平成28(2016)年の新春に思うこと
To Homepage(Uploaded 2016/1/1)
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 2000年問題といって大騒ぎした年からもう15年が過ぎ、今は静かに2016年の新春を迎えつつある。年末になるとその年に起きた事件の中から10大ニュースを選んで発表するのが新聞社ほか各メディアの恒例の行事であったが、最近ではわずかに読売新聞社が発表しているに留まるようだ。昔と比べて事件が多すぎるからであろうか。読売新聞社は安保法案の国会通過を6位に挙げるが、あれほどメディアに長期間にわたって報道された割にはランクが低すぎる気がする。反対運動ばかりが連日のように大きく取り上げられたのは、国家の安全保障に関わる重大案件にも関わらず、水と安全はただという日本国民の平和ぼけぶりを再確認しているようで複雑な気持だけがよぎる。そもそも安全保障は国家のみならず個人レベルにおいてもっとも優先すべき問題の一つであり、本来、与野党で大きく意見が分かれるようなものではない。それは欧米ほか主要国の政治をみれば一目瞭然で、リベラルであろうが保守派であろうが、いざ国家、国民を守るためには一定の犠牲を厭わないという基本的理念では共通する。ところがわが国のリベラル派(?)にその意識はきわめて希薄で、根強い反軍意識があり、一方的に安保法案を戦争法案と決めつけ、どう国家と国民を守っていくのか具体的なビジョンを提示することなく、実質的に安保論議を封じ込めてしまったのは遺憾というほかない。このような状況において世論調査で法案の賛否を問われれば、一般の国民が反対寄りの意見に靡くのは無理からぬことである(どの世論調査でも賛成が反対・どちらかといえば反対を超えることはなかった)。もっとも解せないのは前政権を担当した責任政党のはずの民主党がシールズという学生組織のリーダー(どのように選ばれたのか背景はさっぱりわからないので適当な呼称ではないかもしれないが)を国会の公聴会に招聘して答弁させたことである。安全保障問題は明確な責任の所在が求められるべきものでなければならないが、もっぱら活動に政治的背景はない、多くの国民が反対しているなどを述べるだけで、肝心の安全保障問題の核心に触れることはなかった。すなわち未熟さだけが目立ったこの青年にそのような論議を期待する方が無理だったのだ。
 ここで思い起こされるのは1980年の米国大統領選での現職のカーター大統領と共和党レーガン候補の公開討論会である。当時、米国は経済的な苦境にあり、軍事予算の扱いについて、カーター大統領は削減、レーガン候補は逆に増額を主張し、真っ向から対立していた。わが国ではほとんど知られていないが、現職のカーター大統領は自分の娘(当時、小学生だったと記憶している)の意見を引用して反論するという策に出たのであった。当時、イランアメリカ大使館人質事件があり、人質解放に向けた軍事作戦が無残な失敗に終わったこともカーター大統領の脳裡にあったのかもしれないが、少女の意見(確か殺し合いはよくないことでそれにお金をつかうのは無駄だというようないかにも小学生が口にしそうな内容だったと記憶している)を国政それも安全保障論議に持ち出すというのは米国民にまったく受け入れられなかった。当時、筆者はコロンビア大学に留学中であったが、研究室でも公開討論会が話題になり、ユダヤ系で民主党員と自称する若手研究者の一団が「もうカーターはだめだ、レーガンに投票する」といっていたのを鮮明に覚えている。案の定、レーガン候補の地滑り的大勝に終わり、わが国のメディアはカーター大統領の優柔不断な外交政策が敗因としているが、公開討論会で安易に未成年の娘の意見を口にしたのが大きく流れを変えたのではないかと思う。レーガン候補は大統領に就任後、一般予算を削減しつつ国防予算の増額を断行し、その揺るぎない政策は遂に旧ソ連の崩壊を誘導、冷戦の終結に貢献したのであった。
 一方、わが国のメディアはシールズの学生の招聘を好意的に受け入れ、後に外国メディアが記者会見したことも含めて大きく報じた。しかし、肝心の会見内容はどの外国メディアにも報じられた形跡がなく、記事にならなかったようである。公聴会での発言と同じであったとすれば、まったくの無内容に外国メディアは失望し、記事にしなかったと推測される。外国メディアが一時的に関心を引いたことだけを取り上げ、肝心の記事の内容を精査しなかったのはわが国のジャーナリストに多い詰めの甘さというべきものであるが、そのような姿勢は国内報道でも随所に現れている。政権側からの問いかけにも関わらず、対案を出せない民主党ほか野党各党に一部のメディアは紙面やTV画面に過剰ともいえるほど露出させることで実施的に法案反対に加担したことは誰の目にも明らかである。ある大学教授は政権側の報道規制の圧力が強まっているといっていたが、実は逆であって、多くのメディアは過剰に反対勢力を露出させ、政権側の言論を封じていたように思える。民放では与野党代表が一同に会し、少数会派であっても発言の機会が与えられるので、視聴者の側からみると反対派の言動が数の上では優勢となり、サブリミナル効果によって反対した方がよいかもと考えてしまうのだ。一方、NHKではリベラル・保守系の識者二人ずつと数の上ではバランスを取っていたが、発言時間で見るとかなりの差があり、司会者が意識的に操作していたのではと思われた。また、安保法案の成立によって平和な時代が終わるとも喧伝された。戦後、70年の間に日本は確かに戦争に巻き込まれることはなかったが、もしアメリカと距離を置いて旧ソ連の陣営に位置していたなら沖縄奄美・小笠原諸島の返還はなく、名目上の中立政策を取っていたとしても、地政学的に微妙かつ東西冷戦の狭間にある日本列島周辺はどうなっていたか余談を許さなかったにちがいない。70年間の平和は日米同盟のもとで惰眠をむさぼることができたにすぎず、9.11のニューヨーク同時テロ、最近のフランスの無差別多発テロ、そして海洋での武装海賊船の横行など、国際連携が求められる時世になったことをまず認識しなければならない。あってはたとえ平和憲法の制約があるとはいえ、世界第2位(今は3位だが)を維持し、高い生活水準を得ながら、平和憲法の名のもととはいえ、もはや平和ぼけの惰眠を国際世論が許さなくなってきたのである。このままだとわが国は汚れ役を嫌う無責任国家と国際的にレッテルを貼られるのは目に見えている。ごく一部の例外を除いて、多くの国が安保法案に理解を示し、それは口うるさい国外のメディアでも同じなのだ。
 今回の反対運動では多くの著名人が参加した。その中にアニメ監督のM氏も含まれ、2014年度の米国アカデミー賞を受賞し国際的にも知名度が高いこともあって国内メディアも大きく報道した。ハリウッドでの表彰式の時、司会者に感想を求められてどう答えたかご存知であろうか。「50年間(70年間の誤りだろう)に、私たちの国は一度も戦争をしなかった、おかげでアニメ制作に没頭できた」という趣旨で述べている。今回の反対運動でも安保法案を戦争法案と決めつけ、同じ内容を繰り返していた。日本国憲法は先制攻撃を禁じているから、日本が率先して戦争を仕掛けることはそもそも国際世論が許さない。問題は他国がわが国の領土を占領したときである。実際、南千島・歯舞色丹の北方領土は旧ソ連に、竹島は韓国に占領され、それでもわが国は平和交渉を通じて領土回復する政策を堅持している。もし他国であれば戦火を交えることは必至であったと思われ、仮にわが国が軍事行動に出たとしても純粋な防衛目的であるから国際世論の反発はないはずである。それに尖閣諸島問題もあり、いつ中国が軍事侵攻してきてもおかしくない状況にある。確かに日本は戦争に巻き込まれることはなかったが、それが日米安保体制のおかげであることは歴史上の否定しがたい事実であり、そのおかげで沖縄・小笠原返還が実現し広大な経済水域を得ることができたのである。この海域には豊かな資源の存在が確認されており、子々孫々のために現世の日本人はこの権益を守り伝える義務があるが、そもそも無防備で守れるなど幻想に過ぎない。よくいえば純粋無垢というのだろうが、驚くほど幼稚な論理に、M氏はまったく気づいている様子がなかった。いくら著名人とはいえ、安全保障問題に関しては小学生並みの認識しかなく、国際社会からは相手にされないだろうが、わが国では一人前の意見としてメディアが報じるのは理解に苦しむ。政治の世界は断じて生徒会や学生自治会の延長ではなく、また断じてそうあってはならない。とりわけ経済運営および安全保障そして外交は人間として十分な成熟を求められるところであり、それに気づかない国民が少なくないのもまだ政治意識が未熟というほかなく、覚醒されんことを祈る次第である。