植物愛好家でムラサキの名を知らない人はまずいないだろうが、野生のムラサキを見たことのある人は少ないはずだ。北海道から九州の日当たりのよい草原に生えるムラサキ科の多年草だが、レッドデータブックでは絶滅危惧種に指定され、それを野生から見つけ出すのは現在では至難の業になっているからだ。愛好家の間では人気の高い野草だが、高さ30~70センチ、直径5~6ミリの小さな白い五弁花を茎上部の葉腋に少数つけるだけで、とてもマニアを夢中にさせるような野草には見えない。野に群生していてもほとんどの人は看過してしまうような目立たない野草だが、根を掘り出すとその印象は一変する。華奢な地上部とは不釣合いな牛蒡状の太い根を指でさわると鮮やかな赤紫色に染まり、根の周りの土まで同じ色で染まっている。また、根には独特の臭気があり、ただならぬものであることを痛感するだろう。つまり、ムラサキの真骨頂たるものは花ではなくて目に見えない地下にあるのだ。ムラサキの根は、古来、染料として用いられ、それで染まる色を「紫色」と称するのであり、植物名が色名に転じたのである。ともに同じ“むらさき”であるので、「茈」を植物たるムラサキに充て、「紫」をムラサキの根で染めた色を指すように中国では区別することがある。
ムラサキは万葉の名花としてもっとも人気の高い植物であるが、それを詠める万葉歌は、松田修氏によれば、十六首と意外に少ない。ムラサキをもっとも有名な万葉花にしたのは、次に示す額田王と大海人皇子との贈答歌であり、4500首を越す万葉歌の中でももっとも人気が高いのではなかろうか。ムラサキについて語るにはまずはこの歌から始めなければなるまい。
1.茜さす 紫野行き 標野行き
茜草指 武良前野逝 標野行
野守は見ずや 君が袖振る
野守者不見哉 君之袖布流
2.紫の 匂へる妹を 憎くあらば
紫草能 尓保敝類妹乎 尓苦久有者
人妻ゆゑに 我れ恋ひめやも
人嬬故尓 吾戀目八方
この歌の序に、「(天智)天皇の蒲生野に遊獵
し給ひし時」とあり、『日本書紀』巻二十七天命開別(天智)天皇紀に「五月五日に、蒲生野に
縦獵したまふ。 時に大皇弟、諸王、 内臣と群臣、皆悉に従ふ(五月五日 天皇縱獦於蒲生野 于時大皇弟 諸王 內臣及群臣 皆悉從焉)」という記述も見えるので、このときの情景を読んだものに間違いない。ここで遊獵について考察してみたい。遊獵とは藥獵を指すと見られるが、契沖や鹿持雅澄によれば鹿茸(鹿の幼角で漢方の要薬)をとるための鹿猟であると主張した。藥獵に関しては推古天皇の時代に三回挙行されたという日本書紀の記述がある。
巻二十二 豐御食炊屋姫(推古)天皇
十九年夏五月五日藥獵於菟田野
二十年夏五月五日藥獵之集于羽田
二十年夏五月五日藥獵也
天智天皇時代には前述の七年五月五日のほか、翌八年五月五日に「天皇縱獦於山科野」と日本書紀に記されており、二回行われたことがわかる。推古時代は薬猟、天智時代には縱獦(猟の意)と名は違うものの、いずれも五月五日という特定の日に行われていることに留意する必要がある。荷田春満は自著『万葉集僻案抄』の中で、薬猟が獣の猟であることを否定し、「五月五日薬猟は百草を猟する事也。釈日本紀にも荊楚歳時記をひけり。」と記し、それが中国荊楚地方に由来する習俗に基づくことを示唆している。これは『荊楚歳時記』にある「五月五日 四民竝蹋百草 又有鬭百草之戯 採艾以為人 懸門戸上 以禳毒気 是日競渡 採雑草(五月五日、四民(人民のこと)竝びて百草を蹋み、又百草をもって鬭ふの戯あり、艾を採り以て人と為し、門戸の上に懸け、以て毒気を禳ふ。是の日、競ひ渡り、雑草を採る。)」という記述を指していることは明らかである。“百草をもって鬭ふの戯”とは「闘草」をいい、陰暦五月五日にもっぱら女子が行う遊戯であって唐代に流行した。これは花器に草花を挿しその技能の優劣で勝負を競い合うものであったが、年中行事から脱して室町時代に勃興した日本独自の精神文化と結びついて華道に発展したといわれる。この荊楚の習俗は蓬で作った人形や虎を軒に吊るし、粽や柏餅を食べ、菖蒲酒を飲むなどの風習があったが、日本では菖蒲湯や柏餅などの風習が残り、五月五日の端午の節句となって今日に至っている。このほか、七草粥の風習も荊楚地方の習俗に由来するといわれ、古代中国それも中国中南部地方の習俗が後の日本文化の根幹に如何に深く影響を与えていることがわかるだろう。以上のことから、天智天皇の蒲生野の遊猟は鳥獣猟ではなく薬草猟であったという荷田春満の指摘は正しいだろう。また、紫野とはムラサキを栽培している紫草園であり、濫
りに入ることを禁じた標野であったので、ここでの鳥獣猟は考えにくいだろう。一方、蒲生野は現在の滋賀県蒲生郡と考えられ、現在の近江八幡市から蒲生郡安土町、竜王町、蒲生町、日野町あたりの湖東の南部一帯であり、近江大津京の近傍であった。また、この地は古代日本の歴史とも大きく関わっている。『日本書紀』の天智天皇八(669)年に、「是の歳、佐平鬼室集斯ら、男女七百人を以て、近江国の蒲生郡に遷し居く(是歳 佐平鬼室集斯等 男女七百餘人 遷居近江國蒲生郡)」という記述が示すように、新羅に敗れ滅亡した百済
からの亡命人七百餘人が居住を許された地でもあった。それはちょうど蒲生野の遊猟の翌年のことであった。一部の歴史家はしばしばこの地を劣悪な土地であって亡命帰化人に開墾させたと考えるが、『日本書紀』の天智天皇九(670)年に「于時天皇幸蒲生郡匱■野而觀宮地」とあるように、亡命者を入植させた翌年に天皇自ら行幸して宮地を視察し、また歌にあるように標野を設置したぐらいだから、蒲生野は近江朝廷にとってそれなりに重要な意味をもつ土地だったはずである。すなわち、鬼室集斯らは相応の待遇を受けていたと考えるべきであろう。
さて、ここでは紫野(武良前野)と紫草としてムラサキが詠まれているが、歌の内容からして植物としてのムラサキを指すのではでないことは明らかである。前者はムラサキが栽培されているが、番人がいて濫りに立ち入ることができない標野であり、後者は色を表す。紫草は『本草和名』によれば和名を无良佐歧とあり、また医心方でも牟良佐歧であるから、ムラサキという音は古くからあることがわかる。紫の色は後述するように古代では高貴の色であり、「紫の 匂へる妹」とは“この上なく高貴なあなた”の意味になる。この二つの贈答歌の解釈であるが、その背景はかなり複雑である。額田王の歌を直訳すれば、「濫りに立ち入ってはいけないこの紫野であなたは盛んに私に袖を振っていらっしゃいますが、番人が見ているかもしれませんよ」と何の変哲もない歌のように見える。一方、大海人皇子の返歌には、“人妻ゆゑにわれ恋ひめやも”という句がでてきて、そのまま直訳すると「この上なく高貴なあなたを憎いと思うのであれば、人妻であるのになぜこんなに思うものか」となってわかりづらい意味になる。これを理解するには、額田王が、当初、大海人皇子の妃であり十市皇女をもうけた(『日本書紀』に記載され事実である)が、後に請われて大海人皇子の同母弟である天智天皇の妻となった(確かな歴史的証拠はない)という複雑な相関関係を前提にして解釈する必要がある。これによって、この上なく高貴でいらっしゃる(私から天智帝のもとへ去った)あなたを憎いのであれば、人妻であるあなたには恋なぞするものですか、憎くないからこそ今でも(昔とおなじように)人妻となったあなたにこんなに恋焦がれているのですよという意味になり、額田王への思慕の止まない心中を吐露していることになる。同様に額田王の歌を意訳すると、禁断の紫野であなたは私に盛んに袖を振っていらっしゃいますが、番人が見つけて天智帝に気づかれないか心配です、と大海人皇子を窘める内容となる。逆に言えば、額田王が大海人皇子のもとを去って天智天皇の妻となったと推定しなければ、まともな解釈は困難であることを示唆している。この歌が薬猟の最中の歌であることを重視して、額田王は大海人皇子の妻であることに変わらず、“遊宴”の中で“人妻ゆゑに”と戯れて歌ったと解釈する意見が近年提出されている。しかし、集中に “額田王の近江の天皇を思ひて作れる歌”として「君待つとわが恋ひ居ればわが屋戸の
簾うごかし秋の風吹く」(巻四、〇四八八、巻八の一六〇六に重出)が収載されており、近江京時代には少なくとも額田王と天智天皇は深い関係にあったことは否めないだろう。天智天皇は中大兄皇子として大化の改新を挙行し、古代史の主舞台に華々しく登場した。即位したのは667年であり、百済の再興を図って援軍を送ったものの白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗を喫した(667年)後、大津へ遷都してからである。天智天皇と大海人皇子の関係が微妙であるのはその後の歴史を見れば歴然とする。天智天皇の息子は大友皇子であり、大海人皇子と額田王の娘である十市皇女を妻とした。天智天皇の死後、壬申の乱が起こり、大海人皇子が大友皇子を滅ぼして天武天皇となり、672年、都を飛鳥浄御原宮に移した。このとき、額田王の消息がどうなったのか、天武天皇となった大海人皇子との関係がどう変化したのか全く不明である。但し、集中に「吉野の宮に幸しし時、弓削皇子の額田王に贈り給へる歌」があり、これが額田王の消息を示す最後の記事である。吉野の宮の行幸がいつのことか正確な年代は特定されていないが、弓削皇子は699年に薨去したことから、持統七(693)年とする説がもっとも信憑性が高いと考えられている。とすれば、天武天皇の崩御(686年)後も生存していたことになる。額田王の歌が大海人皇子に対する未練を残したものと解釈すれば、天智崩御後は元の鞘に収まった二人の関係が忍ばれよう。確固たるエビデンスはないから、単なる歴史物語にすぎず、教科書に載せるようなものではない。
3.紫は 灰さすものぞ 海石榴市の
紫者 灰指物曽 海石榴市之
八十の街に 逢へる子や誰れ
八十街尓 相兒哉誰
海石榴市は、犬養孝氏によれば、奈良県桜井市金屋付近にあったとされる古代の市であって、山辺道、初瀬道、山田の道、磐余道など、多くの道が四通八達したところで、この歌で詠まれている八十の街とはそれを表したものという。海石榴市の名は道沿いにツバキが植えられていたことに由来するようだ。海石榴はツバキを表す中国の古名で、唐代の初期に日本のツバキがもたらされたとき、中国に似たものがなく、石榴のように美しい赤い花をつける異国の植物ということでつけられたものである(→ツバキを参照)。後に、トウツバキが中国南方から長安にもたらされ、それを山茶と命名してから海石榴の名前は中国の文献から消滅した。また、海石榴市の名は日本書紀の武烈紀にも見え、そこで歌垣が行われたことを示唆する記事がある。この歌は問答歌であり、その返歌として「たらちねの母が召ぶ名を申さめど路行く人を誰と知りてか」(巻十二 三一〇二、詠人未詳)が収載されている。したがって、この歌は歌垣の場で読まれたものであることは間違いないだろう。歌の意味は、海石榴市の街中であったあの人は誰だろうか、となる。古代において名を問うのは求婚の意思を表しているので男の歌とわかる。一方、相手の女の返歌は、母がいつも呼ぶ名を答えるように申されたようですが、この私を誰と知って名前を聞いているのですか、とやんわりと断りの意を表した歌である。
この歌の第一句、二句は紫草の染色でツバキの灰汁加えるとよい色が出ることから海石榴市を導く序詞となっている。歌の内容には直接関係しないが、このことから古代でも草木染に媒染という技術が使われていたことがわかる。ここで紫染めについて簡単に説明しよう。染色のプロセスは簡単で、乾燥したムラサキの根を、沸騰水をやや冷ました温水に浸けて膨潤させ、絞って染液をとる。これに布を浸して染め付けるが、この後に現在ではミョウバンを加えて媒染する。ミョウバンを加える前は赤紫色だったのが、媒染で鮮やかな青紫色に変わるのである。ムラサキの根に含まれる色素はシコニンと呼ばれる物質に様々な脂肪酸が結合した複合成分であり、水にはほとんど溶けない物質である。ムラサキ根の中に無数のシコニンを蓄えている小さな組織がある。温水で膨潤したとき、この組織が壊れて色素が湯の中に出てくるが、色素は水には溶けないため、染液は透明とならず懸濁液になる。放置すると顔料のようにどろどろの液体になって分離してしまうので染色工程は迅速に行う必要がある。現在、アルコールを混ぜて染液をつくることが多いのは色素がアルコールに溶けやすく、染色工程が楽になるからである。ミョウバンにはアルミニウムがイオンとして含まれていて、色素(シコニン)に結合し、その深色効果によって発色が赤紫から青紫に変わる。普通のアルカリでも深色効果はあるが、色落ちしやすいのでアルミニウムイオンの方が好ましい。ツバキの灰にはムラサキ色素の深色に適したアルミニウムが豊富に含まれているので、古代人はそれを使用したというわけである。紫染めの媒染には最初からツバキを使ったわけではなさそうだ。『和名抄』に「柃灰 蘇敬曰く、又柃灰あり、柃木の葉を焼きて之を作り染(料)に入れて用いる、今按ずるに俗に謂ふ所の椿灰の名は是なり」、「柃木 玉篇云ふ 柃 音零一音冷 漢語抄 比佐加木 荊に似て染灰を作るべき者なり」とあり、当初はヒサカキを染灰としたことがわかる。『和名抄』の蘇敬とは陶弘景著『本草經集注』を増補して『新修本草 』(659年)を作成した唐の本草学者であり、ムラサキの染色技術も唐から直接もたらされたものだろう。日本では、後に、ヒサカキのほかツバキ、サカキも用いるようになったのであるが、いずれも神社の神事に用いられるものである。これらはわが国の関東以西南には豊産する照葉樹林の主要構成樹種でもあるので、日本での試行錯誤の結果、用いるようになったのであろう。『本草綱目』には山礬を染灰に用いるとしているが、これはハイノキ科ハイノキ属の植物であり、江戸時代の日本では同科のクロバイを紫染めに用いた。クロバイの名も黒灰に因む。
ムラサキの色素シコニンは、世界に先駆けてわが国のある女性によって純粋な物質として単離された。この偉業はわが国初の女性理学博士となった黒田チカ(1884-1968)によるものだった。黒田は、当初、東京帝国大学への入学を希望していたといわれるが、当時の東大は女子への門戸は閉ざされていた。そこで、チカは東京帝国大学薬学科長井長義(1845-1929)の紹介で、帝国大学として唯一つ女性を受け入れる意思を表明した東北帝国大学理学部化学科の真島利行(1874-1962)の門戸を叩き、ムラサキの根の色素の研究を始めたのであった。この色素の研究は日本国内のほか英国でも行われていたが、最初に単離に成功したのが黒田であった。一九一六年のことであり、わが国の輝かしい天然物化学の金字塔の一つとなったのである。紫染めは中国で最初に始められたが、日本へは朝鮮より後れてその技術が渡来した。江戸時代には江戸紫や奥州の南部紫、鹿角紫など優れた染色技術を生み出したが、その歴史を辿ると日本の外に飛び出てしまう。鮮やかな紫色の色素が日本人によって初めて単離され、日本語に因むシコニン(shikonin)と名づけられたことは世界の科学史に残る偉業であり、しかもそれが女性であったということは、ムラサキという植物はよくよく女性に縁があるらしい。
推古11(603)年、聖徳太子は大和朝廷に仕える人の上下関係をはっきりさせるためと、氏や姓にとらわれることなく優秀な人材を登用することを目指して冠位十二階を定めた。徳・仁・ 礼・信・義・智に、それぞれを大・小に分けて十二の冠位をつくり、それぞれを異なる色で区別した。各冠位にどの色を当てたかは伝わっていないが、紫が最高位であったと考えられている。孝徳天皇の大化三(647)年、冠位七色十三階を制定し、『日本書紀』によれば、次のようであったと記述されている。
●織冠 大小二階 服色深紫 ●繍冠 大小二階 服色深紫 ●紫冠 大小二階 服色浅紫 ●錦冠 大小二階 服色直緋 ●青冠 大小二階 服色紺 ●黒冠 大小二階 服色緑 ●建武
この冠位は、大化五年、十九階に改定され、更に天智三年の二十六階、天武十四年の四十八階を経て、大宝元(701)年に大宝律令が施工されると律令官位制に移行した。いずれの官位(冠位)制でも紫色が最高位に列せられていることには変わりはない。万葉歌で紫の色に言及することはすなわち高貴を意味するわけである。しかし、紫色の使用を限定するにまでは至っていなかったことは、集中の「紫の帯の結びも解きも見ずもとなや妹に恋ひ渡りなむ(紫 帶之結毛 解毛不見 本名也妹尓 戀度南)」(巻十二 二九七四、詠人未詳)という歌でもわかるだろう。
この歌は巻十二の「物に寄せて思を陳ぶる」歌の一つで、詠人未詳であることから、決して身分が高い詠人でないことは確かである。しかしながら、下紐である帯に高貴の象徴である紫色のものを用いている。但し、物に寄せる歌であるから、実際にそうであったかどうかは定かではないが、いずれにせよ、紫色は禁色ではなかったといえるだろう。この歌の意味は、思いを寄せる人に会うこともないので、帯の結ぶことも解くこともせず、ただひたすら恋しく思うだけです、と少々エロチックな雰囲気を漂わせている。集中でこの歌の前後には類歌があって、「真玉つく遠近
かねて結びつるわが下紐の解くる日あらめや」(二九七三)、「高麗錦 紐の結びも 解き
放けず 齋
ひて 待てどしるし 無きかも」(二九七五)とやはり官能の匂いを漂わせている。
ムラサキといえば、やはり草木染を思い起こすが、その根は『神農本草經』の中薬にも収載される由緒ある生薬である。本草経では「紫草(日本では紫根という)」と称し、「心腹の邪気、五疸(五臓に熱がこもって起こる肝疸・心疸・火疸・肺疸・腎疸をいう)を治し、内蔵機能を補い気を益す。九竅(口、鼻、耳、肛門などの人体にある九つの穴をいう)を利し、水道(体内の水の循環)を通ず(治心腹邪氣 五疸 補中益氣 利九竅 通水道)」と記述されている。歴史の古い生薬でありながら、傷寒論のような古医方には紫根を配合した処方は稀で、後世の医家が創った新しい処方が多い。江戸時代の医師華岡青洲は、チョウセンアサガオの麻酔作用を利用して乳がんの外科手術を行ったことで世界的にも知られる名医であるが、多くの漢方方剤を創出していることはあまり知られていない。その一つに紫雲膏というのがあり、その名でわかるように紫根が含まれている。この処方は外傷、火傷、痔核、かぶれ、ただれ、あせもなど幅広い皮膚疾患用の外用薬として現在でもよく用いられる。紫根の色素成分であるシコニンおよびその誘導体には創傷治癒作用、抗炎症作用、殺菌作用のあることが確認されているので、皮膚疾患薬としての有用性が証明されているといってよい。通例、漢方薬というのは湯液(水で煎じたエキス)を用いるのだが、紫根の有効成分であるシコニンは水にはほとんど溶けない。紫根を熱湯抽出し、定法通りに湯液を半分ほどに時間をかけて濃縮すると、根にあるシコニンと類似成分を含む組織が分解して凝集したり、中には水蒸気とともに揮散するものもあって、シコニンの薬効を治療に役立てようとする場合、まことに都合が悪い。紫根を配合する処方の湯液で赤紫の色がついていないのはそのためである。華岡青洲の偉いところは、シコニンが脂溶性であることを見抜いて、ゴマ油、ミツロウ、豚脂を配合して膏薬にしたてた点にある。シコニンとその類縁体は油脂とともに皮膚から吸収され適度な薬効を示すのである。現在の薬は体の中のしかるべき部分に輸送されるように製剤設計されている。これをドラッグデリバリーシステム(DDS)と称しているのだが、華岡青洲はこれを考慮して処方を創出しているのである。そのほか、紫根のエタノールエキスにはラットの発情期を抑制して避妊効果のあることが確認されている。これはエストロゲン作用に基づくものではなく、性腺刺激ホルモンの分泌を抑制することによるらしい。色素成分のシコニンには全くこの作用はないので、別に活性成分が存在することになるが、まだ特定されていない。人で同じことが起きるかどうか確認されていないが、紫根を含む漢方処方薬の湯液を服用する場合、これを留意すべきことはいうまでもない。
さて、最後に、ムラサキの語源について考察してみよう。『言海』は「叢咲の義、花ニ黄白粉紅アレバイフト云フ、或ハ弁萼層層シテ開ケバイフカ。」という説明をしているが、花の咲き方によるものであり、個体群が群れ咲くという意味ではない。『大言海』になると、「或ハ又、群薄赤キノ約略ト云フ。」という色に関する別説を増補している。大槻文彦の提唱したものであるが、いずれにしてもわかりにくい説である。一方、植物語源の民間研究家として知られる深津正氏は、朝鮮語のPora-sakに由来するという宮崎道三郎説を紹介している(『植物和名語源新考』、八坂書房、昭和五十一年)。Pora-sakはムラサキの色を表す朝鮮語であって、植物名ではないとしていう。そしてムラサキという植物名はChi-tchiというらしく、これは茈草の朝鮮語読みらしい。つまり朝鮮でもムラサキの名は中国から借用していたのである。深津氏の考えでは、Pora-sakがムラサキの語源となるという。聖徳太子が制定した冠位七色で中国にならってムラサキが最高の色とされ、まず朝鮮から色の名が日本に入り、それが植物名にもなったというのである。おそらく紫色に染められたものが輸入され、色の名前が定着し、後に技術が渡来し、この色は日本にも自生する植物の根から取るとして植物名にも転じたといいたいようだ。この説の欠点は、Poraは本来はCha-jiであって、この俗語という点である。高貴な色とされる紫色に俗語が発生するとは考えにくい。仮にそうであったとしてもPora-sakが古代朝鮮語でもそう発音されたという証拠がないかぎり説としては成り立たないだろう。なにしろ、日本語のムラサキは古代から変わらないのだから、なぜ音韻的に無理をするのかという気がしないでもないが、なにしろ深津氏は金達寿氏の『日本の中の朝鮮文化』を無批判に受け入れてしゃにむに植物和名を朝鮮語起源にしたてようとしていたのである。もっとも、『植物和名の語源』(八坂書房、平成十一年)ではぐーんとトーンダウンしているが、この背景には「万葉集は朝鮮語で読める」という類の愚書の流行が廃れてしまったことがあるらしい。批判するだけでは、失礼に当たるので、言海説の修正案を提出しておこう。万葉集など上代の文献に「 末」という古語がよく出てくる。枝先や茎先のことであるが、ムラサキの花は茎や枝の先につくから、「末咲」を語源と考える。ムとウは簡単に転訛するから“うれさき”がムレサキを経てムラサキとなるのであって、音韻的には全く無理はない。日本語ではムとウの区別は苦手で、ウメでも江戸時代までムメと発音されることがあった。ウメの学名は、十九世紀の中頃よりちょっと前に、シーボルトがPrunus mumeと付けており、ここにムメの音の証拠が残っているのである。言海のいうような叢咲のムラサキは見たことのある人はいないだろう。どれも咲き方はまばらでつつましいものであるが、必ず枝先、茎の先に白い花がついているし、また茎先や枝先に付いていると地味な花でも意外に見栄えしてくるから不思議だ。英語でForget-me-notという同じムラサキ科のワスレナグサも小さな花ながら枝先に花が付いているからそこそこの魅力が感じられるのである。花の付き方は花そのものの魅力にも関わる重要な要素の一つなのだ。