今日はブログ感覚で気楽に意見を述べて見たいと思う。今年の夏は久しぶりに2回の海外出張が重なった。1つはメルボルンでの国際植物学会議(XVIII IBC)、もう1つは毎年定例となったフィリピン出張である。国際植物学会議については別の機会に譲るとして、ここではフィリピンでの話題をとりあげたい。
フィリピン出張はもう20回以上を数える。これだけ長いつきあいだと必然的に友人との交流は深化する。しかしながら、ここでとりあげる話題はごく他愛ないもので、タクシーに乗っている最中にたまたまOspital ng Maynilaという小さな看板を見つけたことから始まる。フィリピン版湾岸道路というべきロハス大通りとキリノ通りの交差点付近にあり、マニラで常宿とするホテルの真向かいにあるが、これまで気づくことはなかった。現地では一般にManila Hospitalといわれているのであるが、フィリピン語でいうとこうなるらしい。特に興味をもったのは Maynilaであり、綴りからManilaと関係があるのはいうまでもないが、一応、共同研究者であるフィリピン国立博物館の友人に問いただしてみた。それによると、マニラの地名の由来は「niladという植物が生えているところ」という。すなわち、mayは「ある」という意味の動詞のようで、niladと複合して訛ったのがManilaとなったといい、本来はマイニーラと発音するのが正しいらしい。因みに、niladとはScyphiphora hydrophyllaceaというマングローブに生える植物で、現在のマニラのある地域には広大なマングローブがあったらしい。首都圏全域がほとんど高低差のない平坦地であって、マニラ湾に向かって流れる川がいくつかあるので、マングローブがあったことは間違いないようだ。港として優れた立地条件からマングローブを埋め立てて町の建設が始まったらしい。地名といっても自然環境の状態を表現したにすぎないが、北海道の地名も似たようなものが多いことに気づく。世界遺産で有名になった知床は、アイヌ語のsir-etok(アイヌ語は文字を持たないが、アルファベットで表記するとこうなるらしい)に由来し、「大地の果て」が本来の意味であることはよく知られている。現在の知床の地名はそれを和人がシレトコと訛ったものである。樺太にも同じ地名があるというから、アイヌ人は固有名詞として使っていたわけではなさそうだ。北海道にはこのようなアイヌ語由来の地名が多くあるが、フィリピンにもフィリピン語由来の地名が多く残っており、それも自然の風物に深く関係していて固有名詞らしくないのが面白い。しばらくご無沙汰しているが、パラワン島にはNarraという小さな町(村といったほうがよいだろうか)がある。この地名の由来は当地にシタンPterocarpus indicusの木がたくさん生えていたからだという(因みに現在ではほとんど見当たらない)。すなわち、シタンのフィリピン語名がNarraということである。Narraはそのスペルからすればナッラ、ナーラと読むように見えるが、現地人の発音はずばり「ナラ」、奈良とほとんど変わらない。 Manila、Narraのいずれもフィリピン語に由来する名であるが、フィリピンにはもともと文字はなかったので、アルファベットで表記されるようなったのは約400年前に始まったスペイン統治以降である。すなわち、Manila、Narraのスペルはスペイン人のアクセントが反映された結果といってよい。北海道で、文字を持たないアイヌ人の呼称を日本語で表記した結果、和人の訛りが反映されたのと同じことである。
では、その他の世界の地名はどうであろうか。アメリカはもともとモンゴロイド系の通称アメリカンインディアンの居住地であったが、現在の地名で原住民の言語に由来するものはごくわずかで、少なくとも中西部以東はことごとく欧州系の地名ばかりである。これは比較的短期間に欧州から大量の移民が押し寄せ、原住民の居住地を略奪的に占有した結果と考えて良さそうである。オーストラリアも同様で、例えば出張で訪れたメルボルンでは市内中心部を流れる川の名前(Yarra River)を除いてアボリジーン語に由来するような地名は見当たらない。つまり、フィリピン・北海道と北米・オーストラリアでは地名の由来に大変な違いがあることになる。なぜこのような差が生まれたのか、歴史学ではどう説明されているか詳細は知らないが、ある程度の推測は可能である。フィリピン群島は大航海時代にスペインの植民地となったが、本国から遠隔の地であったため、スペイン人の入植はごく限られていたことは現在のフィリピン人の中でスペイン系の割合が少ないことから明らかである。このような状況では植民地の経営は圧倒的多数を占める原住民との平和的な共存を前提に進めざるを得ない。その過程で現地語を反映した地名がつくられたと推察される。北海道でもほぼ同様で、アイヌ民族の居住地に本州の和人は長い時間をかけて入植したのであって、大挙して押し寄せ占領したのではない。北海道の地名の多くにアイヌ語由来のものが残されているのは和人とアイヌ人との関係がスペイン人とフィリピン人との関係がよく似ていたからに他ならない。
1980年代に「日本の中の朝鮮文化」という本が注目を集めたことがあった。この本では日本各地の地名の多くは朝鮮語に由縁があると説明され、これをそのまま鵜呑みにし信じている邦人も少なくない。日本列島に古くから住む人がいることは明らかなはずなのに、非居住民の言語が地名に反映されているとすれば、北米・オーストラリアと同じ状況が古代日本に起きたことになる。すなわち、朝鮮半島の民族が日本列島を占領して列島人を服従させたと考えなければ説明できないのである。かつて江上波夫教授の騎馬民族征服説が一世を風靡したことがあったが、本書の著者である金達寿氏はどうやらその熱烈な支持者であったらしい。仮に朝鮮半島の民族が日本列島に大挙して押し寄せたとすれば、日本列島の在来文化とは本質的に異質である朝鮮の文化の痕跡が残っているはずだし、当然、言語にも大きな変化が起きたにちがいない。しかし、それを示唆する証拠はこれまでに見つかっていないし、おそらく見つかる可能性は限りなく低いであろうから、金達寿氏の説は観念的な空想の産物以外の何物でもないことになる。したがって、金達寿氏の論考プロセス自体がきわめて杜撰であったといわねばならないのである。
フィリピンの地名の話題からとんでもない方向に飛んでしまったが、金達寿氏の説を受け入れる人が少なくないのは、日本列島と朝鮮半島が地理的に近いため、文化的に近縁のはずだと錯覚しているからであろう。実は日本列島と朝鮮半島の自然環境・風土には想像以上の違いがあり、このことを知る人は意外に少ないのだ。3.11の東日本大震災は大変な被害をもたらしたが、日本列島は世界の地震の10数パーセントが集中するホットスポットであるのに対して、朝鮮半島では地震が起きたことは聞いたことがない(中国では時々大地震が起きるが)。また、火山も世界の10パーセントを占有し、頻繁に爆発を起こすが、朝鮮半島には皆無である。台風も日本列島に頻繁に上陸するが、朝鮮半島は暴風圏に入ることすらまれである。日本列島は脊梁山脈の北側と南側、昔流の言い方をすれば裏日本と表日本では気候が大きく異なるが、朝鮮半島は北から南まで緯度による連続的な変化があるにすぎない。日本列島は湿潤気候で、雨量の多少はあれ、年間を通して雨が降るが、朝鮮半島では夏に集中して雨量があり、冬季は乾期といってよいほど乾燥する。その結果、植生も対馬海峡を挟んで大きな違いがある。東北南部以南の日本列島の低地の潜在植生は常緑の照葉樹林であるが、朝鮮半島は最南部海岸沿いを除いて落葉樹林帯である。日本列島は北から南までどこでも森林が発達する環境であるから、森林を伐採しても植生遷移が進行していつかは森林が再生する。10数年前に大爆発を起こした九州普賢岳はうっそうとした森林に被われていたが、その200年ほど前にも大規模な爆発で森林が破壊された事実がある。すなわち、森林が再生するのに200年以内とことになる。一方、朝鮮半島では森林を一旦伐採すると自然状態では森林の再生が困難である。かつて朝鮮半島のいたるところにはげ山があったのはそのためである。一般に、日本の自然環境条件の方が朝鮮半島よりはるかに厳しいので、日本で生活するには独自の工夫が必要で、適応は容易ではない。むしろ、地理的に離れた中国揚子江流域以南の方が日本の風土にずっと近く、中国荊楚地方の風習であった正月の七草がゆ、端午の節句の菖蒲湯などが日本に導入されたのも気候風土が類似しているからである。日本国内でも北海道と本州は津軽海峡を隔ててごく近傍にあるが、アイヌ人と和人の風習の隔たりはいわずもがなである。したがって、日本と朝鮮の相互の関係が思ったほど濃くなくても全く不思議ではなく、文化の源流を朝鮮半島に求める必然性は全くないのである。日本でも東北地方以北や山岳地帯の冬季は寒冷にもかかわらず、朝鮮半島にはごく普通にあるオンドルが日本に全くないのは、日本における朝鮮文化の影響が意外と小さい証拠といえるだろう。
科学の世界では先入観は禁物であるが、世の中にはろくに調べもせず推測だけの論調が目立つ。特にメディアに著しい。筆者もかつてあるテレビ局から正月の七草がゆの行事についてコメントするよう依頼されたことがあった。驚くことに七草の植物それぞれがくすりであることを前提にして健康維持に役立つことを強調して欲しいとのことであった。いわゆる七草は麦作農耕に付随して渡来した帰化植物であって、いずこの国でも確かな薬用情報に乏しい。わが国の古代には、山部赤人の名歌「明日よりは春菜つまむと標(しめ)し野に昨日も今日も雪は降りつつ」にあるように、若菜摘みの風習があった。新暦でいえば2月から3月に相当する時期は食べられるものを探すのが大変であり、七草のような雑草も旬の野菜として食べたことを示唆する。もし薬用であれば、一年の一定の時期に限って使うというのは、実に奇妙といわねばならない。病気はいつやってくるかわからないからだ。七草を乾燥すれば、長期にわたって保存することも可能で、いつでも服用が可能であるが、それを示唆する文献的証拠はない。したがって、七草は薬用に用いられたことはないといってよい。同様に、屠蘇散(お屠蘇)も正月以外に飲むことはないから、薬用ではないのである。メディアがかかることに固執するのは世間の健康ブームがあるからであろうが、昔の人は七草がゆを健康維持のために食べたというのは、飽食の時代を生きる現代人の勝手な推測にすぎない。健康科学の専門家を標榜する人(真の意味で研究者といえるのかあやしい場合が多いが)の中には、エビデンスに乏しいにもかかわらず、季節の食材を推測や勝手な解釈で如何にも効果がありそうに主張することがある。それこそ典型的な偽科学であって、こうした輩が跋扈するのはそれに一喜一憂する世間の風潮があるからである。話がとんでもない方向に飛んだようにみえるが、金達寿氏の「日本の中の朝鮮文化」に書かれていることと妙な共通性があることにお気づきだろうか。ここで書かれていることは一本の糸でつながっているのだ。ただ、最初と最後はとんでもなく乖離した話題ではあるが。