)および房総半島について行った。また、聴き取り調査や各地の図書館の資料などによる社会科学的な分野の調査も行った。その結果、伊豆半島、三浦半島・鎌倉および房総半島とも、エドヒガンの野生状態から、ソメイヨシノが自然交雑して生まれたところと推定することができなかった。一方、ソメイヨシノの片親であるオオシマザクラは、その形質から房総半島由来のものと推定され、竹中の伊豆半島発生説の成立は不可能であると推定された。野生状態の調査結果に社会科学的な調査結果とこれまで著者が行って来た一連の研究結果を加えて検討を行った結果、郷土史研究家などに伝承されていたように、「ソメイヨシノの発生地は江戸・染井そめい」であろうと推定された。また、交雑・育成者は伊藤いとう伊兵衛いへえ政武まさたけであり、交雑時期は1720~1735年頃と思われる。
(中略)
e.ソメイヨシノの交雑・育成に関与した人物について
 これまでの調査と研究から、ソメイヨシノは江戸・染井で交配・育成された可能性が強くなったが、小石川植物園の入口近くのソメイヨシノが1765年以前に植えられていたことが推定された(岩崎文夫、「ソメイヨシノおよびその近縁種の形態学的検討」、筑波大農林研報、2:107―125, 1990)ことから、サクラで交雑が起こり、発芽から開花までの年月を考慮すると、ソメイヨシノは1730年頃には生まれていなければならない。1730年頃は自然科学の知識も無い時代である(岩崎文夫、「小石川植物園、上野公園および染井基地などのソメイヨシノ」、採集と飼育、50(4):176―179, 1988)。このような時代に、江戸・染井に交雑を行なうことが出来る入物が存在したかという問題がある。
 このことについて調べた結果、1730年当時、江戸・染井には伊藤伊兵衛の一族だけが植木屋を営んでいたことが知られている。この伊藤伊兵衛については林(林英夫、『豊島区の歴史』、名著出版、東京、1977年)、北豊島郡農会(『東京府・北豊島郡誌』、名著出版、東京、1979年)、川添ら(川添登、菊池勇夫、『植木の里』、ドメス出版、東京、1986年)などによって詳述されているので、ここではソメイヨシノの起源に関連すると思われることのみについて述べる。
 駒込・巣鴨の園芸史料(豊島区郷土資料館、『駒込・巣鴨の園芸資料』、豊島区教育委員会、東京、1985年)によると、「伊藤伊兵衛は代々、伊兵衛の名を世襲しているが、三代目伊兵衛は通称さんじょうと呼ばれ、自称、"きりしま伊兵衛"と名乗り、1710年頃にはツツジの中心的な人物であることを自負し、ツツジ、サツキの人為交配によって新種を作った」と述べられている。麓によると、「元禄時代にはボタンの品種改良が行われていた」と述べられている(麓次郎、『四季の花事典』、八坂書房、東京、1985年)ことから考えると、伊兵衛が交配技術を身につけていたことは推定できる。前田も「1760年頃までは、交配の分野では伊藤伊兵衛の独壇場であった」と述べている(前田曙山:日本園芸研究会編『明治園芸誌』、有明書房、東京、1915年)
 三之丞の子・政武もよく知られており、三之丞と政武は単なる植木屋では無く、園芸の技術者・研究家であり、各地から集めた花木を交配して多くの新品種・奇種を作り出していた。また日本最初ともいうべき総合園芸書ないし、植物図鑑として高く評価されている一連の著書を残している(第1表参照)。

第1表 伊藤伊兵衛(三之丞と政武)
List of books published by Ihei-ITO
 文献名  発行年(和) 発行年(洋)  著者名 
きんしゅうまくら 元禄5年 1692年 三之丞
花壇かだん地錦抄じきんしょう 元禄7年 1695年 三之丞
草花くさばな前集ぜんしゅう 元禄12年 1699年 三之丞
増補ぞうほ地錦抄じきんしょう 宝永7年 1710年 政 武
広益こうえき地錦抄じきんしょう 享保4年 1719年 政 武
地錦抄じきんしょう附録ふろく 享保18年 1733年 政 武

 伊藤伊兵衛・三之丞、政武の業績に検討を加えてみると、少なくとも1717年頃まではサクラについては関心が無かったようである。伊兵衛とサクラの関係が生じたのは1720年から翌年にかけて将軍吉宗が江戸城から飛鳥山にサクラを移植した時である。この移植には当時将軍家の植木職となっていた政武が関与したことが記述されている(豊島区郷土資料館、『駒込・巣鴨の園芸資料』、豊島区教育委員会、東京、1985年)。伊兵衛がサクラに関心を持ったのは、飛鳥山へのサクラの移植のみでなく、1717年に長命寺に生まれ爆発的に江戸中に知れわり、物語まで生まれた「桜餅」の葉を取るためのオオシマザクラの苗木の販売も考えたのでは無いだろうか。とも角、1750年頃以降に江戸の各地に植えられたサクラの苗木の供給地は染井であるといわれている(豊島区図書館、『豊島の歳時記』、豊島区、東京、1978年)ことから、伊藤伊兵衛一族が1720年以降にサクラの苗木を育成していたことは確かである。
 一方、前報(岩崎文夫、「ソメイヨシノの起源に関する諸文献の調査結果」、筑波大農林研報、1:85―103, 1989)で述べた小平氏の証言に基づいて、伊藤伊兵衛の家系に検討を加えた結果(第3図参照:略)、ソメイヨシノを作った人は政武になる。一応、三之丞を考えることにしても、林は「三之丞は1695~1711年頃までに死去している」と述べている(林英夫、『豊島区の歴史」』、名著出版、東京、1977年)。しかし、西福寺の過去帳で調べたところ1719年に死去しているように推定された。何れにしても三之丞はソメイヨシノの交雑には無関係で、ソメイヨシノの交雑・育成は矢張り政武が関与しているように推定された。船津も「何代目かの伊藤伊兵衛が作ったのかもしれない」と述べている(船津金松、「ソメイヨシノの作出者」、採集と飼育、28(4):95, 1966)
 そのうえ、1740年頃の観桜はヤマザクラが中心であり、「山桜やまざくらにあらずんばさくらにあらず」という世相の中にあって、幕府の直轄の薬草園(現在の小石川植物園)の入口近くに、名も無い雑種のサクラ(ソメイヨシノ)を植えることができた人物は、将軍吉宗の信頼の厚かった将軍家の植木職、伊藤伊兵衛・政武以外には考えられない。なお、政武は1756年に没していることから、小石川植物園入口近くのソメイヨシノは1756年以前に植えられたものと考える。