強心薬ジギタリスのお話
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 ジギタリス(Digitaris purpurea)は強心作用を有する成分ジギトキシン(Digitoxin)を含み、今日でも不整脈やうっ血性心不全などの心Digitaris臓疾患に繁用される。ジギトキシンは心筋に特異的に作用するステロイド配糖体の一種であり、同様の構造及び薬理作用を有する一群の二次代謝物を強心配糖体(cardiac glycoside)と称している。強心配糖体は自然界に意外に広く分布し、多くは有毒成分として作用する(→薬用植物図鑑を参照)。ジギタリスは欧州原産の強心配糖体を含むオオバコ科(旧ゴマノハグサ科)植物の1種(その他、同属植物としてケジギタリスD. lanataキバナジギタリスD. luteaなどがある)で、歴史上でしばしばスコットランド人医師ウイリアム・ウィザーリング(Dr. William Withering)が発見したものとして記述されるが、正確に言えば「ジギタリスを近代医学に初めて導入」したのがウィザーリングであるとするのが正しい。ジギタリスはそれまで長らく民間療法で使われていた”魔女の秘薬”の一つであり、あるきっかけでウィザーリングが発掘しその効能を世に広く知らしめたのである。その経緯は一般的好奇心の観点からも興味深いと思われるのでここで紹介する。

1.ジギタリスは民間療法の秘薬だった

 1775年、ウィザーリングはふとしたことから重い水腫を患った老女を診察したのだが、当時の医学では手に負えずまもなく死に至ると判断した。数週間後、その患者の消息を尋ねてみるとピンピンしていると聞いて驚愕したのである。その患者はシュロップシャー(ウィザーリングの出身地)のある民間療法師を訪れ、秘伝の生薬を用いた治療を受けてdigitoxin回復したというのである。その民間療法師は正規の医師が治すことができなかった水腫を秘伝の処方でたびたび治したと聞くに及び、ウィザーリングはシュロプッシャーの民間療法師を探し出しその療法を聞き出そうと決心した。探し当てたその民間療法師はどこにでもいそうな老女だったのであるが、秘伝の処方については堅く口を閉ざした。ウィザーリングの粘り強い交渉の結果、ようやく秘伝の処方は20種以上の薬草を配合したものであることを教えられた。ウィザーリングにとって、その中でジギタリスが薬効の本体であることに気付くのにさほど時間はかからなかったとされる。ウィザーリングはエディンバラ大学医学部在籍中に植物学を学んでいた。当時は薬といえば大半は植物起源の生薬であったから、医師をめざすものにとって植物学の知識は必須だったのである。文献によれば、ウィザーリングは当初はあまり植物学が好きでなかったが、後に妻となる親しいガールフレンドのヘレナが大の植物好きで、ウィザーリングを本格的に植物学に導き大成させたのは彼女の功績とされている。 1776年に"A botanical arrangement of all the vegetables growing in Great Britain---"という長たらしい書名の植物専門書を発行し、ウィザーリングは植物学でも当時の英国の第一人者となった。したがって、ウィザーリングにとっては多くの薬用植物を配合した秘伝の処方の構成要素を一つ一つ特定するのはたいしたことではなかった。しかし、薬効の本体がジギタリスであることをウィザーリングはどのようにして感知したのであろうか。ウィザーリングはシュロップシャーの老女から秘伝の処方が激しい嘔吐をを伴うものであることを知らされており、また別の機会にたまたまジギタリスの葉の煎剤を飲んで嘔吐している人物に出会ったことがあった。つまり、ウィザーリングは事前にジギタリスが激しい作用をもつ潜在的に危険な植物であることを知っていたのである。実際、シュロップシャーの老女のみならず、ジギタリスが水腫に効果のあることは当時の英国各地で知られていたようであるが、その用法はきわめて困難を伴うものだったのでほとんどの場合有毒植物のイメージが先行していたのである。ウィザーリングの真の業績は、”ジギタリスの発見”ではなく、ジギタリスの効用、薬用部位、適量を科学的に特定することによりある種の心臓疾患の確実な治療薬に導いたことである。

2.ジギタリスの近代医学への導入と薬理作用

 ウィザーリングは総計163人の患者にジギタリスを処方して治療したのであるが、その過程で薬効成分は葉身(葉から主脈、葉柄を除いた部分をいう。詳しくは葉の形態による分類を参照。)にあり、エキスよりジギタリス葉の乾燥粉末を用いるのがもっとも効果があると結論した。また、ジギタリスは安全用量と極量の差が小さいばかりでなく、採集時期や個体差により薬効に相当の差があることを考慮し、粉末をデンプンなどの粉末と混ぜ少量ずつ反復投与することでもっとも治療効果をあげることができるとした。かつてジギタリスが局方収載品であったころ(第十四改正版まで)、主脈や葉柄を除いたジギタリス葉を迅速に加熱乾燥して製した粉末(ジギタリス末)に適当な賦形剤を混ぜて薬効の力価を調節するのが普通であったが、基本的に同じことを18世紀にウィザーリングが実践していたことは驚くべきことである。ジギタリス葉を加熱乾燥するのは内在酵素による強心配糖体の分解(ジギタリスのユニークな消化管での薬物吸収、血中での薬物動態は特有の糖鎖に基づく)を防ぐためであるが、ウィザーリングも経験的に自然乾燥したものでは薬効が大きく変化することに気付いていたと推察される。ウィザーリングは10年を要したジギタリスの研究成果をまとめ、1785年に"An Account of the Foxglove and Some of its Medical Uses with Practical Remarks on Dropsy, and Other Diseases"なる書を出版した。Dropsyとは心筋の機能低下により生じる水腫あるいは浮腫のことであり、ジギタリスの活性成分のもつ強心利尿作用でその症状を改善することができる。前述の、ウィザーリングがさじを投げた重い心疾患の患者もDropsyを患っていたのである。ジギタリスの活性成分であるジギトキシンは、1875年、ドイツのシュミードベルグ(Oswald Schmiedeberg)により分離され、これが心房細動の治療の特効薬であることが認められるようになったのは20世紀初頭になってからであった。 ジギトキシンの化学構造は、単離精製されてから半世紀以上経た1929年になって、ドイツ・ゲッティンゲン大学のウィンダウス(Adorf Windaus)によって決定された。
 ジギタリス強心配糖体は心筋の収縮力を高める作用があるのだが、その作用機序は膜結合酵素であるNa+,K+-ATPaseに直接結合してその酵素の作用を阻害し、Na+とK+の能動輸送を妨害することに起因する。その結果、細胞内にNa+が増加し細胞外Na+と細胞内Ca2+の交換が減退するため、細胞内Ca2+が増加することになり、心筋の収縮力が高まる。臨床薬理学で称するジギタリスとはジギタリス(製剤)だけでなくその有効成分全体も指しているが、近縁種であるケジギタリスDigitalis lanataの有効成分およびそれから創製された薬物群、

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すなわち、ラナトシドC(Lanatoside C)、デスラノシド (Deslanoside)、ジゴキシン (Digoxin)、メチルジゴキシン (Methyldigoxin)も含まれている。ジギタリスの強心配糖体は糖の水酸基が少ないデオキシ糖(Digitoxose)なので経口投与で消化管からの吸収はよく、ジギトシシンではほぼ100%近いとされている。また、血中のジギトキシンの95%はアルブミンと結合するため、排泄が遅く(半減期は7日)、その分作用の持続時間は長い。一方、ジゴキシンはジギトキシンよりアグリコン(配糖体の非糖部のことをいう)上に水酸基が一つ多いため、それだけ極性が高くなる。この微細な違いだけで、ジゴキシンの腸管吸収率は75%となり、血中で結合するものは25%に過ぎず、したがって排泄は早い(半減期は1.6日)。ジギトキシンは作用の発現まで3~6時間かかり遅効性だが、ジゴキシンは1.5時間後から効果が出始め速効性である。メチルジゴキシンはジギトキシンとジゴキシンのほぼ中間の薬物動態を示す。今日では、うっ血性心不全やその他心不全一般の第一治療薬としてジギタリス強心配糖体は不動の地位を得ているが、それを実感するには1991年5月、キャンプデービッドのグラウンドを走っている最中に倒れた当時の米国大統領ジョージ・ブッシュの逸話が最適であろう。ブッシュ大統領はジョギング中に突然胸が締め付けられるような息切れを訴えた。ホワイトハウスの医師が診察したところ、不整脈、心房細動を起こしていたというのである。その時、医師団は不整脈を制御するためジゴキシンを用いている。当時は冷戦の終結後であり、旧ソ連邦が崩壊したため、米国は唯一の超大国として世界でもっとも影響力のある国となった。したがって、米国大統領の健康が与える世界政治に対する影響は非常に大きく、当然、最先端の医療が準備されている。ジゴキシンが心疾患のもっとも重要な治療薬の一つであることはこれ以上強調する必要はあるまい。

3.ジギタリスの発掘は画期的な民族植物学的成果である

 ウィザーリングはジギタリスで不朽の業績を残したのであるが、どんな手段を用いてその秘法を手に入れたかは彼自身も明らかにしておらず歴史上の記録もない。不思議なことに歴史上ではこの民間療法師は“シュロプッシャーの老女”とだけ記され、名前すら後世に伝えられることはなかった。その民間療法師が他にどのような治療を実践していたか興味あることであるが、結局、誰も目を向けることはなくやがて産業革命以降の社会の激変に飲み込まれるようにして風化してしまった。ウィザーリングはジギタリスの研究に没頭しその余裕がなかったとも思われるが、別の理由もあったのではないかと推察される。おそらく、当時の英国医学界は“シュロプッシャーの老女”が実践していたような民間療法や薬物は”魔女の治療法、秘薬”として全く相手にしなかったのではなかろうか。それ故、ウィザーリングは当時の医学会に抵抗することはできず、ジギタリスの入手の経緯や民間療法師の存在を顕在させず独自の研究を続けたのであろう。英国といえば「紳士の国」というイメージが今日でもつきまとうが、産業革命の直前に当たる当時の英国でも様々なサロンがあり、そのメンバーであることが社会的ステータスであった。ウィザーリングは知識人の集まりである"Lunar Society"のメンバーであり、名声を維持するためには異端であることは許されなかったのであろう。当時の英国では、薬剤師(彼の父親は薬剤師で経済的には成功者だった)すら紳士の資格はなく、”いわんや民間療法師をや”という状況だったのである。今日では、ウィザーリングがジギタリスに対してとったアプローチは「画期的な民族植物学的業績」として評価されることが多い。しかし、実際に民族植物学が注目を集めるようになったのはウィザーリングの死後、2世紀を経てからである。民族植物学は、今日では、風前の灯火のように散在する世界各地の伝統医学に集積された天然薬物情報の有効な発掘手段として注目されている。ジギタリスのように”魔女の秘薬”の中から画期的な医薬素材の見つかる可能性も指摘されているのであるが、近年の急速なグローバル化は結果として伝統医学の風化霧散を加速しており、一刻の猶予も許さぬ状況となっている。かかる有用情報の収集はグローバルな課題として取り組む必要があろう。
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