万葉の花考-ツバキ(椿)-
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ツバキオトメツバキ

ツバキを詠った万葉の秀歌

 古代から日本人は多くの草木に独特の感性を示し、またそれが今日の日本文化の深層まで脈々と受け継がれている。万葉集には約166種の草木(中尾佐助、花と木の文化史、岩波新書、1986年)が詠われており、多くが叙情歌であるため、つい美しく見栄えのするものが多いのではと期待してしまう。しかし、必ずしもそういうものばかりが詠われているわけではなく、中にはスゲのように地味なものが44首も詠われていたりする。その中でツバキは例外的に目立つ草木といってよいだろう。現在、ツバキとは、栽培種、変種を含めたCamellia japonicaの総称であるので、万葉集でいうツバキは野生種のヤブツバキをいう。但し、この名称は全ての植物学者が納得している訳ではなく、北村四郎博士は野生品も栽培品も種として同じとして、野生品をヤブツバキと称するのに反対している。ここでは学会の主流の意見をとり、ヤブツバキの呼称を用いるが、藪ツバキという名は確かに聞こえはよくない。しかし、野生種にしては十分すぎるほど美しい草木である。万葉人がツバキに対してどんな感性も抱いていたか、ここで考証してみたいと思う。万葉集でツバキを詠める歌として以下に解説する8首のほか、長歌1首があるが、後世に園芸種として大流行した草木にしては、万葉以降の日本文学での地位は低く、ほとんど無視された状態といってよい。たとえば、平安時代の古今和歌集には皆無であり、『源氏物語』で「若菜上」にかろうじて出現するにすぎない。但し、平安後期から鎌倉時代の撰集には「玉椿たまつばき)」としていくつかの歌に詠まれている(→ツバキの語源について。ツバキは常緑広葉樹林、すなわち照葉樹林を代表する草木であるから、時代とともに照葉樹林が伐採され、都に近い人里から姿を消したためであろう。照葉樹林は伐採すると再生は困難で、富栄養地ではナラ-クヌギを中心とした落葉広葉樹林、栄養土が失われて貧栄養となった地ではアカマツ林が代償植生として出現する。したがって、ツバキは開発の進んでいない古代でこそもっとも普通に見ることができた名花ということができる。

1.巨勢こせやまの つらつら椿 つらつらに
   巨勢山乃   列々椿   都良々々尓
          見つつ偲ばな 巨勢の春野を
             見乍思奈    許湍乃春野乎

巻1 0054 坂門人足

2.河上の つらつら椿 つらつらに
   河上乃   列々椿   都良々々尓
          見れども飽かず 巨勢の春野は
              雖見安可受   巨勢能春野者

巻1 0056 春日蔵首老

 第一の歌は、「今は花のない巨勢山の椿をじっくりと見ながら、花の盛りの巨勢野の春の美しさを偲んでみよう」、第二は、「川辺に咲く椿をいくら見ても飽かないほど巨勢野の春は美しいものだ」と、野生ツバキが当時から美しい草木と認識されていたことが偲ばれる。「つらつら」は現在でも使われる言葉だが、「ツバキ」を引き出す言葉としてもこの2首で用いられている。また、いずれの歌も初二句は「つらつらに」の序詞である。巨勢路は藤原京から紀伊へ行くとき、必ず通る古道で、能登瀬川に沿っている。第二の歌の「河上の」は能登瀬川のことをいう。巨勢山は御所市古瀬(近鉄吉野線吉野口駅周辺)にある標高295メートルの小さな山である。この2首から、当時、この一帯は原植生としてヤブツバキが生える照葉樹林、植物生態学でいうヤブツバキクラスの植生帯が発達していたと推定されるが、現在は代償植生で置き換えられてヤブツバキはあまり生えていないようである(犬養孝、『万葉の旅』、社会思想社、1964年)。この地域は天皇の外戚として葛城氏とともに権勢を誇った豪族巨勢氏の根拠地であり、地名もそれに因んでいる。また、中国大陸からの渡来人が多く住んでいたとも伝えられている。この2首は巨勢一帯に野生するツバキを詠んでおり、内容も酷似しているので、どちらかが本歌でありもう一方の歌はそれを改作したことは明らかである。第一の歌は大宝元年(701年)辛丑の秋9月、持統天皇(645-702)の紀伊の国への行幸の際に詠まれたものとあるので、ツバキが咲いていない時期に坂門人足(さかとのひとたり;生没年不詳)によって詠まれ、花の盛りを想像したものである。第二の歌は元僧侶(名は弁基)で還俗して春日かすがの蔵首くらびとおゆ(生没年不詳)と称した歌人が詠んだもので、「或る本の歌」とあり、他書から引用された歌であることは確かだが、その書は現存しないようだ。坂門さかとの人足ひとたりが巨勢で詠んだ時はツバキの花はなかったので、あらかじめ巨勢にツバキが生えていることを知っていたか、あるいは人から見聞していなければ、その歌を詠むことはできない。照葉樹林に被われた山で、花のない秋のツバキを見つけるのは困難なので、春日蔵首老の歌の方がより古く、天皇の行幸に同行した坂門が巨勢に来たとき、他書に掲載されていたこの歌を思い出して詠んだものであろう。人足の歌で、「巨勢の春野を」は原文では「許湍乃春野乎」となっている。歌の始めに「巨勢山乃」とあるので、同じ地名にわざわざ別の字を当てるのは不自然に見える。金子元臣によれば、許湍は巨勢の字面を換えたもので、音訓を交錯させたものという。すなわち、「許=巨」、湍は激瀬はやせの意味だから瀬(瀬)と読むことができ、「湍=勢」となる(『萬葉集評釋』、第一冊、明治書院、1935年)。万葉集第三巻三一四に波多はたの朝臣あそみ少足をたり(生没年不詳)の歌として「小浪さざれなみ 礒越いそこせ道有ぢなる 能登湍のとせがわ 音之おとの清左やけさ 多芸通たぎつ瀬毎爾せごとに」があり、巨勢を貫流する能登湍のとせがわ(能登瀬川)の名を見ることができる。春日蔵首老は「河上の」を初句に用いてこの川を詠み込んでいるため、人足は巨勢に許湍の名を用いたのであろう。本歌とのバランスを考えた極めて技巧的な歌といえよう。

3.吾妹子わぎもこを 早見浜風 大和なる
   吾妹子乎  早見濱風   倭有
            吾待つ椿 吹かざるなゆめ
               吾松椿   不吹有勿勤

巻1 0073 長皇子

 この歌は天武天皇の第七皇子であるながの皇子みこ(?-715)によって詠まれたものである。早見浜風は早く吹く浜風の意味で、早見は地名を意味するのではなく、早く見たいの意味を込めて「早み」と掛け、「吾待つ」は浜辺に生えている松と掛けている。要約すると「我が妻を早く見たい、松が生い茂る浜を吹きぬける風よ、大和にいて私を待っている椿の所まで吹いて行ってくれ」という意味になるが、技巧に凝ったわかりにくい歌である。「三保の松原」で象徴されるように、浜といえば松、そして風を連想するのが日本文学の感性であり、古代の万葉集にも後世の定番の片鱗を見ることができる。ただ椿は実際に生えているツバキを指すのではなく、妻のことを暗喩したものである。美しい花をつけるツバキを例示することで妻に対する深い思いを表わしたものであり、類似例は後述の防人歌20-4418でも見ることができる

4.みもろは 人の守る山 本辺もとへには
   三諸者   人之守山   本邊者
  馬酔木あしび花咲き 末辺うらへには 椿花咲く
   馬酔木花開   末邊方   椿花開
  うらぐわし 山ぞ泣く 子守る山
     浦妙    山曽泣   兒守山

巻13 3322 詠人不詳

5.あしひきの 山海石榴咲く 八つ越え
    足病之   山海石榴開    八峯越
            鹿しし待つ君が いはづまかも
               鹿待君之   伊波比嬬可聞

巻6 1262 詠人不詳

 この2首はいずれも詠人不知の歌である。第四の歌で、みもろは三諸であり神の居場所、神座を意味する言葉で「御室みむろ」ともいう。したがって、「みもろの山」は決して固有名詞ではないが、武田祐吉(角川文庫、『萬葉集』 上下巻、1954年)によれば奈良県高市郡神丘(雷岡いかづちのおかとしている。三輪みわやま(大和盆地南部のJR桜井線三輪駅の近傍にある標高467メートルの山で山辺の道の一帯にある)とする説(犬養孝、『万葉の旅』 上下巻、社会思想社、1964年)もある。万葉集では「みむろの山」は幾つかの歌に詠み込まれているが、二つのいずれかなので、半ば固有名詞化しているといってよい。これは長歌であるが、かなり変格であって、五音七音二句繰り返しに五音七音七音三句の締めくくりという歌体から外れている。この歌は長歌の歌体が定着する前の古い時代の歌である。とにかくこの歌を要約すれば、「人が大切に守っている三諸山の麓には、一面にアシビ(アセビ)の花が咲き、頂上近くでは一面に椿の花が咲く。このように心にしみるほど美しい山は泣く子も守ってくれるだろう。」という意味である。神聖なる山に生えるツバキは神木でもあり、「みもろの山」は神社の神域であることが想像される。典型的な照葉樹であるツバキと古代人の信仰との関わり、とりわけ日本文化の根底を構成する照葉樹林文化を考える上で興味深い。但し、この歌から読み取れるアセビ、ツバキの生態には疑問が残る。アセビは、通例、山地の岩場など痩せた土地に生える。万葉集第2巻一六六に、「磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君がありといはなくに」(詠人不知)、同十巻一八六八に「河蝦鳴く吉野の河の滝の上の馬酔木の花ぞ地に置くなゆめ」(詠人不知)とあるのはアセビの本来の生態を詠っており、納得できる。しかし、第四の歌では、本辺(麓)にアセビが、末辺(頂)にツバキが生えていることになっている。また、ツバキが山の頂に生えるというのも考えにくい。この歌ではアセビ、ツバキの生態を取り違えているようだ。
 第五の歌は、「山ツバキが咲いている山々を越えて、鹿を捕らえて帰って来るのを、妻は無事を祈りつつ待っていることよ」という意味である。齋ひは神を祭って過ちのないように潔齋することであり、家族の者が旅に出るとき、家に残った者が齋ひをして旅の無事を祈るのである。いはづまとはこのように「神にお祈りして無事に自分を待ってくれている妻」という意味になる。「山ツバキ咲く八つ峰」の「八つ峰」は、具体的な地名が詠み込まれているわけではないので、どこの山であるかわからないが、おそらく大和盆地周辺の山々であろう。「あしひきの」は万葉集中にしばしば出現する「山」に掛かる枕詞である。「山ツバキ咲く八つ峰」の句は、古代の大和盆地周辺がヤブツバキを始めとする常緑樹で構成される鬱蒼たる照葉樹林で被われていたことを示唆する。冬でも鮮やかな常緑の硬い葉をもつ照葉樹林の中にぽつんぽつんとツバキの赤い花が散在していたことが想像されよう。照葉樹林は鹿などの大型草食動物にとって決して快適な生息環境ではないので、鹿猟は照葉樹林帯の山をいくつも越えた深山の落葉樹林帯で行われていたと推測される。したがって留守をあずかる家族は一家の主が無事に帰ってくるまでさぞやきもきしていたに違いなく、ひたすら齋ひに明け暮れていたのであろう。

6.わがかどの  片山かたやま椿つばき  まことなれ
  和我可度乃 可多夜麻都婆伎 麻己等奈礼
          わが手触れなな つちに落ちかも
             和我弖布礼奈々 都知尓於知母加毛

巻20 4418 物部広足

7.奥山の 八峯やつをの椿 つばらかに
  奥山之 八峯乃海石榴 都婆良可尓
           今日は暮らさね 丈夫ますらをとも
              今日者久良佐祢  大夫之徒

巻19 4152 大伴家持

8.あしひきの 八峯やつをの椿 つらつらに
   安之比奇能 夜都乎乃都婆吉 都良々々尓
          見とも飽かめや 植ゑてける君
             美等母安可米也  宇恵弖家流伎美

巻20 4481 大伴家持

 物部もののべの広足ひろたり(生没年不詳)は、武蔵国荏原郡すなわち現在の東京都品川区荏原出身の農民であり、天平勝寶七年(755年)二月、遠く九州は筑紫国に派遣された防人と万葉集にはある。663年、百済に援軍を送った日本軍ははく村江すきのえの戦いで唐-新羅の連合軍に大敗し、朝鮮半島から撤退を余儀なくされた。以来、90余年を経た当時も朝鮮半島、大陸からの侵略に備えるため東国の農民を派遣続けたのであった。この歌は東国の防人の望郷の歌であり、故郷に残した恋人に対する情愛を表わしたものである。当時の都は近畿地方大和盆地にあり、かって進んだ大陸文化の受け入れ口として栄えた九州はもはや辺境の地となっていた。広足の故郷の東国は都を挟んで九州とは反対方向にあり、やはり辺境の地と考えられていた。つまり東国の防人は辺境から辺境への移動を命じられたのであった。第6の歌を要約すると、「わが家の門辺に咲いている片山ツバキよ、お前は私が手を触れる前に地に落ちてしまうのか」の意味だが、故郷に残した恋人を片山ツバキに例えることで美人であることを暗示し、自分が留守の間に他の男に寝取られないか案じた切ない歌である。片山ツバキは”かた”山つばきであろうが、”かた”の意味はわからない。大伴おおともの家持やかもち(718?-785)は万葉集の編者でもあるが、歌人として多くの歌を残しており、そのうちの2首でツバキを詠っている。第七の歌は、天平勝寶二年(750年)三月三日、家持の館で催された宴会で読まれた歌である。“奥山の八峰の海石榴”は“つばらかに”を誘導するための句である。その意味は「奥深い山々に生えるツバキのように十分にくつろいでください、丈夫ますらをたちよ」である。第八の歌の意味を要約すれば、「ツバキをつくづく見ても飽きることがないと同じようにツバキを植えたあなたも見飽きることがない」となる。八峯とはあちこちの山という意味であり、“八峯のツバキ”で当時の大和盆地には至る所にツバキが普通に生えていたことを示唆しているものである。家持が越中の国に国司として赴任した(746年)事実から“八峯のツバキ”ではなく“八尾(富山県八尾市)のツバキ”、すなわちユキツバキとする説があるという。しかし、万葉集中に「八峯」は随所にあり、畿内にも八尾の地名や八尾の山の伝承があるから考えにくい。家持のこの歌は、当時、既にヤブツバキが植栽されていたことを示唆する点でも特筆に価する。この頃、八重咲きなどの園芸品種があったかどうかわからないが、実生から育てることはあったであろう。中尾佐助によれば、自然生の個体を違う環境に移植した時などに変異が発生する確率が高くなり、見栄えのする園芸品種が選抜できるという(中尾佐助、花と木の文化史、岩波新書、1986年)。第八の歌が詠うように観賞用にヤブツバキを植えていたとすれば、変異種が生まれる条件は揃っており、万葉時代でも何らかの品種が選抜されていても不思議はない。平安中期に兼明親王の選とされる類題和歌集である古今六帖には「八重の椿」が詠われている。ツバキはおしべがたくさんあり、それの一部が花弁に変異したものがすなわち八重咲き品種である。したがって万葉時代に八重咲き品種があった可能性は低くはないのである。室町時代から江戸時代にかけての日本の花卉園芸が中国をも上回るほど隆盛したことを考えれば、古代にその芽があったとしてもおかしくない。朝鮮半島ではどの時代も花卉園芸は日中両国のはるか後塵を拝していたから、その担い手は、間違いなく、豊かな日本列島の自然を知り尽くし独特の感性を育みつつあった在来の日本人である。