ユビキタス社会における薬剤師の役割とは?
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  1. 補足 (2004.9.30)
  2. 電子タグの実用化の可能性は?
  3. ユビキタス社会における薬剤師のあるべき姿は?

情報誌「class A Field Vol.21 2010 autumn」に取り上げていただきました。
 2003年8月のとある日、マニラから成田行きの航空便に搭乗していた。最近ではマニラ詣ではすっかり日常的になってしまったのであるが、この日はいつもとは事情が異なっていた。当日、座席がオーバーブッキングされていたため、特別にファーストクラスがあてがわれたのであった。奨学寄付金を使っての出張だが、学内の内規でファーストクラスは認められていない。当方の過失ではないため、エコノミー料金でファーストクラスのシートに座ることができ、待遇もVIPと同じであった。用意されている新聞や雑誌もエコノミークラスとは大きく異なり、ほとんどが日本経済新聞と普段は目にすることのないビジネス雑誌であり、大衆向け週刊誌は当方がリクエストしない限り読むことはできない。当方も新聞や雑誌のビジネス記事は目を通すこともありどちらかといえば興味がある方なのだが、さすがに今まで一度も読んだことのない雑誌が多くあった。その一つがここで紹介する「日経ビジネス」である。薬学の世界では、製薬関係を除けばまずこのような雑誌のトピックとなることはないのであるが、一般薬剤師にも無関心でおられない記事がこの雑誌に紹介されていたので紹介する。

1.ユビキタスネットワークは薬剤師のあり方を変えるかもしれない!

 「日経ビジネス」2003年8月25日号の98ページから107ページにわたって広告特集として「ユビキタス・ネットワークの展望」というタイトルの記事があった。ユビキタス・ネットワークとはコンピュータに限らず家電など身の回りの機器にコンピュータチップを搭載して全てネットワークで接続し、その利便性を活用して生活の質をより向上させようというもので、それ自体はこれまでにいい尽くされており特に目新しいものはない。しかし、坂村健東大大学院教授が推進するユビキタスプロジェクトは超小型チップを用いるもので、その応用法はこれまでのバーコードに替わる電子タグ(ICタグともいう)として利用することが挙げられている。電子タグが従来のバーコードと根本的に異なるのは、プロセッサとメモリ、超小型無線アンテナを搭載しシステムとして坂村教授が開発したトロンが組み込まれ独立に動作するものであり、それ自体が他のデバイスと通信する機能をもつ超小型コンピュータという点にある。ICタグは他のデバイスとの電磁誘導で生じる電力を動力源としており、実用化されている例としてJR東日本のSUICAがある。既存の技術でも数ミリ以下の大きさにとどめることが可能であり、既に試作品(ユビキタス・コミュニケータと称されているもの)による試験的運用が行われている。坂村プロジェクトに参加する企業は日立製作所など国内外の大手の電子機器メーカーであわせて450社に達する。当初は、BSEや細菌による汚染で著しく消費者の信頼を失った生鮮食品や加工食品に電子タグを取り付け、流通過程における追跡を可能(traceable)にして「食の安全性」を高めることを計画していたようであるが、コストの観点から食品業界や小売業界が難色をしめし応用は進んでいない。そこでプロジェクトチームは単価の高い医薬品に目をつけ、推進を図っているようである。右が「日経ビジネス」誌の坂村教授の記事(クリックすると拡大画像になる)で、タイトルは「超小型チップが日本の将来を変える」である。ここにつぎのように書かれていた。

「実際のデモとして、例えば電子タグの薬への応用がある。電子タグを貼付けた薬にユビキタス・コミュニケータ(現在は第3世代携帯電話をベースに開発したもの)を近づけると、薬の効用や用法、服用期限などを音声で説明する。これは、電子タグがコミュニケータから受けた電波を電力として薬のIDを電波で返し、コミュニケータがそのIDをサーバーに問い合わせて薬の情報を入手し、音声で読み上げるという仕組みになっている。」

 これを読んで動揺しない薬剤師は皆無ではあるまいか。いるとしたらよほどのIT音痴か、利権団体の政治的圧力で何とでもなると考える時代錯誤の人物であろう。薬剤師の業務でもっとも期待されていることは「服薬コンプライアンスの徹底と向上」にあることはいうまでもなく、その結果、薬科系大学の6年制が平成18年度からスタートすることになったはずである。しかし、電子タグとユビキタス・コミュニケータの普及で薬剤師の立場を揺るがしかねない状況が間近に迫りつつあるのである。試作品のユビキタス・コミュニケータは電子タグの読み取り専用機であるが、携帯電話との一体化も技術的には可能であろう。最近の電子チップの高密度化は著しく、デジタルカメラのメモリーカードも最新のものでは4~16GBと高容量であり、5~6年前ならミドルクラスのパソコンのハードディスク容量に匹敵するものが小さなデジタル機器に組み込まれているのである。ドッグイヤーという言葉が表わすように、この業界の技術革新のスピードは想像を絶するものがある。したがって、小さな携帯端末に高い処理能力をもつCPUとメモリ、それにインターネットを介した無限の電脳情報空間に接続する機能を組み込むくらい決して難しいことではないのである。携帯電話もいつのまにやらデジタルカメラ、デジタルビデオと化し、それをメールで送ることもできるようになった。携帯端末にちょっとしたソフトを組み込んでおけば次のことを実現するのは現在の水準でも決して困難ではないのである。

  1. これから服用する薬あるいはこれまでに服用した薬が相互作用があれば警告を発することができる。
  2. 複数の薬剤を時間シフトで服用するとき、携帯端末の時計機能を利用すればどの時間にどの薬を飲むべきか指示できる。さらに、アラームで指定の時間に服用する薬を通知できる。
  3. 正しい量の薬を服用しているかどうか、処方箋袋(箱)中の薬の在庫管理を電子タグと携帯端末との通信で行うことができる。

 以上のことは、服用するとき、必ず携帯端末を近づけて情報通信する習慣をつけさえすれば、また飲み合わせてはいけない薬の情報、服用スケジュールをあらかじめ電子タグに書き込んでおけば、決して難しいことではなく、複雑な服薬スケジュールでのミスも回避できる。音声だけでなくモニター上にも情報の表示が可能であり、また携帯端末以外の機器、たとえばパソコンでもマルチメディアを利用した表示は可能である。機器の操作はいたって簡単であり、介護の必要な重篤な疾病の患者の在宅医療でも介護者が代行すればよいし、病院など医療機関でも医師や看護師にとってこれまでの業務の省力化になろう。薬局で購入したOTCオーティーシーOver The Counterの略、医師の処方箋無しで薬局のカウンター越しで入手できる薬剤の総称)についても同様で、これまで服薬指導と称して薬剤師が行ってきたことは電子タグと携帯端末で代行できるようにみえる。このような状況にあって薬剤師は何をすべきか真剣に議論する必要があろう。

2.電子タグの実用化の可能性は?

 さて、以上述べた電子タグは実用化されるだろうか?いくら便利な機能でもコストがかかりすぎれば実用化はされないだろう。コストは電子タグの広範な普及による量産効果で1個当たり5円程度までは可能という。電子機器がモデルチェンジするたびに高機能化と低価格化を実現してきたのは承知の事実であり、コストは克服できると見た方がよさそうである。ここでは別の視点からも電子タグを巡る世界的な動向について考えてみよう。
 電子タグは、当初、流通業界での応用を意図したものである。電子タグの実用化に熱心なのは必ずしもわが国だけではなく、アメリカも力を入れている。アメリカではマサチューセッツ工科大学や産業界が中心となってEPCグローバルという組織が世界標準化を進めている。しかし、日米間には電子タグの利用に相当な意図の違いが見られる。アメリカではウォルマートのような流通業者が商品の盗難を防ぐため、あるいは9.11同時多発テロ以降では空港などでのテロ防止のための荷物チェックなどセキュリティシステムとしての普及が意図されており、相当離れたところに置いた端末でも読み取れるように規格されている。一方、坂村教授を中心とするわが国の推進グループは商品などの使用方法、仕様を伝える媒体として位置づけられており、従来のバーコードに替わるものとして形態端末での読み取りを前提としている。したがって、両規格では通信に使用する電波の種類が異なり互換性は全くない。意外なことに、わが国でも経済産業省が中心となって「響プロジェクト」を組織してアメリカのEPCグローバルを推進しようとしている事実があり、こちらの方も多くの企業が参加している。トロンが組み込まれた坂村教授の純国産の電子タグではなくEPCグローバルを推進する論拠として、経済産業省は国際標準化機構(ISO)がEPCグループとともに規格を統一化することが具体化し、今年中に規格が提案されることになっている点を挙げている。しかし、これにより坂村プロジェクトの実現性は弱まったと見るのは早合点であろう。前述したように電子タグにはOSが搭載されている。坂村プロジェクトのトロンはマイクロソフトの基幹OSウインドウズと比べて1000倍も応答速度が速く、いわゆるデジタル家電に搭載するシステムLSIとしてトロンはNo.1の実績をもつ。このチップとしての優れたパフォーマンスに対して世界最大のコンピュータソフトウエア製作会社マイクロソフトはトロンの上で動作するミドルウエアの開発を宣言しており、坂村プロジェクトも大きな期待を寄せている。このことは坂村プロジェクトの電子タグの潜在力の高さを示唆するものと見てよいだろう。因みに、EPCグローバルの規格ではLinuxが搭載されると考えられているが、仮に、EPCグローバル規格が世界標準となったとしても一般の流通商品や交通機関への持ち込み荷物への応用、すなわち盗難やテロの防止が主とされる。セキュリティを念頭においた電子タグと情報伝達の媒体とする電子タグでは通信するデータ形式や携帯端末での処理ソフトは全く異なり、EPCグローバルの電子タグは坂村プロジェクトが実現しようとしている多様な情報のやり取りには適していない。したがって、坂村プロジェクトが医薬品を対象として実現しようとしている利便性が、一般の支持を得られるようであれば、坂村プロジェクトの推進が加速する可能性も考えられる。究極的には、医薬品流通において電子タグが採用されるか否かは国際標準となるかどうかではなく、流通過程におけるコストの削減に役立つかどうかであろう。現在では、薬局、ドラッグストアでは薬剤師の常駐が法律により定められているが、一方で「マツモトキヨシ」や「ドンキホーテ」では現時点ですらその規制緩和を求めている(つまり、薬剤師をおかなくてもよいようにしろということ)。電子タグは、薬剤師の主要な業務を代行するポテンシャルを秘めているだけに、医薬品流通業界の規制緩和の大合唱の追い風ともなりかねないことを薬剤師は覚悟しておく必要がありそうだ。

3.ユビキタス社会における薬剤師のあるべき姿は?

 本ページに関連する記事が朝日新聞朝刊(「同盟経済14:ICタグ国際標準を狙う」、2004年7月25日)に掲載されていたことを付記する。この記事が一年前の「日経ビジネス」誌の電子タグの記事を思い出させ、本ページを執筆した次第である。バブル経済の崩壊後、失われた10年(15年か?)の間にデフレ経済で大きな傷を負った世界第2位の経済大国は内需の拡大に躍起であることを知らない人はいないだろう。このような経済状況で電子タグの普及は産業界にとって大きな需要を掘り起こす起爆剤として期待されている。一方、経済効果という観点からは薬剤師の存在はあまりに軽微といわざるをえない。薬剤師が多少増えたところでその経済的波及効果は産業の振興と違って裾野が非常に狭いからである。とりわけ経済の構造改革論者は声高に電子タグの早期導入を迫るだろう。抵抗勢力として政権党に対する薬剤師会のロビー活動で封じ込めることも可能かもしれないが、2004年7月の参院選挙では薬剤師会は組織内候補を当選させることはできなかったので力不足の感はまぬがれまい。自らの利益を守るためだけに抵抗するのであれば一般国民の支持、理解は得られないだろう。また、薬剤師会も決して一枚岩ではない。薬剤師の中には薬局の経営者もいるからだ。彼らは利益を確保するという企業家としての論理を優先させ、電子タグの導入に積極的になるかもしれない。特に複数の店舗を有する薬局チェーン・ドラッグストアでは電子タグの導入が更なるビジネスチャンスとみて業務の拡大を目論むこともあり得る。さらに薬剤師という職能に固有の問題もある。腕のいい医師、評判のよい医師はいるが、腕のいいあるいは評判のよい薬剤師というのは聞いたことがない。それは患者に対して薬剤師は顔がない存在であるからに他ならない。最近の大病院では病棟薬剤師といって患者や親族に対して服薬の説明が行われている。筆者の母親は2年前脳血栓でこの世を去ったが、1ヶ月ほど寝たきりの状態で病床数600の大病院に入院した。病棟薬剤師による服薬の説明は筆者が受けた(薬系大学教員の身分は隠したままであったが)。同室の他の患者やその親族も同様な説明を受けたが、コミュニケーションは一方的で患者や親族からの応答といえるほどのことはなかった。ところが担当の医師や看護師に対してはがらりと態度が変わるのがありありと見えた。筆者は1週間泊まり込みで付き添ったのでつぶさに観察する機会があったが、他の病室でも同じ傾向であった。医師や看護師は常に患者と正面から向き合い顔が見えるから薬剤師よりはるかに存在感がある。それに対して薬剤師は普段は顔の見せ場がない。この点を改善しない限り医師や看護師の半分程度の存在感でも患者側に示すのは困難だろう。6年制では半年~1年程度の病院実習が義務づけられるが、医師、看護師に負けないという意気込みをもって顔をもった存在感ある薬剤師を養成する必要があろう。
 雇用の厳しい状況が続く中で、今、薬剤師の求人は好調である。しかし、薬剤師のライセンスに対する求人であって、顔の見える薬剤師への求人ではない。規制に守られて創出されたライセンスに対する求人なのである。そのような中で、薬科大学・薬学部の新設は止まることを知らないようであり、まさにバブルそのものである。これでは一般国民からは薬剤師の粗製濫造と受け取られかねない。2年後には薬剤師会が望んだ6年制も発足するが、一般国民の支持を本当に得て顔の見える存在になるかどうかが問われることになる。さもなければ、電子タグの普及で薬剤師の職務の空洞化が進行するだろう。薬系大学に籍を置く身として電子タグの動向および薬系大学の新設に伴う薬学生の大量生産は将来の大きな不安となって筆者を毎日悩ませている。薬剤師あるいは医療機関で働く医師、看護師の諸兄諸姉はいかがお考えだろうか。



ドッグイヤーとは?
 イヌの寿命はヒトの約7分の1なので、イヌにとって時はヒトの7倍の速さで流れているように見える。コンピュータも年単位で考えると動作速度、搭載メモリサイズが何倍というスケールでモデルチェンジされる。その他の産業と比べてコンピュータ業界の技術革新が凄まじいことからそれを形容する言葉として「ドッグイヤー」がつくられた。