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KS氏への質問状
万葉の植物を研究しているものですが、たまたまKSさんのページに行き当たりました。気になる点がございましたので、指摘させていただきたいと思います。私は万葉集の研究をしているとはいえ、生粋の化学者で典型的な理系人間ですので、理系論文を書く感覚で手短に申し上げます。KSさんの「日本語の起源」に関する覚書中で次の言が気になりました。
>朴炳植氏や李寧熙氏などの本が出た時の日本の学者のヒステリックな反応の中にぼくはそういったものを見たような気がします。
これは朴炳植氏や李寧熙氏の主張を吟味した上でこうおっしゃっているのですか?やはり、万葉集は古代朝鮮語で読めるのでしょうか?朴炳植氏や李寧熙氏の説は論破されていて決着が付いている気がしますが。特に、李寧熙氏は東洲斎写楽が同時代の李氏朝鮮人画家(名は忘れました)ということを主張したことで、まともな人でないといわれていますが。この両氏を弁護するのは結構ですが、その主張を支持するという前提がなければなりません。ただ、韓国人というだけで、あるいは相手が憎きアカデミズムの象徴というだけで、理解を示すのは無責任です。
>日本語と韓国語がこんなに近いということを一般の日本人が知らないことや、専門家先生の間では、日韓両語の親縁関係に今でも疑念が呈されていることは、私の感じでは、日本人が韓国のことをあまりに知らなすぎるということの一部ではないかと思います。
朝鮮人以上に朝鮮語を理解していた学者は小倉進平、河野六郎など多くいましたし、特に小倉博士は郷歌を発掘したことでもよく知られています。小倉博士が万葉集のことを知らなかったとはとうてい思えませんが、万葉集の中に朝鮮語で書かれた歌があるとはいっていなかったと思います。また、日本語、朝鮮語が類縁でないという言語学者はいないはずで、ただ、両言語が分岐したのがいつかという点で見解の相違があるだけだと解釈していますが、いかがでしょうか?服部四郎は四千年前より新しいことはないといい、縄文時代に別れたとする学者が多いようですが。あるいは俗説(最近は学校の歴史教育でも教えられているといいますが)にあるように古墳時代とか万葉時代では通訳なしで会話ができたのでしょうか?安本博士によれば、琉球語は旧来の比較言語学的手法によって唯一日本語との系統が証明された言語だそうで、その時期は弥生末期から古墳時代初期と聞いたことがあります。日本語と朝鮮語が類縁である(であることは間違いないですが、万葉集が朝鮮語で読めるというレベルにあるという意味です)とする論者はなぜ琉球語に言及しなのでしょうか?琉球語に古い日本の古語が多く残っていることは、あまり科学的ではないのですが、動植物名などでも実感できます。例えば、毒蛇のハブは「食む」の訛で、本土のマムシの古名が「ハミ」であるのと共通します。タブノキは万葉集ではツママとされていますが、琉球ではこれに近い音韻の方言名が残っています。
>実際、ぼくも朝鮮語の勉強を始めてからしばらくして、岡崎さんのいうような「ただごとでない似方」にびっくりした記憶があります。日本語と朝鮮語は、文法そのものが酷似しているのです。
専門家ではない岡崎氏の著書を引用してこう述べられていますが、それをいうなら、日本語の音韻とマレー系言語の音韻は違いを探すのが難しいぐらいです。タガログ語、インドネシア語は簡単な辞書があれば日常生活は十分に事足ります。基礎語、文法は全く違いますが、発音で苦労することは全くありません。一方、朝鮮語とは大きく違います。特にヒアリングには苦労します。同じラテン系言語であるイタリア・スペイン語とフランス語は大きく違いますから、言語学では音韻の違いは問題にならないのでしょう。但し、「ただごとでない似方」を鵜呑みにするのは危険で、特に自然科学ではエビデンスがなければ全く相手にしません。言語学ではエビデンスがなくても「ただごとでない似方」であれば、それに沿った思考をすべきなのですか?旧来の比較言語学では日本語と朝鮮語が意外に遠縁であったわけですが、ただ実感(たとえ如何に多くの人がそう感じたとしても)だけでそれを否定したり非難するのは専門家にあるまじきことではありませんか?少なくとも理系の世界では考えられません。なぜ、観念論だけでなくちゃんとした論拠を提示して反駁しないのですか?太陽が東から上がり、西に沈むのをみると、太陽の周りを地球が回っているとは実感できませんし、夜空の星の動きを見ると、天が動いているのであって、地球が動いているなんて信じられません。しかし、現代ではそれが誤りということは広く知られています。エビデンスがあるからですが、一般人でそれを理解できる人は微々たるものです。川島さんが言語学の専門家でない岡崎氏を引用して、ちゃんとした論拠を挙げて議論している言語学者を非難するのはおよそ信じられないことです。
>ぼくが考えるには、やはり「帝国主義」の名残で、「われわれ日本民族の優れた言葉が朝鮮由来のものだということを認めることは自尊心が許さない」といった考えがある種の人びとの中にはあるのではないかと思います。
ここでいうある種の人びととは、言語学の主流の先生方のようですが、このような言い方は誹謗中傷以外のなにものでもなく、およそ専門家にあるまじき行為です。この言い方はイデオロギーを振りまく人々に特有のもので、いわゆるレッテル貼りで非難する卑怯なやり方です。間接的ではあっても、自分の主張にあわないものを保守反動といって罵倒するのと似ています。自然科学の世界にも梃子でも自説を曲げない類の人がいました。古い話ですが、スモン病ウイルス説を提唱した元京大ウイルス研究所の学者がいましたが、学会で多くの研究者がさまざまな反証を挙げ、またウイルス説の論拠となるエビデンスの提示を求められても応じませんでした。理系世界ではエビデンスが全てであり、言葉で反駁しても全く意味がありませんから、この学者はただ静かに消え去るのみでした。因みにスモン病の原因は整腸剤のキノホルムで、一般の人はもう覚えていないでしょうね。理系の世界では自説を言い張ることで生きていけるような甘いものではありません。しかし、文系の世界は一般人の心理につけこめばアカデミズムの外で生き残ることは可能なのですね。理系では研究環境がなければ研究できず、研究には巨額の費用がかかりますから不可能です。ただ、理系の世界は情報ネットワークで世界がつながっていますからグローバルな観点から格付けされます。怪しげな情報は淘汰され、個人的な実感に基づく主張が受け入れられる余地は皆無です。文系の世界では、そのような格付けがなく、単行本で出版されれば、それががせねたであるかどうかわかりませんから、奇妙な形で引用されます。「人麻呂の暗号」などが典型で、あたかも万葉時代に日本人と朝鮮人が通訳なしで会話ができたという俗説を生み出しました。
以上、すっかり長くなってしまいましたが、私の言いたいことは、他説を非難するのは結構ですが、観念論をこねまわすのではなく、一定の仮説のもとであってももっと確固たるエビデンスを提示していただきたいということです。あたかも自分こそが正義であるかのように振舞うのは控えるべきです。イデオロギーに凝り固まった人ほどその傾向があります。一端信じ込んだことを訂正するのを変節といって非難するのは一昔前のことで、決して恥ではありません。
KS氏の回答
しばらくメールチェックしておらず返信が遅くなってしまい失礼しました。
時間がないので手短にお返事します。
>朴炳植氏や李寧熙氏などの本が出た時の日本の学者のヒステリックな反応の中にぼくはそういったものを見たような気がします。
これは朴炳植氏や李寧熙氏の主張を吟味した上でこうおっしゃっているのですか?やはり、万葉集は古代朝鮮語で読めるのでしょうか?
私は万葉集が古代朝鮮語で読めるとは言っておりませんし、読めないだろうと思っております。私はあのエッセイで、日本の学者たちのヒステリックな反応そのものについて違和感を表明しているだけです。李寧熙氏ひとりと日本の学者数人が日本の雑誌(週刊朝日)の企画で顔をあわせて議論したときに、自分の見解に自信があるのであれば、冷静に理論的相手を論駁すればよいものを、数人がかりでひとりの相手を怒鳴りちらし、冷静を失うのはいかがなものかと思ったのです。その不自然さがあまりに際立っていたので、取り上げたまでです。
万葉集を朝鮮語で読めないというならそれを最初に明記しておくべきであり、イ・ヨンヒ氏に対する日本の学者のヒステリックな反応云々とは基本的に関係ないのだから切り離して考えなければならない。”(日本の学者のヒステリックな反応など)不自然さがあまりに際だっていた”というと、いかにも日本の学者よりイ・ヨンヒ氏説の方に分があるかのようであり、一部の文系諸氏が多用する典型的なレトリックである。筆者らの理系世界では口角泡を飛ばして議論するのは珍しくないから、冷静に論理的に相手を論駁するというのは議論しないに等しいことなのだ。KS氏の当該ホームページを読めばわかるが、当の本人が決して冷静に論理的に対応しているとは思えないので、やはりレトリックなのだろう。一般人にはこれでも通用するだろうが、KS氏がアカデミックの世界で研究できないのも無理からぬ気がする。
>エビデンスがなくても「ただごとでない似方」であれば、それに沿った思考をすべ
きなのですか?
私はあの論文(正確にいうと評論)はエビデンスを出せる段階で書いたものではないことを最初に言明しております。あれは、朝鮮語を学んだ経験に基づいた自分の印象で書いたものです。ただ、西欧の比較言語学の枠組みにいつまでも囚われて遅々として進まない東アジア諸言語の比較研究の現況に対し、自分なりに考えて、主に研究の方法論上の問題について問題提起を行ったまでです。この日本という国では、個人がホームページで自由に問題提起も出ない閉塞した管理国家なのでしょうか? 意図的に嘘を書いているのであればまだしも、私は嘘は書いておりません。日本語と朝鮮語の類縁関係には諸説ありますから、私は私なりの説を紹介したまでです。
「日本人が韓国のことをあまりに知らなすぎる云々」に対する質問は完全にスルーして、いきなり「個人がホームページで自由に問題提起も出ない閉塞した管理国家なのでしょうか」と答えてきたのには正直いってびっくりした。筆者はそうするなとも嘘をついているとも一言もいっていない。ただ、こちらの質問に答えていただきたかっただけである。逆に、提起された問題に対してまともに質問を受け付けられないほど自説に自信がもてないことの裏返しであろうか。
>ぼくが考えるには、やはり「帝国主義」の名残で、「われわれ日本民族の優れた言葉が朝鮮由来のものだということを認めることは自尊心が許さない」といった考えがある種の人びとの中にはあるのではないかと思います。
ここでいうある種の人びととは、言語学の主流の先生方のようですが、このような言い方は誹謗中傷以外のなにものでもなく、およそ専門家にあるまじき行為です。
ここでの私の言明は、さきの雑誌の座談会や日本人によるいくつかのヒステリックな反駁書に基づいているもので、あえて皮肉をこめて上のように述べたものです。こう言われたくなければ、別に冷静に、それこそ「エビデンス」をたくさん持ってきて、相手を反駁すればすむことでしょう。私は比較言語学方面に費やす時間がないものですから、その「エビデンス」がたくさん出てくるのを楽しみにしている次第です。
また、繰り返すが、日本の学者のヒステリックな反応云々というのはKS氏の主観による感想であって、客観的視点から導き出されたものではないだろう。KS氏は本当に主観ではないと胸を張っていえるのだろうか。問題の本質は、イ・ヨンヒ説に対して十分なエビデンスを日本の学者が出しているにもかかわらず、イ・ヨンヒ氏はそれに全く答えようとしてないところにある(”反論書”が出てもそれらを引用せず、一方的に自説だけを展開している)。KS氏はそのことに気付いているのだろうか。理系の世界であれば、客観的事実がなければ相手にされず、場合によっては単なる捏造としてあっさり葬り去られてしまう。「低温核融合」や「スモン病ウイルス原因説」などの諸例は非理系の諸氏でも知っているはずだ。イ・ヨンヒ説は学説というより創作(敢えて捏造とはいわないことにしておくが)に近いものであり、それを擁護するとは学者としての見識が疑われてしかるべきだろう。
KS氏のホームページでは閲覧者との質問のやりとりを紹介しているが、筆者は完全に無視されている(自信が持てないためか?)ので、ここに紹介した。理系的な自由な発想からすれば、日本語と朝鮮語が同系でなくても構わないし不思議にも思わないのであるが、KS氏はそれを不自然と主張している。それもナポレオンの言という「すべて不自然なものは不完全である」を引用して閲覧者にことさらに印象づけようという姿勢がありありと見える。そもそも自然、不自然というのは人間が勝手に作り上げた概念にすぎないのであって、この線引きの基準など存在せず全て便宜的なものである。かといって、都合の良い事項だけをエビデンスとして取りあげて、個人が勝手に構築するのも考え物である。自由な意見を発表するのは結構なことだが、反論の自由もあるはずだからだ。このメールのやりとりは10年以上前のものである。当時、KS氏はホームページ上に持論を展開していたが、2021年の現在、そのページはネット上のどこにも見当たらない。当時のウィキペディアはKS氏を紹介する記事を掲載していたが、今はGoogleで検索してもヒットしない。researchmap(ほとんどの研究者は登録しており科研費審査にも利用されるという)にもKS氏の名はないので、今から考えてみると、一介の民間人に過ぎず、相手にするのは時間の無駄だったようだ。