Laboratory of
Bioprospecting & Ethnobotany
創 薬 資 源 学 教 室
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2014年3月をもって研究室主任は定年退職しましたが、往事の記録としてこのページを残します。
当研究室の主要テーマの一つ東南アジアにおける学術調査のさわりをミニスライドショーでお楽しみできます。(→スクリーンに戻る)。自動ではありませんのでクリックしてください。

 一般に薬を創るには先導せんどう化合物かごうぶつ(シードまたはリード化合物ともいいます)という物質が必要です。先導化合物とは、化学的に手を加えて効能を高め、より副作用の少ない薬を創出する際の基本となる「薬の種」というべき物質(シード物質の名の由来です)を指します。これは何らかの方法で人工的に創り出すか、自然界から探し出してくる必要があります。アメリカの著名な薬学者によれば、現在治療薬として処方されている薬の少なくとも4分の1は高等植物成分及びその誘導体ないし高等植物成分をモデルとして創製されたものだそうですが、実際高等植物は歴史的に多くの先導化合物を供給してきました。たとえば、解熱鎮痛薬として知られるアスピリンはヤナギの成分をモデルにして創られたものです。地球上に存在する高等植物は25万種以上で天然資源として最大の規模を誇り、高等植物が最も有力な先導化合物のソースであることは今も変わりません。創薬資源学教室では自然界から先導化合物を発掘するための基礎研究バイオプロスペクティング(bioprospecting)といいます)を行っており、パラワン島における野営風景です薬学では珍しくフィールドにおける植物学調査研究も重要な研究課題としています。キャンプやジャングルトレッキングなどのアウトドアスポーツ技術が研究の遂行上必要になることもしばしばです。バイオプロスペクティングは基本的に全ての天然物を対象とするのですが、高等植物だけでも25万種以上、この狭い日本列島及びその周辺地域に限っても1万種を軽く越え、あまりに膨大なので、本研究を円滑に進める有効な手段として民族みんぞく植物学しょくぶつがく(ethnobotany)研究も行っています。民族植物学とは人々がどのように植物を利用しているかを歴史的経緯も含めて調べる学問のことをいいますが、薬用情報に絞って調査研究を行えば効率よく熱帯雨林内で植物相調査をしているところです先導化合物を探索することもできるのです。過去にも民族植物学情報に基づいて新しい医薬資源が発掘されたケースも多くあり、それによって高等植物の薬用資源としての潜在力の高さが証明されてきたのです。教室担当教員が毎年東南アジアの熱帯雨林や南西諸島の亜熱帯林に出向いてフィールド研究を行っているのもバイオプロスペクティングと民族植物学を両輪として研究を進めているからです。また、東南アジア各地のローカルマーケットには生物多様性の豊かな熱帯の植物相しょくぶつそう(フローラ;flora)を反映した多用な生薬を入手することができるので、こうした伝統的市場での実地調査も重要な研究テーマとなります。バイオプロスペクティングを効率よく遂行するには、植インドネシアジョグジャカルタ市にて物の分類及び生態、植物成分の抽出分離及び構造決定とその生物活性試験のほか、膨大な試料を扱うことに伴う高度な情報処理技術など広範かつ高度な学際的知識を必要とします。また民族植物学では文化人類学など一見薬学とは無関係の分野の知識を要求されることもあります。わが国ではこのような広範な知識を要する学際分野は敬遠される傾向にあり、国際的にも遅れをとっていることは否めません。薄暗い熱帯雨林の内部です創薬資源学教室はバイオプロスペクティング、民族植物学を主要研究課題とするわが国では非常に珍しい研究室なのです。当教室は他の教室とは異なって本学施設の一つ薬用植物園の一角にある管理棟の中にあります。ここにはバイオプロスペクティングの一環としてこれまでに行われた国内外のフィールド調査研究により採集された植物さく葉標本(ph4114.jpg)は貴重な一次資料であって単なる押し葉ではありません生薬標本及び植物のさく葉標本(いわゆる押し葉、押し花のようなもので、右の写真はその実例です)1,000点以上が収納されている他、数千枚の調査研究に関する貴重な写真資料も保存されており、今までの研究成果がここに集積されています。また、フィールド研究ばかりでなく、これまでに採集した植物試料について有用な先導化合物を発見する試みとしてラボ内での研究も活発です。
 当教室の研究は、以上述べた自然科学的研究に留まらず、数年前より薬学会・生薬学会などでくすりの文化史に関する発表もしてきましたように、くすりの文化史の研究も視野にいれています。これまでに収集した植物試料の薬用情報を調べているうちに、いくつかの和薬わやく(日本固有の薬物で漢薬かんやくに対するものです)の歴史的由来についてこれまでの定説に疑問が生じてきたからです。薬用としての利用がどこまでさかのぼるのか文献学的に明らかにしなければならず、当然、検討する資料は和漢の古典医学書や本草書であり、研究としては非常につらいものがあります。時に、万葉集や古今和歌集あるいは源氏物語、honzowamyo枕草子などの古典文学も参照することも少なくありません(右は実質的に日本最古の本草書「本草ほんぞう和名わみょう」です)。これらの古典資料の記述の中には想像もしないような植物情報が含まれていることがあるからです。本年2月(平成22年)に「万葉植物文化誌」を刊行しましたが、万葉歌に詠われる植物名を和漢の本草書などの古典資料から解き明かし、それが実際にどんな植物種に相当するのかを明らかにすることを目的としたもので、二十年以上にわたる研究をまとめました。この分野では松田修先生ほか著名な万葉植物学者のすぐれた著作がありますが、本草学分野の検討がほとんどなされておらず、その結果、画竜点睛を欠く結果になってしまったのは否めません。この分野では生薬学ほか薬学の知識なしでは十分な解明ができないことも先人をして本草書などの検討を敬遠させたのではないかと思われます。「万葉植物誌」の執筆中に気づいたことは、万葉植物の多くが薬用植物であったという事実です。各植物の文化史的背景を深く詮索することにより、古代から近世までの日本人の生活に植物がどのようにかかわってきたかがおぼろげながら見えてきます。こうした研究が何の役に立つのか疑問をもたれる方も多いかと思いますが、江戸末期には考証学という学問が発達しました。当時は開国か攘夷かをめぐって国論が大きく割れ、経済的にも決して恵まれた時代ではありませんでしたが、こうした先人の地道な積み重ねが明治維新以降の日本の学術文化の発達に大きく寄与したともいわれています。当教室は、“薬になる天然物”から“薬を創製する”ための基礎研究から、野外におけるフィールド研究そして古文献を読みあさってくすりの文化史の解明を試みるまで、その研究分野の広さもさることながら、いずれも薬学とはかくなるものぞといえる真の薬学らしい研究室といえるでしょう。