【要約】:ススキとオバナはともに万葉集に出てくる古い名前で、植物名として1300年以上の歴史がある。両名ともイネ科のMiscanthus sinensis Anderssonであり、今日の分類学ではススキを正名としている。万葉集ではほぼ同数の歌に詠まれ、ススキが17首、オバナが19首となっている。ススキに酷似した種としてオギM. sacchariflorus (Maximowicz) Franchonがあり、興味深いことに、オバナと同じ「オ(ヲ)」という音節をもつ。日本語の古語で「オ(ヲ)」は終末、端などの意味があり、神道でよく用いられる神具の幣(ぬさ)に由来する。幣は神木の枝に麻ひもをつけたものであり、アサの古名を「ヲ」というのはこれによる。オギ・オバナの名の由来は花期の形態を幣に見立てたことによる。 一方、ススキの語源はオバナとは全く無関係である。すなわち、植生学的にススキが優先する草原の野焼きの結果として生じる焦げた茎(煤茎)に由来する。これに関しては、平安時代の和歌で「すぐろのすすき」を詠ったものがあり、それがヒントとなった。「すぐろ」とは末黒のことであり、煤茎の同義であるから、これからススキの語源が導き出された。おそらく、野焼きによって焦げたススキ(末黒)は、当時の日本において、もっとも目立つ早春の風物詩であったに違いない。
TITLE: On distinction between Ogi and Obana, closely related species belonging to the genus Miscanthus, in the acient literatures and etymology of Susuki, a synonymous Japanese name for Obana●はじめに
SUMMARY: Both Susuki and Obana appeared in Man’yo-shu, the earliest extant anthology of Japanese verse, and thus one of the oldest names among Japanese plants dated back to at least 1300 years ago. These two names account for the same plant assigned to Miscanthus sinensis Andersson (Poaceae), and Susuki is used as an official Japanese name in current taxonomy. Susuki and Obana are found almost equally in Man’yo-shu with the former counting 17 and the latter 19. What is closely related in appearance to Susuki is Ogi, M. sacchariflorus (Maximowicz) Franchon, and interestingly enough, has the same syllable “o (wo)” as Obana, a synonymous name of Susuki. What is termed as “o (wo)” in a Japanese archaism linguistically means terminal, end and so on. The origin of “o (wo)” in Obana and Ogi is attributable to “nusa” that is a tool used commonly in Shinto rituals. Nusa is composed of a stick of a sacred tree (Sakaki; Cleyera japonica Thunberg, Theaceae) to which hemp yarns are attached. That is the reason why the ancient name of hemp is “o (wo)”. Names of Ogi and Obana were derived from the similarity of nusa to matured ears of both plants. As for the etymology of Susuki, it has nothing to do with Obana. The name Susuki is not derived from its distinctive figures but from its charred stems generated by the burning-off of a meadow in which it occurs as a dominant species of bionomics. Hints on this matter occurred in tanka poets (和歌)of the Heian period which took up the word “suguro-no-susuki” as a seasonal phrase. “Suguro(末黒)” means the charred top of stems, from which the name "Susuki" can inevitably be deduced, since “suguro” is literally equivalent to “susuki(煤茎)”. This may indicate that the charred Susuki must have been regarded as most highlighted in a burnt-off desolate field giving a poetic touch to a Japan’s early spring scenery.
オギ(ヲギ)とススキは、万葉集など上代文学にも出現する古い歴史をもつ植物名である。分類学的にはイネ科(Poaceae)の同属植物であり、前者はMiscanthus sacchariflorus (Maximowicz) Franchon、また後者はM. sinensis Anderssonに対する和名の正名として今日でも用いられている。万葉集を例に挙げると、ススキの名を詠う歌は17首あるが、通説では同物異名とするオバナ(ヲバナ)は19首とやや多く、併せて36首に登場する註1。一方、オギはわずか3首にすぎない。オギとススキの外部形態は酷似し、植物の専門家以外には区別は難しいとされる。したがって、古典文学においてオギとススキが実際に区別されていたかどうか疑問が起きてもおかしくはない。また、ススキの別名であるオバナとオギはいずれもオ(ヲ)で始まる名であり、語源の観点から何らかの関係が想定されてもおかしくはない。実際、江戸時代後期の考証家である屋代弘賢はオバナをオギの花と解釈してススキとは別種としている(『古今要覧稿』)。しかし、その一方でススキ・オギを表す総名ともするなど、その見解が一貫性に欠けることは否めない。本論文では古典文学および本草学においてオギとススキの区別ならびにススキの異名であるオバナの名がいかなる経緯で発生したのか詳細に考証することを目的とする。
●古代でオギと区別が難しいとされたのはススキではなくアシであった万葉集ではオギを詠う歌は次の三首である。
神風の 伊勢の浜荻 折り伏せて
神風之 伊勢乃濱荻 折伏
旅寝やすらむ 荒き浜辺に
客宿也將爲 荒濱邊尓
葦辺なる 荻
の葉さやぎ 秋風の
葦邊在 荻之葉左夜藝 秋風之
吹き来るなへに 雁鳴き渡る
吹來苗丹 鴈鳴渡
妹なろが 使ふ川津の ささら荻
伊毛奈呂我 都可布河泊豆乃 佐左良乎疑
あしと人言 語りよらしも
安志等比登其等 加多理與良斯毛
いずれの歌でも荻の生態環境を示す情景が詠い込まれており、「伊勢の浜荻」、「葦辺なる荻」、「川津のささら荻」がそれに相当する。これらから浜辺や水辺に荻が生えているのが想定され、荻が水気を好む環境に生えるオギであることに疑問の余地は全くない。第三の東歌は難解の歌であるが、アシを「悪し」に掛けて「オギをアシだと人々は悪しざまに語り合っているらしい」という内容であるから、オギはむしろイネ科別属種のアシPhragmites australis (Cav.) Trin. ex Steud.[に似たものと考えられていたことを示唆する点で興味深い。住吉社歌合(嘉応二年)に「この神風いせしまには、はまをぎ(浜荻)となづくれど、なには(難波)わたりには、あし(葦)とのみいひ、あづま(東)のかたには、よしといふがごとくに云々」とあり註2、『袖中抄』などの歌学書もこの見解を支持しているので、浜荻はアシを示す伊勢地方の方言と解釈されたこともあった。オギの方言名にオギヨシ・カナヨシ・カワヨシなどヨシの名で呼ぶものがあるのも事実であるが、歌では浜荻を折り伏せて旅寝(野宿)するとあるから、挺水域・湿地に生えるアシではあり得ず、やはりより水辺から離れて地表が乾燥するところに生えるオギでなければならない。第二の歌で「葦辺なる荻」とあるように、アシ・オギは池沼の岸辺、河川下流域の川辺などにアシ-オギ群落を形成して生える。すなわち、水辺の挺水域から湿地帯ではアシが地中に根茎を伸ばして群生し、陸地側のやや離れた後背地で比較的地中の水気が多いところにオギが生え、アシと同じように地中に根茎を伸ばし生育域を広げる。したがって、アシ・オギは川や池沼の水辺を挟んで帯状に生え、境界域では混生することもあるので、上中古代人にとっては同じような場所、具体的には川や池沼沿いの草原に生える植物として認識され、両種を区別することは難しかったと想像される。オギ・アシはともに茎が堅くなるので、萱葺き原料として重宝され、実用上では特に意識して区別する必要性が薄かったことも理由の一つに挙げられるかもしれない。前述の浜荻は浜辺に近い川辺のアシ-オギ群落のオギを指したものと考えるのが妥当であろう。一方、ススキは乾燥した地を好んで生え、オギと生態的に重複することはない。また根茎がほとんど伸びず株立ちとなるので、オギとは草原での群生の形態に大きな違いがある。俗に「川原の枯れすすき」というが、実際の川原に大群生するのはほとんどオギであって、一般にはこれをススキと誤認されることが多い。万葉集にある36首のススキ・オバナの歌の中で、水辺を示唆する情景は見当たらないので、オギとススキの混淆はなかったといってよい。現代人の目からは考えにくいことであるが、形態ではなく生育する環境によって植物を区別することがあったことも示唆しており、古代人による植物種の区別という観点から興味深い。
オギに対する漢名は荻であり、万葉集でも3首中2首にこの名が用いられている。やや湿り気のある草原に普通の植物であり、カヤクサとして広く利用されるにもかかわらず、中国本草においては独立の項目として扱われることなくアシに含められてきた。中国本草におけるアシの初見は『名醫別錄』であり、『證類本草』の蘆根(アシの根)の条では、『圖經本草』を引用して、次のように記述している。
按ずるに、爾雅は蘆根を謂ひて葭華と爲す。郭璞は云ふ、蘆は葦なり、葦、即ち蘆の成したる者、蒹を謂ひて 廉と同じなり と爲す。は萑 音桓 に似て細く長く、高さ數尺なり。江東人呼びて藡 荻と同じなり と爲す者は菼 他敢切 と謂ひて 五患切 と爲す。は葦に似て小さく、中は實にして、江東呼びて烏蓲 音丘 と爲す者は或は之を荻と謂ふ。荻は秋に至りて堅成し、即ち之を萑と謂ひ、其の華は皆苕 從彫切 と名づく。
すなわち、アシに対しては今日でも用いられる蘆・葦・葭の3字のほかに・萑・菼・・荻・苕なる地方名らしき名があることを示している。『爾雅』に「葦の醜は芀なり。(郭璞注)其の類は皆芀秀あり。(郭璞注)葭華は即ち今の蘆なり」とあり、また、『説文解字』によれば、「葦は大葭なり。(中略)葭は葦の未だ秀でざる者なり」、「薕は蒹なり。蒹は雚の未だ秀でざる者なり」とあるように、アシの成長状態をそれぞれの字で区別しているようにみえる。但し、その区別は各書によって様々であり、あまり当てにはならないようである。本草書でも各書を引用することが多く、たとえば毛萇の詩疏を引用した『本草綱目』は、「葦の初生を葭と曰ひ、未だ秀でざるを蘆と曰ひ、長成せるものを葦と曰ふ」と記述している。おそらく荻もアシの初生から堅成に至る過程の一型とされたのであろう。実に複雑であいまいな用字というしかないが、中国でもアシとオギは区別しにくいものとされ、またしばしば混淆されたことが推定されよう。しかし、『爾雅』、『説文解字』のいずれにも「荻」はなく、『本草經集注』にもその名を見ない状況の下でなぜ万葉集に「荻」の用字があるのか不思議に思える。『藝文類聚』に引用される詩文註3に「荻」の名が出てくるので、古代日本はこれらをもとにオギの用字として荻を選定したと思われる。
●オバナはススキの花を指す名である今日の通説では、オバナはススキの花に特化した名とされている。前述したように屋代弘賢はオギの花と解釈したが、万葉集では次の第一・二の歌にあるように、ハギほか草原の草花の歌枕としてしられる春日野・高円野に生えている用例から、湿り気のある地を好むオギには合わないことは明らかである。
夕立の 雨降るごとに 春日野の
暮立之 雨落毎 春日野之
尾花が上の 白露思ほゆ
尾花之上乃 白露所念
高円の 尾花吹き越す 秋風に
多可麻刀能 乎婆奈布伎故酒 秋風尓
紐解き開けな 直ならずとも
比毛等伎安氣奈 多太奈良受等母
さ雄鹿 の 入野のすすき 初尾花
左小壮鹿之 入野乃為酢寸 初尾花
いつしか妹が 手を枕かむ
何時加妹之 手将枕
はだすすき 尾花逆葺き 黒木もち
波太須珠寸 尾花逆葺 黒木用
造れる室は 万代までに
造有室者 迄萬代
また、第三・四の歌では、(ハダ)ススキとオバナが重出し、(初)尾花をススキの花が開いて穂をつけたものと解釈できるから、オバナはススキの同品異名であって花に特化した名称とする通説は妥当と考えられる。したがって、ススキには全く音韻関係の異なる2系統の名があることになる。
集中で単にススキとあるのは17首中で6首と半数にも満たず、ハナ、ハダあるいはハタの名を冠したものが圧倒的に多い。皮爲酢寸(3例)・波太須珠伎(1例)・波太須酒伎(2例)・者田爲々寸(1例)・波太須酒吉(1例)のように「はだすすき」とあるもの、旗芒(1例)・旗須爲寸(1例)のように「はたすすき」とあるもの、そして波奈須爲寸(1例)と「はなすすき」とあるものがそれに相当する。ハナススキについては、一部の写本に奈を太の誤認と見てハダススキとするものがあり、ハダススキに同じとする見解がある。しかし、『古今和歌集』の「今よりは 植ゑてだに見じ 花薄 穂にいづる秋は わびしかりけり」(二四二、平貞文)をはじめ随所に出てきて、『和名抄』にも「新撰萬葉集和歌云 花薄 波奈須須岐」とあるので、ヲバナと同義の「花ススキ」と考えるべきだろう。「はたすすき」は穂が出て旗のようになびくススキと解釈されている。一方、「はだすすき」については定説がないが、『冠辭考』註4はススキの花穂が開出する前の状態を指すとしている。すなわち、日本では、中国のアシ・オギほどではないが、ススキの異なる成長過程の状態(開花前、開花後)を区別する名があったことになり、興味深い事実といえる。「すすき」の語源考証において有力な手掛かりとなり得ると思われるが、これについては後に詳述する。
ススキはオギと酷似するにもかかわらず混同されることなく区別されてきたことは既に述べたが、万葉集で17首あるススキの名のうち、漢名はわずか1首で巻十の二〇八九にも旗芒
として出てくるにすぎない。しかし、この名(芒)は『本草經集注』以前の古本草書や古字書にはなく、『説文解字』に「は艸耑なり」と異体字で出てくる。これだけではススキに比定するには無理がある。芒という名で出てくるのは『
本草綱目』以降であり、「(芒の)葉は茅の如くにして大、長さ四五尺なり。甚だ快利にして人を傷つくること鋒刃の如し。七月、長茎を抽んで白花を開き、穗を成すこと蘆葦の花の如き者は芒なり」と記述され、これはススキとして間違いない。万葉時代においてススキに芒の字を充てたのは、草原を埋め尽くすように叢生する性質註5から、音で茫に通じる芒としたとする以外に思い当たるものはない。
一方、今日、ススキに対して用いられる「薄」という国訓があるが、893年の『新撰萬葉集』の花薄が初見ではないかと思われる(『和名抄』で既出)。『廣雅』に「草叢生するを薄と爲す」とあり、草原に叢生するススキに薄を充てたと思われる。このことは芒の用字がススキにふさわしくないとして、平安時代に改めて漢名を選定し直したといえるのであるが、後世になって『本草綱目』に芒が正式に収載されるに至ってその名が復活し、今日の日本では両方とも用いられる。また、菅もしばしばススキの漢名とされることもあるが、これは完全に誤りである。『詩經』小雅・白華に「白華の菅、白茅束ねり」註6とあり、『説文解字』に「菅、茅也」とあり、菅たる茅は「かや」であるから、ススキと間違えられたと思われる(以上、詳細は『万葉植物文化誌』の当該条を参照)。菅の根を菅茅根と称することも混乱の原因であったと思われるが、この名は明代末の『本草綱目』以降であって新しい名である。茅は「かや」ではあるが、イネ科チガヤImperata cylindrica Linnéである。『中薬大辞典』では菅はススキとは別属種のイネ科植物に充てられ、わが国に自生はない。
まず結論から先にいうと、オギとオバナは同系統の名前であり、その由来は、以下に述べるように、両種の花穂の形状が神具に似ていることに基づく。
神道で用いる神具に「ぬさ」というのがある。もともとは祷総の義であり、即ち事を祷ぐために奉る布帛の類を指す。「おおぬさ」と「こぬさ」とがあり、前者はわが国で古くから神木とされるツバキ科サカキCleyera japonica Thunbergの枝に麻苧または麻苧と紙垂とを附けたもので、神籬・幣帛・神饌などが一切の不浄を祓清めるのに使用される。後者は基本的形態に差はなく小形にしたもので、参拝者各自が用いるものである。注連縄
や玉串につける紙垂も同じであり、現在は紙製であるが、『続千載和歌集』に「榊葉に かみの
木綿しで かけてだに つれなき色を えやは祈らん」とあるように、古くは木綿を用いていた。木綿とは、クワ科カジノキBroussonetia papyrifera (L.) L'Her. ex Vent.の樹皮をさらして製した繊維のことをいい、ワタではない。「おおぬさ」は大幣
と書くが、大麻とも表す。大麻をオオヌサと読むのは、『古語拾遺
』註7に基づいており(フサとヌサは類音同義)、古くは麻だけで「ぬさ」が作られていたなごりと考えられる。現在でも紙垂とともに麻ひもをくくりつけた大幣をよく見るが、もともとは麻だけであったと思われる。衣服の繊維で祓具をつくるのは、人間生活に不可欠の衣服の原料でもって、その霊徳によって不浄を祓清め得る意味をもつと思われる。『和名抄』に「麻苧 説文云 麻 音磨 乎 一云阿佐」とあるように、麻はヲとも呼ばれ、ヲがアサの古名と考えられる。『廣韻』に「麻、麻紵」とあるように、麻紵(=麻苧)はアサでつくった布をいうが、『本草和名』第十一巻に「苧根 山苧 相似不入用 和名乎乃祢」、また『醫心方』巻第一(通称「序説編」と称する)にも「苧根 和名乎乃祢又加良牟之乃祢」とあるように、苧すなわちイラクサ科カラムシBoehmeria nivea (L.) Gaudich. var. concolor Makino f. nipononivea (Koidz.) Kitam. ex H.Ohbaもヲと呼ばれており、古い時代にはアサ科アサCannabis sativa L.だけでなくカラムシも繊維として混用されていたことを示唆する。いずれにせよ、注目すべきことは原始から古代の日本で広く用いられた繊維が「ヲ(乎)」と称され、それが「ぬさ」につくられ、神具とされていたことである。すなわち、オギ・オバナという名は、その形態を古くからの神事の具である「ぬさ」に見立てたと考えられ、その材料である「ヲ」をとって麻茎・麻花と呼ばれたと推定される。この両名の語源を尾茎(木)・尾花とし、花穂を動物の尾に見立てる説も俗間にあるが、全ての動物の尾がオギ・ススキの花穂の形をしているわけではないので、説得力に欠ける。賀茂百樹の『日本語源』によれば、「ヲ」は尾、丘と語源的に相通じて終末や末端を意味するという。神事の具「ぬさ」も、神木の先端に麻苧をくくりつけたものであるから、麻苧を「ヲ」と称するのもそれに相通じるといえよう。以上をもって、オギ・ススキは、花穂の形から「ヲ」とされ、水辺に近いところに生えるか、乾燥した草原に生えるかによって、ヲギ・ヲバナと区別されたと推察される。
ススキの花を指す名オバナはオギと語源の相関関係のあることが明らかになったのであるが、ススキの語源はそれとは無関係の全く別系統と考えざるを得ないだろう。そもそもオギとススキは形態的に酷似し、大きな違いは生育環境以外には見当たらないので、ススキの名はそれに由来する可能性があるとして考証するのも無駄ではないだろう。まず、ススキの語源を「すす—き」と考え、「き」は茎あるいは草としてまず間違いないと思われるが、問題は「すす」の義が何であるかとなろう。俗間では「ササ(笹)」あるいは「ささ(細小)」に通じるとする説が有力視されるが、ススキ以外に同様な形態特徴をもつ植物は多いから、なぜそれがススキでなければならないかという疑問が残る。ススキは日当たりの良い林縁、山の尾根筋や道端など多様な環境に適応して生えるが、万葉集でもっとも目立つのは、「春日野の尾花」(巻10 2169)「高円の尾花」(巻20 4295)のように、草原の名とともに詠われているもの、「秋の野の尾花」(巻8 1577、巻10 2167、巻10 2242)とあるもの、そして名のない野原のススキを詠ったものである。オギ・アシは「オギ—アシ群落」として自然植生の中に見ることができるが、日本の原生の自然環境では万葉集にあるような草原は安定的な存続が難しい植生である。現在の日本でも各地にススキ原といわれる草原があるが、いずれも自然を破壊した後に出現する代償植生であり、放置すればいずれは森林植生に移行する。したがって、人が何らかの手を加えない限り、ススキ原の存続は困難なのである。万葉時代は自然破壊とは無縁で、万葉人は豊かな自然に恵まれていたというのは全くの幻想であり、人の営みのあるところは全て自然破壊の結果というのが現実である。万葉集に36首もの歌にススキが詠われていることはそれだけススキが万葉人の身近にあったことを示唆し、その背景には人為による自然破壊があるとみるべきであろう。
国木田独歩の『武蔵野』に「昔の武蔵野は萱原のはてなきをもって絶類の美を鳴らしていたように言い伝えてある云々」という一節がある。この後に「今の武蔵野は林である。林は実に今の武蔵野の特色といってもよい。」と続くのであるが、独歩は何を論拠に「昔の武蔵野が果てしないカヤ原で被われていた」と記述したのだろうか。独歩はその解答を示さなかったが、平安時代の古典にそれを示唆するものがある。『新古今和歌集』に「行く末は 空も一つの 武蔵野に 草の原より 出づる月影」(秋上 四二二、摂政太政大臣)とあり、草原から月が昇るような情景がその当時の武蔵野にはあったことを示している。また、鎌倉中期の『問はず語り』につぎのような一節がある。
武蔵野の秋の気色ゆかしさにこそ今までこれらにも侍りつれ、と思ひて、武蔵国へかへりて、浅草と申す堂あり、十一面観音のおはします、霊仏と申すもゆかしくて参るに、野の中をはるばるとわけゆくに、はぎ、をみなえし、をぎ、すすきよりほかは、またまじる物もなく、これが高さは馬にのりたる男の見えぬほどなれば、おしはかるべし。三日にや、わけゆけども、尽きもせず。
これから当時の武蔵野は、ススキのほかハギ、オミナエシ、オギという代表的な秋草の生える草原があり、馬に乗って三日行っても尽きないというのは誇張であろうが、少なくとも今日では想像できないような規模であったことは確かだろう。前述したように、日本の自然環境では草原植生は安定的に存続し得ないのであるが、それほどの草原が存在し得たのはなぜであろうか。その答えは『伊勢物語』第十二段にある歌「武蔵野は 今日はな焼きそ 若草の 妻もこもれり 吾もこもれり」に示唆されている。この歌は野焼きを詠った歌であるが、定期的な火入れによって草原が維持されてきたことを暗示している点で興味深い。おそらく当時は焼き畑農業が主であり、畑作では連作による忌地(厭地)があるので、次々と火入れによって新しい畑地を開墾したと思われる。武蔵野に限らず、火入れで維持されたススキ原が日本各地にあり、厚く堆積した黒ボク土と呼ばれる地層の存在でかなり古い時代から行われてきたことが明らかにされている。ススキはそのような草原に生育する主たる植物種の一つであることは論を俟たないのであるが、定期的に行われる火入れに伴い、ススキに起きる現象を詠ったと思われる歌が『後拾遺集』にある。
粟津野の すぐろの薄 つのぐめば
冬たちなづむ 駒ぞいばゆる
この歌にある「すぐろのすすき」とは、『袖中抄』(顕昭)が「すぐろは春のやけのゝすゝきのすゑのくろき也」と説明するように、ススキの末黒の意であり、野焼きの後のススキの茎がこげているのを表現したものである。このことから、ススキの語源は煤茎 に由来すると容易に推定され、ヲバナとは全く別系統の名であることになる。ススキは乾燥した地に生え根茎は伸びないから株立ちになりやすい。したがって火入れしても大株の中まで火が通らず、根元に近い茎はこげるに留まる。古代人は煤けた茎をみてススキという別名をつけたのであり、平安の風流人はそれを「すぐろ」と表現したのである。但し、「すぐろ」も煤茎に通じる意であるから、「すぐろのすすき」は同じ意味の語を重ねたことになる。「すすき(煤茎)」の名の発生が非常に古く、平安時代にはその意味が通じなくなっていたと思われる。或いは詩歌の技巧として容認されたのかもしれない。一方、『教長集』に「春の野に さわらび折ると 旅人の ゆきもやられぬ 荻の焼け原」とあるように、オギ原も火入れによって焼け原とされることがあったことを示唆するが、前述したように、オギは株立ちにならないので茎が焦げた状態で焼け残ることはずっと少なく、末黒と呼ばれることはなかったと思われる。
●まとめ ススキの名は、その形態の特長に基づくものではなく、群生する草原の火入れによってススキの上に起きた結末を率直に表現してつけられたものである。冬枯れの草原の野焼きで茎のこげたススキは特に目立った存在であったことを示唆する。しかし、秋になって成熟したススキの花穂もよく目立ったはずで、それを花ススキや旗ススキと呼ぶ一方で、同属種のオギと酷似するからオバナの別名が発生したと考えられる。植物の生態には四季があってそれぞれの特色に古代人は着目していたことになるが、それだけ植物と人との結びつきが現代よりはるかに強かったことを示している。同時に、古典に出現する植物を現代人の感性で評価するのではなく、古代人の目線でもって観なければならないことを示唆する。したがって、古代日本人の植物観を一方的に中国文化の影響とする斎藤正二の見解註8は正鵠を射たものとはいいがたい。
本ページの内容の一部は
第46回日本植物園協会研究発表会(名古屋市電気文化会館、2011年5月26日)
において発表しております。
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