サクラの研究(第一報):ソメイヨシノの起源
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 次の学術誌に報告された竹中要博士(国立遺伝学研究所)によるソメイヨシノの起源に関する論文のうち、「ソメイヨシノの研究史」および「(ソメイヨシノ)原産地の推定」に関する部分を引用文献および補注とともに抜き書きした。但し、引用文献・補注の番号は原著とは変えてある。本報告ではエドヒガンとオオシマザクラの交配実験も詳細に記述されているが、第二報に詳しく報告されているのでここでは省略する。
引用文献:Bot. Mag. Tokyo 75: 278-287 (July 25, 1962)
ソメイヨシノの研究史
 小泉源一博士1)は大正元年(1912)ソメイヨシノをさがして大島の植物を調査したが,ソメイヨシノを発見できず,自生しないことを発表した.その際同博士はソメイヨシノがエゾヤマザクラとヒガソザクラとの雑種ではないかと述べている.つづいて同博士は大正2年「ソメイヨシノザクラの自生地」2)と題して“先頃児玉親輔君*の青森市のフォーリー(U. Faurie**)氏のさく葉室に研究に行かれた序に,予がためにフォーリー氏の所蔵するサクラ全部を借用携へ帰えりて示さる.その内にある済州島産の一種のサクラは同島の600mの高地に採りしものにして、その性状はよくソメイヨシノザクラ(Prunus yedoensis Matsumura)に一致す。元来このサクラは日本にもっとも普通に栽培せらるれども、未其自生地不明なりしが、今回計らずも分明するに到りしは児玉・フォーリー両君の賜なり.深く謹謝す”と述べた.

1)小泉源一、東京植物学雑誌 26:145(1912).
2)小泉源一、東京植物学雑誌 26:145(1913).
*児玉親輔.第1回目の旧制山口高等学校教授,シダ類の研究者.
**フオーリー;フラソス人,宣教師,植物採集家,台湾の山中で採集中,ヒルが呼吸器に入り出血して死亡したという.

 これより少し前,大正元年(1912)5月5日,ドイツのケーネ(E. Koehne)3)氏はPrunus yedoensis Matumura var. nudiflora Koehneが済州島に自生することを報告し,この変種が済州島に自生することは学術上重要で興味があると述べた.このケ一ネの用いた材料は明治41年(1908)4月14日済州島在住のフラソス人宣教師タケー(Taquet***)が同島の山中で採集したものである.この原品のひとつはフォーリーの標本のなかにあり.現在京都大学植物学教室に保存されている.このP. yedoensis var. nudifloraはエイシュウザクラ****と呼ぶものである.この2つの事柄があって以来済州島がソメイヨシノの原産地ではないかと思われるようになった.

3)Koehne, E., Repertorium Specierum Novarum Regni Vegetabilis 10: 507 (1912).
***タケー;フラソス人宣教師で長く済州島におった.大戦まで朝鮮大邸で牧師をしていたのは同一人であると思う.
****¥エイシュウザクラエイシュウというのは済州の古名である.この標本が,フォーリーの青森在住時代のものと同一であり,小泉博士が観察して,その性状はソメイヨシノザクラに一致すると述べたものであるならば,筆者の同標本鑑定の結果とは一致しない.この標品は非常にいたんでいるが,花托 (萼筒部)の形がヤマザクラ様楔形でソメイヨシノの瓶子形とは異なる.

 しかし,まもなく大正5年(1916)に日本で樹木の研究をしたアメリカのE.H.Wilson4)がThe Cherries of Japanという書物を発刊したが,それに,ソメイヨシノはその形態的特徴からエドヒガソとオ=オシマザクラの雑種であるように思えると発表した.すなわち"To me P. yedoensis Matsumura strongly suggests a hybrid between P. subhirbella var. aseendens Wilson and the wild form of P. Lannesiana Wilson. It has many characters of the latter and in its venation, pubescens and shape of the cupula resembles the former."そして彼は,済州島に自生するP. yedoensis var. nudiflora Koehneについては,不確実のように思われると書いている.

4)Wilson E.H., The Cherries of Japan p. 16 (1916).

 他方朝鮮の植物の研究者であった中井猛之進博士5)は大正5年(1916)に“済州島漢拏山の森林に生じ稀品なり.分布,日本に広く栽培すれどその産地を知らず”と記載している.中井博士はソメイヨシノを済州島旅行中採集したのか,あるいは誰かから標品を得たのか不明であるが,同書中には日本で現在栽培されているものと同一と思われる品の図版が載っている.またサクラについて学識の深かった三好学博士6)はたびたびソメイヨシノの原産地がつまびらかでないことを述べているが,昭和6年版の最新植物学の下巻に“染井吉野は明治の初東京染井の花戸において栽培せるものにして,俗に呼でヨシノザクラといえども大和の吉野山の桜は山桜なればこれと同一ならざる言をまたず.染井吉野は伊豆の大島の原産なるべしとの説あれどしかも予の検せる同地の桜は皆山桜にして,染井吉野の原種と認むべきものあるを見ず.さきにこの桜が朝鮮附近の済州島に自生せるを報ぜるが,しかも培養せる染井吉野の起原に関しては未詳ならず”と記載している.このようにWilson博士も三好博士もともに済州島産の染井吉野類似物を,日本に栽培せるものとは別のように疑っている.

5)中井猛之進、朝鮮森林植物第5輯 34, 8(1916).
6)三好学、最新植物学講義 下巻 419 (1920).

 さて小泉博士は,その根本を解決するために,昭和7年(1932)4月下旬済州島にソメイヨシノを求めて旅行した.その結果は雑誌「植物分類地理」7)に“予本年4月20日済州島に渡り,済州島営林署長田中勇氏,同森林主事岩田久治氏,および片倉角治氏の応援をえて同島の探求に従事し,4月24日同島漢拏山の南山腹600mの山地に真のソメイヨシノザクラ*****およびエイシュウザクラの天生せるを発見したり.ここにおいて永年学界の疑問とされしソメイヨシノザクラの原産地も済州島なることは確定したるも,予未だ南鮮の山地に此自然分布あるや否やを詳にせず.されば現今ソメイヨシノザクラの原産地は済州島なり”と発表した.そしてこのサクラが日本に渡来したことについては,吉野権現は船乗りの崇拝するところであるから,同権現の愛好するサクラを持参して献上したものと推定した.そして江戸の染井の植木師が吉野もうでで,その美しいのを見て,それをもち帰って普及したと推考した.

7)小泉源一、植物分類地理 1: 177 (1932).
*****タケーの採集した品と、小泉博士の採集した品とは異なっている.

 筆者はソメイヨシノの日本渡来説には非常に疑問をもっていた.そこで昭和8年4月京都大学に小泉博士を訪ね,済州島に原産する状態について聞いた.それを要約すれば次の通りである.

  1. 夕景に漢拏山ハルラサン南側(西帰浦ソギポ側)山腹海抜600m位の所に1本のソメイヨシノを発見した.時間の関係上他をじゆうぶん調査することができなかった.
  2. ソメイヨシノ,エイシュウザクラおよびヒガソザクラの3本が並立していた.
  3. 牧場のようやく終ろうとする山腹で,谷間に点々と森林の切り残された所がある.そのひとつにこのソメイヨシノは存在した.
  4. ソメイヨシノは根本から枝分れして,あまり老大木ではなかった.

 いろいろと生態学的の疑問もあるので,筆者は昭和8年4月29日に京城を出発し,小泉博士の追調査を行なった.小泉博士の応援をした田中勇氏および岩田久治氏両人の案内で,ソメイヨシノを中心にしてサクラの調査をした.時期すでにおそく小泉博士の発見したソメイヨシノの花は終っていたが,わずかに遅れ咲きを一枝得た.並立しているエイシュウザクラとヒガソザクラも落花してしまっていた.
 附近の植生を見ると山麓一帯は牧場となり,牛馬の放牧のため海抜700mくらいまで森林は伐採されているが,小さな谷間は放牧に不適当のため,あちこちに樹林を残していた.結論として,そのソメイヨシノは天然生であるといえる.800m以上の地帯はサクラの盛りであったが,っいにソメイヨシノを発見することはできなかった.
 筆者8)は昭和9年(1934)に雑誌「史蹟名勝天然記念物」に“染井吉野桜の原産地に就て”と題しこの斉州島旅行を中心にしてソメイヨシノのことを述べたが,日本で栽培しているものとの比較について次のように報告した.“図版に示してあるのは現在栽培ぜられているソメイヨシノと済州島産ソメイヨシノとであるが,相異点を述べれば,前者は葉において古くなっても裏面葉脈に沿って多少の毛を残すが,後者にはほとんど見られないし,花梗は後者が稽々短く,前者は薯に毛を有するにかかわらず後者は着けない”.しかし接木によって増殖されている現在の栽培品でも,生育地によって生態的にこれ位の差は生じうるかもしれないと考えたから,これくらいの差異をもって済州島産のものが別種であると言いきることはできなかった.

8)竹中要、史蹟名勝天然記念物 11: 1 (1934).

原産地の推定
 すでに述べたように筆者はソメイヨシノが済州島から渡来したということに疑問をもっている.第一にはその数が現在あまりにも少なく,かりに100年以上まえに多少多くあったと仮定しても船夫が花期外に機会的に採集して持参したとすれば,それがソメイヨシノである確率はほとんどないといえよう.またもし花期に見ておいて,冬期に持参するとか,または秋季に芽つぎ,あるいは春先きに接木をするため立ち寄って採集し,接木ををして吉野権現に献上したと仮定する場合には,船夫がいかに信心深くとも容易のわざでないと考えられるから,仮定が無理であろう.次にまた吉野山で,その開花の美しいのを見た江戸の植木師が花期外に往復1ケ月以上にもわたる旅をして,吉野山にソメイヨシノの接穂を求めたと仮定することは,これまた大変な難題である。この点小泉博士は種子を持参すれば同一のものが,あるいはほぼ同様のものが生ずると無意識に考えていたのではなかろうか.筆者はすでにうえに実生の分離で示したように,ソメイヨシノによく似たものは,めったにできないことからも,済州島渡来説はとらない.
 三好博士やWilson(1916)が済州島渡来に疑問をもっていたわけはつまびらかではないが,卓見であるといわなければならぬ.次に筆者は済州島産のソメイヨシノを観察して,上述のように栽培品と少し異なることを発表しているが,これこそ,今日からみるときは異起原のものであるという証拠となるであろう.いいかえればエドヒガンとエイシュウザクラとの雑種ではないかと考えられるのである.この原木の種子を韓国の友人に求め,採集者を済州島に送ってもらったが,すでに終戦後伐採されてしまって,その姿を見ることができなかったのは真に残念である.しかしエイシュウザクラの種子は少量入手できたから,これが発芽生育してくれるならば,十数年の後には済州島ソメイヨシノに近いものを再現できるのではないかと考えている.