日本語と朝鮮語の近縁性についてしばしば『隣の国で考えたこと』(日本経済新聞社)という本が引用される。外交評論家の岡崎久彦氏が日本と韓国の関係について韓国滞在中に考えたことをエッセイにしてまとめたものである。よく引用されるのは「韓国語を覚え始めて、誰しもが思うことは、韓国語と日本語の似方はただごとでない云々」、さらに「韓国語を覚え始めた時、二十年以上外国を渡り歩いて来て、初めて、外国語でない言葉を習っているという感じがしました」とある部分であり、あたかも日本語と韓国語は方言ぐらいの違いしかないかのように書かれている。これは岡崎氏だけでなく、韓国語を習ったことのある多くの日本人に共通する感想のようであり、実際、NHKのハングル講座を見ても実感できることである。一部の言語学者(もどきといった方がよいのかもしれない)はこれをことさらに強調して、これまでの比較言語学の専門家の結論は非常識とすら決めつけているが、これこそ誤りであって批判されるべきことである。
岡崎氏の論調には無視してよい部分が多いのであるが、その中には一般人が勘違いしやすいことがあって看過できないので、ここに紹介する。「蝶々」をなぜ「旧かなづかい」で「テフテフ」と書くかという疑問が韓国語を習っている過程で自然に解けたといっている部分である。これは日本語と朝鮮語の近縁性について論じる場合、全く意味がない。なぜなら、「蝶々」を始め、ここで取り上げている語彙は全て漢語であって、いずれも中国語音に起源があるから音が似ているのは当然のことである。
次によく引用されるのは、日本語と朝鮮語の文法は似ているものの、基礎語や発音が異なりすぎていることが、両言語の近縁性を論じる上で障害となっているとしている点である。ここで基礎語の違いが言語の違いを認識する上で非常に重要なことであるから、基礎語とは何か述べておかねばなるまい。筆者は植物名の語源を長い間研究してきたが、これを例に挙げて説明したい。現在でこそ、植物にはそれぞれ固有の名前が割り振られているが、いずれも植物学の専門家がそう決めたにすぎない。実際には各植物に多くの名前があって実に多様である。一方で、マツ、スギ、ツバキ、ユリなど万葉時代も現在も変わらないものもある。これらはいずれも何らかの有用性があり、日本全国でその文化的価値が普遍的とされて共有されてきた結果にほかならない。そうでないものは、地域ごとに文化史的背景を異にして固有の名前があり、現在使われている名前はそのうちの一つを取り上げたか、あるいは全く別個に専門家がつけたのである。植物名でマツ、スギなどに相当するのが、足・手・鼻・眼・耳などの身体各部、山・川・木・草・天・地など森羅万象や数字の数え方などであり、これらは全ての日本人にとってごく身近な存在であり、文化的に共通してきたあるいはすべきものとして認識されてきた。これがいわゆる基礎語であって、教養の有無を問わず全日本人に共通し、音韻の訛を除けばその変異はごく軽微である。日本語と朝鮮語はこの基礎語に大きな違いがあり、文化の根幹にかかわる部分であるから、両言語が近縁と結論づけるに至らなかったのである。これは客観的な比較言語の結果に基づいており、これを覆すのは今のところ難しい。一部の言語学者はこれを欧米言語の方式を採用した結果であって、日本語・朝鮮語のような膠着語に適用できないからだと批判するが、かといってそれに変わる有効な方法論を呈示していないので説得力はない。そこでしばしば持ち出されるのが両言語の文法の類似性である。
(A) 本をテーブルの上に置く。
(B) 前もって買っておく。
というように、同じ「おく」という同音の語彙が使われているが、(A)の「置く」は動詞であり、(B)の「おく」は抽象動詞(補助動詞)であって同じではない。同じ動詞でもその内容の抽象度に差があり、従って用法も若干異なっているが、朝鮮語でもこれとまったく同じ使い分けができるらしい。しかし、このような用法は万葉・平安の古典で思い当たるものがあるだろうか。日本語と朝鮮語の近縁性をいうのであれば、古語でも適用できなければならないのである。植物名でもこれに似た例がある。ツバキの語源を朝鮮の冬柏とする説がそれである。冬柏は現代朝鮮語ではトゥンバッキと発音するが、確かにツバキによく似ている。しかし、冬柏の名は朝鮮通信使報告に出てくるのがもっとも古く、万葉集までさかのぼるツバキの語源とはいいがたい。朝鮮におけるツバキの分布は南部海岸地帯に限られるから、むしろ、日本語のツバキを漢字に充てたとも考えられる。柏は中国ではヒノキ科すなわち松柏の類であって、中国の用字に忠実な朝鮮がツバキに充てて冬の字を冠したとは思えないのである。これと同じように、上述の文法例は朝鮮語が日本統治時代に日本語の影響を受けた可能性について検討すべきだろう。日本語は、表音文字の万葉仮名を経て平仮名・片仮名が発明されてから、古代から現在に至るまで、連続的な言語変化を追跡可能である。日本語の文法は万葉集の時代から基本的に変わらないが、それぞれの時代において日本語で表記された文語が継続的に維持され、それでもって文法の再確認というプロセスが暗黙のうちになされてきたからである。たとえ口語でとんでもない言語を使ったとしても、それがそのまま表記されることはなく、表記として残るのは文語であり、それはそれ以前の文献に拠って暗黙のうちのチェックを受けている。現代人がきちんとした国語教育を受けているおかげで、日常会話では他地域では理解されないような方言を話していても、文章にしたためるのは標準語の日本語であり、これが後世に伝えられる。きちんとした文語が継続的に維持されてきたからこそ、日本語の文法がそのつど修正され大きく変化しなかったと考えられるのである。中国語は日本語に大きな影響を与えているが、日本では漢文を訓読して日本語化しており、表現・語彙は大きく影響をうけているものの、文法の変化までには至らなかった。一方、朝鮮語では表音文字のハングルが発生したのは日本語より遅れること700年であり、その間に用いられた文語は文法的に全く異質な漢文であった。したがって朝鮮語そのものを文語として表記されることは少なくとも中世まではなかったはずで、千変万化する朝鮮語を古典の参照によって文法的にチェックするようなことはなかったと考えられる。このような状況はハングル創製後の近世まで続いたから、同じ膠着語である日本語とは、多くの漢語由来の語彙を共有するから、その文法的影響を強く受けたと考えられる。とりわけ、日本統治時代に朝鮮総督府が漢字とハングルの混用を推奨したこともその一因であったのではないか。
結論として、日本語と朝鮮語は想像以上に縁遠い言語であるといってよく、やはり服部四郎ほか比較言語学の泰斗の結論は尊重すべきである。戦前に、小倉進平、河野六郎という朝鮮人より朝鮮語を知るという朝鮮語学者がいた。彼らは朝鮮語研究に関する膨大な論文を残しているが、日鮮同祖論はなやかなりし時代にあってもついに朝鮮語・日本語の同系統説に同意しなかった。服部四郎ほか比較言語学者の論をひっくり返すような知見が得られなかったからであろう。ここで思い起こすのは、昭和44年ころの朝日新聞「声の欄」に掲載された当時の電源開発公社総裁の投稿である。当時の電源開発公社は日本の至るところにダムをつくって電源開発するのを目的としていたが、ダムをつくった後、周辺の森林を伐採すべきという驚くべき内容の意見を述べていた。つまり、森林はせっかく降った雨を吸収してしまい、そのためダムに水が溜まらないというのである。現在では、拠水林という語彙があるように、森林は緑のダムといわれ、水源の涵養に必須であるとされるが、当時はこんなとんでもない意見が責任ある地位の人物から発せられていたのである。この意見の根底にあるのは、単なる個人的実感でものを考えることの危険性であり、それは当に岡崎氏の意見と共通する部分である。客観的視点を欠き実感に頼る思考は、ともすれば幻想に陥る危険があるとともに、専門家は百を知ってその全てを書に著しているのではないことも知るべきである。