邦産高等植物を対象としたバイオプロスペクティング
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1.はじめに

 バイオプロスペクティング(bioprospecting)といってもその意味を知る研究者はわが国では極めて少ないようである。多くの研究者に質問してきたが、今までにきちんと定義できた人はほとんど皆無であった。ある英語力のある研究者はプロスペクティング(prospecting)が鉱物資源の試掘であることを知っていたので、ある程度類推できたようである。しかし、具体的にどんなことを行うものかは理解できなかった。総論としてバイオプロスペクティングとは地球上に存在する膨大な生物資源から特定の目的のために有用な遺伝資源を発掘し役立てることをいい、単なるプロセスではなく高度なシステムを構成するものと定義できる。生物資源を研究対象とする分野は多岐にわたり、さらにそれぞれの分野で独自の目標を設定していることもあって、わが国のような縦割り意識が強い社会においては共通コンセプトとしてバイオプロスペクティングを意識することが希薄のようである。創薬資源学教室の所属する薬学、とりわけ薬用資源分野においては、バイオプロスペクティングの主目標とは生物資源の中から薬の卵となるシード物質(先導化合物という)を探索することに相当するであろう。プロスペクティングが鉱物資源の試掘を意味することでわかるように、バイオプロスペクティングも鉱物資源の試掘と基本的コンセプトはよく似ている(→バイオプロスペクティングとは何かを参照)。鉱物資源は地下の深いところにに埋蔵されているが、それと同じようにシード物質は森など生態系(生物多様性)を構成する生物種に二次代謝成分として含まれている。自然界からシード物質を見つけ出すことができたとしても、医薬品に至るまでに安全性試験、臨床試験など気の遠くなるほどのステップ(→創薬プロセスを参照)を経なければならず、途中で頓挫することも少なくない。石油を例に挙げるならば、採り易いところは既に採り尽くされて今日では北海の海底油田やアラスカの北極圏内の油田などのように厳しい環境のもとでの採掘は普通のことであるが、バイオプロスペクティングにおいても新薬を創製するにはこれまで薬用として用いられたことのない植物や天然資源の中から発掘しなければならない(→関連ページ)。主な薬用植物は既に開発し尽くされており、一方でAIDSを始めとして新たな感染症が発生する中でこれまで以上に多くの治療薬の開発が危急の課題となっている。このような状況の中で未利用植物資源を対象としたバイオプロスペクティングへの期待は大きく、今後はそれを効率よく遂行するための様々な工夫が求められる。しかし、実際に価値を生み出せるかどうかは、鉱物資源の開発と同様、実際に実行してみないとわからない、すなわち投資上のリスクの高いことに留意すべきである。

2.抗菌シード物質の探索研究

 創薬資源学教室では、現在、邦産高等植物資源を対象とし、抗菌シード物質の探索を目的としたバイオプロスペクティングについて研究を進めている。病原微生物による感染症は、抗生物質の発見で克服された過去のものと考えられがちだが、実際には相次ぐ耐性菌の出現により抗生物質による感染症のコントロールは限界に近づいている。かっては有効な抗菌剤であったペネム、セフェム系などを中心とする抗生物質は薬剤耐性菌MRSAに対してはほとんどが無力となったといわれる。また、こうした耐性菌に対して著しい効果を示したバンコマイシン系抗生物質もわずか数年で耐性菌(VRE)が出現しており、更にβ-ラクタマーゼ阻害活性を有し、耐性菌に対する最後の切り札とさえいわれたカルバペネム系抗生物質に対する耐性菌の出現もごく最近報告された。近年、いわゆる院内感染による患者(高齢者や幼年者)の犠牲が増加傾向にあり、またO157禍による被害も続発しいずれも大きな社会問題となっている。薬剤耐性を有する病原微生物の蔓延はヒトの生存に対する大きな脅威であり、再び感染症に対する恐怖が現実のものとなりつつある。2001年9月11日の米国ニューヨークの同時多発テロ事件後、炭疽菌(Bacillus anthracis)を使ったバイオテロが全米を揺るがしわが国にも大きな衝撃を与えた。この際、米国国立衛生研究所(NIH)はニューキノロン系抗菌剤シプロキシンを第一選択薬、テトラサイクリン系ドキシサイクリンを第二選択薬として提起したが、いずれも薬剤耐性を考慮した選択であった。このことは病原微生物に対する服薬手段として今のところ耐性菌の少ない合成抗菌薬か、極めて副作用の強い抗生物質しか選択の余地のないことを示唆し、この現状の放置は人類に対して破滅的な結末をもたらすことは容易に想像できる。一般の抗生物質に対して耐性菌が出現しやすいのはその特徴的な化学構造にある。ペネム、セフェム系のβ-ラクタムをはじめ抗生物質はもともと微生物の生産する二次代謝物であるが、一見複雑そうな構造の割に原料たる一次代謝物から少ないステップで、しかも比較的簡単な有機化学反応で生合成されているものが多い。別の言葉でいえば、アミドやエステルにより骨格が形成されているものが多く、他種の微生物により比較的簡単に代謝分解されやすいことを示唆する。一方、前述のニューキノロン系抗菌薬は合成により創製したものであるが、化学構造的に代謝を受けにくい構造であり耐性菌の出現にはより長期間を有する。しかしながら、合成系抗菌剤は抗菌物質ライブラリとして絶対数が不足しており、多様な病原微生物に対応するには力不足であることは明らかである。本研究の着想の背景には、再び感染症の蔓延が世界的規模で危惧される中で抗生物質に代わる新しい抗菌剤の開発に必要な抗菌シード物質が絶対的に不足している状況がある。
 では新規抗菌シード物質はどこに求められるべきだろうか。世界中で医薬品として使われている化合物は1500ほどといわれ、少なくともその4分の1以上は天然化合物ないしその誘導体とされる。天然化合物をリードとして創製されたものを含めれば天然物起源の医薬品の割合は約70%以上に跳ね上がる。しかし、ヒトゲノムの完全解析が宣言されて以来、創薬分野における興味の中心は一気に分子標的薬の合成等による創製に移ってしまった感が強い。とりわけわが国では薬のシードを天然物に頼る時代は終わったとさえ断言する研究者もいるほどである。また、この二十年ではそれ以前と比べて天然物から新規シード化合物が見つかりにくくなったこともあって国内の製薬企業の中には天然物化学部門を閉鎖ないし縮小したところが多く、大学の研究者の中にも天然物を敬遠する風潮が顕著となりつつある。新薬に天然物由来化合物の占める割合が低下しているのは事実であるが、シードを探索する熱意が以前ほど強くなくなったこと、それとともにスクリーニング系の改良を怠ってきたこともその理由として挙げられよう。科学技術の進展とともにいずれはヒトゲノム情報に基づいて分子標的薬を設計、創製する時代が到来することは否定しないが、ヒトゲノム情報の解析だけで全ての疾病の治療薬をつくることができるわけではない。本研究の主題とする抗菌剤の開発では、ゲノム創薬の手法が無力であることは明白であり、耐性菌が発生しやすい微生物代謝物を除くなんらかのライブラリからスクリーニングするほか選択肢はない。当研究者は25万種以上といわれる高等植物起源の二次代謝物こそ、地球上に残された最後の、最大の、最も化学的多様性の高いライブラリであり、最も相応しい抗菌シード物質のソースと考える。高等植物に関する化学的検索の歴史は古いが、全種数に対する検索割合は意外に低く、全地球的レベルでは1%未満、研究され尽くしたといわれる本邦産植物ですら10%に満たない。かかる背景から、近年、熱帯雨林など生物多様性の高い生態系に産する高等植物を対象として創薬シードを発掘する試み、すなわちバイオプロスペクティングが世界的に注目を集めつつある。欧米ではコンピュータを駆使して分子標的薬を開発している製薬企業ですら天然物からシードを探索する部門を保持しており、上記でも述べたが創薬資源として天然資源を軽視する傾向の強いわが国はこの点で大きく遅れつつあると考えざるを得ない。現在では資源ナショナリズムの高まりで熱帯雨林に対するバイオプロスペクティングは一部を除いて足踏みを余儀なくされているが、わが国は亜熱帯から亜寒帯まで鬱蒼とした多様な森林生態系に恵まれ6000種を越す高等植物が分布しバイオプロスペクティングの観点から熱帯圏に劣らない魅力ある存在であることを忘れてはならない。とりわけ、亜熱帯に属する南西諸島は熱帯雨林に次ぐ豊かな生物多様性を有し創薬シードの探索に最も適した地域の一つであり、当研究室では南西諸島の高等植物資源をターゲットとしたバイオプロスペクティングの展開により新規抗菌シードの発掘にもっとも力を注いでいる。バイオプロスペクティングでは大規模なライブラリの構築が必須であるが、当研究室は創薬資源としての高等植物資源の重要性を早くから認識していたため国内外における学術調査研究等を通して多くの植物種の収集に努め、現時点で2500点以上のエキスライブラリ(植物種数では1200種以上)を保持している。本研究は天然物を対象とした創薬研究ではかってない規模で研究を遂行でき、有用な創薬シードを供給できる可能性をより高めることができると確信している。当教室は邦産高等植物資源を対象としたバイオプロスペクティングを主な研究テーマとするユニークな研究室である。小さな研究室ではあるが、目先だけの流行に流されず大きな志をもって研究を行っている骨太の横並び主義とは無縁の研究室であることを誇りとしている。