万葉の花考-ノイバラ-
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(2007/11/10 uploaded; 2008/03/13; 2010.7.10 revised)

万葉集に由来するノイバラの古名

 枳棘ききょく荊棘けいきょくという熟語は滅多に使うことはないが、いずれもトゲを意味する漢字「棘」が含まれ、厄介者の意味がある。棘は、陸佃りくでんの『埤雅ひが』によれば「棘の大なる者は棗、小なる者は棘なり」とあるように、もともとクロウメモドキ科ナツメ(棗)の小型の類縁種のことであるが、後に刺のある低木の総称にも用いられるようになった。棘のある植物でもっとも身近にあるのはノイバラをおいて他にないが、古くから「棘」の字で表される。ノイバラの語源は次の万葉歌にある「ウマラ(ウバラ)」に由来するが、この古語の意味は不明のようである。身近にある植物の割には、万葉集での出現頻度はわずか二首にとどまり、鋭い棘があってしかも薮をつくるから、古くから敬遠されていたことがわかる。

1.道の辺の  うまらうれに  まめ
  美知乃倍乃  宇萬良能宇禮尓  波保麻米乃
          からまる君を はかれか行かむ
            可良麻流伎美乎  波可禮加由加牟

巻20 4352 丈部はせつかべのとり

 序に「天平勝寶七歳乙末の二月、相替りて筑紫に遣さるる諸國の防人等の歌」とあり、詠人は天羽あまはのこほり(千葉県旧君津郡の一部)出身の防人である。宇萬良うまらは、『本草ほんぞう和名わみょう』に「營實 陶景注云墻薇子也 一名墻薇一名墻麻一名牛棘一名牛勒一名蘆蘼一名山棘一名山來云或作雷 出釋藥性 和名宇波良乃美」とある宇波良ウバラの音韻転訛した名と考えられる。一方、『和名わみょうしょう』では、「本草云 薔薇一名墻(艹+糜) 牆微二音 陶隱居注云 營實 无波良乃美 薔薇子也」と、「むばら」となっている。近世までの日本語では「う」と「む」は音の区別が不明瞭で、「ウメ」に対する「ムメ」 (ウメの学名Prunus mumeはシーボルトの命名であるが、19世紀でもムメの音が残っていた)がよい例であるように、互いに転訛しあう。したがって、これも万葉名のウマラと同じと考えてよい。ウバラが後世にイバラに転じ、さらに短縮してバラの名が発生した。東国の万葉歌であるから、バラ属の中で山野に普通にあるノイバラアズマイバラテリハノイバラのいずれかと考えてよいだろう。今日ではバラに対して薔薇の漢名が用いられているが、この名は營實に対する異名として『名醫別錄』に初見するものである。中国ではノイバラの類のみを指すが、日本では栽培種のバラも含めて広くこの名で呼ぶ。因みに、中国では、栽培バラのように大輪の花をつけるものを「月季」として区別する。『源氏物語』や『枕草子』で「さうび」とあるのは、薔薇のことで、ノイバラのほか中国から渡来した栽培バラも指していたようだ。薔薇の音読みは「しょうび」であり、訓では「ばら」と読む。また、日本ではイバラに対して「茨」の字を充てるが、もともとハマビシ科ハマビシの異名の一つであり、『せい字通じつう』に「茨、凡そ艸木の針有るは俗に茨と謂ふ」とあることをもって、ノイバラの類を指すようになり、そうなったのはそう古いことではない。
 さて、歌の解釈については、第一句から三句までは「からまる」に掛かる譬喩による序である。「うれ」は末を意味する古語であり、「ほ」は「ふ」のu→o音の転訛である。まめとは、つる性のノマメのことであり、ツルマメヤブマメヤブツルアズキあるいはノアズキを区別せず、その総名と思われる。波可禮加を「はかれか」としているが、もともとは「がれか」であって、絡まるツルマメを剥がすように君も剥ぎてはなすという意である。歌の意は、道辺のイバラの枝先に這いつくばるノマメのように、(別れを惜しんで私に)からまるあなたを引き離して行くのであろうか、となる。この歌は愛する妻を残して遠い地方へ派遣され、いつ戻って来られるかわからない防人の切ない心情を詠った秀歌である。

2.からたちの 棘原うばら刈りけ 倉建てむ
   枳    蕀原苅除曾氣  倉將立
           くそ遠くまれ くし造る刀自とじ
              屎遠麻禮   櫛造刀自

巻16 3832 忌部いんべのおびと

 枳は、『本草和名』に「枳實 仁誤音居尒反又音紙 一名枳殻 出蘇敬注 一名□實 玉篇英骨反 一名時枳 五月採者名時枳已上出雜要訣 和名加良多知」、『和名抄』に「枳椇 只短二音 加良太知」、また『新撰しんせん字鏡じきょう』にも「枳 加良立花也」とあり、ミカン科カラタチのことである。第二句の蕀は、『新撰字鏡』に「 又作(竹篇+米米:異体字)居掬反宇波良(異体字) とあるから、第一の歌にあるウマラと同じと考えてよい。蕀原は、「ウマラ原」略してウバラと訓じノイバラの生い茂る野原をいうのか、あるいは『本草ほんぞう色葉いろは しょう』に「刺原 棘刺花(バラのこと)一名」とあるのをもってノイバラそのものを指すのか、二通りが考えられる。前者であれば、ノイバラが生い茂って薮となったものをいうからウバラと訓じ、後者であれば第一の歌と同じくウマラと訓ずることになる。どちらでも歌の意は大差ないが、ここでは、一応、前者のウバラの意としたい。カラタチは鋭いトゲがあるので、棘原を導く序詞であって、いずれの訓でも実際にカラタチが生えて薮になっているわけではなく、カラタチそのものを詠った歌ではない。カラタチは中国原産の柑橘の一種で、日本に野生はない。第二句の「除」に「曾氣」と添えられているのは、「そけ」と訓ずることをいい、「のぞく」の意である。第四句の「まれ」は「まる」の命令形で「クソをする」という意味の動詞である。『播磨國風土記』「はに岡となづくるゆゑは」の一節「はにの荷をになひて遠く行くと、くそまらずして遠く行くと、この二つのこといづれかよくせむや」にもあり、現在でも愛知県三河地方から長野県伊那地方にかけて方言として残っている。名詞形として「おまる」があり、これは全国的に通用する。末句の刀自とは「とうじ」とも読み、『和名抄』に「劉向列女傳に云ふ、古語に老母を謂ひて負と爲す。 今案ずるに和名度之、俗に刀自の二字を用ふるは訛なり」とあり、本来は老婦人を指す。当時の中国では、子育てを終えた老婦人はもはや御用済みという意を込めて、「婦」と同音の「負」の字を充てたらしい。歴史的に男系社会が優位であった中国ならではのことであるが、古代日本では母系制社会であり、女帝が多く輩出したこともあって、この「負」の字の本来の意味は受け入れられないものであったに違いない。そこで「負」の異体字である「(刀+貝)」(懶の一番右側)の部首を分解して刀自という新語を造った。因みに『和名抄』に「俗に刀自の二字を用ふるは訛なり」とあるのは間違いで、万葉集に出てくるのは全て「刀自」である。本来なら刀貝とばいとなるはずだが、刀自になったのは貝が女性の性器を連想させることと関係があるのかもしれない。「因幡の白兎」神話に「支佐加きさか比売ひめ」と「宇武加うむか比売ひめ」の二女神が登場する。八十の兄神たちの嫉妬で殺された大国主命を蘇生したという話であるが、いずれも「貝」の名をもつのは偶然ではなく、この二姫の役割はまさにセックスそのものであり、それによって大国主命を蘇生させたのである。貝はかなり古くから女陰に譬えられてきたのは承知の事実である。幼い少女の性器を「シジミ」といい、妙齢の女性になると 「ハマグリ」となり、女盛りのそれは「赤貝」、 年増になると「烏貝」あるいは「ほら貝」と名前を変えるが、いずれも貝であることには変わりない。愛知県小牧市の大県神社境内姫宮社では「おそそ祭り」という珍しいお祭りが伝承されている。「おそそ」とは女性の性器のことをいうが、筆者の出身である三河地方や愛知県内のそのほかの地域ではそう呼ぶことはない。そう呼ぶのは奈良県・香川県であり、おそらくこの地方から伝わってきたものだろう。その名にふさわしく、女性の象徴に似た木の根を積んだ神輿をかつぎ、ハマグリの山車がその後を追い、ときどきこの大蛤が口を開き、中に入っている巫子が守札をまくというものであるが、まさに女陰を象徴した原始性器信仰の祭りである。ツユクサの花は貝が開いたのと形がよく似ている(写真右)ことから、一部の地域の方言で「べっちょばな」、「まんこばな」という名が残っている(八坂書房編「全国植物方言名集成」による)。ツユクサの花が開く前の蕾がハマグリなどの二枚貝にそっくりであることをもって女陰に譬えたともいわれる。「べっちょ(べんちょともいう)」、「まんこ」はいずれも女性の性器を指す全国的な俗語である(小学館編「日本方言辞典」による)が、一般には口にするのを憚れる名であるように、刀貝では女性の性器をあまりに露骨に意識させるから敬遠されたのではないかと思われる。字を変えるついでに老母という意味も変えてしまったことは万葉集にある他の用例からもわかる。巻四にある「大伴おほともの坂上さかのうへの郎女いらつめ跡見とみたどころよりいへに留まれる女子むすめ大孃おほいらつめに賜へる歌」の中に「わが兒の刀自を(吾兒乃刀自緒)」とあるが、坂上郎女が娘の大孃を指していることは明らかで、広く婦女子を表す呼称であったことがわかる。第二の歌では、内容からして「おかみさん」、「おばさん」と解釈するのがもっともよく合うだろう。一時期、婚期を失した女性を俗に「負け犬」と呼ぶのが流行した時期があったが、古代中国で老母を「負」としたことと相通ずるところがあるのは面白い。しかし、誰から見ても不愉快な表現であることは間違いないから、今は死語となった「刀自」を復活させて広く未婚女性を指すのも一案ではないか。
 第二の歌を通釈すると、イバラ野を刈り除けて倉を建てたいと思うので、櫛を作っておられる奥さま方よ、クソをするなら遠くでやってくださいとなり、いかにも尾籠びろうな内容であるが、戯歌ざれうたと考えればよい。この歌の前に長忌寸意吉麻呂の歌八首があり、その序に、ある宴会でキツネの吠える声が聞こえる夜中まで騒いでいたが、主催者が饌具(食事の膳に用いる用具)、キツネの声、河、橋などにけて歌を作るように命令したとあり、この歌の序にも「忌部首の數種の物を詠める歌一首」とあるから、物に寄せて詠った歌であることは間違いない。但し、注に「名忘失せり」とあり、実際に何を詠ったのか正確にはわからないが、倉、屎、櫛はいずれも音韻が「く」で揃っているので、それに含まれていたことは間違いない。また、「うばらの野」に生えているのは明らかにノイバラであり、その偽果は、第一の歌で引用した『本草和名』、『和名抄』にあるように、営実エイジツと称して瀉下薬とするから、屎と通ずるので「うばら」も物名の中に含まれていたことは想像に難くない。但し、実際におかみさんたちがイバラの野の中で尻を突き出して屎をしているではなく、単に薬とするノイバラの実を取っているのを見て茶化して詠ったと思われる。棘のある薮の中に入って用を足すとは常識的には考えられないからだ。こう考えると下品な内容の割には技巧の上で推敲に推敲を重ねたことがうかがえる。ノイバラの実すなわち営実を瀉下薬として使うのは中国にはなく、日本独自の薬方である。この薬方が万葉時代に知られていなければこのような解釈は成立しないのであるが、日本後紀に平安時代初期の大同三(八〇八)年に成立したという記録のある『大同だいどう類聚るいじゅほう』巻五十七に「久曾布世也民くそふせやみ(糞伏せ病;大便不通すなわち便秘のこと)の方として「智久麻比藥」が収載されている。すなわち、「吉田連斐太麻呂家方。もと少名彦名尊藥也。男児八九歳頃、胸痛飲食少、腹脹満肌熱、大便数日不通、或少久、通堅、肛門破痛、其後亦不通者(ふ)」とあり、その処方に「無波良美むばらのみ 加良多智からたち 一味□(欠字)」と記述されている。ノイバラの実・カラタチの二名があって、「一味を水に煎じて云々」とは矛盾するように見えるが、上の万葉歌にある「カラタチのウバラ」で、カラタチが実体のない序詞であったように、実際にはノイバラだけを用いたと思われる。『大同類聚方』は古代日本の医方を集成したといわれる唯一の医書であるが、その原本は散抶して伝わらず、現存するものは後世の偽書とする説が有力視されている。しかしながら、ノイバラの実を瀉下薬とする薬方が中国にないのであるから、いずれかの時代に日本で民間薬として発生したことは間違いない。ここで紹介した万葉歌の内容から古代日本でノイバラの実が瀉下薬として用いられたと考えても不自然さは感じられない。営実の瀉下作用はかなり強力で、神奈川県津久井郡津久井町(現相模原市)では妊婦がこれを服用すると子が堕りてしまうと古くから言い伝えられているほどである。また、『大同類聚方』巻五十七の同条に、直道藥という名で「従五位上津守連直道之方。之里不勢病(尻伏せ病=糞伏せ病)、久不通者(久しく通じざる者) 於々之乃禰オオシノネ(大黄の根)  乃牟波良乃美ノムバラノミ(ノイバラの実) 也萬之保ヤマシホ(山塩の意で、かなり強い瀉下活性のある芒硝・酸化マグネシウムなどを含む無機塩の混合物のことであろう) 女支(メギ科メギのことか) 支和太美キワダミ(ミカン科キハダの実か) 安左加保アサガホ牽牛子ケンゴシのこと) 六味水煎(六味を水にて煎じる)」という処方があり、ここにもノイバラの実すなわち営実が出てくる。この処方は『畠山本大同類聚方』だけに記載があるので、後世に書き加えられたものと思われるが、中医方の代表的な瀉下薬である大黄牽牛子あるいは瀉下性無機塩とともに営実が配合され、かなり強烈な瀉下作用を有すると思われるので、歴史的に日本人が便秘に悩まされてきたことを示唆するものとして興味深い。
 営実は『神農しんのう本草ほんぞうきょう』の上品に収載される古い歴史のある生薬であるが、営という植物の実という意味ではない。盛唐に成立した『外臺げだい祕要ひよう』の巻八に「集驗噎塞不通方」という処方が記載され、ここに配合されている生薬の一つに「營實根」の名が見える。これから植物名は営(營)ではなく營實であることがわかる。では營實の語源は何であろうか。『本草ほんぞう綱目こうもく』の釋名で、李時珍は「其子、成簇而生、如營星。然故、謂之營實」とその語源を説明している。江戸時代に出版された『本草綱目』和刻本や『和漢わかん三才さんさい圖會ずえ』はこの最初の部分を「其子、簇を成して生じ營星の如し」と訓読し、『國譯本草綱目』で鈴木眞海は「その子は簇って生える狀態が營星さながらだ」と訳読している。牧野富太郎はこの營星の意味がわからず、友人の恩田経介に書簡を送ってその意を問い質した。恩田はノイバラの熟果が赤くなることをもって、熒惑けいこくせい(今日の火星のこと)と推定し、『康煕こうき字典じてん』を引用して營が熒に通じることを突き止め、これが略されて營星となったのだろうと考えた。營と熒は字体がよく似ていて、漢和辞典を引くと、確かに熒の訓に「いとなむ」と出てくる。但し、爾雅や説文解字のような古字書には明記されていないから、もともとは間違いであったらしい。「熒」は”光り輝く”、”小さな光”という意味があるから、「熒星」であれば意味が通じるが、これでも歴代の古典字書には出てこない。また、「營星」も然りである。結局、この説にはかなりの無理があることになるが、そもそも「如營星」を「營星の如し」とあたかも「營星」という星があるかのように訓読したのが誤りであって、李時珍は特定の星に見立てて語源を論じたのではないのである。別ページ「ノイバラの実を営実というわけ」において詳述しているので参照されたい。
人屎は薬であった:朝鮮では嘗糞によって病気の診断をした
 第二の歌にずばり「屎」と詠われているのをみて、これが万葉歌だろうかと幻滅した人は少なくないだろう。「屎」を詠った歌は集中にいくつかあり、たとえば「香塗れる塔にな寄りそ川隈の屎鮒食めるいたき女奴」(巻十六 三八二八、長奥麻呂)の例があり、万葉歌にひたすらロマンを求めていた人にはショックに違いない。4500以上の万葉歌にはこのような類の歌があることも万葉集の魅力の一つなのだ。複数のものを一つの歌に歌い込むという戯歌ざれうたであるが、歌の内容が生活に密着しているため、民俗学的見地から見ると興味深い。この歌が示唆するように、当時はまだ便所というものがなかったことを教えてくれる。便所はかわやともいうが、俗説として川の上に作った川屋(水洗トイレ)に由来するという説がある。東南アジアでは、現在でもそういうところがあるが、日本では川は洗濯や炊事の重要な仕事場だから、実際には人が寄りつかないような薮の中で済ませたと思われる。ずっと時代は下るが、元禄時代の江戸では、既に公衆便所があったという。当時、田舎でも都会でもほとんどの家庭に厠があったという。これは世界的に見れば大変珍しいことで、文明の先進地という印象が強い欧州ですら、おまるが普通でトイレはなかったらしい。ウイーンのハプスブルク王朝の大宮殿でもトイレはわずか一ヶ所だったと記憶している。イザベラ・バードという英国人女性の『朝鮮紀行』(時岡敬子訳、講談社)には、「ソウルこそこの世でいちばん不潔な町だと思っていた」、「ソウルの悪臭こそこの世でいちばんひどいにおいだと考えていた」と記述されており、十九世紀末の李氏朝鮮の首都でも市内の路傍のいたるところに汚穢(糞尿)に満ちていたことを示唆している(清国の北京や紹興の方がもっとひどいともいっており、また註によれば、1897年に再び訪れたとき、税関長がソウル市長の熱意ある賛同を得て驚くべき環境整備と衛生改革を行い、著しく改善されたとある)。一方、鎖国時代とはいえ、江戸を訪れた欧州人はプラントハンターを始め少なくないが、清潔さを指摘することはあっても糞尿についての記録はない。それは日本ではトイレが発達していたからであるが、理由は至極単純で、糞尿が貴重な肥料となったからであり、江戸では近郊の農家が糞尿を買いに来るほどだった(渡辺信一郎、「えどのおトイレ」、新潮社)。昭和三十年代の半ばころまで、すなわち約50年前までは、日本の至る所の畑の片隅に肥だめがあって、実際に糞尿を使っていたのである。左写真は愛知県幡豆郡幡豆町寺部にかろうじて残っていた肥だめで、現在はカエルの住み家となっている(2008年6月28日撮影)。昔は家庭のトイレから糞尿を桶に入れて、畑まで天秤棒でかついで肥だめに貯え、必要があれば肥料として使った。今ならバキュームカーを用いるような仕事であり、つくづく当時の大人の強靱な体力には舌を巻かずにはいられない。野菜の成長期である春先の畑は糞尿の臭いが強かったのであるが、それが苦になったという記憶はない。いくら悪臭でも鼻が慣れてしまうからであろう。国土が急峻で沖積平野の発達が悪い日本の田野は地味が痩せていたから、糞尿のような有機肥料が必要であった。その当時の野菜は今でいう完全なる有機野菜であったが、一方、その副作用として当時の子供は回虫や蟯虫などの寄生虫の保有率が高く、毎年、学校では検便を行っていた。田舎であれば、一クラス五十人のうち5人ぐらいは寄生虫保有者と認定され、強制的にサントニン(駆虫薬)を飲まされた。水洗トイレがほとんど無かった時代であったから、トイレには寄生虫の死骸が塊のように蓄積されていたものであった。駆虫薬は寄生虫の卵には全く効かないから、この糞尿が畑にまかれ、野菜を通して消費者の口に入るという悪循環の繰り返しであった。高度経済成長とともに糞尿から化学肥料への転換が急速に進み、寄生虫感染もほとんど消失した。要するに、日本でトイレが発達したのは、糞尿を溜める施設として必要だったからであり、それで別の建物すなわち側屋かわやが造られ、その語源となったのである。
 糞尿の話題をもう一つ紹介しておこう。古代、糞は薬用にされた。ほとんどの人は信じないかもしれないが、本当の話である。『名醫めいい別錄べつろく』に「人糞じんぷん」の名が初見し、唐代の国選本草書『新修本草』に「人屎、諸毒をつかさどる。惡熱、黃悶、死なんと欲する者をふ。新たなる者は最效なり、須く水を以て和し之を服すべし。其の乾したる者、之を燒きて煙絶(臭いを絶つこと)し、水に漬けて汁を飲み、破棺湯と名づく」と記述されているから、当時は立派な薬として認識されていたのである。日本でも『本草和名』に人屎ひとくそというのがあって、「人屎 楊玄操音許伊反又舒視反 黃龍湯 陶景注云甖中積年得汁甚黑而苦者名也 破棺湯 其干者燒之水漬汁名也」とあるが、これは中国の本草書を引用しているだけだから、本当に使ったかどうかはわからない。江戸時代の民間医療書である『和方わほう一萬方いちまんぽう』に「指腫タルヲ治ル方」として「人ノ糞ヲ器ニ入レソノ上ヲ厚キ紙ニテ張リ痛指ノ入程穴ヲアケテソノ内ニ指ヲサシ入アタヽムヘシ」とあり、どの程度の使用されたかわからないが、薬として機能していたことは確かなようだ。インドの伝統医学アユルベーダでは、人屎は薬ではなかったが、その色や臭いから病気の診断をした。これと似たことは朝鮮の民間医療でも実践され、嘗糞しょうふん(상분)と称されたように糞を嘗めてその味で病気の診断をした。もともとは中国の一部地域で実践されていた診察法であり、日本では定着しなかったが、朝鮮では広く実践された。日韓併合後、朝鮮総督府はこれを禁止したが、寄生虫や伝染病の予防の上ではやむを得ない処置であった。