李白詩の海石榴はツバキ・ザクロのどちら?
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To Homepage(Uploaded 2014/4/7)
(関連ページ)万葉の花考—ツバキ神木ツバキとその語源
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 この3月末をもって教職を辞し、晴れて自由(?)の身となった。都合38年にわたる学究生活は数字上では長く見えるが、気の持ち様次第で時の流れは等速にも倍速、三倍速にも感じられるから不思議だ。その間、ニューヨーク・コロンビア大学で3年を過ごし、そのほか一週間以上の海外短期滞在は数知れず、とりわけフィリピンでの総滞在期間は半年以上、インドネシアも軽く3ヶ月を越え、かかる異文化のもとでの滞在はわが人生で貴重な体験となった。筆者は生薬学・天然物化学・薬用植物学そして民族植物学を研究テーマとしてきたが、理系分野ではすべてが世界共通の標準に向けられる。したがって学究的な意味の引きこもりすなわち“ガラパゴス化”することはまずない。自らの殻に閉じこもって研究しても世界に持論を発信できないからだ。晩年になって本草学・古典医学の研究にも手を染めるようになり、その流れからいつしか古典の植物研究にどっぷりつかることとなった。実験室あるいは野外での研究から、図書室で和漢の典籍を読破するという文系の学徒と変わらない日常生活を送ることになったが、ここに至って自分の意識の中にガラパゴス化がチラチラと感じられるようになった。ただし、根っからの理系の遺伝子のおかげだろうか、異分野における未知との遭遇においても、文系のカルチャーとの違いの方こそ強く思い知らされることあれ、殻に閉じこもるようなことはなかったと思う。何年前か前に本サイトで漢詩を紹介したことがあったが、今回は盛唐の大詩人李白りはくの詩を通解し、理系・文系のカルチャーの違いについて率直な感想を述べてみたい。

メル鄰女東窗海石榴
魯女東窗
海榴世ナル
珊瑚映ズルモ綠水
ラズスルニ光輝
淸香ヒテ
落日好鳥歸
ハクハ東南
低擧シテハン羅衣
わけリテ
キテくびマン金扉

 張健によれば、この詩は開元29(741)年、李白が41歳の時に思いを寄せる女性の家に植えられた海(石)榴を詠った作品という(1)。詩題に「海石榴かいせきりゅう」、本詩に「海榴かいりゅう」とあるが、五言詩の字数調整で「海石榴」を「海榴」としたもので、まったく同じ植物を指す(以下、海石榴で通す)。通例、植物漢名は本草学における学名に相当すると考えて差し支えないが、六朝詩にこの名が初見するにもかかわらず(2)、本草でこの名を見るのは明代後期の『本草ほんぞう綱目こうもく(李時珍)以降であり、本草正名どころか異名シノニムとなることすらなかった(3)。一方、わが国では万葉集ほか上代古典に散見され、平安期の『和名抄わみょうしょう』では「つばき」の訓を付ける(4)。しかし、海石榴がいかなる植物であるのか、日中間で見解が大きく異なる。中国の『汉语大词典(漢語大詞典)』は李白詩を引用した上で「海榴即石榴。又名海石榴。」として明確に石榴せきりゅう(ミソハギ科ザクロPunica granatumの異名と解釈し(5)、中国では事実上定説とされている。筆者は昨年の萬葉学会(於東京大学)で口頭発表を行い、海石榴は中国において日本産ツバキCamellia japonicaに付けられた名で、それが上代古典に移入されたこと、後に中国ではトウツバキCamellia sinensisという近縁種が発見されたため、海石榴の名は風化してザクロと混同されるに至った経緯を多くの典籍を引用しつつ明らかにした。この際、自然科学的知見を交えた客観的なエビデンスを呈示して判断の基準としたのであるが、理系の遺伝子をもつ筆者には当然の論理的研究手法であった。全部で四つの中国詩(六朝詩・唐詩)を取り上げて解説したが、その中に上述の李白詩も含まれていた。この詩では海(石)榴が石榴ではないと結論するに足る客観的エビデンスがあるようには見えないが、「世に稀なる所」と詠まれた句によって、八世紀の盛唐においてすら、海(石)榴が珍しい存在であったことを示唆する決定的な証拠と考えたのだ。ザクロは西域から伝えられた外来種で、中国本草では安石榴アンセキリュウと称され、本草では後漢後期に成立したと考えられている『名醫めいい別錄べつろく』に初めて収載された。これに対して六朝の本草学の泰斗陶弘景とうこうけいは「石榴は花の赤きを以って愛すべし。故に人多く之を植う。」(『本草經ほんぞうきょう集注しっちゅう』、500年ごろ)と注釈している(6)。すなわち、六朝時代の中国でも人家に植えられるほど普及していたのである。したがって、盛唐の時代にザクロがまれであったはずはなく、海石榴をザクロあるいはその一種とするのは完全に誤りであると結論したのである。
 驚いたことに、一部の文系諸氏にこの論法は通用しなかった。晉・潘岳はんがく「河陽庭前安石榴賦序」に「潘尼安石榴賦曰ふ、安石榴は天下の奇樹にして、九州の名菓なり」(『太平たいへい御覽ぎょらん』巻970「石榴」)とあるように「石榴」は「珍奇」な植物として詠むことが伝統である、李白は「石榴」と「海石榴」を特に区別しているとは言えないと指摘されたのにはさすがに仰天せざるを得なかった。というのはザクロは六朝時代においては珍しい植物であったというのであり、どうやら「天下の奇樹」を“まれ”と解釈しているように見受けられたからだ。えっ、それはおかしいではないか!潘岳は247年生まれ、300年没とされ、陶弘景(456年-536年)より200年以上も前の人物であるとはいえ、潘岳の時代よりずっと前に成立した正統薬物書『名醫めいい別錄べつろく』に正品として収載されているのであるから、当時、すでにザクロが普及していたと考えるのが自然である。まして陶弘景の時代より200年以上経た李白の時代において“まれ”であるとはおよそ考えにくいのではあるまいか。どうやら文系でもとんでもない勘違いをする人がいらっしゃるようなので原点に立ち返って説明するしかあるまい。まず、辞書で「奇」の意味を調べると、「1.めずらしい、ことなる、かわっている、2.あやしい、3.すぐれる、ぬきでる、以下略」(諸橋轍次・渡辺末吉・鎌田正・米山寅太郎『新漢和辞典』 大修館書店)とあり、必ずしも"まれ"の意としていないことが明らかになる。すなわち、「奇樹」は「数が少なくて目にする機会が少ない珍しい樹木」と「優れた形質をもつ抽んでた樹木」という二通りの解釈が成り立つのだ。“まれである”とは滅多に見ることがない、すなわち個体数が少ないことを意味するが、個体数が多くてもほかの植物と際立った特長をもつ場合も「珍しい」、「かわっている」ということがあるのだ。改めて『太平御覽』の当該の引用文を見てみると(7)、その後に長い記述があり、石榴が普通の植物とは異なる特長をもつことを強調していることが一目瞭然なのだ。



スル之士、或ベテ
而賦。遥カニ而望メバ
ナルコト隨珠耀クガ重淵
ラカニレバ、灼ナルコト
列宿ヅルガ雲閒。千房
同模ニシテ、十子如ナルガ
つかさどリテ、解シテ

まず各語句の説明をしておこう。隨珠ずいしゅとは濮水ぼくすい(「水經」に“瓠子河、東郡濮陽縣北河に出でて東に濟隂句縣に至り新溝と爲り、又東北に廩丘縣を過ぎて濮水と爲る”とあるが、所在はよくわからないものの川の名であることは間違いない)に住む神蛇が献じたものといわれ、隋の国宝とされた珠の意であり、天下の至宝を意味するようになった。すなわち光り輝くさま(煥)は天下の至宝たる珠が深い淵の中で輝くようだといい、まず初めにザクロの果皮が裂けて仮種皮に包まれた多くの種子塊が見えるさまを表す。次に列宿れっしゅく(天空の星座)が雲の間から姿を現してきらきらとしている(灼)ようで、多くの果実がみな同じ形で房をなし、十個あって一つのように見えるとというのである。それゆえ、ザクロを絶賛して「天下の奇樹」「九州の名菓」と形容しているのであり、けっして希少といっているわけではない。この後で記述内容はがらりと一変して薬用に言及し、飢えを治めて渇きを療じ、眠気を醒まし酒による酔いを止めると締めくくっている。以上はザクロの果実について描写しているが、実際、果皮を石榴皮セキリュウヒと称して中国では後漢時代から薬用とされていることは薬学分野ではごく周知の事実である。この部分の記述は潘岳によるものではないが、かけがえのない薬物であるが故に“天下の奇樹”であり、かつ食用にもなるから“九州の名菓”と表現したのである。西晋時代では珍しい存在であった可能性は否定し切れないが、少なくとも陶弘景の梁代において広く普及していたことは権威ある『本草經集注』に記載されているのだから、それを既定の事実として尊重すべきことは言を俟たない。李白の盛唐の時代における石榴については、750年ころに成立した医書『外臺げだい祕要ひよう王燾おうとうやそれより百年ほど前に成立した『千金せんきん要方ようほう孫思邈そんしばくには石榴皮を配合した処方が多く収載され、石榴は唐代に薬用としても広く栽培され薬用とされていたことがうかがえよう。さて、話を初めに戻すが、「石榴」を「珍奇」な植物として詠むことが中国詩文の伝統というが、陶弘景の記述をまったく無視し、その後の中国におけるザクロ事情にも言及せずにそう言い切ってしまうのはロジカルシンキングとは対極の暴論ではあるまいか。陶弘景は当時の超一流の道士・本草家・医家であって、歴史的にもよく知られた人物でもあり、たとえ本草の門外漢といえども中国の植物文化について云々する場合、その存在は決して無視してはならないはずだ。以上から潘岳のいう「奇樹」の意味は、少なくとも「まれな樹木」と「ほかの樹種にない際立った特長をもつ樹木」の二つの意があることを念頭に置いた上で、その二者択一でもって解釈するのが常道というものだろう。以上、どうやら理系というだけで「奇樹」の意味がわかっていないとステレオタイプ化されたようだが、普段から漢籍古典の白文を読み慣れてきた筆者は並みの文系研究者より読解力があると自負している。誤っているのは博捜、博引旁証を怠った文系の士の方ではなかろうか!
 また、別のところでも理不尽な指摘を受けたので紹介しておく。李白詩の「海榴」が「珊瑚」と比較されているのは、「長離の鄧林に栖むがごとく、珊瑚の綠水に映ずるがごとし」(晉・潘岳「河陽庭前安石榴賦」)、「還りて河陽縣を憶ひ、水に映じて珊瑚開く」(梁元帝蕭繹「詠石榴詩」)のような先例(以上、いずれも『藝文げいもん類聚るいじゅう』卷第86「果部上 石榴」より)を意識しているからであり、つまり明らかにザクロ「石榴」を詠んだ作品の流れを承けるものであるというのだ。正直いってこれもとんでもない見当違いであり、李白詩をきちんと読解し切っていないというしかないだろう。「綠水に映ずる珊瑚」に対比するのは真紅の派手な花であって、石榴に限った表現と考えるべきではなく、李白詩と潘岳等の詩をよく詠み比べれば単なる先例として意識したものではないことは明らかである。すなわち潘岳等は石榴を「珊瑚の綠水に映ずるが若し」と詠っているのに対して、李白は「珊瑚綠水に映ずるも、未だ光輝を比するに足らず」と詠んでいるのであり、暗に海(石)榴は石榴よりも美しいとの認識をほのめかしていることに気づかねばならない。もし海(石)榴が石榴と同じものすなわち「石榴」と「海石榴」を特に区別していないというなら、李白ほどの大詩人が何をもって「未だ光輝を比するに足らず」と詠むのであろうか。単なる先例(潘岳や梁元帝の詩)をコピーしたのではなく、それを引用した上で海石榴の美しさを殊更に強調していると考えるべきだろう。それになぜ李白がわざわざ「海(石)榴」という名を用いたのか、同じものと考えたのであれば安石榴・石榴でもよかったはずだ。常識的に考えればやはり李白は海石榴を石榴と非なるものと認識していたと考えるのが自然なのだ。かかることは李白詩の行間を読んでいればわかるはずで、理系の徒に解説されるようでは情けないと思うがいかがであろうか。
 そのほか、石榴の枝を葉や花や果実と同様賞美の対象とすることも、中国詩文の伝統であるとも指摘された。これは明らかに「願はくは東南枝と爲り、低擧して羅衣を拂はん」において筆者が卯日杖うじつのつえ(後述)に言及したことを暗に批判したものである。この句は自ら海石榴の枝となって東南の方向に伸ばし、思いを寄せる女性の羅衣("もすそ"のこと)を祓い清めてあげたいという意味で、李白の心情を表した句であり、本詩の核心をなす重要な部分である。石榴は生薬として用いられることは前述した通りで、中国では風水論に基づいて東方に伸びる根を珍重することがしばしばある。実際、『外臺祕要』や『千金要方』において、石榴皮を配合する処方でわざわざ東方根の使用を指示するものが少なからず存在する。しかし、枝葉に関しては、薬用は無論、賞美の対象とする例を聞かない。わずかに『全唐詩』卷785「石榴」の無名詩に「蟬うそぶきて秋雲に槐葉ととのひ 石榴香りて老庭に枝る」とあるが、ニュアンスはまったく異なることは歴然としている。筆者が海(石)榴の枝との民俗学的関連性を指摘した卯日杖は漢代の剛卯杖ごううじょうに由来するといわれる。通例、神木をもって作るが、中国で杖あるいは棒に作り僻邪の具とするのはモモであって、ザクロを用いた例は聞かない。この程度のことを博捜できないようでは文系の士として情けないとは思わないのだろうか。
 以上、筆者が受けた指摘はいずれも論拠が薄弱で、海石榴を石榴の一類とする説が誤りであることを指摘するに十分と思われるが、残念ながら議論が一方通行であったため、筆者の釈明は届くことはなかった。文系の世界には理系では当たり前の論文の再査読のカルチャーがないからだ。特に「奇樹」の意味については文系の学徒としては浅はかな考察であるから恥ずべきことだろう。これまでは李白詩の海石榴を石榴ではないとしてきたが、筆者はツバキと考えている。海石榴の名はザクロを意識してつけられたのであるが、その命名の経緯を説明できる学徒は理系文系を問わず多くはないだろう。ザクロ・ツバキのいずれも花が大きくて鮮やかな真紅、花芯(雄しべ)は黄色でよく目立つ。また、いずれの果実もこぶ状で堅い。落葉と常緑の違いはあるが、中国本草ではこれだけの共通性があれば同類の植物と認識する例はいくらでもあるのだ。かかることは本草の素養がなければ理解できないだろうが、本草学の専門家の言を聞き入れるほど文系世界は寛容ではないらしい。石榴が中国に伝えられたのは遅くても後漢の時代であり、『博物志はくぶつし』によれば前漢時代に張騫ちょうけんが西域から持ち帰ったという。一方、ツバキが日本から伝わったのは六朝時代とかなり遅く、当初は花実の特長がザクロに似ていて国外からもたらされたとして海石榴の名がつけられたと考えられる。『海棠譜かいどうふ(宋・陳思ちんしにある記述「唐贊皇たうさんくゎう李德裕りとくゆう嘗て言ふ、花名の中の海を帶ぶ者はことごとく海外り來ると」はまさに正鵠を射た説明といえよう。ツバキは日本原産で中国に自生はないが、現在、中国産ツバキとして知られるトウツバキ(漢名山茶サンサ)はずっと後(9世紀)になって発見された。したがって李白の時代の中国ではツバキは異国の珍しい花卉であった。
 『延喜式』の賜蕃客例に、第九次遣唐使(733年~735年)大使の多治比たじひの廣成ひろなりが持参した唐皇帝への贈呈品が列挙され、その一品に"海石榴油六斗"とある(8)。『しょく日本紀にほんぎ』の宝龜8(777)年5月23日に、渤海ぼっかいの使節都蒙クメンが黃金などとともに海石榴油を所望したと記述されている(9)。海石榴油とは海石榴から採れる油をいうのであるが、通例、植物から採れる油類は精油(エッセンシャルオイル)と脂肪油に大別される。長らく東洋に精油の製造技術はなく、近世になって西洋に伝えられたから、海石榴油がツバキの精油である可能性は皆無である。一方、ツバキの種仁を蒸してから圧搾するといわゆるツバキ油がとれ、現在の日本では化粧品などに利用されている。脂肪油とは主として種子に含まれる高級脂肪酸グリセライドを主成分とする非揮発性油分であり、実用的な意味で原料となる植物はごく限られ、どこにでもあるわけではない。わが国ではクスノキ科アブラチャンの実をまれに油料原料とすることがある。興味深いことに、朝鮮ではツバキに冬柏の漢名を充てるが、クスノキ科ダンコウバイ(クスノキ科別属植物)にもこの名が充てられ、その実を油料としていた。因みに冬柏はTsun-baickと音読し、日本語音に近いのはわが国から朝鮮にツバキの名が伝わり、音訳して冬栢に充てたからである(「神木ツバキとその語源について」を参照)。唐の皇帝への贈呈品とされ、渤海の使節が所望するほどであるから、当時のわが国で所在が確認されていないザクロを海石榴に充てるのは荒唐無稽といわねばならない。『延喜式』の主計上に、出雲国・周防国・筑前国・筑後国・肥後国・豊前国・豊後国・壱岐の各国から、中男作物として海石榴油の貢納が記録されていることも(10)、海石榴油が当時のわが国において重要な産物の一つであったことを示唆する。海石榴油がツバキ油であることは原料植物からの収量をみれば歴然とする。わずか一キロのザクロ油を得るのに500キロのザクロ果実が必要であることを文系の諸氏はご存知だろうか。しかも近代工場で機械を用いた場合の収量である。因みにツバキの場合、手作業であっても種子(果実の約6割を占める)からの収量は約10%(w/w)、すなわちわずか十数キロほどのツバキの果実があれば500キロのザクロと同量の脂肪油が得られるのだ。これで労働生産性の観点から海石榴油がザクロから作られるのではないことはおわかりいただけると思う。文系の士は瀟洒なオフィスでの仕事が多いことと思う。最近ではフィールドワークで汗を流すこともあると聞いているが、毎日実験室で夜遅くまで肉体労働を余儀なくされる理系とは雲泥の差がある。汗の重みはすなわち研究におけるエビデンスとなって推論を重厚にする。机上の観念論的解釈とはまるで重みが違うのだ。
 さて、李白の詩の海石榴がわが国からもたらされたツバキとすれば詩の解釈との整合性も考慮しなくてはならない。「海榴世に稀なる所」は中国に自生のないツバキであれば説明する必要はあるまい。李白は思いを寄せる女性(魯女)に海石榴を譬えているが、落葉樹のザクロに対して常緑樹のツバキは寒い冬でも青々としているから、どちらが相応しいかこれも説明する必要はないだろう。李白が魯女の羅衣を祓いたいと願った海石榴の枝については、ツバキであれば白く滑らかであるから、ざらざらの樹皮のザクロよりずっとふさわしい。また、海石榴の枝はわが国では卯日杖と称するものに相当するから古代日本と中国との民俗学的交流も視野に入ってくる点で注目に値しよう。『日本書紀』持統3年春正月甲寅朔に大学寮が御杖80枚を献上したと記録され、これがわが国における卯日杖の初見といわれる。天平勝宝4(752)年、孝謙天皇が大仏開眼供養の際に使用したと伝えられる椿杖(卯日杖)が正倉院に保存されている。わが国でツバキは神木として特別の存在であり、各地の神社によく植えられている。李白は親しい友人に阿倍仲麻呂がいるので、仲麻呂から伝えられた情報をもとにこの句を詠ったとも想像されよう。何事も中国から日本への文化の移入だけに目が向けられがちであるが、その逆がなかったとする方がおかしいだろう。
 冒頭でガラパゴス化について言及したが、経済的、政治的に病める日本の根源ともしばしばいわれる。理系分野では世界と共通の標準で競争を余儀なくされるから、その流れに身を委ねる限りにおいてガラパゴス化することはまずない。一方、文系の分野といえば世界から刺激を受けることがないから、無意識のうちにガラパゴス化に陥るリスクがあるだろう。わが国では文系と理系とは厳然と区別されているので、双方向の交流はなく大きな垣根が立ちはだかっている。この研究を通じて筆者は文系側の強い理系アンチパシーを身に沁みるほど感じたが、これが改善されないようでは学問的な活性化は望むべくもないだろう。筆者に向けられた指摘はいずれも正鵠を失したものであると断言するが、本ページを参照した方々の感想はいかがであろうか。
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引用参考文献
  1. 張健編著『大唐詩仙李白詩選』(臺北・五南圖書出版公司、1998年)。
  2. 逯欽立輯校「先秦漢魏晉南北朝詩下 陳詩10巻」(中華書局、1983年)、『陳詩』巻8所収。
  3. 李時珍著「本草綱目(張紹堂本)下」(北京人民出版社、1957年)。
  4. 京都大学文学部国語学国文学研究室編「諸本集成倭名類聚抄 本文篇」(臨川書店、1987年)。
  5. 羅竹風主編「漢語大詞典」(漢語大詞典出版社、1986年)、第5巻。
  6. 『證類本草』巻23果部下品「安石榴」所引:唐慎微撰・艾晟等重修・曹孝忠重校・張存恵増訂「重修政和経史證類備用本草」(南天書局、1986年)。
  7. 国会図書館デジタルコレクション:http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2551325?tocOpened=1。
  8. 国立歴史民俗博物館館蔵史料編集会編「貴重典籍叢書 : 国立歴史民俗博物館蔵 歴史篇 第16巻」(臨川書店、2000年)。
  9. 黒板勝美・国史大系編修会編「新訂増補続日本紀 前篇(普及版)」(吉川弘文館、1972年)。
  10. 国立歴史民俗博物館館蔵史料編集会編「貴重典籍叢書 : 国立歴史民俗博物館蔵 歴史篇 第15巻」(臨川書店、2000年)。