実朝の「山はさけ海はあせなむ」歌
To Homepage(Uploaded 2023/3/9)
バックナンバー
10
        1112

 令和4年のNHK大河ドラマ「鎌倉かまくら殿どのの13人」は話題沸騰したから見た人も少なくないだろう。ドラマの後半から鎌倉幕府第3代将軍みなもとの実朝さねとも(1192―1219)が登場するが、無骨なイメージの濃い鎌倉武士の中にあって珍しく『金槐きんかい和歌わかしゅう』を表すほど和歌道に通じていたことはよく知られる。初代将軍の頼朝よりともすら叶わなかったおおい二位ふたつのくらい右大臣みぎのおおいもうちぎみの官位を得た(頼朝も正二位の位階を得たが官位は特別職の征夷大将軍にとどまった)のは和歌を通じて後鳥羽上皇(1180―1239)の信任を得たからともいわれる。ここではもっともよく知られた実朝の和歌について私論を交えて解説するが、その前に大河ドラマの背景を簡単に説明しておきたい。
 源頼朝をリーダーとする東国武士団が平家を滅ぼして鎌倉幕府が成立した後も、有力御家人が次々と失脚して命を落とすという血生臭い抗争が続いた。とりわけ頼朝の死後、長男の頼家よりいえが第2代将軍(鎌倉殿)に就任してからは 13人の合議制がしかれたが(ドラマのタイトルとなった)、頼家の母方の北条氏を中心として幕府が運営され、将軍の実権はきわめて限られていた。こうした中で頼家の後ろ盾であった比企ひき能員よしかず北条ほうじょう時政ときまさ義時よしとき親子とが対立、比企一族が北条氏によって滅ぼされる(歴史学では比企能員の変という)と、頼家は将軍職を剥奪され伊豆に幽閉された。頼家の後継将軍は実弟の実朝(頼朝の二男)が継いだのであるが、わずか12歳という若さであった。幽閉された頼家が非業の死によって生涯を閉じたのはその翌年である(一説に北条氏の刺客により暗殺されたという)。その2年後、畠山はたけやま重忠しげただの乱が起き、そのわずか2ヶ月後に時政の後妻牧の方(ドラマでは“りく”の名)は実朝を追放して実子を将軍に就任させようとしたが失敗し、時政は伊豆に蟄居させられ、義時が執権となった。実際に実朝が政務に関与するようになるのは承元3年に朝廷からすない二位ふたつのくらいみぎの近衛ちかきまもりの中将すけに任じられてからである。しかし、御家人の謀反はその後も続き、建暦3年5月、頼朝以来の有力御家人和田わだ義盛よしもりが北条義時と対立して挙兵、滅ぼされるという事件が起きた(歴史学では和田合戦という)。義盛は実朝と昵懇の間柄であったから、当然ながら従姉妹を実朝に嫁がせた後鳥羽上皇も憂慮したに違いない。そこで実朝が上皇への忠誠を表すために詠んだと言われる歌が「山はさけ 海はあせなむ 世なりとも きみにふたごころ われあらめやも」であり、戦前は忠君の愛国歌として漢籍詩文「上邪じょうや」と共に軍部に大いに鼓舞された。


 上邪じょうや
 われ君相知リテ
 長メントカラ絕衰
 山
 江水ため
 冬雷震震トシテ
 夏ラシ
 天地合
 すなは あへ君絕タン

「上邪」は漢代の民謡とされるが、北宋のかく茂倩もせん(1041?―1099?)の『楽府がふ詩集ししゅう』に収録され今日に伝わる(巻16)。“上”は天、この詩では恋人の女性を指すというのが定説だが、後に主君を指すという説も登場、わが国でも“主上かみ(“しゅじょう”とも読む)、“うえさま”という用例があって熱く支持されたのである。しかし、「上邪」の“相知りて”は臣下が君主に対して使う言葉ではないので通説の恋歌と解釈するのが妥当である。「山に陵無く 〜 天地合し 乃ち」とおよそ起こり得ないことを並べ立てて、もし起きたらあなたと縁を切りましょうと締めくくっている。一方、実朝の「山はさけ 海はあせなむ」はしばしば「上邪」の「山に陵無く 江水爲に竭き」と対比され、およそ起こり得ないことに喩えたと解されるが、結語は「われあらめやも」と反語(通説)で締めくくるところが異なる。通説では日中間の感性の違いと解釈されるが、『吾妻あづまかがみ』に「うまこくおほ地震なゐフル。舎屋やかす破壊こはレ、山崩レテ地裂ケリ。此境このさかひニ於イテ近代ちかごろかくノ如キ大動おほなゐ無シト云フ。」(巻2 建暦3年) とあるように、和田合戦の直後に地震が発生し、当時としては最大規模の大地震だったことがうかがえる。実際に山が崩れ地が裂けるほどというから、海岸近くの海底が隆起してもおかしくはなく(関東大震災では千葉県館山市沖の海底が隆起し沖ノ島が陸繋島トンボロとなったなど)、「海はせなむ」とは地震国のわが国においては現実的にあり得る現象と見ることができよう。したがって実朝は「上邪」のような非現実性を詠んだわけではない可能性も見えてくるのだ。従来の解釈によれば、「山はさけ 〜」の冒頭に“假令たとひ”を付し、「たとえ山が裂け海が浅せて干上がってしまうような世の中になったとしても、君に対する忠誠に二心がありましょうか、いやありません」とされている。この場合、“浅せなむ”の“なむ”は完了の助動詞“ぬ”の未然形に推量の助動詞“む”がついた連語で推量の強調を表すが、当然の強調の意味も併せ持つ。次句の“(世)なりとも”は断定の助動詞“なり”に接続助詞“とも”がついたものであり、さらにi→eの音の転訛によって“(世)なれと(ど)も”となれば、文法的には断定の助動詞“なり”の已然形に接続助詞“と(ど)も”がついたものであるから、前後の事柄が対立の関係となり、「(地震で)山が裂け海が浅せ干上がってしまう時世ですが、(普通なら君に対する忠誠心どころではないのですが)、私が裏切るとお思いでしょうか?」という、第4・5句は通説の反語ではなく詠嘆の意を込めた疑問と解釈することも可能なのだ。すなわち“り(→れ)”という容易に音韻転訛しうるわずか一字でもって、実朝は実に微妙な意味にとることのできる曖昧な歌を上皇に送ったとも考えられる。すなわち単に後鳥羽上皇への固い忠誠心を表したというより、「前々から忠誠をつくしていると思っていますが〜」という暗示でもって安堵させるために詠んだともいえよう。ただ京を離れたことのない後鳥羽上皇は大地震の被害を目撃しているわけではないから、実朝から送られた歌は自分に対する忠誠を誓ったと解釈して感動したに違いない。一方、実朝は坂東武者を統率する武家の棟梁でもあるから、「なーに、地震を詠んで相手(上皇)の心のうちを探って見ただけだよ」と、京を向きがちな実朝に対する御家人の疑念を払拭する意図があったとしてもおかしくないだろう。実朝は後に対宋貿易を意図して外航船を中国人に建造させているが、平清盛のように経済力を独占して幕府を強固にするつもりだったと考えられ、従来考えられているよりずっとしたたかだったのではなかろうか。
   →ホーム