仏様は微笑んでいるのに仏頂面とは?
To Homepage(Uploaded 2023/1/1)
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 俗に仏頂ぶっちょうづらといいますが、大方の辞書は「愛想あいそうな顔つき。ふくれっつら。」と説明し、概してネガティヴなイメージが濃厚です。でも私たちの周りに見る仏様は奈良・鎌倉の大仏様を始めみな柔和なご表情そのもの、およそ“無愛想”とは程遠いですね。観光ガイドブックなどで見るスリランカやタイほか国外の仏様も然り、ここではインドネシア・ジョグジャカルタのアンコールワットと並ぶ巨大仏教遺跡ボロブドゥールの仏像を例示しますが(リンクをクリック、3秒ほどお待ちください)、やはりほのかな微笑みを浮かべておられます。そういえば仏教のお坊さんもなぜか微笑んでいる方が多いですね。NHKで放映された「10人のお坊さん」という番組をご存知でしょうか。ご出演されたお坊さんは、高尚な講話の内容にも関わらず、微笑みを浮かべておられました。最近、亡くなられた瀬戸内寂聴さんも講釈中は聴衆を笑わせるなど微笑みを絶やすことはありませんでした。薬師寺の管長を務められた高田光胤さんもたいへんな高僧でしたが、厳しい表情はこれっぽっちもなく常に微笑んでおられました。このように仏頂面という語彙は実態と合わないことになるのですが、1889年に刊行されたわが国初の近代的国語辞書『言海げんかい(大槻文彦)では「ぶつちょうづら 不承面ノ音便訛カ。仏頂面ナド記スハイカガ。」とあるように、仏頂面という表記を認めず、嫌味な顔つきの意である不承ふしょうづらが転じたと推定しているようです。これとよく似た説にふて腐れた顔つきを意味する不貞ふてづらから転じたとするものもあります(出典不詳)。今日、もっとも有力視されるのは、お釈迦様の頭上(仏頂)に宿る広大無辺の功徳くどくから生まれた仏頂ぶっちょうそんの面相が無愛想で不機嫌そうな顔つきであるからだという語源説です。仏頂尊は主として密教で信仰され一般人にはあまりなじみのない仏様で、実際の仏頂尊像や肖像画は一般の仏様と比べると顔つきがやや険しいかなというレベルです。いずれにせよ、柔和そのものの仏様のイメージがなぜネガティヴ視されなければならないのか有効な説明をしなければ説得力はないと思います。国語学者の大槻文彦が認めていない仏頂面という表現が明治以前にあったのか、あったとしたらいつ発生したのか明らかにする必要がありそうです。3文字の漢字から構成されますから漢語のように見えますが、『中國哲学書電子化計畫』で全文検索してもヒットしませんので、和製漢語であることは間違いないでしょう。ではいつ頃から使われているのでしょうか。仏頂面とほぼ同義の仏頂ぶっちょうがおも含めて国書を検索してみると、江戸期以降の通俗文学にわずかに見られる程度、いわゆる純文学といわれるものには登場しないことが明らかになります。ここではそれぞれ一つずつを取り上げて説明しましょう。
『近松浄瑠璃集』・「今宮いまみやの心中しんぢゅう 中之巻」

(卜庵曰く)「何じや茄子なすび浅漬あさづけじや、一段よからふ。それ出花でばなをつけたらば」と、茶臼ちゃうすなりになるを見て、おきさもあきれ、「いつとまつて御座んせ」と、仏頂ぶつちゃうがほに二郎兵衛もぐさに火を付庭つけにはすみ、卜庵が雪駄せきだうら、物はためしあふたてあふたてくゆらする。
『もえくひ』
あるときは二あがり三味さみの手に、おまんがさらぬのおもひ、まつちぶしに墨田すみだ河のふかきあはれをるおもしろさあり、又は揚屋あげや遣手やりて仏頂ぶつちゃうづらも、なにやらんの威光いくわうにてやはらぎ、軽薄けいはくらしう、雲となり雨となりゆくけしき、思へばおかしかりし。

 近松門左衛門は人形浄瑠璃・歌舞伎の台本作家というべき存在ですから、当然ながらその作品は本格的な純文学とはいい難いものです。今宮心中は大坂菱屋の手代二郎兵衛と下女きさが今宮の森で心中した実在の事件を脚色したいわゆる世話物せわものの一種で、似たものは今日のテレビドラマにも多く見られます。版本によっては仏頂顔という和製漢語に“ぶつちゃうがほ”と“ぶつてうがほ”のいずれかのルビが振られていますが、原本ではルビなしの漢字表記だった可能性が高いかと思われます。前後関係から不機嫌な顔つきの意であることはいうまでもありませんから、不承面など別の語彙から転じたのではないことがこれではっきりするでしょう。近松の記述の中には「世帯仏法はら念仏、口に喰うが一大事」、すなわち仏法は世帯のため、念仏はお腹を満たすため、つまり仏法も所詮は生計を立てるため、念仏は飯を食うための糧にすぎないという当時の俚諺りげんが引用されており、仏教に対する一般庶民の感性を表したものとして注目に値します。俗にいう「花八層倍、薬九層倍、坊主丸儲け」と同じで、花は原価の八倍、薬は九倍で売られるのに対し、坊主すなわち仏法・念仏の原価はゼロでまる儲けというわけです。そもそもこういう俚諺の存在自体が当時の仏教や僧侶が庶民からよく思われていなかった証左というべきであり、原本で“ぶつちゃうがほ”あるいは“ぶつてうがほ”のいずれで表記されていたとしても、仏頂顔の意で解釈されていたことがわかるでしょう。一方、『もえくひ』は『もえくゐ』ともいいますが、『たきつけ草』・『けしずみ』などとともに近松文学よりやや古い延宝年間(1673年〜1686年)に成立した仮名かな草子ぞうしの一つです。この一節で“揚屋”は“客が置き屋から高級な遊女を呼び寄せて遊ぶ家”、“遣手”は“遊女の監督・采配などをする年配の女性”の意ですから、もっぱら遊郭話を扱ったものであることがわかります。いわゆる“色道しきどう”の粋を説く好色文学のさきがけといえるですが、描写の猥雑性はあまり感じられません。ここには今日と同じ意味の“ぶっちょうづら”(原文はひらがな)が出てきますから、これも当時の庶民の仏教に対する姿勢が表れていますね。
 さて、以上2例のいずれでも仏教に対して人々の敬虔の意が感じられないことがわかるでしょう。江戸時代になると庶民は仏教を冷めた目で見ていたのですね。以上から、仏頂面・仏頂顔のいずれも発生の当初から今日と同じ意で用いられていたことになりなり、仏様の中でっもっとも表情の厳しい仏頂尊から“仏頂”を拝借して仏頂面・仏頂顔という語彙をつくったと推定されます。江戸幕府が大政奉還して明治時代になると仏教はさらに冷たい仕打ちを世間から受けることになります。明治新政府は国家神道を国教と定めて神仏分離令を発布したことによって、江戸時代では幕府を頂点とする武士階級に手厚く保護されていた状況が一変したのです。仏教がわが国に伝来してから1300年の間に在来の神道を取り込んで神仏習合の仏閣が少なくなく、明治政府は神道国教化に伴い、仏教と神道の区別を明確にせよと命令したわけです。必ずしも仏教の排斥を意図していたわけではなかったのですが、平田派国学者や神官を中心として民間に廃仏運動が発生、急進化して廃仏毀釈の挙に出たのです。全国各地で多くの仏教寺院が襲撃、破壊され、奈良の東大寺では江戸時代に千数百人が住んでいた僧坊は完全に破壊されて更地と化しました。現在の奈良公園はその跡地に成立したもので、往時を偲ぶべくもないほど東大寺周辺の環境は改変され、それに伴い国宝級の文化財も多く失われたといいます。もっとも廃仏毀釈が極端だったのは旧薩摩藩であり、旧藩主の島津氏が自ら菩提寺を廃寺にしたこともあって、同国内の寺院は壊滅してしまい、当地では葬儀はすべて神式で行うこととなりました。仏像も信徒がこっそり隠しもっていたのを除いてすべて破壊され、現在の鹿児島県には重要文化財はないといわれるような状態になったのです。一方で越前や私の住む三河のようにほとんど影響を受けなかった地域もありました。いずれも名だたる戦国武将をてこずらせた一向宗の勢力の強いところで、廃仏毀釈に対して全面対決の姿勢を見せつけたので廃仏毀釈派といえども手を出せなかったのです。廃仏毀釈は程なく収まりましたが、長年の間に仏教が蓄積した文化財の美術的価値が海外や国内の有識者から高く評価されたことが大きかったと思います。考えてみれば廃仏毀釈の参加者の多くは下級官吏や無学な民衆、今風にいえば民度の低い人ばかりであり、何となく2・26事件の首謀者・賛同者と似ていると感じるのは私に限らないでしょう。江戸時代の庶民の間で鬱積していた仏教に対する不満が爆発したのが廃仏毀釈といってよいのかもしれません。
 さて、今日では仏頂面は無愛想・太々ふてぶてしいという意味を合わせもち、威厳っぽいイメージを暗示することもあります。一般人がいっときの感情の変化で見せる表情ではなく、主として当該人物の身分階級に根ざす恒久的なもので、とりわけ“上から目線”の人に向けられた表現とも考えられます。言葉の意味は時代とともに変わるものですが、仏頂面が発生の当初(文献における初見)から今日とほぼ同じだったことは正直なところ意外でしたが、たった一つの何でもない言葉も博引はくいん旁証ぼうしょうすると、ここでご紹介したように思いがけない知見に遭遇するものです。これこそ情報マイニングの醍醐味であり、今年、70代の半ばを迎えますが、老境になっても学ぶこと、発見することは山ほどあるのですね。これまでは古典に登場する植物をテーマとしてきましたが、これからはその枠にとらわれず、広く日本文化の根源に迫っていきたいと思います。