万葉の地名:「引馬野・安礼の崎」再考
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【要約】:持統太上天皇の三河行幸は『續日本紀』にも記載された歴史的事実である。しかし、三河での太上天皇の足跡の記録がなく、滞在が一ヶ月にも達することから、隣国の遠江にも行幸したのではないかとも憶測されている。行幸に同行した宮廷歌人の歌にある引馬野・安礼の崎が三河に見当たらず、遠江の浜松に曳馬という地名が残ることことから、遠江行幸を支持する学者は少ないながら存在する。曳馬は遠州平野の西の端で三方原台地の縁に位置し、現在では天竜川の本流から遠く離れているが、古代では天竜川の河床の内にあった。したがって持統太上天皇の時代では曳馬が万葉集の歌に詠まれることはあり得ない。天竜川の主河道が三方原台地の東の端にあったことは、761年の大水害で築堤した天宝堤遺跡の存在(浜松市浜北区道本)で示唆される。因みに現在地すなわち磐田台地の西の縁に河道が移動したのは、持統太上天皇の三河行幸の13年後、715年に起きた遠江地震で流域に山崩れが起き、川がせき止められてダム湖が生じ、その決壊に伴う大洪水によるものと推定される。天竜川の上流に715年の地震による山崩れの痕跡が残り、科学的にも証明されているので、当時、二俣以北の主河道のどこかで山崩れたと推定される。安礼の崎の遠江説はすでに否定され、以上述べたように、曳馬も万葉の引馬であり得ないことが明らかになったことで、持統太上天皇の遠江行幸説は完全に否定される。

TITLE: Reconsideration on the location of "hikuma" and "Are-no-Saki" found in Man'yo-shu
SUMMARY: It is a widely recognized fact that the abdicated Emperor Jitō (持統太上天皇) visited Mikawa (三河) officially in the Japanese ancient era (A.D. 702). Though this fact was described in Shoku-nihongi (續日本紀), an authentic historical record in the Nara era, the abdicated Emperor's footprints during one-month long stay in Mikawa remain unknown. A small number of scholars insist that the abdicated Emperor must have extended an itinerary of royal visit to Tootōmi on the grounds that poems witten by accompanying court poets during royal visit include names of places such as "Hikumano (引馬野)" and "Are-no-Saki (安礼の崎)" that exist as generic names in Tootōmi (遠江) rather than Mikawa. What they assign to Hikuma (引馬) is Hikuma (曳馬), Naka-ku, Hamamatsu City, located between Mikatagahara plateau (三方原台地) and Magome River. Hikuma (曳馬) is now a long way from the main stream of Tenryu River, but the whole area used to be the riverbed of ancient Tenryu River. Thus Hikuma (曳馬) can not be identical to the ancient Hikuma (引馬) written in one of the poems. The fact that main streams of ancient Tenryu River flew from north to south along the eastern edge of Mikatagahara plateau was strongly and unequivocably indicated by the presence of Tempou-tsutsumi (天宝堤) ruins (Dōmoto, Hamakita-ku, Hamamatsu City), a remnant embankment that was constructed in A.D. 761 when a large-scale flood devastated a wide residential and farming area of the Enshu plains. The migration of Tenryu River from west (eastern edge of Mikatagahara plateau) to east (western edge of Iwatahara plateau 磐田原台地) was due to Tootoumi Earthquake that took place in A.D. 715, 13 years after royal visit. This earthquake caused a large scale of landslide, dammed up Tenryu River (presumed to be north of Futamata, Tenryu-ku, Hamamatsu City) yielding a natural reservoir, and finally the collapse of dam caused a flood along with the shift of main streams. The earthquake also caused landslides in the upriver area, and the traces are left behind as a form of buried forests. The age of buried trees was scientifically estimated to be about 1300 years old, which is in good accordance with historical record of Tootōmi Earthquake described in Shoku-nihongi. It has already been denied that "Are-no-Saki" was located in Tootōmi. Therefore, it can be concluded that a royal visit to Tootōmi by the abdicated Emperor Jitō did not occur in history.

1.はじめに

 持統太上天皇の三河国行幸は、わが国古代の正史(『續日本紀』)に記録があり、日本史上の既定の事実である。大宝2(702)年10月丁酉(3日)に「將に參河の國にいでませんと爲るなり」、同月甲辰(10日)に「太上天皇(持統太上天皇)、参河國に幸す」とあり、三河行幸の出発に関する記述がある。「幸せんと爲る」を行幸の準備中と解釈すれば、一週間の準備を終えて702年10月10日に三河国へ向けて出発したことになるが、出発直前の意であれば、10月10日に三河に到着したことになり、旅程に一週間の差がある。一方、11月丙子(13日)に「行きて尾張國に至り、〜」、11月戊子(25日)に「車駕参河より至る」とあるから、持統太上天皇は短ければ25日、長ければ1ヶ月強もの長期にわたって三河国に滞在し、何らかの公務を終えて藤原宮に帰京したことになる。ところが三河滞在中の太上天皇の行動記録はいかなる資料にも記載はなく、日本史における「なぞの空白」とされ、数々の憶測を生む温床となっている。その一つに遠江国行幸説があり、『萬葉集』に収録された行幸の歌に詠み込まれた地名の所在の考証の過程で派生した。正史では記録されていないにもかかわらず、持統太上天皇が遠江に足を踏み入れた事実があるのか明確にする目的で、次の2歌に詠まれている引馬野・安礼の崎の所在を、これまでの考証研究でありがちな推論に推論を重ねるような論考を避け、できる限り客観的視点に立って考証を進める。

(大宝)二年壬寅、太上天皇、参河國にいでませる時の歌

引馬野に にほふ榛原はりはら 入り乱れ
  引馬野尓  仁保布榛原   入乱
           ころもにほはせ 旅のしるしに
              衣尓保波勢  多鼻能知師尓

右の一首ながの忌寸いみき奥麻呂おきまろ (巻1 0057)

いづくにか 船てすらむ 安礼あれの崎
  何所尓可   船泊為良武   安礼乃埼
         漕ぎみ行きし 棚無し小舟
             榜多味行之    棚無小舟

右の一首高市たけちのむらじ黒人くろひと (巻1 0058)

この2歌はそれぞれ長奥麻呂(意寸麻呂)、高市黒人が詠んだ歌であることはまちがいないが、同じ題詞「太上天皇、参河國に幸せる時の歌」のもとに詠まれたほかの3歌(0059・0060・0061)では各々の題詞に「(詠人名)の作りし歌」とあるのに対して、長奥麻呂・高市黒人の歌には題詞がなく、左注に「右の一首、(詠人名)」とあるところが異なる。一部の研究者はこの点を重くみてこの2歌をほかの3歌と区別し、遠江行幸の間接的な論拠としてその意義を論考しているが(原秀三郎、田島公編『史料から読み解く三河』の4)、『萬葉集』巻一には、題詞に太上天皇・大行天皇の行幸の歌というのがいくつ収録され、いずれも三河行幸の歌とおおむね同じ形式であるので、およそ正鵠を射た論考とはいい難い。というのは行幸に随行した宮廷歌人や家臣の詠む歌はごく一部を除いてことごとく左注に名が記され、一方、皇族あるいは天皇(太上天皇)にごく近い身分の歌人の歌のみが詠人の名を含んだ題詞を記しており、長奥麻呂・高市黒人の歌に特異的というわけではないからだ。もっとも巻頭の目録では「右の一首、(詠人名)」と記された詠人名は省略されるのが通例であるが、長奥麻呂・高市黒人は例外的に目録にも名を連ねるところが微妙に異なる。これに対して澤瀉久孝はほかの3歌とは別に記録された資料から収録したと推定しているが(『萬葉集注釈』)、まさに達観であって、行幸に随行した宮廷歌人が詠んだオフィシャルポエムというべきものであるから、例えば正史を編纂するなどの参考資料にするため記録されたとしてもまったく不自然ではない。したがって行幸歌の内容の解釈に直接関係がないごく些細な収録の形式の差違を取り上げて遠江行幸があったかのように論じるのはまったく無意味といってよい。
2.安礼の崎の遠江所在説があり得ない客観的論拠
 行幸で詠まれた歌は必ずしも地名を含むとは限らないが、長奥麻呂・高市黒人が詠んだ2歌ではそれぞれ「引馬野」・「安礼あれの崎」という明瞭な地名が詠まれている。持統太上天皇の三河行幸で詠まれた歌という題詞を字面通りに解釈すれば、いずれも三河に由縁のある地名と考えるのが自然のはずである。ところが江戸中期の著名な国学者賀茂真淵は遠江国に曳馬(浜松市中区曳馬)という同音の地名があることをもって引馬野に比定した(『万葉集遠江歌考』)。今日では真淵が持統太上天皇の遠江行幸説の旗手であるかのように考えられているが、「御幸のをり官人の隣國にいたれることありてよめるなるべし」と述べているように、持統太上天皇自ら遠江に足跡を残したとまでは考えていなかった。安礼あれの崎の所在に関して真淵はまったく言及しなかったが、夏目隆文は安礼あらいの崎と解釈して静岡県湖西市に残る同音の地名の新居に比定し(『万葉集の歴史地理的研究』)、『上代語辞典』も安礼あれを「あらゐ」の音転として支持した。新居説に賛同する国文学者が登場したことで、三河行幸の歌に詠まれた2つの地名のいずれもが遠江に所在する可能性が高まったとして、歴史学者の間で持統太上天皇の遠江行幸説が俄然注目されるようになり、その背景をめぐっていくつかの見解が提唱されている。しかし、安礼を「あらい」と読むのは上代に用例がなく、「あらゐ」の音転で安礼あれとなったというのは本末転倒というべきである。そのほか歴史地理的観点からも新居説に致命的欠陥のあることが指摘され、この客観的論拠によって新居説の可能性は完全に否定されるに到っている。夏目は今切と称される浜名湖最南部の砂州の先端を安礼あれ の崎と考えたが、万葉時代はおろか室町中期までは浜名湖に現在みるような砂州は存在しなかったことが明らかにされたのだ。『法興ほうこう院記いんき(近衛政家)に「明應七年八月廿五日己丑、晴陰、已刻小雨洒、雷微音、辰時大地震、去六月十一日地震一陪事也、尋問勘文記之、今月廿五日辰時大地震 傍通水神所動也 (中略)九月廿五日(中略)末刻地震、傳聞、去月大地震之日、伊勢、參河、駿河、伊豆、大浪打寄、海邊二三十町之民屋悉溺水、數千人沒命、其外牛馬類不知其數云々、前代未聞事也」とあるのは、明応7(1498)年8月25日に京都にいて地震を体感し、その一ヶ月後に伊勢から伊豆の広域で大浪すなわち津波によって前代未聞の災害があったという伝聞を記録したものである。これはいわゆる明応大地震に言及したもので、浜名湖が海とつながったのは津波で砂堤が決壊されたためと考えられ、科学的観点からも浜名湖がかつて完全な淡水湖であったことが明らかにされている東大地震研HP。『東海道とうかいどう名所めいしょ圖會ずえ』にも「振据記に、むかしは此國濱名の水うみ有りしが、後土御門院明應八年六月十一日(『後法興院記』にも地震があったと記録するが、余震と思われ、正しくは8月25日である)、洪水の變ありて、水うみとしほ海とのあいだきれて、潮入りて水うみはなくなる、ゆゑに今切といふなり」とあり、浜名湖が太平洋に開口する部分を今切と称し、明応大地震による津波(原典では洪水としている)で生じたと記載している。すなわち遠江の地名は淡水の浜名湖を とほと淡海あふみと呼んだことに由来し、近江の琵琶湖に対する名称であった。今切ができる以前は浜名湖と太平洋とを結ぶ川があり、「濱名の橋」(後述するように、平安〜鎌倉期の古典に出てくる)と称される橋がかけられ、古くから東西交通の要衝であった。旧遠江国で崎といえるものは御前崎のほか、天竜川・太田川の河口にある小規模な砂州以外は見当たらないが、さすがにこれらを安礼あれの崎に比定する見解はない。因みに、三河湾内にも安礼あれの名の遺存と思われる地名は見当たらないが、歌の情景に合う候補地であればいくつか挙げることができる。今日の通説では、持統太上天皇は伊勢から船で三河国府の近傍の湊(御津の湊)に上陸したと推定されているので、豊川市御津みと御馬おんまの音羽川河口付近(現在、埋め立てにより地形が大きく変更されている)が有力視されている。しかし、小河川の音羽川の河口を崎というには小さすぎて、およそ歌の情景に合うとは思えない。三河湾内に入って航行したのであるから、湾口から御津の湊までの間で船からみえる崎ということになり、島嶼を除けば、蒲郡市西浦町の通称西浦半島の先端の橋田鼻あるいは西尾市吉良町宮崎の蛭子岬あたりになろう。黒人は棚無し小舟を歌に詠み込んでいるが、左右の内側に棚のついていない丸木舟に近いものであったと考えられる。安定性に欠け波を受ければ海水が入るので、頼りなさを感じさせる存在と解釈されている(伊藤博『萬葉集全注』ほか)が、岩場の多い海域では堅牢さの故重宝されたことを無視してはならない。横板のある構造船は古代にあっては岩礁での座礁に堪えるほど堅牢ではなかったのだ。すなわち、棚無し小舟でなくてはならない海があるのであり、宮崎の蛭子岬から西浦半島の橋田鼻はまさにそれに当たるのである。一方、御津町の海岸は、難波津ほか津と称するところと同じく砂泥の海浜であり、持統太上天皇の乗る官船(横板のある立派な構造船であることはいうまでもない!)が上陸するには適した地域ではあった。棚無し小舟は三河湾の磯辺の海岸地帯に固有の風物であったと考えられる。高市黒人のいう安礼あれの崎を固有名詞ではなく「あれの崎」(「あれ」と「かれ」は同義の指示代名詞)すなわちあそこに見えるあの崎の意と解釈すれば、なぜ安礼なる地名が遺存しなかったのか理解しやすいだろう。
3.引馬野の遠江所在説が正しくない客観的論拠
 3−1.三河にも引馬野の名を遺存する地名がある!
 安礼あれの崎の遠江説を支持する学者はもはや皆無であるが、もう一方の引馬遠江説は今日でも歴史学領域で根強い支持者がいる。遠江説支持者は引馬野という地名が三河に遺存せず、遠江には曳馬という同音の地名が所在することを殊更に強調する。著名な三河説支持者として知られる久曾神昇はやはり引馬野に結びつく地名が見当たらないことに苦慮したようで、「ひくま」は低沼ヒキヌマの約音と考え、「新宮山の南、音羽側と御津川の間の地域、北よりいえば広石(広磯の転音)、西方(西潟の意)、御馬(低沼の意)、を含むと考えられる」(『三河地方と古典文学』)と述べている。これに対して原秀三郎は「ヒクマ低沼語源説に至っては、久松氏も採らなかった説であって、まさに窮余の一策と言わざるを得ないものであり、引馬三河説は事実上ここに破綻したと言わざるを得ない」(田島公編『史料から読み解く三河』の4)とまで酷評している。しかし、正史である『續日本紀』に持統太上天皇の行幸先が三河であると明確に記され、遠江まで足跡を伸ばしたという客観的証拠がない以上、そこまで言い切るとは失礼の程を越えているというべきだろう。そもそも三河に引馬野に由縁のある地名がない(御津町の引馬神社に名が残るが、もともとは牛頭天王社と称し、三河説に則って改名したものであるから論拠にはならない!)というのは、以下に説明するように、引馬野を「ひくまの」と読むことを前提としているからである。ここにメスを入れて論考されたことはこれまで皆無であったが、改めて再考すると興味深い事実が浮上してくるのでここに紹介する。
 「引」と「馬」をそれぞれ訓読みすれば「ひく-う(む)ま」となり、それが訛れば確かに「ひくま」となる(集中の用例からは「ひきま」あるいは「ひきうま」と読むべきだと思うが、現存の曳馬の読みに流されたか?)。しかし、『萬葉集』で「馬めて」(馬並而、馬數而、馬副而、馬屯而)とはあっても、「馬を引く」という表現は不思議に見当たらない。一方、引船ひきぶね引綱ひきづなは随所に登場するが、この「引」は手元に引き寄せるという意で、引馬の「引」とは微妙に意味が異なり、馬を引き連れるという意であれば、漢籍では「牽」を用いることに留意する必要がある。『藝文げいもん類聚るいじゅう』にも「公羊傳曰く、虞公貪して寶を好み、晉の滅する所と爲すに及べり。寶を抱き、牽馬して去る云々」(巻八十三「寶玉部上」)と牽馬はあるが、引馬はない。牽馬は文芸書にはあまり登場することはないが、典制体の政書たる『通典』にはさすがに頻出し、一方、引馬は皆無である。牛でも同じで、牽牛という言葉はあっても引牛はない。わが国でも駒牽こまびきという語彙があるように、馬を引き連れるという意味では古くから「牽」を用いていた。長奥麻呂の歌を、最近の注釈書は引馬野に「馬を引いて野を進むの意を掛ける」と解釈するが(『新日本古典文学大系 萬葉集』)、もしそうであればひく馬野まの という用字が使われて然るべきであり、以上の用字を知った上でかく解釈したのであろうか。引き馬には鞍だけをつけて人を乗せない装飾用の馬の意があり、『吾妻あずまかがみ』に「基淸、彼の旅館の前に馳す。其の後、旅具を持たしむ所の疋夫等進行の處、能盛の引馬、基淸の所從を踏む。仍ち相互に諍論に及び、此の間、基淸の所從、刀を取りて件の馬の鞦手綱を切れば奔行す。云々」(巻第四、元暦2(1185)年5月17日)とあるのはまさにそれに当たると考えられる。実際、鎌倉武士の着装規範で一般武士は引き馬の頭数が決められていた(杉山一弥 日本家政学会誌 第58巻 283頁〜292頁 2007年)。一方で引き馬は替馬の意を併せ持つ。後述(「3−2」)するように、『十六夜いざよい日記にっき』に引馬宿(浜松市中区曳馬の地としてまちがいないだろう)が初見するのであるが、京都と鎌倉のほぼ中間点に当たり、また天竜川・大井川ほか水量の多く渡航が困難な河川があることを考慮すると、この地に多くの替馬が用意されていたと推察される。馬も不死身ではないから、長旅の場合は途中で替え馬(これを引き馬と称した)に乗り換えなければならないからだ。ただし、大規模な引き馬の集積地ができたのは、平安末期に源平の戦乱が起き、軍兵の急派で必要性が発生してからで、民用では鎌倉幕府が成立して京都との人的・物的往来が盛んになってからであろう。古代の律令制でも各駅家に馬が10頭ずつ常備され(駅馬という)、それとは別に各郡ごとに5頭の馬を配備する伝馬制が用意された。『延喜式えんぎしき』にも詳述され(いわゆる駅伝制)、遠江國驛馬は猪鼻・栗原・□摩・横尾・初倉の各駅家に、同傳馬は濱名・敷智・磐田・佐野・蓁原の各郡に置かれていた。驛馬の置かれた「□摩」(好字という前提に則し欠字と考えて□を置いたのは筆者の判断であり原写本にはない。刊本で引摩とするものがあるが、『十六夜日記』にある「引馬の宿」に基づいて、校定した結果であることに留意!)を引摩として『萬葉集』にいう引馬に当てる見解(あるいは栗原を当てることもある)があるが、「3−2」で述べるように、古代にまでさかのぼる可能性はごく薄く、また『十六夜日記』にいう引馬宿の可能性も微妙である。それに、平安時代までは引き馬という語彙はどこにも見当たらず、仮にそう解釈したとしても、奥麻呂の引馬野と考定するのは困難である。なぜならカバノキ科ハンノキの生える榛原はりはらは基本的に湿地であり、およそ馬を集積する駅家にふさわしい地とはいえないからだ。
 引馬が表意ではなく借訓表記とすれば「ひくま」と読んでも一向に構わないが、古代にあっては漢字のすべてが訓読みされたわけではないことに留意する必要がある。『和名わみょうしょう』の播磨國に「餝磨郡 印達 伊多知」、「印南郡 印南 伊奈美」とあり、印達を「いたち」、印南を「いなみ」すなわち「印」・「達」・「南」を呉音読みしているのである(古くは「ん」の表記がなく略称される)。『萬葉集』に「等保都安布美 伊奈佐保曽江乃 水乎都久思 安礼乎多能米弖 安佐麻之物能乎(遠江 引佐細江の 水脈つくし 我を頼めて あさましものを)」(巻十四 三四二九)とある伊奈佐は遠江国の一郡名であるが、『和名抄』は「引佐 伊奈佐」すなわち引佐を「いなさ」と訓じ、これも「引」・「佐」の呉音読みの訛りに相当する。これに倣えば引馬の訓は「いにま」(あるいは「いむま」でもよいと思われるが、いずれも実際の発音は「いんま」で同じ)であり、これだと「おんま」と訛ってもおかしくない。漢字表記で「おん」を御に置き換えると、奇しくも久曾神昇が低沼の意と考えた御馬おんまとなる。この名であれば音羽川下流域の後背湿地帯(現在では水田になっている)に位置する御津町御馬に残る。御津は、持統太上天皇が三河行幸で上陸された湊ということで、「津」に「御」を冠したのが由来ともいわれているから、それに倣って引馬を御馬に改称したとも考えられよう。だとすれば、その改称によって御馬が引馬に由縁の地名と認知されなくなってしまったことになる。「ま」と「ば」は容易に音通するから、古名が「いんば」と発音された可能性もあり得る。すなわち下総国印幡いんばとも通じ、いずれも湿地という共通の地形上の特徴があるのは偶然ではないだろう。通説によれば印幡の語源は稲庭いなばの転訛で、稲作に適した地に由来するといわれる。御馬周辺は現在でも小規模ながら水田が広がっているから、この語源にもぴたりと合うのは興味深い。
 以上から三河に類縁の地名がないとは必ずしも言い切れないことがわかる。「馬」の呉音は「め」であるから、以上の読み方に合わないとの反論もあるかもしれないが、『萬葉集』に出てくる「馬」の音は大半が「ま」あるいは「うま」と読まれ、呉音の「め」はごくわずかという事実がある。呉音読みの例としてよく知られるのは「敏馬みぬめ の崎」(『萬葉集』では3-0449ほかいくつかの歌に詠まれ、万葉仮名表記の三犬女とも出てくる)の敏馬であり、これも二字の漢字を音読みする。「みぬめ」を「みん−め」と音節分解し、「敏(ビン→ミン)」と「馬(メ)」を充てたのであるが、引馬とは違って「俊敏な馬」として意味がきちんと通じる。ただし、馬の読みが異なること、「みぬめ」という地名が敏馬という漢字表記と意味の上でいかなる関係があるのか、読み取れないので前述の例には含めなかった。一般に、古代においては、「馬」を中期漢語の音に基づいて「ンマ」に近い発音をしたとされ、『萬葉集』でも「め」と読むのは少なく、大半は「ま」と読んでいる。したがって、以上の論考はそれを考慮した結果であり、決して筆者の意に沿うように、歪曲してごり押ししたわけではない。伊奈佐のような古い時代の国名、郡名や郷名は、大和言葉の地名を万葉仮名で表記したものが主流であって、とくに古い木簡の表記例に著しい。大和朝廷は律令制を導入した後、地名の表記を統一し、二字の好字(良い意味の字、佳字ともいう)で置き換えることを目的として、和銅6 (713) 年5月に諸國郡郷名著好字令(好字令と略称する)を発布している。その結果、伊奈佐は引佐という表記になったのである。『萬葉集』の引馬野は、引馬という地にある野原という意味で、引馬を好字令に基づく名とすれば、その読みは、敏馬のように、熟語として意味が通じるわけではないから、必ずしも「ひくま」に限らないのである。好字令は当該の歌が詠まれた大宝2年より11年後に発布されているから、以上の見解は成り立たないとの反論もあるかもしれない。しかし、発布前の地名がすべて万葉仮名で表記されていたというわけではなく、たとえば「なにわ」という著名な地名を例に挙げるとわかりやすい。「奈尓波ツ尓作久矢己乃波奈」(ツは片仮名で表したが、正しくは川の草書体)と書かれた木簡が出土しており(『木簡から探る和歌の起源』)王仁わにの作と伝えられる「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」の第一・二句を記したものである。この木簡は7世紀末ごろといわれる徳島県観音寺遺跡から出土し、難波も古くは奈尓波という万葉仮名で表記されていた。難波という好字で表記された地名は『古事記』の下つ巻「仁徳天皇」に難波宮と登場し、好字令の発布される前であるが、原文に好字の難波が出ている。『萬葉集』でも巻一の〇〇六四〜〇〇六五の題詞に「慶雲三(706)年丙午、難波宮に幸せる時の歌二首」とあり、好字令に則した引馬という地名を長奥麻呂が詠み込んだのは、それがオフィシャルポエムであったからという理由のほか、持統太上天皇が直接足を踏み入れた由緒ある地であるからとも考えられよう。和銅6年の好字令の発布は好字の普及を徹底させるためのものだったと考えれば以上の論考に矛盾はない。御馬が引馬から派生した名とすれば、引馬野は「ひくまの」ではなく「いに(む)まの」と訓読すべきあるが、取り敢えず「ひくまの」としておく。以降、専門家の諸兄による検証を待ちたい。

 3−2.古天竜川の河床であった古代の曳馬
 三河にも引馬に由縁のある地名があったとしても、必ずしも遠江説を否定したことにはならないが、引馬が古代の遠江にあり得ない理由はほかにもある。ここで科学的論拠に基づいて歴史地理的観点から完全に否定できることを説明したいと思う。遠江説が比定する引馬野は浜松市中区曳馬、すなわち遠州鉄道の曳馬駅を中心とする曳馬一丁目〜六丁目にあたる。まずこの地域の地形についてであるが、国土地理院の治水地形分類図「天竜川水系 浜松」にかろうじて含まれ、図1に示すように、曳馬は三方原台地と馬込川の間に挟まれた地域で、氾濫平野をベースに微高地を交えた地形となっている(以下、挿入画像はクリックすると拡大画像が別ページあるいは別タブで開かれる)。したがって河川によって作られた典型的な沖積平野であって、標高差の非常に少ない平地である。一方、曳馬地区の西は中区住吉で、住吉五丁目の中心部の標高がおよそ37㍍あり、曳馬駅周辺と比べると30㍍ほど高い。住吉五丁目の標高が周りに比べて突出しているわけではなく、その周辺も一部を除けば標高差は少ない。すなわち曳馬の西は洪積台地(三方原台地)であって、所々にフィヨルド状に切れ込んで谷底地形を形成するが、台地の縁は段丘崖となっている。それは川によって浸食されてできた地形であり、曳馬の東を流れる馬込川の現在の水流を見る限りではおよそ想像できないにちがいない。曳馬周辺の地形を拡大してみると図2のようになる。古い時代の馬込川は現在よりずっと大規模な河川であり、そのことは三方原の段丘直下に残る旧河道の痕跡の存在で示唆されている(図2)。結論を先にいうと、かつては三方原台地に沿って天竜川が流れ、河原も含めた川幅は1㌔以上あって、曳馬の全域がその河川域の内であった。現在の天竜川は標高10〜20㍍の磐田原台地に沿って流れているが、かつては小天竜、大天竜と称する二つの河道に分かれていた。それをもっともよく表したのが武田信玄軍と徳川家康・織田信長連合軍との三方原の戦いを記述した『甲陽こうよう軍鑑ぐんかん』の合戦配置図(図3)である(『遠江国風土記伝』より引用)
 この古地図は合戦における両軍の配置を表した概念図にすぎず、稚拙で写実性に乏しいが、二俣城のある甲陽軍鑑合戦配置図周辺から二つの流域が天竜川から分岐していることを明確に描いている。すなわち大天竜(この地図では「大天りやう」と記されている)が今日の天竜川本流、小天竜(同「小天りやう」)は今日の馬込川に痕跡として残るものであり、三方原台地と磐田原台地の間の天竜川流域は長い歴史を通して大きな地理的改変を受けてきたことを示唆する。天竜川の主河道が遠州平野の西の端から東の端へ大きく移動したことは、3−3でも後述するように、古代の築堤の遺跡の所在からも示唆される。通説では、二俣の地名は天竜川と支流の阿多古川が二股に分岐している地に由来するとされる(後述の図5を参照)。この地は信州側からみると、山間部から遠州平野への入り口という要衝にあたり、戦国時代では二俣城が築かれた。確かに二俣城跡からみれば天竜川と阿多古川が分岐する様子を眼下にみるが、むしろ本末転倒であって、大天竜と小天竜が分岐する地域を二俣と命名し、その地に築かれたから二俣城の名がつけられたと考えるのがより自然であろう。
 天竜川の源流は諏訪湖にあり、雨量の多い中央アルプス・南アルプスに発する多くの支流が合流して水量が豊富で、また標高差も大きいので、わが国屈指の急流河川として知られる。流域の山地の地形は急峻で比較的もろく、そのため大量の土石が供給されて河道には石ころの河原が広がり、河口には大規模な砂州が形成されている。古くから暴れ川として知られ、流域はしばしば大規模な災害に悩まされてきた。そのもっとも古い記録は、『續日本紀』の靈龜元(715)年五月乙已(25日)に「遠江國地震。山崩れて麁玉川を壅ぐ。水之を爲して流れず、數十日經て潰流し敷智、長下、石田三郡の民家百七十餘區を沒し、幷びに苗を損ず。」とあり、地震(歴史的に有名な地震で遠江地震と呼ばれる)による山崩れで麁玉川がふさがれ、数十日後に洪水が発生して多くの民家が水没し、大被害を受けたと記載されている。ここに麁玉あらたま川とあるのが天竜川の古名であり、流水で削られ玉状になった石が河原にごろごろ転がっていることに由来すると考えられる。ところが後世になると、まったく別の名前が登場する。平安中期の紀行記『更級さらしな日記にっき』に「ぬまじりといふ所もすがすがと過ぎて、いみじくわづらひ出て、とうたうみ(遠江)にかヽる。さやの中山など越えけむほどもおぼえず。いみじく苦しければ、天ちうといふ河のつらに、假屋作り設けたりければ、そこにて日ごろ過ぐるほどにぞ、やうやうをこたる、冬深くなりたれば、河風けはしく吹き上げつゝ、堪え難くおぼえけり。そのわたりして濱名の橋に着いたり。云々」とあり、「天ちうの河」とある。この川は、遠江の旅の旅程で「さやの中山」(小夜の中山、静岡県掛川市佐夜鹿にある峠で古くから歌枕として著名)と「濱名の橋」(前述、古浜名湖と太平洋を結ぶ川に架けられた橋で多くの古典に登場する)の間にあるから、天竜川でまちがいない。草書体では「ち」と「り」の区別は紛らわしく、刊本によっては「天りうの河」と表記されている。むしろそれが本来の表記であって、これだと「天龍の河」の意でわかりやすい。『源平げんぺい盛衰記せいすいき』の「内大臣關東下向・附池田宿遊君事」(巻第四十五)では「天龍河ヲ渡リ給ニ、水增ヌレバ舩ヲ覆ト聞給ニモ、西海ノ波上被思出ケリ、云々」とあり、ここでは漢字で表記されている。天龍とは天帝の居城である天宮を守る竜のことで、この名によって715年の遠江地震で新しい河道が生成したことが示唆される。すなわち昔の人は遠江地震という未曾有の天変地異によって天龍が降りて川となり、その後も洪水を起こして暴れまくったと恐れ、この名をつけたと考えられるのである。平安〜鎌倉期の古典には「天ちう(天中)」と「天りう」のいずれの名も出てくるが、『甲陽軍鑑』にいう大天竜のことであって、『續日本紀』にいう麁玉川とは区別しなければならない。大天竜はその名からして大河川であることを表し、『甲陽軍鑑』では二俣城を北に置くと東側にあるから、今日の天竜川本流である。一方、小天竜は西にあるから今日の馬込川に相当し、いにしえの麁玉川考えてよい(以上、図3。そのことは前述の『更科日記』も含めて平安以降の紀行記のいずれも「天ちう(中)川」、「天りう川」すなわち大地震で発生した新河道だけに言及していることが読み取れ、麁玉川はもはや川渡りの上で難所とは目されていなかったことがわかる。鎌倉時代の紀行記『十六夜日記』にも「濱名はまなはしより見わたせば、かもめという鳥、いとおほくとびちがひて、(中略)今夜こよひ引馬ひきま宿しゅくにとゞまる。この所の大かたの名は濱松はままつとぞいひし。(中略)二十三日、てんちうのわたりといふ、舟にのるに、西行がむかしも思ひ出でられて心ぼそし。(中略)今夜こよひ遠江とほつあふみ見附みつけ國府こふといふ所にとゞまる。(中略)二十四日、ひるになりて、小夜さや中山なかやまこゆ。(中略)菊川きくがはといふ所にとゞまる。」とあり、遠江国内の旅程を詳しく記している。この紀行は『更級日記』とは逆に京都から東国への旅程を書き記しているが、濱名の橋(前述)を渡り、引馬で宿泊したのち、「てんちうのわたり」すなわち大天竜を渡り、遠江国府のあった見附(磐田市見付)に宿泊、小夜の中山(前述)を越えて菊川(静岡県菊川市)に宿泊云々とあり、やはり小天竜には言及していない。特筆すべきは引馬の地名が出てくることであり、この後に大天竜を渡っているから、鎌倉時代になると小天竜はおとなしい支流となって流域に宿場が成立していたことを示す。「この所の大かたの名は濱松とぞいひし」というのは、麁玉川の流路が細くなるとともに旧河原であったところ図2の地形分類図参照)が開発されて引馬の宿が成立し、遠江古地図『和名抄』にある「敷智郡濱松郷」に併合されたことを指すと考えられる。すなわち古代からあった由緒ある地名ではなかったことを暗示する。引馬を三方原台地まで拡大して考える意見もあるかと思うが図4は『遠江國風土記伝』にある郡図で、あたかも三方原台地まで含むかのように描かれている)、それは長奥麻呂の歌「引馬野に にほふ榛原」に詠まれる必要条件に満たず、科学的見地から否定される。榛原とはハンノキが生えた平らな地であるが、ハンノキは低湿地に生える樹種であり、水はけが良く乾燥しがちな台地に榛原が成立することは植生学的におよそあり得ないのである。河原や中洲であれば水分条件は満足するが、しばしば増水で激流に曝されるから、榛原が安定して存続することはあり得ない。このような厳しい環境に生える樹種として、「あられ降り 遠江の 吾跡川楊 苅れども またも生ふといふ 吾跡川楊」(巻7 1293)に詠まれるように、カワヤナギが挙げられる。吾跡あど川の所在は不詳であるが、相応の大きな川と思われるので、遠江では天竜川に次ぐ大河の太田川ぐらいしか該当する河川は見当たらない。この歌にある「苅る」を一般の注釈書は「苅っても苅っても」と解釈するが、増水した激流に流されてもまた生えてくることを指すのであって、人に刈り取られると解するべきではない。『漢書』の匈奴傳の顔師古註における「刈は絕なり」の意である。ハンノキはカワヤナギほどのしたたかさはない。
 3−3.巨大地震が引き起こした古天竜川河道の東遷
 では天竜川の本流がかつては三方原沿いにあり、それが磐田原沿いに変わったというのは、以上の文献上の記載から理解できるとしても、持統太上天皇の時代にそうであったという確証があるのだろうか。大河の河道が変わったといえば、よほどの天変地異にちがいないが、前述の遠江地震は持統太上天皇の三河行幸から13年後に起きている。『續日本紀』は山崩れが起きたと記述しているが、以下に述べるように、とんでもない規模の大地震であったことは今日に残る痕跡が如実に物語っている。天竜川の上流に池口川という支流があり、日陰山(下伊那郡天龍村長島)が大崩落して支流の池口川と遠山川がせき止められて天然のダム湖を生じ、その後、決壊して流域に大洪水を起こしたと考えられている遠江地震と池口くずれ。池口川の流域から埋没林が出土しており、その年代測定から715年の遠江地震による山崩れで埋没したものであることが確認されている遠江地震の埋没林、後藤晶子・村松武・寺岡義治「名古屋大学加速器質量分析計業績報告書」 19号 99-102 2008年)
 池口くずれが遠江地震による大規模な地理的改変であったことは確かにしても、それが『續日本紀』の記述するような下流域の大洪水の直接の要因であったかはきわめて微妙である。たとえダム湖ができたとしても小さな支流であるから、決壊したとしても敷智・長下・石田三郡を水没させるほどの洪水が起きるとはとうてい考えられないからだ。しかし、山崩れとしてはとてつもなく大規模であることは事実であるから、ほかの天竜川流域でも同様の山崩れが起きた可能性は大いにあり得ると考えられ、『續日本紀』の記述の信憑性は高いとみなければならない。下流の平野部では崩落を起こして川を埋めるほどの山塊はないから、天竜区二俣町以北の河道のどこかで大規模な山崩れが起き、生成した天然ダム湖が数十日後に決壊して大水害を起こしたと考えるのが自然である。残念ながら水量が多く急流の天竜川本流で起きたとなれば、1000年以上の歳月を経て崩れた土石はほとんど流出し、山崩れの跡は鬱蒼とした森林に覆いつくされるので、痕跡を突き止めるのはきわめて困難であるが、それと思われるものはわずかながら地図上でもみることができる。改めて天竜川の現在の河道をみると(図5)、二俣町付近で、鳥羽山・緑恵台・赤佐十一区と赤佐国土地理院二俣周辺地図十二区の比較的標高のある丘陵に挟まれ、急に細くなっているが、さらにこの地点からほぼ直角に東向きへ流路を変え、飛龍大橋を過ぎた辺りで南下しているのは不自然にみえるのだ。というのは二俣町鹿島辺りから真南の方向には、古天竜川(麁玉川)の痕跡と考えられる馬込川があり、その地域の標高は天竜川面と比べて標高差はそれほど大きくないないから、水量の多い天竜川であれば難なくこのルートで流れて然るべきだからだ。おそらく二俣よりやや上流の山地で大崩落が起き、狭い川谷を埋めて巨大なダム湖ができたと推察される。地震が発生した旧暦の5月25日は新暦では6月30日にあたり、まさに梅雨の真っ盛りの一年でもっとも雨の多い時期であり、天竜川流域はわが国でも雨量の多い地域であるから、数十日もせき止められたとすればかなり巨大なダム湖ができたはずで、それ決壊すれば下流に大水害を引き起こすのは必至と考えられる。また鉄砲水で押し流された土石は地形的に天竜渓谷の出口にあたる上島地区付近に堆積しやすいはずで、その結果、南への流路(旧麁玉川の河道)に水が流れにくくなり、東の方向へ新しい河道が生じたのではないかと考えられる。ただし、『續日本紀』の天平寶字五年七月に「遠江國荒玉河堤、切决三百餘丈、約單功三十萬三千七百餘人、宛粮修築」とあるように、麁玉川の堤防(自然堤防)が決壊して大規模な水害を引き起こしたというから、旧河道が地震で直ちに細くなったわけではなく、長い時間をかけて新しい河道が本流となったと推察される。『續日本紀』は決壊した堤防を修復したとも記述しているが、その当時作られた堤防は天宝堤と呼ばれ、一部が浜北区道本に残っている。遠州鉄道線を挟んで県立浜名高校のすぐ西に位置し、天宝堤を麁玉川の東側の堤防として現在の天竜川の川幅を当てはめると、優に馬込川まで達する。この事実はかつての天竜川本流が現在よりずっと西側を流れていた決定的かつ客観的な証拠といってよい。因みに小天竜は延宝3(1675)年に締め切られ、名も麁玉川から馬込川に改められた。現在では馬込川河口の砂州の浸食を防ぐため、浜名用水を掘削して水流を補給し、細々ながら天竜川本流と結ばれている。以上から、715年以前の古天竜川は麁玉川と呼ばれ、三方原台地に沿って流れる暴れ川であり、引馬野に比定される曳馬の全域がその古河道にすっぽり含まれていたことは否定しがたい事実といってよいだろう。古天竜川の中洲・河原は広大であるから、それを引馬野と称した可能性まで否定するのは困難だが、増水すれば激流に曝されるリスクが高いところにわざわざ地名(通例、人の生活の営みが行われる地につけるものである)をつける必要があるだろうか。したがって引馬野遠江説が成立する可能性は限りなく低いと結論できるのである。
4.結語

 遠江説の最大の弱点はわが国古代の正史である『續日本紀』の三河行幸の記事に遠江国が含まれていないことである。三河説の支持者は、逆にそれを金科玉条のごとく、長奥麻呂・高市黒人による行幸の歌の情景が三河にある決定的な論拠と主張し、それ以上深く論考することはなかった。これに対して、遠江説の支持者は三河行幸と同じ目的(壬申の乱で天武側に味方しなかったので説得のために行幸が計画されたということ)が遠江にもあったはずだと説明する。仮にそうであったとしても、正史に記載されなかった事実に対して説得力のある説明を聞かないが、それでも遠江行幸説が生き延びているのは、引馬野が遠江にあるという賀茂真淵以来の主張が一定の支持を得ているからであろう。ここでは必ずしも遠江行幸説の根を絶つことを目的として論考したわけではないが、結果的にそうなったのは、始めから終わりまで、理系流の論理を追求したからである。奥麻呂・黒人の歌に詠まれた地名が遠江ではあり得ないとなれば、持統太上天皇が遠江に行幸した可能性はあり得ず、わけのわからない歴史に名を借りた物語も通用しなくなるだろう。三河説、遠江説のいずれも、それぞれの背景に万葉の故地なるブランドを付加したいというご当地ナショナリズムが見え隠れするのは否めない。それを悪いと一方的に決めつけるつもりは毛頭ないが、国文学も人文科学の一分野であるから、学術的意義を念頭に入れて主張する意志があれば、その論考に一定の客観性が求められて然るべきである。筆者も三河出身であるから、出身地が万葉以来の由緒ある地であって欲しい願望は誰にも負けないが、客観性を損なってまでご当地ナショナリズムを貫くつもりはなく、学者としての筋を通す意志は岩よりも固いと自負している。ここで科学的根拠を積極的に導入して考証したのは筆者が理系出身という理由だけではなく、その考証の根底が純粋な客観的視点に立つものであり、ご当地ナショナリズムに歪められていない証と理解していただきたいがためである。ここに遅まきながら申し上げておく。

【補足】本稿をアップロードした後、たまたま『浜松市史』デジタルアーカイブ版に「三河の御馬村が古くは引馬村であったという根拠は、江戸時代中期の延享3(1746)年の古図からの想定であって、いたって薄弱な点を含んでいる」という記述を見出した。当然ながら、ご当地ナショナリズムに則して記述されているが、皮肉にも筆者も知り得ていなかった情報が含まれていたので、ここで補足しておく。久松潜一・久曾神昇ほか錚々たる国文学者が御馬村の古名を引馬村と称した云々に言及したことは伝聞しているが、250年ほど前の古地図に由来するとは初めて知った。250年前であれば奥麻呂の引馬野が御馬周辺であるとは誰も考えていなかったはずで、万葉の引馬と同字名が想定されること自体が筆者には確たる証拠と感じられたのである。『浜松市史』が論拠薄弱としたのは、御馬おんま引馬ひくまの音名があまりに違いすぎると考えたからであろう。以前の引馬の音名が「いんま」あるいは「いんば」であったとすれば、「おんま(ば)」に訛ることは言語学的に十分あり得ることであり、何らかの経緯で御馬に改称されたとしても、音名の違いは軽微で不自然さはなく、「3−1」で述べた筆者の論考とよく合うことがわかるだろう。しかし、この事実は引馬野三河説支持者の間でもあまり引用されることはなかったように思う。おそらく国文学者が引馬野を端から「ひくまの」と決めつけて旧御馬村民に聞き取り調査したため、村民の間で現実との違いに狼狽し、偉い学者のいうことだからと消極的に受け入れてしまったのではなかろうか。すなわちそういう村民の歯に物が挟まったような受け答えが学者に疑心暗鬼を生じ、証拠として積極的に引用されることはなかったと推察されるのだ。よくよく考えてみると、万葉の引馬を「ひくま」と読む論拠は『萬葉集』のみならず上代の典籍のどこにもない。ただし、平安時代になると、『堀川百首』に「ひくまのの かやが下なる おもひ草 また二心 なしとしらずや」(藤原都俊頼)など、後期の歌集にいくつか詠まれている。この歌では「ひくまの」を茅原として詠み込んでいるので、榛原の生える万葉の引馬野(湿地)とはかなりの違和感がある。『袖中抄』に「ひくまのに 匂ふはぎ原 いりみだる 衣にほはせ たびのしるしに」と奥麻呂の歌を引用するが、榛原を萩原に詠み変え(まったくあり得ないこと!)、「匂ふ」また「衣にほはせ」とあるので、ハギの花で摺り染めしたと解釈している。すなわち、これらの歌にある「ひくまの」は"乾燥した草原"とされているのである。賀茂真淵も平安の文人の見解を受け入れて榛原を萩原と解釈し、その結果、当時の状況が乾燥した草原によく合う出身地の曳馬に比定した(『万葉集遠江歌考』)。平安の歌集にある「ひくまの」は万葉の引馬野の歌を本歌取りしたものに近く、実際の現地を見聞して詠んだのではないことはまちがいない。すなわち、引馬野を「ひくまの」と読んだのは平安の文人であり、それを踏襲して後世の国文学は万葉の引馬野をあたかも既定の事実であるかのように同じく訓読したのである。平安後期〜鎌倉時代になって、文芸とは無関係の分野で替え馬を意味する引馬(おそらく「ひきうま」あるいは「ひきま」と読んだ)という語彙が発生し、それに因む地名も発生した(「3−1」で引用した『十六夜日記』では「ひきま」とある)ことは想像に難くない。浜松市の曳馬のほかにも、群馬県高崎市引間ひくま町や山口県大島郡周防大島町日前ひくま、栃木県佐野市飛駒ひこま町という類名があり、合併で消え去った旧字名を含めればさらに多いのではなかろうか。同じ三河に知立市山町北引馬野(場所から考えて、浜松の曳馬と同じく、替馬の引馬に由縁がありそうである)があることも忘れてはならないが、たまたま『十六夜日記』に「引き馬の宿」があったため、古い歴史の地名ということで浜松の曳馬が有力視されたにすぎない。
 三河説・遠江説のいずれであれ、その考証のプロセスは、理系の筆者の視点からすれば、論理的精密さを欠き杜撰の一語に尽きる。考定に矛盾があれば、その見解はもはや死に体であるのに、それを前提にして推測を上書きして解釈をふくらます論法はおよそ許されるべきではない。理系の世界では当たり前だが、文系ではそうではないらしい。万葉集は一般国民にも感心が高いことはWEB上に多くの関連ページがアップロードされていることで一目瞭然である。中には独自の解釈を施すなど、感心させられるページも少なくないが、やはり権威ある出版社から刊行され、権威ある研究機関所属の研究者による注釈書がもっとも広く引用されている。文系の世界は実力ではなくつくづく権威主義で支配されていることがよくわかる。権威ある国文学の論文でも、どこまでが事実でどこが推論に基づくのか、区別があいまいでいらいらさせられることが多い。理系の世界にはもはや権威なるものは存在せず、新たに得たエビデンスを軸にそれまで広く受け入れられた知見をまじえて理路整然と論考するのが通例である。もし杜撰な研究によって間違いを指摘されたなら研究者生命も危うくなることはSTAP細胞事件の結末が示唆する通りである。文系研究者にも同様な覚悟が求められて然るべきと思うが、諸兄はいかがお考えだろうか。(2016年11月25日追記)
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引用参考文献(五十音順)