研究テーマを文系に舵取りした経緯(1)
To Homepage(Uploaded 2016/6/15)
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 今月1日、25年も住み慣れた八王子を去り、ほんの数年前までは愛知県幡豆郡幡豆町大字寺部と呼ばれていた本籍地に戻った。”幡豆(はづ)”という地名は平安時代の『和名抄』にも出てくるほど由緒ある地名であり、平城京の木簡にも”播豆郡析嶋”、”播豆郡篠嶋”、”芳図郡比莫嶋”という同音の地名が登場し、今は知多郡に所属する篠島・日間賀島も佐久島とともに古代幡豆郡の一部であった(ただし、『和名抄』では篠嶋・比莫嶋の二島は幡豆郡から除外されている)。知多半島先端にある羽豆岬もおそらく古代幡豆郡の所属であったにちがいない。幡豆が古い歴史をもつ地名であることを内心誇りにしていたのであるが、平成の大合併で住所表記から幡豆の名は完全に消え、残るのは旧幡豆町の西幡豆地区が西幡豆町、東幡豆地区が東幡豆町の2つだけとなってしまった。自宅から目と鼻の先にある寺部海岸から三河湾を望むと、左手から渥美半島が伸びて先端部の伊良湖岬が見え、すぐその先に三島由紀夫の小説『潮騒』の舞台になった神島がある。今日、神島は三重県鳥羽市に所属するが、地理的には渥美半島の方がずっと近く、天候さえ許せば肉眼で見ることができる。神島からさほど遠くない距離に答志島、菅島があり、その背後に志摩半島が控えている。すなわち以上の島々は古代幡豆郡と志摩半島を結ぶ線上に連なっているのだ。伊勢神宮を擁する伊勢国と隣国の志摩国は平城京と直結する特別な存在であったから、古代幡豆郡は伊勢志摩との海上の交易で栄えていたのではと推測されるが、地方史においてさえほとんど言及されることはなかったので、古典の植物研究で培った手法を適用すれば新たな知見が発掘のではないかと期待される。この観点から恰好の研究テーマがある。江戸時代の著名な万葉学者契沖は、高市黒人の羈旅の歌の一首「四極山(しはつやま) 打ち越え見れば 笠縫の 島漕ぎ隠る 棚なし小舟」(巻三 〇二七二)にある四極山の所在地を三河と考定しているのだ(論拠として『和名抄』の幡豆郡に「礒泊 之波止」とあるのを挙げている)。三河湾沿岸部で黒人の歌の情景に合致するのはわが郷里旧幡豆町以外はあり得ないが、現在の国文学界の主流は、『日本書紀』に四極路(しはつじ、平城京と難波を結ぶ古代の道路)という名が出てくること、および笠縫に因む地名が残ることから本居宣長・賀茂真淵の摂津説を受け入れ、最新の注釈書(岩波書店発行)でもそれに基づいて解釈している。グーグルマップを見れば明らかであるが、この歌に詠まれた島と山に該当するものは摂津周辺にまったく見当たらないが、大阪市東成区深江に万葉歌碑が建てられている。島と山が人間活動に伴う地理的改変で消失するというのはまずあり得ないから、摂津説では黒人がどういう状況でこの歌を詠んだのか想像すら困難である。宣長・真淵ともに文献上の観念的解釈に留まり、現地の状況を把握していなかったのではと考えざるを得ない。万葉の地名考証で知られる犬養孝博士が名著『万葉のたび』の本文項目として四極山を載せなかったのは、国文学界で有力視される摂津説では歌の情景に合う場所がまったくなく、一方、三河説では適当な高さの山と島が存在するものの、犬養博士の眼鏡にかなう情景が見当たらなかったからと推定される。実は西三河南部は歴史的に大規模開発をうけ、地理学的に大きく改変され、海岸線は現在よりかなり内陸に位置していた。吉良町・一色町・碧南市の面積の四割近くは海抜一メートル以下の低地であることは国土地理院の地図をみれば一目瞭然である。また三河一の大河矢作川の本流は現在では碧南市へと流れ込むが、江戸時代以前では吉良町の矢作古川が本流であり、幡豆山地の西側の傍を流れていた。したがって現在の地形を基にした考証ではぴたりとくる情景を見出すのは難しく、古い地形を歴史資料から発掘し、その上で実地踏査を行わなければ真の歌の情景に迫ることは不可能であり、旧来の国文学のパラダイムではおよそ解明は不可能に近い。筆者は薬学領域にあって公然と万葉研究を行ってきたが、それは『万葉植物文化誌』という実績があったからにほかならない。ところがこの歌の背景に万葉の植物が見えてこないので、在職中はそれに託けて校費による研究出張まで踏み込むことはできなかった。笠縫をカヤツリグサ科カサスゲに結びつけることは不可能ではないが、メディアから公私混同疑惑で四面楚歌の状態にある桝添都知事ほどの強心臓を持ち合わせていないので、とうとう定年を迎えてしまった次第である。ところが寺部地区に引っ越したことで状況が一変、研究の舞台がごく近傍となり、これまでと比べて格段に研究しやすい環境が転がり込んできたのだ。すでに新説の骨格は筆者の頭の中に完成しており、西尾市からの依頼による「万葉集の植物」という題目の講演(本年一月十七日)で紹介しているが、じっくりと腰を落ち着けてさらにエビデンスを集積してこの見解を磐石にしたいと考えている。故郷を万葉の故地として全国的に認知させるという新たな目標ができたことは研究者として生涯現役を貫く糧となるわけで寺部に移住した意義は限りなく大きいのである。
 さてここからが本ページの本論で話の内容はがらりと変わる。筆者はもともと純粋な理系であり、一度も文系の研究機関で勉強したことはない。しかし、2010年に『万葉植物文化誌』、2015年に『歴代日本薬局方収載生薬大事典』を上梓し、今年度においては科学研究費補助金の助成を受けて『和漢古典植物名精解』(本年六月二十四日採択確定)を刊行する作業が進行中である。いずれも内容的には高度な文系情報を集積して綿密な解析を施したもので、数十年かけたライフワークとしばしば勘違いされる(実際は十年に満たない)。定年よりはや二年が過ぎた今、なぜ理系から古典文学に舵取りすることになったのか述べてみたいと思う。筆者は定年後なるべくすみやかに引っ越ししたかったのであるが、長年、実家が空き家になっていたこともあり、家の中の大掃除そしてリフォームを段階的に進めて快適な住居環境の構築を目指していたため、実際に引っ越すまで二年以上もかかってしまった。まず引っ越しに際して実家の大掃除をしたところ、母家の外にある納屋から東大教養時代の一年前後期の成績簿が出てきた。筆者は理科Ⅰ類(理Ⅰ)に所属していたが、実際に進学したのは薬学部である。当時は高度成長時代を背景に理系全盛時代で、理Ⅰの学生はほぼ100パーセント工学部あるいは理学部に進学した。中でも電子工学や応用物理系は人気が高く、高い得点を取らないと進学できなかった。筆者は人並みに工学部の花形学科に進学したいと思っていた(就職に困らないから!)が、一年の前期ではかなくもその希望は打ち砕かれ、当時、進学振り分けでもっとも得点の低かった冶金学科にすらかなわなかった。当時、工学部に進学するには図学という科目の単位を取らなければならなかったからだ。製図をするのに必要という名目であったが、実際に工学部に進学した友人によれば、ほとんど無用だったという。前期の図学の試験で不合格(合格最低点の50点をはるかに下回る10点以下だったと思う)、再試でもさっぱり歯が立たずあえなく撃沈、とうとう成績簿には屈辱的な赤不可のマーク(当時、これを赤点といった)がついてしまったのだ。留年しても図学の単位の取得は無理と決断し、早々と工学部の進学を断念、一年後期から生物学(理Ⅰでは選択科目で、理Ⅱ・Ⅲ類では必須)を選択した結果、めでたく優をもらい、何とか理系の主要科目の単位を充足できたのである。この時点で教養時代のクラスメートとは袂を分かち、図学の単位を必要としない理学部・農学部・薬学部あるいは教養学部の基礎科学科への進路を選択することになってしまったが、周りから優柔不断と見なされていた筆者にしては人生の重大な分岐点での迅速な決断であり、結果的には大成功であったと思う。成績が悪かったのは図学だけに留まらなかった。物理学も前期は赤点であったが、後期との通算で平均合格となり、薄皮一枚でかろうじて首がつながっているありさまであった。当時は赤点を二科目以上取ると落伍者と見なされていたから、今日の私学であればまちがいなく保護者に成績書が送付され、「ご子息の成績では留年の恐れがありますので、叱咤激励をお願い申し上げます」と通知されたにちがいないが、幸いにも東大ではそのような習慣がなかった。一方、化学の成績はよかったので、これが結果的に薬学部への進学を決意させることとなった。そのほか、文系の科目では国史と国文学を選択し、いずれも優をもらった。経済学や国際関係論など社会科学系科目も成績はよかった。すなわち文系科目で点数を稼いでいたのであり、晩年になってその素養が大いに役立ったのは言うまでもない。因みに国文学を教わったのは稲岡耕二先生で、当時、山口大学から助教授として着任したばかりと記憶している。稲岡先生は万葉集の研究で名を馳せた方であるが、実際に教わったのは古事記の歌謡(久米歌など)であって万葉集ではなかった。専門学部への進学振り分けでもっとも重要な第三学期の期末テストの直前でいわゆる東大紛争(学内では東大闘争と称していた)が勃発し、その対応を巡って学内世論は代々木系(民青)と反代々木系(全共闘)に二分され激しく対立した。筆者は全共闘に靡いて級友と消極的ながら活動に参加していた(クラスの主流が全共闘であったからという実に薄弱な理由であった)が、優柔不断な性格が幸いしたというか、いざというときに日和見の態度を取ったこともあって、自分の経歴が傷つくことははなかった。自他共に認める落ちこぼれであってプライドはもとより持ち合わせていなかったから、卑怯、裏切り者と言われてもまったく動じなかった。東大紛争は長期化し、教養学部では七ヶ月もストライキが続き、その間まったく講義はなかった。1969年の正月に全共闘によって封鎖された本郷キャンパスと安田講堂に数千名の機動隊が突入、その様子はテレビで生中継された。その結果、全共闘運動は敗北し、授業(というより三学期期末試験)が再開されたが、ほとんどはレポート提出であり、筆記試験が行われたのはごくわずかであった。その中に数学があったが、筆者はクラスの主流派に引きずられるように試験のボイコットに参加してしまった(日和見といわれる後ろめたさもわずかながら残っていたからかもしれない)。当然ながら当該の試験は不合格(0点)であったが、一学期から三学期までの通期で合格、単位認定となった。一二学期は解析学と幾何学の二科目、三学期は一科目であるから、合わせて250点以上であれば0点でも合格できる。一年次での数学の成績は優が一個に可が三個であったから、まさに薄氷を踏む思いで留年の危機を切り抜けたことになる。一方、レポート課題については、筆者はなぜか物書きには強く、課題をもっともらしく緻密にまとめるのはもっとも得意とするところであり、原稿用紙20枚のレポートを短時間で完成させるのは朝飯前であった。後年、大部の著書を連発する素養は当時から備わっていたようで、ことごとく優の成績をいただいた。筆記試験のとき、ノートを見せてもらったり、教科書のわからない部分を教えてもらうなどお世話になった級友は多いが、レポートでは助っ人として代筆することもあった。とはいえ級友の中には留年を繰り返し、そのまま退学に至ったものもいたから、クラスの底辺に這いつくばっていた落ちこぼれの筆者が進学できたのは奇跡に近いことで、長期の東大紛争に救われたといってよいだろう。(to be continued)
 さて、この続きは続編(2ヶ月後に予定)に任せることとし、ここで話を今日もっともホットなトピックに脱線させてみたい。このページを執筆し始めた6月13日は東京都議会総務委員会において舛添要一都知事が一連の政治資金使途疑惑について一問一答の答弁を行った日であった。都知事と筆者は、学部こそ違うが、奇しくも入学・卒業年度が同じ同級生に当たる。2年前の都知事選で八王子市南大沢を遊説中、京王線南大沢駅前で舛添候補に遭遇(そのとき筆者は家内とイトーヨーカドーへ買い物の途中であった)、同級生という親近感もあって激励の握手を交わしたことがある。舛添氏が東大教養学部の助教授(今で言う准教授)であったとき、筆者は薬学部の助手(今でいう助教)であり、毎年、1月中旬に行われる共通一次試験(今日のセンター試験の前身)において、舛添氏とともに教養学部正門で受験生の受験票チェックを行ったこともあったのだ。1980年代のことであったが、一年でもっとも寒い時期に暖房もない中でただひたすら受験票の顔写真をみて本人確認を行うのは苦痛であった。舛添氏は覚えていなかったようであったが、30年以上前のことであり互いに容貌が変わっているから、記憶になくても仕方ないことである。都議会の総務委員会では政治資金の公私混同疑惑に質問が集中したが、弁護士によって不適切とされた支出は数十万円、美術品を入れても数百万に過ぎない。豪華海外出張や公用車による湯河原別荘への移動は一般庶民の神経を逆なですることはあっても法に反しているわけではない。都議会での審議であるから、都知事になってからの出張・公用車問題に時間を割いて説明した上で頭を下げれておけばここまで泥沼化しなかっただろう。国会議員時代に起きた政治資金問題は都政と直結するものではないので、「迂闊でした、お詫び申し上げます」ぐらいで済んだのではないか。それにしても舛添氏が家族とともに宿泊した木更津のホテル代を会議費として政治資金より支出したのは、豪華な別荘をもつ身分にしてはあまりにせこすぎる。舛添氏がこのホテルで特定の人物との面会を暗示して切り抜けしようとしたのも政治家として大いなる失策であった。おそらくその事実はなく、一端、公の場でそう説明した以上、ひるがえせば虚偽の陳述となってしまい、もはや後戻りは不可能である。筆者なら誰それとの政治論議を予定していたが、相手の都合でキャンセルされたと適当な友人に頼んで証言してもらうだろう。これなら相手が傷つくこともなく、キャンセルは個人的都合だから、どうにでも言い訳がたち、偽証罪に立件することは難しいだろう。これも純粋な庶民の感覚では理解しがたいかもしれないが、このようなことはどの世界でも日常茶飯事で無意識に阿吽の呼吸で行われていることなのだ。盛り場で一杯やるつもりが友人と遭遇して盛り上がり、その経費を交際費として会社に請求したことのある方はすくなくないだろう。この程度の不適切な支出であれば、どの政治家も叩けばいくらでも出てくるはずだから、舛添氏もプライドを捨てて「つい魔が差しました、すみませんでした」と頭を下げればうやむやのうちに済んだはずだ。現在は情報開示制度があるので、政治家の政治資金の使途についてほぼ自由に調査できる。今後はそれを専門とするジャーナリストが続出し、政治家が畏縮し、まともな政治活動ができないのではないか。あるいはこれをネタに脅迫犯罪の発生も予想され、日本の政治は大混乱に陥るリスクを負うことになる。ただし、舛添氏の疑惑は政治資金の不正支出だけではなさそうだ。総務委員会で自民党理事が木更津のホテルの件の次に、韓国学校に対する都有地貸し出しを都知事が独断で決めたことを指摘したが、むしろこの方を問題視すべきではないか。新宿区の都立高校跡地(6000平方メートルという)を桝添氏が都市外交と称してソウルを訪問した際、パククネ大統領に約束したとも報道されている。時価にすれば数十億円の不動産をよもや無償ではないだろうが、貸し出すとすれば相当の金額になるはずで、もし事実なら都議会で十分な審議を尽くした上で決断すべきであった。実際、本件に対して都庁前でデモがあったという。新宿区民から保育園の開設に利用するという陳情もあったというから、これを無視しているとすれば都民の利益を損ねていると言わざるをえない。いくら親韓派の政治家とはいえ、まさか何の見返りもなくこれだけの案件を約束するとは常識的には考えられない。舛添氏の周辺で巨額の資金が動いている可能性もあるが、不思議なことに大半のメディアが黙殺しているのはどういうことか。筆者はもはや都民ではないが、25年以上にわたって都民税を支払い続け、今日、ちょうど都民税の支払い通知が新しい住所に届けられたから、やはり都政には無関心ではいられないのだ。
 政治家の政治資金は大学研究者にとっては科研費補助金に相当するが、毎年のように不正支出の例が摘発されている。国内で行う研究上の支出は研究資財の購入など業者を通して事務方が直接の支払いを行うので、請求書・見積書・納品書の3点セットが発行されるが、国外調査研究ではそのようなきちんとした書類を発行してもらえないことが多い。とりわけ発展途上国で著しく、対応を誤ると足下を見透かされて法外な金品を要求されることもある。筆者の実際の経験(国際学術研究)であるが、国外の共同研究者に対する謝金の支払いで当該国外の金融機関への送金を要求されることがあった。これはマネーロンダリングのお先棒を担ぐ完全な違法行為であり、それも当該国内ではなく日本から振り込みを要求されたのである。こうすれば当該国内では表面上の謝金の受け取りはないことになるから、当人は課税を回避でき、また一部の国では共同研究に参加して受け取った謝金(あるいは日当)は給料に相当するとして、その期間内に相当する給金を差し引かれるから、これも回避できる(無給で参加する場合は天引きされない!)。現金で手渡しするのが普通であるが、長期の調査研究の場合、金額が大きくなり(部下に支払われた謝金をピンハネすることもあるからさらに金額は大きくなる!)、銀行口座で捕捉されやすくなる(治安の悪い国ではタンス預金はリスクが大きい)ので、現金払いは意外に嫌われるのだ。因みに、筆者の場合は当該国での相棒の日当をできるだけ低く抑えて分割払いとし(調査研究は一ヶ月以上あるから期間内であれば可能である!)、その分を日本への招聘旅費(国際学術研究では研究交流と称して相手方を日本に一定期間招聘することが普通である)で調整することにした。招聘旅費とは滞在費のことで宿泊代と日当が含まれ、当時は上限以下であれば細かい支出項目の記載は不用であった。筆者の場合は宿泊施設のグレードを落とす(共同研究者には無断であったが、事前に約束していたわけではないから、相手も文句は言えなかった)ことで何とかやりくりできたのだ。相手に不快感を与えると思うように働いてくれず、期待された成果も得られないから慎重にならざるを得ない。宿泊施設のグレードを落とすというのは相手に最大限の不快感を与えることになるが、肝心の調査研究は前年度に終了しているから後の祭りで当方にはまったく不利益とはならなかった。結局、当該国の法に抵触することになるが、実際に手を染めているのは相棒の共同研究者であるから、ただ見て見ぬ振りをすればよい。国外での研究にはこのような神経の図太さも必要であって、きれい事に拘ると具体的な成果を得ることは難しいのだ。以上述べたように、白い象牙の塔たるアカデミック界ですら、公的資金の運用に関して違法すれすれを強いられることがあるのだ。因みに、日本側研究者にも日当の支払いが許されるが、上限ぎりぎりに支払ったことにして受領証にサインするものの、その金額はそっくりどうしても領収書の取れない支払いに使われる。したがって調査旅行中の食事代は別途計上できるが、タバコ1本買うにも自腹を切らざるを得なかった。海外旅行保険は必須事項であるが、科研費では計上できないので、通常は日当から各個人が契約することになる。日当を事実上返上した筆者の場合は自己負担となり、日本側共同研究者からの不満は大きかった。1ヶ月以上の海外旅行保険代は決して安くはないからだ。
 舛添事件後、政治資金規正法の運用がさらに厳しくなることが予想されるが、厳しくしすぎると任期を全うできない政治家が続出し、却って国民の不利益となることを肝に銘じておいた方がよいだろう。メディアの報道は暮れ暮れも鵜呑みにしてはいけない。江戸時代、賄賂が横行し政治が腐敗した(異説もあり)といわれる田沼意次時代への反省から、後任の老中松平定信は極端な引き締め政策をとったといわれる。歴史学ではしばしばクリーンな政治と評することもあるが、市中では「白河の 清きに魚も 住みかねて もとの濁りの 田沼恋しき」という狂歌が生まれるほど息苦しい世相だった。さて、今日(6月15日)、舛添氏はついに辞表を提出した。低次元のゴシップシーカーにまんまとはめられてしまったような気がしてならず、落ちこぼれの筆者よりずっと秀才であったはずなのにと複雑な思いである。筆者はこれまでの人生を全勝を目指したことは一度もなく、ひたすら八勝七敗狙いで生きてきたが、これでも確実に前進できる。いくら全勝を続けてもたった一つの反則でレッドカードとなっては元も子もないからだ。舛添氏の周辺には有能な指南役がいなかった、いやいたとしても希代の秀才である舛添氏が自らを過信する余り忌避してきたのではないか。生き馬の目を抜く政界ではお利口さんよりちょい利口かちょい馬鹿の人物の方が向いているようだ。