七草粥でおなじみの「春の七草」とは、セリ・ナズナ・ハハコグサ(古名:御形)・ハコベ・コオニタビラコ(古名:仏の座)・蕪・スズシロ(ダイコン)であり、多くの人はこれが万葉時代から知られている古いものと信じているだろう。しかし、万葉集に詠まれているのは、セリだけで、後の6種の草菜は万葉時代はおろか平安時代の古典文学にもほとんど出てこないのである。まず、セリについて説明しよう。
セリ科セリOenanthe javanicaは日本全土の湿地に普通に生える多年草であるが、学名の種小名javanicaからわかるようにインドネシアのジャワ島で採集されたものを基準標本としている。セリの分布はアジアの熱帯から温帯、そしてオーストラリアまで及んできわめて広い。人の移動とともに分布を広げたと思われ、前川文夫博士はリストに挙げていないが、セリも史前帰化植物かもしれない。万葉集でセリについて詠う歌として次の2首が見える。
1.あかねさす 昼は田賜びて ぬばたまの
安可祢左須 比流波多々婢弖 奴婆多麻乃
夜のいとまに 摘める芹これ
欲流乃伊刀末仁 都賣流芹子許礼
2.丈夫と 思へるものを 太刀佩きて
麻須良乎等 於毛敝流母能乎 多知波吉弖
可尓波の田居に 芹ぞ摘みける
可尓波乃多為尓 世理曽都美家流因
前の歌は、「天平元年、班田の時の使葛城王(後の橘諸兄)の、山背国(現在の京都府)より薩妙観命婦等の所に贈る歌一首」の但し書きがあるように、葛城王が、「口分田を班給する仕事を終え、夜、やっと暇になったときに摘んだセリですよこれは」といって薩妙観命婦に贈ったものである。後の歌は、葛城王への返し歌として、「勇ましい益荒男と思っていましたのに、刀をつけたまま、可尓波 (現京都府木津川市山城町綺田)の田んぼで蟹のように這いつくばってセリをお摘みくださいましたのですね」と詠ったものである。この相聞歌(恋歌)ではセリは何の目的に使われるのか直接言及していないが、平安時代に成立し、「養老律令」の施行細則を集大成した古代法典である『延喜式』(905年)内膳式には漬物(塩漬け)とされ、また内膳司の供奉雑菜に「芹四升」と記述されている。万葉の時代でもセリを食用としていたことは間違いなく栽培されていた可能性もある。特に、早春の若葉はやわらかく芳香があって、古代には重要な野菜であったであろう。セリはおひたし、てんぷら、鍋物の野菜として今日でも親しまれているが、「春の七草」の一つとして七草粥に用いるというイメージが強い。
正月七日に「春の七草」を七草粥として食する習慣は、最近薄れてきたとはいえ、日本人であれば聞いたことぐらいはあるはずだ。前述したように、「春の七草」の中で、セリだけが万葉に詠われている。そもそも「春の七草」の概念そのものが万葉時代にはなかったのである。山上憶良が“秋の野に咲きたる花を指折りかき数ふれば七草の花 萩の花 尾花 葛花 瞿麦の花 女郎花 また 藤袴 朝貌 の花”註1)と詠い、後世人がこれを「秋の七草」と称したので、多くの人は「春の七草」も万葉集で詠われていると勘違いしているのである。これに対して「春の七草」の歌を聞いたことがあるとの反論もあろう。俗に「四辻の左大臣」の作として、「せりなづな 御形 はこべら 仏の座 すずなすずしろ これぞ七くさ」はまさに「春の七草」の歌ではないかと。この歌は、万葉集はおろか『古今和歌集 』などどの歌集にもなく、江戸時代薩摩藩の本草学者曾榛堂(曾槃、永年占春と号する;1757-1835)の著わした『春の七くさ』(1800年)に、これと全く同じ句が「増補題林集」(由緒不明)からの引用として書き記されているが、「四辻の左大臣」の作とは記していない。「四辻の左大臣」とは室町時代に源氏物語の注釈で名をなした四辻善成(1326-1402)のことであり、彼の著した『源氏物語』注釈書『河海抄』(1362年頃)第十三に次のような記述がある。
「十二種若菜。若菜 薊 苣 芹 蕨 薺 葵(ふゆあおい) 蓬 水蓼(やなぎたで) 水雲 芝(まんねんたけ) 菘。此中菘は様々の説あり。白河院に松を奉りける人あり僻事なりと仰せありけり。大外記師遠は小大根のよしを申ける其説を用ひられたるよし旧記(年中行事秘抄又は拾芥抄)にみゆ。
七種。薺 蘩蔞(はこべ) 芹 菁(すずな) 御形 須々代 仏座」
(ルビ、括弧内は筆者註)
確かに、通説の「四辻左大臣の歌」の七種の若菜はここに記述されているが、その順番は異なり、また“これぞ七くさ”の句はない。室町時代の連歌師梵灯(1349-1417)の著した連歌注解書「梵灯庵袖下集」19番に「せりなづな ごぎやうはこべら 仏のざ すずなすずしろ 是は七種」という例の“四辻の左大臣の歌”とよく似たものが載っている註2), 註3)という。一方、鎌倉中期の有職故実書『拾芥抄』(伝洞院公賢又は洞院実煕編)には「十二種若菜。若菜 菌 莒 蕨 薺 葵 芝 蓬 水蓼 水雲 菘 芹。七種菜。薺 蘩蔞 芹 菁 御形 須々之呂 仏座」と記載されている。そのほか、古文献を検索すると、「セリ、ナヅナ、五行、タビラク、仏座、アシナ、ミミナシ、是れや七種」、「芹、五行、ナヅナ、ハコベラ、仏座、スズナ、ミミナシ、是れや七種」(以上いずれも『塵添壒嚢鈔』(編者不詳、1532年)より)の句を見ることができる。このことは七種の若菜については諸説があったことを示唆しており、「これぞ七くさ」や「是れや七くさ」は歌の句ではなく、それぞれの説を主張するため付け加えられた句にすぎないことがわかる。したがって、春の七草の歌はもともと存在せず、四辻善成などが挙げた七種菜が定説として一般に広まったのではないかと思われる。曾榛堂が著書『春のななくさ』で、「又或は云う、今松尾の社家より奉る七種は、芹、なつな、御形、はこべら、仏の座、すずな、すずしろ、又或は云う、今水無瀬家より献する若菜の御羹は青菜と薺ばかりなりとそ、云々」と述べていることから明らかなように、江戸中期でも七草の菜の取り合わせは固定していなかったのである。七種菜を「春の七草」と呼んだのは曾榛堂と思われるが、山上憶良の「秋の七草」を意識してそう呼ぶようになったのではなさそうである。したがって、「秋の七草」に対する概念として「春の七草」が定着したのは比較的近年のことと考えねばならない。
さて、今日に伝承される「七草粥」(後述の七種菜と区別する必要がある!)の風習はいつから始まったのだろうか。結論からいえば「七草粥」はずっと後世に成立したもので、その起源は「七種菜の羹 」にあり、貝原益軒の『日本歳時記』(1688年)には、「荊楚歳時記にも、正月七日七種菜を以て羹とし、これをくらふといへり」という記述が見える。また、前述の『拾芥抄』にも「荊楚歳時記」からの引用として「正月俗以七種菜作羹食之無病也」という益軒の記述と似たことが記されている。『荊楚歳時記』とは梁の宗懍(生没年不詳)が荊楚地方の年中行事・風俗習慣を記録した中国最古の歳時記で、6世紀に編纂されたとされる。この歳時記には「正月七日為人日註4) 以七種菜為羹」とあり、これが日本に七種の節供または人日 の節供として入ったことは間違いない。一条兼良(1402-1481)著の有職故実書『公事根源』(1422年)には「供若菜 上子日 内蔵寮ならびに内膳司より正月上の子の日是を奉る也。寛平年中より始れる事にや延喜十一(912)年正月七日に後院より七種の若菜を供ず」という記述があり、出典を明らかにしていないが、七種の節供が平安時代に行われていたことを明言している。また、鴨長明 (1153-1216)の著といわれる『四季物語』巻第一の春部によれば、「七種のみくさ集むること人日菜羹を和すれば一歳の病患を逃るると申ためし古き文に侍るとかや。此事三十余り四柱に当たらせ給ふ「とよみけかしきやひめ(豊御食炊屋姫;推古天皇)」の五年(596年)に事起こりて都の外の七つ野とて七所の野にて一草づつを分ち採らせ給ふけり云々」とあり、奈良朝以前の推古朝時代に始まったとしている。鎌倉時代に成立したといわれるより古い有職故実書『年中行事秘抄』の「正月公事部」には『公事根源』とほぼ同じ記述が見えるが、四季物語にある推古朝まで遡るという説を裏付ける証拠は今のところない。『源氏物語』(11世紀初期、紫式部)若菜上巻では「沈の折敷四つして、御若菜さまばかり参れり。御土器くだり、若菜の御羹参る。御前には、沈の懸盤四つ、御坏どもなつかしく、今めきたるほどにせられたり。」と記されており、平安時代でも若菜は粥ではなく羹としてふるまわれていたことがわかる。これは“供若菜(わかなをぐうず)”といわれる風習行事であり、平安中期の『北山抄』(藤原公任(966~1041)が朝儀典礼について著した書)に「上子日供若菜事(上の子の日若菜を供する事)」とあるように、正月子の日に行われた。では正月七日の七種菜と子の日の供若菜とはどういう関係にあったのだろうか。これを考証するには、平安中期の文人紀貫之の『土佐日記』(935年)における次の記述が参考になろう。
承平5年正月土佐国大湊
七日になりぬ。同じ港にあり。今日は白馬(註:あをうま節会のこと)を思えどかいなし。ただ波の白きぞ見ゆる。かかる間に、人の家の池と名ある所より、鯉はなくて、鮒よりはじめて、川の藻、海の藻、子供の名が長びつに担い続けておこせたり。若菜籠に入れて雉など花につけたり。若菜ぞ今日を知らせたる歌あり、その歌にいとをかし。
あさぢふの 野辺にしあれば 水もなき 池に摘みつる 若菜なりけり
廿九日、船出して行く。うらうらと照りて漕ぎ行く。爪いと長くなりにたるを見て、日を数ふれば今日は子の日なりければ切らず。睦月なれば、京の子の日の事いひ出でて、小松もがなといへど、海中なれば難しかし。ある女の書きて出せる歌、
おぼつかな 今日は子の日か 海女ならば 海松をだに引かましものを
とぞ言へる。海にて子の日の歌にてはいかがあらん。又ある人の詠める歌、
今日なれど 若菜も摘まず 春日野の わが漕ぎわたる 浦になければ
かくいひつつ漕ぎ行く。
『土佐日記』のこの記述は、少なくとも十世紀前半の平安時代では、正月七日の七種菜(七種とは書いていないが、それに違いない)と子の日の供若菜は二様に行われたことが示唆されるとしてよかろう。若菜は食用とする栽培あるいは野生より採取する蔬菜である。古い時代では、野生から採取することが多く、そのため「若菜摘み」が行われた。若菜摘みは古く万葉時代から行われており、山部赤人の「明日よりは 春菜摘まむと 標めし野に 昨日も今日も 雪は降りつつ(従明日者 春菜将採跡 標之野尓 昨日毛今日母 雪波布利管)」(巻八 一四二七)は上代の若菜摘みを詠った歌としてもっともよく知られている。この歌でわかるように、雪が降る時期でも若菜摘みを行ったのであるが、生活上の必要性からであって、決して遊びではなかったと思われる。保存が可能な穀類とはちがって蔬菜類は新鮮でなければならず、早春の野に芽生えたる若菜は上代にあってはかけがえのない食料だったに違いない。万葉集や平安の歌集にある若菜摘みを詠う歌では、ただ「春菜」、「若菜」とするのみで、植物名や何種類を摘んだのかは明らかでないが、当時の食用蔬菜の総称であり、必ずしも数を限ったものではなく、野外に生え採取の可能な限りの幾多の野草類雑多を指すと考えてよさそうである。『土佐日記』でも正月七日および子の日の若菜は何種類の菜からなるのか言及しておらず、そのほか『源氏物語』や『枕草子』など古典ならびに『北山抄』のような平安時代の古い有職故実書でもそのような記載はない。前述したように、正月七日の七種菜は中国の『荊楚歳時記』にその最初の記述があるのだが、ここでも具体的な植物名を記してはいない。具体的な植物名及び種数を明示した最も古い文献は、鎌倉時代に編集されたという『年中行事秘抄』であり、「十二種若菜。若菜 薊 苣芹 蕨 薺 葵 芝 蓬 水蓼 水雲 松。七種菜。薺 蘩蔞 芹 菁 御形 須々代 仏座」と十二種若菜と七種若菜と分けて記述している。十二種若菜については若菜を入れても11しかなく、苣芹を苣と芹に分けてやっと帳尻が合う。このうち「松」については、「白川院仰云 松字如何 師遠申云 若松菘 上皇被仰云 相具松進上 此僻事也」として疑念があったことを記述している。この部分は、前述したように、四辻善成が『河海抄』の中で引用しており、これに基づいて「松」を「菘」としたのである。『拾芥抄』にも十二種若菜と七種若菜の記述があるが、前述したように、薊、苣がなく菌、莒となり、松ではなく菘としていてやはり食い違いが見られる。一方、『年中行事秘抄』には十二種若菜とともに七種菜の記述もあるが、『河海抄』、『拾芥抄』の七種菜と完全に一致している。そして、『年中行事秘抄』に「金谷云。正月七日以七種菜作羹食之。十節云。令人無万病。採七種菜作羹嘗味何。是除邪気之術也。」とあるように、当時(鎌倉時代及びそれ以前)にあっては今日の七草と同じ種類の菜が羹として正月七日にふるまわれ、無病祈願、邪気を払う目的で行ったという伝承を記述している。一条兼良の『公事根源』でもほぼ同様な記述がある。七種菜と十二種若菜と分けられていることは、前者は正月七日七種菜に、後者は正月(上の)子の日供若菜に二様に若菜の羹の儀があったという『土佐日記』の記述と一致する。
前述したように、古くは十二種若菜において「松」と「菘」については混乱があったことが伺われる。七種菜は全て菜といってよいが、一方、子の日に行われる「供若菜」では十二種若菜といいながら、どう考えても若菜でないものがある。特に、芝は「マンネンタケ(霊芝)」、水雲は「もずく」以外は考えにくい。『河海抄』、『拾芥抄』で「菘」は今日では「すずな」としているが、七種菜でも「菁」があり、異なる文字を用いていて矛盾する。無論、「すずな」には多くの品種があるので別品種を指す考えることもできるが、当時、どれほど品種が識別されていたか、また実際に存在したのか疑問に思える。結局、古い有職故実書である『年中行事秘抄』にある「松」がもともと十二種若菜の一つであり、後に若菜らしくないとして字の似た「菘」を当てたのではなかろうか。『貫之集第一』(10世紀中頃)にある「子の日遊ぶ家 行きて見ぬ人もしのべと春の野にかたみに摘める若菜なりけり」から、子の日の若菜摘みは早春の年中行事、時に遊びの要素を混じえた行事(これを子日の野遊という)となっていたことが推察される。とりわけこの歌の序文にある「子の日の若菜」というのは万葉にはなく、平安になってから古典文書に多く見られるようになった。菅原道真の『菅家文草』(900年)の「雲林院に扈従して感歎に堪へず、聊か観る所を叙ぶるの序」に次の注目すべき記述がある。
予、かつて故老に聞けるあり、「正月子の日に野遊して老いを防ぐは、如何なる謂われに基づくかと云うに、子の日の祝に松の樹に寄り添いてこれに撫づるは、その木の寒風厳霜に犯されざるに習いて、我が身に老の至らざるを願うの意なり、七種の菜を和え羹となして食うは、気味よく調いて、無病息災ならんことを願う意なり」と。
「子の日の祝」が「供若菜」を意味するのはいうまでもないだろう。問題は「松の樹に寄り添いてこれに撫づる-----我が身に老の至らざるを願う」ことの意味とその由来である。これに関連したものとして、『源氏物語』の「初音」に「今日は子の日なりけり。げに千年の春をかけて祝はむにことわりなる日なり。姫君の御方に渡りたまへれば、童女、下仕へなど、御前の山の小松引き遊ぶ。若き人びとの心地ども、おきどころなく見ゆ」という一節が見える。これは平安時代に始まったとされる「子の日の小松引き」の様子を描写したものであり、子供の遊びであった。平安時代になると若菜摘みも遊びの要素がつよくなり、自然発生的に「小松引き」の遊びが起きたと思われる。初めは『源氏物語』にあるように子供の遊びであったのが、長命の松にあやかって長寿を祈願するようになった。前述の『土佐物語』の正月廿九日子の日の記述に「おほつかな 今日は子の日か 海女ならば 海松をだに引かんましものを」とあるのは、ある女が詠った歌として「今日は子の日ですか、気になりますね。海の中では松はないので、私が海女だったら、その代わりに「海松(海藻のミルのこと)」でも引いたでしょうに」という意味であり、小松引きの風習が広く行き渡っていたことがわかる。『公事根源』にも「子日遊」について、「是はむかし人々は野へ出て子の日するとて松を引ける也」と説明し、朱雀院(946-952)、円融院(984-991)、三條院(1016-1017)などの御時(註:括弧内は上皇の在位期を示す)にもあったと記述している。「子の日の松」を詠む歌は「けふよりは子日の小松引うへて八百万代の春をこそまて」(『続千載和歌集』、前中納言匡房)、「百敷に子日の松を引うへて君が千歳ぞかねて知らるる」(『続後拾遣和歌集』、京極入道関白太政大臣)など撰集だけでも頗る多い。愛知県知多の老舗蔵元盛田酒造の銘酒に「子乃日松」があるが、この名の由来もここに求めることができる。「子の日の小松引き」から転じた「子の日の松」は子の日の若菜摘みと相混じり「供若菜」に入り込んだと考えることができる。いずれにせよ、十二種若菜の儀すなわち「供若菜」と「七種菜」の儀は異なった起源に由来すると考えることができる。後者は中国より伝来した風習であるが、太古より続いてきた食料採集としての若菜摘みと相互作用することにより、なぜ子の日なのかはわからないが、十二種若菜が区別されて子の日の儀になったのであろう。そもそも古来の「若菜摘み」は宗教的な背景があるわけではなく、後に貴族の遊びに転じるほどの軽いものだから、有職故実としてそれほど厳格なものではなかったと思われる。そう考えれば、若菜と思えないものが入り込んだり、若菜の数が合わなかったことも理解できる。
これまでのことを纏めて見ると、平安時代には中国の『荊楚歳時記』の七種菜の風習が伝わり、「七草(七種)菜の羹」はあったことは確かだが、それが今日の七草粥であったという確証はないことに気がつくだろう。『土佐日記』、『源氏物語』、『枕草子』でも「若菜の粥」とはしていない。『延喜式』(905年)巻第四十に「正月十五日供御七種粥料。米一斗五升・粟(アワ)・黍子(キビ)・稗子(ヒエ)・葟子(ミノ)註5)・胡麻子(ゴマ)・小豆(アズキ)各五升、塩4升」という記述が見え、踐祚大嘗会解齋に興じられたとある。また、『皇太神宮儀式帳』(伊勢神宮の儀式帳)神祇部一にも、「正月七日 新菜御羹作奉。十五日 御粥作奉。」とあり、正月十五日の粥は七種粥であったと思われる。また、『止由気宮儀式帳』、『神宮雑例集
』にも同様の記述がある。これによって平安時代に塩味をつけた「七種粥」があったことはわかるが、若菜からなる今日の七草粥とは明らかに異なる。この儀式帳は延暦23年(804年)の記録というから、七日の若菜の儀、十五日の御粥の儀の最古の文献となる。次に、七種菜と同様に、古典文献で七種粥を検証して見ると、『土佐日記』、『枕草子』(11世紀初期、清少納言)に下に示すような一節がある。『土佐日記』註6)では、紀貫之が小正月(正月十五日)に
小豆粥を食べそびれ残念がって様子を描写しており、正月七日、廿九日子の日はそれぞれ七種菜、子の日若菜について言及していることは前述した通りである。また、枕草子では「十五日、節句、粥」の語句が見え、粥の木(粥杖という)で女房同士がお尻をぶっては大笑いしている様子を表わしたものである。当時は、七種粥をつくるのに用いた粥杖でお尻を叩かれると男の子を産む事ができるという信仰があり、『建武年中行事』(14世紀、後醍醐天皇編という)にも「十五日御かゆなどまいる外、ことなる事なし、わかき人々(妊娠適齢期の女子)、杖にてうちあふ事あり」とあり、今日に伝わっていない風習であり興味深い。小豆粥とはアズキを米にまぜて粥としたもの、もちがゆとは望粥であり、小豆の粥に米ではなく餅を和したものであり、基本的に小豆粥と同じものといってよい。現在でも、小正月(一月十五日)に小豆粥を食べると一年の邪気を払い、万病を除くという風習が各地に残されているが、その起源は遅くとも平安時代にまで遡ることがわかる。
1.十五日、今日、小豆粥煮ず。口惜しく、なほ日の悪しければ、ゐざるほどにぞ、今日二十日あまり経ぬる(『土佐日記』)。
2.十五日は、もちがゆの節供参る。粥の木ひき隠して、家の御達 、女房などのうかがふを、打たれじと用意して、常に後を心使ひしたる景色もをかしきに、いかにしたるにかあらむ、打ち当てたるは、いみじう興ありてうち笑ひたるはいとはえばえし(『枕草子』)。
“七種の粥”とは七種の穀物でつくった粥をいうのであるが、下々の一般人には『土佐日記』や『枕草子』にあるように小豆粥が一般的であったという。『年中行事秘抄』には、「十五日主水司献御粥事 中略 七種粥 小豆 大角豆、黍、粟 )、菫子註5)、薯蕷、米」の記載があるが、延喜式と年中行事秘抄では七種の穀類に違いが見られ、年中行事秘抄では栗や柿 を用いることもあるとしており、七草菜と同様、必ずしも一定していなかったようである。さて、七種菜と七種粥の関係はどう考えたらよいのであろうか。七種菜の風習は中国の「人日の節供」に由来すると考えて差し支えないが、正月十五日の七種粥についてはどうであろうか。『荊楚歳時記』に「正月十五日作豆糜加油膏其上以祠門戸先以楊枝挿門隨楊枝所指仍以酒脯飲食及豆粥挿箸而祭之」という興味深い記述があり、そこに「豆粥」の文字が見えるが、七種の文字はない。この風習は民間信仰に由来するものと思われるが、一方、十五日の御粥の儀の意義として、『公事根源』には二つの伝説に由来すると記している。すなわち、一説に、蚩尤という悪人がいて黄帝はこれを正月十五日に討伐したが、その首は天狗、身は邪霊となり、人心を惑わすこととなった。そこで小豆の粥を煮て庭中に案を立て天狗を祭り、邪気を払うために東に向かって跪いて小豆粥を食べたという。もう一説に、高辛氏の娘が大層な悪女であって、正月十五日、ふとした事で巷中で死んでしまったが、悪霊となって彷徨い道行く人を悩ました。そこでこの女が生前に好んだ粥をつくって祀ったところ禍いが消えたという。ほぼ同じ内容のことが『年中行事秘抄』にも記載されている。中国より伝来した伝説のようであるが、その出典はわからない。多分、十五日粥も七種菜と同じく中国から伝来したのであろう。葟子 がムツオレグサという雑草を起源註5)とするものであるから、七種粥が中国伝来ではなく日本古来の風習であるという説もある(西角井正慶『年中行事辞典』)。いずれにせよ、今日に伝わる七草粥の伝統行事は、十五日の七種の粥が正月七日の七種菜の羹と合わさって七草粥が成立し、十五日の粥が小豆粥となったことは間違いないだろう。結論として、今日の七草の若菜の粥が登場したのは、早くても鎌倉時代以降であり、定着したのは江戸時代になってからと思われる。現在の七草粥の起源となった七種菜はもともと中国揚子江流域の荊楚地方の農民の風習であった。それを平安時代の早期に、朝廷を含め日本の貴族階級が取り入れたことは興味深い註7)。戦後の一時期、大和朝廷の成立に大陸の北方騎馬民族が関わっているという江上波夫氏の「騎馬民族征服王朝説」(1949年)が一世を風靡したことがあった。もし日本の支配層が騎馬民族出身であったとしたら、江南地方の農民の風習を受け入れるのだろうか。在来の風習と思われる「供若菜」は正月の初子の日に行われるのが本来だが、時期がずれることも珍しくなかったし、また若菜の種類も定まっていなかったことは前述の通りである。一方、七種菜の風習は正月七日にきちんと行われてきたことからわかるように日本人は決してぞんざいに扱わなかった。七草粥は日本文化の基層に残る南方系農耕民族の風習の名残であり、それが朝鮮半島にないのは「騎馬民族はやって来なかった」と考えざるを得ない。
セリは食用であると同時に、古代の中国では薬用と考えられてきた。1~2世紀頃の後漢時代に成立したとされる中国で最も古い本草書である『神農本草経』にある「水靳(水英)」は「水芹
」すなわちセリのことであり、その効果については、「治女子赤沃。止血養精。保血脉。益氣。令人肥健嗜食。」、すなわち“女子のおりものを治し、止血し精を養い、脈を正常に保ち、気を益し、痩せた体を肥えさせ食欲を増進させる”と記述されている。『神農本草経』は収載生薬365種を上、中、下品の3薬に分類し、上薬を「君であり、生命を養うを主とする。天に応じ、無毒、多量に長く服用しても人を傷わない。身を軽くし、体力を益す、不老長生の薬」、中薬を「臣であり、性を養うを主とし、人に応じて無毒と有毒とがあり、適宜配合し、病を防ぎ、体力を補う」、下薬を「佐使であり、病を治すを主とし、毒性も強いので、長期の連用は慎むべし」としている。今日に当てはめれば、上薬は保健健康薬、中薬は強壮薬・予防薬、下薬は治療薬に相当すると考えてよいだろう。意外なことに、セリすなわち「水靳(水英)」は下薬に分類されていて、今日のセリに対する一般の実感と大きなずれがある。『神農本草経』に収載される生薬、薬用植物の多くは漢方医学にも用いられているが、セリは薬用とは考えられずもっぱら食用とされてきた。したがって「水靳(水英)」をセリに当てるのは正しくないかもしれない。セリに似てしばしば誤認される植物にドクゼリCicuta virosaがあるが、これは猛毒であり外用薬とすることはあるが、内服はしないので、これを「水靳(水英)」とするのは考えにくい。セリがわが国の民間療法で薬用と用いられた例がわずかにあり、『妙薬奇覧』(舟越敬祐、1827年)があり、「産後乳出ざるを治す妙薬」として、“瓜呂根(カロコン;キカラスウリの根)一匁、麦門冬(ジャノヒゲの根)一匁、茯苓(ブクリョウ)一匁、
生芹五匁を煎じて用いるとよし”とある。また『妙薬博物筌』(藤井見隆、1823年)には、「咳の妙薬」として「芹を刻み味噌汁にて煮て食ふべし」という記述が見える。
最後になってしまったが、セリの語源については若苗が競り合う様に伸びるところから、競り(せり)と付けられたという説がある。セリの生態をよく知る人なら、これが単なる語呂合わせということがわかるだろう。二文字しかない名前に対してどんな風にも語源をつくりあげることができる(朝鮮語や、多分、どの言語からでも)が、セリの語源は古代以前からある古い和語であり、もはやそれを解明することもできないのである。もう一つ付け加えるなら、セリという名は1200年前の万葉集でも「世理」であり、全く変わっていないことがわかる。それは古代から現代までの日本人の生活に密接に関わってきたことに起因し、かかる例はオケラ、スギ、マツ、ツバキ及び後述のナズナなど少なからずある。生活に密接に関わる基本語彙と同じく変わりにくいことを示唆し、朝鮮語など外来語をもって語源を考察することが如何に意味のないか証明するものだろう。
「春の七草」のうち、ナデシコ科ハコベStellaria neglectaはセリとともにもっとも親しまれるものであろう。ハコベは古和名の「波久倍良」に由来するというのが定説であるが、その古名は万葉仮名のように見える(実際に本物の万葉仮名であるが)ので、しばしば万葉集で詠われていると勘違いされる。実は、「波久倍良」の名は、平安時代に書かれた日本最古の本草書『本草和名』に初めて登場するのであって、万葉集や古事記には全く詠まれていない。『本草和名』は右衞門府の医師にあった深根輔仁(生没年不詳)が、918年(延喜18年)頃、唐代の『新修本草
』(蘇敬ほか、659年)を国風に編集し直したもので、和名を同定して万葉仮名で記し、日本に産するものは産地まで記した本邦初の本草書といってよい。ハコベはセリより民間療法で薬用として用いられることがはるかに多い。江戸時代の『和漢三才図絵』(寺島良安、1712年頃)によれば、ハコベの青汁と塩を混ぜてつくった「ハコベ塩」を歯磨き粉とするような記載がある。ハコベが歯の健康維持に用いられた例は江戸時代の民間療法に多く見ることができる。『妙薬奇覧』(舟越敬祐、1827年)には、歯痛に「繁縷草(はこべぐさ)をかみしめるも妙なり」としているほか、『妙薬博物筌』(藤井見隆、1823年)にも「虫歯を治する法」として「繁縷(はこべ)をすり、其汁を痛方の頬へも耳へもぬり置くべし」とある。一方、『普救類方』(林良適・丹羽正伯、1729年)には「小便渋で通じかぬるに、
繁縷草を水に煎じ、いかほどもの(飲)みてよし」とし利尿効果があることを記載している。ハコベは日本だけではなく中国でも薬用としてかなり広く用いられている。『中薬大事典』(小学館、1985年)によれば、ハコベの全草は鶏肚腸草
と称され、歯痛や乳腺炎に効果があるとしている。日本ではハコベの漢名としてしばしば繁縷
を当てることがある。しかし、中国語では繁縷は同属類似種のコハコベStellaria mediaに当てられ、ハコベを賽繁縷と区別している。コハコベの全草は同じく「繁縷」と呼ばれ、むしろこれを薬用として古くから繁用し、活血、瘀を去る、乳を下す、生を催すなどの効があるとする。『名医別録』(後漢と三国時代ともいわれるが成立年代不詳)には悪瘡に、中国清代の本草書『本草綱目拾遺』(趙学敏、1765年)に産婦の乳汁を出すなどの効果があると記されている。梁の著名な道士である陶弘景
(456-536)の『本草経集注』(500年頃)には、「繁縷は羹につくる。五月にとり、日干しし、焼いて屑にし、いろいろな悪瘡を療すのに効果がある。各種の草でつくってもよく、本品一種に限る必要はない。」としており、これから当時の中国の七種菜(実際、何が用いられたかは不明)の風習が神仙思想の影響を受けた医方の影響を受けたことが示唆される。
ハコベは古名の波久倍良がはこべら、はこべと訛ったことは間違いないが、漢名である繁縷の音読み「はんろう」、「はんる」のいずれも「はくべら」になると考えられないので、語源は別にあると見なければならない。古語では“はく”は木綿
、“べら”は群がるという意味だから、細かい毛が密生している様を見立てたという説がある(中村浩、『植物名の由来』、東京書籍、1998年)。漢名の繁縷の「繁」は繁茂することを意味するから、一見、共通性があるように見えるが、“べら”を“群らがる”と関係付けるのは無理がありそうだ。また、木綿は延暦18(799)年に三河の国天竹村(今の愛知県西尾市天竹町)に一人の見慣れぬ男(昆崙人という)が木綿の種を携えて浜に現れたという伝説(西尾市天竹町天竹神社伝)があるが、一般に普及したのは1500年代と新しく、中国でさえ元時代の1200年代になって本格的に栽培されるようになったといわれているので、“はく”は別の意味があると見た方がよさそうである。ハコベは確かに細かい毛が密生しているが、虫眼鏡で見ないとハコベから綿毛という連想は不可能であり、さしもの古代人でもそれは無理のようだ。ハコベとコハコベはよく似ているが、後者は全体として小型で茎が紫色を帯びるので、ハコベをミドリハコベと称することが多い。前述したように、中国では古くからハコベとコハコベを区別してきたが、古代の日本のみならず江戸時代ですら区別されていなかったようである。今日でこそ、この両種は日本列島の全土で普通に見られるが、自然状態のよいところではあまり見られず人里の耕作地周辺の方が多く生えている。したがってハコベ、コハコベは日本列島に原生するものではなく、古い時代に麦作農耕に付随して渡来した史前帰化植物と考えられている(前川文雄、『朝日百科世界の植物20』、1978年)。麦作に付随すると考えられたのは、麦類と同じくハコベが晩春から初夏にかけて開花、結実する越年草であり、麦の収穫時に種子が紛れ込むからである。日本列島への麦の渡来は約2000年前の弥生前期とされているので、おそらく万葉時代には人里に普通の存在であったと思われる。今のところ、ハコベの古名であるハクベラの語源はわからないが、弥生~万葉時代まで遡る古代日本語を継承した名前であることは確かであろう。ハコベの分布は世界の熱帯から寒帯まで及んでいるので、原産地は特定できないが、栽培麦の起源地周辺、すなわち中央アジアと考えてよいだろう。
最後に、「春の七草」で親しまれている野草として「ナズナ」を取り上げてみたいと思う。ナズナは現在でこそ “ぺんぺん草”、“バチ草”、“三味線草”の名で親しまれているが、いずれの名も三味線のバチに似たその独特の実の形に由来していて、江戸時代にも同じ由来の「三絃草」の名があった(『和漢三才図絵』)。しかし、ナズナは万葉集や『古事記』はなく、わずかに『拾遺和歌集』巻十六の「雑春」に「女のもとになづなの花につけて遺はしける ”雪をうすみ 垣ねに積めるからなづな なづさはまくの ほしき君かな”」註8)(藤原長能 )に「からなづな」として見える程度であまり詩歌に詠われなかったようである。その点ではハコベと似ているといえよう。しかし、ナズナは、後に「七草粥」として食用とされたほか、薬用など有用植物としての利用が目立つ。わが国現存最古の医書である『医心方』(丹波康頼、984年)には薺の名が見え、次のように記述する。
「本草(『新修本草』のこと)に云く。味甘、温、无毒。肝気を利し、中を和すを主る。孟詵(「食療本草」の著者、621-713)が云く。五蔵の不足を補い、葉は気を動かす。陶景注(陶弘景のこと)に云く。詩(『詩経』のこと)に云く、誰か謂ふ、荼の苦きを、其の甘きこと薺の如し。 崔禹 (『崔禹錫食経』の著者で呉人、伝記不詳)が云く。之を食らえば、甘く香し。心脾を補ふ。」(括弧内は筆者による注釈)
薺は中国語で「ナズナ」のことを指す。日本でもこの漢名を用いて「なずな」と訓読みしている。薺の名はそれが濟々と生えることに由来するといわれる。『医心方』でも引用しているように『詩経』・邶風「北風」と称する漢詩の中で詠われている(原文: 誰か謂ふ茶の苦きを 其れ甘きこと薺の如し 爾の新昏を宴こぶ 兄の如く弟の如くに)。その他、白居易の詩註9)にも「薺」を詠ったものがあり、中国の古典詩歌でこのように植物名を直接詠い込む例は珍しい。『医心方』の記載は、唐時代の中国初の絵図入り本草書『新修本草』(蘇敬ほか、659年)を引用し、薬用として用いたことを示しているが、ナズナもセリと同じく薬用情報に乏しい。わずかに『普救類方』(林良適・丹羽正伯、1729年)に、「眼卒に赤くしぶりいたむに、薺を根ともに
杵、汁をしぼりとり、目にしたでい(入)れてよし」とあるにすぎない。
『医心方』は薺の和名として「奈都奈」を挙げており、これと同じ名が918年に成立した『本草和名』にも現れている。また、日本最古の漢字字典である『新撰字鏡』(900年頃)に「薺 徂礼反菜甘奈豆奈又支波井」の記述があり「奈豆奈」の文字が見える。「奈都奈」及び「奈豆奈」の万葉仮名表記の名前からすれば、ナズナではなくナヅナとすべきであることがわかる。前述の七草の歌も“せりなづな---”とあるのも、”ナヅナ“が本来の名であることを支持する。少なくとも江戸時代まではナズナの名は名前は見当たらない。『新撰字鏡』は、村田春美(1746-1811)が抄録本を見つけ出し、その後、完本天治本(12世紀)が発見された。大豆や小豆でも豆は今日では「ず」と表記される。すなわち、「ナズナ」は「奈豆奈」が新仮名遣いで「ナズナ」にされ、今日に至ったと思われる。ナヅナの語源として「撫づ菜」または「撫で菜」から転じたとする説がある。これはナズナが撫でたくなる程優しいことに由来すると解釈されているが、別の視点からの解釈も可能である。前述の菅原道真の『菅家文草』(900年)の“雲林院に扈従して感歎に堪へず、聊か観る所を叙ぶるの序“の「松の樹に寄り添いてこれに撫づる」に見ることができる。“松に撫づる”ことによって「老の至らざるを願う」とすれば、七種の菜の羹にも用いられたであろう「ナヅナ」に“撫づる”ことで、無病息災ならんことを願うこともあり得るのではなかろうか。樹木と草本という違いはあるにしても儀式としての“撫づる”はあってもおかしくはない。したがってナヅナの語源は「撫づる菜」に由来すると考えられるのである。もう一つの一般受けする語源説として“朝鮮語の古名”「ナジ」が「ナジナ」を経て「ナズナ」となったとする説がある。ナヅナが本来の名であるからこの説は妥当ではない。また、ナズナは、1200年来、名前が変わっていない身近な植物の一つであり、朝鮮語から転じたとするなら、遅くても奈良時代以前ということになる。「ナジ」も朝鮮古名というが、その時代の古朝鮮語に関する情報はほとんどないとされており、どのような経緯で「ナジ」語源説が提唱されたのか全くもって不明である。おそらく一般受けするよう朝鮮語説をつくりあげ、それを一般人が流布したのではないか。
ナズナは、前川文夫によれば、ハコベと同じく麦作農耕に付随して渡来した史前帰化植物であるという。原産は欧州と考えられているが、日本、中国などではナズナを蔬菜として用いているにもかかわらず、原産地では見向きもされていない。欧州とその周辺地域では有用なアブラナ科植物が多く発生しており、利用の必要性がなかったということであろう。ナズナは蛋白質、糖分、ビタミンのほか、カルシウム、鉄、リンなどの栄養分にも富み、野草にもかかわらず食用価値は高い。中国の『救荒本草』(1403年)にも「葉及実皆可食 救飢 採子用水調撹 良久成塊 或作焼餅 或煮粥食」とあり、飢饉で食料不足の時、貴重な食料源とされたことがわかる。有機酸やルチンをはじめとするフラボノイドなど健康の維持に欠かせないと考えられる二次代謝物も多く含まれ、そのほか止血作用のあるブルシン酸(bursic acid)の存在も注目に値する。こうした成分は薬膳の効果も期待できると思われ、まさに「撫づる菜」に相応しいものであろう。また七草粥の役割をかかる観点から評価する必要があろう。七種の若菜のうち、ナズナ、スズナ、スズシロの3種がアブラナ科基原でありいずれも欧州とその周辺の麦作農耕地帯が原産であることは、農耕文化の伝播が主食作物だけをもたらしたのではないことを示唆するのである。
「春の七草」にはそのほかゴギョウ(ハハコグサ)、 ホトケノザ(コオニタビラコ)、スズナ(カブ)、スズシロ(ダイコン)がある。これらの考証については次の機会としたい。
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(引用及び註)