本サイトは学術を主としており、政治にはかかわらないことを是としてきたが、最近の政治の混迷ぶりは目に余るものがあり、一言世間に発信したくなった。不定期ではあるが、本コラムで愚痴を叩かせていただくこととする。
(愚痴を一言)
2009年の政権交代は二大政党制を定着させ、長年の政治の沈滞を打破するものとして当初は大いに期待された。しかし、その期待は政権の迷走とともに失望に転じ、閉塞感をいっそう深めるだけの効果しかなかった。言行不一致で世間知らずの政権指導者の認識があまりに現実離れしていることも日本人にとって不幸であったが、このことはとりもなおさず深刻な閉塞感が政治・経済だけでなく日本社会の隅々まで行き渡っており、それが日本社会全体を機能不全に陥れる寸前にまで追い込んでいることを改めて思い知らされる。それに対して日本人の多くはあまりに無神経にみえる。
もっとも深刻なのは一般国民の間でその危機感はほとんど共有されていないことである。これは戦後の日本人が国家という枠組みをあまりに軽視してきたからである。現在、日本人は世界の何処でもビザなしで旅行できるが、最近の日本人はそれを当たり前と思っている。ビザフリーというのが大変な特権であることは、発展途上国で学者が国際学会に参加する場合ですら、ビザを取得しなければならず、そのために開催国の学術機関に推薦状の発行を申請しなければならないことからわかるだろう。すなわち、日本では凡人ですらビザフリーでヨーロッパや米国に入国できるが、世界の多くの国ではたとえエリートであっても大変な不自由を強いられているのだ。日本人がこれを得たのは経済大国としての地位を確立し、世界の信用を得てからであって、それほど古いことではないのだ。この特権は個人ではなく、個人の所属する国家に所属する。最近では、国家力がビジネスにとっても必須となりつつある。日本企業が海外でのインフラビジネスに中国や韓国などに競い負けることが当たり前になったのは、技術力・コスト云々ではなく、日本の国家力不足ともいわれる。それだけではない。中国製餃子中毒事件やBSE汚染問題、あるいはマグロ・クジラ漁に対する国際問題をみてもわかるように、食の安全性や食糧安全保障という観点から国家の力がこれまで以上に重要になっており、こうした分野でも日本は存在感が希薄になりつつある。
日本人が世界という大舞台において飛翔するには日本国家という存在はきわめて重要なはずだが、肝心の日本ではそれがいとも簡単に踏みにじられているのは大いなる皮肉である。それは国旗・国歌に対する冒涜によって象徴される。卒業式など教育の現場では毎年のように繰り返され、これを堂々と容認するメディアも存在する。別に日章旗・君が代が日本の国旗・国歌でなくてもよいのであるが、それに代わる対案というものを聞いたことがなく、それがいかなる利益につながるのかさっぱりみえてこないから、日本という国家そのものに対する冒涜を目的としているに等しい。他国でそんなことをしたら、最悪の場合、命を落とすこともあるほど、国旗・国歌は国際社会で重い存在であることを知っておく必要がある。これを許せば道徳・礼儀的規律がゆるみ、不測の事態を起こして国際紛争に結びつくかもしれないのだ。
国家を軽くみることでもっとも不利益を被るのは日本国民である。したがって国家という枠組みの弱体化は何としても避けなければならない最優先課題である。1960年の米国ケネディ大統領の就任演説に「わが同胞のアメリカ人よ、あなたの国家があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたがあなたの国家のために何ができるかを問おうではないか」という一節がある。リベラル派であるケネディすら国民に対し国家に対する忠節・奉仕を求めているのである。ところが、日本では保守・革新のいずれの陣営も、歴代のどの首相も、国民に対してかかる問いかけをしたことすらない。逆に、現在の日本は個人が国家から過剰な収奪を強いているとすらいえる。税収が国家予算の半分しかないのに、赤字国債を発行して国民に過剰サービスをしているに等しく、こんな状況が二十年間にわたって続いているのである。これを許容したのはモンスター化した一般国民であり、子々孫々に重いつけを強いていることを肝に銘じるべきである。
戦後、日本は憲法第九条によって軍事力を放棄した。しかし、国防に必須の軍事力なしで生き残ることができるほど世界は甘くない。自衛隊という最小限の防衛力と日米安保条約に基づく米軍駐留こそ、その穴を埋める最善の方策であり、それは1960年と1970年の安保騒動を経て強化されてきたはずだった。ところが現政権はその根幹の日米同盟を揺るがすような失態をしてしまったことは承知の事実である。現政権を支えるのは安保世代であり、反安保の遺伝子がこのような混乱を生み出してしまったのである。5月3日の各紙の全面広告に普天間基地の移転ではなく沖縄の基地の全面的撤去を求めるというのがあった。地政学的に考えて、米軍が沖縄を離れることになれば、どんな自体になるのか想像したことはないだろうか。ここ数年わが国海域で中国海軍の挑発活動をみればわかるはずで、これは日本一国だけでなく、アジア全体の安全保障に大きくかかわる。また、同盟よりも平和条約でというのも茶番でしかない。現実に日中平和条約があって主権・領土の相互尊重、相互不可侵、相互内政不干渉がうたわれているにもかかわらず、それをないがしろにしかねない最近の中国軍の行動をみれば、単なる絵に描いた餅でしかないことは一目瞭然だろう。日米同盟が盤石であればこんなことは起きなかったはずで、その責任はこんな甘い認識しか持たない政治体制を選択した日本国民にもある。また、国民のごく一部の支持しかない政党の党首が政権内に居座り、一国のみならずアジアという大きな地域の安全保障にもかかわる重要な事項を揺るがしていることは、国際社会における日本の信用をも危うくする。最近、学校教育に個人的わがままを持ち込み、教員を不必要に狼狽させる父兄が新聞紙上を賑わせており、これをモンスターペアレントと称している。この言葉を借りるならば、わが国の安全保障はまさにモンスターポリティシアンによって未曾有の危機を迎えつつあるといってよいだろう。
現在の日本に求められるのは、個人の権利云々という矮小なものではなく、ゆるみきった国家という枠組みの強化である。そのためには国民が一定の犠牲を厭わないという奉仕精神が必要である。また、政権指導者側にあっては揺るぎないリーダーシップが求められる。「国民の皆様」などとのたまう指導者が世界の列強を相手に立ち向かえるとは思えず、国民の多くはそんな腰の低い軟弱なリーダーを求めてはいない。要求するばかりで奉仕しようとしないモンスターをはねのけて、毅然とした態度で善良な国民を牽引するリーダーこそ現在の日本には必要である。考えてみれば、幕末から明治維新にかけて、また第二次大戦後の混乱期は、現在と比較にならないほどの苦境の時代であった。その時代に生きた人はいずれも大きな犠牲を払い、その後の反映の礎となったのである。