中国原産の多年草で、栽培されていたものが逸出して本邦各地の河原などに帰化、生える。いわゆるソバの同属異種。地下茎は太く木質で、茎は中空で無毛、根茎より束生して高さ50〜100cmに達する。葉は互生し、長い柄があり、基部は心形ないし矢じり形、先は鋭く尖り、無毛である。花期は7月~10月、上部の葉腋から花茎を伸ばし分枝し、その先に数個の白花からなる散房花序を形成する。花の径は5~6mm、花冠はなく萼が5深裂して花被片となり、雄しべは8個で葯は橙赤色、雌しべは柱頭が3本に分かれる(→花の拡大図)。熟すと黒褐色の痩果となり、広卵形で3稜がある。近年では至る所に本種が帰化しているが、明治時代に薬種として東京大学附属小石川植物園で栽培されたのが導入の発端という。属名はギリシア語で「ブナの木」を意味する“φαγός” (fagós;ラテン語ではfagus)と「麦」を意味する“πυρός” (purós)との複合語に由来する。ブナの実は、大きさこそ違うが、形はソバの実に似て食べられる。種小名は古代ギリシア語で「二つ」を意味する“δι-” (di-)、1房のブドウを意味する“βότρυς” (bótrus)と接尾辞“-ῖτις” (-îtis;〜に関係するという意) との複合語で、本種の実をブドウに見立てたものと思われる。和名は牧野富太郎が『本草綱目』(李時珍)の「赤地利」(巻第十八「草之七 蔓草類」)に当たるとして命名した(『頭註國譯本草綱目』)が、この考定は穏当とはいえないので、以下で詳しく再検証してみたい。
本草における「赤地利」の初見は『新修本草』(蘇敬、659年)であるが、詳しい記載は『圖經本草』(蘇頌、1061年)にあり、「所在の山谷に之有り。今は惟華山に出づ。春夏に苗を生じ、蔓と作して草木の上に繞ふ。莖は赤、葉は青く蕎麥の葉に似たり。七月、白花を開き亦た蕎麥の如し。根は菝葜の若く、皮は黑く肉は黃赤なり。」(『證類本草』巻第十一「草部下品」所引)とある。これによれば「赤地利」は1.蕎麥の類、2.蔓性であり、3.冬に地上部が枯れるが木質の地下茎は残り(宿根性)、これが基原植物同定の手がかりとなる。『重修政和經史證類備用本草』の掲載する“華州赤地利”の図絵(華州を冠するので『圖經本草』より継承したと思われる)は明らかに蔓状植物として描写し、李時珍も赤地利を蔓草類に分類している。したがってシャクチリソバでは2が合わないから、本種にこの名を充てるのは誤りである(牧野の考定が誤っていたのではなく、後述するように、引用元の呉基濬の考定が誤っていた)。国書では『本草和名』に「赤地利 唐」とあるだけで、和訓はなく、当時のわが国ではまだ種の解明に至っていなかった。『大和本草』(貝原益軒、1709年)では「赤地利」とし(巻之八 草之四)、国書では初めて和訓をつけたが、今日いうイシミカワPersicaria perfoliataとすれば3が合わない。一方、『本草綱目啓蒙』(小野蘭山、1803年)はツルソバPersicaria chinensisとし(巻之十四下 草之七)、これだと1〜3のいずれも満足する。因みに、Flora of Chinaはツルソバの漢名を『本草綱目』の火炭母草(巻第十六「草之五」)に充てている。火炭母草の本草における初見は『圖經本草』であり(『證類本草』巻第三十「本草圖經本經外草類」所引)、記載・附図のいずれも“蔓草”であるところを欠き、『本草綱目啓蒙』が「詳ナラズ」としているのはまさに達観といってよい(巻之十二「草之五」)。したがって火炭母草は、イヌタデ(Persicaria)属の1種であることは確かだが、ツルソバとするのは穏当ではない。Flora of Chinaはシャクチリソバの漢名表記を「金荞(金蕎)」とするが、この名は『植物名實圖考』(清・呉其濬、1848年)に由来し、「赤地利、唐本草に始めて著錄す。李時珍、以爲へらく、卽ち本草拾遺の五毒草にして、江西、湖南通じ呼びて天蕎麥と爲し、亦た金喬麥と曰ふ。莖柔らかに披靡するも纏繞せず。莖赤く葉は⾭に、花葉俱に蕎麥の如く、根を長じて赭く硬し。」(伊藤圭介校閲『重修植物名實圖考』巻之二十二「蔓草類」、1883年)とあるように、江西、湖南地方の通名を採用した。ここで見過ごしてならないのは、呉其濬は李時珍が『本草拾遺』(陳蔵器、739年)の“五毒草”を“赤地利”の異名としていること(『本草綱目』、前掲)を支持し、それは「纏繞せず」すなわち「(ほかの草木に)まとわりつかない」という記述が示している。正統本草で五毒草を初めて収載したのは『嘉祐本草』(掌禹錫、1060年)であり、「江東の平地に生じ、花葉は蕎麥の如し。根は緊して硬く狗脊に似たり。」という記載から蔓草とはしていない(『證類本草』巻第十一「草部下品」所引)。すなわち、李時珍は蔓草たる赤地利と蔓草ではない五毒草を「今並に一と爲す」とし、呉其濬もそれを受け入れたのである。『植物名實圖考』の掲載する赤地利の附図が蔓性ではないのはその証左といえるが、呉基濬は赤地利を“蔓草類”に分類しているのと矛盾するように見える。赤地利についてもっとも詳しく記載した『圖經本草』を無視しているのは、ほかの草木にまとわりつかない蔓草(ツルニチニチソウのようにそういう蔓草は少なくない)と解釈するのに都合が悪かったからと思われる。結論からいえば、本草にいう「赤地利」の基原植物はツルソバあるいはその近縁種群とするのが妥当である。一方、本種すなわちシャクチリソバは、本草の記載があまりに貧弱すぎるものの、当時の水準を考慮すれば附図は何とか許容範囲にあるから、『本草拾遺』の「五毒草」と『圖經本草』の「火炭母草」を二名同物の基原と考えればよいのかもしれない。
引用文献:References参照。