比較言語学から見た日本語と朝鮮語
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(関連ページ)日本語・朝鮮語の誤解
日本人、日本文化と植物日本文学の起源:万葉集
万葉の花と日本の民俗文化

万葉集が朝鮮語で読める?
 日本に原産する植物にも関わらず、植物名の語源を朝鮮語に求める説は意外と根強いことは「万葉の花の語源について」で紹介した。植物名でチョウセンの名前がついているものは結構ある。中には、チョウセンヤマツツジやチョウセンレンギョウなどのように実際に朝鮮に自生するものもあるが、チョウセンアサガオ、チョウセンアザミなどは、単に外来という意味で朝鮮半島とは縁もゆかりもないのにチョウセンの名が冠されている。しかし、この名は日本でのみ用いられる名前であって、朝鮮で使われているわけでないことに留意しなければならない。また、チョウセンゴミシ、チョウセンゴヨウのように日本にも自生があるのにわざわざチョウセンの名前をつけているものもある。わけのわからないものは全て外から来たと考える傾向の強いことは古くから日本人に共通する特徴であり、その代名詞がチョウセン(朝鮮)でありカラ(唐、韓)といえばわかりやすいだろう。植物名の語源の考察もその延長線上で考える傾向が強く、よく似たことは中国でもあり、海棗カイソウ(ナツメヤシ)海松カイショウ(チョウセンゴヨウ)など海の名を冠した名の多くは外来である(→詳しくはこちらのページを参照)。さて、1989年、「人麻呂の暗号」(藤村由加著)という本が出版され、“万葉集は古代朝鮮語で解読できる”として話題になったことがある。日本文学の始祖:万葉集でも紹介したが、柿本人麻呂の難解歌に「東野炎 立所見而 反見為者 月西渡」(巻1、0048)という歌があり、これを江戸時代の国学者賀茂真淵は「ひむかしの野に かぎろひの立つ見えて かえり見すれば 月かたぶきぬ」と読んだ。その他の読み方もいくつかあるが、この“解読”がもっとも一般に知れ渡っている。しかし、この歌は標準的な五七五七七の和歌の形式を著しく逸脱し、また長歌や旋頭歌でもない。藤村氏はこれが暗号であり古代朝鮮語に翻訳すると四四四四の朝鮮の詩歌の形式と一致するとし、「あの世とこの世の境 この東野に 亡き草壁の皇子のお姿が 炎のように立ち現れる 懐かしい想いでいるというのに 皇子はふたたび冥界へとむかわれる」と訳している。たった14文字しかない万葉仮名の歌だが、字面から見れば賀茂真淵の解釈で全く問題ないように見えるが、鑑賞する立場からいえば面白みに欠けることは否めない。一方、藤村氏の解釈は古代史にロマンを求める一般人には受けるだろうが、万葉歌がこのような古代朝鮮語の“暗号”で記述されているとはおよそ思えないし、それに対しては藤村氏は全く言及していない。また、古代朝鮮語というが、そもそも15世紀にハングルが作られる以前、 朝鮮では全ての文書は漢文で書かれており、当時の朝鮮語がどんなものであったかごく一部しか資料は残っていない。ハングル以前には吏読りとう口訣こうけつ郷札きょうさつという、漢字で朝鮮語を表す方法があったが、それらはごく一部分で断片的しか残っておらず、漢字の音と訓を複雑に交えた表記法なので、どの漢字がどう読まれたのかなどは正確にわからないとされ、またそれらが音韻の複雑な朝鮮語を正確に書き表したかどうかすら定かではない。特に、万葉時代に相当する古朝鮮語の資料が朝鮮半島にほとんど残されていないのは致命的であり、その点、万葉集だけでなく多くの古典が後世まで連綿と継承保存されている日本とは全く状況が異なるのである。万葉仮名による原文でも、ほとんど問題なく日本語として読めるのが大半であり、一体、どこが古朝鮮語なのかと疑問に思う向きも多いだろう。4500以上の万葉歌謡の中で、解読されていないものが数十首あり、藤村氏が古朝鮮語で読めるとしたのはその中の更に一部にすぎない。すなわち、国語の教科書に収載されているものを始め、99%以上は“正常に”日本語として読めるのである。古代朝鮮の新羅に郷歌ヒャンガという歌がありわずかに残されているが、日本文学の起源:万葉集で紹介したように、万葉仮名を解読するような方法では郷歌を読むことはできず、曲がりなりにも解読できる人麻呂の難読歌を古代朝鮮語(新羅語)というには客観的視点からいって明らかに無理がある。
 その後、藤村由加説は「新・朝鮮語で万葉集は解読できない」(安本美典、JICC出版局)、「古代朝鮮語で日本の古典は読めるか」(西端幸雄、大和書房)などの多くの専門家からの反論本で、いわゆる「とんでも」本として完膚なきまで否定され、その学術的価値は全く否定された。ただ、その反論は専門家以外に簡単に理解できるものではなかった。一方、藤村説(というより創作した作品というのが正しいと思うが)は、論理的には支離滅裂ではあっても素人にロマンを感じさせるというインパクトがあったから、李寧煕氏の類書「もう一つの万葉集」(文芸春秋)とともに、好奇心だけは旺盛で理解力はいま一つという一般人には厚く支持された。李寧煕氏に対しては、週刊誌上で、大野晋、菅野裕臣、中西進の各氏らが反論しているが、判官びいきの伝統が根強い日本ではいじめと解釈されたらしく、またその熱烈な日本人支持者の援護やものわかりのよいマスコミの援護もあって、これ以後、李氏は一般人の厚い同情を得ることになった。これに一部の学者も加担した(→いずれも学問業績からすれば取るに足らない存在であって無視しても構わないと思われるが、ここではKS氏がホームページでかなり詳細に記述し、筆者との間で質問のやりとりがあったのでその内容を紹介する。ただし、2021年の現在、当該のホームページは閉鎖、KS氏の所在も不明、当時はWikipediaでも紹介されていたが、”自称の言語学者”だったのかもしれない。から、一般人をして国文学の権威が李寧煕説に真っ青になったと誤解させることもあった。万葉集が古代朝鮮語で読めるということは、日本語と朝鮮語の間には強い類縁関係があることを意味する。和語では説明できないものが本当に朝鮮語で説明つくものであれば、それは妥当な説ということができる。上記の説は専門家筋から否定されてしまったのであるから意味をもたないのは明らかである。しかし、この件はそれだけでは済まなかったようである。2001年12月18日、今上天皇が誕生日を前にした記者会見の御席で、「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本きに記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。」と述べられた。陛下の御言葉は日本書紀の記述に基づいたものなので偽りはないのだが、これが一般人を勘違いさせ、前述の俗説の熱狂的支持者を勢いづかせてしまったようである。陛下がおっしゃるほどだから、やはり日本語と朝鮮語は親密な関係にある、いやあるはずだ、あるいはそうでなければおかしいと、これまでの研究の方が間違っているというような風潮が出てきてしまった。近年の“韓流ブーム”の立役者であるマスメディアにとっては、日本語と朝鮮語は親戚である方が都合がよいから、殊更にその類縁性が強調される傾向がある。朝鮮語を学ぶ日本人も多くなり、大半は朝鮮語を学ぶことは難しくないという。おそらく、それは真実であり、文法がよく似ていて助詞もあるので、日本人にとって習熟するには欧米系言語ほど難しくないことは確かであろう。しかし、これをもって日本語と朝鮮語はごく近縁であるというのは早計である。日本語も朝鮮語も大半の語彙は共通の漢語に由来し、相互に関連付けさえすれば理解は用意である。しかし、肝心の大和言葉と韓語の相違が意外と大きいのである。後述するように、朝鮮海峡を隔てて地理的に近くても日本語と朝鮮語は意外に遠縁で、それぞれ孤立した言語というのがこれまでの比較言語学による結論である。中には遠縁の言語が地理的に近い地域に存在するはずはないと根拠なく反論されることも多い。陸続きの欧州でも周辺地域と言語学的に類縁が見つからないバスク語という言語がある。スペイン、フランスという有力なラテン系民族に囲まれたバスク地方に、フランス語、スペインなどラテン系諸語のみならず英語、ドイツ語などゲルマン系諸語、ロシア語などスラブ系諸語など欧州のどの言語とも類縁のないバスク語を話す民族が60万人ほど住んでいる。日本列島は四方を、また朝鮮半島は三方を海に囲まれているので、バスク語のことを考えれば、それぞれ孤立言語として存在しても決して不思議はない。では、言語学の専門家による検証にも関わらず、なぜ日本語と朝鮮語の類縁性にこだわる、あるいは類縁と勘違いし比較言語学の有効性すら否定しようという人が後を絶たないのであろうか。「人麻呂の暗号」は50万部以上のベストセラーになり、出版社を大いに潤わせた。それに対して、その反論本はおよそベストセラーとは無縁であり、出版社の営業上、前述の歪んだ俗説を延命させる必要があるからであろう。ここでは、日本語と朝鮮語の類縁関係を最新の計量比較言語学を用いて検証した安本美典氏の研究を紹介し、それが有効であるのかあるいは意味のない方法論であるのか、第3者の立場で検証してみたいと思う。結論を先にいうならば、計量比較言語学による解析結果は、実に緻密な科学的根拠に基づいており、これまでの説(日本語と朝鮮語は意外に遠縁である)を補強こそすれ、いわゆる「とんでも本」著者の藤村由加氏や李寧煕氏の付け入る余地は全くないのである。
英語は日本語起源:北米大陸地名に見る日本文化の痕跡?
 藤村由加氏や李寧煕氏の説が「言葉の遊び」か「語呂合わせ」に近いものであることを一般に理解させるには、清水義範氏のパロディー小説「序文」を引用するのが最適だろう。「序文」といっても、列記とした書名であって、小説内の“序文”ではないが、この中に“英語の起源は日本語だ”という下りがある。要約すれば、英語と日本語の間によく似た言葉が292例もあり、「英語の起源=日本語」と錯覚するというものである。パロディーであるから、普通の人ならtsunami(津波)、shogun(将軍)やtycoon(大君)、あるいはkaizen(改善)のような日本語から英語に取り入れられた単語ばかりを集めたものに違いないと誰しもが思うだろう。実際には、そのような単語はちゃんと省かれており、例として下の表に示すような例が挙げられており、いずれも日常的に使われる簡単な基本的語彙である。ここでは一般語彙のほか、地名も挙げておいた。最近、地名の起源を調べる研究(といっても学術的ではないが)が盛んらしい。現在伝わっている日本語による地名の由来は意外と新しく、古い地名はほとんど朝鮮語に起源があるという俗説が蔓延っているようである。このあたりも植物名の起源の考証と共通するので興味深いが、問題は碩学を気取った民間人(この場合は非専門家という意味)がかかる俗説をはいている点に留意しなければならない。例をあげれば、神奈川県の古名は相模国であるが、従来説はさかみ(坂見)、すなわち坂(箱根の足柄峠)から見下ろす地域を意味するとされていた。これとて真実かどうか怪しいのであるが、地名として機能しているのだから別に正しい答えがなくても一向にかまわない。しかし、最近では、朝鮮語のサガ(寒河、私の家、社という意味らしい)に由来し、山形県の寒河江市も同じ由来だという説が巷に浸透しているようだ。これによれば日本中の主な地名は全て朝鮮語起源であるという。そのソースは金達寿氏の「日本の中の朝鮮文化 相模・武蔵・上野・房総ほか」(講談社、2001年)であり、そのまま信用すれば間違いなく日本文化、習俗の基層が朝鮮文化であるかのような印象を受けてしまう。この俗説で思い出されるのは、「古代、アメリカは日本だった! ネイティブ・アメリカンが証明した」(ドン・R・スミサナ著・吉田 信啓訳・解説、徳間書店、1992年)である。ここでは次の表のように日本語との関連が付けられる地名が挙げられ、その結果、書名のようなパロディ(と筆者は解釈するが)に仕立て上げている。

米国地名又は英語語彙 関係付けられた日本語
name 名前(namae)
kill 斬る(kilu)
battle 場取る(batoru)
boy 坊や(boya)
guess 下司の勘ぐり
sick 疾苦
dull だるい
テキサス(Texas) 敵刺す
ミズーリ(Missouri) 水入り江
マサチューセッツ
(Massachusetts)
鱒駐節
カンザス(Kansas) 関西
ケンタッキー(Kentucky) 関東京
owe 負う(ou)
fire 火(fi)
tray タライ(taray)
new 新(nii)
tag 手繰る
novel 述べる
juice 汁(じゅう)
ナイアガラ(Niagara) 荷揚げ場
アパッチ あっぱれな者
オハイオ(Ohio)
お早う
サツマ(Satsuma) 薩摩
カナダ(Canada) 金田

 以上、英語の一般語彙と地名で如何にも英語と日本語が関連づけられそうなものを挙げたが、これが何百もあれば、錯覚しても不思議はなく、一般人では論理的に反論するのに手こずるかもしれない。しかし、この類似性は偶然であり、全く類縁のない言語間でも何万何十万語の中からこの程度の類似例を探すのは難しくないという。上述の地名の中に、原作にはない本物が一つ紛れ込んでいる。サツマ(Satsuma)はアラバマ州モービル郡サツマ市という実在する地名であり、日本語の薩摩がそのルーツである。これは嘘ではなく真実である。しかし、この町の名の由来は日本人とは全く関係はなく、温州みかんの英語名のSatsuma orangeに因む。温州みかんは鹿児島県(薩摩)原産の柑橘種で、味がよく簡単に皮が剥けるので、世界的に人気のあるミカンである。温州みかんは19世紀にアメリカに導入され、各所で栽培が試みられた。アラバマ州モービル郡ではそれに因んで栽培地の地名にもなってしまったというのがその顛末である。これを除けば全ていわゆる捏造である。では、なぜこのようなでっち上げや捏造が可能なのだろうか。まず、そもそも単語はどんな難しいとされる言語でも、せいぜい数十種の音の組み合わせでつくられたものにすぎないことを理解する必要がある。現在の日本語では母音は5音、子音との組み合わせで四十七音となっている。但し、古日本語の母音は8音あり八十七音であったという説があるが、それでも二倍に満たない。もともと人類は音を聞き分けるのが五感の中でもっとも苦手であって視覚や嗅覚、痛覚などによる識別と比べて、聴覚による各音の識別はもっとも劣ることに留意しなければならない。したがって、単純な音節の語彙であれば、世界のどんな言語を選んでも、偶然、意味と音とが似ている単語を、2~300は確実に探し出すことができるのである。日本語学者の金田一春彦氏は万葉集をアルファベットで表記すると英語で解読できるのだという(「万葉集の謎は英語でも解ける」、文芸春秋、1956年7月号)。「manyooshuu」の「many」は「多い」、「oo」は「ode」の略で「頌歌」、「shuu」は「shew(showの古語)」 で、「万葉集」は「多くの頌歌の陳列」という風に意味付けられると、金田一氏は皮肉っている。また、地名や単語に限らず、短い詩でも日本語と英語とをこじつけることは可能である。「古池や蛙飛び込む水の音」は俳人松尾芭蕉の句の中でもっともよく知られたものであるが、英語圏の外国人には “Fully care cowards! To become midnote”と聞こえるということを聞いたことがある。この出典はもはや筆者の記憶にないが、芭蕉の俳句に“英語の暗号”が隠されており英語で読めるという藤村流の曲解はさすがにないようだ。本来の意味さえ無視すればこじつけや語呂合わせで偶然読めてしまうのはどの言語でもありうることを示すものであり、藤村氏や李寧煕氏の説はその延長線というより本流の中にあるとんでもない“俗解”であるといって差し支えないだろう。
 以上の説明で、藤村由加氏や李寧煕氏がその著書の中で主張していることが上述のパロディと大差ないことがわかるはずだ。日本とアメリカという文化的に異質の国同士でもこのように名目上の地名の類縁を“でっち上げることが可能である”し、有名な俳句すら英語の短詩にこじつけることができるのである。したがって、万葉集の解読も都合の良い部分だけを取り上げれば朝鮮語で読めるのは決して不思議ではないことが納得できるだろう。こんなパロディの世界のことを真面目(あるいは何か意図をもっているのか)な言葉で書き記したのが藤村由加氏、李寧煕氏そして金達寿氏といえるのである。藤村由加氏は「人麻呂の暗号」など四つの単行本を出版した後、自説を補強するためのフォローアップ研究の形跡が全くない。それもそのはずで四人の女子大学院生の名を一字ずつ取って造ったペンネームであり、学術の蘊奥とはおよそ無縁の人物が興味本位に書き記したのが「人麻呂の暗号」ほかシリーズ書である。すなわち、もともと学術を目的としたものではなかったのである。断っておくが、筆者は学者と研究機関に属さない在野の研究者を差別するつもりは毛頭ない。筆者が属する理系の世界ではどんな論文でも関連分野の研究者がrefereeとして審査し、それをパスしなければ学術誌に掲載されることはない。無論、権威のある学術誌であればあるほど審査は厳しく掲載される確率は低くなる。しかし、権威があろうがなかろうが、どんな学術誌でも自然科学系であれば根拠のないデータによる推論は許されず、掲載されるにはそういった部分は削除しなければならない。また学術誌に掲載を認められないようなデータがしばしば単行本内に記載されることがあるが、それは一般人には相手にされても研究者には全く無視される。理系の分野でも通俗説をばらまく人々がいるが、当該学会では相手にされることはない。しかし、文系の世界では著書に対しては審査はなく野放しであって、このような通俗説と学説との境界が曖昧にならざるを得ない。また、学識の不十分な研究者が通俗説におんぶすることで生き残りを図っているようにも見える。李寧煕氏、金達寿氏も作家であって学者ではないが、その著作では如何にも学識者を気取っているように見える。俗説をはく人たち、すなわち藤村氏、金氏、李氏らが筆者がここで紹介したような反論あるいは皮肉に対して真正面から論陣を張ったことを聞いたことがない。藤村由加氏や李寧煕氏が都合のよいデータだけを取り上げて議論できるのも、外部からの審査意見がないからである。すなわち、藤村由加氏、李寧煕氏や金達寿氏がその著作でいくら自説の正当性を主張しても専門分野の審査員によるチェックがなければいわゆる俗説にしかならない。金達寿氏は李進煕氏の広開土王碑文改竄説(1972年、岩波書店「思想」に掲載されたが、歴史学及び関連分野の専門誌ではないので学説として有効ではないと思われる)を強く支持したことで知られるが、その後、日本及び中国の学者の研究によって否定される(熊谷公男、日本の歴史03 大王から天皇へ、講談社;武光 誠、古代史大逆転、PHP文庫)や、今度は一転して碑文の解釈云々に転向し、倭人が海を渡って高句麗と戦ったことはないと主張し始めた。学者ではないから何をいっても自由だが、金氏の論調はおよそ柔軟とは程遠い思い込み思考で支配されていて都合のよい部分だけを取り出すので、一般人から見れば実に歯切れがよいのである。真の専門家であれば、あらゆる関連情報と比較して推論をするから、どうしても歯切れのよさに欠け、結局、奥歯にものが挟まったような主張になり、素人にとっては何を言いたいのかわからない。一般人はそこが理解できないから簡単に騙される。読んでわかりやすいものはそれだけ作為的かつ内容に乏しいことに気付かねばならない。一般に日本人は勉強好きであるが故に、どんな内容であれ印刷されたものを権威あるものとして無批判に受け入れる傾向が強い。日本のマスコミが日本国内で起きたことを外国紙がどう報道しているか批評なしで引用するのも同根であろう。
 日本人(そして韓国朝鮮人)の中には、助詞や語順は日本語と韓国語に特有のものと考えるものが多いが、世界に目を広げればいくつかあり、それが過ちであることがわかる。バスク語は日本語や朝鮮語と同じ膠着語に属し、語順も同じ主語+目的語+動詞で、「は」や「が」などに相当する助詞をもち、テニオハもよく似ている。大野晋氏によれば、日本語は南インドのタミル語に酷似するという(「日本語とタミル語」、新潮社、1981年)。語順が同じで助詞があるだけではなく、和歌と同じ五七五七七の形式がタミル古歌集「サンガム」に多くみられるという。また、中国語や朝鮮語にない「あはれ」という純日本的心情と考えられてきた言葉に対応するタミル語が存在するという。大野博士はかって日本語-朝鮮語同系説を唱えていたが、現在ではタミル語との同系説に転向したようである。タミル語と日本語が同系であるという大野説に賛同する言語学者はいないようであるが、日本語と朝鮮語がごく近縁であるというのは無理があることを示す例となるのではなかろうか。「三国一」という語句で明らかなように、日本や朝鮮では日中韓(鮮)三国がすなわち世界であるという時代が長く続いた。この中で中国語だけが文法、語彙が全く異なるので、日本語と朝鮮語が極めて近い言葉であると錯覚してしているのでなかろうか。日本語と朝鮮語が意外に遠縁であることを受け入れないのは「木だけを見て森を見ない」極めて近視眼的視点にあるといってよいだろう。逆に、「木を見ず森だけを見ている」と反論されるかもしれないが、それは詭弁であり、専門家は「森を見て木を見逃すことはない」のである。
比較言語学によれば朝鮮語と日本語は意外と遠縁である!
 ある言語間の類縁性を議論するとき、とりあげた二言語が、世界の任意の二言語よりも、特に関係が密接であることを「客観的」に示す必要がある。安本美典氏はそれを証明するため、以下に述べるような方法に従って検証した(「日本語の起源を探る」、徳間書店、1990年;「日本語の誕生」、大修館、1990年;「日本語の起源を探る コンピュータがはかる“やまとことば”成立のモデル」、PHP研究所、1985年)。ついでながら、藤村由加氏や李寧煕氏はこのような客観的な解析手続きを踏まずに現代朝鮮語や日本語方言などの中から都合のよいものだけを選び出して羅列したものにすぎず、その論ずるところはあくまで「遊び」であって、著者が認めているか否かは別にして学術的視点に立っているのではないことに留意する必要がある。
1.比較対象言語の基礎語彙を抽出する
 基礎語彙として外国語からの借用語と思われるものは除き、人類が共通に認識するような汎用基本的語彙を取り上げなければならない。数詞や身体の各部を表わす言葉はどの言語も持っており、時代を経ても変わりにくいので、比較言語学ではよく用いられる。安本氏はそれを200語抽出し、更にその選択の妥当性を他の研究者に評価を仰いでいる。次表に数詞、身体語について、日本語、沖縄語、朝鮮語、アイヌ語の例を列挙する。

数 詞 日本語 沖縄語 朝鮮語
1 hito ti hana
2 huta ta du:l
3 mi mi se:t
4 yo yu ne:t
5 itu ichi das⊃t
6 mu mu y⊃s⊃t
7 nana nana il-gob
8 ya yaya y⊃d⊃lt
9 kokono kukunu a-hob
10 to tu y⊃:l
身体語 日本語 沖縄語 朝鮮語
te tu son
asi hwisja bal, da-ri
fana hana ko
me mii nun
kuti kuci ib
fa haa i
mimi mimi gui
ke kii teol
kasira ciburu meo-ri
sita siba hyeo
fara ‘wata bae
se nagani deung

2.同じ意味の基礎語彙の語頭の音が一致しているか
 日本語、沖縄語はほとんど語頭が一致するが、朝鮮語とは二つ、7の古語がnil-gobであるのを含めても三つにすぎない。ここでは挙げていないが、ビルマ語群、ヒマラヤ語群、中国上古音でも三つないし四つであるから、日本語・沖縄語と朝鮮語の一致率は高くないことがわかる。
3.任意の基礎語彙の語頭の音が偶然に一致する確率
 以上の項目で、偶然に一致する確率を調べる方法としてはオズワルドのシフト法を用いている。
4.二つの言語には全く関係がないとの仮説(帰無仮説)を設定する
 仮説が正しいとすれば、同じ意味の基礎語彙の語頭が一致するのも、任意の基礎語彙の語頭が一致するのも、同じ「偶然の一致」の確率のはずである。
  同じ意味の基礎語彙の一致数が、偶然に一致する確率から推定される一致数と大きくかけ離れていて、偶然では起こるはずのないような多数の一致が見られるとき、「非常にまれなことが起きた。」とは考えないで、「二つの言語には全く関係がない。」とする仮説が誤っていたと判断する。すなわち、帰無仮説を捨てて、二つの言語には関係があると判断する。 ただし、この判断はある確率で誤る可能性がある。非常にまれな確率ではあるが、二つの言語が、全く関係がないにも関わらず、偶然に意味の対応する多くの語の語頭が一致したような場合である。次の表はいくつかの言語と上古日本語(奈良時代の日本語)とについて、関連性を分析した結果である。一致数が多いほど、偶然一致率が小さくて偏差値が大きいほど、上古日本語に近いことを意味する。

  比較言語     一致数   偶然一致率   偏差値  
現代日本語 155 0.000000 26.663
沖 縄 語 122 0.000000 20.807
現代朝鮮語 43 0.001476 3.271
中期朝鮮語 39 0.011733 2.477
アイヌ語(幌別) 29 0.131115 1.243
インドネシア語 42 0.003170 2.994
中国語(北京語) 37 0.039247 1.919
英  語 32 0.074783 1.583

日本語と唯一類縁が認められる沖縄語
 安本氏の比較研究では、200の単語を選んで万葉時代の上古日本語と現代日本語および諸語を比較解析しているが、当然ながら現代日本語との類縁性がもっとも高い。万葉時代から1200年以上経た現代でも、基本的語彙は意外と変わっておらず、古典として万葉集を読むことができるのも納得できる。その次に高い類縁性の認められたのは沖縄語である。沖縄語は東北弁や関西弁などと並列して日本語の一方言としばしば考えられがちだが、言語学上は列記とした独立言語である。現在は、沖縄芝居でしか語られることのない沖縄語だが、古典的沖縄歌謡の歌詞として今でも健在である。しかし、これを耳で聞いて理解できる人は少なく、大半の日本人は朝鮮語やその他アジアの外国語と区別できないだろう。これが沖縄王朝時代では話し言葉としてだけでなく文語であったわけであり、方言ではなく日本語の姉妹語に位置づけられるべきである。沖縄は朝鮮半島から遠く離れているので、日本列島の中では文化的に朝鮮との関わりがもっとも疎遠な地域であって、さすがの金達寿氏も「沖縄の中の朝鮮文化」については苦戦を余儀なくされているようだ。また、縄文・弥生時代から古代にかけても朝鮮半島から人の渡来はなかったので、古代朝鮮語の影響も全く受けなかっただけでなく、本土日本の支配も薄かった。この解析結果は、沖縄語が古代日本語から分化したことを示唆するのであるが、沖縄歌謡の歌詞を見ても古い日本語の特徴を残していることを実感できよう。首里語と日本語の分化は約1700年前後と考えられているが、ローマ帝国時代のラテン語と現在のフランス語、スペイン語、イタリア語の分化の程度を見れば妥当と考えられる。つまり、日本語と沖縄語の関係は、ラテン語系諸語のそれに相当するレベルと考えて差し支えなく、次の沖縄古典歌謡の浜千鳥節の歌詞や「おもろさうし」(沖縄の万葉集と称される歌集)の例をみれば十分納得できるだろう。一方、日本列島には先住民族としてアイヌ人が住んでいるが、アイヌ語はかなり遠縁であり、縄文時代の古い時代に分化したと考えられている。アイヌ語は文字をもたない言語だが、戦前、金田一京助による献身的な研究でアイヌ語に関する膨大なデータが残されている。

沖縄民謡(浜千鳥節)


たび浜宿はまやどぅり くさふぁまくら
てぃんわすぃららん 我親わや御側うすば
千鳥ちぢゅ浜居はまをてちゅゐなちゅゐな

旅宿たびやどぅ寝覚にざみ まくら側立すばだてぃてぃ
覚出うびじゃしゅさんかし 夜半ゆわぬつらさ
千鳥ちぢゅ浜居はまをてちゅゐなちゅゐな

渡海とぅけふぃざみてぃん てぃつち ふぃとぅ
あまんながみゆら 今宵きゆすら
千鳥ちぢゅ浜居はまをてちゅゐなちゅゐな

旅は浜に宿り、草の葉を枕に寝ているが、寝ても忘れられないのは、親の側で暮らしていたことである。千鳥が浜に居てちゅうちゅう鳴いている。
旅宿の夜半、目が覚めて枕を側立てていると、昔のことが思い出されて辛くなる。千鳥が浜に居てちゅうちゅう鳴いている。
海を遠く隔てていても、照る月は一つである。あの方も眺めているのであろうか、今宵の月を。千鳥が浜に居てちゅうちゅう鳴いている。

おもろさうし(7-36)


わかとき
玉纏たまきゑらちや物
百歳ひやくさてからは
黄金杖こかねすへきやり
御前うまへかゝらに

わかとき
よろいゑらちや物
百歳ひやくさてからは
黄金杖こかねすへきやり
御前うまへかゝらに

なぜ日本語と朝鮮語が近縁と勘違いするか?
 さて、その他の言語、とりわけ、一部の日本人(そして多くの朝鮮・韓国人)が類縁と主張する朝鮮語についてはどうであろうか。古代朝鮮語まで辛うじてさかのぼれる単語は数えるほどしかなく、それらのうち日本語の単語と何らかの関係があると推測される単語となると、微々たるものである。したがって、基本語彙で比較の対象となる古代朝鮮語の痕跡はほとんど残されていないといってよいので、中期朝鮮語、現代朝鮮語との比較データだけしかない。それによると、類縁性はなくはないが、沖縄語のレベルにはおよそ遠く、地理的に遠く離れたインドネシア語と同程度の類縁性が認められるに過ぎない。結局、朝鮮語と日本語の共通の祖語があり分化したとしても、6000~7000年前以降と推定されている。言語学者の服部四郎氏も、「日本語の系統」(岩波文庫)の中で、日本語と朝鮮語とがもし同系であるとしても、その分裂年代は今から4000年前以後ではまずあり得ない」と結論しており、比較言語学の観点からはほぼ一致しているといってよい。日本語と朝鮮語の密接な類縁性を主張するグループ(ほとんどは言語学に関係はない)は、文法が似ていることと助詞の存在を挙げ、そして異口同音に次のように主張することが多い。

 日本語と韓国語は薄気味の悪いほど似ており、この似方はただごとではない。この結論(前述の解析結果)は、一般日本人の実感をとうてい納得させることはできない。4000~7000年前に分岐した言語が、どうしてこれほど似通っているのか。これは基本単語の同一性・類似性のみを言語比較の基準とする現在の比較言語学の方法は完全ではなく欠陥があり、印欧語族以外の言語では、別の基準を考えなくてはならないケースも存在するということを証明しているのではないか。

 8世紀までの日本語は、現代日本語と違って、もっと音の種類が多かったということである。例えば母音の数は、今では5種類しかないが、8世紀には「オ」にも5種類ほどあり、今の朝鮮語に極めて近いということが分かっている。つまり日本語は、現在でも文法構造は朝鮮語と全く一緒だが、音の数が全く違い、朝鮮語よりより簡略になっている。このため良く似た単語は多いとはいえ、全く異なった単語が多く、見た目には全く違った言語に見えるようになっている。しかしこれを時計の針を戻して行くと、おそらく8世紀以前には、ほとんど同じ言語であった可能性が強い。そしてこの2つの言語が分かれはじめたのが8世紀であり、9・10世紀を通じて、全く違った言語に変化したのである。

 この意見に共通することは、沖縄語と日本語の明白な存在な類縁性が比較言語学法によって見出されることを全く無視していることである。この意見にあるように、日本語と朝鮮語がそれほど似通っているのであれば、上代ならほとんど同じだったはずと主張する人は一般人にかぎらず教育関係者の間でも少なくない。上述の二つの意見のうち、上はある大学の外国語の教員、下は中学校か高校の教員によるものであり、こんな教育が行われているのかと思うとぞっとするのは筆者だけではあるまい。現在の朝鮮語は新羅語を祖語とするといわれているが、新羅シルラ郷歌ヒャンガと万葉歌を比べて見れば、上代日本語と新羅語との間には大きな言語学的相違があったことは明らかである(→日本文学の始祖:万葉集を参照)。また、音韻の簡略化が平安以降の日本だけで起こっていることを説明するのに、日本語はクレオール語源であるとしばしば主張される。しかし、クレオール語化が起きるには日本列島への異民族の大量流入がなければならないが、上代日本語と古朝鮮語が同じだとしたら、どの民族が流入したのか、そしてその言語は何であったのか、このような素朴な疑問すら上記の主張は答えていない。にもかかわらず、現在の比較言語学の方法に欠陥があるというのは、自らの思考回路が全く科学的視点を欠いているか、科学的思考そのものを否定しているといわざるを得ないが、これを理解してもらうには別の視点で説明する必要がありそうだ。
 そこで、個人的“実感”が如何に当てにならないものであるか、真理と大きくかけ離れた具体的な例を自然界に求めてみよう。結論を先に述べるならば、我々の実感と真理が大きく乖離している例は意外に多い。かってはコペルニクスの天動説に代表されるように、人類は地球を中心にして宇宙が動くと考えた。現在では、地球は太陽の周りを回る惑星にすぎず、太陽系自体が銀河系の端に位置し、さらに無数の銀河系が、ビッグバン以来、膨張する宇宙に点在していることを今日疑うものはほとんどいない。巨大反射望遠鏡や衛星からの客観的な宇宙観測データがあるので、それを否定するのはまず不可能だろう。しかし、朝、東の空から上がり西に入る太陽や、夜空の星、月の動きを見ている限りでは、やはり地球を中心に天が回っているように見える。上述の比較言語学の結果を否定することは、ちょうど「天体観測の結果は、実際に空を見た我々の実感をとうてい納得させることはできない」といっていることに等しいのである。次に、壮大な宇宙から身近な自然界に眼を転じてみよう。地球の緑の世界を支配する植物の中には、一見、似ていても全く別物というものが多く存在する。日本の自然は豊かそっくりなイチゴとコウゾの実であり、春になると野山にはおいしい草木の実が我々の舌を楽しませてくれるが、縄文人も舌鼓を打ったに違いないものにキイチゴ(クマイチゴ)とコウゾがある。右の写真を見て、コウゾ、キイチゴの実を区別できる一般人はどれほどいるだろうか(→果実の分類を参照)。コウゾはクワ科、キイチゴはバラ科であり、植物学的には全く類縁はない。これだけ似ているにもかかわらず、実の内部の基本構造や花からの発達の過程は全く異なる。コウゾの実は多くの花が成熟してできる多花果(複果という)であって、独立した小さな粒の果実(痩果)に花被(花弁と萼が一体となったもの)が発達して取り囲んだものであり、液質の花被が可食部分である(ただコウゾの実はあまりおいしくないことをお断りしておく)。左下図にはクワの実の解剖図を示したが、実はこの果実の構造はクワ科植物全体に共通する特徴である。一方、キイチゴ(その一種クサイチゴの花をみてコウゾと比較していただきたい)の実は一つの花からでき上がった単花果果実の構造図(集合果という)である点がクワ科果実と決定的に違う。バラ科の花の特徴は多心皮からなる分離しためしべをもつことであり、花と花柄の継ぎ目の部分(花托)の上に多くの分離子房が成熟して核果となり、クラスターのような集合果ができるのである。キイチゴとコウゾの実はたまたま外見が似ているだけであり、クワ科果実が全てキイチゴに似ている訳ではない(→クワ科果実の例としてマランを挙げておこう)が、基本的な構造は同じなのである。先ほどの比較言語学の結果を否定する意見はちょうど「キイチゴとコウゾの実がこれほど似通っているのになぜ別種といえるのか」といっていることに等しい。実感と事実が乖離した第二の例を挙げよう。沖縄県石垣島と西表島にはヤエヤマヤシというヤシ科の高木がある。太古の昔より島では生育していたのであるが、長い間、この優雅なヤシ(樹形ではココヤシにも負けないほどの熱帯的風情をもつ)がはるか南方から流れ着いたと信じられてきた。島崎藤村の「椰子の実」にもあるように、日本列島の南岸は南方から黒潮に乗って様々な実が流れ着くのでこの推論は決して荒唐無稽ではない。後に、米国の植物学者ウイルソンが小笠原諸島から新種のヤシ科高木ノヤシ(現在はオガサワラヤシと称する)を発見すると、一転してそれと同種とされた。植物分類学の専門家が、実物の検分による直接比較を怠った結果、そう思い込んでしまったのである。戦前の日本は、沖縄と同じ亜熱帯に属する台湾を領有していたから、沖縄の植物を研究する植物学者は少なかった。戦後、沖縄の植物を本格的に研究した鹿児島大学の初島住彦博士は“沖縄のノヤシ”がオガサワラヤシと異なることに気付き、ヤエヤマヤシと命名しオガサワラヤシ属に含めた。米国のハーバード大学標本館の世界的なヤシ学者ムーア博士はヤエヤマヤシをオガサワラヤシ属に分類するのは不自然と考え、新たにヤエヤマヤシ属を立ててこれに含めた。すなわち、見かけでは想像できないほど、ヤエヤマヤシとオガサワラヤシは遠縁であったのである。外見からは、この2種とフィリピン特産のマニラヤシは、一般人の眼ではまず区別がつかないだろう(下の写真)。つまり、ヤエヤマヤシ、オガサワラヤシ、マニラヤシは気味悪いほど似通っており、とうてい別種(別属種)とは思えないという錯覚に陥る。それはまさに上述の比較言語学の結果を否定するのと同じではなかろうか。

ヤシ科植物はどれも似ている

そして、幹や葉だけであれば、前述3種のヤシはココヤシとも区別は難しい。しかし、系統分類学的視点からはそれぞれ別属に分類されるほど遠縁であることが証明されており、今日では、誰も疑義を唱えることはない。もう一つ植物生態学の例を挙げよう。東南アジア、アフリカ、アマゾンの赤道付近には熱帯多雨林が発達しているが、互いに遠く離れているにも関わらず、いずれの熱帯多雨林も植生の構造は酷似している。熱帯雨林の植生構造は、地域差はほとんどなく、大高木、高木、小高木、低木が多層的に生育し、樹冠のそろった一斉林にはならない。下の写真で見るように、温帯落葉樹林や亜寒帯針葉樹林とは明らかに異なるが、3つの熱帯雨林を外から見る限り、区別するのが難しいことがわかるだろう。また、内部に入ったとしても、巨大な板根をもつ大高木や高木、それに巻き付くリアナといわれるつる性植物(沖縄に自生するヒメモダマなど)など、外見では区別は難しいはずだ。しかし、各々の熱帯雨林を構成する個々の種を見ると、3地域では類縁関係のある種はない、つまり植物相(フローラ)は全く違うのである。例えば、樹高70メートルに達する東南アジアの熱帯雨林の林冠を構成するのはフタバガキ科の巨木群であるが、これらはアフリカ、アマゾンでは別種の低木にすぎず林冠を優占することはない。この植生の形態は熱帯多雨気候という環境条件によって造られたものであり、気候的には同じ3熱帯地域では結果として似た植生が発達するのである。しかし、森林を構成する植物種はそれぞれの地域の自然史に依存するので同じにはならない。

アフリカ、東南アジア、アマゾンの熱帯雨林

これを前述のような表現にすれば、東南アジア、アフリカ、アマゾンの熱帯多雨林は気味悪いほど似通っているが、それぞれの基本構成種は全く異なることになるだろう。以上のことは個人的な実感や思い込みでもって判断することが如何に危険であるかを示すよい例であり、客観性、科学的視点からものを考えることが如何に重要であるかわかるだろう。
 日本語と朝鮮語の関係は、結局、コウゾ、キイチゴの実の関係、あるいはヤエヤマヤシ、オガサワラヤシ、マニラヤシ、ココヤシの関係、あるいは東南アジア、アフリカ、アマゾンの熱帯雨林の関係に例えることができるだろう。全体の外形(樹形)や構造の類似は文法や助詞の使い方などの類似に、一方、基本語彙で一致するものが少ないことは小さな器官の構造の相違あるいは構成種の違いに対比させることができるだろう。花や実などの器官の構造は種に固有の遺伝形質に基づくものであるのに対して、見かけ上の外形、すなわちヤシの樹形(一般人はこれをもって種を区別できると勘違いする)は、ヤシ科に属する一群の植物が環境への適応などによって形成された、共通の形質である。したがって全形だけを見ると皆同じに見えてしまうのである。日本語と朝鮮語の類縁関係でいえば、たとえ文法が似ているとしても、前述したような基本語彙の音韻の違いがあれば、両言語が類縁と判断するのは難しい。自然科学の世界ではこれだけ違っていれば似ているとは決して考えない。比較言語学も人文科学という科学の一分野であるから、科学的視点でもってその結果を重く受け止める必要がある。実感による類似性だけで否定するのはまともな科学者のすることではあるまい。もし、方法論に欠陥があるというのなら別の基準を自ら見つけるべきで、言語学者の責任として押し付けるのは学識者としてはいうにおよばず教育者としても明らかに失格である。
日本語と日本民族の起源
 日本語と朝鮮語の類縁性に関する論争は、結局、日本民族の起源と大きく関わってくる。現在では、日本民族は縄文人と弥生人が同じ民族でそのまま今日に到るという「単一起源論」はほとんど支持されていない。遺跡から出土した骨格を比較した人類学的研究により、縄文人と弥生人は明確に区別できることが明らかになったからである。単一起源論に変わる説として、埴原和郎氏が提唱した「二重構造モデル論」(「日本人の成り立ち」、人文書院、1995年)があり、縄文時代末期に多くの渡来人が稲作とともに弥生文化を持ち込み、次第に縄文人と交雑して日本民族が成立したと考えられている。このモデルでは、縄文人と弥生人の割合は3:7あるいは2:8と、渡来人の方が圧倒に多いとしている。ただし、縄文人と弥生渡来人がどこからきたのかについては、北方人基層-南方人上層説と南方人基層-北方人上層説とがあり、学会を二分し鋭く対立している。前者の説では、縄文時代人は北方の大陸から渡来した人々で、弥生時代人は中国南部をふくむ南方から渡来したと考えるのに対し、後者では、縄文時代人は南方から渡来した人々で、弥生時代人は北方から渡来した人々であると考える。オリジナルの埴原「二重構造モデル論」では、縄文人は南方起源で、弥生人は朝鮮半島ないし中国大陸から渡来し、その結果、縄文人は北と南に追われ、それぞれアイヌ人と沖縄人になったとしている。最近の研究では、弥生人の故郷は中国江南の揚子江中流域と考えられ、高床式住居、高床式住居にとりつけられたネズミ返し(ネズミがはいるのを防ぐために設けた装置で柱の床下部に、鍔状の板をつける)、千木、かつお木、羽子板でのはねつき、たけうま、げた、歌垣、妻問婚などの習俗とともに、稲作にともなう文化複合体をもたらしたという説が植物学者、農学者および民俗学者などによって提唱されている(安本美典、「日本人と日本語の起源」、毎日新聞社、1991年)。この説は日本文化の様々な部分に残る南方文化要素を説明できる点で魅力がある。かって、柳田國男(1875-1962)はそれを説明するために日本列島への南方文化の伝播ルートとして「海上の道」を提唱した(「海上の道」、岩波文庫、2005年)。黒潮に乗って台湾、南西諸島から日本本土へ東南アジア、中国南部の南方文化が古い時代に渡来したというものであるが、考古学的資料に欠けるという短所があり民俗学者以外の支持を集めるには到らなかった。植物と民族文化との関連でいえば、日本列島の南半部は照葉樹林帯にあり、中尾佐助が提唱した照葉樹林文化が中国江南、ヒマラヤ南部から台湾、南西諸島とともに共通要素の多い文化ベルトを構成している(「日本文化の系譜:照葉樹林文化とその周辺」、徳間書店、1982年)。神道などの土着信仰や稲作根菜農耕もいずれもこのベルト地帯に民俗学的関連が見られる。従来、これらは全て朝鮮半島経由で渡来したと信じられてきたが、日本文化の根幹をなす習俗や信仰などに残る南方文化要素の存在を説明することが困難など多くの矛盾が指摘されていた。遼東半島ではなく山東半島で海を渡ったと考えても少なくとも朝鮮半島の半分の地域を経由するはずであり、その割には半島におけるこの文化の痕跡は日本列島と比べるとはるかに薄いといわざるを得ない。稲作と同様、大陸から直接日本列島、朝鮮半島に渡来し、あるものは日本経由で朝鮮半島にもたらされたとするのが自然である。この説によれば、江南からの渡来人は九州とともに朝鮮半島にも漂着したと考えているので、朝鮮半島南端部と日本の弥生人は同民族でこれが魏志倭人伝でいう倭人と考える。とすれば、日本語の祖語も渡来したと考えるのが妥当である。すなわち朝鮮半島に倭人がいたのであり、それが後世の任那となり、562年に高句麗に滅ぼされるまで半島に勢力をもっていたと考えることも可能である。日本列島へ進んだ大陸文化をもたらしたのは倭人の工人や文人とすれば、飛鳥、奈良時代の大和盆地に半島からの渡来人が溢れかえっていたこと(まだ俗説の域にすぎないが)も日本語が変質しなかったこともよく説明できる。しかし、現代の朝鮮語に倭語の痕跡が少ないことなど、この説にも矛盾がないわけではない。また、朝鮮半島で倭語が話されていたという直接証拠も乏しい。古代新羅語は明らかに上代日本語とは異なる(→日本文学の起源:万葉集し、また百済語(支配層の言語をいう)、高句麗語も倭語というより朝鮮語の系統の可能性の方が高いようである。朝鮮半島で倭人がいたとされるのは南部の百済や加耶と考えるのが妥当だが、なぜ倭語が消滅したかを説明できなければならない。中国江南からもたらされた南方文化は朝鮮にも渡ったのであるが、基層とはならずに新羅や北方のツングース系騎馬民族文化の基層に吸収融合したと考えることもできる。すなわち、日本と朝鮮では基層文化が異なり、朝鮮半島で倭語が消滅、日本語と朝鮮語が乖離したのもこれでよく説明がつくかもしれない。しかしながら、この説は日本人、日本語の起源に関する有力な説の一つではあるが、専門家の意見の一致を見るまでには至っていない。当時の日本語と朝鮮語が自由に通じるような関係になかったことは「日本書紀」(720年)の記述をみてもわかる。敏達天皇紀10年十月条には、「俄ありて、家の裏より来る韓婦有り。韓語を用て言はく--」とあり、韓語は「からさひづり」という訓が付けられているが、“さひづり”とは「外国や辺境の言葉で意味が通じないこと」であると考えられている(坂本太郎、家永三郎、井上光貞、大野晋校注、「日本書紀下」、1965年、岩波書店)。更に、天武天皇紀9年11月条に、「乙末に、新羅、---大奈末金原升を遺して、調進る。則ち習言者三人、若粥に従ひて至り。」とあり、習言者とは“ことならひひと”を意味する。従って、当時、新羅から日本語を学習する者が渡来したことがわかる。また、孝徳天皇紀、大化5年、是歳条にある「訳語(をさ)」は通訳のことと考えられ、つまり新羅語や百済語と古代日本語の間には少なくとも現代日本語と現代朝鮮語との間と同じ程度の隔たりがあったと考えねばならないだろう。日本の歴史において、古代は資料も少ないので、どうにでも解釈できてしまう傾向がある。これに乗じてか、最近の通俗書では日本の古代史は様々な説にしたがって書かれているが、いずれにも共通するのは自説に都合の悪い資料は頬かむりする傾向、つまり、他説の引用は極力控えるか、無視することが日常的のようである。自然科学の分野でこんなことをすればたちどころに審査員からクレームがついて訂正を命じられる。筆者も審査員としてそうしたことがあるし、また審査員からそうするよう指摘されたこともある。藤村由加氏や李寧煕氏、金達寿氏はまさにその典型であり、自説だけを一方通行的に主張、あるいは双方向的議論を意識的に排する傾向が特に顕著である。その著作はベストセラーになったことでわかるように、一般人には歯切れのよさが受けるようだ。自著を売らんかなのためだろうか、このような風潮が一部の学識者にも散見されるようになったのは残念である。悪貨は良貨を駆逐するというが、最近の歴史本の質の低下は眼を覆いたくなるほどである。著作の審査機能がない現状では、歴史本に書かれた内容は真実というより作品と考えるべきだろう。
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