神木ツバキとその語源について
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詳細は拙著「万葉植物文化誌」を参照。

1.万葉集におけるツバキの表記について

 万葉集でツバキを詠んだ歌は11首あるが、原文は全て万葉仮名を含む漢字でで表記されている。次の歌では都婆伎、都婆吉とあるのがツバキである。これは典型的な万葉仮名による表記であって、当時の発音が確かに“つ・ば・き”であったことがわかる。したがって、現在のツバキの名は万葉時代とほとんど変わっていないのは明らかといってよいだろう。

1.わがかどの 片山つばき まことなれ
  和我可度乃 可多夜麻都婆伎 麻己等奈礼
          わが手触れなな つちに落ちかも
             和我弖布礼奈々 都知尓於知母加毛

巻20 4418 物部もののべの広足ひろたり

2.あしひきの 八峯やつをのつばき つらつらに
  安之比奇能  夜都乎乃都婆吉  都良々々尓
          見とも飽かめや 植ゑてける君
            美等母安可米也  宇恵弖家流伎美

巻20 4481 大伴おおともの家持やかもち

 しかし、万葉集ではツバキの表記は一つではない。次の2首では海石榴となっているが、漢字の音、訓のどちらで読んでも“つばき”とするのは困難である。これは万葉仮名ではなく、ツバキを意味する漢名、すなわち唐代のツバキに対する呼称と考えねばならない。

3.あしひきの 山つばき咲く 八つ越え
   足病之    山海石榴開    八峯越
            鹿しし待つ君が いはづまかも
               鹿待君之  伊波比嬬可聞

巻6 1262 詠人不詳

4.奥山の 八峯やつをのつばき つばらかに
   奥山之  八峯乃海石榴  都婆良可尓
           今日は暮らさね 丈夫ますらをとも
              今日者久良佐祢  大夫之徒

巻19 4152 大伴家持

 第4の歌の八峯乃海石榴、前述の第2の歌の夜都乎乃都婆吉は、いずれも「やつをの」の句を含んでいる。後者の歌の当該句は明らかに「やつをのつばき」と読めるから、これを万葉における慣用表現と考えれば、海石榴=都婆吉となり、海石榴をツバキと読んでも決しておかしくない。しかし、これでは決め手に欠けるので、別の手がかりを求めねばならない。延喜五(905)年に編纂された『延喜式えんぎしき』の賜蕃客例条には、遣唐使が持参した唐皇帝への朝貢品リストが載っている。第九回遣唐使(733年~735年)大使の多治比たじひの広成ひろなり(生没年不詳)が贈った品は「銀大五百両、水織絁・美濃絁各二百疋、細絁・黄絁各三百疋、黄絲五百絇、細屯綿一千屯(中略)綵帛二百疋、畳綿二百帖、屯綿二百屯、紵布三十端、望陁布一百端、木綿一百帖、出火水精十顆、瑪瑙十顆、出火鉄十具、海石榴油六斗、甘葛汁六斗、金漆四斗」であり、この中に海石榴油の名がある。石榴は西アジア原産のザクロ科ザクロPunica granatumのことなので、海石榴油が植物由来の油を意味することは明らかである。当時の東アジアでは植物精油(essentilal oil)の製造技術や利用文化もなかったので脂肪油以外はありえない。日本列島産の植物で油が採れるものは限られるので、海石榴油の原料植物としてツバキを当てることは妥当であろう。また、ツバキに海石榴の名が与えられた経緯については、中国における植物名の付けられ方を考証すれば理解できる。中国は、四川省の人口が最大であることからわかるように、基本的に内陸に文化の中心をもつ国である。海岸に近い地域に首都が置かれたことは少なくとも漢民族の中国ではない。随、唐の二つの大帝国の首都であった長安(大興城)も海から遥かに離れた地に存在する。したがって、中国人にとって海は辺境であり、異国は更にその海を越えたところにあると考えたのである。中国の植物で名前に海の名を冠したものは多いが、実際に海岸地帯に生えるものを除けば、全て外国産ないし中国にあっては辺境の地の産であって、この場合は海という名に地理的な意味はない。実例として、南アフリカ原産のサトイモ科観葉植物である海芋カイウ(Zantedeschia spp.)、中東原産のヤシ科有用植物である海棗カイソウ(ナツメヤシ;Phenix dactylifera)、南アメリカ原産のマメ科観葉植物である海紅豆カイコウズ(アメリカデイゴ;Erythrina crista-galli)などを挙げることができる。朝鮮から満州、極東ロシアに多いマツ科チョウセンゴヨウPinus koraiensisの古い中国名が海松カイショウ(現在では紅松を用いる)であるのも同じ理由である。したがって、海石榴は日本から献上されたツバキに対して与えられた中国名と考えることができる。当時の中国人も遣唐使が持ち込んだツバキの赤い花を見て感嘆したと想像され、同じ赤い色の花をつけ、当時の中国人がこよなく愛したとされる石榴ザクロ の名前を与えたたのであろう。当時の中国は文化、文明の先進国であり、中国人が付けた名前を遣唐使がそのまま日本に持ち帰り、それをツバキに当てたと推定できるのである。満州で高句麗の末裔が興した渤海国(698-926)が光仁天皇の御代宝亀八(777)年に日本に使節 都豪クメン を派遣したとき、海石榴油を所望したことが『続日本紀』(697年(文武天皇)から791年(桓武天皇)までの出来事をまとめた歴史書で797年に編纂されたとされる)に記されており、当時の日本の特産であったツバキ油が中国以外でもでも非常に賞用されたことが理解できる。今日でも、ツバキ油はオレイン酸が大半でリノール酸、リノレン酸はほとんど含まれず酸化されにくいという大変優れた特質をもつので、日本薬局方に収載され薬用とするほか、整髪料、化粧品基材、機械用油として広く用いられる。万葉集では「海石榴」の字は、ここでは紹介していないが、海石榴市として2首に見ることができる。海石榴市は「つばいち」と読み、「つばきいち」が訛ったものであることは明らかである。海石榴市は大和盆地三輪山の西南麓、現在の桜井市金屋周辺にあった古代の市で、ツバキが植えられたことからその名があるようだ。『日本書紀』の武烈記十一年八月条に歌垣の記述があり、多くの人が集まる地であったようだ。
 一方、次の3首では原文に「椿」の字が使われており、これは万葉仮名でも漢字の音や訓による当て字でもなく、ちゃんとした意味をもつ漢字である。今日の日本でもツバキを意味する漢字であるが、当時の中国語では別の植物に当てられていたという。なぜ万葉仮名ではなく一文字漢字で表したのであろうか。第5、6の歌で椿は「つらつらに 」を引き出す役割を果たしているので、前後関係から「つばき」と発音してもおかしくないことは確かである。

5.巨勢こせやまの つらつらつばき つらつらに
  巨勢山乃    列々椿     都良々々尓
          見つつ偲ばな 巨勢の春野を
             見乍思奈    許湍乃春野乎

巻1 0054 坂門さかとの人足ひとたり

6.河上の つらつらつばき つらつらに
   河上乃    列々椿    都良々々尓
          見れども飽かず 巨勢の春野は
             雖見安可受   巨勢能春野者

巻1 0056 春日かすがの蔵首老くらのおゆ

7.吾妹子わぎもこを 早見浜風 大和なる
   吾妹子乎  早見濱風   倭有
          吾待つつばき 吹かざるなゆめ
              吾松椿    不吹有勿勤

巻1 0073 ながの皇子みこ

 次に、万葉集の初期の歌にも見える「椿」がなぜ「つばき」に当てられるようになったのであろうか。中国語では“椿”とは日本に自生しないセンダン科チャンチンCedrela sinensisに当てられ、植物学的にツバキとは全く関係はない。なぜ椿の字が万葉集で用いられているのか、明確な説明はほとんどなされていない。中には、椿を、春に花を咲かせるツバキのために作られた国字とする意見があるが、この字は中国にもあるので誤りといわざるをえない。また、椿の字が使われていた万葉の初期では、漢字が伝えられて200年ほどしか経ていないので、自ら国字を造るほど漢字文化は成熟していなかったはずである。ここはその由来を植物学的見地から考証すべきだろう。チャンチンによく似たウルシ科植物にチャンチンモドキChoerospondias axillarisというのがあり、わが国でも九州の一部に自生が知られている。チャンチンモドキは中国南部からヒマラヤの亜熱帯地域に分布する植物で、チャンチンよりずっと実が大きく、果肉を除いた部分はツバキの実と似ていなくはない(右図の上半分は果実、下は種子)ので、混同したとしても不思議はない。チャンチンモドキの実は発酵して酒を造ることができるので、数少ない照葉樹林帯の有用植物として貴重なものだったと思われ、長崎県多良見町伊木力遺跡から果実遺体が大量に出土している。また、弥生時代の巨大な環濠遺跡である吉野ヶ里遺跡からはチャンチンモドキの材で作られた井戸が発掘されている(辻誠一郎ほか、『海をわたった華花』、国立歴史民俗博物館、2004年)。このようにチャンチンモドキが古くから九州で利用されていたのは確かであり、当時は現在よりも広く分布していたと推定される。チャンチンモドキは中国語で「香椿」と表記されチャンチンと同じ椿の字が用いられているので、中国で両種が混同されてチャンチンモドキを椿と誤認することは十分に起こりうる。一方、日本では、チャンチンモドキと実が似ているツバキと混同され、その結果、椿の字はツバキの意に転じたと考えれば、なぜ日本では「ツバキ=椿」なのか説明できるのである。どちらも実を利用するので、花や葉などの特徴は似ていなくても、混同されて不思議はない。但し、万葉集で読まれた椿は間違いなく「ツバキ」であり、以上の経緯で誤って転用された椿の文字を借用したにすぎない。
 万葉集は7世紀中ごろから8世紀中ごろまで130年間に詠われた歌を収録し追補に追補を重ねて出版されたものであり、漢字のもつ意味を捨てもっぱら表音文字として使う万葉仮名と漢字の音、訓の読みを交えて記述した。漢字は応神朝の五世紀始め(405年頃)に阿直岐あちき(生没年不詳)が伝え、それより少し遅れて王仁わに(生没年不詳)が論語を伝え、それ以降、漢字文化が広まったとされている。万葉時代はそれから200年以上経て、ようやく古代日本語による歌集を万葉仮名で編集できるようになったのであるが、漢字文化はまだ未熟であった。当時の日本人が依然として漢字を使いこなすのに四苦八苦していたことはツバキの表記が統一されていないことでも理解できるだろう。編者といわれ万葉集での歌の収録数がもっとも多い大伴家持は万葉後期の歌人だが、ツバキに対して万葉仮名の都婆吉とともに海石榴も用いているほどである。椿の字はかなり初期の万葉集でも見られ、また、時代の古さとツバキの表記文字の間の相関はあまりないようだ。ツバキの表記の混乱は、文字を持たなかった日本が朝鮮半島経由で漢字を輸入し、古代日本語の語彙に難しい漢字をどう当てはめていくか、当時の知識人が頭を悩ましたことを示しているのではなかろうか。
2.平安時代の歌集に現れる玉椿について
 ツバキは万葉集では10首以上の歌に詠まれたが、平安以降の文学ではほとんど名を潜め、わずかに『源氏物語』「若菜上」、江戸時代の俳句に少々出現する程度である。この傾向はツバキが花卉園芸で注目されるようになった室町時代以降でも変わらなかった。但し、平安から鎌倉時代の撰集で「玉椿たまつばき」として詠まれている歌が突如として出現する。その多くは賀歌で「八千世」や「八百万世」を序詞として伴う歌に詠まれている(下の第八、九)。そのころは「八千世」や「八百万世」であれば「松」というのが定句であった。また、いずれの椿も玉の字を冠して詠われている。「玉椿」の「玉」は美称なので何らかの祝い事に関連することはわかるが、次の同じ歌人(皇太后宮太夫俊成卿)による二つの歌(下の第十、十一)を比べるとその意味をよく理解できる。内容は全く同じだが、一方は「玉箒たまははき」、片方は「玉椿たまつばき」としているので、一種の語呂で玉箒を玉椿に置き換えたことがわかる。玉箒については、万葉集の大伴家持の第十二の歌に初めて現われ、平安から鎌倉時代の撰集の中にもこの句を手本に詠んだ歌が散見される。万葉時代にも初子の日の祝いはあり、燃燈ねんとうくさで作った箒(これを玉箒と称した)を小松に取り付けて掃くという風習があり、京都上賀茂神社に「燃燈ねんとうさい」として今日に伝えられている。正倉院御物の中に玉箒があり、天平寶字二年正月三日の銘記がある。家持の歌の前書きに「二年正月三日、召侍従堅子王臣等 云々」とあり、天平寶字二年と考えられているので、家持の詠んだ玉箒は御物と同じものではないかともいわれる。燃燈草はマメ科メドハギLespedeza cuneataに当たるという説もあるが、御物の玉箒はキク科の亜低木コウヤボウキPertya scandensでつくられている。さて、第十の歌の作者俊成卿は、初の日の歌ということで、平安時代に流行した「小松引き」を象徴する「の日の松」を詠った。玉箒も松も子の日の祝事に関係があるのだが、松は長命なので八千代を意味する。そして「玉ははき」を「玉椿」といいかえ、ツバキにも「八千世」や「八百万世」の意味を持たせたのである。ツバキは常緑で神木として崇められてきたから、「八千世(代)」や「八百万世(代)」を意味するとしてもおかしくはなかったのである。マツ、ツバキのいずれも寺社仏閣によく植えられる木であり、信仰、習俗と深い関わりのあることがわかる。しかし、これらの歌でイメージされているのは、ツバキの赤い花ではなく艶のあって生命力の溢れる厚い常緑の葉であることは間違いない。

8.続後撰和歌集巻第二十 祝の歌に
  ちはやぶる 伊豆のお山の 玉椿
           八百万世も 色は変わらじ

鎌倉右大臣

9.新千載和歌集巻第二十 慶賀歌
  神山の 嶺に生ふてふ 玉椿
           八千世は君の ためと祈らん

加茂経久

10.夫木和歌鈔巻第一 春部一 子日 正治二年百首
  玉ははき 初子の松に とりそへて
           君をぞ祝ふ しつのこやまで

皇太后宮太夫俊成卿

11.玉葉和歌集巻第七 賀歌 「正治二年後鳥羽院に百首歌奉りける時祝の心を」
  玉椿 初子の松を とり添へて
           君をぞ祝ふ しつのこやまで

皇太后宮太夫俊成卿

12.初春の 初子の今日の 玉ははき
  始春乃  波都禰乃家布能  多麻婆波伎
          手にとるからに ゆらぐ玉の
            手爾等流可良爾   由良久多麻能乎

巻20 大伴家持

3.ツバキの朝鮮語起源説は誤りである

 中国にはトウツバキCamellia sinensisという類似種が照葉樹林地帯に生育する。遣唐使が派遣された当時は華北の長安にはトウツバキは知られておらず、遣唐使が日本から持ち込んだツバキを海石榴と呼んでいた。しかし、唐代の末期になってトウツバキほか類縁種が導入され「山茶」と呼ぶようになった。なぜ茶の字が用いられているかといえば、同じツバキ科でチャノキThea sinensisによく似た種だからである。この名は日本にも導入され、日本原産のサザンカCamellia sasanquaを「山茶花」と呼ぶようになった。因みに、サザンカの語源は「山茶花」の音読みのサンサカが訛ったものか、誤って表記された「茶山花」を音読みしたものと思われる。サザンカは中国にも入っており、茶梅(花)と呼ばれる。サザンカの植物地理学的分布はヤブツバキよりずっと狭く、四国、九州の南部から南西諸島である。奄美大島以南に分布するものは、オキナワサザンカC. miyagiiと区別されることがあるが、ややこしいことに、これと中国からベトナムにある油茶ユチャ C. drupiferaを同種とする見解があり、植物分類学の世界をほぼ二分している。この場合、オキナワサザンカC. miyagiiは油茶の異名となる。油茶は日本にも入っており、「田毎たごとつき」はサザンカではなく油茶の品種である。中国では油茶の種子から脂肪油を採取し、ツバキ油と同様に使う。また、サザンカと油茶を同種とする見解もあり、この場合はサザンカの種を大きくとって本邦西南部から南西諸島、中国南部、ベトナムに分布するとし、変異の激しい種と考える。いずれにせよ、植物学に精通していない素人ではサザンカ、ツバキ及び近縁種の区別は難しい。したがって素人の意見は当てにならない。折口信夫が古代のツバキを山茶花すなわちサザンカと考えている(折口信夫全集第2巻、中央公論社、1982年)のもその一例である。前述したように、サザンカは四国、九州の南部以南に分布するので、万葉集の主舞台であった大和盆地には自然生はない。また、サザンカの開花は11月から12月であって、ツバキより2ヶ月ほど早い。つまり、旧暦の新年(2005年では2月9日が元日になる)ではサザンカの花は散っているが、ツバキはまさに盛りである。したがって、古代のツバキは新年のお目出度い時期に花をつけるヤブツバキで間違いない。サザンカが一般に栽培されるようになったのは花期園芸が盛んになった室町以降になってからである。サザンカが文学で脚光を浴びることはなかったが、江戸時代の絵画ではツバキとともにしばしば植物画の題材となった。
 話をもとに戻すが、中国で海石榴の名前が使われなくなったのはツバキの類縁種が唐の国内にあったからであり、外来を意味する海を冠する海石榴では中華思想の中国にそぐわないからである。ずっと後になってツバキもトウツバキも園芸用に栽培されるようになり、ともに多くの品種が創出された。ツバキの品種は現在では一万種を越えるといわれるが、欧米を含めて海外でつくられたものも多くあり、今やツバキは世界有数の花卉園芸種となっている。ツバキは典型的な照葉樹であり、わが国では東北南部までの照葉樹林帯には普通に分布し、海岸地方だけでなくかなり内陸部にも自生し、所々に大群生が見られる。ツバキの材は堅く丈夫なので古くから利用されてきたが、考古学資料としてもっとも古いのは福井県三方五湖の縄文遺跡鳥浜貝塚で発見された漆塗りのくし で約5000年前のものと推定されている。鳥浜貝塚からツバキ製の石斧の柄も出土しているという。前述したように、ツバキの実は良質の油脂に富み、古代では中国皇帝への主要な贈答品の一つであった。しかし信頼できる考古学資料としてツバキの実が出土したことは聞かないので、ツバキ油の利用は弥生時代に日本列島へ稲を伝えた渡来人が伝えた文化なのかもしれない。渡来人の故郷と考えられる中国江南地方の照葉樹林にはツバキの類縁種が多く分布し、代替品を求めた結果が大きな実をつけるツバキだったと考えられるからだ。一方、考古学的資料はいうにおよばず、文献などの記載資料も全くないにもかかわらず、ツバキ油の利用法、製造法は朝鮮の三韓時代には発達していたとする説が根拠もなく語られている。そう信じられているのは、ツバキの語源が朝鮮語のDongbaek(ツンバック)に由来するという説(深津正、『植物和名語源新考』、1989年)が広く知られているからである。ツバキは朝鮮半島の南部海岸付近にわずかに存在する照葉樹林にしか見られず、ソウル当たりでは栽培可能であっても開花は困難であり、三韓時代のそれぞれの都でも同様と思われる(もっとも、地球温暖化と都市化の影響もあって、2005年春にソウルで初めて開花が報告されている)。韓国の演歌歌手 趙容弼チョウヨンピルのヒット歌謡に「釜山港プサンハン へ帰れ」というのがある。日本でもヒットしたからよく知られているが、その日本語歌詞は「椿咲く春なのにあなたは帰らない たたずむ釜山港に涙の雨が降る」であるが、実際の原語では「花咲く椿島に春は来たけれど、兄弟が発った釜山港にはかもめだけが悲しく鳴いている」という意味になっている。ともにツバキが歌い込まれているのは同じだが、原歌詞ではツバキは椿島に生えていることになっており、こちらの方が朝鮮半島におけるツバキの分布の実態を表している。椿島とは釜山の近くにある朝鮮半島最南端の島嶼のどれか一つを指すのであろうが、半島内陸では寒すぎてもともと亜熱帯性植物であるツバキは花が咲かないのである。つまり朝鮮半島では対馬暖流の洗う温暖な辺地のツバキしか花実をつける個体はないのでツバキの利用があったとは考えにくいのだ。興味深いことに、『大韓植物図鑑』(李昌福偏、郷文社、1979年)にはクスノキ科ダンコウバイLindera obtusilobaの別名が 冬柏ツンベック であることが記されている。北村四郎博士によると、ダンコウバイの種子は油分に富み、朝鮮では頭髪料に用いるという(『原色日本植物図鑑木本編II』、保育社、1979年)。廣川書店発行『薬用植物大事典』(1963年)にも同様の記述があるが、出典は北村博士と同じであろう。因みに、日本にもダンコウバイは普通に生えているが、種子油を採るのは同属種で果実の大きいアブラチャンであり、もっぱら灯油として利用した。おそらく、朝鮮半島ではツバキ油は貴重品であり、より冷涼な地に生えるダンコウバイの種子油を代用とせざるを得なかったと思われ、ついでに名前も冬柏を借用したのであろう。趙容弼の「釜山港へ帰れ」の影響もあってか、現代の韓国人はツバキを身近な花と考えているようだ(→日本の戸籍に入籍した韓国産植物を参照)。おそらく同じ漢字名をもつダンコウバイと混同しているように見え、現在の韓国では漢字はほとんど用いないのでもはや区別できないのであろう。前述したように、ツバキ油は日本の特産品として随や唐の皇帝にも献上され、また渤海の使節もそれを望んだほどであるから、古くからツバキ油が朝鮮に交易品として輸出されていたとしてもおかしくない。 白村江はくすきのえの戦い(663年)以降、日本と朝鮮半島は比較的冷えた関係にあったから、ツバキ油の入手が困難になり、代替品としてダンコウバイを探し当てたと推察される。Dongbaekツンバックは漢字の冬柏をそのまま朝鮮語で音読みしたもので、いかにも当て字っぽく、万葉時代まで遡る起源の古い名前にはおよそ見えない。無論、冬柏の名は中国でも見られないし、日本の文献では江戸末期の『本草綱目啓蒙』(小野蘭山 1803-06年)以降になってからである。通例、日本では中国や朝鮮から渡来した植物の漢字名は日本式の読み方をする。その例としてムクゲHibiscus syriacusがあり、これは明らかに朝鮮の漢字名「無窮花」の日本式読みである「むきゅうげ」が訛ったものである。因みに、朝鮮語音の「むぐんふぁ」では「むくげ」にはならない。ツバキでは、「冬柏」であれば「とうはく」と読まれるが、これではとても「つばき」にはならない。以上のことから、やはりツバキという名は固有の和語であり、むしろ朝鮮に日本語音の名前が輸入され冬柏を当てたと見るのが自然である。 金裕貞キムユジョン(1908-1937)の小説に「椿の花」があるが、金裕貞はツバキの自生地からはるか遠く離れた内陸の江原道春川の出身なので、「冬柏(この場合はダンコウバイのこと)の花」が正しいのかもしれない。ここでツバキの名が朝鮮語由来ではない確固たる論拠を示しておかねばなるまい。李朝の書『芝峰しほう類説るいせつ(1614年)に「冬栢樹、南方の海邊に生ず。〜けだいにしへ所謂いはゆる山茶花なり。」(巻二十「卉部」)と記載され、冬柏の古名は”山茶サンサ”としていることから、中国名の山茶に対応する朝鮮名として後世に付けられた新しい名であることは確実である。因みに、中国でも山茶という名は9世紀になって初めて登場し、本草では明代後期の『本草綱目』(李時珍)で初めて収載された。詳細は拙著『和漢古典植物名精解』(和泉書院 2017年)の第4章を参照。
 では、なぜこれほど朝鮮語起源説が根強いのであろうか。この説の最初の提唱者は与謝野鉄幹であり、彼は自ら創刊した雑誌に「冬柏とうはく」の名を付けている。後に、朝鮮語に詳しい言語学者中島利一郎が「つばきの語源が朝鮮語冬柏ツンバック に繋がることはほとんど疑いないと思われる」(『植物語源考』、1938年)とお墨付きを与えたのが大きいようだ。中島や与謝野がツバキの和名が万葉以来の古いものであることを知らなかったとは思えないが、所詮、文人、言語学者であるから、ツバキの植物学的背景や文化的背景などは無知であり、このような結論に疑問をもたないのであろう。一般人には言語学の泰斗の言うことだからとつい信用してしまうのかもしれない。また、明快な起源を求めたがる一般人の好奇心もそれに拍車をかけているのであろう。また、現在ですら、ツバキを外来樹木と信じる日本人は意外に多い。東北地方日本海側にあるユキツバキC. japonica var. rusticanaを、朝鮮南部のツバキが対馬暖流に乗って人の移動とともにもたらされたと考える意見があることには全く驚かされる。この説の原典は柳田國男(1875-1962)にあるようで、『柳田國男全集』・第12巻「豆の葉と太陽」で、ユキツバキの北限地である夏泊のツバキに関する伝承として、ある男が髪を艶々とするためツバキの実を所望した女との約束を果たそうと来たが、女は既にこの世にいなかった、そこでツバキの実をまき散らし、それがツバキの森になった、という逸話を紹介している。柳田國男には全く非はないが、問題はそれを誤って引用したものがいるということである。朝鮮でも冬柏油を整髪料として使うが、前述したようにそれは別の植物油(ダンコウバイ油)の可能性が高いのである。学名を見ればわかるように、ユキツバキはツバキの変種であって、多雪地帯に適応した列記とした自然生の植物である。亜熱帯性植物でも多雪地帯では雪がクッションとなって寒さを防いでくれるので生き残ることができるのである。新潟出身の演歌歌手小林幸子は2004年末の紅白歌合戦の大トリを「雪椿」の熱唱で締めくくった。それは故郷の雪の下で花咲くツバキを歌ったものであり、それが朝鮮南部から渡ってきたものといえば、韓流ブームの日本では一般に大受けするかもしれない。しかし、朝鮮半島は大陸性気候で冬は乾燥し冷え込むので、冬に開花するツバキはとても花を咲かせるどころではないのだ。結局、朝鮮語起源説もこのようなツバキに対する正しい植物学的知識の欠如によるのであろう。
 ではツバキの名の語源として他にどんな説があるのだろうか。江戸時代に、ツバキの語源として厚葉木あつばきが訛ったという説(貝原益軒)と葉に光沢があるので艶葉木つやばき が訛ったという説(新井白石)が当時の一流の文人により提出されているが、どう転んでも通俗的な語呂合わせのレベルにすぎない。また、伊勢神宮のある南伊勢の方言に「ツニワキ」があり、それがツンバキ、ツバキと変化していったという説(吉田金彦、『語源辞典・植物編』、東京堂出版、2001年)がある。この説では、ツニワキは、ツ(所)ニハ(庭)キ(木)もしくはツニハ(津庭)キ(杵=棒)で、聖なる木、神木を示すといい、後述する折口説と同様に民俗学的観点から魅力がある。というのは、ツバキが神社によく植えられ、あるいはツバキの生えるところに神社をつくることが多いことは確かであり、大和盆地にもそういう神社が多くあるからである。平安時代初期から続く宮中行事で、新年最初の卯の日(上の卯の日)にツバキの材でつくられた 卯杖うづえ卯槌うづちを献上する行事があるが、これは邪気を払うために行う風習といわれ、七種菜と同様、中国揚子江流域に起源があるようだ。正倉院にも、天平勝寶四(752)年、孝謙天皇が大仏開眼供養の際に使用下と伝えられる椿杖(卯日杖)が残っている。以上によって古くからツバキが呪術的な霊木と信じられていることは事実といえるだろう。但し、ツバキに対して津庭木(杵)(つばき;庭は“ば”と読める)の方が先にあって、これを後世にツニワキと読むようになったと考えるべきであり、ツニワキの読みが転じてツバキとなったと考えるべきではない。この説ではツバキの「き」は「木」と考えているのであるが、万葉仮名表記のツバキの「き」は、“都婆”、“都婆”とあるようにいずれも甲種の万葉仮名であり、乙種の木の「き」とは音韻学的に区別される。奈良時代の日本語には八母音八十七音節あり、今日のような五母音四十七音節になったのは平安時代になってからといわれる。平安時代中期の承平年間(931-938)に源順(911-983)が編纂した『和名わみょうしょう』には「豆波木つばき 」とあるが、この時期には既に甲乙二つの音韻が統一したことを示している。『延喜式』第七巻二十九条に「構以椿木。塗以白土。覆以細席。荷別夫夫四人。」とあって、ツバキノキという表現が見えるので、やはりツバキの「き」は木を意味するのではなさそうである。一方、『古代日本語母音論』(松本克巳、ひつじ書房、1995年)に代表されるように「八母音」説には異論もあるので、吉田説を完全に否定するのは難しいかもしれない。ツバキが信仰に関連あることは民俗学の折口信夫も指摘しており、口から吐く唾が占いと関連があり、ツバキが唾(つばき、つはき)に由来することを示唆している(『折口信夫全集第2巻』、中央公論社、1982年)。“つばき(唾)”の「き」はツバキの「き」と同じ甲種であり、音韻学的に問題がないことも折口説は有利である。結局、ツバキの語源として折口説がもっとも説得力があると思われ、日本古来の信仰に関わってきたという民俗学的観点からも興味深い。ツバキが普通に存在する照葉樹林帯の日本がそれほど身近な存在ではない朝鮮半島から名前を拝借しなければならない理由は全くない。中国大陸江南地方から日本列島関東地方以南には、中尾佐助が「照葉樹林文化」と名付けた習俗、農耕において共通要素の多い文化ベルトが存在する。ツバキの利用もその文化要素の一つと考えられるのだ。一般に、植物と人の関わりは古い時代ほど密接であり、日本ではツバキとの関わりが縄文時代まで遡るのであるから、民族植物学的視点から考えても固有の名や利用法があったと考えねばならない。その点で、与謝野鉄幹など明治の文人の仮説はきわめて安易であったといわざるを得ない。
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  1. 王仁わには百済からの渡来人であるが、朝鮮の史書にその名は見えず、『古事記』、『日本書紀』、『続日本紀』にのみ出てくる。『続日本紀』では、王仁の祖先は漢の項羽の末裔と桓武天皇に上奏したという記述がある。当時の朝鮮では王の名はない(中国風の一字の姓を名乗るようになったのは七世紀の統一新羅以降である)ので、313年楽浪郡が滅亡した後、百済に亡命した楽浪王氏の一員、すなわち漢人と考えられている。当時の百済の優れた文化の大半は、楽浪郡の滅亡後、漢人からもたらされ、それが日本にも伝わってきたのであり、決して百済で発祥したものではない。『日本書紀』の応神紀によれば、王仁は阿直岐あちきが自分より優れた博士として天皇に推薦し招聘したとある。おそらく百済にも多くの楽浪郡からの帰化人がいて進んだ文化を吸収していたことがうかがえ、日本の文化の吸収先として中国と朝鮮半島を同列に扱うべきではないことがわかるだろう。