万葉集に登場する花はおよそ166種ほどあるといわれる(中尾佐助、「花と木の文化史」、岩波新書、1986年)。下の表は万葉集に登場する植物を頻度順に並べたものである。注目すべきことはほとんどが日本原産の野草であって、純然たる実用植物は出現頻度上位20のうちアサ、イネ、ウメ、クレナイ(ベニバナ)、タケにすぎない。万葉集より古い『日本書紀』では約100種、『古事記』で約79種だから、数では万葉集が断然圧倒していることになる。また、記紀ではイネ、アオナ、アサ、アワ、ムギなどの実用植物の出現率が高いのが特徴である。このことは万葉集に詠われた多くの歌が自然抒情歌である註1ことと関連があるのは明らかだろう。また、万葉集にはスゲ(スゲ属Carex sp.の総称)やチガヤ、コモ(マコモ)などのように普通に存在するものの、現代の一般人の目に留まることのほとんどない地味なものが意外に多いことに気づく。身近な野草でも花の派手なものは少なくないが、万葉集における出現頻度は必ずしも多くはない。見栄えのするという観点からは、むしろ、外来の珍しい植物の方が注目を集めるはずである。当時は、花卉園芸は未発達であったから、遣唐使や遣隋使が持ち帰ったわずかな外来の草木を都の上流階級が栽培していた程度であった。ウメが出現率第2位であるのは、古代日本が文化の輸入に躍起になっていた中国から伝来した珍しい植物であるとともに、薬用、食用に供することのできる有用植物だから珍重され、特に都の上流階級や知識人に好まれたからである。
植物名 | 首 数 > | 植物名 > | 首 数 > |
---|---|---|---|
ハ ギ | 138 | ア サ | 26 |
ウ メ | 118 | ナ デ シ コ | 26 |
マ ツ | 81 | イ ネ | 26 |
タ チ バ ナ | 66 | ク レ ナ イ | 23 |
ア シ | 47 | フ ジ | 21 |
ス ゲ | 44 | ウ ノ ハ ナ | 22 |
ス ス キ | 43 | コ モ | 22 |
サ ク ラ | 42 | タ ケ | 19 |
ヤ ナ ギ | 39 | ク ズ | 17 |
チ ガ ヤ | 26 | ヤ マ ブ キ | 17 |
ウメを差し置いて1位にランクされるているのはハギである。ハギは今日でも普通に見られ、決して目立つ植物ではない。しかし、これこそが万葉時代の植物と人との関係を示唆するものとして注視すべきことなのである。万葉集で詠われるハギは特定の種を指すのではなく、ヤマハギ、キハギ、マルバハギなどハギ属Desmodium sp.に属する近縁植物の総称である。一般に、ハギ類は原生の植生にはあまり見られず、人里のように自然植生が人為によって撹乱されたところに多く出現する。古墳時代から始まった大陸の文明の大規模な導入によって日本の文化、経済、社会の全ての分野で発達し、万葉時代には人口が急増した。それに伴って、文化の中心地であった大和地方の平地や丘陵の自然林は開墾され、おそらく火入れによって田畑や住居を造成したと思われる。通例、開墾した裸地に真っ先に生えるのは、ススキ、チガヤなどいわゆる萱(かや)の仲間であり、その他、ハギなどの小低木が先駆植物として混じる。このことは東京近郊の多摩地区の住宅造成地でしばらく放置されたところが広大なススキ野原となって所々にハギが生えているのを見れば理解できるだろう。万葉時代の近畿地方の山地にはスギやヒノキの自然林で覆われていたことは、万葉集で、「桧原」、「桧山」、「布留山の杉群」などの言葉が詠われていることから十分に想像できよう。平城京に至るまでの度重なる遷都で、これらの有用樹は都の造成のために大規模に伐採され、今日では自然林はほとんど残されていない。伐採跡地にはスギ、ヒノキ林は復元することはなく、代償植生として二次林であるマツ林やナラ林が成立する。したがって、当時の人々にとってハギ、マツ、ススキはもっとも身近な植物だったのであり、それを歌に詠み込んだのである。したがって万葉集中の各植物の出現頻度は当時の人々の生活空間における存在頻度と比例していることが理解されるだろう。万葉植物のほとんどが日本原産でありしかも身近な植物であることは、万葉人が珍しさや見栄えのよさで選別したのではなく、身近な生活空間にある草木とごく自然体で接していたことが伺えるのである。また、その身近な植物の名も今日までほとんど変わらずに伝承されていることも留意する必要がある(→万葉の花の語源と民俗文化)。それは日本人がそれら身近な植物に対して抱く感性が断絶することなく万葉時代から継承されてきたからに他ならない。万葉集以前には日本語を文字で表すことはできなかったから、万葉集は植物と日本人の関わりを知る最古の古典文献ということができる。4500首以上の歌を収載した大歌集が今日まで伝えられ、古語で書かれているとはいえその大半が解読でき、祖先の植物との関わりを直接接することができる日本人は恵まれているといえるだろう。
●文化の違いを反映する植物名:日本、米国の植物名の比較
万葉の植物の多く、とりわけ身近な植物は、その名をほとんど変化することなく今日まで伝えられている(→万葉の花の語源についてを参照)。植物名が何を意味するかがわかれば、万葉人が各植物に対してどんな心情をもっていたかある程度推定することができる。しかし、万葉時代以前には日本は文字をもたなかったから、それ以前の名前の由来を考証することは不可能である。日本の古今の植物名の特徴を、全く異なる文化圏の植物名を比べて、探ってみよう。比較するには類似の植物でなければならないが、通例、遠く離れた地域では植物相が異なるので、よく似た植物を探すのは難しい。幸い、北米東部と東アジアには第三紀残存種という両地域に共通する属や種というのがかなりあって、中には邦産種と酷似するものがある。その中の代表例を下表に挙げる。
和名・学名と名の由来 | 英名・学名と名の由来 |
---|---|
アツモリソウ C. macranthum var. speciosum |
Lady's-slippers Cypripedium acaule |
花の形を平安の武将平敦盛の懸保侶に見立てた。 | |
カタクリ Erythronium japonicum |
Dogtooth-violet E. americanum |
万葉名の「カタカゴ」に由来。 | |
ツユクサ Commelina communis |
Dayflower C. communis |
朝露の消える前に花を閉じるから露草とした。 | 一日で花が閉じるから。 |
タツナミソウ Scutellaria indica |
Skullcap S. integrifolia |
花を立浪に見立てた。 | 花がスカルキャップに似ている。 |
ウマノアシガタ Ranunculus japonicus |
Buttercup R. acris |
葉の形が馬脚に似るから。 | 花の形がcupに黄色がbutterに似る。 |
ヤマオダマキ Aquilegia buergeriana |
Columbine A. canadensis |
花弁の落ちた形が糸巻きの「おだまき」に似る。 | 花が鳩の群れのように見える。 |
ヒヨドリバナ Eupatorium chinense |
Boneset E. perfoliatum |
骨折を治癒すると考えられた。 |
これらの植物の名前は新しいもの古いもの様々であり、やはり植物の形態や生態の特徴は大きな影響を及ぼしていることは確かといってよい。しかし、その見立てに対してはかなりの相違が見られる。アツモリソウとLady's-slippersでは、花の形を日本では平安の武将の懸保侶に、英語では婦人が舞踏会で履く靴に見立てており、歴史および文化の違いが大きな影を落としていることは明らかだろう。タツナミソウ(立浪草)とSkullcap(スカルキャップ)も同様と考えられる。ウマノアシガタとButtercupでは、日本では葉の形が名の由来であるのに対して、英語では名は鮮やかな黄色の花に由来し、視点が全く違っているのは面白い。見かけの派手さだけにとらわれないというのは日本人特有の感性かもしれない。オダマキとColumbineもこれとよく似たケースで、日本では花そのものではなく花弁が落ちた花の形を、英語では群れて咲く花を見立ての対象としている。一方、日本産、米国産のいずれのカタクリも花の形は類似する(色は違う)が、英語ではスミレ(園芸種のパンジーのこと)に似て花の形が犬の牙のようであるから名付けられたようだ。日本ではイヌの名がつくものは役に立たないつまらぬものを意味するが、英語圏では必ずしもそうではなく、むしろ親しみを込めた命名といえるようだ。カタクリの万葉名は「カタカゴ」であり、一茎花に葉が二枚対になり、それぞれの葉に鹿の子模様があるので、「片(葉)鹿の子」となり、それが訛ってカタカゴとなったといわれる。カタクリの地下塊茎はでんぷんに富み食べられるので、後世にそれを「栗」と見立て、カタカゴと相交じってカタクリに転じたと考えられる。どうやらカタクリの和名は花の形から名前が由来したわけではなさそうである。同じことはツユクサにもいえる。その万葉名はツキクサであり、青い花を搗(つ)いて摺り染めにするから「搗(着色の意味で「着」とする説もある)き草」となったといわれる。しかし、現代名はその花が朝露が消える頃には萎れるので「露草」となったという意味で、きわめて詩情あふれる命名となっている。万葉集にも「朝(あした)咲き夕べは消ぬる鴨頭草の消ぬべき恋も吾はするかも(朝開 夕者消流 鴨頭草乃 可消戀毛 吾者為鴨)」(詠人不知、巻十 二二九一)とあり、この歌に感銘した後世人が露草と改名したのであろう。英語名も基本的にはそれと同じ発想であり、花が一日で終わってしまうのでDayflowerと名付けられた。花の生態を名の由来にしていることが東西で一致しているのは面白い。英米ほか英語圏に限らず欧州各国では、植物の一般名の語源にはほとんど関心がなく、それがあやふやな語源であっても全く気にしない。この点はわが国とは大きく異なり、語源や名の由来、起源にこだわる日本人の特異性を表しているといえよう。植物を詠った万葉歌の多くは素朴な自然叙情歌と解釈されることが多いのであるが、カタクリやツユクサの万葉名の由来は決して詩情溢れるとはいい難い。それをもって万葉の花の歌が叙情歌ではないというのは誤りであり、花の名と歌の内容は全く別物と考えるべきであろう。万葉の植物の名は万葉名をもって語源とせざるを得ず、全ての由来がわかる訳ではないので、一般化することは困難であるが、ツユクサ、カタクリのような美しい野草ですら、万葉の古名は詩情とはかけ離れたものであるから、他の植物名も必ずしも現代人が期待しているようなものばかりではなさそうである。ヒヨドリバナは地味な花であって、英語圏の対応する花の名は薬用に由来するという意味であり、実に素っ気ない。一方、和名の由来はヒヨドリの鳴く頃に咲くと解釈されるが、ヒヨドリは4、5月には鳴き始めているので、開花時期(8~10月)と大きなずれがある。おそらくヒヨドリバナの命名はその植物のもつ風情、雰囲気をヒヨドリのもつ独特の語感で表したものだろう。同類と思われる例にマツカゼソウがあるが、これも完全に命名者の気分で付けられたものとしかいいようがない。スズランの別名に君影草があるが、葉の影に隠れるように可憐な花をつける様を、殿方の影に寄り添う伝統的な日本女性の風情を見立てた命名であり、これまた詩情のあふれた名といってよいだろう。因みに、近縁種で欧州からシベリアまで分布するドイツスズランでは、花が葉の上に突き出るので君影草の名は成立せず、これをしばしばLady Firstの西洋と男尊女卑の日本として対比させることがある。いずれにせよ、日本の植物名には詩情を反映したものが少なからずあることは確かであるが、古来、日本文学が植物と深く関わってきたことと関連があるといってよい。また、その起源が万葉集にあると考えて差し支えないだろう。日本人は外来植物にもしばしば詩情的な名をつけることがある。それはマツヨイグサに見ることができる。それはもともと宵待草であり、その名の通り、宵を待って咲き翌日には萎れる生態から付けられたものである。ところが朝鮮では日本語に訳せば「盗人花」と呼ばれている(立命館言語文化研究第16巻1号、p. 47-71)という。マツヨイグサは英語ではEvening Primroseと呼ばれるように優美な花であるが、朝鮮でそれがなぜ盗人という名がついたのかのかわからない。マツヨイグサに限らず、“朝鮮の植物名は非叙情的、顔をしかめるくらいの名前ばかり”(立命館言語文化研究第16巻1号、p. 47-71)という。日本にもヌスビトハギ(盗人萩)というのがあるが、それは果実が衣服について嫌われるからで、その理由は明快である。また、オオイヌノフグリ(“犬の陰嚢”)やママコノシリヌグイ(“継子の尻拭い”)のように、日本でも顔をしかめるような名前がないわけではない。日本では、詩情的叙情的な名前が付けられる植物がある一方で、とんでもない名前を付けることがあるという風に、植物に対する多様な感性があることがわかるだろう。それは日本人が植物をよく観察していることの裏返しともいえる。朝鮮における植物の名が前述のようだとすれば、日本人と朝鮮人の間には植物に対する感性の大きな違いがあることになり、それは古代から連綿と続いてきたものだろう。万葉集の巻十には鳥、雪、霞、花などを詠んだ歌という分類項目がある。それ以外にも花や植物など自然の風物を詠ったものは数知れず、植物だけでも160種以上あるのは既に述べた通りである。万葉集は、その編纂以来、1200年以上もの間、一貫してわが国文人の手本となってきた歴史がある。その過程で植物と日本人との関わりにおいて独特の感性が構築されてきたと考えられる。詩情的叙情的な名前を植物につけるのはおそらく日本独特のものであり、隣国の朝鮮や中国はむろん、西洋にも例がないようである。日本の国花はいうまでもなくサクラだが、里桜と称される品種群は日本人が古くから造り上げた美しい花卉であり、外国でサクラといえばソメイヨシノではなく、多くの場合、里桜をいう。300以上の品種があるといわれるが、それぞれ華麗な名前がつけられている。御車返し、白妙、雨宿、鵯桜、手弱女、糸括、御衣黄などであり、語感も去ることながら実に詩情溢れる名前である。この伝統だけは未来永劫維持していきたいものである。
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