古典植物再考:万葉の「さわらび」はゼンマイであった
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(関連ページ)万葉の花と日本の民俗文化万葉の植物総論
      日本人、日本文化と植物
【要約】:万葉有数の詩人といわれる志貴皇子は「石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」という和歌を残している。この「さわらび」はコバノイシカグマ科ワラビと考えられてきたが、小さな滝の上という、どちらかといえば渓流沿いを示唆するような環境に生えることはほとんどない。その生息環境を考慮すると渓流植物の一種ヤシャゼンマイとするのが妥当と思われる。「わらび」は平安・鎌倉時代の和歌だけでなく文学作品にも多く登場するが、その生息環境を示唆する記述からそれらもゼンマイまたはその近縁種群とするのが妥当であることがわかった。このことは「わらび」の語源解説の観点からも支持される。すなわち、ゼンマイの赤く熟した胞子葉が藁火に似ていることに由来すると考えられる。「わらび」の名は、古代から現在に至るまでの間にゼンマイからワラビに転じたことになるが、江戸時代中期の『大和本草』で貝原益軒が「わらび」を現今のワラビに充てたことから発生し、以来、本草家が支持したことにより固定した。
TITLE: "Sawarabi" that appears in Man'yoshu should be assigned to Osmunda lancea Thunb. (Yasha-zenmai)
SUMMARY: Prince Shiki (Shiki-no-miko), a notable tanka poet in the Asuka Period of Japan, composed one poem in Man'yoshu(万葉集), the earliest extant anthology of Japanese verse. His poem can be summarized as follows: spring has come, when sawarabi sprouts on the upper reaches of a small waterfall. Sawarabi, which literally means bracken (warabi) sprouting in the earlier spring, has long been considered to be Pteridium. aquilinum (L.) Kuhn var. latiusculum (Desv.) Underw., but it rarely occurs in the habitat as indicated in this poem. What fits better into the situation described in the poem is "Yasha-zenmai" (Osmunda lancea Thunberg), a species inhabiting along rocky streams. On the other hand, Warabi (Pteridium. aquilinum var. latiusculum) prefers the dry sunny habitat. Thus this paper proposes that O. lancea should be assigned to sawarabi in Man'yoshu.
 Warabi also appears in not only poems but also narrative stories during the Heian-Kamakura periods, and some of them throw out a hint that Warabi grows on the wet habitat. Therefore, what is called Warabi until the middle age of Japan may be O. japonica Thunberg (Zenmai) and/or its closely related species O. lancea rather than P. aquilinum var. latiusculum to which Warabi in classical literatures has been assigned. This proposition is also supported from the etymological viewpoints of Warabi, since matured reddish sporophylls of O. japonica resemble the flaming states of bundled hays, which was called "warabi" during Asuka and Kamakura periods. Some poems in the Heian period regard Warabi as if it blooms. It is no wonder since sporophylls of O. japonica were also recognized as flowers in the premodern era.
 The shifting of the meaning of Warabi from O. japonica (anciently Warabi) to P. aquilinum (currently Warabi) took place in the middle of the Edo period, when a prominent herbalist Ekiken Kaibara (貝原益軒)assigned P. aquilinum var. latiusculum to Warabi (蕨) in his book of material medica "Yamato-honzo(大和本草)". His view was widely supported by other herbalists, and since then the discrepancy has occurred on the recognition of Warabi between the current and ancient ages.

石走いはばし 垂水たるみの上の さわらびの
石激  垂見之上乃    左和良妣乃
        え出づる春に なりにけるかも
            毛要出春尓      成來鴨

(『万葉集』巻8 1418、志貴しきの皇子みこ

 この歌は万葉集でも有数の名歌とされ、春の訪れを詠む叙情歌として一般にも広く知られている。さりげなく詠まれたようにみえる「わらび」であるが、イノモトソウ科ワラビPteridium aquilinum (L.) Kuhnとして解釈しようとすると、いくつかの疑問点が出てくる。その一つはこの歌がイメージする早春にワラビの季節が合わないことが挙げられる。『萬葉集注釋』(澤瀉久孝)に、同じ理由で「さわらび」をゼンマイ科ゼンマイOsmunda japonica Thunb.ではないかとする民間人の指摘が紹介されている註1。また、新日本古典文学大系『萬葉集二』の註でも、『しょう倉院そういん文書もんじょ』に食品として出てくる蕨の時期がいずれも三月〜四月(旧暦)であるとする註2一方で、『源氏物語』では正月早々にわらびが摘まれたとあり註3、『能因のういん歌枕うたまくら』が「さわらび」を正月の歌語としている註4ことにも言及して、それぞれの古典において季節の食い違いがあることを認めている註5が、結局、平安の文人が志貴皇子の歌を早春の作と誤解した結果と結論づけている。今日におけるワラビ採りの旬の季節は新緑の盛春のころであり、旧暦でもおよそ早春とはいい難い時期であるが、シダ植物(pteridophytes)は顕花けんか植物しょくぶつ(flowering plants)ほど季節性が明瞭ではないことに留意する必要があろう。早春でもワラビの芽生え撥条ぜんまい状の特徴的な形態は誰でも知っているだろう)を見ることがある一方で、梅雨明けの夏でも芽を出すことがあるのだ。すなわち、サクラなどと同じ感覚で「さわらび」の季節に言及することは危険であることを示している。これまでの「わらび」に関する議論はいずれも古くからワラビが山菜として採取・利用されてきたことを前提にしている。シダ植物由来の山菜はワラビとゼンマイぐらいしかないにもかかわらず、ゼンマイの可能性に関してはほとんど考証の俎上に上げられることはなかった。今日ではワラビ・ゼンマイの漢名をそれぞれ蕨・薇に充てているが、平安時代から近世初期に至るまでケツともに「わらび」とされてきた註6ことを考えると、実に不可解といわざるを得ない。本論文では志貴皇子の「さわらび」がワラビではないという結論に至った過程について順を追って詳述し、拙著『万葉植物文化誌』の補足の一部としたい。
万葉の「さわらび」はワラビではない!
 植物科学に詳しい理系研究者の視点から見て、志貴皇子の歌でもっとも違和感があるのは、季節の食い違いではなく「さわらび」が生えているという生育環境の方であろう。垂水たるみは小さな滝の意であるが、通例、その上にあるものといえば渓流しか思い当たるものがないからである。乾燥した日当たりのよい草原を好むワラビが、この歌にあるように、水がほとばしり岩がごつごつしたような渓流の環境に生えるとはおよそ考えられないのである。『袖中しゅうちゅうしょう顕昭けんしょうは「たるみのうへのさわらびとは、攝津國と播磨とのさかひにたるみと云所有。垂水と書り。きしよりえもいはぬ水出る故にたる水と云也。垂水の明神と申神おはす。此水のいはの上におちかゝれば、いはそゝぐたるみとは云せ。其たるみのうへをばたるみ野といへば、其野にさわらびもえいづる也。又野までならずとも岸にもえいづとも、たるみの上のさわらびとは申てん」とあるように垂水を地名と考え、『萬葉まんよう代匠だいしょう契沖けいちゅう、『萬葉まんようしゅう古義こぎ鹿持かもち雅澄まさずみもこの解釈を支持した。垂水という地名は全国各地にあって、その語源は渓流があり小さな滝を形成するような地形に由来すると考えられている。しかし、「たるみのうへ」に野原があって「さわらび」が生えているというのはおよそ非現実的であり、やはり渓流沿いに生える(『袖中抄』でいう「岸にもえいづ」と同じこと!)と考えるべきある。奈良市矢田やだわら町にある田原たわら西陵にしりょう(別名春日宮天皇陵、志貴皇子御陵とされている)の入り口に、志貴皇子の歌碑が建てられているが、「いわはしるたるみがおかのさわらびのもえいずるころになりにけるかも」と刻印されている。原文の「垂見上」を「たるみがおか」すなわち垂水が岡と訓じ、また春を「ころ」と訓ずる(誤写と考えたか?)ことによって、「さわらび」をワラビとして解釈することに伴う矛盾を全て解消しようとしたものと思われる。垂水という地にある岡辺とすればワラビの好む生育環境となるし、またその季節も春に限らないことになる。しかしながら、これはあまりに無理強いした訓であって、いかなる注釈書も採用していないので無視してかまわないのであるが、この歌の「さわらび」に対する強い疑念を如実に表しているので、敢えてここに紹介する次第である。
いにしえの「わらび」はゼンマイの類であった!
 ワラビはいうまでもなくシダ植物であり、一般の顕花植物とはかなり形態を異にするから、古代人でもシダ類と顕花植物ぐらいの区別はできたに違いない。渓流沿いは水量が増える時期には冠水するから、植物にとっては過酷な環境であって、そこに生える植物はごく限られる。シダ植物にあっては植物学上で渓流植物とされるゼンマイ科ヤシャゼンマイO. lancea Thunb.ぐらいしか思い当たるものがない。したがって、志貴皇子の歌にある内容をそのまま正直に解釈すれば「さわらび」はヤシャゼンマイとなるのである。ヤシャゼンマイは、今日でも山菜として利用するゼンマイの同属種であって酷似しており、おそらく一般人では区別は困難であろう。ゼンマイは雑木林の中の湿り気のあるところに生え、ワラビとは全く生育環境を異にするので、両種が混成することはない。万葉集では「わらび」を詠う歌はわずか一首しかないが、平安・鎌倉時代の歌集になるとずっと多く詠われるようになり、『新編国歌大観』で検索すると二百首近くある。この中には志貴皇子の歌を本歌取りしたものが数十首含まれるが、これを除いてもなおかつ百数十首もある。この中で「わらび」の生育環境を示唆しているものがかなりあり、ここに四首を挙げる。

 風わたる 春の野沢の さわらびは
          波にまかせて るにぞ有りける

(『夫木ふぼく和歌抄わかしょう』、従二位行家卿)

 折る人の 袖ふる山は 雪消えて
          わらびにそそく 春のみづがき

(『夫木和歌抄』、藤原定家卿)

 あさみどり こけの上なる さわらびの
          もゆる春日はるひを 野べに暮しつ

(『土御門つちみかどいん百首ひゃくしゅ』)

 春の野に さわらび折ると 旅人の
          ゆきもやられぬ をぎの焼け原

(『教長集きょうちょうしゅう』)

第一の歌にある「春の野沢」は草原の所々に谷地があって水をたくわえるような地をいう。第二の歌の「春の水がき」は、瑞垣とすれば神社の周囲にめぐらす垣のことであるが、これではさっぱり意味が通じない。「わらびにそそく」とあるから水路の垣の意であって「わらび」に水しぶきがかかるような雪解け水で水量を増した渓流沿いを彷彿させる。第三の歌の「苔の上なるさわらび」は、苔は湿り気があるような環境にしか生えないから、同様な環境に「わらび」が生育していることを示唆する。第四の歌にある「荻の焼け原」とは、オギの生える草原を火入れした野原をいうが、そもそもオギは湿り気のある環境を好んで生える植物である。したがって、以上のいずれの歌も湿った環境と「わらび」とを取り合わせて詠っていることになり、乾燥した草原を好むワラビとは生態学的に相容れないことがわかる。以上の各歌の情景に合う植物種は、シダ植物に限れば、林内の湿り気のあるところに生えるゼンマイか、渓流沿いであればヤシャゼンマイ、あるいは山地の湿原であればヤマドリゼンマイO. cinnamomeum (L.) C.Presl var. fokiense (Copel.) Tagawaであり、いずれもゼンマイの近縁種である。すなわち、万葉集に限らず平安・鎌倉時代でも「わらび」はゼンマイであった可能性が高いことを示している。

 かねてより みるも物うき わらびかな
          折られじとてや 手をにぎるらん

(『拾玉集しゅうぎょくしゅう』第一巻)

この歌の作者は、平安後期から鎌倉初期の歌人慈円じえんであるが、「手をにぎるらん」とある句に注視すると、この「わらび」はゼンマイではなくワラビではないかと思われるかもしれない。『本草ほんぞう綱目こうもく(李時珍)の記述ではケツすなわちワラビを「二三月芽を生じ、拳曲して狀は小兒の如し」としており、幼児のこぶしを指すと解釈されているからだ。幼児とりわけ赤ん坊のこぶしは親指を中に入れて人差し指ほか四本の指で包み込むように手をにぎることが多い。この形のこぶしは、手の甲の反対側からみると、李時りじちんのいうように、確かにワラビの初生によく似ている。一方、大人の場合は四本の指を中に入れ親指で支えるようにこぶしをつくる。手の甲を垂直に立ててこの形のこぶしを作れば渦巻き状をなし、ゼンマイの若芽に似ていることがわかるだろう。この歌の意は、かねてから見るもおっくうなわらびであることよ、折られまいとして手をにぎっているのだろうとなるが、慈円は山菜たる「わらび」の茎を握りしめて折り取る直前の自らの握りこぶしと「わらび」すなわちゼンマイの渦巻き状の芽を対比させて詠んだと推察されるのである。1463年ころ成立したとされる『心敬しんけい私語ささめごと』にある連歌の一つに「春雨に もゆるわらびの 手を折りて」とあるが、以上の解釈に基づけば、これもゼンマイとして矛盾はない。
 「わらび」の名は和歌だけでなく、そのほかの古典文学にも登場するので、それがワラビ・ゼンマイのいずれであるか検証してみよう。『源氏物語』ではこの名を冠した巻(「早蕨さわらび」)があるが、「わらび」は当該の巻の冒頭に出てくるだけである。

「年改まりては、何事かおはしますらむ。御祈りは、たゆみなく仕うまつり侍り。 今は、ひとゝころの御事をなん、安からず、念じ聞えさする」など、きこえて、蕨、つくづくし、をかしき籠に入れて、「これは、わらはべの供養じて侍る初穗なり」とて、たてまつれり。 手は、いと悪しくて、歌は、わざとがましく、ひき放ちてぞ、書きたる。「君にとてあまたの春をつみしかば常を忘れぬ初わらびなり 御前に、よみ申さしめ給へ」とあり。

「つくづくし」は今日のツクシのことであるが、「わらび」とツクシを童子が供養のために奉納したものだとあり、これだとワラビとしても季節的矛盾はない。与謝野晶子訳『源氏物語』は初穂を初物と訳しているが、文中に「君にとてあまたの春を〜初わらびなり」とあることに和したのであろう。しかし、「初わらび」とはその年に初めて採取した「わらび」ではなく、芽を出したばかりすなわち「さわらび」の意と取ることもできる。初穂とは、本来は各年で初めて収穫したイネのことをいうが、古くはこれを珍重してまず神・仏や朝廷に奉納した。後にはイネ以外の産物で、採集・収穫して神社仏閣などに奉納するもの全てをいうようになり、必ずしも初物を意味しなくなった。したがって、それを採集・収穫した時期の初成と考えるのは誤りである。ツクシは、新暦でいえば4月の初中旬ころに生え、それを採取する季節は限られている。一方、ワラビ・ゼンマイはその期間が長く、ツクシを採取したときにたまたま「わらび」もあったにすぎないのである。「わらび」は「椎本しひがもと」の巻にも出てくるが、前述の新日本古典文学大系『萬葉集二』註が引用したのはこちらの方である。

年かはりぬれば、空の氣色けしきうらゝかなるに、みぎはの氷解けわたるを、 「ありがたくも」とながめ給ふ。ひじりの坊より、「雪消えに、摘みて侍るなり」とて、澤の芹、蕨など、たてまつりたり。いもひの御臺にまゐれる。「所につけては、かゝる草木のけしきに從ひて、行きかふ月日のしるしも見ゆるこそ、をかしけれ」など、人々いふを、「なにのをかしきならむ」と聞き給ふ。

「早蕨」の巻と同じく「年が改まって」とあるが、野沢の氷が溶け初める季節に言及しているから、いうまでもなく旧暦の早春すなわち新暦の2月から3月に当たる。雪消ゆきげの沢で摘んだせりとともにわらびを献上したといっているのであるが、日本古典文学大系『源氏物語』ではこれを「みねわらび」と注釈する。この後に出てくる「君が折る 峰の蕨と 見ましかば 知られやせまし 春のしるしも」という宇治うじの大君おおいぎみの歌に合わせたのであろうが、「(父宮が存命であって)摘んでくださった峰の蕨でしたらこれを春が来たしるしだと(私たちも)知ることができるでしょうに」という意であるから、むしろセリとともに摘んだ沢の蕨とする方がより自然な解釈となる。これも蕨をワラビと解釈したことによる季節の食い違いを回避するための窮余の一案であろうが、蕨をゼンマイとすれば季節・生育地ともに矛盾は解消する。ここでいう「折る蕨」は山菜として摘んだものであり、セリと取り合わせているから、後述するように念入りなあく抜きを必要とするワラビでは合わないと考えるべきである。
 平安時代は女流文人の活躍した時代でもあったが、『源氏物語』とともに『枕草子』を忘れるわけにはいくまい。前述の新日本古典文学大系『萬葉集二』註は、第九十九段「五月さつき御精進みさうじのほど」の「この下蕨は、手づから摘みつる」という部分を取り上げて、「わらび」を五月(新暦では六月の梅雨のころに相当する)に採取したとしているようである。しかし、同段の別の所にも下蕨は出てくる。

二日ばかりありて、その日のことなどいひづるに、宰相の君、「いかにぞ、手づから折りたり」といひし下蕨したわらびは」とのたまふを聞かせ給うて、「思ひ出づることのさまよ」と笑はせ給ひて、紙のちりたるに、「下蕨こそこひしかりけれ」とかかせ給ひて、「もといへ」とおほせらるるもをかし。「ほととぎすたづねてききし聲よりも」と書きて參らせたれば、云々

つまり、ホトトギスを求めて聞いた声より下蕨を手折ったことの方が恋しかったことよといっているのであり、前後関係から考えても旧暦の五月に下蕨を採取したとは思えず註7、新日本古典文学大系『萬葉集二』註には同意しかねる。
ゼンマイであれば氷解する「わらび」の語源
 万葉集にまでさかのぼる古い名前であるワラビの語源は、これといった説得力ある説がなく、植物名の中でも有数の語源難解名とされてきた註8。それは古い時代の「わらび」を現今のワラビと考えるからであって、上述したように、古名の「わらび」がゼンマイとすれば、以下に述べるように意外に簡単に解決できるのであり、その鍵は次の和歌にある。

 けぶり立ち 燃ゆとも見えぬ 草の葉を
          たれかわらびと 名付けそめけむ

(『古今こきん和歌わかしゅう』、真静法師)

 み吉野よしのの 山のかすみを 今朝けさみれば
          わらびの燃ゆる 煙なりけり

(『夫木和歌抄』巻第三)

ここにある「わらび」はいずれも藁火と植物たる「わらび」とを掛けたものであり、これまでは単に同音を利用した技巧と考えられてきた。しかし、「わらび」がゼンマイとすれば、単なる技巧ではなく、実際の情景に即した新しい解釈が可能となる註9。ゼンマイには胞子葉ほうしよう栄養葉えいようようという二つの形態の異なる葉形があって、前者は胞子嚢ほうしのうを房なりにつけ、熟すると炎状の形態を呈して赤褐色に変色するので、これを束ねた藁が燃えている状態すなわち藁火わらびに見立てたと考えられるのである註10。但し、万葉集には「和良妣」という万葉仮名で表記され、妣は上代特殊仮名遣では甲種の音韻であって、乙種の火とは合わないことに留意する必要がある。「わらび」は古くから食用としてのほか、古代布の原料(綿の代用)として用いられ、また藁火も生活の必需品であったから、とりわけ文字のない時代にあっては同音同名では都合が悪かったことは想像に難くない。したがって、両者を区別するため、乙種から甲種に音韻転訛したと考えることができ、軽微な音韻の違いはこの語源説にとってほとんど障害とはならないだろう。
 平安・鎌倉時代の和歌に「わらびのほどろ」を詠った歌がいくつかある。

春くれど 折る人もなき さわらびは
          いつかほどろと ならむとすらん

(『後葉ごよう和歌わかしゅう』巻第一春上、源俊頼)

 なほざりに やき捨てし野の さわらびは
          折る人なくて ほどろとやなる

(『山家さんかしゅう』、西行)

いずれの古語辞典も「ほどろ」をワラビが伸びすぎたものと説明するが、こぶし状の若芽がほどけて展開する意と解釈しているようである。一方、『言海』(大槻文彦)では荊棘おどろ(草木の薮となった状態)の転訛としているようであるが、トゲのあるノイバラならいざ知らず、いわゆるワラビではそのイメージを想像するのは難しいのではないか。むしろ、かがり火・庭燎にわびを意味する「どころ(『角川古語大辭典』による)の訛りと解する方がしっくりくるだろう。すなわち、「ほどろ」は、ゼンマイの胞子葉が完熟し炎のようになって一定の区域を埋め尽くし、そのゼンマイの群落をかがり火に見立てたものと解釈すべきである。「さわらび」を折る人がなければ、赤褐色の花状の胞子葉がかがり火のようになってしまうという意で、この場合の「折る」とは山菜を摘むという意味である。但し、かがり火の消えた状態すなわち胞子葉が散り去って栄養葉が枯れ草となった状態も「ほどろ」と称することもあったようだ註11
 古名で「わらび」の名をもつ植物はいくつかある。『本草ほんぞう和名わみょう』第十巻「草下之上」に「貫衆 和名於尒和良比」とある「おにわらび」もその一つである。『和名わみょうしょう』にも「本草云、貫衆 於邇和良比」とあるが、これは『本草和名』を引用したにすぎない。一方、『新撰しんせん字鏡じきょう』巻第七では「母泉 二八月採根陰干山和良比又鬼和良比」、「殷薜子 於尓和良比」とあり、母泉ボセン殷薜インヘイというほかのいかなる典籍にもない漢名に対して「おにわらび」あるいは「やまわらび」の名が充てられている。『本草和名』、『和名抄』が和名として「おにわらび」に充てる貫衆は、『神農しんのう本草ほんぞうきょう』下品に収載される歴史のある薬物であるが、古くから異名が多くその基原の特定は容易ではない。『證類しょうるい本草ほんぞう』は『爾雅じが(実際は郭璞かくはく注)を引用して「葉は員(=圓)く銳にして莖毛は黑く、地を布き、冬死なず」とあり、これはオシダ科ヤブソテツ類の特徴をよく言い表している。『本草綱目』巻十二下「貫眾」の集解では『吳晉ごしん本草ほんぞう』を引用して「葉は靑黃色にして兩兩相對す。莖に黑毛有り、叢生し、冬夏死なず。四月、花白く、七月實黑し云々」と記載し、ヤブソテツ類の形態特徴とはよく合うものの、シダ植物にはないはずの花に言及している。ヤブソテツの葉は、ゼンマイのように胞子葉・栄養葉に分化していないが、『本草ほんぞう綱目こうもく啓蒙けいもう小野おの蘭山らんざんでも「夏月別ニ葉ノ形ノ如キモノ兩三莖ヲ生ス。鐵蕉ソテツ葉ニ似テ繊細柔軟即ソノ花ナリ」とあり、渦巻き状の新芽には白く大きな胞子囊がついており、やや展開したものは青々とした成葉とは見た目が大きく異なるので、花と見立てたらしい(→写真を見る)。近縁種のオシダ科ヤマヤブソテツCyrtomium fortunei J.Sm. var. clivicola (Makino) Tagawaであれば、林内の湿気のあるところに生えるので、ゼンマイが生えるところにもよく見られるし、またゼンマイの羽状の小葉とヤマヤブソテツの葉の形はよく似る。したがって、わが国の先人がゼンマイより大型の葉をもつヤマヤブソテツほか同属種を「おにわらび」と称したのも納得できる。
 もう一種の「わらび」は、『本草和名』第八巻「草中之上」に「狗脊 和名於尒和良比一名以奴和良比」と出てくるものであるが、前述の「おにわらび」とともに新名「いぬわらび」が出てくるので余計にややこしい。『醫心方いしんぽう丹波たんばの康頼やすよりは狗脊に対して「久末和良比」の和名を与えているが、「おにわらび」と同系統の名であることは明らかである。一方、『和名抄』には狗脊クセキの条はなく、『本草綱目啓蒙』では「和産詳ナラズ」とするだけで、和名すら挙げていない。『新撰字鏡』巻第七では「狗脊 二八月採根曝干犬和良比又云山和良比」とあって、「いぬわらび」のほか「やまわらび」もあって前述の母泉と紛らわしい記述となっている。中国本草においても、『本草ほんぞうきょう集注しっちゅう陶弘景とうこうけいでは菝葜バッカツに似て小異とあるように、シダ植物ではないサルトリイバラSmilax china L.(サルトリイバラ科またはユリ科に属し菝葜の基原植物)としばしば混同されてきた。しかし、それは薬用部位である根茎の形態の類似性によるものであって、葉・茎など地上部の形態を比較した結果ではないことに留意する必要がある。『新修しんしゅう本草ほんぞう蘇敬そけいでは「此の藥、苗は貫衆に似て根は長くして岐多く、狀は狗の脊骨の如し云々」とあり、『圖經ずけい本草ほんぞう蘇頌そしょうでも同様な記述がある(以上『證類本草』所引)。これだけの記述では基原の特定は困難であるが、おそらくこれをもってわが国では狗脊に対して貫衆の和名である「おにわらび」が重複して充てられ、それに似て非なるものとして別に「いぬわらび」と名づけられたと思われる。いずれにしても中国本草の曖昧な記述に翻弄された結果であることは間違いない。
花に見紛うばかりのゼンマイの胞子葉
 ワラビ・ゼンマイのいずれもシダ植物であって、顕花植物のようにいわゆる花をつけないことは、今日では小学生でも知っているだろう。しかし、平安・鎌倉時代の和歌には「わらび」が花をつけるかのように詠っているものがあり、これも古名の「わらび」がワラビではない有力な証拠と考えられる。

 芳野山 散りしく花の 下蕨
          桜にかへて 折るも物うし

(壬二集、藤原家隆)

 花をだに 折りてかへらん さわらびは
          荻の焼け野に 今ぞ生ひ出づる

(弘徽殿女御歌合)

後者の歌にある花は、平安時代以降では「花=サクラ」という定式が成立していたから、サクラと解しても別に不自然さは感じない註12が、前者の歌を鑑賞した上で詠んでみると、「わらび」の花でも折って帰ろうかと解釈する方がよりすっきりすることがわかるはずだ。いずれの歌でもいわゆるワラビではほとんど意味をなさないのだが、ゼンマイとすれば歌の意がよく通じるようになる。前述したように、ゼンマイには赤褐色に変色する胞子葉というのがあって、形も炎のようで青々とした栄養葉と対比すると、花に見えてしまうのだ註10。『大和やまと本草ほんぞう貝原かいばら益軒えきけんに「ゼンマヒニ花アリ」、『本草綱目啓蒙』(小野蘭山)に「(ゼンマイは)花穗ヲ出ス」とあるのはこれを指すのであり、江戸時代を代表する本草学の泰斗もゼンマイの胞子葉を花と認識していたのである。無論、今日の科学の視点からすれば誤りであるが、日本では近世までゼンマイは花を咲かせ、詩歌ではサクラに代えて折って持ち帰るほどの存在であったのである註13。ワラビではこんなことは考えられないから、ゼンマイを古くは「わらび」と称した証左といってよいだろう。
 『多識たしきへんはやし羅山らざんに、蕨の異名として紫箕を挙げており、註に「今案波那和良比」とあって「はなわらび」という興味深い名が出てくる。『本草綱目』第二十七巻「菜部蕨」の集解に「李時珍曰く、(中略)一種紫箕、蕨に似て花有り、味は苦し。之を迷蕨と謂ふ云々」とあり、林羅山はこれをもって「はなわらび」の名をつけ、蕨すなわち「わらび」にも花がつくと考えたらしい。実は、イノモトソウ科ワラビとは全く別科種のハナヤスリ科ハナワラビ属(Botrychium)というのがあって、ゼンマイと同じように胞子葉と栄養葉を別々につけ、胞子葉を花に見立ててその名がある。栄養葉は2回〜4回羽状複葉となるので、ゼンマイよりワラビに似ており、胞子葉をつけた状態はまさに「はなわらび」というにふさわしい。小野蘭山はハナワラビに対して陰地インチケツ(中国本草では『圖經本草』に初見する)の漢名を充てており、その記述から和漢いずれの陰地厥もハナワラビとして矛盾はないが、林羅山の「はなわらび」はゼンマイに対してつけた可能性もあり得る。いずれにせよ、いわゆるワラビあっての「はなわらび」であり、本種には食用・薬用などの有用植物情報がないので、上中古代の「わらび」がハナワラビである可能性はほとんどないだろう。
ゼンマイであったはずの「わらび」がワラビに転じたわけ
 シダ植物由来の山菜として、ワラビとゼンマイは双璧をなすが、今日ではゼンマイよりワラビを食する機会の方がずっと多い。ワラビの惣菜はスーパーでよく見かけるし、また国内産だけで賄えず、中国や極東ロシアからわざわざ輸入するほどであるのに対して、ゼンマイは山野で採集でもしないかぎり食する機会はまずないことから明らかである。ゼンマイは茹でるだけで簡単に食べられるのに、ワラビは木灰で念入りにあく抜きしないと食中毒を起こし、またプテロシンという天然発ガン物質も含むことも厄介である。中国の文献でも、古くは唐代の『本草ほんぞう拾遺しゅうい陳蔵ちんぞうに「恐るるは蕨にして薇に非ず」(『證類本草』所引)と書かれ、さらに江戸時代のわが国に絶大な影響をもたらした『本草綱目』でもワラビ摂食の危険性が明確に記述されている。こんなものが古くから食されてきたとは到底思えず、和歌にある「わらび」がゼンマイであったと同様、『正倉院文書』や『延喜式えんぎしき』巻第三十九「正親おおきみのつかさ」にある蕨の塩漬けはいわゆるワラビではなくゼンマイと考えるのが妥当であろう。こうした歴史的経緯から鑑みると、今日、ゼンマイよりワラビの方がずっと人気が高いのは実に奇妙にみえる。しかし、ワラビは若葉を山菜とするのみならず、もう一つの有益な利用法があることを知れば、その謎が解けるのである。
 ワラビを食べるには、きちんとしたあく抜きを要するので、ゼンマイよりずっと手間が掛かるのであるが、ワラビの根茎には良質なデンプンが多く含まれるという事実があって、今日でも葛粉とともに和菓子などに利用されているほどだ。『大和本草』には凶作の年にワラビとクズの根を掘り取って餅として食したことが記されている。すなわち、ワラビは救荒食物であったのであるが、『延喜式』にも蕨粉はおろか蕨根の名すら見当たらない。それは中国でも同様で、文献的初見は明代後期の『本草綱目』であって、「其の根は紫色にして、皮の内に白粉有り、擣き爛らかして再三洗澄して粉を取る。粔籹に作り皮を盪ひ、線を作りて之を食ふ。色、淡紫にして甚だ滑美なり。楚人、饑年に掘り取りて治造すれども精ならず。聊以て救荒、味卽ち佳からず」との記載がある。一方、葛根は最古の本草書『神農本草經』の中品に収載される由緒ある薬物であるが、そのデンプンすなわち葛粉カップンが初見するのはずっと後の宋代の『開寶かいほう本草ほんぞう』であって、『本草ほんぞう衍義えんぎ寇宗奭こうそうせきには「冬月、生葛を取り、以て水中に粉を揉出せば、澄みてと成る。煎ずるに先じて、湯をして沸かせ使め、後に塊と成すを擘(さ)きて湯中に下し、良久しばらくすれば、色膠の如く、其の體甚だしなやかにして、蜜を以て湯中に拌(ま)ぜ之を食す」とあり、今日とほぼ同じ方法でクズデンプンを製して食していたことを記述している。日本では『頓醫とんいしょう梶原かじわら性全しょうぜん巻第七「積聚上 附癥瘕痃癖諸腹病赤白痢病」に「痢病ノ治方 ナモミツキシホリテ汁ヲ日ニ三四度服スヘシ(中略)又葛ノ粉ヲカタク煉テ多服スヘシ」とあり、近世から今日の民間療法でこれに似た処方が残っているので、鎌倉時代には葛粉が製造・利用されていたことは間違いないだろう註14。これに比べると、ワラビ根のデンプン原料としての利用はずっと後世になって始まったもので、日本では『本草綱目』が伝えられた1604年ころ以降と考えられる。ワラビの根茎を採集する旬の時期は、デンプンがたっぷり貯め込まれている冬季であるが、地上部が枯れているこの時期に見つけ出すことは容易ではないので、特徴的な若葉を出す時期に採取するのが最適である。すなわち、ワラビの根と新芽は同時期に採集されるのであり、ゼンマイよりワラビの方が多く利用されるようになったのは江戸時代初期になってワラビがデンプン製造原料に利用されるようになってからと推察されるのである。これに伴って本草学ではワラビ・ゼンマイを区別する必要に迫られたはずで、『本草綱目』の集解に「(蕨は)二三月に芽を生じ、拳曲して狀は小兒の拳の如し」とあり、この記述と実物のワラビの若芽とを比べて、日本の本草家は万葉集ほか古歌にある「わらび」を「わらはべのこぶし(小児の拳)」に所縁のある名と勘違いし、本来はゼンマイであるはずの「わらび」の名を現今のワラビに転じてしまったと思われる。漢名の蕨をイノモトソウ科ワラビに充てたのは、『大和本草』が初めてと思われ、それまでは蕨・薇のいずれも「わらび」(ゼンマイ)とされていたのを、本草学の立場から整理したのである註15
 『本朝ほんちょう食鑑しょっかん人見ひとみ必大ひつだいに「生蕨を食せんと欲する者は先づ灰湯を用ひて滑涎を煮去して取り出し、水に投じて洗浄すること数次にして蔬と作す。然らざれば則ち必ず毒にてらる」とあり、また著者人見必大の自らの経験を「予が壮年の時、生蕨、葛餅を食へば、必ず気絶して人事を識らず、久しくして元の如し」とも述べている。わが国で古くからワラビの食習慣があったなら、そのあく抜きプロセスはルーチン化されていたはずで、人見必大のような専門家が生ワラビを食して気絶したというのは、当時ではその食習慣が試行錯誤の段階であったことを示唆すると考えられる。そもそも生ワラビはえぐ味が強くおよそ口にできるようなものではない。以上のことから、山菜ワラビの食習慣は比較的新しいと見るべきである。『本草綱目』に「其の茎、嫩き時に采取し、灰湯を以て煮て涎滑を去り、曬乾し蔬を作る。味は甘滑なり。亦た醋にて食ふべし」というワラビのあく抜き法が詳しく記述され、これ以前の中国書にはそのような記述は見当たらないから、日本でのワラビの食習慣は中国由来であって、始まったのは江戸時代になってからと考えられる。すなわち、根茎利用のついでに若芽を採集して食べるようになったといってよいだろう。

 本ページの内容の一部は
第45回日本植物園協会研究発表会(兵庫県立淡路夢舞台温室、2010年5月20日)
全国森林インストラクター会報No.99(2010年9月1日発行)
日本植物園協会誌、第45号、50頁 - 56頁(2011年3月)
万葉古代学研究所講座(平成23年8月20日)

において発表ないし公開しております。
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(補註)

  1. 当該部分の全文は次の通りである。澤瀉博士はゼンマイ説に否定的であり、『萬葉集注釋』ではワラビとしてこの歌を解釈している。古い時代も今日もワラビ・ゼンマイの利用形態が変わらないと考え、その歴史的考察を怠った結果であろう。
    「長岡市の小林安治氏よりの私信に、このわらびはぜんまいでないかといふ説を申越された。ぜんまいであればわらびより季節が早く次に述べる早春、正月などにも合すると云はれるが、今もぜんまいの食用は冬季に野菜の乏しい東北地方が主であって、関西方面ではやはりわらびである事昔もかはらなかったのではないかと思ふ」
  2. 奈良時代古文書フルテキストデータベース(東京大学史料編纂所)で検索すると次の6件に「蕨」と出てくる。
    1.続修四十八 造石山寺所造寺料銭用帳 九文買蕨卅六把価〈一文四把〉 六十八文買藁十七囲価〈別四文〉廿文鎮祀地陰陽師布施料 (以下略)
    2. 銭用帳
    糯米一斗〈二百文〉 小豆五升〈九十文〉多羅一斗二升〈九十文〉 蕨一斗二升〈卅文〉 (以下略)
    3.
    ‡「案主下 天平宝字六年三月三日」 (中略) 銭陸伯捌拾肆文 鉄弐廷〈重七斤〉釘卅九隻〈一尺打合卅三‡隻⇒□‡ 五寸薦釘六隻〉鍵七勾〈蕨鍵二勾 折鍵‡ 二⇒五‡勾〉 (以下略)
    4.続修別集第二十巻  奉写一切経所雑物用残事解
    (中略)桝二升〈買〉 用尽 僧已下自進已上六千四百五十人茹料〈人別一 合〉 蕨一石四斗〈当季買〉 用尽 四斗漬料 (以下略)
    5.続々修 
    天平勝宝二年十一月 (中略) 蕨鍵二勾
    6.続々修 
    蕨鍵二勾
    このうち、食品としての「蕨」は2と4であり、そのほかは別の用途である。
  3. 次節『いにしえの「わらび」はゼンマイであった!』で詳述する。
  4. 『能因歌枕』(廣本)に「正月 鶯、ねの日、うづち、梅がえ、霞、紅梅、さわらび、山すげ、若菜、あをば、山橘、をはぎ、つくづくし、なゝくさ」とある。正月の季語とはいえ、ウグイス・ヨメナ(をはぎ)・ツクシも含まれるから、比較的ひろく季節をとっていることがわかる。
  5. 中国東晋南朝宋・謝霊運の詩も引用しているが、中国における「蕨」の基原について検証した上で議論しているのであろうか。
  6. 『本草和名』では「蕨菜 和名和良比」、『新撰字鏡』草部第七十一は「蕨 二形上同居目反入 和良比」とあって蕨を「わらび」と訓ずる。一方、『和名抄』では「薇蕨 微厥二音 和良比」、『新撰字鏡』小学篇字及本草異名第七十一では「蕨薇  皆和良比」とあって、薇も「わらび」の意で用いられた可能性を示唆し今ひとつ不明瞭である。この曖昧さは後世にも引き継がれ、『下學集』、『節用集』や『伊呂波字類抄』のいずれも「蕨」と「薇」のそれぞれを同義として「わらび」と訓じている。
  7. 下蕨とは、草の下に生えた「わらび」と一般には解釈されている。『堀河百首』に「武蔵野はまだ焼かなくに春くればいそぎ萌え出づる下蕨かな」(師頼)とあるように、春になれば枯れ草の下に生える「わらび」を指すようである。『新編国歌大観』には下蕨を詠む歌が73首もあるが、ごく一部を除いてほとんどはこの意にとって問題ない。新日本古典文学大系『萬葉集二』註が『枕草子』の下蕨の季節を五月としたのは、『能因歌枕』に「したわらびとは、ときならぬわらび也」とあることを汲み取った結果なのかもしれない。
  8. 植物語源説で著名な深津正氏の『植物和名の語源』(八坂書房、1976年)、『植物和名語源新考』(同、1999年)では語源解明の試みすらされていない。加茂百樹著『日本語源』(興風館、1943年)は、短期間でワラビの芽が散(わら)くので、散芽(わらめ)の転訛あるいは散風(わらぶる)に由来すると説明している。そのほか、ワラビは地中を這う根から出る芽があっちこっちに散っているので、「散る・ワラ→芽・メ」のワラメからワラビに転じたとする説、カラ(茎)メ(芽)の転訛説ほかいくつかの俗説があるが、ほとんど支持されていない。吉田金彦著『語源辞典植物編』(東京堂出版、2001年)では、ワ(曲)ラ(接辞)ヒ(秀)という語構成で、茎がくるくると輪のように巻いて穂のように出るというのが原意であるとしているが、これも全くといってよいほど相手にされていない。著名な植物学者である前川文夫博士は、著書『植物の和名の話』(八坂書房、1981年)の中で、植物の古名・方言名を広く取り上げ、その名前の共通する部分からその文化史的、民族植物学的背景について論じている。必ずしも語源を論じているわけではないが、結果としていくつかの植物名の語源を呈示している。「わらび」については、アケビなどと同じと考え、食用となる葉全体を実と考えビに転じたとしているが、「わら」についてはわからないとさじを投げ出してしまった。
  9. 『八雲御抄』巻第一「正義部 物名」に「物の名をかくしてよむ歌也。(中略)蕨を藁火とかくしたるなどは、聲こそかはりたれども同物名也。これなどはかくしたるといふべきにあらず」とあり、「わらび」と藁火との間には同音であること以外に何らかの共通性があり、「わらび」の語源が藁火にあるとほのめかしているようにみえる。
  10. これを実感するには著者が撮影した成熟したゼンマイの写真を見ればよいだろう。
  11. 『西行物語』の東下りの記述に「むさし野の草のゆかりをたづねけんもなつかしく、やどをば月を忘れて、あすのみちゆきなんとくちすさひて(註:口誦みて)ゆく程に、(中略)わづかなる庵のうへをば、くず、かるかやにてふき、萩、をみなへしいろいろの秋の草にてめぐりをかこひ、夜ふす所とおぼえて、東に寄りてわらびのほどろを折りしき、西のかべにゑざうの普賢をかけたてまり、御まへには法花八ぢくをかゝれたり」(青木伶子・半藤英明・堀内裕明『西行物語 本文と総索引』より)とあり、秋の野で「わらびのほどろ」を敷いて野宿したことをいう。この時期ではワラビ、ゼンマイのいずれも葉は展開しきっており、両種はおろかそのほかのシダ類とも区別することは困難であるから、ここでいう「わらび」は、通例、林内に生えるゼンマイではなく、草原に生える非常緑性シダ植物一般を指したと思われる。
  12. この歌は長久二(1041)年の弘徽殿女御歌合で第五番「さわらび」の右方の歌として詠まれた歌である。この歌合の判者・藤原義忠の判詞に「花をだに折りてかへらんとは、げにいとをかしく思ひよりて侍るを、萌え出づるを見るばかりならば、他々もなどか求めて、などかかへらざりけむ」とあり、「さわらび」を見るだけでなく、ついでに花たとえばサクラでも折り取って帰ろうかという意味に解釈している。
  13. 『壬二集』にある「芳野山ちりしく花の下蕨さくらにかへて折るも物うし」(家隆)はサクラに代えて「わらび」を折るのはおっくうだという意であるが、ヤマザクラが散るころは「わらび」(ゼンマイ)の胞子葉が色づき始めているから、山菜ではなく「わらび」の花を折るといっているのである。
  14. 当初は食用ではなく薬用であった。通説では葛粉の利用を奈良時代までさかのぼるとするが、確固たる証拠を欠く。食用としての葛粉の本格的利用は江戸時代になってからであり、 江戸後期になると大蔵永常『製葛錄』(1828年)や同『廣益國産考』のような専門農書も出現した。クズの蔓はその繊維から葛布 を、葉は牛馬のえさに、根は乾燥させて薬用になり、また葛粉もとることができるので、少しも無用なところがないと説いている。一方、蕨粉はあくまで救荒用であったらしく、新芽を山菜として利用するにとどまった。
  15. ゼンマイの名は『節用集』に「前麻伊 ゼンマイ」(基原は不明で今日のゼンマイとは限らない)とあるのが初見であるが、16世紀初頭に成立したとされる文明本のみにあって、以降の版本には見当たらず、約200年後の『大和本草』(貝原益軒)に「ゼンマヒ」と出てくる。おそらくは別の植物の土名であったと思われるが、貝原益軒は紫箕の和名とした。因みに、今日ではゼンマイの漢名とされる薇をイノデとしている。ゼンマイを薇としたのは、『本草綱目啓蒙』(小野蘭山)であって、以降のわが国ではこの見解が採用された。薇をゼンマイとするのは誤りでノエンドウの類とする意見もあるが、『本草綱目』の見解を盲目的に受け入れたものにすぎない。蕨・薇の基原に関する考証は木下武司著『万葉植物文化誌』および同『万葉植物文化誌補足』に詳述されているのでここでは省略する。
引用参考文献(五十音順)