●日本文化の至宝:「万葉集」
万葉集には4500首以上の歌が収載されている。その当時の日本は固有の文字を持たなかったので万葉仮名という文字を使って歌を書き記した。仮名といっても中国伝来の漢字を音読みあるいは訓読みで当てがったものであり、編集の初期では決してその扱いに習熟していたわけではなかったと思われる。そのようなハンディがありながらも、よくぞこれほどの規模の和歌集が編纂できたものだと感心する。万葉時代は、それまで口伝されてきた歌謡が文字を得て紙上に記録されるようになった時代でもある。口伝の歌謡はいうまでもなく口語の柔らかい言葉であるのに対して、最初から紙に書かれる歌は文語なので少し畏まったものになる。万葉集に収載された歌はこの両方があってきわめて多様性に富む内容となっている。万葉歌の約九割は今日の和歌と同じ「五七五七七」の五句の形式なので、古人の言語そのままを読んで直接に祖先の心に接することができる。五音句、七音句は過去も現代も日本語にとってもっともバランスのよい基本語句となっているようであり、五音七音の句は不思議に覚えやすいし、また詠いにも乗りがよい。かって2代目広沢虎造(1899-1964)という名浪曲師がいたが、彼の浪曲の中でもっとも知られているのが「次郎長伝:森の石松三十石船道中」であった。「旅行けば駿河の国に茶の香り」の冒頭を始め、ほとんどは五音句、七音句からなっている。「森の石松」ではなく別の浪曲であるが、「河豚
は喰いたし 命は惜しし」という一節があった。「惜しし」は本来は「惜し」が正しいのだが、六音句では謡の乗りが悪かったようで、虎造は「惜しし」と七音句にした。このことからわかるように、五音句、七音句の万葉の歌は現代の日本語でもすんなりと乗るのである。万葉集は日本の歴史の中で他の古典を圧してもっとも親しまれている古典歌集であるばかりでなく、また万葉集ほど古くから高名な文人、学者によって語法、音韻法、歌の批評、作者の伝記から詠い込まれた地名や植物などの考証に至るまで研究されてきた古典はないだろう。古事記や日本書紀などは万葉集より古い古典であるが、国家の成り立ちや近隣諸国との関係、交流などを記録した国選歴史書であるから、その記述の客観性に問題があるのはやむを得ない。特に『日本書紀』は、戦前、その記述に基づいて歴史教育が行われたものだから、今日では鼻から否定する傾向がある。しかし、韓国では、檀君朝鮮、箕氏朝鮮など史実が明確でない国を建国の始まりだとしてわが国の歴史教科書を書き換えるよう要求するほどであるから、戦前の日本の歴史教育だけが突出して異常だったわけではない。一方、万葉集は全二十巻からなる大歌集であるが、巻ごとに編纂にばらつきがあって首尾一貫性を欠いていることから、その背後に強い政治的圧力はなかったと考えてよい。したがって『古事記』や『日本書紀』と違って、そこで詠われた歌は肩肘を張ったものは少なく自然体のものが多いのである。歌は相聞歌(恋歌)、挽歌(死を悼む歌)、雑歌(相聞、挽歌以外の歌)に分類され、草木など自然を詠んだものは全て雑歌に含まれる。また、巻十四には東歌、巻二十に防人の歌が収録されている。詠み人については、最高権力者である天皇から、名もない防人、農民に至るまで、また当時の一流の歌人など多様であり、特に農民や防人など庶民の歌から当時の生活の状況を伺い知ることができるので、その価値は文学だけにとどまらない。万葉集のもう一つの特徴に詠われた歌の時代の広さがある。もっとも古い歌は磐姫皇后の「君が行き日長くなりぬ山尋ね迎へか行かむ待ちにか待たむ(君之行 気長成奴 山多都祢 迎加将行 待尓可将待)」(第二巻、八十五)ほか三歌である。磐姫は仁徳天皇の皇后とされるので、仁徳天皇を「宋書」倭国伝に見える“倭王讃”とすれば、五世紀初めの歌ということになる。一方、もっとも新しい歌は、「新しき年の始の初春の今日降る雪のいや重け吉事(新年之始乃 波都波流能 家布敷流由伎能 伊夜之家餘其謄)」(巻二十、四五一六)であって、大伴家持が天平寶字三(759)年正月一日に詠んだものである。したがって万葉集は約350年間にわたる歌を収載していることになり、必然的に編纂時期も八世紀中期以降となる。集中の歌の中には山上憶良の「類聚歌林」、「柿本朝臣人麻呂歌集」などの他の歌集から収載したとの記述があるように、当時はいくつかの歌集があった。しかし、そのいずれも現存せず、万葉集だけが伝えられた。350年の時代の幅があるので、万葉集の初期と後期では、言葉使いにかなりの差異が見られる。万葉集の成立時期ははっきりしていないが、『古今和歌集』巻十八に「貞観御時に万葉集はいつばかりつくれるぞと問はせ給ひければよみてたてまつりける 神無月時雨ふりおけるならの葉の名におふ宮のふるごとぞこれ」(文屋有季)という句が見える。貞観御時は清和天皇の時代(858-876)であるから、これより以前であることは間違いないのだが、もはやその時代でもいつ万葉集が成立したかわからなくなっていたことを示している。いずれにせよ万葉集は各巻の編集にばらつきがあるので巻ごとに編者が異なるともいわれる。現在では、もっとも多くの歌を載せ、集中もっとも新しい歌の作者である大伴家持が最後に二十巻にまとめたとする説が有力である。家持は延暦四(785)年に死去しているが、天平宝字三(759)年を最後にして以降の二十数年は詠わぬ歌人であったから、その成立はこの年のしばらく後の八世紀の中期から後期ということになるだろう。
1200年以上も前にこれほどの規模の和歌集があったことは世界的に見ても驚異といってよいのではないか。また天皇から農民までの歌が収載された歌集は日本を除いて世界のどこにもないだろう。したがって、その内容、歴史など、そのいずれをとっても「世界に誇るべき文化遺産」であることは否定できない事実だと思われるのだが、最近の学校教育では必ずしもそう教えないらしい。日本人は自慢することを極端に嫌う謙譲的な民族というよりむしろ、それを否定的に見るグループが少なからずいるらしく、万葉集の編纂は日本人だけでできなかったとか、ほとんど朝鮮系渡来人がつくったようなものだという俗説、というより明らかに日本民族を誹謗中傷する意図をもった「トンでも説」が、近年、とみに増えてきたように思う。仮に百歩譲って当時の日本人以外の渡来人を含む外国人がつくったとしても、詠まれた歌の感性は、植物を詠い込んだ歌を見ればわかるように、どちらに転んでも後世の日本文化の源流そのものでありかつ日本に固有のものであることは否定しようがない。なぜなら万葉の感性は後世の日本文学に連綿と継承され、特に和歌では文学的に行き詰まるとしばしば万葉集に立ち返るというようなことが行われてきたからである。すなわち誰がつくったものであろうと、そこに記述された内容は紛れもなく今日の日本と糸がつながっており、また日本人および日本文化を享受あるいは理解したものがもっともよくその心を理解共有できるのである。また、万葉集に対する研究すなわち「万葉学」がその成立から程なくして平安時代に成立しており、以来、今日まで幾多の優れた学者が連綿とその業績を出版しており、その蓄積量たるや膨大なものである。そもそも、朝鮮語で読めると言うことは、それまでの万葉学に欠陥があることになるが、前述の「トンでも書」のいずれもこの観点が欠けており、従来の解釈ではここがおかしいなどという指摘は全く言及していないのが最大の難点である。韓国人は自国の文化を世界遺産に登録するのが熱心なことで知られるが、日本も万葉集を古典文学遺産として登録してもよいのではないか(このようなカテゴリーはあったなら)。
●万葉集の新羅郷歌起源説は誤りである!
ある韓国の新聞(ネット版)で、万葉歌(和歌)は新羅の郷歌に起源(今はリンク切れ)があり、新羅人が万葉集を編纂した、したがって万葉集は新羅の心そのものを反映しているという内容の記事を読んだことがある。韓国人の多くも万葉集の起源は新羅、すなわち韓国にあるといってはばからないようだ(実際は、韓国唯一の和歌の歌人を民族主義者の攻撃から救うために日本人の支援者が入れ知恵した結果という)。韓国の古典文学に「春香伝」というのがあるが、18世紀頃の成立なのに「韓国の源氏物語」と称することがある。日本より800年も遅れて成立した王朝文学(というが、実際は妓生と両班の恋物語で通俗小説に近く、世界初の心理小説といってもよい源氏物語とはスケールにおいて比べものにならない)であってもそう自慢するということは、韓国人は日本にあるものは何でも自国にあるといいたいようだ(現在ではこれをウリナラ起源論というらしい)。しかし、韓国には「韓国の万葉集」と呼べるような古典歌集は現存しないので、郷歌を万葉集の起源としたい見え透いた意図がありありとわかる。日本人からすれば単なる嫉妬心の発露としか感じられないが、それを真顔で信ずる日本人も少なからずいるのは驚く。確かに新羅に郷歌という歌謡があったことは歴史的事実だが、わずか25首ほどしか現存しておらず、その数は万葉集の1%にも満たない。中には漢文に訳されたものもあり、往時の形のまま残っているのは少なく、またその全てが解読されている訳ではないので、郷歌から古代朝鮮(新羅)人の感性を推し量ることは不可能である。一方、万葉集は4500種以上もありながら99%以上が解読されていて、誰でも「万葉の世界」の外観を見ることが可能である。郷歌が万葉歌と感性を共有すると仮定したとしても、それが当時の新羅で確固たる存在であったなら、山は裂け海が荒れようとも、後世の朝鮮の歴史でもその心は継承されたはずである。しかし、後世の朝鮮の文学にその形跡はなく、日本人の感性に強いインパクトを与えることはなかったといってよく、唐や宋代の中国古典文学とは対照的である。郷歌で詠われた新羅人の感性は本当に万葉集に受け継がれているのであろうか。万葉の植物と万葉人の間にあるような独特の感性が郷歌にあったのだろうか。万葉集は現代人でもある程度読むことができるので、一般の愛好家も非常に多く、万葉ゆかりの地では必ずといってよいほど記念碑がある。今日、間違った風説の流布によって、“古代において、朝鮮人と日本人は、会話に通訳を必要としなかった”と無批判に信じている人も少なくないようで、実際にそう教えている教員もいるようだ。そういう人たちには是非次の郷歌「得烏谷慕郎歌」と「処容歌」(小倉進平、「郷歌及び吏讀の研究」、京都大学文学部国文学研究室編、京都大学国文学会、1974年)と万葉の代表歌(万葉仮名)を読んで比べていただきたい。そうすれば答えが自ずから出てくるはずだ。一部の通俗書(藤村由加、「人麻呂の暗号」;李寧煕、「もう一つの万葉集」など)には、難読の万葉仮名で記述された歌が古代朝鮮語(現代朝鮮語の祖語と考えられている新羅語)で読めるかのように書かれているので、その反証という意味でも以下に挙げておく。これら通俗書の著者は、難読歌だけを取り上げ、万葉仮名で矛盾なく読める歌が大半であることを無視する傾向が強い。すなわち、都合のよい部分だけを取り上げ、それを針小棒大に拡張解釈し万葉集が朝鮮語(しかもおしなべて現代朝鮮語)で読めるかのように吹聴しているのである。万葉集を読んだことのない、あるいはあまり詳しくない人ほど、歯切れよく記述された「トンでも説」に感化されやすい。この通俗書を隅から隅まで読んだ後は、是非、万葉集(できれば万葉仮名の原文と通釈つきのを)をじっくりと読むことをお進めする。また、万葉歌の解釈(あるいは解読か)に意図的な作為があるかのような風説も藤村氏、李氏ほかによって主張され、一般人に誤解を与えているが、どちらが作為的な解釈であるか、下記の歌を丹念に読めばわかるはずだ。筆者は、奈良時代までは日本語と朝鮮語はほとんど相同であったと記述したあるホームページを見つけ、サイト作者にこれをメールで送ったことがあったが、決定的な証拠と思ったのか、あっさりそのページは削除された。
(得烏谷慕郎歌)
去隱春皆理米 毛冬居叱沙哭屋尸以憂音
阿冬音乃叱好支賜烏隱 貌史年數就
音墮支行齊 目煙迴於尸七史伊衣
逢鳥支惡知作乎下是 郎也慕理尸心未
行乎尸道尸 蓬次叱巷中宿尸夜音有叱下是
(処容歌)
東京明期月良 夜入伊遊行如可
入良沙寢矣見昆 脚烏伊四是良羅
二肹隱吾下於叱古 二肹隱誰支下焉古
本矣吾下是如馬尾隱 奪叱良乙何如爲理古
郷歌は漢字だけで書かれているので漢文と勘違いする人は少なくないだろう。しかし、高校で真面目に「漢文」を勉強した人(団塊世代の筆者は理系進学コースであったが入試問題に漢文が出題されるので勉強した)であれば、ここに挙げた白居易の漢詩も漢和辞典を片手にかなりの程度まで理解できるはずだ。一方、郷歌は、万葉仮名で書かれた万葉歌と同様、個々の漢字がばらばらで全く意味をなさないことがわかるだろう。また、万葉歌は解読文と比較すれば、万葉仮名の解読が納得できるものであることがわかるだろう。これと似たことを言葉遊びでやったことがあるという人もいるはずだ。かって筆者の教え子に「 麻理亜」という子がいたが、その名の付け方は万葉の用字法と基本的に同じである。また、元サッカー日本代表のラモス瑠偉氏の名も同様であり、おそらく人名や地名の大部分は万葉仮名の用字法でつけられているはずで、万葉仮名が特殊なものではなく現在でも生きている身近な存在であることに気づくだろう。すなわち、万葉仮名の用字法はそのままの形ではないにしても今日まで伝承されており、万葉集の解読が決して作為的ではないことがわかるだろう。以上のことを念頭に入れて郷歌をもう一度読んでいただきたい。それが漢文、万葉仮名で書かれた日本語のいずれとも全く別の言語、すなわち古代朝鮮(新羅)語で書かれていること、そして藤村氏、李氏らの主張が如何に荒唐無稽の思い込みに基づいているかがわかるだろう。実は、郷歌は漢字を表音文字として使う「郷札」といわれるもので書かれている。その意味では郷札は朝鮮版万葉仮名といえなくもない。ただ、万葉仮名は漢字をほぼ純粋な表音文字として用いたものだが、郷札は表音文字以外に朝鮮語の助詞などを地の文に取り込んだものである。郷札は郷歌だけに使われた方法で、使いこなすのが困難なため高麗時代には消滅してしまった。このことは郷札でも当時の朝鮮語を表記するのは困難だったことを示し、朝鮮語の音韻が日本語よりはるかに複雑だったためと考えられている。したがって郷札は万葉仮名で用いたような方式では解読できないのであるが、この点が一般人にほとんど理解されていないようで、「郷札=万葉仮名」と誤解されてしまうようだ。朝鮮では以降漢文をもって全てを表現することを余儀なくされ、ハングルが発明されるまでその状態が続いた。万葉難読歌もいくつかの解釈が可能であるという程度で解読不能というわけではなく、郷歌のように全く意味不明の漢字の羅列でないことは明らかである。難読歌とはいえ、やはり日本語は日本語であり、万葉仮名の用法が未成熟だったためであろう。以上の例を見れば、前述の通俗書の著者の主張が如何に理不尽に難読歌を取り上げているかがわかるだろう。
中には万葉仮名は郷札を手本にしてつくったと主張する人もいるかもしれない。朝鮮に漢字が先に伝わり、半島経由で日本に伝えられたのである註1から、むしろその可能性を否定することは困難だろう。新羅に郷歌があったのだから、万葉人もその存在を知っていたとしても不思議ではない。しかし、当時の日本にもアイヌ民族の「ユーカラ」のような口伝の歌謡があったはずであり、文字が伝わればそれを記録しようとするだろう。記紀に記述された歌は口伝えに伝承された歌謡という説が有力とされている。万葉仮名が郷札を模倣したとしても結果的にそれと全く異なるものに仕上がっている(上記の歌謡を見れば明らかである)のだから、万葉仮名で書かれた万葉歌は純然たる日本語かつ日本固有の文学である。このあたりの説明不足が「郷札=万葉仮名」あるいは「郷歌=万葉集の起源」という短絡的な思い込み俗説を生む原因であり、とりわけ教育者は生徒に慎重かつ丁寧に説明する責任を負うことを認識すべきであろう。郷歌が消滅した理由として様々な説が提出されているが、やはり万葉集ほどの文化的インパクトを持ち得なかった結果であることは否定できないだろう。また、郷歌が後世の朝鮮文学において存続できるほどの文化的基盤を構築できなかったことが郷歌を万葉集の起源としてはばからない韓国人の屈折した感性の温床となったともいえるだろう。万葉集でも解読の難しい歌は初期の第一巻から二巻に集中していて、確かに無理をして解読した歌もあるが、難読歌が郷歌に似ているとするのはそれよりはるかに無理といわねばならない。一方、99%以上の万葉歌は、上述の長歌と同じように、無理しなくても読めるので、難読歌だけを取り上げて、万葉集は朝鮮語で読めるなど、無理に古代朝鮮語(新羅語)と日本語との言語学的相同性を主張するのはどう考えてもおかしい。古代朝鮮の郷歌の存在を知った上で、藤村由香、李寧煕氏は“万葉集は朝鮮語で書かれている”と主張しているのだろうか。もし、知らなかったというなら、「万葉集論」を論ずる資格は始めからなかったのであり、その著書は即刻絶版とすべきであろう。
現在、韓国、北朝鮮では漢字はほとんど用いておらず、漢字文化を捨て去ったようである。一方、日本でも平安時代初期に漢字を簡略化して平仮名、片仮名がつくられたが、漢字も併用しつつ今日に至っている。中国と国境を接する東アジア諸国はいずれも漢字を国語に取り入れて使ってきたが、ベトナム、モンゴルそして朝鮮を含めていずれも漢字から脱却しており、中国以外で漢字を使い続けているのは日本だけとなった。中には日本を
漢字文化から独立していないとし、ベトナム、モンゴル、朝鮮の方が文化的に進んでいると考える人もいる。しかし、これら3国は漢字文化からの独立と引き換えに、それまで培った古典文化を捨てざるを得なかったという代償を払っていることを忘れてはならない。もし日本が漢字文化から独立していたなら、万葉集ほか古典文化遺産のどれも読むことはできず、放棄せざるを得なくなっていたであろう。逆に言えば、中国周辺国の中では日本だけが、漢、呉、唐の3種類の漢字音をそのまま維持し続け、過去と現在の文化遺産の互換性を維持するのに成功したといえるのである。一方、韓国人が「世界一優れた文字」と自慢するハングルも過去の漢字文化との互換性はなく、また漢字に比べればハングルは単なる記号にしか見えないので芸術面において書道の優雅さは失われている。前述の白居易の漢詩の読み下し文は翻訳というより、むしろ解読の結果と解すべきである。このように中国の古典をあたかも日本の古典であるかのごとく解読する方法(右に前述の白居易の詩を訓点付きで挙げる)を編み出し、それを漢文と称して半ば国語化しているのは日本だけである。かといって日本が文化的に中国の植民地という訳ではなく十分に独自性を維持しているのであるから、日本は漢字文化圏から独立するなどつまらぬ意地などはる必要は全くない。漢字の本家たる中国ですら、それまでの複雑な繁体字を捨て去り簡体字にしてしまい、古典文学を読むに大きな支障となっている。一方、日本は漢字を簡略化したものの古典が読めないほどではない。むしろ外国から見れば、古代から現代まで、日本が言語、文字の連続性を保っているのは驚嘆すべきことなのではあるまいか。
●日本語の起源と万葉集
日本語は朝鮮語からクレオール語化したものという説もしばしば聞く。万葉時代の八母音が『古今和歌集
』になると五母音になったことは広く認められているが、それを朝鮮語のクレオール語化によるという学識者もいる。クレオール語というのは実に便利な語彙であって、多くの人はそれが何であるか知らないから日本語の起源に関する論争で行き詰まったときは必ずといってよいほど出てくる。比較言語学による検証結果で朝鮮語と日本語の類縁性が意外に低かったことから、日本語の起源を朝鮮語と主張する人たちが最後の切り札として無理矢理出したのであって、その変化のプロセスを論理的に説明した例は寡聞である。クレオール語とは、意思疎通ができない言語間で商人たちなどによって自然に作り上げられた言語(ピジン語という)が、その話者達の子供によって母語として話されるようになった言語をいう。ピジン語は、通例、最小限の語彙と不完全な文法に起源するので、それから生まれるクレオール語は必然的に大量の語彙と文法をを他の言語から求めなければならない。仮に日本語がクレオール語とするなら、文法は朝鮮語からとして説明はつくが、一般語彙は全く説明がつかない註2。漢語起源の語彙を除くと、日本語と朝鮮語ではあまりに基本語彙の違いが大きすぎるのである。また八母音の朝鮮語の影響で、日本語が万葉時代の八母音から古今集時代の五母音になるとはとうてい思えない。平安時代初期の母音の簡略化は別の理由による註3ものと考えるべきだろう。ただはっきりしているのは、前述の万葉歌と郷歌を比べて明らかなように、万葉時代には朝鮮語(新羅語)と日本語は相互理解が不可能なほどの相違があったという事実である。一方、古代朝鮮人と日本人は通訳なしで会話できた、奈良の都では古代朝鮮語があちこちで話されていた、あるいはもっと極端に奈良盆地には渡来人のほか誰もいなかったとかいう説も聞いたことがあるだろう。これは金達寿氏の『日本古代史と朝鮮』(講談社学術文庫、1985年)で記述されていることであり、地名の由来が朝鮮語でよく理解できるとして大和盆地のみならず日本各地に朝鮮からの渡来人が入植した名残と主張する。例えば、奈良は朝鮮語の国を意味する「ナラ」に由来する註4というのは、現在では多くの日本人が信用するほどに浸透している。「なら」の名をもつ地名は奈良原、楢原、奈良岡、楢岡、奈良山、楢山など全国にあり、それぞれが国を意味する一般名詞に由来すると考えるには無理がある。また、「ナラ(narah)」が国を意味するようになったのは、高麗末期あるいは李氏朝鮮の初期といわれている。金達寿説はあくまで作り話として読むべきものであり、決して確固たる根拠に基づいて歴史を論じている訳ではないので信用してはいけない。但し、日本民族の起源の二重構造モデル論(オリジナルは埴原和郎、『日本人の成り立ち』、人文書院、1995年)によれば必ずしもあり得ない話ではないことを付け加えておこう。この説に準拠した修正論の一つに、朝鮮半島南部と日本列島には中国揚子江流域から渡来した民族(越族という)が住みつき、それが魏志倭人伝でいう倭人の起源であるというのがある(安本美典、『日本人と日本語の起源』、毎日新聞社、1991年)。とすれば、後に半島から日本列島へ渡来した民族も日本列島にすむ民族、すなわち弥生人と同じ民族ということになり言葉が通じないはずはなく、それはすなわち古代日本語ということになる。渡来人は百済人がもっとも多い(といっても数万人のレベルといわれている)と考えられているが、この説によれば百済人の多くは倭人と考えられるから奈良の都で渡来人との会話は通訳はいらないことになる。百済王朝は騎馬民族系の扶余族とされているが、この説では百済国家の基層をなすのは倭人となる。当然、百済では倭人の言葉はクレオール語化の影響を受けるものの日本列島との倭人との交流もあったからそれほどの言葉の変化はなかったと思われる。修正二重構造モデル論では日本と朝鮮南部は同系の文化を起源とするものの、日本はそれを基層として縄文文化あるいは南方文化と融合したのに対し、朝鮮半島ではそれが基層とはならずに北方のツングース系騎馬民族文化の基層に融合したと考えるのがもっとも自然な考え方のようだ。すなわち、日本と朝鮮は基層文化が異なるということであり、朝鮮半島で倭語が消滅、日本語と朝鮮語が乖離したのもこれでよく説明がつくだろう。この説は中尾佐助の提唱した「照葉樹林文化論」とも相通ずるところがあり、朝鮮文化になく日本文化に残る南方要素を説明できる利点がある。かって、柳田國男(1875-1962)は民俗学の立場から日本文化に残る南方文化要素を説明するため、その文化の伝播ルートとしてアジア南方地域から沖縄を経る島伝いの「海上の道」を提唱した(『海上の道』、岩波文庫、2005年)が、これも矛盾なく説明できるだろう。しかしながら朝鮮半島で倭語が話されていた、倭人が住んでいたという有力な証拠はこれまでのところない。日本語、日本人の起源を考える上で有力な説の一つであることは確かであるが定説といえるまでには至っていない。
金達寿氏も著書の中で述べているのだが、飛鳥時代から奈良時代にかけて大量の移民が朝鮮半島、大陸から日本列島に移住したという俗説が広く流布しているようだが、これは学説としての二重構造モデル論を著しく曲解した「トンでも説」である。埴原論そしてその修正論のいずれも、縄文時代晩期から弥生時代にかけて短くて1000年長ければ3000年の間に最大150万人の新モンゴロイドが渡来したとしているのであって、古代朝鮮民族が半島から文化を携えて大量に渡来したとは一言もいっていないのであり、それは発掘人骨の形態人類学的研究や、現代日本人と周辺民族の遺伝学的解析の結果とも符合していない。二重構造モデル論は人類学の観点から提唱されたものであって、明確な客観性、科学的視点に立ったものである。完全に理解するには自然科学的知識を必要とするから、専門外の輩による勝手な解釈、すなわち金達寿説やその亜流は信用すべきではない。しかし、歴史学や考古学の専門家の中に、しばしばその真意を逸脱し、想像を逞しくしすぎる傾向が顕著な人がいるのは残念である。
●歴史は客観的、科学的視点に立ってみる必要がある
本ページは日本最古の古典文学である万葉集について述べているのであるが、万葉集が歴史的文化遺産でもあるので、歴史問題とは無縁ではいられない。そこで、本論とは逸脱するが、歴史に対する筆者の持論を自然科学との対比において述べてみたい。歴史学は時の流れを過去に遡って検証する学問なので、たとえ定説とはいえ、その論証に関しては自然科学とは異なり証拠などの基盤が本質的に脆弱であるのは否めない。したがって専門家たる歴史学者の間でも百花繚乱の説が世間を飛び交う。それをアマチュアの歴史愛好家が興味本位に改変してネット上に展開し、あるいは作家という立場を利用して自説を出版することが今日では日常茶飯事となっている。ハードコピーであれば、一般人は真説ではないかと誤解するので俗説が広まってしまう。自然科学の領域なら如何なる分野であれ、専門家と一般のアマチュアでは学識的力量は歴然としているから、風説や通俗説などを一蹴することは簡単である。しかしながら、歴史学では専門家ですら、証拠となる資料が限られることを口実(と筆者は解釈しているが)に、小説のようなストーリーを語りそれをもって自説とすることが多いように見える。とりわけ古代の日本と朝鮮の関係では著しく、およそ歴史SFとしか思えない説(これをロマンとして許容する一般世論も問題だが)が多いようだ。歴史でも真実は一つであって、それを検証するのに科学的視点は必要のはずであり、歴史を小説のように語るのは慎むべきことはいうまでもない。出土品や伝承資料を除けば文献資料しかなく、しかも出自がはっきりしなかったり記述に信憑性を疑わせるものがあるなど、やむを得ない部分もある。しかし、自説に都合の良いデータだけを取り上げて一方的にまくしたてる専門家が多いように思える。中には、他説や自説に反する説も取り上げて丁寧に議論する人もいるが、意外にも歴史学の専門家でないという例がしばしばある。旧来の歴史学では科学的、客観的立場に立って議論されてきたのは意外に少なく、意味のない権威主義や伝統的史観にとらわれることが多いのではなかろうか。一方、自然科学では論理的一貫性がなければ論文にはならない。そこにデータ捏造の温床があるのだが、それが暴露されたとき、如何に悲惨な結末をもたらすかは、韓国ソウル大の黄禹錫教授のヒトクローン胚からES細胞捏造事件を見ればわかるだろう(2006年1月10日ソウル大学調査委員会による最終報告で明らかにされ、本邦新聞各紙でも詳細に報道された)。分子生物学の学術雑誌に掲載された論文データが実験ノートになく捏造されたと判定され、教授と助手が解雇された(辞職ではない!)例がある(東京大学)。この研究はシンポジウムの特別講演でも発表されているが、かねてからこのデータに疑問を感じていたという研究者から集中砲火のような容赦ない質問を浴びたことは、関係者の間ではよく知られている。捏造でないにしても間違いが実験的に証明でもされれば研究者として命取りになりかねない(科学研究費補助金申請や昇任人事などで著しく不利になる)。したがって自然科学者は論文では確固たる証拠に基づかない議論は極力控えようとする。筆者は「化学」、「植物学」を専門とするので、歴史学の世界で論理的一貫性がなくても立派な単行本になるのはどうしても納得いかない。碩学の歴史学者がいとも簡単にあやふやな知見に太鼓判を押してしてしまう註5、あるいは俗説を支持するような行動をとる註6のは、科学的ではなくひと時の気分で考えているように見え、自然科学に慣れた目からはきわめて不自然に映るのである。自然科学の論文は専門家しか読まない(一般人は理解できないから読めないといった方が正しいだろう)から、およそ一般人に媚を売る必要はない。一方、歴史学のような分野は一般人でも理解できるので、学者は一般人が読んでくれるかどうか、すなわち著作が売れるかどうか気にせざるを得なくなるだろう。また、自然科学の世界とは違って、著作(ここでは自然科学における論文に相当するものと考える)には審査はないので、他人とは何か違う意見を出せば本になる(と自然科学者には見える)のは実に奇妙である。真理の探求、論理性はそっちのけで一般受けするような奇抜な説が増殖されやすいのはこうした事情によるのだろう。先ほど述べた飛鳥時代から奈良時代にかけて大量の移民が朝鮮半島から渡来したという俗説は、科学的視点に立つ日本語、日本人の起源論の結果とは相容れないにもかかわらず、歴史学者の口からそれを明確に否定する言がないのも妙である。下手すれば職を失いかねない自然科学系研究者に比べると、人文系研究者は何と恵まれた境遇にあることだろうか。歴史学は皇国史観、津田史観、唯物史観など過去の呪縛があって、たとえば戦前の古い説を評価しようとするとたちどころに皇国史観というレッテルが付きまとう。レッテル貼りというのは議論を中途させる以外に何の役に立たず内容もない。世間に対して学識を装い、自分の意見に合わなければレッテルで対抗する人の意見は概して胡散臭いが、歴史学の世界では日常茶飯事のようである。中学高校で歴史を教える立場にある教員の中にはそういう胡散臭いのが少なからずいるようだ。教育熱心であるのは認めるが、根拠もないことをあたかも定説であるかのごとく無知の生徒を教育しているのは問題である註7。こうした風潮を加速しているのは「新しい歴史教科書をつくる会」のお粗末な教科書(津田史観論者による歴史教科書はもっとひどいが)であり、およそ歴史学を専門とする人が編集したとは思えない。これによって歴史では何をいっても通じるという風潮ができてしまったのは残念である。採択率が低いのでいずれは消えるだろうが、一旦、ついた火はなかなか消えず、消えても焼け跡が残るように元の健全な状態には戻らない。「新しい歴史教科書をつくる会」の責任はきわめて重いというべきだろう。
→戻る