全釈:カミツレ・ローズマリー・サフラン
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(関連ページ)バックナンバー I.カミツレ(Chamomile)

 カミツレがわが国に渡来したのは江戸末期の1818年とされる。当年、大槻玄沢・宇田川榛斎の建言により、幕府はオランダより60種の薬草を取り寄せたが、その中に“Camilla (Camomilla)”という名が見える(「洋舶盆種移植の記」)。英語でカミツレをchamomileカモミールというから、それがカミツレであることに疑問の余地はないが、オランダより渡来したにもかかわらず、オランダ語で記載されていないことに違和感がもたれよう。実際、外来種の植物和名は原語の面影を残さないほど大きく訛ることは珍しくなく多くの例がある。国語学的にも興味深いので、ここで“カミツレ”という和名の由来を詳しく考証してみたいと思う。
 “カミツレ”という名の文献上の初見は蘭方医書の『遠西えんせい醫方いほう名物考めいぶつこう(1822年)であり、「加密列カミツレ(巻六)とある。興味深いことに、長崎出島のオランダ人は漢薬である苦薏クヨクをカミツレの代用にしていたとも記載しているので、ここで若干の補足をしておく。遠く離れた地に長く滞在すれば、常備薬に事欠くこともあったに違いないが、基原がまったく異なり、薬味がかなり異なるものを代替薬にするとは考えにくく、異国の地での薬物収集の一環であったのが邦人の目には代用と写った可能性も考えられる。それは本題とは直接の関係はないのでこれ以上の言及は控えるが、せっかくの機会であるから苦薏について若干の解説をしておく。『本草ほんぞう綱目こうもく』で初めて正品として収載された野菊ノギクの異名で、シマカンギクChrysanthemum indicumを基原とし、現行局方では菊花キクカに含められている。さて、カミツレに話を戻すが、以上は単なる文字記録にすぎず、図絵として最初に記録したのは貴志忠美編著『竹園ちくえん草木そうもく圖譜ずふ』であり、「加密列 又アーリヤス 一名カミルレ カモメイリ 苦薏 マトリカリヤ カモミル ラリンナ Kamille 和名カモメ菊」の多様な名とともに写実性の高い彩色図を掲載する(第二冊に収録)。全20巻の同書で記載された年号は天保十一(1840)年〜安政三(1856)年に渡っているので、カミツレの図は1840年〜1850年代のいずれかの時期に成立したと考えられる。まず図については、花冠は黄色、基部に近い部分は赤茶色で表され、一般に知られているカミツレとは異なるが、一方で“黄心白弁”のものもあるとも記載され、わが国にはさまざまな品種の“chamomile”(総称、とりあえず英語名で表しておく)が伝えられたことがうかがえる。多くの名が列挙されている中で、唯一アルファベットで表記された“Kamille”こそ“chamomile”を表すオランダ語名である。しかし、当時の邦人が必ずしもアルファベット表記の外来語を原語通りに読むとは限らないことに留意する必要がある。それは第三・四改正局方に収載された“VANILLAE FRUCTUS”バニラの実を表すラテン薬名、英名ではVanilla Fruit)に対する和名として“ワニルラ”を充てていることを知れば理解できるだろう。それにしたがえばオランダ語名は「カミルレ」となり、『竹園草木圖譜』にも“カミルレ”の名が載っていることから、当時にあってはむしろ標準和名だった可能性もあり得る。今日の日本語では外来語の連続するローマ字を促音そくおんを交えて表記するするのが普通である。それにしたがえば、“Kamille”は“カミッレ”となるので、通説ではこれが転じて“カミツレ”となったとするが、果たして日本語にない“ll”をそのように読んだのか疑問が残る。興味深いことに、オランダ語ネイティブによる“Kamille”の発音は“カッレ”(傍点にアクセントがある)のように聞こえるので、“カミッレ(カミツレ)”と表記したのは、Kamilleを文字として読み取ったのではなく、実際にオランダ人から聞き取って音写した可能性の方が高いだろう。促音がなかった古い日本語を踏襲した旧仮名遣いでは、促音の表記は一定せず、通常のタ行の“ツ”との区別があいまいであった。かかる日本語表記の特異な事情によって次第に“カミツ(ッ)レ”が促音を含む名であることが忘れ去られ、また促音のない“カミツレ”の方が発音しやすかったため、“カミッレ”は淘汰されたと考えられる。次の“カモメイリ”という名は一見して“カミツレ”とは別系統であり、学名Matricaria chamomiilaの種小名より派生した名であることは容易に想像できよう。この名はさらに古くさかのぼって、小野おの蘭山らんざんの『本草綱ほんぞうこう目啓蒙もくけいもう(1803年)に「此草ヲトスルハ穩ナラズ」(巻之十一「草之四 野菊ノギク」)とあるのが文献上の初見である。因みに、“此草”とは本草でいう野菊一名苦薏のことで、蘭山はアブラギク(シマカンギク)、センボンギク(ノコンギクの基本変種)を充てている。前述したように、出島のオランダ人は苦薏を調達してカミツレの代用にしたといわれるように、蘭山はそれを意識して邦人が蘭薬カミツレを苦薏の代用にしないようにと釘を刺したのであり、当時のわが国では形の似た頭花をつけるキク科植物をカミツレの類品と認識する風潮があったことを示唆する。“マトリカリヤ カモミル”は今日でも有効なカミツレのラテン学名を変則的ながら音写したものである。この種小名の“カモミル”(本来なら“カモミラ”とすべきであるが)が転訛したものが前述の“カモメイリ”という別名である。最後の“和名カモメ菊”は“カモメイリ”から派生した名であることは容易に推測されるが、別の植物名に転じて今日に残っている。カモメギクChrysanthemum seticuspeは江戸時代に栽培されていた園芸植物であったが、今日ではわずかに皇居外苑に植栽されるにとどまる希少種である。ただし、カモメギクの形態的特徴は、東アジアに広く分布する野生種のキクタニギクにおいてすべての形質が認められるので、野生種の一部の変異が固定されたものと考えられ、学名上ではキクタニギクはカモメギクの1品種f. borealeと扱われている(谷口ら、国立科博専報 49 11〜15 2014年)。因みに、カモメギクの語源としては、1.葉がカモメの羽に似るから、2.花色が白または淡黄色でカモメの胸の色のであるから、3.生育場所がカモメが多く見られる海辺であるから、と諸説があるが、いずれも決定的論拠を欠く。『竹園草木圖譜』にカミツレの異名として“カモメ菊”が記載されていること、前述したように、蘭山もまたカミツレ(カモメイリ)を苦薏と誤認されるのを危惧していたことを勘案すれば、“カモメ菊”はカミツレの別名カモメイリより派生した名と考えるのが妥当であろう。
 さて、カミツレは欧州の伝統医学で古くから珍重された薬用植物であったことはいうまでもないが、その原典というべきディオスコリデスの『薬物誌』にあるANTHEMIS、ANTHEMIS PORPHURANTHES、ANTHEMIS MELANANTHESの3種の中のいずれかに該当すると考えられている。いずれも古代ギリシア語であるから、まずそれぞれの字義を考えて見よう。ANTHEMISは“ἄνθεμον” (ánthemon)に同じで“花”を意味し、PORPHURANTHESは「紫色の」という意味の“πορφύρεος” (porphúreos)と“ἄνθεμον” (ánthemon)の複合語であるから“紫色の花”、一方、MELANANTHESは「黒い」という意の“μέλαν” (mélan)と“ἄνθεμον” (ánthemon)との複合語で“黒い花”を意味するから、花色が素色のカミツレは必然的にANTHEMISに絞られる。実際、ディオスコリデスの記述では「金色の花が咲き、周囲に白〜黄色がかった、または紫の葉がある」とあり、この“花”を筒状花からなる花のしん、“葉”を舌状花の花冠と解釈すれば、キク科の頭花に言及したと解釈できる。ついでながら薬能については、煎じ薬として服用または入浴すると、通経に効果があり、中絶(実際は避妊)を促し、結石(尿路、腎臓)を排出するほか、利尿や駆風で腸閉塞を治し、黄疸、肝臓病によく、膀胱の温湿布にも使われるとディオスコリデスは記述する。植物学名は分類学者が命名するのであるが、通例、当該植物の民俗学的あるいは文化的背景を加味してつけることが多い。したがって、その字義を追求すればその植物と人との関わりが見えてくることがある。カミツレの属名Matricariaは、ギリシア語の“ματρηx” (ラテン語の“matrix”に相当する)に“-aria”という植物学名でしばしば使われる女性形の接尾辞を付した複合語で、“ματρηx”の原義は子宮uterusであるという。この名がつけられたのはカミツレが古くから月経前症候群(PNS)に関連する生理痛や睡眠障害の治療薬として用いられたからという。一方、種小名は、英語でカミツレを表すchamomileカモミールと言語学的に同源であり、古代ギリシア語の“χαμαίμηλον” (chamaimēlon)に由来し、字義としては“χαμαί” (chamai)は“on the ground”、“μήλον” (mēlon)は“apple”の義で、“earth-apple”すなわち「大地のリンゴ」の意となる。ディオスコリデスの記述にも「その香りがリンゴに似ているため、人はchamaemelumと呼ぶ」とある。それはカミツレの類縁種とされるローマカミツレChamaemelum nobileの属名にも採用されている。因みに、ローマカミツレの種小名にラテン語で「高貴な」という意の“nobile”がつけられているのはその薬能がカミツレ(本種と区別してGermanジャーマン chamimileカモミールという)よりも優れていると信じられたからといわれる。ローマカミツレの学名をAnthemis nobilisとする見解もあり、『薬物誌』ではカミツレとともにANTHEMISに含まれた可能性はあり得ないわけではない。しかし、ローマカミツレの自然分布は、全欧州に広く分布するカミツレに比べると。ずっと狭く、フランス以西の欧州大陸とイギリス、それにアフリカ大陸のアルジェリアとモロッコに限られ、肝心のイタリア・ギリシアには産出しないKew Plants of the World Onlineによる)。おそらくローマカミツレの薬能が評価されるようになったのは後世になってからと推定される。『遠西醫方名物考』(巻六、1822年)に、加密列カミツレとともに、オランダ語名の“Roomse kamille”(英語のRoman chamomileに相当)を音写した「羅謨設ロームセ加密列カミツレ」について記載し、これがわが国における本種の文献上の初見である。一方、『竹園草木圖譜』ではいわゆるカミツレに「尋常」、本種に「羅謨設」を冠して区別している。

II.ローズマリー(Rosemary)

 ローズマリーは、1960年代に活躍した米国のフォーク・デュオSimonサイモン & Garfunkelガーファンクルのヒット曲“Scarboroughスカボロー Fairフェア”に「Are you going to Scarborough Fair? Parseley, sage, rosemary and thyme〜」と歌われているので、多くの日本人はもっとも典型的な西洋ハーブの一種と認識しているのではあるまいか。中国にはわが国より先に伝わっているが、漢名を迷迭香メイテツコウと称することを知る人はそう多くないだろう。この名は傍流本草書の『本草ほんぞう拾遺しゅうい(陳蔵器、739年)に初見し、現存書では『證類しょうるい本草ほんぞう』巻第九の「一十種陳藏器餘」に収載されている。それによると、「魏略云ふ、大秦國に出づと。廣志云ふ、西海に出づと。」と記載されるように、大秦國すなわちローマ帝国より三国時代の魏代には伝わり知られていた。西海とは西海郡のことで、前漢では現在の青海省の辺り、後漢では同内モンゴル自治区辺りに設置された郡で、西域とほぼ同義と考えて差し支えなく、これによって魏代より前の前後両漢のいずれかの時代に伝わったと推定できる。前漢の張騫ちょうけん紅花コウカ胡蔥タマネギ蒲桃フトモモなどを西域から持ち帰ったという記録が『博物志』に記録されている(『太平たいへい御覽ぎょらん』ほか逸文)から、この時にローズマリーも伝わったのかもしれない。唐代初期に成立した類書『藝文げいもん類聚るいじゅう』は、さまざまな物事を46部に分類し、唐が成立する前の詩文を多く配している。そのうち「藥香草部」に迷迭香を詠んだ詩文五首が収録され、そのうちの“魏陳王曹植迷迭香賦”をここに紹介する(巻第八十一「藥香草部 迷迭」)


西都の麗草をき 青春にこたへてかがやきを發す

翠葉すいえふ繊柯せんかもとめ 微根を丹墀たんちに結ぶ

繁華はんくゎの速実を信じて 厳霜げんさうしをるるを見ず

暮秋ぼしう幽蘭いうらんよりかうばしく 昆崙こんろんの英芝よりうるは

既に經時して収采しうさいし 遂に幽殺いうさつし以てかをりを增す

枝葉しえふを去りて持御し 綃縠せうこく霧裳むしゃうに入れん

玉體に附き行止かうしを以て 微風に順ひて舒光じょくゎうせん

簡単に語釈をしておく。西都は、通例、長安を指すが、この場合は西域の意である。「播」は『説文せつもん解字かいじ』に「播 うるなり」とあり、「植える」、あるいは同「一に曰ふ、くなりと」とあるので、一面に敷きつめるように植えるという意にとるのがよいだろう。青春は、youthやadolescenceという意ではなく、五行思想に基づいて春に青を配した用語で、陽春・盛春と同義である。繊柯は細い枝すなわち芽が出たばかりの茎のこと。丹墀は朱色に塗った石の階段で、昔は邪を避ける義があった。繁華は「花が咲き誇る」という意で、劉希夷の公子行に「天津の橋の下、陽春の水 天津の橋の上、繁華の(『全唐詩』巻八十二)とあるように、賑やかなという意味もあるが、ここでは前者の意である。速実は速く結実すること、幽蘭は中国では最高級とされた蘭香の原料になるフジバカマを指す。「昆崙の英芝」とは、芝は中国で瑞草と崇められる霊芝レイシのことで、しかも伝説の霊山崑崙山に生え、誰も見たことがないその花をいうから、比較し得るものは他にないことを喩える。幽殺は幽閉して殺すという意だが、採集した葉などを箱などに詰め熟成させて香を強めるプロセスをいう。綃縠は「こめ織り」すなわち織り目を米状に仕立てた絹製品をいい、霧裳は薄地の裳裾で、いずれも貴人の着る高級衣装である。玉体は天子や貴人の身体に対する敬称。行止はふるまうこと、あるいはあちこち移動すること。舒光は、『説文解字』に「舒は伸なり、」とあり、一方、「光」は、栄光というように、「かがやき」「名声」の意で、全体として「ほまれ」が伸びて広がるという意実になる。通釈は以下の通り。

西域の麗しき草である迷迭香を植えたが、春の盛りに芽を出して輝くようだ。青々とした葉は華奢な枝茎を求めるかのように繁り、赤い階段にまで小さな根を張っている。咲い誇る花が速やかに実を結ぶことを信じて、厳しい霜の寒さでも凋れずにいる。芳しきこと晩秋のフジバカマ(蘭)より、また麗しいことといったらあの崑崙の霊芝の花よりも勝る。もう採集の時期になり、ようやく熟成して芳香はいっそう強くなった。枝葉を去り、縠織りの薄絹の裳裾に入れてみよう。そうして高貴で行動範囲の広い御仁の体に香が移れば、さわやかな風とともに香がもっと広がっていくだろう。

『藝文類聚』の迷迭香賦五首のうち、この詩を含めて三首が魏王によって詠まれていることから、当時の中国の王侯貴族に珍重され、その勢いは蘭香に劣らないほどだったと推測される。わが国では迷迭香を“マンネンロウ”と読ませWikipediaによる)、IMEで“まんねんろう”と入力すると瞬時に“迷迭香”に変換されるが、“めいてつこう”では正しく変換できないのは皮肉としかいいようがあるまい。『本草綱ほんぞうこう目啓蒙もくけいもう』巻第十に「迷迭香 マンルサウ マンネンロウ(小野蘭山、1803年)とある2つの和名の一つとして出てくる。その語源は「万年朗」に由来するといわれている。すなわち「朗」は『説文解字』に「朗は明なり。月にしたがひ良の聲。」とあることから、深読みして「月光のよく澄徹する意」と解釈し、本種が寒い冬でも葉が青々として鮮やかな紫色の花をつけ、しかも強烈な芳香をもつゆえにかくネーミングしたようである。
 わが国における文献上の初見は『草花魚貝蟲類冩生』(狩野常信、1680年)に写生図とともに「らうつまれいな 蘭名」の書き込みがある(巻二「三月」)。オランダ語名はrozemarijnロウゼマレインであるから、人づてに音写を繰り返した結果、「らうつまれいな」(新仮名遣い:ろうづまれいな)に訛ったのであろう。常信の図はかなり写実的でローズマリーの葉や花(1個のみだが)の特徴を表し、延宝8(1680)年8月4日の日付が書き込まれているので、17世紀の後期までにわが国に生品が渡来していたことがわかる。一方、1763年初刊の『物類ぶつるい品騭ひんしつ(平賀源内)では“ローズマレイン”とあって、よりオランダ語音に近いが、オランダ人から直接聞いて音写したのかもしれない。ローズマリーもまた欧州で古くから薬用に供され、『薬物誌』ではLIBANOTIS(附図)に比定されている。薬能は体を温めて黄疸を治し、また疲労回復によいという。旧学名は現学名の種小名の“rosmarinus”が属名であったが、今ではアキギリ(Salvia)属に統合されている。ディオスコリデスは“rosmarinus”を本種に対するローマ人の呼称と記載しているからラテン語に由来する。“rōs”は「しずく」を意味し、「海」の意の“marīnus”を付して「海の雫」の意となるが、俄には理解し難い。本種は精油に富むので、それを「海の雫」に見立てたと考えることもできるが、当時はまだ精油の製法は確立していないので、そう関連づけるのは難しい。本種の古代ギリシア語名はラテン名とはまったく異なる“λιβανωτίς” (libanōtís)であり、『薬物誌』のLIBANOTISと同じである。この名はギリシャ神話に登場するLibanusリバヌス (“Λίβανος”)に所以がある。リバヌスは生まれる前から神殿で神に仕えていたが、一部の不信心な人々から嫉妬されて殺されてしまい、大地の女神Gaiaガイア (“Γαῖα”)は他の神々を讃えて彼の名を冠した植物に変え、同様に神々に捧げた。すなわち、リバヌスが変えられた植物こそ芳香のある小さな低木ローズマリーだったというのである。この名はセリ科イブキボウフウの属名Libanotis(旧属名はSeseliに採用されているが、実は『薬物誌』には別の同名品があり、セリ科イブキボウフウ属などに比定されているからややこしい。ローマ時代になると、LIBANOTISは別の植物の名に転じたため、ラテン名の“rosmarinus”をどこからか引き出して命名したのかもしれない。

III.サフラン(Saffron)

 地中海サントリーニ島のアクロティリ遺跡から、サフランを摘む女性たちが描かれた紀元前16世紀といわれるフレスコ画が発見され、青銅器時代には栽培されていたと考えられる歴史的有用植物である(Moshe Negbi, “Saffron: Crocus sativus L.”, CRC Press, 1999)。しかしながら野生種は発見されておらず、3000年以上前から球根の分割を繰り返して栄養繁殖されたため不稔性となったと説明され、ギリシアのクレタ島にのみ分布するCrocus cartwrightianusを原種とする説がもっとも有力視力されている。そのほかイタリア、ユーゴスラビアに分布するC. thomasii、ブルガリア、ギリシア、クリミア半島、レバノン〜パレスチナ、ルーマニア、トルコ、ユーゴスラビアに分布するC. pallasiiも柱頭が3分裂して長く伸びるので原種の可能性があるとされる。欧州で長い薬用あるいは実用の歴史のあるサフランは、当然ながら、『薬物誌』にも収載され、KROKOS(附図)に比定されている。薬能については、ディオスコリデスは消化を促進し、収斂作用、利尿作用があり、目やにを止め、性病に効果があり、塗ると丹毒に伴う炎症を鎮め、耳の炎症にも効くと記載している。英語でsaffronサフランというが、ラテン語の“safranum”に由来し、アラビア語の“az-za'faran”(زعفران)、ペルシャ語の“zarparān” (زرپران) などとも起源を同じくし、その利用が青銅器時代までさかのぼる古い歴史を物語っている。言語学的には「金の糸が張られた」という意味とされ、鮮黄色の雄しべを指すかあるいは本種の乾燥した雌しべ(柱頭)が高値で取引されることから、黄金に等しい存在であることを暗示しているのかもしれない。属名の“Crocus”は古代ギリシア語の“κρόκος” (“krókos”)に由来し、『薬物誌』のKROKOSも同源である。この名もギリシア神話に所以があり、伝令神Hermēsヘルメース(“Ἑρμῆς”)の同性愛の恋人“Krókos”クロコスは、運動競技の最中、頭にヘルメースが投げた円盤の直撃を受けて致命傷を負い、悲しみに沈んだヘルメースが彼をサフランの花に変身させ、またクロコスの頭から滴り落ちた三滴の血がその花の3分裂した柱頭になったという説話に由来するという。一方で、“krókos”には卵の黄身の意もあるので、サフランの黄色い雄しべを見立てたという見解もある。種小名の“sativus”はラテン語の男性形で、属名とは一転してその由来にロマンのひとかけらもないが、「作物として栽培される」という意で、女性形の“sativa”、中性形の“sativum”とともに多くの有用栽培植物の種小名に採用されている。
 西洋で3500年の長い歴史をもつ本種が中国に伝わったのは紀元後で、現存漢籍では『證類しょうるい本草ほんぞう唐慎微とうしんびに「陳氏云ふ、其れ香ること十二葉にして百草のはならん。按ずるに魏略云ふ、秦國に生ずと。二月、三月に花有り、狀は紅藍の如し。四月、五月に花を採れば即ち香るなり」(巻第十三「木部中品」)とある鬱金香ウコンコウをもって、中国におけるサフランの文献上の初見とする。補足しておくと、この記述には一部誤りがあり、後述するように、同書巻第九「草部中品」の鬱金ウコンの条にある『圖經ずけい本草ほんぞう』を引用したほぼ同内容の記述では“”となっていて、これがローマ帝国を表す正しい漢名である。なぜアヤメ科のサフランが鬱金香というショウガ科ウコン(鬱金)の名を冠しているのか説明する前に、以上で述べた文献の複雑な書誌学上の関係を整理しておく。『證類本草』は11世紀末に成立した現存する中国最古の本草書であるが、鬱金香の条の主文の末尾に「今附」とあるのが『開寶かいほう本草ほんぞう』で新規収載されたことを示す。973年成立の『開寶かいほう新詳定しんしょうてい本草ほんぞう劉翰りゅうかん馬志ましとその翌974年に同一編者によって改訂された『開寶かいほう重定じゅうてい本草ほんぞう』があり、平安末期に成立したわが国の香薬書『香字抄こうじしょう(平安後期)の“欝金香”の条に「開寶重定神農本草云」とあるので(後述)、改訂本で新収載された可能性があるが、通例、両書をあわせて『開寶本草』と称しているのでほとんど問題視されることはない。それから一世紀ほど経て、1060年には記載文を主とし附図を伴わない『嘉祐かゆう補註ほちゅう本草ほんぞう掌禹錫しょううしゃくが、その翌年には附図を伴う『圖經ずけい本草ほんぞう蘇頌そしょうが相次いで成立した。性格の異なる国選本草書の両立は利用者にとって不便なこともあって、唐慎微は両書を統合しさらに約660品目の新載薬物と多くの医書、傍流本草書からの引用文を加えて『經史けいし證類しょうるい備急びきゅう本草ほんぞう(1090年ごろ)を編纂し、これが狭義の『證類本草』である。同書の成立の経緯から唐慎微による注釈はごく少ないが、本草書としての資料価値は『本草ほんぞう綱目こうもく』をはるかに上回るといわれる。唐慎微による原本は伝存しないが、大観二(1108)年に艾晟がいせいが校正した大観たいかん本草ほんぞうと、さらに政和六(1116)年に曹孝忠そうこうちゅうらが校正して刊行した政和せいわ本草ほんぞうの2系統の刊本が現存するので、今日では以上の2本を合わせて広義の『證類本草』と称する。以上の書誌学的経緯からすれば、鬱金香に初めて言及したのは“陳氏”すなわち陳蔵器ちんぞうきであり、739年に成立した傍流本草の『本草ほんぞう拾遺しゅうい』が出典となる。すなわち、前述の記述のさわりは陳蔵器注の引用であるが、『本草拾遺』は伝存せず、『證類本草』の各条に「陳蔵器注」、あるいは各巻末に『本草拾遺』で初めて収載された品目が「陳藏器餘」として収録されている。一方、掌禹錫が陳蔵器注として引用した“魏略云”については、『藝文げいもん類聚るいじゅう』に「魏略に曰ふ、大秦國に鬱金をだすと」(巻八十一「藥香草部上 鬱金」)と似た記述があり、ここにサフランに鬱金香という見当違いな名が付けられた経緯をある程度類推できる。鬱金香がサフランとすれば、大秦國ローマ帝国に産するのは熱帯アジア原産の鬱金ではなく、原産の鬱金香のはずであるが、必ずしも『藝文類聚』が勘違いしているのではなく、相応の理由があって両名が混用されるのである。西洋とインドとは中間に位置するペルシアを介して紀元前より比較的頻繁な交流があり、中間に位置して交易の仲介をした古代の近東諸国がインド原産の鬱金をIndianインディアンsaffronサフランの名で呼んでいたからである。それを示す文献的な確証を見出すのは困難であるが、植物名の言語学的解析から推定し得るので、その詳細を以下に述べる。まず、鬱金の基原植物はウコンCurcuma longaであるが、この属名Curcumaはアラビア語でturmericウコンを意味する“كُرْكُم” (Kurkum)(ペルシア語でも同じ音名で呼ぶ)に基づいて命名したことは植物学の世界では周知の事実である。ところが近東にはヘブライ語כרכום (karkóm)、アラム語 כרכמא (kurkama)という音韻的に類縁の名があるが、いずれもサフランを意味し、古代ギリシア語のκρόκος (krókos)に由来する。サフランを原産しないインドでサフランのサンスクリット名を“Kumkuma”というのは、古代インドの交易を仲介したアラビア・ペルシアがインド原産の鬱金(ショウガ科基原)を“Indian saffron”の名で呼んでいた証左である。鬱金ウコン鬱金香サフランの基原植物はそれぞれショウガ科とアヤメ科で形態・系統ともにまったく異なるが、成分としては別系統ながら、サフランはCrocinクロシン、鬱金はCurcuminクルクミンという黄色系の色素を含むという共通性がある。したがって鬱金、サフランのいずれも産しない古代の中国では、サフランに鬱金香という紛らわしい名前をつけ、本草では鬱金と区別するため草部を避けて木部に収録せざるを得なかったのである。『舊唐書くとうじょ』によれば、貞観十五(641)年、天竺インド摩伽陀まがだ王、摩伽陀はガンジス川中流にある仏教発祥の地)尸羅シラ逸多イッタ(Silāditya)が鬱金香を献上したとあり(巻一百九十八「天竺」)、鬱金香はインド経由で渡来したことを示す。ただし、西洋とは大きく異なり、サフランはインド化されて仏教と深い由縁のある植物になっていたので、仏典にも多くの香料とともに鬱金香の名が見える。その一つ、『佛説ぶっせつ摩訶まか刹頭經せっとうきょう(西秦沙門・聖堅しょうけん訳、西秦は五胡十六国時代に鮮卑乞伏部の乞伏きつぶく国仁こくじんが建てた国)に「都梁、藿香、艾納、三種の草香合し(原文の「挼」を改め、以下同じ)みて之を漬く。くすれば則ち青色の水となる。し香少なくば紺黛、秦皮を以てはかり之に代ふべし。欝金香、手に捼み之を水中に漬け、之を捼み以て赤水と作す。」(四月八日浴佛法)とあり、水中で揉むと“赤水”になるという明解な記述によって、鬱金香がショウガ科ではなくアヤメ科クロッカス(Crocus)属であることが明確になる。というのはサフランは水溶性色素クロシンを含み、水に溶けると黄赤色を呈するが、一方、鬱金の色素クルクミンは非水溶性で“赤水”にはならないからである。中国では唐詩にもいくつか詠まれるほど浸透したが、仏教色はごく稀薄である。ここでは白居易の詩「盧侍御ろじぎょ小妓せうぎ詩を乞ひしに座上に留め贈る。」(『全唐詩』巻四百三十八)を紹介する。



鬱金香の歌巾かきんつつ

山石榴やまつゝじの花、舞裙ぶくんを染む

文君ぶんくんよりた酒に對し

神女しんじょに勝るも雲にせず

夢のうちなんぞ覺時見るに及ばん

宋玉そうぎょく荊王けいわうまさに君を羨むべし


簡単に語彙の説明をしておく。詩題にある盧侍御は盧という名の天子の側用人のことで、李白の「廬山ろざんうた、盧侍御虚舟きょしうす」(『全唐詩』巻三百六十五)にも詠まれるが、時代が異なるので別人、あるいは盧侍御という官職が代々世襲とすれば、その子孫の可能性もあるかもしれない。小妓は半人前の芸妓。“鬱金香の汗”はいわゆる“あせ”ではない。本草に「質汗シツカン」といういくつかの薬物より製した一品があり、『本草綱目』は香木類に収録する。通例、香薬は精油に富むが、植物から精油を取り出す技術は当時の中国にはなく(大航海時代以降に欧州から渡来した)、エッセンスを液体の汗と認識する感性はなかったからである。ただし、『宋史そうし』によると、至道元(995)年に大食國アラビア船が「薔薇水二十琉璃瓶」(薔薇水はローズ油のこと)を献上したという記録がある(巻第四百九十「外國六」)。アラビア人は9世紀ごろには精油製法を確立したといわれるので(Michelle Walton, “Imperfect Perfection - Early Islamic Grass (Eng. Edn.)”, A & C Black, 2013)、772年生まれ846年没の白居易がそれを知っていた可能性はあり得ると考え、ここでは「汗」は香気すなわちエッセンスと解し、「気」に通じるから、敢えてと訓じておく。歌巾はコンテクストから衣服以外に考えにくいが、白居易は小妓に贈ろうとしている詩歌を意識してかく表現したのであろう。舞裙は小妓の舞衣装。文君は才女の誉れが高かった漢・司馬相如の妻卓文君たくぶんくん。“好文君”は“勝神女”の対句で、比較語法の“於”と同じく、“似”も「〜よりも」と訓ずることに留意する。“好”は容姿・才気ともにすぐれること。第四連以下は楚・宋玉の高唐賦こうとうふ(『文選もんぜん』所収)にある故事がベースになっていることを知らないと正しく解釈できない。まず、神女とは“巫山ふざんの神女”のことで、天帝の愛人として未婚のまま死に、巫山に葬られて巫山の神となり、当地を訪れた楚の懐王・襄王と夢の中で出会い、「あしたに朝雲となりゆうべに行雨となる」と述べて契りを結んだというストーリーは後世に語り継がれた。これから男女の情交を表す「雲雨の情」という成句が発生した。第六連の荊王とは荊楚の王すなわち懐王・襄王を指す。通釈は以下の通り。

鬱金香の香気は小妓の衣服に浸透し、その舞衣装はヤマツツジの紅い花で染まったような色相だ。それと相俟ってあの卓文君よりも麗しく才気があふれ、お酒の相手までしてくれるのだ。伝説の巫山の神女にすら勝るほどで、しかも神女のように雲となって目の前から消えるようなことはしない。そういう才色兼備の美人は夢の中よりも目が覚めている時に見るに及ばない。宋玉も楚王もまさしく君を羨ましく思うにちがいない。

この詩の情景は京都の祇園の茶屋を想起させ、高級官僚でもない白居易の手の届くところではあるまい。とはいえ天子の側近たる侍御に誘われ、相手をしてくれた小妓の求めに応じてこの詩を贈ったほどだから、この時期の白居易はある程度高い官位を得ていたのであろう。「歌巾を裛む」とは何となく後述の薫物たきものを彷彿させるから、唐代において鬱金香が高級な香草と認識されていたことがこの詩から読み取れよう。
 さて、大帝国の唐が滅亡し、混乱の時代を経てモンゴル族によって併合され、版図が中央アジア〜ペルシア、欧州の東部まで及ぶモンゴル帝国(元)が成立し、西方の産物が直接中国大陸にもたらされるようになると、それまでとは大きく事情が一変する。元代の薬膳書『飲膳いんぜん正要せいよう忽思慧こつしけい、1330年)には「咱夫蘭 味は甘く平にして無毒。心憂鬱積、氣悶して散ぜざるをつかさどる。久しく食すれば人心をして喜ばしむ。即ち是れ回回の地面の紅花、未だ是否つまびらかならず」とあり、ここで初めて“咱夫蘭サフラン”という西洋名を忠実に音写した漢名が登場する。“咱”は現代中国語では“zá”あるいは“zán”の音であるが、『康熙こうき字典じてん』は“咱”の音を「咂」(『篇海』)あるいは「査」(『中州音韻』)としているから、古くは“さ(sa)”と音読されたことはまちがいない。ところが漢民族が再び中国の支配権を回復し、明国が成立した後に刊行された『本草ほんぞう綱目こうもく李時珍りじちん番紅花バンコウカという新名を立てて『飲膳正要』の夫蘭とは微妙に異なる夫蘭をその異名とした(巻第十五「草之四 番紅花」)。これに対して『用藥ようやく須知すち(松岡恕庵、1726年)は『本草綱目』を引用して「近來番舶ニチ來ル所(ノ)ト云モノアリ。本草綱目ノ番紅花是也。一名洎夫キフラン一名撒夫郞サフラン。」(巻之二 紅花条内)と記載し、saffranの音写とは明らかに異なる訓「きふらん」をつけた。『康熙字典』によれば、“洎”の音は「墍」「曁」あるいは「䀈」と同音とされ、いずれも“き”あるいは“ぎ”の音であるから、松岡恕庵の訓読は正しいことがわかる。『本草綱目』はもう一つの異名「撒法郎」を載せ、その音は“săfăláng”であるから、これによって李時珍が“咱”を字体の酷似する“洎”と取り違えたことが明らかになる。しかしながら、今日でも李時珍の“洎夫蘭”はサフランの漢名として広く通用し、わが国では「さふらん」と音読されている。一方、番紅花という名は、李時珍が集解で「西番(新疆とその外境)囘囘回回の地靣(イスラム圏の地)及び天方國(アラビア)に出づ、即ち彼の地の紅藍花なり」と述べているように、紅藍花ベニバナの類と考えていた。李時珍は「元時、以て食饌しょくせんに入り用ふ」(前掲」)とも述べているので、『飲膳正要』を直接あるいは間接的に参照したことに疑問の余地はないが、同書の“未だ是否詳らかならず”とあるところに言及することなく、一方的に“彼の地の紅藍花”としてしまった。ネーミングとしては、“番”は“蛮”に通じるので、「蛮種の紅花」の意として実に明解であるが、番紅花の異名である“洎夫蘭”を、たとえ意識的に“咱”を“洎”に取り替えたとしても、まったく『飲膳正要』を引用せず、あたかも『本草綱目』における新称であるかのように記載しているのは穏当ではあるまい。李時珍は番紅花の条を新設しても、「鬱金は二つ有り、鬱金香は花を用ひ、本條に見る此れは根を用ひる者〜」(巻第十四「草之三 芳草類 鬱金」)と述べて同じ「芳草類」に鬱金香を置き、鬱香(『太平御覽』)、紅藍花(『本草綱目』)、紫述香(同)、草麝香、茶矩摩(佛書)を異名とした。このうち「佛書」にある茶矩摩については出典を『金光明經』とし、「此れ乃ち鬱金花香にして、今時用ひる所の鬱金根とは名同じくして物異なれり」(巻第十四「草之三 芳草類 鬱金香」)と述べ、ウコンの花を鬱金香、根を鬱金とし、同一基原植物で部位の違いと認識した。本草では、通例、部位の違いであれば同一条で記載するから異例中の異例といわねばならない。『金光明經』の引用とするが、正しくは『金光明こんこうみょう最勝王さいしょうおうきょう(唐・義浄訳、七〜八世紀)であり、以下に示すように、巻第七に三十二種の香薬の一つとして出てくる。仏教において香料は洗浴すなわち心身を浄めるという意義があり、後出することもあり、その序に相当する部分を含めて以下に引用する。

 金光明最勝王經大辯才天女品第十五之一
爾時、大辯才天女、大衆の中の於いては卽ち座より起ち、佛足に頂禮し佛にまうして言はく、「世尊。し法師有り、是れ金光明最勝王經を説く者は我れまさに其の智慧を益し、莊嚴言説の辯を具足すべし。若し彼の法師、此の經中の文字句義に於いて有る所忘失すれば、皆憶持して能善よくよく開悟せしめ、復た陀羅尼(dhāraṇī、總持と訳す)あづかれば無礙なり。又、此の金光明最勝王經、彼の有情の爲に、已に百千佛所に於いてもろもろの善根をゑ、常に受持する者は贍部洲せんぶしうに於いて廣行流布し、速やかに隱沒せざらん。復た無量の有情をして是の經典を聞き、皆不可思議の捷利辯才、無盡大慧を得て、善く衆論及び諸伎術を解せしむ。能く生死を出でて速やかに無上の正等菩提に趣かん。現世中に於いて壽命、資身の具を增益し、ことごとく圓滿ならしめん。世尊。我れ當に彼の持經法師及び餘る有情、此の經典に於いて聽聞を樂しむ者の爲に、其の呪藥、洗浴の法を説かん。彼の人の所有あらゆる惡星災變、初生時の星屬相違に與かりしに、疫病の苦、鬪諍戰陣、惡夢、鬼神、蠱毒、厭魅、呪術、起屍、くの如き諸惡、障難と爲す者は悉く除滅せしむ。諸の智有る者は應に是くの如く洗浴の法をすべし。當に香藥三十二味を取るべし。謂ふ所の菖蒲 跋者 牛黄 瞿盧折娜 苜蓿香 塞畢力迦 麝香 莫迦婆伽 雄黄 末㮈眵羅 合昬樹 尸利灑 白及 因達囉喝悉哆 芎藭 闍莫迦㺃 杞根 苫弭 松脂 室利薜瑟得迦 桂皮 咄者 香附子 目窣哆 沈香 惡掲嚕 栴檀 栴檀娜 零凌香 多掲羅 丁子 索瞿者 欝金 茶矩麼 婆律膏掲羅娑 葦香 捺剌柁 竹黄 𩾲路戰娜 細豆蔲 蘇泣迷羅 甘松 苦弭哆 藿香 鉢怛羅 茅根香 嗢尸羅 叱脂 薩洛計 艾納 世黎也 安息香 窶具攞 芥子 薩利殺跛 馬芹 葉婆儞 龍花鬚 那伽雞薩羅 白膠 薩折羅婆 青木 矩瑟侘、皆等分し布灑星日を以て一處にふるひ、其の香末を取り、當に此の呪を以て呪すること一百八遍すべし。呪曰く、(以下省略)

ここでは各香薬の漢名と梵語名すなわちサンスクリット語名が併記されている。鬱金に対するサンスクリット名は茶矩麼であるが、音では茶矩摩とまったく同じである。ただし、“Kumkuma”の音写 (既出)にしては語頭の音が違いすぎるように思える。『大佛頂だいぶっちょう廣聚こうじゅ陀羅尼だらにきょう(訳者未詳、唐代)の巻五「燒香方」に「鉢多羅香 霍香是れなり 薫陸香 栴壇香 白壇是れなり 咄□瑟迦香 蘇合香是れなり 沈香 惡掲魯 寠具羅 安悉香 安膳香 薩若羅婆香 婆律膏是れなり 甲香 龍腦香 麝香 共矩麼 欝金香是れなり。此れ十二味、是れ一切の香王、壇上に用て之を燒く。又、種種の音樂を著け供養す 呪師便すなはち作法に」とあり、漢名より梵語が先行して「共矩麼」とある。「共」の呉音は“く”であるから“Kumkuma”の音写に完全に合致するが、なぜかこの一例を除いて仏典ではことごとく茶矩麼(摩)とある。後述の『香要抄こうようしょう』の欝金香の条では「梵云 恭矩麼 出㝡勝王經(梵字のルビあり)とあり、「恭」も呉音で「く」と読める。「茶」と「恭」は筆記体ではしばしば似るので、もともとは「恭矩麼」だったとすれば、「共」はその減画略字と考えられる。それでも茶矩摩(麼)が大半を占め、李時珍もこれを引用しているから、別の理由があったと考えねばなるまい。「茶」の本字は「荼」であり、呉音で「ど」、漢音で「と」となるるから、o→uの音韻転化により「どぅ」あるいは「とぅ」になるので、サンスクリット音の「Ku」からの転訛は無理がないだろう。いずれにせよ、古代中国が欝金香サフランのサンスクリット音名を受容したことは間違いだろう。再び『本草綱目』の記載にもどるが、李時珍は「葉は麥門冬に似たり」「九月に花を開き、狀は芙蓉に似て、其の色は紫碧」(巻第十四「草之三 芳草類 鬱金香」)とも述べ、どう見てもウコンよりサフランを表した記述としか思えないが、これでもウコンにこだわったのは、現物を見たことがなく文献上の記載だけで判断したからだろう。せっかく仏典を引用しながら、『佛説摩訶刹頭經』において鬱金香を水中でもみだすと水が赤くなるという記述(既出)を見落としたらしく、結局、誤った結論に至ってしまった。惜しむらくはウコンのサンスクリット名が“Haridra”(“The Yellow One”)、 “Gauri” (“The One Whose Face is Light and Shining”)、“Kanchani” (“Golden Goddess”) であること、梵語の音名がそのいずれとも大きく異なることに李時珍は気づかなかったことである。今日の北部インドではウコンを“haldi”と呼び、古代のサンスクリット名と大差ない。インドに比較的近い東南アジアでは、インドネシア語・マレー語で“kunyit”、タイ語で“khamin-chan”といい、サンスクリット語の別名“Kanchani”から派生したと推定され、ベースとなる梵語名が異なっていたため、西洋と東アジアでウコンの名前の系統まで異なることになった。いずれの名にせよ、根の切り口の鮮黄色に関連しているのは興味深い。中国語名の鬱金も、漢代の『輶軒ゆうけん使者ししゃ絶代ぜつだい語釋ごしゃく別國べっこく方言ほうげん』に「鬱は、長なり」(第十二)、『爾雅』に「緝烈顯昭皓熲は光なり」(釋詁)とあり、「熙(煕)」は「ひかり、かがやく」という義であるから、鬱金は“shining golden yellow”という意味になり、ウコンのサンスクリット語名を巧妙に訳出したことがわかる。ちなみに和名は漢名の音読みに由来したことは、『本草ほんぞう色葉抄いろはしょう(惟宗具俊、1284年)では「部第廿四」に欝金を収録し、「金」を冠する薬物名はことごとく「部第卅八」に収録されるから、鬱金は「うつきん」と読まれたと思われる。沖縄語でウコンを「うっちん」(沖縄語では「き」を「ち」に訛るのはごく普通である)と称するのはまさにその名残である。江戸中期の『大和本草』(貝原益軒、1708年)では「鬱金ウコン(詳細は後述)と条出され(付録巻之一 鬱金)、今日名と同じである。『和漢三才圖會』(1712年)でも「鬱金 うこん」(「巻九十三 芳草類」)とあって、江戸時代の初期には「つ」は促音化して略され、「うこん」と訛って今日に至る。
 さて、わが国には中国経由で仏教が伝来したが、当然ながらそれに付随する文化も受容している。多くの仏典にその名がある鬱金香は、わが国に多大な影響を与えた白居易の詩に詠まれるほどだから、平安時代のわが国に渡来していたとしてもおかしくはない。鬱金香はまずさておくとして、サフランという西洋の原名が国書で初見するのは江戸初期を代表する本草書『大和本草』(貝原益軒)であり、「暹羅シャムヨリ來ルト云染物ニ用ユ。唐人ハ魚肉ノ料理ニ用ユ。寒ヲ畏ル。寒國ニハ不カラ(付録巻之一 鬱金)と記載されている。サフランは冬季に地上部は枯れるが、それが自然の生態であってけっして寒い地域で栽培が不向きというわけではないから、益軒はサフランと熱帯植物のウコンとを混淆したと思われる。また「鬱金ウコン」という条項のもとでかくの如く述べているから、西洋のサフランが鬱金香と同品であること、鬱金と鬱金香は異なる基原であることを認識していたのか極めて微妙といわざるを得ない。前述したように、『用藥須知』(松岡恕庵、1726年)も「紅花」の条内でサフランに言及するが、『本草綱目』が別条に区別した鬱金香を載せず、また鬱金の条(巻之二「草部」;項目名「欎金」)でも欎金香に関する言及はなく、同一基原で薬用部位の違いとする李時珍説に対して松岡恕庵がどう考えているのか皆目わからない。一方、『和漢三才圖會』(寺島良安、1712年)では「鬱金 うこん」とは別条に「鬱金香 うきんかう」(いずれも「巻九十三 芳草類」)を載せ、同じ漢名ながら音を変えて区別しているように見える。鬱金の附図はまさにショウガ科ウコンそのものであるが、鬱金香はいくらかサフランに似せたものを載せ、おそらく蘭人に見聞した結果を記しただけで、現物までは見てはいないと思われる。慶長九(1604)年までに漢土から『本草綱目』が伝わり、しかも寛永十四(1637)年に最初の和刻本が刊行されているから、益軒や恕庵は李時珍注の影響を強く受け、その呪縛から逃れることはできなかったと考えられる。その中にあって寺島良安はサフラン(鬱金香)に対する理解度は益軒や恕庵に比べてずっと進んでいたことは特筆に値しよう。享保年間に徳川幕府が洋書の輸入を解禁すると事情は一変し、それまで中国経由で得ていた西洋の進んだ知識を直接得られるようになった。サフランに関しては1763年初刊の『物類ぶつるい品騭ひんしつ(平賀源内)がその先駆けであり、旧態依然たる“洎夫”の見出し名ながら、「ラテイン語サフラン紅毛語オランダ語フロウリスヱンタアリス又コロウクスヲリエンタアリ」という、『本草綱目』ほか漢籍専門書に見られない記述が注目される。この外来名は、『本草ほんぞう綱目こうもく啓蒙けいもう(小野蘭山、1803年)によれば、いずれの名も花という(巻之十一「草之四 番紅花」)が、「植物」という意に解すれば間違いではないが、“flower”とするならとんでもない勘違いである。「フロウリスヱンタアリス」は“Floris entalis (entallis?)”かと思われるが、まともな意味をなす外来語は見当たらない。一方、「コロウクスヲリエンタアリ」は辛うじてCrocus orientaleと読み取れ、ネット検索で博捜すると、15世紀ドイツの“Gelb farb zu machen(訳:黄色を作るには)”というタイトルの文献に出てくるArtechne database。いかにも植物のラテン学名のように見えるが、サフラン(Crocus)属各種の正名・異名に該当するものは見当たらず、Artechne databaseはCrocus orientaleをhistorical nameとし、current nameを“Crocus sativus L. (Saffron) colorant”としているので、いわゆるラテン学名ではなく、サフランを用いた染色技術に関連のある語彙のように見え、いわゆるラテン学名の原型は西洋文化の至る所で使われていたと思われる。すなわち、『物類品隲』はこのようなかなりマニアックな情報まで載せているのであるが、同書の成り立ちの経緯を知れば理解できる。平賀源内は同好の士に呼びかけて各種の珍品を持ち寄って研究発表や情報交換をするのに熱心で、「薬品会(物産会)」を数度にわたって主催している。そこで出品された2000余種のうちから360種を選び、解説を加えて刊行したのが全6巻からなる博物書『物類品隲』である。第五巻に36種の珍品の図絵が掲載され、その一つに洎夫藍サフランが含まれるが、「此の一圖、紅毛本草を以て臨む」の注記が示すように、オランダ人博物学者Rembertusレンベルトス Dodoneusドドネウスの『CRUYDT-BOECK(草木誌)』(1554年)の原著あるいは仏語・ラテン語訳本を入手して書き写したものである。平賀源内によると、サフランの生品も伝わっていたようであるが、絶滅したと述べている。とはいえ、乾燥花(柱頭)はかなり自由に入手できたらしく、『廣惠こうけい濟急方さいきゅうほう(1789年)では通理方に、また『救急方』でも洎夫蘭を用いた処方を記載し、“血の道”(月経、妊娠、更年期障害など、女性に特有の病症に関連するものを総称していう)に用いるとあるように、当初では李時珍の影響を強く受けて紅藍花コウランカ紅花コウカ、ベニバナの花を基原とする生薬)に準じて用いられた。無論、蘭学書の『遠西えんせい醫方いほう名物考めいぶつこう(宇田川榛斎訳述・榕菴校補、1822年)雜腹サフラン丁幾ティンキ去爾テゥルすなわちサフランのチンキ剤(saffran tincture)について記載し、薬能を「蒸氣及ビ汗ヲ發病、毒、惡液ヲ皮表ニ驅發ス。惡性ノ痘、潜伏内攻シテ危險ノ諸症ヲ發スルニ用ヒテ速ニ排泄シ其諸症ヲ治ス」(巻十九 「左」)と記述し、当然ながら漢方とは大きく異なる。江戸後期を代表する本草家といえば小野蘭山であるが、『本草綱目啓蒙』(小野蘭山、1803年)は、まず漢土からの渡来品および和産はなく詳ならずと断り書きした上で、「蠻人携來ル花譜ニコノ花ノ圖ヲ載ス。葉ハ水仙葉ノ如ク花ハ罌粟けし花ノ如クニシテ色ニ數品アリ」(巻之十 芳草 𩰪ママ金香)とし、李時珍の見解をいっさい引用せず、また名こそ出さなかったが、オランダ渡来の花譜の附図(前述の『物類ぶつるい品隲ひんしつ』に掲載されたものと同じであろう)にあるサフランと認識していたことは間違いない。また蘭山は「郷藥本草ニ以テ鬱金ノ花ト爲シ郷名深黃花ト云ハ誤ナリ」と述べていることも注目に値する。というのは、ここでいう“郷藥本草”とは李氏朝鮮初期の1433年に成立した『郷藥きょうやく集成方しゅうせいほう』の「本草の部」を指し、『本草綱目』より160年ほど前に鬱金香を鬱金の花と断じているからである。李時珍を引用しなかったのは、鬱金と鬱金香が基原植物を同じくし部位が異なるという見解は朝鮮の本草家に由来すると、蘭山は考えていたからかもしれない。以上、サフランの生品がわが国に伝わったのは、平賀源内のいうように、江戸中期であるが、定着して図絵に表されたのは幕末の1863年にフランスから球根を取り寄せて以降であり、伊藤圭介著『植物しょくぶつ圖説ずせつ雜纂ざっさん』に彩色図絵とともに詳しい記載文も記されている(191)。ただし、秋咲きの真生サフランのみならず、紫斑花、黄花、白花の春サフランや花サフランなどと呼ばれる園芸種も含まれ、また「紅毛オランダニテト呼モノ」は前述のIndian saffronではなくサフランの意であり、蘭人との交流で「インデアサフラン」を聞き知った時、それがウコンであることを理解できなかったのである。すなわち、この時期に薬用サフランと園芸サフランも合わせて渡来したことと、Indian saffronという名がこの世界に残っていたことが明らかになった。

IV.引用古典資料(五十音順)