拙著「万葉植物文化誌」もご覧ください。
本ページは、ソメイヨシノの正しい起源を一般国民に啓蒙するために開設したのであるが、今年(平成22年)で三年目になる。例年よりやや寒いと思われた今年の冬であるが、全国的にサクラの開花は早まっているようである。意外なことに、もっとも早い開花は高知、静岡などで観測されており、より南方にあって温暖な鹿児島ではないことに留意する必要がある。かつて桜前線は、三月中旬に本土南端から北上し、五月に北海道へ上陸するのが常であったが、鹿児島での開花は温暖化の進行でむしろ遅くなっているらしく、冷え込みの不足で花芽の休眠が不十分のためという。また、以前のように一斉に開花せず、散花を伴いつつ、だらだらと開花するようになったのも近年の特徴である。すなわち、地球温暖化の影響はサクラの開花にも大きな影響を及ぼしているようで、東京でも開花が発表されてから満開までの期間が以前より長くなっており、また満開時でも花びらの散った花梗が目障りで以前ほど美しいとは感じなくなってしまった。ぱっと開いてあっという間に散るというサクラの開花の特徴は南関東以南の日本では見られなくなりつつある。これについては別の機会に説明することとしたい。
サクラという名の植物種はいかなる植物学書にもない総称名にすぎないのであるが、一般にサクラと認知される割合が圧倒的に高いのはやはりソメイヨシノである。別に法律で決まっているわけではないが、サクラすなわちソメイヨシノは一般国民の間では事実上の国花と認識されているといってよいだろう。このサクラが開花してわれわれの目を楽しませてくれるのは一年のうちわずか二週間足らずにすぎないが、都合の良いことに、いわゆるサトザクラといわれるオオシマザクラの系統の品種群がソメイヨシノに引き続いて開花するので、これを含めると一ヶ月ちょっとサクラの花を楽しむことができる。しかし、サトザクラの人気はソメイヨシノに及ばず、その名所として知られるのは大阪の造幣局構内ぐらいで、あまり注目されることはない。かくしてわが国でサクラといえばソメイヨシノが代名詞となってしまったが、実際、満開時の美しさはこの世のものとは思えない(前述したように、近年では日本列島南部を中心に開花に異変が起きている)から致し方のないことであろう。ところが、近年、このソメイヨシノに由々しき事態が発生している。ソメイヨシノの野生種は日本のどこにもないので、何らかの経緯で発生したと考えざるを得ないのであるが、
例年、この時期になると、隣国のマスコミから「ソメイヨシノの起源は日本ではない」という声(ご丁寧に日本語版も用意している)が声高に聞こえてくるのである。それによれば、今年で「ソメイヨシノが発見されて102年目」(フランス人宣教師タケーが1908年に済州島で発見したことになっているが、これについては後に詳述する)になるというのであるが、後述するようにソメイヨシノは紛れもなく日本で発生し、花見の習慣も江戸時代から続く長い伝統があるのに、隣国ではこれをそっくり自国に起源があるかのように官民挙げて喧伝しているようである。すなわち、ソメイヨシノは隣国による文化テロの対象となっているに均しく、韓流ブームの影響であろうか、これを真に受けている日本人が増えているようで、花見の報道でそれをほのめかすメディアも実際に存在する。イギリスの国花とされるバラが世界各地のバラ属種を交配したものであり、それをイギリス人が認知した上で一定の文化的基盤を構築しているのであるから、サクラの文化的基盤が盤石でありさえすればソメイヨシノの起源が日本であろうとなかろうとどうでもよいという考えもあるだろう。しかし、隣国が事実を曲げてソメイヨシノの起源を語っているとしたら看過すべきではない。
一方、ソメイヨシノの起源について、学術的にはかなり以前に決着がついているはずなのに、なぜ今さら韓国を代表するはずの新聞社があのような記事や情報を発信するのか?と思う人は少なくないだろう。最近では、もっともらしい科学的データ(無論、専門家にとっては全く学術的価値のないものであるが、一般人には理解は難しいから厄介である)を添えてくるから、やっぱりソメイヨシノは彼の地から韓流とともに渡来したものなのかと信じてしまう日本人もいるのも無理からぬことであろう。それ故、巧妙かつ組織的な文化テロと筆者が危惧する理由はここにある。科学的根拠を基盤としたソメイヨシノの起源に関する総説はほとんどなく、あったとしても古くて一般人の目にまずふれることはないので、”新しい科学的データ”を提示されるとつい信じてしまいがち、すなわち騙されやすいのである。こうした状況をふまえて、できる限りの文献を入手・精読し、ここに「ソメイヨシノの起源」についてまとめたのが本ページであり、おそらくネット上でもっとも信頼できるものと確信している。専門知識のない一般人にとっては決して簡単な読み物ではないが、これを読めば、やはりソメイヨシノは日本原産であると確信するはずだ。本稿のうち「日本を代表するサクラ:ソメイヨシノの起源が済州島?」以降の記事は著作権を放棄するので、丸ごとコピーも含めて完全自由使用を認める(但し、次の『』内の段落の著作権は筆者にあることを申し上げておきたい)ので、ぜひご利用いただきたい。
『サクラは、日本最古の上代文学(万葉集・記紀)から今日と同じ名を見るように、古くから日本人に親しまれてきたことは衆知の事実である。万葉集ではサクラの歌がウメの三分の一しか詠われていないことをもって、古典文学研究者のほとんどは古代日本を代表する花はサクラではなくウメであると異口同音に答える。一方、万葉の植物研究で知られた松田修氏(『万葉の花』、芸艸堂参照)などを始め、植物を熟知する人ほどサクラに対する評価は高くなる傾向がある。実際、万葉集に詠われるサクラの歌四十数首のうち、四十首ほどが花に言及しており、この割合はウメよりずっと高く、万葉人にとってサクラとはハナそのものであったことを示している。筆者も生薬学・薬用植物学を専門とし古典文学を専攻するものではないが、万葉集にあるサクラ・ウメの歌は全て目を通している。素人の目からも歴然としているのは、ウメの歌の多くが「ウメとウグイス」などのような陳腐な取り合わせ(どころか、ウグイスは人目に見えないような薮の中を好み、梅林に姿を見せることはまずなく、想像上の産物にすぎない!)で詠われていることであって中国六朝漢詩の影響が色濃く(斎藤正二氏が著書『日本人とサクラ』で指摘している)、まるでパンダを見ているように物珍しさだけで詠われているように感じることである。一方、サクラの歌のほとんどはその花の美しさを率直に詠っており、自然界に生育する個体をあるがままに観察しているのであって、中国古典文学に多い観念的な植物描写ではないので、読者の心にストレートに伝わってくるのである。上代の日本人の桜観は、『文選』巻二十七の沈休文の五言詩「早に定山を發す」の一節「野棠は開いて未だ落ちず、山櫻は發いて然えんとす」を「下敷きにして換骨奪胎したもの」であると思想家の斎藤正二氏は主張したが、詠人不知の歌が圧倒的な万葉のサクラの歌の中に、どれほど中国詩の影響を読み取ることができるだろうか。斎藤氏の主張も中国詩の中に偶々「山櫻」の名を見いだし、万葉時代の日本における中国の影響の深さから一方的にそう推論しただけのようにみえる。文系の学徒であるなら実際の万葉歌を取りあげてもっと豊かな表現で説明してくれてもよさそうなものである。中国でいう桜は実が食用になるものを指す。例えば、『玉篇』に「櫻は含桃なり」、許慎によれば「鶯の含み食ふ所、故に含桃と謂ふ」(陸佃・『埤雅』より)というように、櫻は桃の一種とされたことからわかるだろう。また、櫻が鶯と同音であるのもこれと大いに関係があるのだ。したがって、もっぱら花だけを対象としてきた日本とは桜に対する感性がまるで異なるのである。斎藤氏はこれを無視し、本来自由闊達であるはずの感性を奇妙な観念論的フィルターを通してしまったから、実感とかけ離れたとんでもない結論に至るのも無理からぬことだろう。斎藤氏の著書では、本来なら訓読のみならず訳読すべきはずの漢文を原文のまま引用しているところが多くある。膨大な中国の古典の中から丹念に抽出したわけではなく、別の漢学者の著書の中から拾い上げただけのようにみえる。すなわち、同氏はあまり漢文の読解が得意ではなかったと思われ、いかにも安っぽい印象を受ける。したがって、斎藤氏の説には当該事項を深く理解するものにはあまり説得力がないのである。筆者の率直な感想によれば、上代の日本人は意外と派手好みでサクラの美しさに素直に反応しているし、逆に近世の日本人はウメの控えめな美しさに美意識を見いだしていたのである。したがって、万葉時代の日本の花を代表するのはウメ、平安時代以降はサクラというのは一方的なステレオタイプであって正しい認識ではないと考える。中尾佐助氏は、「万葉集でうたわれた植物は頻度十位(註:ウメを二位、サクラを八位にランクしている)までは、ことごとく実用性よりも花や姿の美学的評価のゆえに選ばれた」と主張している(『花と木の文化史』、岩波新書)が、サクラ(ヤマザクラなど野生種)の樹皮がカニハ(万葉集にも詠われている)と呼ばれて有用な工芸材料であったこと、サクラの開花が農耕の開始の指標となる歳時植物であったことを無視した一方的な意見にすぎない。万葉の植物は薬用・食用など何らかの実用性をもったものであって、万葉人はその枠組みの中でわずかな美意識を見いだして歌に詠ったのである。中世室町時代に「わびさびの文化」が興り、江戸時代には世界的に希有な古典園芸文化(マツバラン、ベニチガヤ、フトイ、斑入り植物など世界に類例のない園芸文化)が隆盛したことを考えると、ウメの花がサクラに一方的に圧倒され続けたというのは考えにくいのである。ウメの花は一気に咲くことはなく、少しずつ開花し始め、花見の楽しめる期間も一ヶ月以上と長い。一方、サクラ(ソメイヨシノ・ヤマザクラ)は一気に開花し、花吹雪という語彙があるように、あっという間に散り果て、その間は二週間足らずしかなく、開花・落花ともに集中的でまことに派手である。すなわち、ウメは清楚で陰、サクラは派手で陽であって、花木としては全く対照的な性格をもつ。筆者は理系の徒であって古典文学の門外漢であるが、だからこそ、古くからの通説にとらわれず、客観的な視点にたって物事を見ることができると自負している。ウメが中国原産の渡来植物であることは今日では誰もが知るところであるが、不思議なことに江戸時代を代表する本草家である貝原益軒や小野蘭山の著書のどこを見てもその記述はなく、ウメが舶来の珍しい植物という意識は皆無であり、モモやアンズについては漢土の産と記述されているのと対照的である。大分県など九州の一部にウメが野生するので、これを天生と考える植物学者もいたほどだ。代表的な万葉歌人として知られる大伴旅人は、万葉集に「吾が園に 梅の花散る ひさかたの 天より雪の 流れ来るかも(和何則能尓 宇米能波奈知流 比佐可多能 阿米欲里由吉能 那何列久流加母)」(巻五 〇八二二)という歌をのこしているが、この歌の序に「天平二(七三〇)年正月十三日、帥の老の宅に萃まるは、宴會を申ぶるなり。(中略)詩に落梅の篇を紀せり。古と今とそれ何ぞ子と異ならむ。うべ園(梅園)の梅を賦みていささか短詠を成すべし。」とあり、当時、太宰府の帥であった大伴旅人の屋敷において観梅の宴が催されたことを示す。この宴で詠われた歌だけでも総計42首あり、万葉集のウメの歌の3分の1を超す。この宴は、中国六朝時代の三五三年、会稽(今の浙江省紹興県西)の蘭亭で名士を集めて開かれた王羲之主催の宴会に倣ったものであり、最初から歌人の頭の中には「ウメは中国の先端文化の象徴」という先入観が焼き付けられていたのである。万葉時代はウメが渡来して間もない時期だった。当時の都人の間でウメが珍しい舶来の花木であったことは、「梅の花 我は散らさじ あをによし 奈良なる人も 来つつ見るがね(梅花 吾者不令落 青丹吉 平城之人 来管見之根)」(巻十、一九〇六)という作者未詳の歌によく表されている。ウメに関心をもつのは奈良なる人すなわち都の貴族など上流階級に限られ、後世に名を残さななかったような人にはさほどの感動を与えていないことも示唆している。ところがそれから千年経た江戸時代になると、ウメが中国から渡来したことはすっかり忘れ去られ、あたかも日本原産であるかのように考えられるようになっていた。江戸時代の日本では、本家の中国をしのぐほど、ウメの食用としての利用が高度に発達したから、本草の専門家すらそう錯覚してしまったのである。ウメは有用植物として揺るぎない地位を得た一方で、観賞用のハナウメの品種数がサクラと並べるほど育成されたことは意外に知られていない。貝原益軒は、著書『大和本草』の中で、「梅ハ花中ノ第一品トスヘキモノ也」と評価するほど、江戸期はウメの花が大変な評価を受けた時代であった。ただ、このブームは園芸分野に留まり、文学までは波及しなかったから、文系研究者の目には江戸時代はウメはサクラに圧倒されたように見えたのであろう。その理由としては、花見の期間が長いウメでは人々の関心が分散するのに対して、サクラでは開花・落花が短期間なため、人々の一喜一憂が集中し、それだけ話題となりやすいからではなかろうか。園芸品種の育成には鑑賞する側の熱意がなければ生まれないから、それほどの数の品種が存在したことはやはり根強い愛好があった証拠なのである。江戸時代の日本人はウメ・サクラとも陰陽の気をするどく感じ取り、独特の感性で愛玩していたことは想像に難くない。』
以上、この部分の詳細は拙著「万葉植物文化誌」を参照されたい。
日本を代表するサクラ:ソメイヨシノの起源が済州島?
さて、前述したように、植物学的にサクラと称するものはなく、一般通念でいうサクラとはサクラ亜属に分類されるヤマザクラを中心とした数種の野生のサクラ種を総称するのであるが、今日、各地に植栽されるもので野生の形質のものは少なくほとんどは園芸品種である。もっとも広く栽培されるのがソメイヨシノで、その起源についてはエドヒガンとオオシマザクラの雑種起源説のほか、朝鮮済州島起源説があり、長い間論争があった。後述するように、かなり以前に雑種起源説が客観的な科学的根拠に基づいて定説として確立したのであるが、韓国ではそうではなかったらしい。2006年4月4日の朝鮮日報電子版にはびっくりするような記事が掲載され、米国ワシントンのポトマック川の満開のサクラの写真とともに、次のような記事があった(原文はハングルで表記されていたが、翻訳ソフトで機械翻訳したものを修正した)。
アメリカワシントンに咲く美しいサクラの原産地は済州島であって日本ではない
一般的に日本産桜で知られたワシントン桜を始め、 鎭海、汝矣島などの桜が済州山ソメイヨシノ(註:韓国語ではワングボッナム王桜という)であることを知らせようという運動がおこっている。日本が歴史教科書まで歪曲している(註:歴史問題とは直接関係ないはずだが、これに結びつけようとするのは韓国のマスコミの常套手段である)中で、済州山で確認され天然記念物に指定されているソメイヨシノの存在をこの機会に広め、(日本に)釘をさしておこうという運動だ。
西帰浦文化事業会は、去る 9日、天然記念物第159号に指定されたソメイヨシノを複製, 西帰浦市ゴルメセングテゴングワン(註:機械翻訳の結果を示したのであるが、地名であろうか)に植えた。李石槍西帰浦文化事業会会長は“済州は世界唯一のソメイヨシノの自生地(註:後述するように全くの誤りである)にもかかわらずこんな事実があまり知られていなかった”と“桜といえば当然日本を思い浮かぶ認識を破る必要があって広報活動を始めた”と言った。
アメリカワシントンにはポトマック公園を始じめ、リンカーン記念館、ジェファーソン記念館などポトマック川端を中心に桜が植えられているし、先月26日から桜祭りが開かれている。アメリカ人たちはワシントン桜を日本との善隣関係象徴物で見ている。
金纂修博士はこれに対して“済州道内天然林100あまりの所でソメイヨシノが自生することが確認された(註:もし事実なら大発見だが、植物学関連の専門誌ではまだ発表されていないから、まだ信頼するに足るものではない)”、“済州ソメイヨシノは1908年、フランス人タケーによって初めて発見され、後に多くの日本人学者によっても自生地認証を受けた(註:後に詳述するが、それがソメイヨシノであることを認める学者は筆者の知る限りではいない)”と明らかにした。彼は“ソメイヨシノは全世界 200余種類の桜の中でも一番派手で大きく育つ品種(註:実際に世界のサクラ属種を見た上での話だろうか?ネット上で配信された写真を見るかぎりではソメイヨシノと比べて花をつける密度が低いように思われる)”と言った。 彼はまた“日本はこのために済州山ソメイヨシノを並木で植えるなど繁殖させた後(註:日本で済州島のサクラを増殖した事実はなく、全くの作り話である。韓国を代表するといわれる新聞社がこんな捏造記事を書くようではその見識が疑われよう)、全国各所に桜公園を造成したし, アメリカにもプレゼントした記録がある(ソメイヨシノとアメリカハナミズキを交換したことをいうのだろう)”と付け加えた。
無論、ここで記述されていることは誤謬(本文中の註は筆者による)であり、ソメイヨシノが韓国原産という強い思いこみからの妄想というに均しいものであるが、朝鮮日報は毎年のようにサクラの開花時期に合わせてこんな内容の記事を発信してきたらしい。当初は単なる嫉妬に毛が生えた程度のものであったのが、年々その内容が過激化し、2007年4月11日にはついに”科学的根拠”まで持ち出して次のような記事(朝鮮日報日本語電子版であって筆者による翻訳文ではない)を書くまでになってしまった。無論、この記事の内容は、後に説明するが、これも誤謬および曲解に満ちたものである(括弧内は筆者註)。
DNA分析を通じた研究の結果、日本の国花であるソメイヨシノの原産地は済州島の漢拏(ハルラ)山だという事実が初めて明らかになった。
11日、山林庁林業研究員のチョ・ギョンジン博士のチームによれば、漢拏山の自生ソメイヨシノと国内で植栽されたソメイヨシノ(韓国内で植栽されるものは日本から移植したものであるはず)、日本のソメイヨシノを対象にDNA指紋分析を遂行した結果、原産地は済州島だと明らかになった(註:これが誤りであることは後述するが、過去の知見のみならずごく最近発表された研究結果とも合わない)。
チョ博士は「遺伝変異は原産地の樹種で多様に大きく現れるが、今回の調査で漢拏山の自生ソメイヨシノは日本のものよりも遺伝変移が2.5倍と顕著に大きく、変異も多様に現れていた(済州島産ソメイヨシノと称するものは希少種であってそんな多様の形質の個体があるはずがない!後に述べるように日本から移植したソメイヨシノとそれに韓国産野生サクラ属種の遺伝子が混じったものを安易にソメイヨシノと一括りにしてしまった結果を反映したものにすぎない)」と述べた。
彼はまた「大部分の自生ソメイヨシノは国内で植栽されているものや日本のソメイヨシノと区分される特異なDNAを持っており(註:おそらく野生サクラ種の遺伝子をマーカーとして用いていないからこういう結論になるのだろう)、一部の個体のみ国内で植栽されているものや日本のソメイヨシノと同じDNAを持っていた」とし、「このことは、自生ソメイヨシノが日本に渡っていき、国内で植栽されているソメイヨシノは日本から再び移ってきたということを証明している(註:後述するようにこう言い切るには試料の厳格な遺伝子管理が必要であり、研究者はこれを明確にしなければ実験結果は科学者の認知するところとはならない!)」と付け加えた。
また、日本にはソメイヨシノの自生地がない(註:これは事実だが、交配種起源であるからあたりまえのこと)一方、漢拏山には自生地がある(註:ソメイヨシノと似たものであることは確かだが、系統が全く異なるから、この言い回しは学術的には誤りである)ため、ソメイヨシノの原産地が漢拏山だという今回の研究結果を後押ししている(註:後述するようにこれまでの信頼できる実験結果と矛盾するが、それに対して有効な反論がなされておらず、これまでの説を覆すにはほど遠いものである)。
山林庁関係者は「今回の原産地糾明は、日本産として間違って知られていたもの(註:後述するようにソメイヨシノは紛れもなく日本原産である)に対し、我々のものを取り戻したということに意義が大きい(偏狭な民族主義的観念が根底にあると本来中立的であるはずの自然科学的データも曲解されることになる)」とし、「山林庁は花の華麗な漢拏山の自生ソメイヨシノ(註:真の野生であるかどうか甚だあやしい。後述するように、現在よりはるかに自然が保全されていた戦前でも超希少品であったはず)を済州林業試験場で大量増殖し、全国に拡大普及する計画(註:よほど厳格な品種管理をしないと後から検証が難しくなるが、うやむやにするのが本意の可能性もある)」だと明らかにした。
一方、これまでソメイヨシノの原産地研究は花と葉、果実などの外形を対象に研究されてきたが、形態が似ていて正確な検証は難しかった(註:基本的に正しいが、これを真に理解するにはよほどの専門家でないと難しい)。
ここでは”済州島自生のソメイヨシノ”と称し、その多様な形質の中から一部が日本に渡って植栽されたとするが、それがそもそもの誤りであることはサクラ博士として著名な故竹中要博士ほか多くの日本人研究者の緻密かつ客観的な科学的研究で明らかである。もしそう主張するなら都合のよいエビデンスまがいのものでもって一方的にまくし立てるのではなく、異説に対しては逐次、周到に具体的なエビデンスを挙げて反駁するのが科学者に求められる姿勢である。とりわけ、”済州島自生のソメイヨシノ”が日本のソメイヨシノと同じであるとするなら、オオシマザクラ(ソメイヨシノの交配親とされるサクラであり、伊豆地方に特産する日本固有種であって韓国にはない!)由来の遺伝子があるはずで、上述の研究はこれに全く言及していないばかりか避けて議論していることになり、日本では考えられないほど低レベルの学術研究といわざるを得ない。これについては、後にじっくりと説明するが、”済州島自生のソメイヨシノ”と称するものにしても、日本から移植したソメイヨシノあるいはソメイヨシノに他種のサクラが交雑したものの可能性が高く(これを韓国の研究者は韓国産ソメイヨシノの遺伝的多様性が高いと曲解する)、その実態ははなはだ怪しいものである。ごく最近になって米国農務省に属する研究所・ソウル大学などの米韓の研究グループが東京・ワシントンに植栽されるソメイヨシノと済州島に産する野生品とのDNA解析を行い、「済州島産(これは真の自生品のようである)は日本産(そして移植されたワシントン産も)の雑種起源のソメイヨシノとははっきりと区別される固有種(但し、後述するようにサクラ亜属の各種は雑種を生成しやすく、真の独立種であるかどうかはさらに詳細な検討が必要である)である」という結論に至っている (Scientia Horticulturae, 114(2): 121-128, 2007)ことから筆者の見解が決して偏見によるものでないことがわかるはずだ。韓国山林庁の研究も米韓共同研究と同じく分子生物学的解析による研究結果には違いないが、最先端の科学ツールを用いたデータを得たとしても、使い手の資質によってとんでもない解釈ができることを如実に示している。つまり、そのデータを科学的整合性をもって解析・解釈できるかどうかが最大の問題なのであって、データだけで結論にはならないのである。普通なら学会や学会誌で発表される直前か後にこの種の記事は掲載される。学会であれば当該の発表に対する他の多数の研究者の評価を聞くことができるし、学会誌であればその雑誌のインパクト係数(優れた研究ほど引用度が高いという前提に立って学術雑誌を格付けしたもので、これにしたがって多くの優秀な研究者が投稿するので、審査も辛辣で厳しくなる)でその研究内容がいかほどのものか判断できるからである。朝鮮日報はそういうプロセスを知らずに韓国山林庁の研究を鵜呑みにして記事にしてしまったらしい(記者は学者ではないから無理もないが、それを諭す科学者は韓国にいないのだろうか?)。遺伝子解析を用いれば何でも起源を明らかにできると過信した結果(足利事件が冤罪となったのも安易なDNA鑑定が原因であった!)であろうが、使用する試料に他の種の遺伝子が混入しているか否か細心の注意を払う必要があり、口でいうほど簡単なことではない。サクラ亜属の植物は容易に交雑する性質が顕著であるから、研究試料の選定には一層の慎重さが求められるのだ(実際、ソメイヨシノの大規模栽培により近傍の野生サクラが遺伝子汚染を受けているという報告(日林誌、95(5):354-359, 2009)がある)。日本に広く植栽されるソメイヨシノは実をつけることはきわめて稀であるが、他のサクラ亜属種と混植されている場合、よく結実することを故竹中要博士は伊豆大島のソメイヨシノの例を挙げて研究ノートに記している(遺伝, 12: 41-46, 1958)。すなわち、ソメイヨシノ同士では結実の割合は非常に低い(おそらくゼロに近いだろう)のであるが、交配親であるオオシマザクラ・エドヒガンを含めて他のサクラ種の花粉を受粉させるとその割合はずっと高くなるというのである。日本ではソメイヨシノを実生で増殖することはなく、全て接木でクローン増殖されるので、他のサクラ亜属による遺伝子交雑の心配は全くない。その証拠に日本の46 都道府県で植栽するソメイヨシノはほとんどが同一クローンであるという報告がある(Jpn. J. Genet. 70: 185-196, 1995)。『原色韓国植物図鑑』(李永魯、教学社、1996年)では、ソウルの王宮「昌慶苑」(日本統治時代に多くのソメイヨシノが日本から移植されていたことが竹中博士の論文に記載されている)に植栽するサクラの写真をPrunus yedoensis Matsumuraとし、韓国名をワングボッナム(漢字で表すと王桜木の意)として掲載するが、その樹形および花付きからどこか日本のソメイヨシノとは違うように見える。また結実した写真も掲載しているが、説明文には普通に結実するかのように記述されている(以上、下の図を参照)。
これから推察すると、韓国ではソメイヨシノと異種のサクラとの受粉がよく起きている(すなわち純系のソメイヨシノに対する遺伝子汚染が起きていること)と考えざるを得ず、今日では実生から増殖したものも韓国産ソメイヨシノとして植栽されているのではという疑わざるを得ない。実生で増殖されたものであれば昌慶苑のワングボッナムが日本のソメイヨシノと違うとしても全く不思議はないからだ。すなわち、韓国では適切な品種管理がなされていない(というと語弊があるかもしれないが、韓国の園芸文化のレベルを考えると優良品種の厳格管理が適切に行われてきたとは到底思えない)ので、米国農務省のグループが東京およびワシントン産のソメイヨシノを用いて韓国に植栽される日本起源のソメイヨシノを避けた(と考えるが)のもそうした危惧を見越したからとも推察できるのだ。
ここでしばらく話題を変え、日本の園芸文化が江戸時代には厳格な品種管理を可能にするほど高度に発達していたという例を挙げて説明してみたい。毎年、夏になると、日本各地でアサガオ市が催される。アサガオは日本原産ではないが、園芸用に栽培するのは世界で日本だけらしい。これまでに多くの品種が育成されたが、その中で「変化朝顔」と称する品種群の創出は高度な遺伝子管理技術を伴うもので、アサガオ以外の植物種を含めても世界に類例のないものであった(右に例を示す)。江戸中期の1762年に八重咲き品種が作られ、1853年には135品種が記録されるほどまでアサガオの花卉園芸は成長した。アサガオは一年草であり、変化アサガオの大半はおしべやめしべが弁化するため種子ができないので、その変異を生み出す普通花型の親株(親木という)を系統保存しなければならない。すなわち変化型は普通花型から発生する劣性遺伝子であり、これを出物と呼んだ。分子生物学的にいえば、動く遺伝子であるトランスポゾンがゲノム上を移動することによって生み出される突然変異といってよい。中には親の形質を受け継いだもの、すなわち遺伝学でいう純系にあたるものもあって、これを正木といった。すなわち、江戸時代のアサガオの園芸は、出物と正木が複雑に組み合わさった創出されたものであり、これらの品種群を維持するには今日の科学の水準から考えても高度な遺伝子管理が必要になる。したがって、遺伝学の知識のない当時、経験によって多くの系統を維持したことは驚くべきことといわざるを得ない。残念ながらこれらの技術は秘伝とされたため、科学としての遺伝の法則が生まれることはなかったが、日本人の各品種に対する遺伝子管理技術がいかに優れていたかを理解するに十分であろう。メンデルの法則が発見されるはるか前に行われていたのであるから、この技術は優に世界遺産に値するものである(今のところ、登録の動きはないようだ)が、世界にはあまり知られていないようである。
韓国には「変化朝顔」に匹敵するような園芸植物を創製する文化基盤がない(西洋や中国にもないから韓国にないといっても決して侮辱にはならないだろう。今後、この分野も文化テロの対象となる可能性が大いにある。)から、せっかくのソメイヨシノ(真性および済州島産のいずれも含めて)も遺伝子汚染フリーであったとは想像することすら難しい。そのような試料を用いている限り、他の種の遺伝子が混入しているのだから、”韓国産ソメイヨシノの遺伝的多様性が高い”のも当然の帰結であって全く驚くに当たらないのである。最先端の遺伝子解析技術を駆使したといっても満足のいく前提条件がなければ「豚に真珠」に等しいのだ。韓国山林庁の研究結果を捏造というつもりは毛頭ないが、厳格な遺伝子管理をともわない試料(済州島に産するという”ソメイヨシノ”(きわめて稀産のはずである)および韓国に植栽されるソメイヨシノ(多くは日本から移植されたもののはず)が遺伝子的に汚染フリーであることを明確にする必要があるが、考慮されていないようだ)を用いている限り、これまでの知見と相反する結果(後述するように、ソメイヨシノが日本で雑種として発生したことを証明した遺伝子解析報告があり、その交配親の一つが自生しない済州島では同じものが発生し得ない!)が得られても不思議はなく、まともな研究者であれば単に杜撰な実験結果と一蹴するだろう。こんな低レベルの記事を掲載した朝鮮日報の見識に疑問符がつくが、編集者に一定の下心(推定するに、真実がどうであれ、とにかくソメイヨシノを韓国原産にしたい、それで世界の一般の人の中にそう考える人が出てくれればよいという野卑な思惑)がなければこんな記事は書けないはずで、これに関しては本ページの最後でも述べたいと思う。さすがに、日本のメディアでこれを引用したところはないようである。
ソメイヨシノの真の起源について
ソメイヨシノの起源の解明について、もっとも精力的に行った学者は国立遺伝学研究所部長であった故竹中要博士をおいて他はない。同博士はソメイヨシノがオオシマザクラとエドヒガンの雑種であることを、膨大な交配実験(サクラの研究:続ソメイヨシノの起源)から明らかにした。また、滅多に実をつけないソメイヨシノの種子(これも多分他のサクラ属種の交配したものであろうが、この中にもソメイヨシノの両親の遺伝子が入っていることに変わりはない)を丹念に集めて、実生株から発生する形態の変異についても細かく観察(各株にソメイヨシノの親の形質が先祖返りで様々な形で出てくるのでそれを丹念に解析する)し、それがオオシマザクラの形質からエドヒガンの形質をもつものまで連続的に出現することも確かめ(Bot. Mag. Tokyo 75: 278-287, 1962; ibid 78: 319-331, 1965; J. Heredity 54: 207-211, 1963)、ソメイヨシノが雑種起源であるというほとんど決定的ともいえる結果を得たのである。木本植物の交配実験は、実生から成長するまでに長い時間を要する(播種から花を付けるまで五、六年以上はかかり、その間研究業績は期待できないので、かかる研究は普通の科学者は嫌う。おそらく世界にも類例は極めて少ないだろう)ので、そう簡単にできるものではない。因みに、交配でつくられたサクラ類は国立遺伝学研究所(静岡県三島市)に植栽されているといい、目に見える証拠を残しているのであるから、竹中博士の業績は高く評価されてしてよい。1995年に京都大学の研究グループがDNA解析により竹中博士の雑種説を支持する結果を得た(Jpn. J. Genet. 70: 185-196, 1995)が、ソメイヨシノがどこで発生したのかという問題だけが最後に残った。竹中博士は、オオシマザクラとエドヒガンの両種が分布する伊豆半島を調査し、船原峠でフナバラヨシノと命名した自然雑種を発見し、江戸の旧染井村(江戸時代では多くの植木屋職人が集まっていたことで知られる)の植木屋職人が採集して江戸に持ち帰ったと推定している(Bot. Mag. Tokyo 78: 319-331, 1962)。それに異論を唱えたのが筑波大学農林系の岩崎文雄氏であり、オオシマザクラが自然分布ないし古くから植栽されていた伊豆半島・三浦半島・房総半島におけるエドヒガンの生態を詳しく調べた結果、江戸時代にあってはオオシマザクラとエドヒガンの雑種形成は自然状態ではあり得ないと結論した(筑波大農林研報3:95―110, 1991)。すなわち竹中博士が発見したのは両種の自然雑種であることは間違いないが、後世の著しく攪乱した生態系のもとで発生したというのである。岩崎氏はソメイヨシノに関する社会科学的な調査も行い、郷土史研究家による史料からソメイヨシノは当初考えられていた時期(江戸末期から明治初年)よりも100年以上古い時代からあったことを指摘し、江戸・染井の植木屋であった伊藤伊兵衛・政武が創出したという新説を提唱した(筑波大農林研報 3: 95-110, 1991)。前述の「変化朝顔」を産み出したほどであるから、江戸時代の園芸家が人工交配でソメイヨシノを作り出したとしても全く驚くに当たらないだろう。2007年の日本育種学会において「PolA1遺伝子解析によるサクラの類縁関係 -ソメイヨシノの起源」という注目すべき発表があった。すなわち、伊豆諸島から伊豆半島の固有種オオシマザクラとエドヒガンの栽培品種であるコマツオトメとの交配で生み出された可能性が高いことが千葉大学園芸学部などのグループが明らかにしたのである。コマツオトメは江戸で発生したエドヒガンの一品種であるから、伊豆半島で自然発生したという竹中説は否定され、染井村で発生したという岩崎説を間接的に支持する結果となった。以上、客観的な科学的証拠によってソメイヨシノの起源が明らかにされ、論争に終止符が打たれたのである(ソメイヨシノ韓国起源説を主張するのであればこの研究に対する有効な反証を呈示すべきである)。
最近では、韓国人特有のウリナラ起源論として広く定着しているためであろうか、韓国を代表するジャーナリズムである朝鮮日報が“ソメイヨシノは 1908年、フランス人E. J. タケー(生没年不詳)によって初めて発見され、後に多くの日本人学者によっても自生地認証を受けた”(すなわち2008年はその100周年に当たる)と書き記しても驚く日本人は少なく、むしろ呆れてしまう場合が大半だろう。この記述自体に誤りはないが、やはり無知あるいは検証能力不足に基づく誤解あるいは曲解があることは否定できない。意外なことに、ソメイヨシノ済州島起源説は韓国からではなく戦前の日本に発生し、主唱者は京都帝国大学小泉源一郎博士(1883-1953)であった。案外、朝鮮日報のいう自生地認定というのはこのことを指すのかもしれないが、それにしてもあまりに説明不足といわざるを得ない。以上のことは竹中博士の論文「サクラの研究:ソメイヨシノの起源」および研究ノート「染井吉野というサクラ」に客観的な視点から詳しく記述されており、今日では入手の困難な文献を精読・引用しているので、ソメイヨシノの研究史を知るには最適であるから、ここで簡単にその概略を述べておく。朝鮮半島はいわゆるプラントハンターからは無視されてきたのであまり植物調査は行われなかったのであるが、済州島に長く宣教師として滞在した仏人タケーは同島に産する植物試料を集めていたらしい。ドイツの植物学者E. ケーネ(1848-1918)は、タケーが1908年に採集したサクラ属の個体についてソメイヨシノの変種(日本名エイシュウザクラ:瀛洲桜、エイシュウとは済州島の古名)として記載したのがそもそもの発端であった。しかし、一個体でしかも幼木から採集した葉のない花枝一本からなる不完全標本であり、朝鮮日報がいうように発見されたというほどのものではなく、科学的観点から考えて新種と認定するには無理があったというのが正しいだろう。植物分類学では、一つの種の系統を正しく理解するには少なくとも百の標本が必要であるといわれるから、今日からすれば情報不足(DD; data deficient)と一蹴されるようなものであった。ところが、この翌年、当時、京都帝国大学助教授であった小泉源一博士は仏人U. フォーリー(1847-1915)が済州島で採集した標本の中にソメイヨシノに似たものを見つけ、ソメイヨシノが済州島起源であることを直感したらしい。つまり、ケーネによって命名された変種のエイシュウザクラがあり、また別にフォーリーの試料が出てきたのだから、ソメイヨシノそのものも済州島にあると考えたのである。一方、米国Arnold樹木園からサクラの研究で日本に派遣されたE. H. ウイルソン(1876-1930)は、1916年に出版された報告書『日本の桜』(The Cherry of Japan)の中で、ソメイヨシノがオオシマザクラとエドヒガンの雑種である可能性を指摘した。今から考えれば、ウイルソンの指摘は達観であったのだが、1932年、小泉博士は自説を確かめるために済州島にて現地調査を行い、エイシュウザクラ・エドヒガンとともに混生していたソメイヨシノの野生品を発見したと報告したのである(→染井吉野櫻の天生地分明す)。ソメイヨシノと比較したというフォーリーの標本が残っておらず、済州島に自生していたというソメイヨシノについても一個体しかなかったにもかかわらず、この反響は大きなものであった。大正5(1916)年の『朝鮮森林植物編第5輯』(中井猛之進編)に立派な図版とともに「済州島
漢拏山の森林に生じ稀品なり。分布、日本に広く栽培すれど其産地を知らず。」と記載されている(竹中博士論文引用)が、論評抜きの記述から自他ともに朝鮮半島の植物の権威と認める中井猛之進博士(1882-1952)が受けた衝撃の大きさを暗示している。また、当時、サクラの権威といえば三好学博士(1861-1939)が著名であったが、自著『最新植物学』の下巻に「染井吉野は明治の初染井の花戸に於いて栽培せるものにして、俗に呼でヨシノザクラと云へども大和の吉野山の桜は山桜なれば之と同一ならざるは言を侯たず。染井吉野は伊豆の大島の原産なるべしとの説あれど而も予の検せる同地の桜は皆山桜にして、染井吉野の原種と認むべきものあるを見ず。嚢に此桜が朝鮮附近の済州島に自生せるを報ぜるが、而かも培養せる染井吉野の起原に関しては未詳ならず(未だ詳ならずの意で「未詳ではない」の意ではない!)」と記述しているように、小泉説に狼狽している様子がありありとうかがえる。小泉説がかなり無理をした説であったことは、実際に植栽されているソメイヨシノがほとんど不稔といってよいほど結実性が低く(単純に考えても野生種としては生存不可能ということになり、韓国のメディアや研究者はこれが理解できななかったのだろうか?)、それだけでも雑種起源(いわゆる一代雑種)であることが容易に推測されるのである。また、小泉博士が発表した論文を読めば即座にわかることであるが、済州島産ソメイヨシノの個体数、生態、結実、親木の周辺の幼木の存在状況などの記載はなく、決して完成度の高い論文ではなかった。国立遺伝学研究所の竹中要博士(1903-1966)は、済州島起源説に疑問をもった研究者の一人であった(竹中博士も当初からソメイヨシノ済州島起源説を否定するために研究を立ち上げたわけではなく、小泉説の裏付けを得るという視点から出発した)が、小泉博士と面談して”済州島におけるソメイヨシノの生態”について問いただし、それを確かめるために現地調査も行い、報告書にまとめている(竹中博士は「史蹟名勝天然記念物 11: 1, 1934」に報告したと自著の論文に記している)。これによれば、”済州島のソメイヨシノ”は自然林の中にあったのではなく、牧場として開発された地域の端にあったという。また、小泉博士が推定した済州島から日本への渡来についても竹中博士は考察しているが、いずれにしても小泉博士の済州島起源説に納得できず、ウイルソンの雑種起源説を確信するに至ったらしい。戦後、日本の統治から独立したばかりの韓国済州島への渡航が困難となったことから、竹中博士はオオシマザクラとエドヒガンの直接交配実験を試み、1962年、ついにソメイヨシノに似た個体ができることを確かめ、また両種が自生する伊豆半島でソメイヨシノに似た自然雑種と思われるものを発見したことは前述した通りである。
ソメイヨシノ済州島起源説の背景について
小泉博士が学術的に不十分なまま済州島起源説を発表したのはそれなりの理由があったと思われる。この説を発表した当時、植物分類学の中心は東京帝国大学にあって、彼はその分野では存在感の薄い京都帝国大学に所属し、しかもまだ助教授にすぎなかった。したがって、名声を得るにはインパクトの大きな業績が必要であり、フォーリーの標本の中にソメイヨシノに似たものを見つけたとき、ソメイヨシノ済州島起源説はアカデミアの世界に訴えるには千載一遇のチャンスと思ったことだろう。当時、金沢庄三郎(1872-1962)が日鮮同祖論(1929年)を著して間もない頃であり、朝鮮に起源をもつという内容の研究テーマは当時にあってはもっともタイムリーであって小泉博士は追い風と直感したはずだ。おそらく、小泉博士は功を焦ったために不完全なまま発表してしまったと思われる。教授に昇進してから済州島起源説に言及することはほとんどなく、自説に疑問を呈した竹中博士の研究にも積極的に協力したことから、済州島起源説が誤りであることにうすうす気付いていたとすら思える。このことは済州島起源説を発表してからまもなく、小泉博士が京都帝国大学植物園の園丁に命じてソメイヨシノの果実を集めさせ、播種して実生株を育てていたことを京都大学植物分類学教室の村田源博士が学術雑誌にショートノートとして書き記している(植物分類地理、15(4):116, 1954)ことから示唆される。京都大学植物分類学教室で小泉博士の後継となった北村四郎博士(1906-2002)の著になる『原色日本植物図鑑・木本編』(保育社)ではソメイヨシノを雑種起源としているのを始めとして、小泉博士の直弟子ですら済州島起源説をまともに支持するのは見当たらないのは、小泉博士が教え子にすら自説を強いていなかったことを示している。筆者の知るところでは、荻沼一郎氏が竹中博士の雑種起源説を妥当とする一方で、小泉博士の済州島起源説を打ち消せない事実(これを事実としてバックアップする根拠が薄弱であることに大きな問題があるのだが)であると述べている(「ソメイヨシノの起源」、in ”田村道夫編「植物研究ノート」”)ほかは、小泉説を擁護する研究者は見当たらない。斎藤正二氏は自著『日本人とサクラ』でソメイヨシノの起源論争も紹介しているが、小泉説をあたかも捏造といわんばかりの非難をしているが、やはり小泉博士は科学者であって済州島起源説は捏造というほどのものではないことを指摘しておきたい。その証拠に分類学者の間から小泉博士に対するあからさまな非難があがることもなかった。なぜならサクラ類の形態による分類は、1950年に東京大学の原寛博士(1911-1986)によってようやくヤマザクラ・カスミザクラ・オオヤマザクラが独立種として形質の違いが明確になったにすぎないほど、困難な研究であったからだ(このことは竹中博士の論文にも指摘されている)。また、サクラ類は野生種でも種間雑種を生じやすいという厄介な特性があり、これまでに記載された相当数の雑種が独立種として記載されてきた事実もある。つまり、それまでは単に植物標本に対して学名を付け特徴を記載するに留まっていたのである。今日では分類といえば系統分類が当たり前となっているが、当時は種を的確に識別して種間の系統を解明するにはほど遠い状態であったのである。竹中博士すら、自著の論文中で済州島産のサクラをソメイヨシノと呼んでおり、ソメイヨシノと済州サクラが形態学的に区別しにくいことを図版を挙げて書き記している(染井吉野というサクラを参照)。こういう状況にあったから、ソメイヨシノも済州島産サクラのいずれも学名上はPrunus yedoensisとせざるを得なかったのである(小泉博士の済州島起源説を打ち消せない事実と述べた荻沼氏はこのことを理解できなかったようだ)。旧来の植物形態分類学では、一つの種を理解するには少なくとも百のさく葉標本が必要といわれるが、済州サクラの場合はこれとはほど遠いものであったのだ。朝鮮日報は”多くの日本人学者によっても自生地認証を受けた”というが、日本に植栽するソメイヨシノそのものが済州島に生育することを認めている学者は皆無のはずで、明らかに曲解である(もしいたなら少なくとも一人ぐらいは実名を挙げて然るべきだろう)。もう一度繰り返すが、日本のソメイヨシノは、オオシマザクラとエドヒガン(正確にはその一品種であるコマツオトメ)の雑種起源であり、済州島にはエドヒガンはあってもオオシマザクラ(伊豆諸島など日本でもきわめて限られた地域にしか分布しない!)は自生しないのだから、いくら形態でよく似ているといっても済州島産サクラとソメイヨシノが同じであるはずはないのだ。たとえ学名上は同種であっても系統(種の成り立ちのこと)は全く異なるのであるから、ソメイヨシノの原産地はそれが発生した日本であって済州島ではない。上述の米韓共同研究グループは済州サクラとソメイヨシノが明確に区別できることを遺伝子解析によって明らかにしたのもそれを支持する。済州島産のサクラをソメイヨシノというのは、わかりやすい例を挙げて説明するならば、旧ソ連共産党のブレジネフ書記長に顔が似ているといわれた往年の名大関朝潮(現高砂親方)をロシア人というに等しいことなのだ。韓国でこんな誤解あるいは曲解が横行するのは分類学の専門家に責任がある。『大韓植物図鑑』(李昌福、郷文社、1985年)では、Prunus yedoensisをソメイヨシノとし雑種起源であると明記する一方、済州島産サクラは、for. nudiflora Rehderとケーネの変種を格下げしているものの、品種のレベルで区別している。ところがそれより新しい植物図鑑である『原色韓国植物図鑑』(李永魯、教学社、1996年)ではPrunus yedoensisをワングボッナム(済州桜)として済州島漢拏山に生育するものとし、「漢:染井吉野櫻 英:Japanese cherry Pontomac cherry 日:Somei-yoshino-zakura」と記載している。これでは、朝鮮日報が日本のソメイヨシノやポトマック川のサクラを済州島原産と考えるのも無理はないだろう。済州島産サクラとソメイヨシノが学名上で種が同じとしても、系統的に違うということが全く伝わらないからである。因みに、Prunus yedoensis Matsumuraは東京に植栽されていたソメイヨシノをタイプとして松村任三(1856-1928)が命名した学名であって、済州島産サクラに対して付けられたものではなく、その
基準標本は東京大学に保管されているのだ。済州島産ワングボッナムをPrunus yedoensisとするのであれば、ホロタイプに準ずるアイソタイプたる標本があるはずだが、仮にあったとしても国内外の植物分類学者に認められたものでなければならない。そうでなければ原色韓国植物図鑑は単なる一般向けの植物図鑑にすぎず、いわゆる専門書として認知されないだろう。おそらく韓国人植物学者の一方的主張に基づくものではないだろうか。いずれにせよ日本にしか発生し得ない交配雑種が済州島に自然生するという明白な論理矛盾があるので、世界からはこの見解は絶対に支持されないだろう。韓国の分類学者がこれを放置することは学者としての自らの名声を著しく傷つけるものであり、世界から相手にされないのは目に見えている。ある分類学者から聞いた話であるが、現在の韓国では漢字を排除してしまったため、大半の韓国人は漢語由来の語彙を正しく理解できないという。以上、述べた問題は系統分類学を理解していれば、容易にわかるはずなのに、専門家でさえ単純なミスを犯していることは、現在の韓国人分類学者が「系統」という意味を理解していないといってよいだろう。「系統」をハングルだけで表せば、日本語で言えば「けいとう」に相当するので、それが何を意味するかさっぱりわからなくなる。根底には漢字を捨て去った韓国の国語教育の欠陥があるようで、問題の解決には時間がかかりそうだ。
ソメイヨシノそのものが済州島にあるという小泉説は否定されたが、それに似たエイシュウザクラの存在を支持する分類学者は日本にもいる。しかし、実物を見たことのある学者は少ないから、日本の図鑑や植物誌ではほとんど紹介されることはない。但し、エイシュウザクラそのものも、その実生苗が植栽されている国立遺伝学研究所によれば、実生苗からいくつかの変異にわかれるというから雑種起源であるらしい。竹中博士はエドヒガンとエイシュウヤマザクラの雑種と推定している(遺伝, 16(1): 26-31, 1962)。にもかかわらず、原色韓国植物図鑑はこれを無視して何の躊躇もなくソメイヨシノとしてしまった上、日本のソメイヨシノが染井で人工的に創られたという実証された事実を無視している(『大韓植物図鑑』では明確に記述していた)のは恣意的といわざるを得ないだろう。朝鮮日報はともかく韓国山林庁研究員があの記事にあるようなコメントをするとは、以上のことすなわち植物分類学の根幹を全く理解できていないことになるが、その責任の一端は韓国の分類学者にあるといってよいだろう。どうしてもソメイヨシノとエイシュウザクラを同種としたいのであれば、「ソメイヨシノPrunus yedoensis Matsumura、synonym P. yedoensis for.(ケーネにしたがえばvar.) nudiflora(ワングボッナム:王桜)」と記述するのがルールであるが、『原色韓国植物図鑑』はこれに違反していることになる。また、朝鮮日報の記事に「済州道内天然林100あまりの所でソメイヨシノが自生することが確認された」とあるが、果たしてそれが本当に小泉博士や竹中博士が見たサクラ(すなわちエイシュウザクラ)と同じであるかどうか、甚だ疑問である。形態分類の難しいサクラ属種を的確に見分ける分類学者はサクラの国たるわが国ですらそう多くはなく、学者の層の薄い韓国ではもっと少ないと思われるからである。
科学的に否定されても誤った説に固執するのは?
以上、ソメイヨシノの起源については、韓国では未だに済州島起源と信じられており、実際にその発信に積極的なメディアがあることを紹介した。韓国にもソメイヨシノが植栽されたところが多くあり、中には本家の日本にもないような立派なサクラの名所もあるという。また、日本のソメイヨシノよりも美しいという日本人もいるようだが、本ページの冒頭でも述べたように、地球温暖化の進行に伴ってソメイヨシノの成育は冷涼な朝鮮半島の方が適するようになり、「ぱっと咲いてぱっと散る」からだろう。これも韓国人がソメイヨシノ韓国起源説をより強く信じ込ませる要因なのかもしれない。しかし、韓国人も最初からソメイヨシノを済州島起源と信じていたわけではないらしい。とりわけ反日色の鮮明な盧武鉉政権が誕生してから、日本を連想させるサクラを伐採する動きが顕著になり、これを危惧した日本人を含むグループが「ソメイヨシノ済州島起源説」を復活させ、伐採をやめるよう説得した結果だという。一旦、火がついたら止まらないのが朝鮮民族の性というか、自然科学系の研究者までがこれに便乗したような奇妙な研究結果を報告するのは如何にも韓国らしい(似たことは「植物:和名および学名に関する話題」でも紹介している)。朝鮮日報が日本の国花をソメイヨシノとしているのは必ずしも正しくない。冒頭で述べたように、一般通念としてサクラ亜属のいくつかの種をサクラと通称するのであって、ソメイヨシノだけがサクラではないからだ(但し、一般国民に圧倒的支持をうけているから事実上の国花といってよい)。日本には約十種のサクラ亜属が自生する(韓国のマスコミの中には、同国に自生するサクラが二十種以上あるとすることがあるが、自然交雑によって発生したものも含むので、真の野生種は日本よりかなり少ない!)が、そのうち日本固有といえるのはわずか三、四種である。分布域が広く日本で古くからサクラと認識されてきたヤマザクラやエドヒガンは朝鮮半島にもあるのだ(にもかかわらず、朝鮮半島では歴史的に”サクラ”は賞揚されることはなかった)。但し、日本には野生のサクラ種以外に里桜というオオシマザクラやヤマザクラなどから創出した三百種もの園芸品種群がある。サクラとは本質的にこれらも含めた総称なのである。韓国人がソメイヨシノだけをサクラと考えている限り、サクラをウリナラ起源として乗っ取ることは永遠にできないし、またとんだ見込み違いになるはずだ。なぜなら、欧米ではソメイヨシノよりむしろ里桜の方が高い評価を得ているからだ。ニューヨークのブルックリン植物園にセキヤマ(関山)という里桜の見事な植栽があり、開花期に多くの入場者を魅了している(本品種はポトマック川岸にも多く植えられている)。オランダには本家の日本よりも立派な里桜並木があるそうだ。これらは全てJapanese cherry(cherryとはサクランボの木のことであるからsakuraという名を世界に普及させたらどうだろうか。因みに英語でいうKorean cherryとは中国原産のニワウメのことであり、学名をPrunus japonicaという。かつて韓国のマスコミはポトマック川のサクラをKorean cherryと呼ぶべきだと主張したことがあったという)と呼ばれ、前述したように、その母種であるオオシマザクラは伊豆半島から伊豆諸島の限られた地域にしかない特産種である。これを韓国原産とするのはどうころんでも不可能であるから、世界の物笑いにされる前にソメイヨシノ済州島原産説を撤回し、済州道住民のほか一般人に”正しい知識(真実)を知らせる”べきだろうが、肝心の専門家があのていたらくでは難しいかもしれない。むしろ、日章旗を燃やして「日本はソメイヨシノが済州島起源であることを認めよ」と主張し、それに日本の一部市民(学校の教師に多いのはなぜだろう?)が便乗してうやむやにする可能性の方を勘ぐりたくなる。実際、日本の学校でもソメイヨシノは韓国原産と教えられたとある生徒から聞いたことがある(この教師には是非本ページを精読していただきたいものだ)からだ。済州島のワングボッナムの植栽を進めたところで、その歴史の浅さをどう克服するのだろう。朝鮮から離れた孤島に稀産するワングボッナムと、江戸の繚乱たる園芸文化を背景にして生まれた東京生まれのソメイヨシノとでは、ブランドからして勝負にならないのではないか。ワングボッナムは「王桜の木」という意味だが、漢語読みである(漢字を使わない最近の韓国人は多分知らないのではなかろうか。因みに日本語でこれに近い名前をつけるとすれば「桜花木」(おうかぼく)という野暮ったい名前になる。これに比べればサクラの語感の何と美しいことか)ことは明らかである。すなわち、朝鮮半島にはサクラに対するハングル名が全くなく、文化史的背景も全くないことを示唆するのである。ソメイヨシノは、サクラの名は冠していなくても江戸時代の園芸の中心であった染井と、古くからサクラの名所であった吉野という、両方の地名を冠していてずっと由緒がある。また、わが国では純粋な和語である「サクラ」の名が1300年前の万葉集(ウメの三分の一にすぎないが、44首の歌に詠われている)ほか上代の古典(『古事記』・『日本書紀』)に頻出し、平安以降の古典文学から近世に至るまで、サクラが日本文化に対して大きな影響力をもっているのはいうまでもないだろう。江戸時代末期には「さくらさくら」という歌曲まで作られた。「花の文化史」という観点から確固たる歴史的基盤のある日本に対抗して、韓国はワングボッナムをどう仕立て上げていくのか見物であるが、野卑な言葉であるが「日本文化のぱくり」だけは遠慮願いたいものである。
他に類例があるソメイヨシノウリナラ起源説
済州島起源説は韓国に植栽されているソメイヨシノを救わんがための方策であったと推定したのだが、この手法は韓国唯一の日本和歌詩人であった孫戸妍 氏(1923-2003)が反日民族主義者からの攻撃をかわすためにも使われているから面白い。「和歌は新羅の郷歌が起源だ」というのがそれで、ここでは万葉集が新羅起源とされている。別ページでも説明してあるように全く根拠のないものであるが、民族主義者の執拗な反日攻撃をかわすには効果覿面だったらしい。もっとも、この手法は韓国人が編み出したものではないらしく、孫氏を支援する日本人グループ(氏の歌集の出版を援助したという)が言いだしたのが最初らしく、それをろくに検証もせずに真に受けたのは情緒が論理より優先すると定評のある韓国人の面目躍如といったところだろうか。古典文化の蓄積が日本や中国の十分の一以下(実際には数百分の一ともいう。日本の大学に朝鮮語学科はあっても朝鮮文学科がないのは資料が少なすぎて学問として成り立たないからである)しかないという韓国の民族主義者にとっては日本古典文学の至宝である万葉集がウリナラ起源というのだからさぞおいしい話だったに違いない。これに関連して思い当たることがもう一件ある。筆者はある大学で「日本の植物と民俗文化」について講義したことがあるのだが、2006年の11月ころ、端午の節句の菖蒲湯についてその起源は中国にあると中国南朝の梁の宗懍が著した『荊楚歳時記』
(授業では「守屋美都雄訳注、帝国書院、昭和25年」本を参考にした)という古典を引用して説明した。ある中国人留学生がやってきて「端午の節句はやはり中国起源だったのですね」と述べたのには、当初は、さっぱりその真意が理解できなかった。その留学生に事情を聞いてみると、ちょうどそのころ韓国が「端午の節句」を自国固有文化としてUNESCOの世界無形文化遺産に登録したというのである。現在の中国人は「端午の節句」の由来は知らないらしく、『荊楚歳時記』のことは見たことも聞いたこともないらしい。ただ、多くの中国人が韓国の世界遺産登録に対して怒り心頭に発していることをネット上で知ったという。その留学生も、最初は韓国のいうことの方が正しいとも思っていた(なにしろ遺産登録するのはその国の政府機関であるから無理はない!)ようであるが、筆者の授業を受けてやっと自信が持てるようになった(筆者は当時韓国が世界遺産に登録したということを全く知らなかった。日本の新聞では報道されなかったように思う。)という。現在はオリンピック種目として定着したテッコンドウも韓国人がいうような長い歴史と伝統があるわけではないらしく、日本の空手や中国拳法を基にして創出したにすぎないらしい。「端午の節句」、テッコンドウのいずれもちょっとした考証をすれば、その起源が韓国国外にあることはすぐにわかると思われるが、国際社会はそんなつまらないことに時間をかける余裕がないのであろうか、あっさり韓国人のいうがままになってしまった。中国も被害者のはずだが、唐・宋すなわち中国史上もっとも文化的に光り輝いていた時代の古典が理解できない現在の中国人は単に傍観するしかないらしい。以上のことから韓国人(一部だけではないらしい)の「ウリナラ起源」というのは冗談と受け止めてはならないことがわかるだろう。その背景には経済発展で念願の先進国入りを実現したものの、世界に対してアピールすべき有形および無形の文化資産が驚くほど少ない(!)ことが挙げられるだろう。韓国を旅行したことのある人はわかると思うが、民俗芸能として紹介されているものが実はごく近年の成立であったりするのはその象徴といってよい。その点、多様な文化資産に恵まれたわが国は韓国人にとっては垂涎の的に違いない。ソメイヨシノの起源が科学的に結着がついているはずなのに、韓国の主要なメディアが未だに固執しているのは、その背後に日本の文化資産をそっくりコピーして自国起源としてしまおうという意図があると考えれば理解しやすい(このような意図がなければあっさり受け入れているはずだ)。韓国人が何でもかんでも自国起源にしたがるのは、世界に誇るべきものがほとんどない足下の心許なさに由来する構造的要因に基づくから、これからも簡単に収まることはないだろう。スポーツや一部のビジネスの世界で日本を圧倒するようになった韓国であるが、世界に通用するような固有の民俗文化の魅力は日本や中国に遠く及ばず、そう簡単に追いつけるものではないという焦りすら見え隠れする。歴史に視点を投ずると、韓国では古代から近世に至るまで全ての文化の流れを朝鮮半島→日本列島と考え、日本でもこれに迎合する歴史学者がいる。これに反した主張をすれば皇国史観論者などと一蹴される。驚くことに家永三郎氏(1913-2002)すら皇国史観論者とされているらしい。二年前の2008年は、第一回目の朝鮮通信使が派遣されて400年目の節目に当たるということで、全メディアが広く取り上げたのであるが、ここでも朝鮮通信使が日本に対して多大なる文化的貢献をしたと喧伝された。しかし、近世の日本文化を見てもどこにも朝鮮文化の影響を実感することはなく、具体的例も呈示されることなかった。おそらく、韓国の国民感情に配慮したものであろうが、事実をねじ曲げるような姿勢はいかがなものだろうか。弥生時代の稲作の伝播にしても、中国から朝鮮経由でしかも半島で確立された技術が渡ってきたと現行の教科書には書いてあるのだが、近年の自然科学的知見からするとむしろ逆ではないかという意見が強くなりつつあるらしい。地図上でみるとわかるのだが、中国揚子江流域(世界の稲作の起源地とされ、最古の稲作遺構が出土している)から朝鮮半島を経由して日本に伝播するには大きく迂回しなければならず、いかにも不自然さを感じる。最近、ソウルでは日本料理の学校が大人気だという。韓国の大新聞がわざわざ社説で韓国料理を世界に売り込むべきだと主張する(朝鮮日報、2008年2月8日)ほどだから、ひょっとしたら次の韓国の文化テロの対象は日本料理ではないかと勘ぐりたくなる。現行の韓国料理をブラッシュアップしても世界に広く受け入れられる可能性は低い(80年代に日本でも一時期流行したが、最近ではとんと見かけない。韓流ブームの中にあっても復活することはなかったのは、あの癖のある味について行けない日本人は多いことを示す。実は筆者個人としては韓国料理は大好きであるが)だろうから、それなら日本料理を片っ端から韓国起源とし、韓国固有のグルメとして売り出そうと、科学的証拠から否定されてもなおかつソメイヨシノを韓国起源と主張する今日の韓国人なら考えかねないだろう。実際、ウイーンの寿司レストランの多くは韓国人が経営しており、中には寿司といいながらsushiではなく韓国語名としている(最近の韓国では日本語の排斥が著しいという事実がある)ところも出始めているからだ。そして彼らは寿司を韓国料理ということに躊躇しないのである。以上のことはソメイヨシノの起源とは全く関係はないが、その論争過程に奇妙な共通項が見い出されるのでここで述べたことを申し上げておく。