交配によるソメイヨシノ類似品の作成
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 竹中博士はオオシマザクラとエドヒガンの交配実験を行い、その結果を学術専門誌(J. Heredity 54:207-211, 1963; Bot. Mag. Tokyo 78: 319-331, 1965)に投稿している。その内容は専門家以外には難しいのであるが、それを比較的簡単に要約したのが雑誌「遺伝」に本記事である。ここに全文を掲載しておく。
引用文献:遺伝, 16(1): 26-31, 1962
ソメイヨシノの合成
竹中 要
 本誌12巻11号(1958)と13巻4号(1959)にそれぞれ「染井吉野というサクラ」,「染井吉野の起原」と題して,前者ではソメイヨシノの歴史を述べ,つぎに筆者が雑種だと考えてその実生の分離をはじめたし,やがて交雑によって合成しようと試みつつあることを述べた.また後者ではエドヒガン,オオシマザクラおよびソメイヨシノの諸形質を比較して,ソメイヨシノがオオシマザクラとエドヒガンとの雑種であるとすれば説明が容易である旨を述べた.今回は多少重複するところがあるが,ソメイヨシノの研究史からはじめて,分離の状態および合成結果を述べよう.なお分離品も200本以上生育しつつあるし,合成品も30本以上生育しつつある.またソメイヨシノ×オオシマザクラ,ソメイヨシノ×エドヒガンも生長しつつある.その外いろいろの交配種が生育しつつあるので,数年後にはもっと詳しくお知らせすることができるであろう.
 申すまでもなくソメイヨシノは桜の内の桜であって,今日世界的によく知られているものである.しかしこのサクラの起原はさっぱり分らない.ただ江戸染井の某植木師が吉野桜といって,今から100年位前に売り出したということが分っているだけである.その当時以来1本のもとから接木で殖されたものであって,その数は何億本か何兆本か知れない.
 さて,このサクラがヒガンザクラ系と違うことに気のついたのは田中芳男男爵であるらしく,同男爵は博物局天産課(現在の国立博物館は以前に帝室博物館であり,その裏に雨もりのするような天産課の室が,大正の終り頃にはあった)の課員藤野寄命氏にいいつけて,上野公園の桜樹調査をさせた.それは明治17~19年で,その報告は明治33年1月に印刷された.この報告に,上野のサクラが3系に分けられている.すなわち山桜系,彼岸桜系,染井吉野である.すなわち染井吉野の名が公表されたのは明治33年である.それ以来急にソメイヨシノという名が有名になって,学者も関心をもつようになった.このサクラは明治16~7年頃から熊谷提,荒川堤,小石川植物園等に植えられるようになったということである.上野公園のものは藤野寄命氏が調査するようになったとき,すでに相当な大きさになっていたと思われるから,明治の一番最初か徳川時代の最後の頃植えられたものと考えてよいと思う.このソメイヨシノは初め吉野桜といわれていたのであるが,上記の調査研究によって吉野山のサクラと全く違うから,その売りだし元の染井を冠してソメイヨシノと命名したことは間違いあるまい.藤野氏は染井を訪ねて,その地の人々にこのサクラの来歴を訪ねたであろうが,恐らく何も分らなかったことと思われる.明治33年以来は何人もの学者が染井を訪ね,いろいろ調べたが,植木師の姓も名も,またサクラの起原も分らなかった.
 上に申したようにソメヰヨシノは染井の花屋から売出されたものであるが,その花が美しく生育が早いので,急に世に拡まったのであるが,そのはじまりは甚だ新しく,古くとも江戸幕末の頃と考えられる。そして明治の初頃ボツボツ民間に拡まり,熊谷堤・荒川堤・小石川植物園・上野公園等に栽培されるようになって,花が美しいことから,急に世に拡まったのである。
 明治34年に松村任三博士(東大教授)がこのサクラにPrunus yedoensisという学名を与えているから,ソメイヨシノの名は世間に有名になり,全国の公園や学校にさかんに植えられるようになった.当時の伝説では伊豆の大島が原産地で,染井の植木職人がもち帰えり,吉野桜として売りだしたとのことであった.その後三好学博士,牧野富太郎博士をはじめとして,幾人かの人々が大島を訪ねたが,大島には大島桜の他には野生のものは見付からなかった.その後小泉源一博士も大正元年(1912)に大島に渡って調査したが,その自生を認めることはできなかった。そしてソメイヨシノはエゾヤマザクラとヒガンザクラの雑種ではないかと疑問をなげた.ところが同じ年にドイツのケーネ(E.Koehne)博士はPrunus yedoensis Matsumura var. nudiferaが済州島に自生することを報告し,このソメイヨシノの変種が,済州島に自生することは学術上興味があると述べた.この材料は明治41年(1908)4月10日に,済州島に住んでいたフラソス人宣教師タケー(Taquet)氏が島内の山中から採集したものである.あくる大正2年,小泉博士は青森在住のフランス人宣教師フォーリー(FAURIE)氏の標品中に,タケー氏のとった桜の標品があり,それが染井吉野と一致することを見た.それ以来同博士は,ソメイヨシノが済州島に原産すると信じるようになった.小泉博士の済州島原産地説に対して,三好博士は亡くなるまで,多分に疑問をもっておられて,日本に栽培するソメイヨシノは別の系統であると考えていた.
 話は一変してアメリカの樹木学者ウィルソン(Wilson)博士は,日本にきてサクラの研究をしたが,大正5年(1916)に「日本の桜TheCherries of Japan」という書物をだしたが,その中にソメイヨシノは形態的特徴からエドヒガンとオオシマザクラの雑種ではないかと述べている.他方中井猛之進博士は朝鮮森林植物編第5輯(1916)に,ソメイヨシノは済州島漢拏山の森林中に生じ稀品である.日本に広く栽培するが,その産地が分らないと述べている.この記載には少し筋の通らないところがあるが,記録として掲げておく.
 さて小泉博士は,昭和7年(1932)に多年の念願であった済州島ヘソメイヨシノを求めて渡った.その結果によると,4月24日に漢拏山の南の山腹600mの山地で真のソメイヨシノを発見したとある.
しからばどうして日本に渡ったかというに,サクラを好む吉野権現は船乗りが崇拝するから,済州島方面を航行した船乗りが,そこからサクラをとって吉野権現に献木し,その美しいのを見た江戸の植木師がそれを江戸にもって帰えって吉野桜として売りだしたのであると説明している.一応つじつまが合っているが,筆者には割りきれぬものがあったので,昭和8年(1933)4月早々,京都に小泉博士を訪ねたが,なお疑問が残ったので同年4月末済州島に渡った.小泉博士を案内した方達の先導で,そのソメイヨシノを再調査した.そのソメイヨシノはエイシュウザクラ(エイシュウというのは済州の古名)およびエドヒガンとすぐ隣りあって生じ,3本が根本でからみあっていた.約20~30年生位のもので,少なくともソメイヨシノが済州島に最初に栽培されたよりも前のものであった.小泉博士はこのサクラをソメイヨシノと同一のものと判定されたが,筆者は花梗が短いこと,葉の裏やがくに毛の少ないことで,多少異うことを発見した(第1図).しかしその異いはむしろ原産地説には適当であると考えた.その理由は,原産地の集団の中にはいろいろのものがあってよいわけであるからである.しかし小泉博士もただ1本だけ発見したのであり,筆者もかなり広く調査したが,これ以上にはソメイヨシノに似たものを見いだし得なかった.そのとき海抜800m位から上はいろいろのサクラが咲きほこって非常に美しかった.この報告は翌年(1934)正月に「史跡名勝天然紀念物」という雑誌にのせた.
 小泉博士の済州島原産地説には,筆者は必ずしも反対しないが,その渡来説には疑問がある.それはまずソメイヨシノに似たものがただ1本しか発見されなかったことである.船乗りが美しい花を見て,その年(あるいはその後でもよい)の晩秋から翌年の冬の終りまでに再び航海して,ほり取って日本に持ち帰えり,吉野権現に献木するということはちょっと考えられない.あるいは2月頃再渡航して接穂をもって帰えるということもあり得るが,これまた相当大変なことである.現在1本しか見つからない程の稀品が,その時代にそうたくさんあったとは考えられないから,むやみやたらに持ち帰えったサクラがソメイヨシノであったと考えることも無理である.どうしても最初に見ておいて再渡航の折に持ち帰えったと考えねばならない.しかも吉野山から江戸への行程がまた問題である.当時は江戸から吉野山まで2週間の歩行であるから,往復1ヵ月かかるわけである.一部船を利用しても20日は見ねばなるまい.春の花時に見ておいて,翌年(以後)2月末に接穂をもらいに行くとすれば,大変な時間と金を費やすことになる.当時としては殿様や大商人の趣味ならいざしらず,名もない染井の植木師が,そのような旅行をしたとはどうしても考えられない.ソメイヨシノが済州島の到るところに生えていたという仮定と,それがまた種子をつけて同じようなものを生ずるという仮定とが許されるならば,この済州島原産,吉野経由の渡来説はかなり真実性をもってくる.しかしそれらの仮定はどうにも許されそうもない.
 筆者はこのようにソメイヨシノの問題に疑問をもったまま満州事変,支那事変,大東亜戦争とめぐるましい年月をへて,日本へ帰えり,国立遺伝学研究所設立運動に参画をしいられた.昭和24年(1949)その設立とともに,所員としてまたまた設立事務に忙殺された.その間約20年の月日が流れた.昭和26年(1951)やや落ちついたので,いろいろの研究を開始したが,その1つとしてソメイヨシノの起源の研究に着手した.
 さて遺伝学の立場から見ると,ソメイヨシノは早熟で,急速に生長するから雑種強勢を思わせる.またほとんど種子をつけないことも雑種を連想させる.そこでまず種子をかき集めて播種した.昭和27年(1952)に発芽をはじめたが,翌年の観察によると,個体別に葉の大小がいちじるしく,葉裏および葉柄等に毛の多いもの少ないもの,全然ないものなどの差があった(第1表).また幹や枝にも太くて直立するもの,細くてなよなよするもの,幾分枝垂れ気味のものなどの差があった.これらの差異は多型的なヤマザクラの集団内に見られる個体差をはるかに超えたものであり,到底1つの種の子孫とは考えられものであった.いいかえると,オオシマザラ同様大きな長い葉で毛のないものから,エドヒガンと同じような小さい卵形の葉で毛の多いものまで,多くの段階のものがあったのである.ひとり葉ばかりでなく,幹や枝の形についても同様であった.そこでソメイヨシノはエドヒガソとオオシマザクラとの雑種であると推定して,昭和32年(1957)に次のような研究を計画した.
1)オオシマザクラ×エドヒガンおよびその逆交配(第2図第3図)
2)エドヒガン×ソメイヨシノおよびその逆交配
3)オオシマザクラ×ソメイヨシノ およびその逆交配
参考として,
4)オオヤマザクラ×エドヒガン あるいはその逆交配
5)カスミザクラ×エドヒガン あるいはその逆交配
6)エイシュウヤマザクラ×エドヒガン あるいはその逆交配
7)ツクシヤマザクラ(エイシュウヤマザクラの代りとして)×エドヒガン あるいはその逆交配
 これより先,昭和29年(1954)にはソメイヨシノの葯の減数分裂を観察した.その結果からは幾らかは雑種性ではあるが,雑種でなくても,その程度の不規則性は存在することがあるから、雑種として認定することはできなかった.
 しからばソメヰヨシノがいかにして日本に,ことに江戸に渡来したかについては,小泉博士は同上の論文においてつぎのように推察された。吉野権現は船乗りの崇拝するところであり,サクラをひじように愛好されるから,日本海を廻る船乗りが,済州島で見付けた美しいサクラをもって帰えって,吉野権現に献上したのであろう。たまたま江戸の染井の花屋が吉野に詣ったところ,美しいサクラがあるので,それを持ち帰えってヨシノザクラといって売出したのであろうと。その証拠には,吉野の某寺院には,枯れかかってはいるがエイシュウザクラカミ1本あると。また同じく船乗りの尊敬する金比羅さんにもサイシュウモミの大木が植っているが,これも済州島以外にはないのであるからそこからもって帰えって献木したものであろうと(以上は原論文を手元にもたないから記憶による)。
 さて昭和33年(1958)には最初にまいたソメイヨシノの実生が開花をはじめた.それ以来毎年順次開花している.それらの内で研究ずみのものを第1表に示す.それによると,花色には白色から紅色まで,花弁の大きさはオオシマザクラ同様の大きなものから,エドヒガン様の小さいものまで,その形にもやや細長いものから円に近いものまであった.がくには毛の多いものから無いものまで多数の段階があった.花柱と子房には毛を生じないものが多かったが,少数のものには毛を生じた.このことはソメイヨシノがオオシマザクラとエドヒガンとの雑種であることを示すものである.
 さてエドヒガンとオオシマザクラを交配したF1が,昨年9株開花した.その内調査した8株と後で述べる船原吉野(第4図)との諸形質を見ると,第2表のようである.
 第2表に見られるようにエドヒガン×オオシマザクラとその逆交雑との間には差異がない.これらは何れも1株のオオシマザクラと1株のエドヒガンの交配であるにかかわらず,花柱毛の有無については順次的の変化が見られる.また花の大きさおよび葉の大きさは現在のソメイヨシノより大であるし,雄蕋数もソメイヨシノより多い.大体15~20%増しである(第5図第6図).しかし一般的にいってエドヒガンとオオシマザクラの中間であり,ソメイヨシノに近似している.この内オオシマザクラ×エドヒガンのNo.8は花の大きさでは現在のソメイヨシノに近い.
 申すまでもなく,自然界の個体は遺伝的にヘテロであるから,それに生れる子は皆それぞれ異うのは当然であるし,ましてそのような2種の交雑F1に,種々の型のものが生れるのは至極当然のことである.現在のソメイヨシノの親と合成したものの親とが,別の個体であることを思えば,この程度の差異は止むを得ないことである.改めてオオシマザクラの花や葉の小型のものと標準的なエドヒガンとを交配するか,イトザクラのような小型のエドヒガンと標準的なオオシマザクラとを交配するならば,花も葉も上の合成品よりももっとソメイヨシノに近い型のものができるであろう.
 かくしてソメイヨシノは,エドヒガンとオオシマザクラとの雑種であるということは最早間違のない事実となった.しからばソメイヨシノは何処でできたであろうか.あるい染井の植木師の庭で,自然にまたは人工的にできたであろうか.染井の植木師の庭でオオシマザクラ(多分稔性のあるサトザクラ)とエドヒガン(イトザクラも含めて)が自然に交配して種子をつくり,それが庭隅で6~7間投げげ棄てられて生育したとも考えられるし,また彼が人工的に交配してつくったとも考えられる.ただし花期の違いに多少難点がある.しかし彼が盆栽を求めて旅していて美しいサクラを発見して,それ接木したということもあり得る.伝説的に彼が伊豆大島からもってきて吉野桜といって売りだしたということが少しでも信用できるならば,他所からもってきたと考えることは必ずしも否定されないであろう.もしそうなら何処でできたであろうか.
 オオシマザクラとエドヒガンとの分布の重なっている地帯は,採集家の記録および話によれば,伊豆半島南半と房総半島南端だけである.そこで筆者はこの両地域にそれらの2種が自然に分布しているか,あるいは古くより大々的に植林されているかを調査した.また同時に1度でも両者の問に交配が起ってソメイヨシノまたはこれに近いものができていたならば,結実性が低くとも,その子またはその次の子孫が1本なりと遺存していていいではないが考え,それも調査の対照とした.幸に筆者はソメイメヨシノの子孫を多数観察したから,それらを鑑定することができると考えたからである.
 その結果,房総半島南端には,オオシマザクラが薪炭用として僅かに栽培されているが,エドヒガンは遂に発見できなかった.しかるに伊豆半島南半はオオシマザクラは薪炭用として古来広く植林されているばかりでなく,鑑賞用としても大木が存在する.しかもエドヒガンは森林中のあちこちに自生し,大なるは周囲6m,推定樹令300年を越えるものから10年生位の若木まで見られる.しかも古くからオオシマザクラの種子をとり,育苗し,植林している.現在はオオシマザクラの自然林は見られないが,かっては海岸線に沿って発達していたであろう.
 さて筆者の経験によると,オオシマザクラとヒガンザクラの交配は100%に近く成功する.それ故自然においても,両者の混交地帯では容易に交配し,自然に生育し,あるいは植林樹中に混って生ずる可能性は高い.筆者の調査中においても数本のソメイヨシノの子孫と思われるものを発見したが,特に船原峠の植林の中に見られたものは,発見当時は子孫の1型と思ったが,今日では自然に合成されたものと考えざるを得なくなっている.第2表に船原吉野(フナバラヨシノ)として諸形質を記載したものがそれである.筆者の合成したものと比較するとぎ,ほとんど差異のないことが分る.
 結論として,ソメイヨシノはオオシマザクラとエドヒガンとの雑種F1であり,それが自然に発生したものならば,染井の植木師の庭と考えるよりも伊豆半島と考えるが至当であろう.しからば済州島のソメイヨシノ類似品はどうしてできたであろうか.恐らくエイシュウヤマザクラとエドヒガンとの雑種であろう.これについても目下研究中である.
 なお参考として記しおくことは,タケー氏が採集してフォーリー氏がもっていた標本(これと同じものにケーネ博士がPrunus yedoensis var.nudifloraと命名したのである)を,小泉博士は大正2年にソメイヨシノと同定された. この標本は今日京都大学に保存されているものと同一であるならば(恐らく同一であろう),この標本は大変いたんでおるけれども, 花托の形からして筆者はソメイヨシノと幾分違うと鑑定する. また小泉博士が済州島から昭和7年に採集されたものとも異なっている.つまり済州島ではエドヒガンとエイシュウヤマザクラ(多分)とが時おり自然交雑して,少しずつ異なるソメイヨシノ様のサクラを発生したものと推察される.なおソメイヨシノとエドヒガン,ソメイヨシノとオオシマザクラの交配実生も大きくなりつつあるが,前者4本の内2本はソメイヨシノ型であり,2本は典型的なエドヒガン型である.単性雑種の戻し交雑の場合の1:1と偶然にも一致するが,いずれにしても上記の証明の一端となるであろう。
 国立遺伝学研究所 細胞遺伝部長 理博