ソメイヨシノの起源(小泉論文原文)
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 小泉源一博士による「ソメイヨシノ済州島起源説」の原文をここに紹介する。表示が不可能な一部の漢字は新字体で表した。末尾にサイト責任者による補注を示してあるので併せて参照していただきたい。

雜 録
染井吉野櫻の天生地分明す
Prunus yedoensis MATSUM. is a native of Quelpaert!
小泉 源一
by G. KOIDZUMI

 ソメ井ヨシノザクラ(Prunus yedoensis MATSUM.)は幕末の頃に、江戸染井の花戸より市中に出で、次第に江戸にひろまりしものにして、其栽培の年代は極て新しきものなり、江戸の人此櫻を呼んでヨシノザクラと云へり。蓋し染井の花戸が先づ呼構せしものなるべし。
 ソメヰヨシノザクラとは故松村任三先生の命ぜられし稱呼にして、江戸にて單にヨシノザクラと云へば、此櫻は大和の吉野には皆無なるにも拘らす、恰も吉野の原産の如く聞ゆるを以て改められたるものなり。松村先生は此櫻が東京に出でし頃より、よく御存知にて明治の初年より漸次市中に出るやうになりて、東京帝國大學小石川植物園にも其當時栽殖されしもの老木一株ある事も、よく話され、當時の園丁長内山富次郎氏もよく之を話したり。此老木は樹齢五十餘年にして大正元年頃なりしか枯死したり。
 ソメヰヨシノザクラは大和吉野の原産にはあらざれども栽培櫻として、初て世に出し時に江戸の人々が染井の花戸より聞きて之をヨシノザクラと呼びし事は注意するを要する事なり。
 此櫻は、櫻類中にては他に比して、最も形態の特種なるものなれども、之が植物學者の完全なる理解を得るに到りしは、漸く明治三十四年にして、松村先生がPrunus yedoensis MATSUM.と命ぜられしを始となす。
 此年以前は此櫻の植物學上の位置は充分了解されす、人皆其特性を認むるに到らざりしなり。明治三十四年漸く人の注意せし頃は、此櫻が世に出でて既に三十四年以上を経過せしを以て、當時俄に此櫻の來歴に就き、染井の花戸を詮議せし頃は、染井の古老も皆死去して之を知るに由なきに到れり。
 天下の風説は此櫻は伊豆大島の原産となしたる久しかりしが、大正元年三月予大島に至り調査せしに同島には之を天生せざる事を明にし東京植物學雑誌、第二十六巻第百四十六頁に於て之を發表せり。 同く大正元年五月五日、獨逸のE. KOEHNE氏はFEDDE氏のRepertorium Specierum Novarum Regni Vegetabilis 第十巻五〇七頁にPrunus yedoensis MATSUM.var. nudiflora KOEHNEなるもの朝鮮、濟州島に天生する事を報じ、ソメヰヨシノザクラの天生地の明ならざる今同此攣種が濟州島に天生する事は學術上重要にして興味ある褒見なりと云へり。
今此Prunus yedoensis MATSUM.var. nudiflora KOEHNEはエイシウザクラと呼稱す。
此KOEHNE氏の發表せるものは、明治四十一年四月十四日濟州島居住の佛國宣教師TAQUET氏が同島の山地にて採集せるものなり、其原品の一は現今京都帝國大學植物學教室さく葉庫に保存す。
此時以來ソメヰヨシノザクラは濟州島に白生すと誤り傳へられ、三好博士の植物學講義下巻にも其由を記され、然も栽培のソンヰヨシノザクラは果して濟州島より來れるや明ならすとあり。先年朝鮮総督府林業技師石戸谷鯉氏も濟州島の片倉角治氏が同島の山地に採集せるエイシウザクラを見て同くソメヰヨシノザクラの原産地を發見せりと當時の朝鮮新聞紙上に報ぜり。
故に今日までは濟州島の山地には、ソメヰヨシノに近似せるエイシウザクラの天生せる事は略知られしも未だ眞のソメヰヨシノザクラの天生せる事は襲見されざりき。
 予本年四月二十日濟州島に渡り、濟州島營林署長田中勇氏、同森林主事岩田久治氏、及び片倉角治氏の應援を得て同島の櫻の探究に從事し四月二十四日同島漢拏山の南山腹六百米突の山地に眞のソメヰヨシノザクラ及びエイシウザクラの天生せるを發見したり。此に於て永年學界の疑問とされしソメヰヨシノザクラの原産地も濟州島なる事は確定したるも予未だ南鮮の山地に此自然分布あるや否を詳にせす。されば現今ソメヰヨシノザクラの原産地は濟州島なり。而此櫻の天生地は濟州島のみと決定さるれば之に關連して種々の植物地理上の問題も生じ來る譯なり
 エイシウザクラの天生地も目今は濟州島のみなり。此櫻は予が今回の同島に於ける研究により獨立の一種となすべきものなるを知りしを以て其學名は新にPrunus nudiflora (KOEHN) KOIDZ. Nom. Nov. (=P. yedoensis var. nudiflora KOEHNE, in FEDD. Rept. Nov. Sp. Reg. Veg. X. s. 507, 1912)(=P. sacra, f. longipes MIYOSHI in Tok.Bot.Mag. XXXIV, 1920. p.169.)と命ず、最後の異名は白瀧櫻なり。
 白瀧櫻(P. nudiflora, f. longipes KOIDZ.)とは三好先生が大和の吉野の森本坊にある樹齢六十餘年にも達する唯一株のエイシウザクラの一品に命じたる稱呼なり。先生は之れ濟州島産のエイシウザクラの一品なるを認められず、却て吉野の勝手神社の勝手櫻(Prunus sacra MIYOSHI)の一形と見らるれども其間實に大なる相違あるものなり。
 エイシウザクラは日本に於て吉野にのみ唯一株栽植されてあるが其來歴は分明せす、吉野の古老も死し寺院の記録もなし。然し樹齢は六十年以上と見え恰も幕末時代頃の栽植なり。
 吉野に丁度幕末頃に.植ゑられし唯一株のエイシウザクラあることゝ、染井より出しソメヰヨシノを元來ヨシノザクラと稱せし事より、濟州島にあるソメヰヨシノ及びエイシウザクラは共に幕末の頃に何人かによのて吉野に獻木せしものに非ざるか、而其中ソメヰヨシノは遂に江戸にもたらされしか、又は其苗木元が江戸にもたらされ親木は枯死し獨りエイシウザクラのみ吉野に現存するに非ざるか。
 吉野の藏王堂の藏王權現は櫻を愛するものにして此爲に此處に櫻の獻木ありしが吉野の花となれり。憶ふに讃岐船なるものが濟州島に出漁せし折に両品を携へ來りて吉野に獻木せしに非ざるか。
 ソメヰヨシノザクラは上に述べし如く朝鮮櫻なり、此櫻は三好先生の云はるゝ通り、壯美にして通俗によろし、之を以て一度江戸の一角に現れし以來大なる流行を以て現今は全國に普く、朝鮮や北米にも輸出せらる。方今ロ本の御花見は皆此染井吉野櫻の壯美を賞する御花見にして昔とは一變せり。
 古來大和武士と肝膽相照せし山櫻の如きは氣品高く優美の點に於て日本趣味なる之に勝る他の櫻なきを以て、自ら其植ゑらるゝ處も染井吉野の如きものとは大に異れり、之を以て彼の如く通俗ならず、されば南朝の歴史を反映する吉野山の如き處には染井吉野櫻の如きは少しも適當せず。
 予濟州島に於ける染井吉野櫻の天生地の調査を志して二十年漸く其志を達せり、如此く何が何處にあるらしいと氣付いても、直に調査に行くものとは定てゐるものではない。然し今より之を見れば松村先生御在世中に之を解決して置けばよかったと考へて居る。

ソメヰヨシノザクラ(の図あるが省略)
Prunus yedoensis MATSUM.
(濟州島所産)(片倉氏寫眞)

(補注)小泉博士は、本論文では、白瀧櫻をエイシュウザクラとしているが、エイシュウザクラが日本に植栽されていたと考える学者は小泉博士のほかは皆無である。しかし、後に、小泉博士も白瀧櫻を別種と考えるようになった。