シャクチリソバ(タデ科)
Fagopyrum dibotrys (Polygonaceae)

shakuchirisoba

→戻る(2005.10.23;町田市小山)

中国原産の多年草で、栽培されていたものが逸出して本邦各地の河原などに帰化、生える。いわゆるソバの同属異種。地下茎は太く木質で、茎は中空で無毛、根茎より束生して高さ50〜100cmに達する。葉は互生し、長い柄があり、基部は心形ないし矢じり形、先は鋭く尖り、無毛である。花期は7月~10月、上部の葉腋から花茎を伸ばし分枝し、その先に数個の白花からなる散房花序を形成する。花の径は5~6mm、花冠はなく萼が5深裂して花被片となり、雄しべは8個でやくは橙赤色、雌しべは柱頭が3本に分かれる(→花の拡大図)。熟すと黒褐色の痩果そうかとなり、広卵形で3稜がある。近年では至る所に本種が帰化しているが、明治時代に薬種として東京大学附属小石川植物園で栽培されたのが導入の発端という。属名はギリシア語で「ブナの木」を意味する“φαγός” (fagós;ラテン語ではfagus)と「麦」を意味する“πυρός” (purós)との複合語に由来する。ブナの実は、大きさこそ違うが、形はソバの実に似て食べられる。種小名は古代ギリシア語で「二つ」を意味する“δι-” (di-)、1房のブドウを意味する“βότρυς” (bótrus)と接尾辞“-ῖτις” (-îtis;〜に関係するという意) との複合語で、本種の実をブドウに見立てたものと思われる。和名は牧野富太郎が『本草ほんぞう綱目こうもく李時珍りじちんの「赤地利シャクチリ(巻第十八「草之七 蔓草類」)に当たるとして命名した(『頭註國譯本草綱目』)が、この考定は穏当とはいえないので、以下で詳しく再検証してみたい。
 本草における「赤地利」の初見は『新修しんしゅう本草ほんぞう蘇敬そけい、659年)であるが、詳しい記載は『圖經ずけい本草ほんぞう蘇頌そしょう、1061年)にあり、「所在の山谷に之有り。今はただ華山にづ。春夏に苗を生じ、蔓として草木の上にまとふ。莖は赤、葉は青く蕎麥の葉に似たり。七月、白花を開き亦た蕎麥の如し。根は菝葜のごとく、皮は黑く肉は黃赤なり。」(『證類本草』巻第十一「草部下品」所引)とある。これによれば「赤地利」は1.蕎麥きょうばくの類、2.蔓性であり、3.冬に地上部が枯れるが木質の地下茎は残り(宿根性)、これが基原植物同定の手がかりとなる。『重修じゅうしゅう政和せいわ經史けいし證類しょうるい備用びよう本草ほんぞう』の掲載する“華州赤地利”の図絵(華州を冠するので『圖經本草』より継承したと思われる)は明らかに蔓状植物として描写し、李時珍も赤地利を蔓草類に分類している。したがってシャクチリソバでは2が合わないから、本種にこの名を充てるのは誤りである(牧野の考定が誤っていたのではなく、後述するように、引用元の呉基濬の考定が誤っていた)。国書では『本草ほんぞう和名わみょう』に「赤地利 唐」とあるだけで、和訓はなく、当時のわが国ではまだ種の解明に至っていなかった。『大和やまと本草ほんぞう(貝原益軒、1709年)では「赤地利イシミガハ」とし(巻之八 草之四)、国書では初めて和訓をつけたが、今日いうイシミカワPersicaria perfoliataとすれば3が合わない。一方、『本草ほんぞう綱目こうもく啓蒙けいもう(小野蘭山、1803年)はツルソバPersicaria chinensisとし(巻之十四下 草之七)、これだと1〜3のいずれも満足する。因みに、Flora of Chinaはツルソバの漢名を『本草綱目』の火炭カタン母草ボソウ(巻第十六「草之五」)に充てている。火炭母草の本草における初見は『圖經本草』であり(『證類本草』巻第三十「本草圖經本經外草類」所引)、記載・附図のいずれも“蔓草”であるところを欠き、『本草綱目啓蒙』が「詳ナラズ」としているのはまさに達観といってよい(巻之十二「草之五」)。したがって火炭母草は、イヌタデ(Persicaria)属の1種であることは確かだが、ツルソバとするのは穏当ではない。Flora of Chinaはシャクチリソバの漢名表記を「金荞jīn qiáo(金蕎)」とするが、この名は『植物しょくぶつ名實めいじつ圖考ずこう(清・呉其濬ごきしゅん、1848年)に由来し、「赤地利、唐本草に始めて著錄す。李時珍、以爲おもへらく、卽ち本草拾遺の五毒草にして、江西、湖南通じ呼びて天蕎麥と爲し、亦た金喬麥と曰ふ。莖柔らかに披靡するも纏繞てんぜうせず。莖赤く葉は⾭に、花葉ともに蕎麥の如く、根を長じてあかく硬し。」(伊藤圭介校閲『重修植物名實圖考』巻之二十二「蔓草類」、1883年)とあるように、江西、湖南地方の通名を採用した。ここで見過ごしてならないのは、呉其濬は李時珍が『本草ほんぞう拾遺しゅうい陳蔵器ちんぞうき、739年)の“五毒草ゴドクソウ”を“赤地利”の異名としていること(『本草綱目』、前掲)を支持し、それは「纏繞てんぜうせず」すなわち「(ほかの草木に)まとわりつかない」という記述が示している。正統本草で五毒草を初めて収載したのは『嘉祐かゆう本草ほんぞう掌禹錫しょううしゃく、1060年)であり、「江東の平地に生じ、花葉は蕎麥の如し。根は緊して硬く狗脊に似たり。」という記載から蔓草とはしていない(『證類本草』巻第十一「草部下品」所引)。すなわち、李時珍は蔓草たる赤地利と蔓草ではない五毒草を「今ともに一と爲す」とし、呉其濬もそれを受け入れたのである。『植物名實圖考』の掲載する赤地利の附図が蔓性ではないのはその証左といえるが、呉基濬は赤地利を“蔓草類”に分類しているのと矛盾するように見える。赤地利についてもっとも詳しく記載した『圖經本草』を無視しているのは、ほかの草木にまとわりつかない蔓草ツルニチニチソウのようにそういう蔓草は少なくない)と解釈するのに都合が悪かったからと思われる。結論からいえば、本草にいう「赤地利」の基原植物はツルソバあるいはその近縁種群とするのが妥当である。一方、本種すなわちシャクチリソバは、本草の記載があまりに貧弱すぎるものの、当時の水準を考慮すれば附図は何とか許容範囲にあるから、『本草拾遺』の「五毒草」と『圖經本草』の「火炭母草」を二名同物の基原と考えればよいのかもしれない。
引用文献:References参照。