続・マニラの名の由来と北海道の地名の由来に共通性をみた
To Homepage(Uploaded 2011/11/2)
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 前回のカラムではフィリピンの地名を話題にしてとんでもない方向に話がそれてしまった(一応、地名の由来に関係するから全くの無関係ではないが、今日でも一部の識者に絶大な支持される金達寿氏を痛烈に批判した)が、そのとき本題としようとしていたことをここで述べて見たいと思う。筆者はもともと天然物化学が専門であるが、最近ではすっかり万葉集関連の研究が本職となってしまった。NHK朝(平日)の教育テレビの番組に「ひめくり万葉集」というのがある。毎朝、一首の万葉歌を紹介し、ゲストが解説・コメントするというもので、非常に面白い番組であったが、別の時間帯に移され、見られなくなってしまった。ただ、一ヶ月分の収録内容をまとめたのが雑誌として出版されており、特集記事もあってなかなか面白いのだ。この雑誌の8月号の特集に「万葉の花々」という特集が組まれ、何と筆者に執筆の依頼があったのだ。一方、本業の方では、薬学会・生薬学会ではここ数年来薬史学関連の発表を続けているが、本草学・古典医学の解析が主目的であり、いずれも古文や漢文で書かれているから、ごく自然に国文学や中国文学に話が飛んでしまうのだ。すなわち、薬学領域としては極めてマニアックな研究をしているのである。本年8月、奈良県立万葉文化館で講演させていただいたが、話の90パーセントいやそれ以上は完全に文系の内容であったから、薬学専攻という紹介がなかったら聴衆はまちがいなく筆者を文系研究者と思ったことであろう。再び、話を元に戻すが、このカラムの話題は万葉集である。教科書では万葉集の歌をかな文字混じりで表記しているが、もともとは万葉がなという漢字で表記されている。このことは今日では一般人の多くが知るところであるが、奈良時代以前の日本語は8母音であったということはほとんど知られていないだろう。すなわち、上代特殊仮名遣いというのがあって、現代日本語の50音のうち、イ段のキ・ヒ・ミ、エ段のケ・へ・メ、オ段のコ・ソ・ト・ノ・(モ)・ヨ・ロの13音について奈良時代以前の上代には甲類と乙類の万葉仮名の書き分けが見られ、両者は厳格に区別されていた(ここではWikipaediaを引用させていただく)というのである。現代語は5音韻であるが、そうなったのは平安以降ということになっている。ただし、 8母音説に異論もあり、特に昭和50年代に多くの異説が出されたという(Wikipaediaによる)。筆者もManila、 Narraの語源を考えている最中に8母音説に疑問を感じるようになった。日本語はもともと字をもたず、本格的に漢字を導入して表記するようになったのは7世紀以降にすぎない。平安の文献では8母音を前提として記述された文献はないから、わずか2世紀足らずのうちに日本語の音韻が大きく変化したことになる。語彙の大幅な変化は考えやすいが、音韻の変化はそう簡単に起こるものだろうか。江戸時代の初期と後期では300年近い時代的隔たりがあるが、この間に音韻の顕著な変化が起きただろうか。
 漢字はもともと表意文字であり万葉がなはそれを表音文字として利用したものである。したがって、水と油の関係に等しいものであるから、漢字を用いて日本語を表記するのは相当の困難を伴ったことは想像に難くない。漢字の原音は古代中国語あるいはその古代朝鮮語訛りであり、それを現代日本語の単純な音韻に当てはめることを想像すればよいだろう。古代に日本人が文字を導入したとはいえ、実際の作業に従事したのは中国や朝鮮から渡来した帰化人のほか、渡航経験のあるごく限られた数の邦人であることはまちがいない。とすれば、万葉がなに当時の渡来人の音韻が反映されたとしても少しも不思議はないはずだ。中国人や韓国人の訛りのきつい日本語を思い起こせばよく、その結果が上代特殊仮名遣いとなったとは考えられないだろうか。平安時代になって現行の音韻になったというのは錯覚であって、邦人がかな文字を発明し自前の文字を持てば、当然のこととして本来の音韻を表そうとするのが自然の成り行きだからだ。
 万葉がなとはいっても全てが一字一音ではなく、万葉集の初期では漢語を音訓読みし、助詞に相当する部分を一字一音の万葉がなを当てることが普通に行われていた。神社の祝詞で用いられる宣命書きに残っているが、この方式は古代新羅語の吏読をまねたものといわれる。時にこれが必要以上に強調されて現代の韓国では日本に文字を教えてあげたと喧伝されることがある。吏読は朝鮮半島では程なく廃れ、それ以上の発展はなかった。このことから吏読はもともと完成度の低い方式であって、未完成のまま日本に移植されたことになる。朝鮮で吏読が廃れた理由として朝鮮語の音韻が複雑すぎたからとしばしば説明される。一方、日本では未完成の吏読をあっさりと改良に成功し、奈良時代には一字一音の万葉がなの体系が完成し、それで書かれた木簡も多く出土している。考えてみれば、朝鮮語の音韻は日本語より中国語にはるかに近いから、吏読を発展させて朝鮮版万葉がなを完成するのはさほど難しいとも思えず、そうならなかったのは何らかの理由があると考えねばならないのではなかろうか。しかし、これに関して専門家は多くを語ることがないのはなぜだろうか。音韻が複雑過ぎたからというのは言い訳にしか見えない。筆者はこの分野では全くの門外漢であるが、その背景には文字の利用頻度の多少が影響しているのではないかと考える。飛鳥・奈良時代の日本では万葉集にも引用されているように多くの歌集が刊行された。万葉集はその集大成というべきものであるが、平安時代になってもその傾向が続いた。和歌は漢文で書くわけにはいかないから万葉がなでということになるが、歌人には文字数が多すぎて使い勝手が悪かったことであろう。万葉がなの使用機会が増えれば増えるほど、その使い勝手を向上させようという意識は必然的に高まる。それがカタカナとひらがなの2セットの固有文字を創成する原動力となったと思われる。朝鮮で改良が進まなかったのは、何でもかんでも漢文で表記することに慣れすぎた結果、自国語で表現しようという意識が高まらず、吏読の改良が進まなかったのではないか。そもそも古代朝鮮の古典資料が少ないのは戦いなどで失われたのではなく、中国文献に頼りすぎて自ら文献資料を刊行しようという意欲が希薄であったともいえないだろうか。それは近世でも同様で、日本や中国に比べて圧倒的に資料が少なく、朝鮮語学科はあっても朝鮮文学科がないのはそのためであろう。
 平安時代に源氏物語を初めとする平安文学が誕生したが、その細やかな表現力に驚かされる。それは表音文字であるかな文字が発明された結果であることはまちがいない。雨後の筍の様に、源氏物語を始めとするいわゆる平安文学が誕生したのは、自由に自らの意思を表現できるようになったからであり、それまでは表音文字として複雑過ぎる漢字しかなく歯がゆい思いをしてきた反動と考えてよいだろう。「必要は発明の母」ということわざがあるが、日本でかな文字を生み出した原動力はそれだけの需要があったからである。一方、朝鮮半島で自前の文字の創出が大きく遅れたのはそれだけ文化的基盤が弱かったということではないか。