本コラムは7年前にアップすべきものだったことをまずはじめにお断りしておきたい。しばらくホームページの更新から遠ざかったからであるが、実は退職後も2019年までは毎年訪比していたが、新型コロナウイルス(covid-19)のパンデミックで途切れてしまった。さすがに3年も経つと昔のことが懐かしく思うようになり、しばらくは回想として本カラムで紹介したいと思う。
現役教員として最後の海外出張でフィリピンにいって来た(3月10日~24日)。そのうち11日から14日まではパラワン島に滞在した。州都のプエルトプリンセサは18年前に初めて学術調査で訪れた時とは大きく変貌していた。当時はマニラとの間に日に直行便が2便のみ、ほかにセブ島を経由する便が週に2便か3便あるだけのまさに僻地の島であったが、今や国内線だけでも10数便もあり、国際線の発着もあるフィリピン有数の観光地に様変わりしていた。かつては飛行機の到着に合わせて市内のトライシクル(オートバイクを改造して作った三輪乗用車)が一斉に空港前の広場に大集合していた。観光客をつかまえて観光案内する方が市民の足として働くよりずっと稼ぎになるからである。したがって、その時期になると市内でトライシクルをつかまえるのは非常にむずかしかったのだ。その光景も完全に過去のものとなり、そもそも空港前の広場からトライシクルは排除され、駐車場に改装されていた。かつては海外からのバックパッカーが多かったのだが、今やフィリピン国内の観光客が多数を占め、中堅どころのホテルが多く建てられた。市内中心部にあり、立地の良さから観光客に人気のあったプエルトペンションに昔日の面影はなく、今やBed & Breakfast Innに衣替えして余命をつないでいるようにみえた。プエルトプリンセサの変貌ぶりはこれだけに留まらない。同市を中心として南北に伸びる幹線道路はコンクリート舗装された。かつて50キロ南のアボランまでは借り切ったジープニーでデコボコ道を全力疾走しても2時間ほどかかったのだが、今や1時間弱で行けるようになった。驚くことに片道1車線の道路に90キロのスピード制限が設定されている。トラシクル、ジープニーが運行し、しばしば地域住民が荷車を引いて横断したりするから、90キロというのは速度制限として高すぎる設定と思えるのであるが、実際、高速道路並みの100キロオーバーで飛ばす車も少なくない。
州都プエルトプリンセサはプエルトプリンセサ湾に面し、海辺にBarangay Seasideと呼ばれた集落があった。同湾は遠浅の静かな内湾なので、海上に柱を建て板を張って通路を巡らし、その上に住宅をつくり、典型的な海上住宅街が形成されていた。往事のパラワン島の伝統的な集落の形態を残したものと思われるのであるが、いつ頃からだろうか集落は移転させられ、海は埋め立てられてSeaside Parkなる観光客向けの施設に衣替えしてしていた(まだ建設途上であるが)。外国人の目からすれば海の上に建てられた集落は非常に珍しい文化遺産といってもよい存在に見えるが、そういえば、「地球の歩き方」というバックパッカー向けのガイドブックにも海上住宅は紹介されていなかった。市内のメインストリートであるMalvar Streetから狭い路地を通って集落内に入ることができるが、当時でも道案内の看板はなく、観光客が出入りするような場所とは目されていなかった。治安上の問題があったのかもしれない。そんな所を筆者は一人で数回集落の深部に入り、住民と話したことがあるが、特に危険という雰囲気は感じられなかった。今は当時の形を残す住宅がごくわずか残るが、もはや海上住宅の形態を為していなかった。州都に海上住宅はふさわしくないというのだろうか、もはやノスタルジーの世界にのみ残る存在となってしまったようだ。そのほか大きく変わったことといえば、車の数が増え、郊外でもガソリンスタンドが多くなった。昔というほど年数は経っていないのであるが、かつてはガソリンを積んで車を走らせていたのが懐かしく感じられる。市内に大型のショッピングセンターといえばNCCC(New City Commercial Corporation)しかなかったが、今はRobinsonほかいくつか建てられ、マニラと変わらくなり、その分物価も高くなった。ただ、なぜかフィリピン最大の小売業シューマート(SM)は見当たらない。
フィリピンに始めて足を踏み入れたのは1986年、約30年近く前になる。以降、渡航回数は20数回ほどになるだろうか、この間に色々なことがあった。これほどのフィリピン通になっても油断ができないのがこの国の特徴である。かなり気心を通じた相手であっても一旦貸した金は戻らないと考えねばならない。請求しても御託を並べて煙に巻かれるだけだ。このような経験は一度だけだが、相手が科学研究費補助金による研究者招聘で来日した時、支給される滞在費から利子をたっぷりつけて差し引かせていただいたから実害はなかった(コラム5)。一番困るのはタクシーである。外国人に数倍の料金を請求するのはフィリピンに限らず、中国や他のASEAN諸国にも共通する悪習である。ただ市中を走るジープニーではフィリピン人と同額で利用できるが、一定の区間を往復するだけであるから、よほど市内の地理的事情に明るくなければただ迷子になるだけである。筆者はフィリピンの事情に精通するにしたがってジープニーを利用するようになり、マニラの中心部からケソン市内までしばしばジープニーを乗り継いだものだった。タクシーだったらへたすると500ペソ以上請求されるところを、1回の乗車賃はわずか4ペソだから5回乗り継いでもずっと安くつくのだ。しかし、時に痛いしっぺ返しを喰らうこともあった。乗車中にスリに遭遇しポシェットの中の財布から現金だけが抜き取られたことがあったのだ。パスポートやクレジットカードは無事であったからよかったが、現地人の話では技術に長けたベテランのスリほど"良心的"で現金だけを抜き取る傾向があるそうで、筆者の場合はラッキーというべきらしい。
海外に滞在する時、誰もが気にすることは食べ物だろう。マニラでも路上の屋台が多く価格はびっくりするほど安いが、食器を汚い水を使い回して洗っているのをみると、清潔好きの日本人ではまず喉を通ることはないだろう。しかし、熱をたっぷりと通しているから食中毒事件は思ったほどに発生していない。フィリピンを訪れるドイツ人は結構いるが、マニラの大気汚染を問題視し、中国のPM2.5並に深刻だといい、分厚いマスクを離さない。確かにこちらでは排気ガスの規制などないに等しいが、ドイツでは日本以上に規制が厳しいらしい。ドイツ人の健康に対する気配りは相当のものらしいが、ドイツ人の平均寿命が日本人やその他の欧州人と比べて2年ほど短いのはどうしたことか。福島の原発から発生する放射能を恐れて日本をいの一番に脱出したのはドイツ人といわれ、環境問題に異常に神経質な一方で、食べ過ぎによる肥満が寿命を縮めている(と想像するが、ほぼ正鵠を射ていると言って良いだろう)ことに無神経なのはどうしたことか。そういえばフィリピン人も日本人より肥満が多いが、食べ過ぎであることは論を俟たない。フィリピン人は肉や野菜といわず何でもかんでも砂糖で味付けするから普通の日本人には甘すぎて口に合わない。マンゴーやパイナップルのジュースすら砂糖をたっぷり加えている。高級店では搾りたてのナチュラルなジュースを出してくれ、すばらしく美味しいのであるが、一般のフィリピン人には酸っぱすぎるというから恐れ入る。
そんなフィリピンにも良い点がないわけではない。それは何事にも楽天的、楽観的であることだ。ストリートチルドレンのしつこい物乞いにあった時、突っぱねるといかにも物悲しそうな顔で見つめられることがある。しかし、それは演技であって腹の底は明るいから絶対に騙されてはいけない。この国ではいくら貧しくてものたれ死にするようなことはまずないし、日本人のように横並び意識は全くなく世間体を気にすることはないから、至って気楽に暮らしているのだ。スラム街では楽しく生活するような自然発生的な相互扶助のセイフティネットが構築されているようだ。ゴミ捨て場や市中から空きカンやプラスチック、金属ゴミを拾って得た生業の現金収入のほか、スリ、窃盗あるいは物乞いなどの稼ぎもセイフティネットの維持に貢献しているといわれる。いわばアングラの"福祉事業(?)"が貧しい人々を明るく支えているのであるが、日本人にはまずまねできないだろう。大金さえ持ち歩かなければ、たまに小金をスられてもスラム街の貧しい人たちに寄付をしたと考えれば不思議に納得がいくのだ。翻って日本はその対極にあり、日本人ほど悲観的な国民は世界に類例がないのではないか。人生観の違いといえばそれまでだが、フィリピンにいる限り、郷に入っては郷に従う方がずっと精神的には楽である。それにしても日本を覆い尽くしているあの悲壮感の霧は何といえばいいのだろうか、如何に日本人の心を蝕んでいることかつくづく痛感される。広い世界から見ると、日本はまだ捨てたものではない。気の持ちようで天国にも地獄にもなる。ネガティブ思考しかできない人々が集まったような団体がむやみに悲観論を振りまいているが、馬耳東風でスルーしてしまえばよい。このままでは韓国人の火病のようにわが国固有の疾患に認定されなねない。