【解説】 関東地方南部と東海、紀伊地方の海岸に生える大型の多年草で、海岸沿いの林縁や砂地、岩の割れ目などに生える。葉は1〜2回3出羽状複葉で根生し、通例、5枚前後の小葉からなり、縁に粗い鋸歯がある。根生葉や茎の下部につく葉は長い葉柄があり、基部で茎を抱き、鞘状になる。茎や葉を切ると、濃黄色の乳液が出るが、フラボノイドの一種であるchalconeの呈する色である。花期は8~10月で、花は複散形花序で、各花枝の先に白〜淡黄色の小花を傘形に多数つける。花は小さな5弁で、雄しべは5個、雌しべは子房下位。果実は長径10mm前後の扁平な長楕円形で、2分果となる。名の由来は明日葉で、葉を摘んでも明日にはまた葉が出てくるので名付けられたという。『大和本草』(貝原益軒、1709年)に「鹹草ハ本書ニ載タリ。アシタト云草也。八丈ガ島ヨリ來ル。」(附録巻之一)とある“アシタと云う草”はアシタバと考えられ、実際、八丈島ほか伊豆諸島では若葉を古くから野菜として用いる。因みに鹹草は『本草綱目』(李時珍)の鹽麩子の条(巻三十二「果之四」)に「扶桑の東に女國有り、鹹草を産す。葉は邪蒿に似て、氣は香ばしく味は鹹し。彼の人之を食ふ。」とあるが、この記述の出典は『文獻通考』(元・馬端臨、1317年成立)の巻327「四裔考四」である。貝原益軒もこれを引用している(省略)が、女國を八丈島、鹹草をアシタバとした論拠はどこにも提示されていない。驚いたことに、『本草綱目啓蒙』(小野蘭山、1803年)もこの記載を引用し、“ハチジャウサウ”の別名を『大和本草』を出典として加えている(巻之二十八「果之四 鹹草」)。因みに、鹹草の文献上の初見は『文獻通考』ではなく、『通典』(杜佑、801年)にあり、「(女國は)扶桑の東千餘里に在り。其れ人の容貌は端正にして色甚だ潔白なり。身體に毛有り、髮は長く地に委ぬ。二三月に至り、競ひて水に入れば則ち妊娠し、六七月に子を産む。女人、胸前に乳無く、項の後に毛を生ず。(毛の)根白く毛の中に汁有り、(汁をもって)子を乳むこと、百日にして能く行み、三四年すれば則ち成人す。人を見れば驚避し、偏に丈夫を畏る。鹹草を食ふこと禽獸の如し。鹹草の葉、邪蒿(一説にヤマニンジンAnthriscus aemulaという)に似て、氣香ばしく味は鹹し。」(邊防二:東夷下 女國)とあるように、空想の話に出てくるから、実在の植物ではあるまい。学名の種小名は江戸後期〜明治時代の本草学者伊藤圭介への献名。属名は「天使のような」という意味のラテン語の女性名で、使われるようになったのは16世紀以降と意外に新しい。欧州でアンジェリカ根の基原とするAngelica archangelica(syn. Angelica officinalis;セイヨウトウキ)の種小名も「最高位の天使」の意である。
引用文献:References参照。