第10回生きてる会 in Takeshima, Gamagori
To Homepage(Uploaded 2018/6/12)
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第9回生きてる会

生きてる会19(2016年)

 6月10日、「第10回生きてる会」が挙行されましたので報告します。今回はちょうど古希に当たりましたので、竜美丘会館で行われた岡高同窓会を第一次会とし、次いで第19回生のみが蒲郡市の竹島ホテルに移動して第二次会を行いました。集合写真は既に福山君が一足先にアップロードしています。前日、たっぷりと飲んでいたはずなのに、翌日にはそのほかの画像もアップされていました。タフですね彼は、高校時代と変わりませんね。
 さて、今回、第19回生の同窓会は、母校のある岡崎市ではなく、蒲郡市竹島ホテルで行ったのですが、何か深い因縁が感じられましたので、前回に続いて蘊蓄を披露したいと思います。ホテルの前に藤原俊成卿の銅像があったのをご存知でしょうか。俊成卿は藤原定家の父親であり、藤原一族でありながら官位に恵まれませんでしたが、歌人として歴史に名を残し、京都の冷泉家はその末裔に当たります。この蒲郡になぜ俊成卿の銅像があるかと申しますと、一つに三河国司であったからです。第二に竹島に鎮座し七弁天の一つとして全国的に知られる八百富神社は、俊成卿が琵琶湖の竹生島の福神市杵島姫を分祀したことに由来しているからです。このことは一般によく知られていますし、八百富神社の資料館にも詳しく説明されています。しかし、俊成卿が三河国司に就任したのは1145年、三河には三年半滞在したとされています。一方、八百富神社が成立したのが1181年ですから、俊成卿が三河国司を退任してから30年以上も経ています。実は吾妻鏡に「元暦二年二月、熊野山領、三河國竹谷蒲形兩庄事、有其沙汰、當庄根元者、開發領主、散位俊成、云々」とあるように、1185年に俊成卿が荘園開発して領主となっており、その際に竹生島の弁天を分祀したのです。因みに、蒲郡という地名は蒲形と西郡が合併して成立したもので、竹谷・蒲形がその前身の古名です。蒲郡海岸から見る三河湾は周りを陸地に囲まれ、小さな島もありますので、琵琶湖と似ていると俊成卿は感じたのでしょうね、そんなわけで三河国司時代のよき思い出もあって、当地を選んで開発したのです。俊成卿が琵琶湖に愛着を持っていたことは平家物語の平忠度の逸話でもうかがうことができます。皆さん、覚えておいででしょうか、岡高1年の古文の教科書にその話の全文が載っているのです。忠度は清盛の異母弟ですが、俊成卿に師事した優れた歌人でもありました。しかし、晩年は源氏との戦いに明け暮れ、戦況が源氏側に圧倒的に優勢となるや、平家一門は都落ちを余儀なくされます。しかし、忠度はごく少数の従者を引き連れ、都へ戻って俊成卿の屋敷の門を叩き、面会を求めます。当時、平家一門は朝敵でしたから、面会が拒絶されることもあり得ましたが、俊成卿は忠度との面会を受け入れました。歌道における師弟の立場を優先し、大人の対応をしたわけです。忠度が大変な危険を冒してまで俊成卿に面会を求めたのは相応の理由がありました。俊成卿は、当時、勅撰集「千載和歌集」の撰集の途上でしたので、忠度は自分の歌を同集に収載してくれるよう頼みにきたのです。武将としてより歌人としての体面を優先させたわけで、俊成卿も心を打たれたのでしょう、忠度から百首あまりの歌を記した巻子を受け取り、勅撰集への収載を約束しました。ここで忠度は安心したのでしょう、「前途(せんど)程遠し 思ひを雁山の暮(ゆうべ)の雲に馳す」という大江朝綱の漢詩の一節を送って俊成卿に最後の別れを告げたのです。この漢詩は平家物語ではこの二節だけを引用していますが、この後に「後會期遥かなり 纓(えい)を鴻臚の曉の涙に霑(うるほ)す」とあり、渤海の使節にあてた別れの詩でした。当時、渤海は周辺国からの圧迫により滅亡寸前でしたので、忠度はこの漢詩こそ自らの心境を最もよく表すと考えたのでしょう。忠度は大変な教養人でもありましたが、結局、源氏との戦いに敗れ、1184年に戦場の露と消えてしまいます。俊成卿は忠度の歌として「ささなみや 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな」という歌を選び、詠み人知らずとして千載和歌集に収載し、約束を果たしました。やはり朝敵である忠度の名前を勅撰集に載せるのは憚れたのでしょう、当時の状況を考えればぎりぎりの選択だったにちがいありません。俊成卿が百余首の中からこの歌を選んだのは、「ささなみや」とあることでわかりますように、琵琶湖の存在が暗示されているからだと思われます。ほかに加賀国・遠江国・丹後国の国司も歴任していますが、その中でわざわざ三河国の蒲郡を荘園開発に選んでいるのは相応の理由があったはずで、やはり三河湾が琵琶湖に似ているからだと考えざるを得ません。遠江国にも内水の浜名湖がありますが、スケールが小さすぎて雄大な琵琶湖の趣を感じ取るには役不足ですね。岡高時代、熊谷先生(福山君によれば、かなりエッチな先生だったそうです)に古文を教わりましたが、忠度の都落ちだけで一時間も滔々と講義されました。よほどこの一節がお気に入りだったのでしょうね。ただ俊成卿と蒲郡との由縁についてはまったく説明されませんでした。八百富神社の縁起帳にも記載はありませんから無理からぬことです。この授業中、熊谷先生に質問した生徒が二人いました。一人はH山くんで、「ささなみ」を楽浪と漢字で書くのはなぜか、楽浪郡と関係があるのか、と質問しました。これに対して熊谷先生は そんなことは日本史の先生に聞け、と一蹴しました。因みに、楽浪郡は真番郡・臨屯郡・玄菟郡とともに漢王朝が朝鮮半島北部に置いた行政機関で、六朝時代までは中国領でした。奇しくも現在の北朝鮮は漢四郡にすっぽり収まりますから、中国は歴史的に中国領の一部と考えているのでしょうね。楽浪を「ささなみ」となぜ読むのか、私でもわかりませんが、細浪(ささなみ;琵琶湖は波が静かだから)というべきを昔の人が間違えて充てたのかもしれません。もう一人は漢文が大好きだったN・Hくんで、大江朝綱の詩の「前途」を「せんど」と詠むのはなぜか、と質問しました。これに対しては熊谷先生は細々と説明されましたが、日本語はいい加減な言語なのだよとおっしゃっていたように記憶しています。日本語の漢字の音読みに漢音と呉音があり、両方が混在しています。「前」は、通例、「ぜん」と読みますが、呉音に当たります。ですから、「途」を呉音で読めば「づ」ですから、「ぜんづ」になり、「づ」と「ど」は音韻的に近く訛りやすいですから、「ぜんど」が呉音による読みと考えてよいでしょう。一方、漢音では「前」は「せん」、「途」は「と」ですから、前途の漢音読みは「せんと」となるはずです。実際には、古典の読み・現在の読みともに呉音・漢音のハイブリッドとなっており、きわめてややこしいですが、これが日本語の現実なのです。古典を読んでいると、昔の人は随分といい加減な日本語を使っていたことがよくわかります。結局、熊谷先生はこれをいいたかったのではないかと思います。同じ漢字でも意味が違えば読みが異なることもあります。森本学園問題で流行語にもなった「忖度(そんたく)」はその一例です。「度」は漢音でも目盛り・渡る・ものさしなどの場合は「と」(「ど」は訛りです)と読みますが、推量するという意の場合は「たく」と読み、忖度は後者の例です。ただ、「度」は単独でこの意味で使うことはありません。忖度は中国紀元前の詩篇『詩経』・小雅に「他人有心、予忖度之」とあるきわめて古い漢語です。こんなカビが生えたような漢語を誰が引っ張り出したのか知りませんが、一般人を誤解させる恐れが高いので、私は使うべきではないと思います。こんな言葉を何の注釈もせずに得意げに使っているマスメディア・政治家は信用しない方がいいでしょう。
 われわれの同級生は9クラス×55人=495人いましたが、そのうち確認された物故者が34人もいるのだそうです。当然ながら物故者にはもう会えませんが、消息の不明な方が相当数います(生きてる会19HPの行方不明者リスト)。中には物故された方もいるかもしれませんが、もしその中に自分あるいは友人の名前があったのならご連絡ください。連絡先のメールアドレスは生きてる会19HPにあります。あるいは私のメールアドレスでもかまいません。
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