生薬処方電子事典
ホーム


定価 ¥6,400+税

緒 言

 既に多くの先達によって言い古されてきたことであるが、漢方医学は中国古医学を根幹とし、それに臨床の実地における知見すなわち口訣を加えて、江戸中期に再編された日本独自の伝統医学である。しかし、漢方医学にはいくつかの流派があり、近代科学を基盤にした西洋医学のように一枚岩ではなく、診断・治療の理論も流派によってかなりの隔たりがある。その中で後漢時代に成立した張仲景の「傷寒論しょうかんろん」をとりわけ重視したのが古方派こほうは漢方であり、各流派の中でもとりわけ独自性が高いものであって、江戸中期から今日に至るまで日本漢方の主流をなしてきた。一方、戦国時代から江戸初期までの日本には、本邦独自の医学といえるほどのものはなく、当時の中国医学の主流であった李朱りしゅ医学いがくに代表される金元きんげん医学いがくを導入し、曲直瀬まなせ道三どうさん一派がエバンジェリストとして伝承したのが後世ごせい方派ほうは漢方である。江戸中期に香川かがわ修庵しゅうあん吉益よします東洞とうどうなど有力な医師を輩出し、後世方漢方の観念性を批判して親試実験に立脚した医学を構築し、一世を風靡した古方派であったが、江戸後期になると折衷派せっちゅうはといわれる流派が台頭するようになった。折衷派は、「傷寒論」・「黄帝こうてい内経だいけい」から清代の医書に至るまでの中国伝統医学を考証した上で、古方と後世方の長所を統合しようと試みた。幕末から明治にかけて皇漢こうかん医学いがくを創設した浅田あさだ宗伯そうはくなどが代表的である。折衷派と紛らわしい流派に考証こうしょう学派がくはがあり、多紀たき元簡もとやす森立之もりりっしなどが知られる。基本的に文献学的な考証に終始し、臨床的知見に立脚したものではない点で折衷派と区別されるが、漢方医学の理論的解明に大きな貢献をしたとされる。
 本事典はわが国で用いられる実用漢方処方を収録しているが、出典の文献における当該の記述を「主治」として挙げた。漢籍での記述は当然ながら漢文であるが、古文調で訓読し、難しい語句には説明文がポップアップするように工夫した。原典の入手が困難な場合はそれを引用する文献の記述を原文のまま引用した。「主治」を要約したのが「目標」という項目の記述と考えていただいて差し支えないが、当該処方の主たる適用症を現代医学の病名で「応用」の項に示した。歴代漢方医家の口訣は、「主治」をベースとして臨床で親試実験を繰り返して得た病気治療のノウハウというべきものであり、わが国では高々二百数十方の処方を様々な病気の治療に用いてきた結果、一つの処方薬が一見何の関連もないような様々な病気の治療にも用いられているようになった。現代科学を基盤とする現代西洋医学の観点からはおよそ考えられないことであるが、漢方医学理論が基本的に治療のための方便としての姿勢を貫き、症状の完治ではなく緩和を重視したためと考えれば理解しやすいだろう。現代医学における漢方処方の価値が認められているのもかかる点であることは興味深い。
 生薬事典では、各処方に配合される生薬の基原、その出典となる文献のほか、別名も挙げておいた。当該生薬を含む処方の主なものを挙げたが、本事典に収録されるもの以外の処方も出典を付して挙げておいた。基原については、日本薬局方で正品とするもの以外に、中国・朝鮮において同名で用いる動植物・鉱物も挙げ、主たる基原種には画像も掲載した。学名については、引用文献における記載を踏襲して命名者名も含めた。現在の分類学で主流とするクロンキスト体系、APG 植物分類体系を採用しなかったのは、生薬の成分研究・漢方処方の薬理研究などの研究報告あっては古い学名が用いられており、これまでの過去の膨大な研究資産との整合性を維持させる上で必要と考えたからである。成分については、特に重要な生薬ではその構造式も掲載した。
 本事典は、処方事典と生薬事典を統合して各項目を相互にリンクしたものであって、書籍事典では凡そ不可能な利便性を得ているのを特徴とする。本事典に収録するデータは全てデジタルであるから、必要とする部分をコンピュータ上で容易に編集できるのも書籍事典にはない特色である。一部の字体が表示できないなど、まだ改善の余地があるが、コンピュータ全般に関わることであり、いずれは解決されることと考える。二十一世紀になってはや十年、電子書籍の本格的普及も目前となった。本事典は本格的な電子書籍の形態をなすものではないが、標準の端末が普及した場合の移植を視野に入れて編集したことを申し述べておきたい。
平成 22 年8月
帝京大学薬学部教授 薬学博士 木下武司


主な引用文献

難波恒雄「和漢薬百科図鑑Ⅰ・Ⅱ」(保育社、1993 ー 94 年)
上海科学技術出版社編「中薬大辞典」(小学館、1985 年)
張仲景著・丸山清康訳註「全訳傷寒論」(明徳出版社、1965 年)
張仲景著・丸山清康訳註「全訳金匱要略」(明徳出版社、1967 年)
王燾著「重訂唐王燾先生外臺秘要方」(北京人民衛生出版社、1955 年)
千金要方刊行会編「備急千金要方 上下巻」(千金要方刊行会、1976 年)
千金要方刊行会編「備急千金要方」(千金要方刊行会、1974 年)
孫思邈著・林憶等校正「千金翼方」(北京人民衛生出版社、1955 年)
宋・陳無擇著・呉黼堂評註「三因方」(旋風出版社、1973 年)
龔廷賢著「万病回春 上下冊」(香港醫林書局出版、無刊記)
松田邦夫著「万病回春解説 〈東洋医学選書〉」(創元社、1989 年)
「官刻增廣太平和劑局方 上下」(燎原書房、1976 年)
曽孝忠等撰・焦恵等重校「聖済総録 上下冊」(人民衛生出版、1962 年)
宋嚴用和撰・甲賀通元訓點「嚴氏濟生方」(浪華書舗崇高堂、天明元年)
明陳實功撰著・台州荻校正「新刊外科正宗」(芳蘭謝藏版、寛政三年)
朱橚等編「普濟方」(人民衛生出版、1982 年)
許俊等編著「東醫寶鑑」(臺連國風出版社、1972 年)
張璐著「張氏醫通」(上海科学技術出版、1963 年)
小曽戸洋・真柳誠編・小曾戸洋解説「和刻漢籍医書集成第 12 輯 〔1〕(寿世保元)」(エンタプライズ、1991 年)
小曽戸洋・真柳誠編・小曾戸洋解説「和刻漢籍医書集成第 12 輯 〔2〕(済世全書)」(エンタプライズ、1991 年)
小曽戸洋・真柳誠編・小曾戸洋解説「和刻漢籍医書集成第1輯 〔2〕(小児薬証直訣)」(エンタプライズ、1988 年)
吉益東洞著「薬徴」(京都書林・浪華書林、文化九年)
甲賀通元著「古今方彙」(延享二年)
吉益東洞・尾台榕堂校註・西山英雄訓訳「和訓類聚方広義・重校薬徴」(創元社、1976 年)
浅田宗伯著「雑病翼方復刻版」(近代漢方ゼミナー出版部、1969 年)
世界文庫刊行會編「淺田宗伯處方全集 前編」(世界文庫刊行會、1928 年)
世界文庫刊行會編「淺田宗伯處方全集 後編」(世界文庫刊行會、1928 年)
大塚敬節ほか著「漢方大医典」(講談社、1975 年)
矢数道明「臨床応用漢方処方解説」(創元社、2007 年)
大塚敬節「症候による漢方治療の実際」(南山堂、1986 年)

著者プロフィール

帝京大学薬学部教授 木下武司: 1948年愛知県生まれ。1971年東京大学薬学部卒業、1976 年同大学院博士課程修了、同年薬学博士号授与。東京大学薬学部助手、コロンビア大学医学部研究員、帝京大学薬学部助教授を経て、同教授(創薬資源学教室)。現在に至る。専門は生薬学・薬用植物学・天然物化学・民族植物学。