もう60年近くになろうか、小生がまだ中学3年生の時に読んだ短編小説のある一節がどうしても理解できず、脳裏に深く刻まれていまだに忘れられない。いつかは詳しく調べてそれがどういう意味なのかあるいはどう解釈すべきなのか明らかにしようと思ったが、高校時代は受験勉強を優先し、大学は理系に進み大学院を経て研究職についたため先延ばしにせざるを得なかった。だが転機は定年まで余すこと約10年というときにやってきた。『万葉集』や『源氏物語』などわが国の代表的な古典に登場する植物古名が今日のどの植物種に相当するのか興味をもつようになってからだった。最初はごく趣味の範疇にとどまっていたが、そのうちに先行研究の見解に疑問をもつようになり、根底から再検討してみようという気になったのだ。すなわち自分の研究テーマに取り込んで本格的に研究するということであり、生薬学・薬用植物を専門とする研究者の立場からすれば自然の成り行きと思い込んでいたから、けっして敷居が高いという感触はもたなかった。とはいえ見かけ上は理系から国文・中文の文系領域へ“領空侵犯”することに等しく、以下の論考の参考になると思われるので、ここで研究手法のあらましを述べておく。植物古名は『和名抄』、『本草和名』などの平安期の典籍で漢名と和名が対比されており、先行研究は基本的に近世の本草書『本草綱目』(明・李時珍)の記載を最重要視して今日の植物名を比定している。著しく違和感を感じたのは近世以降の史料に基づいて上中古代の古典植物名が比定されているところにあった。植物名の中には時代によって名前が著しく変遷する例が少なくないからだ。とはいえ、先行研究の比定を覆すには漢名の出典となる本草書や古字書ほか、『詩經』などの漢籍経典文献までを博捜し、それらを原文で読み解いて内容を詳細に解析しなければならないなど、実務上では敷居は相当に高くなる。そうしないと研究内容について学際的な理解や信頼を得るのが難しいからだ。漢名を詠み込む漢籍詩文や植物古名を含む国書古典や歴史史料も同じ俎上に上げるので、当然ながら当該の記述の情景分析を通して植物名の比定が妥当であるか判定を迫られることになる。その結果として紆余曲折を経て本格的な国文・中文系の研究にまで参入したのであるが、皮肉なことにとんとん拍子に仕事が進みすぎたのであろうか、新規知見をまとめ上げて著作(トップページ参照)を執筆するのに手いっぱいとなり、気がついたときは既に老境への入り口(後期高齢者)に差し掛かっていた。もはやこれ以上先延ばしにしたら墓場まで持ち越しかねないので、一念発起して60年越しのテーマについて博捜、考証を試みるに至ったのである。そのテーマを提供してくれた短編小説とは明治の文豪国木田独歩(1871―1908)の「鹿狩り」であり、わずか9000字ほどの短編であるゆえ、義務教育でも恰好の教材と目されたのであろうか、中学国語の教科書に全編が掲載されていた。この短編はどうやら独歩の実体験に基づくらしく、文中の登場人物、それに“かの字港”とか“つの字崎の浦”など文中に見られる奇妙な地名も実際に存在するようで、独歩研究家によって周辺の実在人物、実地名と対応されているという。ストーリーの展開等については別府大学工藤茂教授の“独歩「鹿狩り」について”で詳細に論述されているので省略させていただく。「鹿狩り」は中学生にも十分に理解できる平易な口語文であり、ストーリーの展開も奇異なところはまったくなかったのであるが、恥ずかしながら内容は把握していなかったし記憶にすら残っていなかった。しかしながらその中のごく一部が小生のアンテナに鋭く感知したようで、60年近くもの長きにわたって脳裏に焼きついたのである。その件の一節は以下をここに引用する。
さて弁当を食いしまって、叔父さんはそこにごろりと横になった。この時はちょうど午後一時ごろで冬ながら南方温暖の地方ゆえ、小春日和の日中のようで、うらうらと照る日影は人の心も筋も融けそうに生あたたかに、山にも枯れ草雑りの青葉少なからず日の光に映してそよ吹く風にきらめき、海の波穏やかな色は雲なき大空の色と相映じて蒼々茫々、東は際限なく水天互いに交わり、北は四国の山々手に取るがごとく、さらに日向地は右に伸びてその南端を微漠煙浪のうちに抹し去る、僕は少年心にもこの美しい景色をながめて、恍惚としていたが、いつしか眼瞼が重くなって来た。傍らを見ると叔父さんは酒がまわったか銅色の顔を日の方に向けたままグウグウといびきをかいていた。
前述したように、「鹿狩り」は中学3年次の国語教科書に掲載されたものを、授業の一環として学んだにすぎず、自らの意思で選択して読んだのではない。当時の教科書はもはや残っていないので、ここに引用した一節は岩波文庫『武蔵野』(岩波書店、2006年)に収録された「鹿狩り」(1898年発表)から引用したことをお断りしておく。今さらながらに読み通すと、この一節はわずか3つの文章からなるにすぎず、そのうちの第2の文章がやたら長い。そういえば教師から指名されて朗読したとき、どこで息抜きすればよいのか戸惑ったことを今でも鮮明に覚えている。独歩は病没の直前に発表した「病牀録」(1908年)の中で「余が思想上の感化は、英のカアライル、ウオヅオース等より、作品上の感化は、ツルゲネーフ、トルストイ、モウパッサン等より享受せり」(国木田独歩全集 巻9 76)と書き記しているほどだから、長い文節は西洋文学の影響によるのかもしれない。ただし、現代作家の作品でもびっくりするほどの長文が散見されるから独歩だけが突出しているわけではない。敢えて名指ししないが、著名作家の中に散見される、読者にわざと理解しづらく書いているのかと思わせるような長い文章に比べれば、独歩の当該の一節は自然に情景を思い浮かばせるような心地よい文脈であり(ただし、当時ではなく現在の感想に基づくことをお断りしておく!)、中学生には難解すぎる語彙を含んでいても不思議とわかったような気がする(難しい語彙には平易な和訓がつけられているのでわかりやすい)ゆえに末長く印象に残ったのだと思っている。当時の教師はそれを単に美文体と説明したが、中学生の知識では正しい理解は期待すべくもなかった。平たくいえば美辞麗句を交えた文体をいうのだろうが、今更ながらに高校時代の文学史の参考書を紐解くと、田山花袋の『美文作法』の影響を強くうけ、背後には明治20年代に流行した西洋文学の影響をうけた写実主義的文脈があり、前時代までの定型的で観念色の濃い描写から脱却しようとする新文学の潮流と説明されている。もっとわかりやすくいえば伝統的な東洋絵画から脱却してルネサンス以降の写実的絵画へ移行した美術界の潮流と同じ延長線上にあるということであろう。また、前述したように、際限→“はて”、恍惚→“うっとり”、眼瞼→“まぶた”にみられるように、漢語に口語体の和語でルビをつけ文語体を排して口語体に溶け込ませるような記述法は全編にわたってみられる特徴であり、それゆえに「鹿狩り」は中学の国語教科書に採用されたのであろう。対照的に、蒼々茫々・微漠煙浪・銅色は漢語そのままに音読みの訓をつけ、前後を通してこの部分だけが浮き上がった存在に見えてしまう。前二つの成句は和語でぴったりとくる表現がないからであろうが、銅色には“あかがねいろ”という上代からのりっぱな和語があるにもかかわらず、“どうしょく”と読ませるのは奇異に感じる。というのは、自分が中学生のころは銅のことを“あかがね”と普通に呼んでおり、その数年前の伊勢湾台風で電柱が倒れて電線がずたずたに切断され、そこらじゅうに散乱している“あかがね”を集めるのが当時の義務教育の生徒にとってけっこうなお小遣い稼ぎのかてだったからだ。現在では考えられないが、当時、廃品回収において銅は価格が高く設定され別格の存在だったのである。とりわけ意味がわからなかったのが「微漠煙浪のうちに抹し去る」という表現であり(蒼々茫々は辞書で調べて意味がわかったが、微漠煙浪は載っていなかったのだ)、「銅色」とともに不思議に自分の頭の奥底に叩き込まれ60年近くも忘れ得なかったのである。以下、“微漠煙浪”と“抹し去る”に分けて博引旁証した結果を示すが、結論を先に言わせてもらえば、国文・中文領域に進出する前だったらまったく歯が立たず結果を出すに至らなかっただろう。また、50年以上も具体的な答えを見出し得なかった別の疑問も、後述するように考証の途上でたまたま有力なヒントに遭遇し、かなりのレベルまで追求できたことも併せて述べておく。
本論に入る前にお断りしておく。WEB上で本ページを参照するにはunicodeをフルサポートしたフォントでなければならないことである。MS明朝、ヒラギノ明朝など現今のフォントの多くはPC上ではほぼ問題なく表示できるが、携帯電話やタブレットなどモバイルではunicodeをサポートする同名のフォントであっても、収録数に制限があり表示できない字があるので、なるべくPC上で参照することをお勧めする。
I.“微漠煙浪”と“微茫煙浪”
1.漢籍に用例のある“微茫煙浪”と辞書にすらない“微漠煙浪”
“微漠煙浪”はれっきとした成語(四字熟語)のように見えるが、結論を先にのべておくと、漢籍古典・国書のいずれにも見当たらない独歩オリジナルというべき用語である(正確には“微漠”のみだから半分というべきかもしれない)。成語ではなく単なる複合語としても、後ろ半分の“煙浪”は「もや(かすみ)が立ち込めて煙ったようにはっきりしない水面」の意で、同義の煙波とともに唐代以降の詩文に多出する漢語であるが、“微漠”は漢籍に用例がないのみならず、古今の国語辞典や『大漢和辞典』にすら収録されていない。ただし、現代中国語では“微漠”は使われており、その意は「形容感情麻木(薄くて無関心で、感情のしびれを表す)」とされている(漢典による)。その意味からして心理描写にのみ用いる語彙であることはまちがいなく、独歩の美文体全般を通じて鮮明な叙景表現とはまったく相容れないので、現代中国語から導入した可能性は排除してよいかと思う。“微漠”についてもう一つ解せないのは独歩の原作では“漠”を“ぼう”(旧仮名遣いでは“ばう”)と読ませていることである。国語における“漠”の公式の読み方は“ばく”であり、ほかにその転訛である“まく”“みゃく”という読みもあるが、“ぼう”と読む例は見当たらない。中国最古の辞書『爾雅』・釋詁に「靖 惟 漠 圖 詢 度 咨 諏 究 如 慮 謨 猷 肇 基 訪、謀也」とあり、郭璞の注釈によれば肇を除いてすべて『詩經』の用例に基づくという。確かに小雅・巧言(一時、流行語となった忖度の出典として有名になった)の第四スタンザの第二句に「秩秩たる大猷 聖人之を莫る」(詩の背景が複雑なので詩意は省略する)とあって、“莫”は“はか(謀)る”と訓読されている。“莫漠、音義同じ”という古注によれば“漠”は“謀”に通じるから、音も“ぼう”と読ませることは可能かもしれない。しかし、“謀”の意を暗示する“漠”を用いたところで、当該の美文体がかもしだす“微漠煙浪”の情景と相容れないのは致命的である(後述)。ただし、“ぼう”の音と字義の両方を満足させるような恰好の用例が一例ながら漢籍に存在する。それは晩唐の詩人李群玉(813―860)の次の一首(『全唐詩』 巻570)に詠まれた“微茫煙浪”である。
南莊ノ春ノ晚二首 李群玉
連雲ニ草映ズ一條ノ 陂
鸂鶒雙雙ト帶レビテ水ヲ飛ブ
南村ノ小路ニ桃花落チ
細雨斜風ノウチ獨自歸ル
草暖カニ 沙 長ク望二メバ去舟一ヲ
微茫煙浪ノウチ向二カフ巴丘一ニ
沅江寂寂トシテ春歸レシ盡クルニ
水綠ク 蘋 香リテ人自カラ愁フ
まず作者について簡単に説明しておく。澧州(現湖南省澧陽県)の人。杜牧の詩「李群玉の舉に赴くを送る」(『全唐詩』 巻523)にあるように、大中年間に唐政府宰相の裴休の推薦(いわゆる貢挙による推挙、李群玉は没後に進士を追贈されたから科挙には合格していない)によって一旦は任官して校書郎(書物を校勘する官職)に登用されるが、間もなく辞して郷里に帰り隠遁生活を送ったいわゆる隠士(俗世間との交渉を断って暮らす孤高の人、唐代には隠士と還俗を繰り返す文人も少なくなく、曽隠士人と呼ぶことがある)である。簡単に語句の説明をしておく。まず詩題の南荘は町の南にある屋敷のこと。この詩は二首とあるように、二つの七言絶句を一体化して詠んだもの。第一首の語句は以下の通り。鸂鶒は鴛鴦(おしどり)またはそれに似た鳥で、ここでは取り敢えずオシドリとしておく。細雨は小雨、斜風は斜めに吹き付ける風のことで、合わせて横なぐりの雨をいう。獨自は一人。第二首の冒頭の“草暖”は、早春に萌え出たばかりの草は黄〜黄緑色の暖色系であるゆえ、暖かさを感じさせるということで初春の情景を観念的に暗示する。“沙”は砂の意だが、ここでは川沿いの砂浜を指し“水際”と解釈する。巴丘は現湖南省岳陽市の一帯で、北に長江、南に洞庭湖がある。沅江は沅水とも称し洞庭湖に注ぐ大河。“歸盡”は「尽きるという結果になる」という意味で、前後関係によって“死へ帰り着こう”とか“死んでゆこう”などさまざまに解釈される難解句であるが、ここでは初春からの時の流れに関連するので“過ぎ去る”という意味になる。一般に“蘋”は水生シダ植物のデンジソウに充てられている(『和漢古典植物名精解』)が、沅江という大陸の大河であることに鑑みて広く水草の意と考え、“うきくさ”と解釈しておく。本詩の通釈は以下の通りになる。
【詩意】南荘の春の晩に詠んだ二首
空には雲が連なり一筋の土手に草が引き立ってみえる中で、オシドリが連れ立って水をほとばしりながら飛び立っていった。一方、南側の村の小路にはモモの花びらが落ちて、小雨を混えて斜めから風が吹き付ける中を一人で寂しく帰る。とはいえ萌え出たばかりの草は暖かさを感じさせ、長い沅江の水際にはるか去り行く船を眺めやると、水面が煙ってかすかでぼんやりしている中を巴丘に向かっているようだ。沅江は春が過ぎ去ってひっそりすると、水が碧く浮草が香るようで、そうなると人はなぜか気がふさぐように感じられるのだ。
詩の内容はわかりやすく説明の必要はないと思われるのでさっそく本論に入るとする。第二首の第二句に“微茫煙浪”が詠み込まれているのであるが、“かすかでぼんやりしている”という意味の“微茫”と、“かすみで煙ったようにはっきりしないさま”という意味の“煙浪”という、どちらもよく似た意味の語彙を組み合わせた複合語である。したがって仮に一方が欠けても意味は基本的に変わらないので成語(四字熟語)として扱うのは適当ではない。第二首(後半の四句)は暖かな初春の沅江のかすんで広大な水面の中を巴丘の方向に向かって去り行く舟の情景を詠むが、穏やかな海と蒼い空とが相交わるその先に日向地が吸い込まれるように視界から消えるという独歩の描写との共通点が見出され興味がもたれる。すなわち独歩の当該の記述は李群玉の「南莊春晩」を換骨奪胎した結果と考えることさえできるわけで、それを視野に入れて考証する必要があることになる。仮に独歩が“微茫”を“微漠”と置き換えたとして、いかなる意図をもっていたのか明らかにしなければ画竜点睛を欠くことになろう。まずは常法にしたがって漢籍古字書における“茫”と“漠”の字義から検討する。『古今韻會舉要』に「茫 謨郎切宮次濁音 茫茫は廣大なる貌、本は芒に作る」とあり、一般の漢和辞典にある「果てしなく広い」という意味はこれに基づく。『釋名』に「望 茫也。遠視茫茫也。」 (釋姿容、原典では“茫”は異体字となっている)とあるのも基本的に同じであり、遠望を前提として表した表現であることが明確となる。また、“芒に作る”ともあるが、芒はもともと植物のススキを表す用字である。ススキは森林の発達が困難な乾燥性の気候のもとでは草原植生の頂点に位置づけられる植物であり、しばしばススキを優先種とした広大な草原を形成する。したがって芒芒が広大なさまを意味するのはかかる漢土の文化的な風土が背景にあると考えられる。漢土とは違って湿潤気候の風土のわが国においても茫(芒)という表現を用いる条件はそろっている。確かに日本列島では森林が安定した原生の生態系であり、草原生のススキの自然植生はきわめて限定的な存在であるが、野焼きで人工的に裸地状態にすれば植生遷移によってススキを主体とした草原植生は成立し得る。ススキは冬季に地上部が枯れて燃えやすいので、毎年、新芽が出る前に野焼きを繰り返せば広大なススキ原を持続的に維持できるからだ。したがって『古事記』を含め国書古典に広大なカヤ原と野焼きを示唆する記述が散見されるのはその証左であり (『和漢古典植物名精解』 第3章第7節)、わが国においても“茫”を“芒”に置き換えてもけっしておかしくはないのである。一方で“漠”は、『説文解字』に「漠 北方の流沙也。一に曰ふ、清也。」(巻12 水部)とあるように、“茫”とは対照的に広大荒涼たる岩石混じりの砂原を表し、文字の構成が“氵(水)が莫い”となっているのと無関係ではないように見える。“漠”は“清い”、“静か”という意味も併せ持つ。『淮南子』・脩務訓に「無爲なる者は、寂然として聲無く、漠然として動かず。之を引くも來らず、之を推すも往かず。」とある“漠然”は「静かで安らかなさま」の意であり、古くはそれが主たる意であったと思われる。今日では茫然・漠然のいずれも「広大なさま、つかみどころがないさま」として生命感の有無を問わず用いられるので、その使い分けは必ずしも明確ではない。したがって独歩はそれを承知した上で“微茫”を“微漠”に置き換えたとも考えられよう。独歩の美文体の情景は日向地が春先のもやがかかった海水面の彼方に吸い込まれるように見えなくなるのであるから、ススキ原の生命感を彷彿させる“茫”よりも無機質で単調な砂原をイメージする“漠”の方がふさわしく、“ばく”が“ばう”に転訛し得る可能性もあると考えた上で、敢えて音をそのまま残したとも推測し得る。この仮定に立つとすれば、“微漠煙浪”とともに用いられた“蒼々茫々”は、同じ海の情景を表すにもかかわらず、用字が中途半端に見えてしまう。興味深いことに、漢籍詩文では“茫茫”、“漠漠””という形で頻出するので、別紙のPDFで『全唐詩』から抽出した用例を示しておく。茫茫・漠漠の用例は一般典籍にも見られるが、情景描写の多い詩文で解析するのがもっとも適切と思われ、その中で『全唐詩』を検証文献の対象として選定したのは「中國哲學書電子化計劃」に収録され、自在のキーワードによる全文検索が可能だからである。
2.“漠漠”および“茫茫”
諸橋轍次等編著『新漢和辞典』(大修館書店 1963年)によると、茫茫および漠漠の意は次のようである。前項では“茫”・“漠”は“広大なさま”の意のみを挙げたが、以下に示すように“茫茫”・“漠漠”のいずれにおいても共通する。一方で、『全唐詩』から抽出した茫茫・漠漠を含む各連(別紙のPDF)を解釈すればわかる(前後の連を含めて検討するのが好ましい)ように、情景描写においても“広々”以外の意で用いられる例が少なからずあり、時に心理描写に関連する意すらあるので、先入観を排して解釈するのが望まれる。
●茫茫 ①広大なさま・広々としたさま ②遠いさま・
はてしないさま ③盛んなさま ④明らかでない
さま ⑤目がはっきりしないさま ⑥うみつかれ
るさま
●漠漠 ①一面に続いているさま・平らに連なっている
さま ②広々として果てしないさま ③草木の一
面に茂っているさま ④ひっそりとしているさ
ま・声のしないさま ⑤さびしいさま ⑥ぼうっ
として薄暗いさま
取り敢えず情景描写の鮮明な例として比較検討する観点から、唐詩の中から著名詩人による漢詩を二首ずつ、“漠漠”の例に杜甫の「灩澦」(『全唐詩』 巻229、以下、本ページで引用する漢詩はすべて『全唐詩』に由来するので巻数だけをしめす)および王維の「積雨輞川莊作」(巻128)、“茫茫”の例に白居易の「草茫茫」(巻427)および李白の「早春寄王漢陽」(巻173)を紹介する。茫茫・漠漠の間に前項で推定したような意味の差があるのか、『全唐詩』の全用例を俯瞰した結果も踏まえて考えてみる。
2-1.杜甫の詩における“漠漠”の例1
灩澦 杜甫
灩澦旣ニ沒シテ孤根深ク
西來水多ク愁二ヘシム太隂一ヲ
江天漠漠トシテ鳥雙ビ去リ
風雨時時龍一吟ス
舟人漁子歌ヒテ回レラシ首ヲ
估客胡商淚滿レツ襟ニ
寄レス語ヲ舟航ノ惡年少ニ
休下メヨト翻二ヘシテ鹽井一ヲ擲中ツヲ黃金上ヲ
この詩は内容的にかなり難解で中国文化について深い素養がないと正しく理解できないだろう。まず詩題の灩澦については、同じ杜甫によって詠まれた「所思」(巻226)に「好く過ぎよ瞿塘灩澦堆」とある長江三峡の一つ瞿塘峡にある岩堆のことで、古来、舟航の難所として知られ、四川省重慶市奉節県の東方に所在する。やはり杜甫が詠んだ「長江二首」(巻229)に「孤石隱れて馬の如く、高蘿に飮猿垂る」とあるのは、大きな岩(孤石、一枚岩の意)が長江の水位によって水面に大きく現れたり没したりすることをいい(“馬の如く”とは水面上の岩をいい、隠れたぶぶんではない)、雨季・乾季によって長江の水位は激しく上下することを知らないと理解できない。因みに後句は峡谷の高い岸壁からツル(蘿)が垂れ下がり、サルがそれに伝わって水面まで降りて水を飲むというのである。孤根は灩澦堆という孤石の水面下にある部分をいい、“孤根が深い”というのは水位がそれだけ高くなっていることを示す。太隂は、通例、陰陽思想において陰の気の極をいうが、この詩では西方の長江上流から来る水に言及しているので(西・水のいずれも陰の気とされる)、水をつかさどる神すなわち水神(一般には龍神といわれる)を暗示すると考えられる。江天は長江の上の空、漁子は漁夫(漁師)、估客胡商は商人と外国からの商人を併せていう。惡年少はそのまま字義を解釈すればいわゆる悪ガキであるが、前後関係からすれば素行の悪い人一般と解釈すべきである。“翻鹽井擲黃金”は“鹽井”の字解と当時の中国において塩がいかなる存在であったか知らなければ理解できない。まず鹽井(新字体では塩井)は塩水の湧き出る井戸のことで四川省・雲南省に多いという。化学でいう塩は酸と塩基との中和反応によって生ずる化合物であり、地球上にはさまざまな種類が知られているが、そのうちで人間の生活にとって重要なのは塩化ナトリウムを主成分とする海塩である。いわゆる岩塩の鉱脈は数百万年〜数千万年の時間的スケールで海水が蒸発して海塩が堆積し、激しい地殻変動で堆積塩層が地下深く没したものである。地面から吸収された雨水は不透水層によって浸透が遮られ地下水脈を形成するが、岩塩のあるところでは塩分を溶かすので、地表から地下水脈まで掘り当てれば海水とほぼ同じ組成の塩水を汲み上げることができる。杜甫はその塩井を詩題とした詩「鹽井」(巻218)において「鹵(塩分を含んだやせ地、この場合の塩分は海塩と必ずしも同じではない)中の草木白く、⾭なるは官鹽の煙なり 〜公に自れば鬥三百 轉た致して斛六千〜」(訓読については後に改めて検討する)と詠んでおり、これによって当時の中国の塩井の経済的な意義が知られる。海に囲まれたわが国では考えにくいが、海から遠く離れた大陸の内陸では岩塩の鉱脈を掘り当てるか、深い井戸を掘って塩水を汲み上げて煮沸、濃縮しなければ塩を入手できない。したがってかかる地域では塩は貴重品であることに留意する必要がある。ただし、「鹽井」もまた相当な難解詩である。まず“鬥”は“とうがまえ”という部首の名であるが、“たたかう”・“あらそう”という意味をもつ独立した漢字でもある。しかし、この義では“自公鬥三百”が何を意味するのかさっぱりわからないだろう。次句に“斛六千”とあって枡の容量単位「斗斛」を推量し得るので、後世に編纂された杜甫詩集『杜少陵集』などは最初から“斗三百”と表している。とはいえ“鬥”と“斗”との間に何らかの関連性がなければ鬥→斗とはしないだろう。この問題は小生が先延ばしにしてきた別の50年来の難問とも関連するので段落を改めて考えてみたい。
“鬥”は「たたかう・あらそう」という意があるので、“鬭”(鬪の本字、新字体では闘と表す)と同義であることが容易に知られるが、『説文解字』・『爾雅』・『廣韻』ほか主たる古字書からは“鬥”と“斗”との関連を示す手がかりは見出せない。そのうちでただ一つ『康熙字典』は『篇海』(金・韓孝彦・韓道昭編)を引用して“鬭”の俗字を“鬦”としているので(ただし現存本の『成化丁亥重刊改併五音類聚四聲篇海』ほか類書にこの記載は見当たらない)、その略字として“斗”を充てたと推測される。『全唐詩』には鬪雞や鬪牛に鬥が用いられ、無論、これは“たたかう”の義であるが、「茫茫たり鬥星の北 威服すること古來難し」(呂舍人・喜張員外、北より番回して境上に至るに和し,先づ二十韻を寄す 巻333 楊巨源)とある“鬥星”は“斗星”としなければまともな解釈は難しい。斗星は北斗七星と南斗六星を指すが、柄杓の延長線上に北極星があって方位の指標として重大な存在なので前者の意と考えられる。古来、中国の北方は漢民族に帰順しない異民族の領域であり、その侵入を食い止めるために万里の長城が建設されたことはよく知られ、この詩は北方異民族との争いに言及した。ただし、『全唐詩』には「錯落す北斗星 照り耀く黑水の湄」(梁州を過ぎ張尚書大夫公に贈り奉る 巻198 岑參)とあるように北斗星の名も散見される。小生の学生時代は学園紛争が勃発、当時の学生が好んで用いたのが“斗争”や“斗う”なる用語であり、それより10年ほど前に頻発した労働争議でも組合がごく普通に用いていた。しかし当時の一般的辞書はこの用字を載せず、その由来そして用字の正当性はさっぱりわからなかった。ただ1970年前後の学園では一部のセクト(学生運動の集団)が中国共産党の機関紙である“人民日报”を配布しており、“斗争”という大きな見出しをよく目にしたので中国語由来であることはわかっていた。毛沢東以降の現代中国は基本的に繁体字を簡略化した簡体字を国字として採用したが、“斗”に関しては『康熙字典』に基づいて“鬦”を略字化したらしいと推定はできても、なぜ“鬭”の“斲”が“斗”に置き換えられたのか新たな疑問が浮上する。『康熙字典』によれば、“斲”の音は“琢”(『正韻』を引用)であり、『説文解字』に「斲 斫也。从斤、𠁁(音はトウ、斲のから右の斤を除いた字)。」とあるように、“うつ・伐る”の義であってやはり“斗”との関連性は見出し得ない。“鬪”の“豆+寸”およびその本字である“尌”は『説文解字』によれば、「立也。从壴从寸,持之也。讀若駐。」とあるように、“立つ”の義で樹に通じ、それゆえに“(木を)伐る”の意となるらしい。結局、斲と斗に関連性があるのかまだ解明しなければならない点が残されているが、50年来の疑問をかなりのところまで追跡できたのは「独歩の微漠煙浪」の考証プロセスから派生した予期せぬ副産物ともいえる。再び“鬦”に戻るが、幅の音符をとって略した“巾”(布切れの意で幅とはまったく字義は無関係)は国字として認知され、『大漢和辞典』ほか主たる漢和辞典はその字義を載せているが、斗は闘(=鬦、鬪、鬭)の略字として認められず、ごく一部の漢和辞典・国語辞典が慣用略字”(あるいは現代中国語から導入)と記載するにとどまる。ついでながら付記しておく。わが国古代の正倉院文書に“斗斛”の記録が見えるので、中国でももともとは“斗”であったことは論を俟たない。すなわち杜甫も“斗三百”と詠んでいたはずで、のちになって“鬥三百”となったのである。本ページにいう『全唐詩』は、康煕帝の命を受け、明・胡震享編『唐音統籤』、清・季振宜編『全唐詩』(1673年、御製の『全唐詩』とは別の私製本) を底本として個人の別集など読本を参照して収録し、校訂および補正を加えて成立したもので、必ずしも古態を表しているわけではない。“斗”と“鬥”が混在しているのも以上の事情に基づく。
再び「鹽井」の語彙の説明に戻るとして、“轉致”の語義もわかりにくい。“自レ公”との対句の体裁に見えるから、“轉レ致”と返点をつけて訓読した方がバランスがよいのであるが、それでは今一つ意味が通じない。“轉”にはある状態が進行して甚だしくなるさまの意があり、“うたた”という副詞形で用いることがあるので、公(政府)から払い下げを受けたときの価格が塩転がしでどんどん高くなるという意にとることができる。そうすれば杜甫が「鹽井」の詩でいわんとするところとの整合性も申し分ない。再び杜甫詩「鹽井」に戻るが、塩井から汲み出した塩水を煮詰めて塩をつくるのは官業であって、商人は一斗当たり三百銭(文)で払い下げを受け一斛当たり六千銭(文)で転売するというのである。唐代の一斛は現在と同じ十斗であるから、商人は仕入れ価格の二倍で消費者に売りつけたことになり、杜甫にはそれが暴利とうつったようだ。“翻へす”もわかりにくいが、裏返しにする・反対のことをするという意だから、ひたすら金儲けで貯め込むことの反対といえば、塩の販売で得た利益を何らかに全部つぎ込むということであろう。“擲黃金”は普通に考えれば財産を差し出すとかなげ捨てるという意になるが、“悪たれの所業”といえば今も昔も博打と相場が決まっており、それならばあっという間に散財する。以上を踏まえてこの詩を通釈すれば次のようになる。
【詩意】灩澦
灩澦堆の岩は既に水中に深く没した。西方の上流からの水が多く水をつかさどる神様も思い悩ませることだろう。江上の広々とした空に鳥が並んで飛んでいき、風雨でときどき龍の鳴き声のような音が聞こえる(のは水神が愁えているからだろうか)。一方で、舟人や漁夫は首を回しながら陽気に歌っているが、国内外の商人は悪天候で難所を無事に通過できるか心配で襟にまで涙が流れている。同じ舟に乗っている悪たれどもに一言ってやりたい、塩の取引でもうけた利益を博打につぎ込んで黄金を棄てるようなことをやめよと。
2−2.王維の詩における“漠漠”の例2
積雨ノモト輞川莊ニテ作リキ 王維
積雨空林、煙火遲ケレドモ
蒸レシ 藜 ヲ炊レキ黍ヲ 餉 二ス東菑一ニ
漠漠タル水田ニ飛ブ白鷺
隂隂タル夏木ニ 囀ル黃鸝
山中ニ習靜シテ觀二テ朝槿一ヲ
松下ニ淸齋シテ折二ル露葵一ヲ
野老與レ人爭レヒテ席ヲ罷ル
海鷗何事ゾ 更 メテ 相疑 ハン
積雨はしとしと降る長雨のこと、輞川は陝西省藍田県にある地名で、王維はここに別荘をもち、輞川荘と称した。空林は木の葉の落ちた林、人里離れた林、人気のない林の意があるが、長雨というから人気がない林と解釈するのがよい。煙火は前後関係から煮炊きほか食事の支度に付随して出るけむりをいう。“藜”はヒユ科アカザで食用になり、『和名抄』の野菜類に収録され、阿加佐の和訓をつける。本草では蒺藜子、藜蘆なる“藜”の名をもつ品目は古くからあったが、アカザそのものは『本草綱目』(李時珍)で初めて“藜”の名で「菜之二 柔滑類」に収載された。“餉”はかれいすなわち弁当のことだが、この場合は動詞だから食物をおくるという意であることに留意。習靜は坐禅などをして心を静めること。東菑の“菑”は荒れ田や荒地のこと、おそらく輞川荘の東方にある開拓地をいうのであろう。黃鸝はコウライウグイスといわれる。『太平御覽』に「詩義疏に曰ふ、黃鸝留なり、或は黃栗留と謂ふと。幽州之を黃鶯と謂ひ、或は之を黃鳥と謂ひ、一名倉庚、一名商庚、一名鵹黃、一名楚雀。齊人は之を搏黍と謂ひ、關西之を黃鳥と謂ふ。常に椹(クワの実)の熟する時を以て來り、桑の間に在す。此れ乃に節に應へ時に趣くの鳥なり。或は之を黃袍と謂ふ。」(羽族部十 倉庚)とあり、多くの異名で呼ばれる瑞鳥とされていたことが知られる。朝槿はアオイ科ムクゲのこと。朝を冠するのは、『説文解字』に「蕣は木菫、朝に華さき暮に落つる者なり」とあるように、古来、朝に花を開く植物と考えられたからである。淸齋は物忌み、潔斎に同じで、酒肉・五辛などの飲食をつつしみ、淫欲を断ち、沐浴などをして心身を清める仏教の戒律の一つ。野老は田舎のおじいさん、あるいは老人が自分を謙遜卑下していう語で、この詩では王維自身を指す。“爭席”は座争いに同じで地位や席次などで争うこと。海鷗はカモメ、この場合はライバルたちを暗示する。露葵は、『本草綱目』によれば冬葵・蓴の異名とあり、野菜類のフユアオイ(あるいはタチアオイ)と水菜類のジュンサイの可能性があるが、“折る”という動作から前者である。王維の詠んだ別詩「春、賀遂員外の藥園を過ぐ」(巻127)に「蔗漿(サトウキビの搾り汁)、菰米の飯 蒟醬(コショウ科キンマ、アジアの熱帯地域ではこの葉に檳榔樹の果実を石灰にまぶしたものを嗜好品とする)、露葵の羹」とあり、煮て羹にして食した(『続和漢古典植物名精解』 1369頁と1512頁参照)。
【詩意】長雨が続く輞川莊で作る
長雨で林には人影がないせいか、食事の支度も遅れ気味だが、アカザを蒸しキビを炊いて弁当を作って野良仕事に持っていく。広々としてもやっとした水田でもシラサギが飛んでいるのは見え、一方、緑の葉がよく茂る夏の木々にはウグイスがさえずっている。そんな豊かな自然に恵まれた輞川の山中で自分は心静かに朝に開花したムクゲを観て、マツの木の下では物忌みで身を清めてからタチアオイを折り取るのを日課としているのだ。こんな生活をしていると、自分のような田舎者の老人が人と出世争いなどするのはばからしくなってくるが、カモメではあるまいし、お互いに疑心暗鬼なのはどうしたことだ。
2−3.白居易の詩における“茫茫”の例1
草茫茫 「懲二ラス厚葬一ヲ也」 白居易
草茫茫タリ 土蒼蒼タリ
蒼蒼茫茫在二ラン何處一ニカ 驪山ノ腳下秦皇ノ墓
墓中ノ下ニ涸二ラシ二重ノ泉一ヲ 當時自カラ以テ爲二ス深固一ト
下ニ流二シテ水銀一ヲ象二リ江海一ヲ 上ニ綴二リテ珠光一ヲ作二ス烏兔一ト
別ニ爲三リ天地ヲ於二其ノ間一ニ 擬下フ將二テ富貴一ヲ隨二ヘテ身一ニ去上ルニ
一朝ノ盜掘ニ墳陵破ラレ 龍槨神堂三月火ク
可レシ憐レム寶玉歸二シ人間一ニ 暫ク借二リテ泉中一ヲ買二フ身禍一ヲ
奢レル者ハ狼藉セラレ儉シキ者ハ安ジ 一ハ凶、一ハ吉、在二リ眼前一ニ
憑レム君ニ回レラシ首ヲ向レキテ南ニ望ムヲ 漢文葬ラレ在二ラン霸陵ノ原一ニ
厚葬とは一般に手厚く葬るという意であるが、この場合は壮大な陵墓をみて華麗にすぎると非難しているのである。驪山は陝西省西安の東方にある山で、秦皇すなわち秦の始皇帝の陵墓の所在地として知られる。『漢書』の楚元王傳に「秦始皇帝、驪山の阿に葬られ、下に三泉を錮ぎ、上に山墳を崇ね、其の高きこと五十餘丈、周回五里有餘」とあり、地下深く掘られて多くの兵馬俑坑が配置された遺構の発掘で、白居易の詩が誇張ではないことが明らかにされた。二重泉はわかりにくいが、浅い水脈と深い水脈で二重になっていることをいうか。あるいは『漢書』に“三泉を錮ぐ”とあるので三つの泉を深く掘り水脈を断ち切ってふさいだか。このあたりは地下のことだから白居易も把握していなかったにちがいない。深固は深根固柢の略で、基礎をよく固め不安定にならないようにすること。富貴は財産があって身分・地位が高いこと、烏兔は日月すなわち太陽と月のことで、長い時を経た歳月の意を含める。龍槨は皇帝の霊柩のこと、神堂は故人を祀る祠こと。三月火は、『史記』の項羽本紀に「居ること數日、項羽兵を西に引きて咸陽を屠り、秦の降王子嬰を殺し、秦の宮室を燒き、火は三月滅せず云々」とあり、その故事によって焼き払われることをいう。“借泉中”は前述の二重泉を涸らした(『漢書』によれば三泉を錮ぐ)ことを指すと思われるが、死後の世界を泉下というに関連して存命時の所業を喩える意味もあるだろう。“買身禍”は、前述の富貴なることを傘に入手した宝物も、結局、たった一回の盗掘で失うはめになるので、一身の禍を買うようなものだと喩える。一凶一吉はあるときは凶、あるときは吉という意であるが、奢れることを凶、倹約に徹することを吉と暗示する。“憑君”の君は不特定の人を指す。“漢文”は前漢の文帝のこと、倹約に徹した名君とされ、自らの陵墓を高祖や先帝に比べて小規模なものにしたので、白居易は始皇帝と対比して讃えているのである。霸陵は文帝の陵墓の所在地で、現陝西省西安市灞橋区に当たる。
【詩意】草茫茫 「手厚すぎる埋葬を懲らしめる」
広々とした草原に、青黒い土。こんなところがどこというのだろうか、驪山のふもとにある秦の始皇帝の墓は。墓の下は掘って二度水が出るというほどの豊かな泉水の地を涸らしてしまうほど深く掘り下げ、皇帝自らの意思で深根固柢に作らせたのだ。下には水銀を流し込んで大河や大海に象り、上にはきらびやかな珠玉をくくりつけて日月風に作り、それには長い歳月を要したはずだ。それらの間に別天地を作って生前の贅沢の限りも携えてあの世に持ち込もうとなぞらえていたのだ。しかしながら一朝の盗掘で陵墓は破られ、霊柩や祠も焼き払われてしまった。憐れにもあの世へと携えたつもりの宝玉は人間に流出し、壮大な墓を作るためにかりそめに一身の禍を背負い込んだようなものだ。贅沢に奢れるが故に狼藉に遭遇するのであり、慎ましければ何も失うものがないから却って安心しておられるという例が眼前にあるのだ。誰でも始皇帝の墓を前にして首を廻らし南向きに望めば、漢の文帝の陵墓があるが、始皇帝陵と比べてみれば一目瞭然だろう。
2−4.李白の詩における“茫茫”の例2
早春、寄ニス王漢陽一ニ 李白
聞道ラク春還ルト、未二ズ相識一ラ
走リテ傍二ヒ寒梅一ニ訪二ヌ消息一ヲ
昨夜、東風入二リ武陽一ニ
陌頭ノ楊柳、黃金色タリ
碧水浩浩、雲ハ茫茫
美人不レ來ラ空シク斷腸ス
預メ拂二ヒ靑山ニ一片ノ石一ヲ
與レ君連日醉二ハム壺觴一ニ
まず語釈をしておく。詩題の“王漢陽”は本名ではない。李白の別詩「醉ひて王漢陽廳に題す」(巻182)によれば、「我は鷓鴣の鳥に似たり 南遷して北に飛ぶに懶し 時に漢陽の令を尋ね 醉ひを取り月中に歸る」とあるので、“漢陽の令”すなわち漢陽県令の王氏であることが知られる。李白とはいかなる関係なのか不明だが、ほかに「王漢陽に贈る」(巻170)と「王漢陽に寄す」(巻173)にも王漢陽が詠まれている。隋代に漢陽県が置かれ、現湖北省武漢市漢陽区一帯に当たる。“聞道”は詩文の常套句で“聞くならく”と訓読し、“聞くところでは”の意。寒梅は寒中に咲く早咲きのウメのこと、ただし旧暦の寒中は12月で前半が小寒、後半が大寒であり、新暦では1月に当たる。ウメの開花期は長く、普通は早春(旧暦では2月、新暦では1月)から1ヶ月にわたって咲く。寒梅は冬の最中に咲くが、普通のウメは春に咲くので、「春還る」とはそういう季節感のずれを暗示していうのであろう。消息は現代文では手紙・たよりのことをいうが、古文では様子・事情の意。武陽は南北朝時代まで益州犍為郡にあった一県名かと思われる。犍為郡は隋代まで四川省南部から貴州省におよぶ地域に設置され、南朝宋と斉までは武陽県があった。とすれば漢陽の西方に当たるので、第三句は春風たる東風が武陽まで吹き入れ、その間に位置する漢陽は春の真っ盛りだったと解釈される。陌頭は道のほとり、陌上に同じで中国では古くからヤナギが街路樹として植えられていた。王昌齡の「閨怨」(巻143)にも「閨中の少婦曾て愁へず 春日、妝ひを凝らして翠樓に上れば 忽ちに陌頭楊柳の色を見るべし 夫婿をして封侯を覓め教めしを悔まん」とあり、陌頭楊柳が詠まれている。通釈すると、かつて寝屋に大事にされた若妻は愁うことはなかった、でも春の日に化粧を凝らして青い楼台に登れば道端のヤナギの美しく瑞々しい黄金色の芽が目に入り、夫に諸侯に封じられるよう覓めさせたのが悔やまれるだろう、となる。“覓”は流し目・色目の意もあり、その寓意でもって諸侯に封じられた夫が側室をもとめて美しい女性に秋波を送るのではと心配しているのである。李白の詩では女性の影は見えてこないが、わざわざ早春の“陌頭の楊柳”を詠んだのは王氏の背後にいる何某かの女性がお目当てだったのかもしれない。浩浩は広大なさま、水が豊かに流れるさまの意、ここでは後者の意で長江をいう。美人はいわゆる美女の意ではなく、好男子・賢人のことで王氏を指すが、“陌頭の楊柳”から女性の影が見え隠れするから、美女の意も含めているのかもしれない。あるいは李白が王氏に同性愛的感情を抱いていた可能性もゼロではあるまい。斷腸ははらわたがちぎれるほど悲しい思い、靑山は青々と木々が茂っている山をいい、中国には鬱蒼とした森林が少ないため、木で覆われた山は景勝地とされ、それでわざわざ“靑山”というのである。壺觴は酒つぼとさかずき、飲酒でもてなすことを暗示して“醉壺觴”という。
【詩意】早春、王漢陽に寄せて
聞くところによると春が還ってきたというが、まだお互いの知るところではない。だから寒梅の傍に走り寄って様子を尋ねてみたのだ。昨夜、武陽に東風が吹き入れてここもすっかり春めき、道端に植えられたヤナギは黄金色の若芽を萌え出していた。一方、長江の碧い水は豊かに流れ、雲が春空いっぱいにぼんやりと広がっている。こういう時節に君(王漢陽)が来られないのはまことに残念、断腸の思いだ。前もって緑の豊かな山に一片の石を打ち払って、すばらしい景色のもとで君と連日飲み明かして酔いたいと思っていたのに。
3.唐詩における“漠漠”
杜甫の「灩澦」は第1連の後句に「江天漠漠」と詠むが、大河の上の広々とした空に言及し、この“漠漠”は②の「広々として果てしないさま」の意に相当する。一方、王維の「積雨輞川莊作」にある「漠漠たる水田」は、「灩澦」とはかなりニュアンスが異なり、水が張られた平らな田で稲の苗が一面に植え付けられた情景を指すから、①と③に若干の広々感を加味したものと考えられる。あえて②としなかったのは、広々とあっても果てしない大空や大海原などとちがってずっと小規模だからである。この二例だけを見ても“漠漠”は、それぞれの情景によって多少なりともニュアンスの違いがあって、一義的とはかぎらないことが読み取れよう。のみならず、“漠漠”の形容の対象は必ずしも“広々としたもの”に限らないことは別紙のPDFの用例を俯瞰すれば一目瞭然である。そこでほかの用例を以下のように類別し、辞書に記載された“漠漠”の語義と整合するかどうか検討してみる。結論を先に述べておくと、辞書に記載された語義は多くの用例から抽出したものではあるが、1対1に対応した例は意外に少ない。3−1〜3−8の末に参照した唐詩のリストを挙げてあるが、そこに出てくる漠漠は必ずしも当該項の用例に合致するとは限らない。
3−1.天・海・荒原・水田など広さを標榜する
この世で広々と果てしなきものといえば大空に大海原、砂漠などの荒原を思い浮かべるが、このカテゴリーに属する用例のうちで主たるものを各項の末尾に示した。ただし、天すなわち空には、通例、雲がつきものであり、また雲によってもたらされる雨や雪なども付随するが、それぞれ別カテゴリーの3−3、3−4に区別しておく。
さて、杜甫の「白帝樓」(巻229)は「広々とした虚空の中で城のひめがき(睥睨;丈の低い垣根)が連連と伸びて虚空の領域を侵している」と解釈されるので、ここで詠まれる“漠漠”は典型的な②の意である。しかし、②だけの意だけで詠み込んだ詩は意外に少なく、大半は②以外の意を含み併せた複合型である。たとえば、韓愈の「同水部張員外籍曲江春遊」(巻344)に詠まれる輕隂は薄曇りを意味し、必然的に大空の情景に言及するので、「灩澦」(巻229)に似た用例のように見える。しかし、「晚に自ら開く」とは花が咲き始めることあるいは空が晴れ渡ることであり、②に③と⑥が加わった複雑な情景と考えねばならない。劉禹錫の「送春曲三首」(巻354)はほぼ「灩澦」と同じといってよいが、直前句の「風雲日已に改む 花葉自ら相催す」から花の情景もわずかながら暗示されていると見なければなるまい。杜甫の「茅屋爲秋風所破歌」(巻219)では天候が悪化して暗雲となったことを示し、広々とした秋の大空が暗くなったというから、②と⑥の組み合せである。張籍の「橫吹曲辭:關山月」(巻18)は「海邊漠漠として〜」とあるので、大海原と勘違いしてしまうが、この前に詠まれた第1・2連(後述)から、大海ではなく内陸の湖について漠漠と形容していることがはっきりする(同じ張籍の詩として『全唐詩』は巻382に「關山月」の詩題で重出するが、「海邊茫茫として〜」となっている。これについては「5.“漠漠”と“茫茫”の違いはあるか」で改めて言及する)。そして夜の月明かりのもとというから、ひっそりとしてものさびしい情景が想像され、④ないし⑤に相当するが、形式上では“海邊”と詠まれているのでここに分類しておく。一方、王維の「積雨輞川莊作」(巻128)に似た用例に劉長卿の「和樊使君登潤州城樓」(巻151)と錢起の「奉和張荊州巡農晚望」(巻236)がある。前者の“江田”は長江以南の江南地方の水田を指すから(詩で“全て呉国の地”とある)、視覚的というより概念的表現となるので、大空や大海原に匹敵する広大さに言及すると考えられる。錢起の詩では単に“水田”とあるのみだが、“隂隂たる桑陌”(楽府詩の陌上桑と関連するかもしれない)から桑圃が対比され、「積雨輞川莊作」と大差ない情景と推察し得る。白居易の「和微之四月一日作」(巻444)は麥と稻を名指しして詠み込んでいるので3−2に置くべきかもしれないが、詩中に嫩青荷(若いハス)・晚紅藥(遅咲きシャクヤク)も詠まれ、「吳宮風月好く 越郡樓閣多し 兩地誠に憐れむべし〜」と詠まれる句から、麥と稻に関してはある程度のまとまった面積のムギ畑や水田が思い浮かぶ。それに同じ作物ながら麥には冉冉、稻には漠漠と表現を使い分けているのもこのカテゴリーに分類する正当性な理由となろう。ただし、權德輿の「田家卽事」(巻320)は稻と荷葉を組み合わせ、それぞれ漠漠、靑靑を冠して詠むので、「和微之四月一日作」によく似るが、明確に稻花を対象としているので3−2に置く。以下、代表的な唐詩を挙げるが、語釈を詳細に説明してあるので、一部を除いて通釈は省略する。
杜甫「白帝の樓」
漠漠たる虛無の裏 連連として睥睨侵す
樓光、日を去りて遠し 峽影、江に入りて深し
臘破れて端綺を思ふ 春歸るに一金を待たむ
去年、梅柳意ひて 還た邊心を攪さんと欲す
〔語釈〕連連:続くさま 睥睨:『集韻』に「睥 俾倪邪視或从目」(巻5 上聲上 11)、「睨 俾倪視皃或从目」(同)とあり、にらみつけて勢いを示すことをいう 樓光:大空を暗示する 臘破:臘は臘月すなわち12月、臘破は年が暮れようとすること 端綺:端は反に通じて織物の長さの単位を表し、一反のあやぎぬの意。『太平御覽』に「古詩に曰く、客、遠方より來る 我に一端の綺を贈る」(人事部一百一十九 贈遺)とあるので、杜甫はそれを意識して詠んだのかもしてない。 春歸:前年の年末からすれば年明けに春が戻ってくるから歸となる 邊心:邊は辺境の意、したがって辺境に寄せる思いをいう
張籍「橫吹曲辭:關山の月」
秋月朗朗たり關山の上 山中の行人馬蹄響く
關山秋來りて雨雪多く 行人月を見て邊歌を唱ふ
海邊漠漠として天氣白く 胡兒、夜に黃龍の 磧を度る
軍中の探騎、暮に城を出で 伏兵、暗處に旌戟低る
溪水、天に連なり霜草平らかなり 野駝、水を尋ねて磧中に鳴く
隴頭、風急きて雁下らず 沙場、苦戰して流星多し
憐れむべし萬國關山の道 年年、戰骨秋草に多る
〔語釈〕關山:関所(中国では軍事的目的の濃い施設)の近くの山 朗朗:光が明るく澄み渡っているさま 邊歌:邊は既出、辺境の歌のこと 海邊:本文中 天氣白:白は汚れがなく清いこと、したがってよい天気であることをいう 胡兒:字義的には異民族を意味する胡人の子をいうが、兒をつけるのは蔑称であることを示す 黃龍:現四川省羌族自治州の地 磧:砂原・沙漠 探騎:敵軍の動静・地形などをひそかに探り監視するために差し向ける騎兵、杜荀鶴の「塞上」に「戍樓、三號火 探馬、一條の塵」(巻691)とある探馬に同じ 伏兵:伏せかくして不意打ちをするための軍勢 旌戟:旗と戈 野駝:野生のラクダ 隴頭:隴山、陝西省と甘粛省との境にある山脈で古くは長安と西域との交通路の関門だった。匈奴などの異民族の侵入に対する守備兵が置かれた。 戰骨:戦死者
3−2.花・草木ほか生物の生命力の旺盛さを彷彿させる
植物の旺盛な生命力はやはり枝幹の隅々まで隈なく花をつけるさまにもっともよく体現される。そのうちで特定の植物名を挙げて詠む例が散見されるので、まずそれらから紹介する。
一般にヤナギの花は地味で注目されることはないが、『全唐詩』で楊花・柳花を詠む詩は180首前後もあるのにびっくりさせられる。一口に花といっても、昔と近代科学の発達した今日とでは、花に対する認識は同じとは限らないことに留意しなければならない。とりわけヤナギに関しては、植物学上の花ではなく、綿毛を抱く熟果(柳絮という)の方が見栄えするので、それを花と考えた可能性は大いにあり得るのである。中唐の女流詩人薛濤の「柳絮」に「二月、楊花輕く復た微か 春風、搖盪として人の衣を惹く 他家、本是れ無情の物 一任、南に飛び又北に飛ぶ」(巻803)とあるように、柳絮は春風とともに発生し、もとより厄介なものだと詠んでいるのは注目に値しよう。現代中国でも柳絮がしばしば大発生し、人々の日常生活に大きな影響を与えているという現実があり、ふわふわと軽く風で吹き飛ばされてさまよう柳絮はけっして落花を惜しむというような悠長な感覚をもって解釈してはならない。奇しくも楊凝も同じ詩題「柳絮」で「河畔に楊柳多く 追遊して狹斜盡くす 春風一回送り 亂れ入りて愁家莫からんや」
と詠んでいる。オーソドックスな訓読によれば、末句は“亂れ入りて愁家莫し(亂入莫愁家)”すなわち柳絮に害悪なしとなって、薛濤とは正反対の意味となる。『論語』・述而にある「文莫吾猶人也」を「文は吾れ猶ほ人のごとくなること莫からんや」と訓読する用例があり、これに従えば「ひとたびの春風が吹いて発生する柳絮で愁い悲しむ人々(愁家)がないのだろうか」というふうに疑問形で解釈できる。すなわち、せっかく遊郭で遊び尽くそうとしているのに、春風で舞い込む厄介者の柳絮がじゃまをしているということになり、薛濤の認識との差は解消する。一方、晩唐の詩人鄭谷は友人との別れを惜しんで「揚子江頭、楊柳の春 楊花愁殺す、江を渡る人を 數聲の風笛、亭を離るる晚 君は瀟湘に向かひ、我は秦に向かふ」(淮上に友人と別る 巻675)という詩を詠むが、楊花(柳絮)が追い討ちをかけ、いわゆる“泣き面に蜂”という感性に近いといえそうである。
韓愈の「送李六協律歸荊南」(巻343)を以下に示す。ここでも柳花が詠まれるが、難解な語彙については語釈に示した。
韓愈「李六協律の荊南に歸るを送る」
早日、羈游の所 春風、客歸るを送る
柳花還た漠漠 江燕正に飛飛
歌舞、誰か在るを知らん 賓僚、使を逐う非なり
宋亭、池水綠なるに 芳菲を蹋むを忘るる莫れ
〔語釈〕李六協律:協律郎(釈奠で楽人を率いて奏楽の指揮をとる官職)の李六氏、六は同性の各人に番号をつけ区別するためのもので、韓愈は李氏にこの番号をつけ、協律郎李氏はそのうちの6番目に当たる 羈游:羈客(旅人)として游行すること 江燕:江上を飛び交う燕 飛飛:あちこちと散在してひらひらしているさま、李世民の「喜雪」に「泛柳飛飛たる絮 妝梅片片たる花」(巻1)、杜甫の「故房相公の靈櫬、閬州より殯を啟き、歸りて東都に葬ると承聞したるに作有り二首」に「丹旐飛飛たる日 初めて傳ふ、閬州を發すと」(巻229)とあるように必ずしも飛ぶ鳥の形容に限らない 賓僚:参謀、幕僚に同じ 逐使:使は協律郎の李六のこと、“逐”は追放する、すなわち李六は解任されて荊南に帰るということ 宋亭:亭は東屋、宋は「寒食、日出づるに遊ぶ」(韓愈)に「宋玉の庭邊人を見ず」(巻338)とある戦国時代楚の文人宋玉のこと、「高唐賦」などを表す 芳菲:香気のある草花
柳花を柳絮と考えると、鄭谷の詩と同じく友人を見送る内容(詩題にも“送る”とある)であるが、「淮上與友人別」に顕著な悲壮感に乏しい。李六が解任されて帰京するわけだから、人事上の件に関しては同情の念はあるかもしれないが、別れを惜しむような送別ではない。中国では古くから旅立つ友人に水辺の柳の枝を折り取り環の形に結び贈る“折楊柳”の習慣があり、鄭谷詩はせっかく友人との別れに折楊柳を送ろうと思っていたのに、楊花(柳絮)によって台無しになったという解釈も可能となる。一方、李白の「相和歌辭:猛虎行」(巻19)は別れの情景がないので、楊花はすなわち柳絮、ただ人を愁えさせるばかりの厄介者となろう。李白は「金陵酒肆留別」で「風は柳花に吹きて店に滿つ香 吳姬は酒を壓へ客を喚びて嘗めしむ 金陵の子弟、來って相送る 行かんと欲して行かず各觴を盡くす 君に請ふ、試しに問へ東流水 別意、之と誰か短かき長きならんと」(巻174)と詠み、東流水(東に流れる水、もとには戻らないことを喩える)を持ち出して別れを惜しむ心の程度を問うているが、柳花の香に言及しているので柳絮とは考えにくく、単なるヤナギの花と解釈すべきである。一口にヤナギというが、植物学的にヤナギはSalix属各種の総称であり、中国では自生種だけでもすこぶる多い。またヤナギには楊・柳の二つの用字があり、一般には枝條が垂れるものを柳(シダレヤナギ)、垂れないものを楊(カワヤナギ)に区別するといわれるが、その分別は必ずしも明確ではない。いずれにせよ、以上の詩にいう楊柳がいかなる種かわからないが、嫋やかな枝に花(普通は白い)を密につけるものでなければ“漠漠”とはいわないだろう。元稹の「三月二十四日宿曾峰館夜對桐花寄樂天」(巻401)は微月すなわちほのかな月かげ(三日月)のもとで咲く桐の花が漠漠と咲いていると詠む。末句に「我れ山館の中に在り 地に滿ちて桐花落つ」とあるように、大半の桐花は落下して花数は少なかったと想像される。桐は昼間でも咲くからわざわざ暗い月光との取り合わせるのは特別な事情があることを暗示する。それは「是の夕、遠く君思ひ 君を思ひて瘦せて削の如し」(削は木簡や竹簡の文字を消すために削る書刀のこと)によく表されている。したがって「月微花漠漠」は暗い月光との取り合わせで花を際立たせようとしたのであり、けっして花が旺盛に咲いている情景というわけではない。
白居易が「鄧州路中作」(巻431)で詠み込んだ“秋韭”とはニラ(韮)のことで、“漠漠”は“家園”ではなく、そこに植えられているニラに掛かり、花が真っ白に咲き乱れているという意になる。一本一本のニラの花の生命感を“漠漠”というのであって、圃場がニラの白い花で埋め尽くされているわけではない。「惜栯李花」(巻432)の“栯李”とは郁李すなわちニワウメのこと、サクラと同じバラ科でピンクの花を密につけ美しいのでよく栽植される。白居易は「夕凋紛漠漠」の直後に「枝を辭して朱粉細かに 地を覆ひて紅綃(紅の薄絹)薄し」と詠み、赤い花がちって細かい朱の粉となって地を覆うさまを紅の薄絹と表しているので、“漠漠”は落花を形容し、決して花の咲くさまに対してではない。これと似た情景を詠むのが同じ白居易ながら別詩「落花」(下に示す)であり、「梨墮ちて雪〜」とあるように、ここでは梨の落花を雪に喩えて漠漠と描写している。桃の花を火が燃えるが如く咲き誇っていると詠んでいるが、主役は詩題に落花とあるから梨の花である。「紅萼を拾は教む」とは桃の落花を示唆するが、準主役というべきかもしれない。ただし、最後の連で「獨り病眼の花のみ有り 春風吹けども落ちず」とも詠んでいるので、白居易の本心は眼病(病眼の花から白内障であろう)が治癒することにあったようだ。「病眼の花」(巻451)にも「頭風目眩、衰老に乘じて 只、增加有り、豈に瘳ゆること有らんや 花、眼中に發いて猶ほ怪しむに足る」と詠まれ、これをもってしても白居易の深刻な持病であったことが知られよう。
白居易「落花」
春を留むれども春住まらず 春歸りて人寂寞たり
風を厭へども風定まらず 風起りて花蕭索たり
旣に風前の歎を興し 重ねて花下の酌を命ず
君に綠醅嘗むるを勸め 人をして紅萼を拾は教む
桃飄りて火焰焰たり 梨墮ちて雪漠漠たり
獨り病眼の花のみ有り 春風吹けども落ちず
〔語釈〕寂寞:ひっそりとしてもの寂しいさま 蕭索:もの寂しいさま 命酌:今風にいえば居酒屋で酒を注文すること 綠醅:酒、「劉十九に問ふ」(白居易 巻440)に「綠蟻新醅酒」とある綠蟻は、綠螘ともいい美酒のこと、新醅酒は醸造したばかりの濁り酒をいう 紅萼:紅色の花、ここでは桃の花をいう 焰焰:火の燃え始めで、まだ盛んでないさま
「東坡種花二首」の第一首の冒頭に「錢を持ちて花樹を買ひ 城東の坡上に栽う 但し花有る者を購ふは、桃杏梅に限らず 百果參雜して種ゑ、千枝次第に開く」(白居易 巻434)と詠まれているので、桃・杏・梅のほかさまざまな果樹を植えたことを示す。第二首に植えた種々の果樹の花が一斉に花が落ち尽くし青々とした葉が生え始めたと詠む。赤白あるいはその他の色の花が落花したのだから落ちて地を敷き詰めた情景が想像され、漠漠はそれにに対する形容であり、日本のサクラの花吹雪を想像してはならない。「題郡中荔枝詩十八韻兼寄萬州楊八使君」(白居易 巻441)に荔枝の名がみえるように、「素華、春漠漠 丹實、夏煌煌」とはムクロジ科レイシについて詠んだもので、春は白い花がさかんに咲き、夏は赤い実がきらめくという意である。レイシは中国南部原産の果実で、実際の花の色は黄緑色である。漢籍詩文における花色の記述が現実と乖離しているのは、専門書たる本草においても同様であり、中国では珍しいことではない。ただ果実の赤く果皮をむくと真っ白な果肉が露出するので、白居易はその先入観があって白い花(素色)と表現してしまったのかもしれない。「和萬州楊使君四絕句:江邊草」(巻441)は少々難解なので、まず全編を示して通釈してみる。
白居易「萬州の楊使君に和する四絕句:江邊の草」
聞こゆ、君は澤畔に春草傷むと
憶ふ、天門街裏に在りし時を
漠漠淒淒、愁へ眼に滿ち
就中惆悵するは是れ江蘺
〔語釈〕萬州:現四川省重慶市万州区 使君:刺史(州の長官)の美称 澤畔:沢のほとり 天門街:長安の街の名 淒淒:すさまじいさま、一般には風雨を形容するが、韓愈の「南內に朝賀し歸りて同官に呈す」(巻342)に「賀を罷る南內の衙 歸れば涼しく曉淒淒たり」のような用例も少なくない 惆悵:痛み悲しむ 江蘺:本文中
通釈すると、聞くところでは君は春草が傷むほど沢辺で遊歩するという、昔、左遷前に長安にいた頃を思い浮かび、見渡す限り漠漠淒淒として愁いを引き起こす春草の中で、とりわけ嘆き悲しませるのはこの江蘺だ、となるが、江蘺とは何ぞやというところが難しい。漠漠淒淒は春草一般を指すから、基原を特に精査する必要性はないとの意見もあろうが、とりわけ愁いを強く感じさせるのが江蘺となれば看過できまい。本草の通説では江蘺は蘼蕪すなわちセリ科センキュウと異名とするが(『続和漢古典植物名精解』参照)、“澤畔の春草”とあるからおよそセンキュウとは考えにくい。江蘺を詠む唐詩は関係するところでも李郢の「江亭春霽」にも登場するのでこれも全編を紹介しよう。
李郢「江亭春霽」
江蘺漠漠として荇田田たり 江上の雲亭霽れて景鮮やかなり
蜀客の帆檣、歸燕に背き 楚山の花木、啼鵑を怨む
春風掩映す千門の柳 曉色淒涼たり萬井の煙
金磬泠泠たり水南寺 上方僧室、翠微連なる
〔語釈〕江亭:河辺の東屋 江蘺:既出 荇:荇菜、水草のアサザのこと 霽:『説文解字』に「霽は雨止むなり。从雨齊聲。」(巻12 雨部)とあるように、雨が止んで晴れることをいう 雲亭:雲の下面 蜀客:蜀(四川省の古名)から来た旅人 帆檣:帆柱 啼鵑:啼いている杜鵑(ホトトギス) 掩映:覆い隠すこと、掩翳に同じ 千門:宮殿 曉色:明け方の景色 萬井:多くの塩井、煙は塩水を煮詰めるときに出る(既出) 金磬:打楽器の一種 泠泠:一般には冷たいさまの意であるが、ここでは金磬の音のさえわたるさまをいう 水南寺:陳留郡(現河南省開封市)にあった由緒ある寺 翠微:山の頂と中腹の間
水草のアサザ(荇)が“田田”すなわち広く連なっているという漠漠に似た情景であり、羅隱の「送舒州宿松縣傅少府」でも「江蘺漠漠として樹重重たり」(巻658)と木々の密集しているさまに対比させている。そろそろ江蘺の基原を明らかにしなければならないが、『證類本草』の決明子の条項に「陳藏器云ふ、茳芏は是れ江離子なり。芏字音吐、草なり。莞に似て海邊に生じ、席に爲るべし。」(巻第七「草部上品之下」)という注目すべき記述があり、これによればカヤツリグサ科のスゲの仲間であることがわかる(江離は江蘺に同じ)。
劉滄の「過北邙山」(巻586)に詠まれる兔絲(兎絲・莵糸・莵絲)は本草に精通していないと理解できないだろう。その前に全編を紹介する。
劉滄「北邙山を過ぐ」
散漫たり黃埃北原に滿ち 折碑橫路、苔痕を碾く
空山、夜月に松影來り 荒塚、春風に木根變ふ
漠漠たり兔絲、古廟に羅なる 翩翩たり丹旐、孤村を過ぐ
白楊、落日に悲風起こり 蕭索たる寒巢、鳥獨り奔る
〔語釈〕北邙山:中国河南省洛陽市の東北にある山名。多くの歴史的著名人の墓地がある。 散漫:散らばり広がるさま 黃埃:黄色い土ぼこり、黄砂に同じ。白居易の詩に「黃埃散漫、風蕭索(もの寂しいさま) 雲棧(崖にわたした橋または山腹につけられた道)縈紆(ぐるぐる巡ること)して、劍閣(四川省剣閣県の北にある山)に登る」(長恨歌 巻435)とある。 折碑橫路:折碑は折れたいしぶみ、橫はほしいまま、思いがけないの意で、縦横の“横”ではなく、横路は人が通らず荒たままにされた路のこと 荒塚:荒れ果てた墳墓 春風變木根:風でもたらされる春の気で樹木が成長すること。孟郊の「審交」(巻373)では「樹を種うるに擇地を須てす 惡土は木根を變ふ」と詠まれ、環境によって木の成長が異なることを示す。 古廟:古いみたまや 翩翩:軽く翻るさま 丹旐:白居易の「師皋を哭す」に「南康の丹旐魂を引きて回り、洛陽の籃舁葬送りて來る」(巻453)と詠まれているように、葬送の時に用いられる旗で死者の官位や姓名を記した。 白楊:ヤマナラシの類、ヤナギ科ながらヤナギとは別属 蕭索:もの寂しいさま
兔絲はネナシカズラというつる草の寄生植物で成長すると地中にあった根は枯れ、光合成はせずに宿主の植物から養分を吸い取って成長を続ける。本草では種子を菟絲子と称し、『神農本草經』にも収載される歴史的薬物である。“古廟に羅る”というが、建物には寄生できないので、殯宮内の植物を覆い尽くすほどに絡まったということだろう。『證類本草』に「呂氏春秋云ふ、或は菟絲、根無しと謂ふなり。其の根、地に屬かず茯苓是れなり。」(巻第六「草部上品之上」)という記載があり、古く中国ではネナシカズラは伏苓すなわちマツの根に寄生する担子菌マツホドがその根と信じられていた。したがって、殯宮内に多く植えられているはずのマツにはネナシカズラが多いはずだと読み人に先入観があっても不思議はない。因みに、道教では兔絲・松ともに仙薬とされているので、「漠漠たり兔絲、古廟に羅る」とは中国人にとって好ましいことであり、「いかならむ 時にか妹を むぐらふの きたなき屋戸に 入れいませなむ」(万葉集 4-0759)に代表されるような、日本人のつる草に対する感性とは大きく異なることに留意しなければならない。
詩文で詠まれる植物は種子植物などの高等植物に限らず、茎・根・葉などの器官に分化しない蘚苔類や地衣類、水生の藻類がある。とりわけ蘚苔類や地衣類は一般には“コケ(苔)”と総称される。コケは条件さえ整えばかなりの規模で群生する。白居易の「贈內」(巻437)と溫庭筠の「送李億東歸」(巻578)がその典型的な例であっていずれにもコケの群生するさまを“漠漠”と表現しているのは興味深い。ここでは溫庭筠の詩を紹介しておく。
溫庭筠「李億、東に歸るを送る」
黃山遠く秦樹を隔つ 紫禁斜めに渭城に通ず
別路、靑靑たる柳弱く 前溪、漠漠たる苔生ふ
風和して澹蕩たり歸客 月落ちて殷勤たり早鶯
灞上の金樽、未だ飲まず 宴歌、已に餘聲有るに
〔語釈〕李億:李子安ともいい、上級官吏(補闕、過ちを救うという意で拾遺補闕ともいう)だったという 黃山:安徽省黄山市にある山、しばしば仙境に見立てられ道家が修行する地でもある 秦樹:モクセイ科トネリコの類、樹皮を秦皮と称して薬用にする。木編につくる榛はカバノキ科ハシバミのことでハンノキとするのは誤りである。 紫禁:王宮、紫禁城に同じ 渭城:咸陽、秦都があったところ 別路:離別を象徴していう“わかれみち” 澹蕩:ゆったりしてのどかなさま 殷勤:心をこめて念入りにするさま 早鶯:早啼きのウグイス 灞上:陝西省西安市の東、霸水のほとり 金樽:貴重な酒杯 餘聲:余音、かすかな声
第2連で詠まれているが、柳と苔が対比されていることに留意する必要がある。前句の別路とは“わかれみち”のことで、別々の道を通ることで別離を暗示し、とりわけ親しい人との別離を表す。それは青々とした柳によって折楊柳が想起され、詩題にある李億との別れで示唆されているが、“弱し”に違和感が持たれよう。それには李億と溫庭筠との深い因縁が影響しているように思われる。溫庭筠は中国では数少ない女流詩人の一人魚玄機と交際していたが、彼女が李億の妾となり、溫庭筠と李億の関係に暗雲が漂い始めたことは想像に難くない。わざわざ詩題に送別としてあっても、溫庭筠からすれば心から別れを惜しむような状況になく、それが“柳弱し”という表現になったと推定される。その結果、前方の谷間の目立たない陰湿地に生えている苔を漠漠と形容することで相対的に柳の存在感を弱めているのである。無論、この世には折楊柳が関わらない別離もある。その例として陳子昂の「春夜別友人二首」(巻84)を挙げる。
陳子昂「春夜、友人に別る二首」
銀燭、⾭煙を吐き 金樽は綺筵に對す
離堂、琴瑟を思ひ 別路、山川を繞る
明月、高樹を隱し 長河、曉天に沒す
悠悠たる洛陽の道 此の會何年か在らん
紫塞、白雲を斷ち ⾭春、明月の初め
此れ芳樽の夜に對きて 憂悵離るるに有餘
淸冷なる花露に滿ち 滴瀝たる簷宇虛し
懷ふ、君が何か贈らんと欲し 願ふ、大臣に書を上ることを
〔語釈〕銀燭:銀色に輝くともしび 金樽:既出 對綺筵:美しい敷物、“對す”は見合うこと 離堂:送別の宴の場所 琴瑟:琴と大琴(瑟) 長河:天の川 曉天:夜明け 此會在何年:次に宴席を設けるまで何年あるだろうか、會は宴席のこと 紫塞:万里の長城 ⾭春:春、明月初とは澄み切った月が見られたのが年が明けて初めてということ 憂悵:惆悵に同じで愁い悲しむこと 滴瀝:水などがしたたること 簷宇:軒・庇
ここには別離の象徴である柳はまったく詠まれておらず、美酒や歌舞を伴った送別の宴席のみである。ただし、別離の情は二首目の第2連で尽くされ、酒席の歓待に対して、別れの寂しさから解放されるにはしばらく時間が必要だというのである。わが国の詩文では別路を詠むことはごく稀である。強いてあげれば高市黒人の「妹もわれも 一つなれかも 三河なる 二見の道ゆ 別れかねつる」(3-0276)と旅の女の返答歌とされる「三河なる 二見の道ゆ 別れなば わが脊もわれも 一人かも行かん」(一本に云はく)に詠まれた“二見の道の歌”が相当するかもしれない。“二見の道”は愛知県豊川市御油町付近の参河国庁付近で北回り(本坂峠から三日日へ浜名湖北岸を経由するルート)と南回り(浜名湖南岸ルート)の東海道の分岐があったと推定されている。日本には枝を折って環にするに適したヤナギ(シダレヤナギ)が自生しないので、折楊柳の風習は定着しなかった。一方、白居易の「贈內」は妻(内)に贈った詩で「漠漠たる暗苔、新雨の地 微微たる涼露、秋にならんと欲する天 月明に對して往事を思ふ莫れ 君の顏色を損じ君の年を減ぜん」(巻437)と詠む。これには通釈・解説の必要はあるまいが、妻に当てる詩としてはおよそ感心できるものではない。比較のためにわが国の文学における苔についても考えてみよう。湿潤気候のわが国はコケの生育に恵まれ、京都西芳寺の境内に生える苔は世界的にも名を知られている。にもかかわらず、『万葉集』に「み芳野の 青根が峰の 蘿席 誰か織りけむ 経緯無しに」(7-1120)と詠まれる“こけむしろ”の程度の認識にとどまり、平安時代以降でもその傾向は変わってない。
以上、詩内に植物名が詠まれるか、直接詠まれていなくてもどんな植物か読み取れるものを挙げた。残りはすべて未詳の植物であり、特定の植物種が優先する場合と数種ないし多くの種が群生する場合など情景はさまざまである。その中で注目すべき例を挙げて説明する。まず始めに張籍の「野田」の野田とは何かを考えねばなるまい。野田は白居易の「過故洛城」(巻462)にも張籍と同じ語句“漠漠野田”が見えるが、単純に原野プラス田畑として解釈してもよさそうに見える。しかし、それでは野草と田畑で栽培する植物を併せて草・草花とすることになるので不自然である。田畑では作物を収穫したのち、次の作付けまで放置するので、野草がはびこって埋め尽くされる(まさに茫茫)のが普通である。したがって、野田は原野と収穫後の田畑の意とするのがよいだろう。そうなると野田は広大なものとなり、漠漠は②の意とするのが妥当に思えるが、広大な地を埋め尽くすように生える野草を指すと考えるべきだろう。杜甫の「客堂」(巻221)では「漠漠として春は木を辭す」と詠まれ、“漠漠”は春色が去ろうとしている木々に対して掛かる。少々わかりにくいが、木々は冬を経て春に若芽をつけ、夏に向けて一気に青々とした葉を出す季節の微妙な変化を表していると解釈すれば前後とも整合する。杜甫は詩の中で「舊疾(前句に消中すなわち消渴とある、現代医学でいう糖尿病に相当する)甘んじて載せ來たる、衰年無足を得る(歩くことができない)」と詠んでいるように、老境にあって満身創痍の状態であったが、「漠漠春辭木」が詠まれた一節は旅先で仮住まいしたときの季節の移り変わりを描写し、まったく暗さは感じられない。白居易の「惜落花贈崔二十四」(巻439)は荒れ狂う風とにわか雨で激しく花が散ったさまを表した。別の詩「惜落花」で似た情景を「夜來風雨急に 復た舊花林無し 枝上三分落ち 園中二寸の深さ」(巻449)と詠んでいるところをみると、散る途中ではなく、散った後を“漠漠紛紛”と表したのであり、桜吹雪を想像してはならない。花の盛りを“漠漠”と表すのは特に説明の必要はあるまい。
3−3.雲
雲がもっとも美しく感じられるのは秋だという。一般に秋雲は秋の晴れた空に漂う雲をいうが、唐詩に登場する秋雲はそのイメージから遠く離れているようである。杜甫の「秦州雜詩二十首」(巻225)のうち、第11首に出てくる“秋雲低る”という描写は、空に広く雲がはびこっているさまをいうから、今にも冷たい雨が降りそうな情景を想像せしめる。それゆえ、古塞すなわち古い関所の砦(薊門)をさびしく冷ややかというのであろう。後句に「薊門誰か北自りする 漢將、獨り西に征く」と詠まれているが、この砦はもともと北方からの異民族(匈奴)の侵入に対する防衛を目的としていたが、時は安史の乱の最中で、唐の将軍は西の反乱軍の方ばかりを向いているという皮肉を込めた詩である。もう一首、秋雲を詠むのは白居易の「微雨夜行」(巻433)であり、ここでも秋雲は空いっぱいに埋めて冷たい小雨をもたらすものと認識されている。また、「秋江送客」(巻432)でも秋の雨の中で舟出する人を見送る。その全編を以下に示す。
白居易「秋江客を送る」
秋鴻、次第に過ぎ 哀猿、朝夕に聞く
是の日の孤舟の客 此の地亦た群を離る
濛濛たり衣を潤す雨 漠漠たり帆を冒す雲
潯陽の酒に醉はざれば 煙波、人を愁殺せん
〔語釈〕秋鴻:鴻はオオトリ(鵬もしばしばかく読まれるが、『莊子』・逍遙遊に出てくる、鯤という大魚が化した想像上の鳥だから誤り)。解釈としては秋に来て春に帰る白鳥あるいはコウノトリと考えるのが無難だろう。 離群:旅立つこと 濛濛:霧や小雨、煙や塵埃などであたりが薄暗くなるさま 潯陽:現広西省九江市 煙波:水煙、広い湖や大河から立ち上るもやで水面を覆い尽くすもので、水面を指すときは煙水と区別する 愁殺:人をひどく愁え悲しませること
詩題の “秋江”は字義的には秋の川の意にすぎないが、初唐の李頎は「八月、寒葦花さき 秋江、浪頭白し 北風五兩に吹き 誰ぞ是の潯陽の客は」(劉昱を送る 巻133)と詠んでいるので、白居易はこの詩を踏襲して詠んだ(和歌でいう本歌取り)のかもしれない。因みに、五兩とは『廣韻』に「綄 舩上、風を候ふ羽、楚は之を五兩と謂ふ」(巻五 上平聲 桓)とあり、いわゆる風見鶏のような風向を知る仕掛けと考えればよい。劉禹錫の「淮陰行五首」にも「好日、檣竿(帆柱)起ち 烏飛びて五兩驚く」(巻364)と詠まれている。「秋江送客」に秋雲とはなくとも、基本的には前二詩と似た情景かと思う。ただ「漠漠たり帆を冒す雲」はわかりにくいが、重苦しい雲が冷雨をもたらし、五兩が濡れてあるいは風がぴたりと止まって思うように風向きをうかがえず、船足が重く感じられると解釈すればよいだろう。そのほか、耿湋の「秋中、雨の田園卽事」では「漠漠たる重雲暗く 蕭蕭たる密雨垂とす」と詠まれるように、どんよりして暗い秋雲のもとで細雨が降る情景が思い浮かぶ。次に、賈島の「過京索先生墳」(巻574)を示す。
賈島「京索の先生の墳を過ぐ」
京索、先生三尺の墳
秋風漠漠として寒雲を吐く
從來、君に恨み有り多く哭さん
今日、何人か更に君を哭さん
語釈は本文中で説明する。まず“京索”は人名ではなく地名であることに留意する必要がある。『前漢紀』の高祖皇帝紀二に「王と會、楚を京索の間に擊つ」、『水經注』に「晉地道志いふ、所謂京に大索、小索の亭(=宿駅)有り」(巻7 濟水)とあり、京は県名でその中に大索、小索があり、まとめて京索と呼んだことがうかがえる。さて、本題に戻るが、雨が降るまでに至っていないが、秋風がもたらすという寒雲によって程なく前二詩に似た情景になることを暗示する。呂溫の「奉敕祭南嶽十四韻」(巻371)では秋を感じさせる描写は見当たらないが、皇帝の勅命による祭事を詠んだ詩であることを考慮すれば、祭事の現場には杉柏が高く深く生い茂り、森から吐き出された雲気によって薄暗く重厚な雰囲気を漂わせる情景が思い浮かぶ。元稹の「有鳥二十章」(巻420)では第20首に「九霄(九天に同じ、天の高いところ)に飛上して雲漠漠たり」とあるが、これも季節感は希薄である。真っ白な鶴と対比させるため、漠漠たる雲は黒く暗くなければならないから、やはり秋空ではないかと思われる。劉長卿の「硤石遇雨宴前主簿從兄子英宅」(巻149)にも秋を示唆する描写はないが、杜牧の「中秋日拜起居表晨渡天津橋即事十六韻獻居守相國崔公兼呈工部劉公」(巻526)には詩題の冒頭にに“中秋日”とあるので、やはり秋空の雲に言及していると思われる。ただ本詩内に秋を示唆する描写はない。以上、唐詩における秋の雲のイメージは何となく暗っぽいが、広く博捜すれば唐・無名氏の「蟬嘯きて秋雲に槐葉齊ひ、石榴香りて老庭に枝低る」のように、少なくとも自然描写においては暗いイメージを感じさせない詩もある(石榴 巻785)。
3−4.雪・霞・水煙・雨
まず杜甫の「桔柏渡」(巻218)から説明しよう。この詩で“煙”として詠まれているのは実は水煙であって煙ではない。竿が湿って煙が漠漠と生じているというから、竿を燃やして出るような煙ではない。冒頭の句に「靑冥たり寒江の渡し 竹を駕ひて長橋を爲れり」とあるように、渡し場には竹製の橋がかけてあり、原料の竹竿が水分を溜め込んで、時折、蒸発して気象条件次第で水煙を生じると考えられる。かかる現象が起きるのは寒暖の差が大きな初春あるいは晩秋〜初冬(いずれも旧暦)と推定される。白居易も「望江州」で「江回りて望み見る雙つの華表(柱上に十字形の横木をつけた標木で宮殿や聖所まどに建てられた) 知る是れぞ潯陽西郭の門 猶ほ孤舟去ること三四里(原文は裏、同字の裡→里に変える) 水煙沙雨黃昏んと欲す」(巻438)と詠むように、中国の大河では水煙は風物詩だったことが知られる。因みに、桔柏渡は長江の支流である嘉陵江と白水江の合流地点にあった渡し場で、現在では四川省北東の広元市に属する。劉復の「春雨」(巻305)も「桔柏渡」とよく似た情景であり、前句に「細雨、深閨に度り 鶯愁ひて啼くに懶せんと欲す」とあることから、煙すなわち霧あるいはもやのような水煙が寝屋にまで入り込んで湿度が高くなって不快となり、外でもウグイスが愁い悲しんで啼くのがおっくうにならんとするほどだという意である。濃霧ごときでウグイスが啼くのをおっくうになるというのは今日的視点からすればおよそ眉唾であるが、白居易の「魏王堤」(巻451)でも「花寒くして發くに懶く 鳥は啼くに慵し」と詠まれているところから、それが唐代の詩人の標準的感性だったようだ。張籍の「泗水行」は水煙そのものを詠み込んでいるが、冒頭から「泗水の流れ急にして石纂纂(あつまるさま)たり 鯉魚上下して紅尾短し 春、冰銷け散じて日華(陽光)滿ち 行舟の往來浮橋斷つ」と詠み、それに続いて城辺の魚市場では人が忙しく行き来して操舟の棹さす音が喧しい中での水煙だから、張籍は江上の水煙とともに水しぶきも意識していたと考えられる。とすれば「桔柏渡」の“煙”も、竹竿から蒸発したものではなく、江上から発生した水煙のことかもしれない。これまで水煙とは何か定義を避けて各詩を解釈してきたが、ここで改めて考えてみよう。日本語の“みずけむり”に同じとすれば、水面から立ち上るもや・霧の類となり、唐詩にみる江上の(水)煙はみなこれと考えてよいだろう。常雅の「題伍相廟」(巻850)では青々と木々が茂った古廟が林と山との間で映じ、もくもくと湧き出る煙霞で昔の祭壇が覆われているとあるから、これはまさに霞・霧である。因みに、その後に「精魄知らず、何處に在るかを 威風(威勢があること)猶ほ浙江の寒に入るべし」と詠まれているので、昔の皇帝の精魄がどこにあるかわからないほど、威厳は既に失われて浙江の寒さの中に埋もれてしまったことを示している。
李端の「折楊柳」(巻284)は本編で取り上げるには少々長すぎるが、中国の古い伝統習俗の折楊柳にも関連するから、詩の全編を以下に示し、段落を新たにして詳細し解釈し、3−2で出てきた折楊柳を補足する。
李端「折楊柳」
東城に柳葉を攀ぢりて
柳葉、低れて草に著く
少壯、年を輕んず莫れ 年を輕んずれば衰老有り
柳發いて川岡に遍く 登高して斷腸に堪ふ
雨煙輕きこと漠漠 何の樹ぞ君の鄕に近からん
君に贈る折楊柳 顏色豈に能く久しからんや
上客は沾巾莫く 佳人は回首を正す
新柳、君が行くに送り 古柳、君の情を傷む
突兀として荒渡に臨み 婆娑として舊營を出づ
隋家、兩岸盡くし 陶宅、五株榮ゆ
日暮れて偏へに愁望すれば 春山に鳥聲有り
〔語釈〕 東城:長安の東城 柳葉:葉をいっぱいつけたヤナギの枝 攀づ:つかんで引き寄せる 少壯:年が若く元気なこと、そのさま 衰老:老衰に同じ 雨煙:煙るように降る雨すなわち霧雨に同じ 上客:賓礼によって遇すべき上等の客人 沾巾:巾を沾す、すなわち泣くこと 佳人:良臣・良友など 回首:首を回す、すなわち振り返ること 突兀:高くつきでるさま、この詩では勇敢の意 荒渡:荒れた川や海を横ぎって向う岸にわたる 婆娑:舞うさま、この詩では身軽であること 舊營:営は営塁の意、すなわち陣営 隋家:隋王朝、具体的には国が大きく傾いた煬帝時代を指し、豪奢であることを象徴する 兩岸盡:岸は限り・際、すなわち豪奢し尽くしたことをいう 五株:陶淵明が門前に五株の柳樹を植えたこと、生涯を通して質素倹約に努めたのでそれを象徴していう
漢詩一般に普遍的ともいえることであるが、この詩の内容を正しく把握するために知っておかなければならないのは、各連の前と後の句が必ずしも連関しているわけではなく、始めから直線、直列的に通釈するには無理があることである。すなわち詩の内容は飛び飛びになっていてそれを踏まえて通釈しなければならない。取り敢えずは主題の“漠漠”が詠まれている第4連の前句を出発点としておく。軽微で漠漠としているという“雨煙”は、煙雨すなわち霧雨に同じで、軽微な雨でもけむるさまが著しいといい、木々がよく見えないゆえ、どれが故郷に近いのかわからないと後の句に続く。通例、ヤナギは江辺に多く植栽されるから、江から湧き上がる水煙と細雨が一体化した情景と推察される。冒頭の第1連で、東城で柳葉のついた枝を引き寄せ、低れて地に生える草についた枝を採取したことが読み取れるが、その時期は第3連に柳の花が川岡にいっぱい咲いたという前句で明らかになり、第5連の前句でようやく君に贈りましょうと詠んで、本詩の主題たる折楊柳に言及する。さらに第7連では、君の心を傷つけないように、東城で採ったばかりの新しい柳枝だよと補足する。第5連は本詩の核心ともいえるのであるが、後句はいつまでも顏色よく健康を維持できるとは限らないという、前句とはおよそ無関係ともいえる内容である。それは第2連で若いといっても限られた時間を無駄にするな、無駄を続ければあっという間に老い衰えるぞと詠まれているところと密接に連関し、わざわざ忠告しているようにも見える。第3連の後句で、高いところに登ってはらわたがちぎれるほどの悲しみに堪えようというところで心底から別れを惜しむ情感が表されているが、登高は厄払いのために行う、もともとは九月九日の重陽の節句に付随する古くからの風習である。したがって時期を問わないイベントである送別で、それも断腸に堪えるという本来の目的をはずれているのは大いに違和感を覚えるが、送別に際し上等の賓客は泣いたりせず、できのよい人は振り向いたりしない(上客・佳人は自分を指す)という第6連によって見送る側と見送られる側の関係がただならぬものであることが読み取れる。第8連は相手が相当な試練を覚悟しなければならないことを暗示させ、第9連ではうまく世渡りするための教訓として、負け組の例に随王朝を、勝ち組に陶淵明の生き様を挙げてエールを送る。第10連は送別に伴う精神的なきしみを和らげるための付句であろう。
最後に「自孟津舟西上雨中作」(巻697)では詠まれる“秋煙”を取り上げて本節の締めくくりとする。秋煙を漠漠というのはこれまでの用例の延長線上にあるが、雨の濛濛には著しく違和感をもたれるのではなかろうか。ただし、濛濛とは、前述したように、基本的に霧・煙・ほこりなどが立ちこめるさまをいうから、煙雨として解釈すれば整合性は保たれる。煙雨はけむりのように細かい雨であるから、煙霧(秋煙)とは区別されるべきものであり(詩題でも“雨中”としている)、おそらく第1連の前句のいわんとするところは、ある時は秋煙漠漠、ある時は煙雨濛濛という情景描写であり、一句七字という制約によって煙雨→雨とせざるを得なかったのであろう。したがって本詩は以上を踏まえた上で解釈しなければならない。語釈で詳細な説明を加えたので通釈は省略するが、第4連の前句の訓読は暫定的としておく。後句とのバランスを考慮して訓読すれば、「卻到、故園、翻似客」ようになるが、それでは意味をなさない。翻似客を「翻れば似たる客」としても今一つしっくりこない。
韋莊「孟津より舟西上して雨中に作る」
秋煙漠漠として雨濛濛たり 征帆卷かずして晚風に任す
百口寄りて滄海の上に安んず 一身逃れて綠林の中に難む
來時、楚岸の楊花白く 去日、隋堤の蓼穗紅し
卻って故園に到り翻れば似客 歸心、迢遞たり秣陵の東
〔語釈〕秋煙:秋に発生する煙霧 濛濛:既出 征帆:航行する舟、またその帆。李白「當塗(古来軍事上の要地、唐代の宣城郡當塗縣、現安徽省東部)の趙炎少府(県の副官で丞尉ともいう)の粉圖山水の歌」に「征帆動かず亦た旋らず 飄として風に隨ひ天邊に落つるが如し」(巻167)とある。 百口:家族の多いことをいう 滄海:大海原 綠林:『漢書』の王莽傳に「南郡の張霸、江夏の羊牧、王匡等、雲杜綠林に起ち、號して下江兵と曰ひ、眾皆して萬餘人」とあり、この武装勢力を緑林軍と一般には呼ぶ。『通典』に「當陽 漢の舊縣なり。又、漢の臨沮侯國の故城は今の縣北に在り。綠林山有り、王莽の末、賊の起ちし所なり。」(州郡十三 古荊州)とあり、所在は荊州の當陽(現湖北省宜昌市当陽)にあった。 隋堤:白居易の「隋堤柳」に「曾て經たり大業年中の春 大業年中の煬天子 柳を種ゑて行を成し流水を夾む 西は黃河より東は淮に至る 綠陰一千三百里 大業の末年春の暮月 柳色は煙の如く絮は雪の如し」(巻427)とあるように、煬帝がつくった大運河(洛陽から洛水、黄河、汴水、泗水、淮水を経て長江に至る)、ほとりに柳を植えたので隋堤柳と称された。この大運河は煬帝の巡遊のために作られたこともあって、中国史では浪費扱いされ、白居易も「請ふ看よ隋堤亡國の樹を」(同)と断じている。 蓼穗:タデの穂、食用にする。隋堤柳のネガティブなイメージを回避するために蓼穗としたか。 故園:故郷 歸心:故郷に帰りたいと思う心、賈島も「桑乾を渡る」に「客、並州に舍すこと已に十霜 歸心、日夜咸陽を憶ふ」(巻574)と詠む 迢遞:はるかに隔たること 秣陵:地名、現河南省周口市沈丘県
3−5.煙
ここでいう“煙”はものを燃やして発生する正真正銘の“けむり”のことである。まず白居易の「初到忠州登東樓寄萬州楊八使君」(巻434)については、忠州は現四川省重慶市中部に当たり、「山束ねて邑居(市街)窄く 峽牽きて(盆地であること)氣候偏す(ほかとは異なる) 林巒、平地少なく 霧雨、陰天多し」と詠まれるように、鬱蒼とした森林の山がちの盆地でもともと煙雨の多いところである。しかし、この詩で漠漠と詠むのは本物の煙であり、それも塩井から汲み上げた塩水を煮詰める(2−1で前述)ときに発生する煙と、開墾地を焼き払って出る煙を併せていうのである。この漠漠とはもくもくと出るだけではなく、黒い煙で暗くなった情景も含まれる。一方、曹唐の「織女懷牽牛」(巻640)は、冒頭句で一目瞭然のように、七夕の行事における恋愛譚の主人公織女と牽牛について詠んだものである。その全編をここに示す。
曹唐「織女、牽牛を懷ふ」
北斗の佳人、雙びて淚流し 眼穿腸斷、牽牛爲り
封題の錦字、新恨を凝らし 拋擲して金梭舊愁を織る
桂樹三春、煙漠漠たり 銀河一水、夜悠悠たり
北斗の佳人は織女、牽牛は眼穿腸斷すなわち断腸の思いをもって待ち侘びるというストーリーである。封題の錦字とは織女が牽牛を慕って書く手紙のことで、会えない心苦しさを書きしたため、金梭(機織り舟形の道具)で織物をつくることで旧愁に浸ったという。“拋擲”はなげうつという意であるが、自らの身をなげうって牽牛に対する旧愁を織るというのであり、多分に概念的であって実際に織物を作るわけではない。第3連はかなり難しく、そのまま通釈すれば、桂樹は三度の春を経て(焼かれて)煙がもうもうとし、天空を見上げれば一筋の天の川が横たわり、織女・牽牛の愁を尻目に何事もなかったかのようにゆったりとすぎていく、となる。桂樹は月に生えるという想像上の樹木で、香料あるいは漢方薬として珍重される桂皮とは本質的に無関係である。仮に後世に混同されたとしても桂皮そのものに強い薫香があるので、沈香などのように焚く必要はまったくない。あるいは『文選』に「古墓は犂かれて田と爲り 松柏摧かれて薪と爲る」(巻29「古詩十九首)とあるから、何らかの寓意を込めているのかもしれない。すなわち長い時を経れば世の中は移り変わりを余儀なくされ、どんなに珍重されるものでも焼かれる運命にあり、織女・牽牛はそれほどの試練に置かれているとも解釈できるのだ。ほかに“煙”を詠んだ詩はあるが、それらが水煙であることは3−3で述べてある。すなわち、本物の煙を詠んだ詩はきわめて稀ということになる。
3−6.砂・土
前述したように、『説文解字』によれば、“漠”は砂原を意味するのであるが、意外にも唐詩における用例はごく少ない。皇甫曾の「送和西蕃使」(巻210)は、西蕃すなわち唐西方の異民族に対して和睦を申し入れるため使者を派遣し、その使者を見送るために詠まれた。皇甫曾自身はこの詩に朧げながら示唆されているように和睦に反対の姿勢であった。当時の歴史を知る上でも興味があるのでここに全編を紹介しておく。
皇甫曾「西蕃使に送和す」
白簡初めて分命し 黃金已に腰に在り
恩華、外國に通じ 徒禦、中朝に發む
雨雪、邊より起ちあがり 旌旗、隴に上りて遙かなり
暮天、沙漠漠として 空磧、馬蕭蕭たり
寒路、河水に隨ひ 關城、柳條見る
戎に和して先づ戰ふを罷むるや 勝つを知るは霍嫖姚
〔語釈〕白簡:和睦のための書簡、白は曰に通じ“申し上げる”という意 分命:分司の官に任ぜられること 恩華:めぐむこと、ここでは黄金を与えること 徒禦:“徒に禦ぐ”という義で無駄な防衛策のこと 中朝:中古時代 邊:辺境の地 旌旗:陣営に掲げる旗 暮天:夕空 空磧:広い人気のない石ころの河原 蕭蕭:ものさびしいさま、馬だけではなく河原の状況を指していう 關城:関所、異民族を防ぐ目的で軍営を置いた 戎:戎夷、古代中国の西方異民族 霍嫖姚:杜甫の「橫吹曲辭:後に塞を出づる五首」に「悲笳、數聲動き 壯士、慘として驕らず 借問す、大將は誰ぞ 恐らくは是れ霍嫖姚ならん」(巻18)とある漢の嫖姚校尉として名を馳せた霍去病のこと。それまでの防御戦術から積極的に匈奴を討伐する戦術に転換し成功した。
この詩における漠漠の用例はまさに『説文解字』にいう語義そのものであり説明の必要はあるまい。詩の内容を簡単に説明しておく。第1・2連は西蕃使が白簡と黄金を携え、和睦交渉に向かい、第3〜5連は中国西方、黄河上流域の砂漠地帯に配置された関所や軍営の様子、第6連では異民族に和睦して戦いをやめるというのか、霍嫖姚は戦うことで勝利したのだが、となる。
次の李益の「水亭夜坐賦得曉霧」(巻283)も全編を示して説明する。
李益「水亭に夜坐して曉霧を得るに賦す」
月落ちて寒霧起ち 沈思して浩く川に通ぜん
宿禽囀りて木散じ 山澤一蒼然たり
漠漠たる沙上の路 沄沄たる洲外の田
猶ほ當に遠樹に依るべし 斷續、天を窮せんと欲す
〔語釈〕宿禽:木の枝に宿っている鳥 蒼然:茂るさま、暮れゆくさま 沄沄:本文中 遠樹:字義的には遠くの樹であるが、直前の第3連で沄沄洲外田と詠んでいるから、貧弱な砂原ばかりの地とは桁違いに豊かな田園を意識してかくいうのであろう 斷續欲窮天:斷續は時々とぎれながら続くこと、わかりにくいが豊かな地方との関係を強めないと天下が窮してしまうというのであろう
漠漠と描写するのは“沙上の路”に対してである。行政区域(州)の外の田園を対比しているから荒原上の果てしなく遠くまで続いている一本路のことである。漠漠と対をなす沄沄は用例が少なくわかりにくい語彙であるが、韓愈の「條山蒼し」に「條山は蒼に、河水は黃なり 浪波は沄沄として去り 松柏は山岡に在り」(巻338)と詠まれている。黄色という河水はいうまでもなく黄河のこと、條山が蒼いのは松柏が生えているからである。條山は中條山ともいい、山西省西南部で秦嶺山脈と太行山脈の間に位置する。黄河の浪波が沄沄として流れ去るというから、河水が巡り流れるさまを沄沄という。この類縁句に澐澐があるが、大きな波を伴って逆巻くさまをいい、意味はかなり異なる。これだけ詳細な語釈があれば通釈は必要あるまい。
白居易の「早冬」(巻443)は、第1連からわかるように、江南で詠まれた詩である。温暖な江南では10月(旧暦)の初冬といっても春のような気候らしく、それほど霜が降りないので、草が青々として当然ながら陽光も暖かい。では第2連の「初めて乾く漠漠たる沙」とはどういう情景で、“初めて”とはどういう意味だろうか。おそらく冬に入って江の水位が下降して砂原は露出し、暖かな陽射しで乾き始めたと推定される。単なる砂原であれば夏の日射の方がはるかに強いから少々雨で濡れてもすぐに乾くが、そもそも砂が露出することはない。だから初冬になって露出した砂が乾けば“初めて”となる。第3連はハリグワの老木(老柘)の葉が若芽のように黄色く、寒櫻が狂い咲きしていると続いてあたかも春のような情景を詠む。最後の第4連で、酒を飲んで酔っ払う暇な民間人を羨んでいるが、この辺りの描写はいかにも酒好きといわれる白居易らしい。五馬とは太守の異称で、漢代、太守の車に四頭の馬がつき、ほかに添え馬(日本の引き馬に相当)一頭を加えて五頭としたことに由来する。太守は後に刺史(州の長官)と改称され、白居易はその任にあったため、内規で自由に酒家に出入りができなかったようである。
白居易「早冬」
十月、江南の天氣好し 憐れむべし冬景春華に似たり
霜輕く未だ殺れず萋萋たる草 日暖かにして初めて乾く漠漠たる沙
老柘の葉黃にして嫩樹の如く 寒櫻の枝白く是れ狂花ならん
此の時卻って羨む閒人の醉へるを 五馬、酒家に入る由無し
〔語釈〕天氣:現代語では天候・気象の意であるが、古典に出てくるのは少々ニュアンスが異なり、万物を生育する、天にみなぎっている精気をいう 春華:春の花のように美しいさま 萋萋:草木の茂るさま 老柘:柘は国文学では“つみ”と読んでヤマグワに充てるが、漢籍にいうものはクワとは同科ながら別属のハリグワ(わが国に自生なし)を指す 寒櫻:寒い冬の時期の桜桃(ミザクラ)をいい、字義のままにカンザクラと解釈するのは誤りである 五馬:本文中
溫庭筠の「故城曲」は全編の紹介を控えるが少々説明を要する。第1・2連の「漠漠たり沙堤煙り 堤の西、雉子斑 雉聲何ぞ角角たり 麥秀でて桑隂閑たり」として初めてまとまりのある意をなす。雉子斑とは李白の「雉子班」に「辟邪の伎鼓吹と作して驚き 雉子斑の奏曲成り 喔咿(鳥の鳴き声)振迅(疾いこと)して飛鳴せんと欲す」(巻163)と詠まれるように、樂府雜曲の鼓吹曲辭をいう。キジの角々しい鳴き声から楽府雑曲を想像して詠んだようである。“沙堤煙り”とは砂からなる堤防(自然堤防)から風によって巻き上げられた砂煙をいう。最後に杜甫の「久雨期王將軍不至」(巻222)は第2連に「銳頭の將軍來ること何ぞ遲きや 我をして心中足らざるに苦しましむ」とあるように、会うことを約束をしていた王将軍を待ち侘びて、結局、来なかったという内容の詩である。久しい長雨で泥のぬかるみ(泥濘)が果てなく連なり、これではオオトリ(鴻鵠)も飢えてしまいそうだ、という状況の中で王将軍は来られなかったらしい。しかし、「歲暮窮陰、耿として未だ已まず 人生會面、再び得難し」と詠み、冬の末で年が暮れようというのに悲しみは止むことがなく、君との面会は二度とできないのではといい、けっこう手厳しい態度を示す。
3−7.塵
杜甫の「秋日夔府詠懷奉寄鄭監李賓客一百韻」(巻230)は200句からなる長い詩、「兵戈に塵漠漠たり」とは戦争で軍馬が駆ってほこりがいっぱい立っているという意である。“塵漠漠”は定型句のようで詩文に散見し、そのうちで崔融の「從軍行」(巻68)は杜甫詩とほぼ同義の用例であるので、ここではその一部を紹介するに留める。ただし、この詩が従軍行であることは全編を読まないとわからない。
崔融「從軍行」(一部)
漠漠たる邊塵に眾鳥飛び 昏昏たる朔氣に群羊聚む
依稀として蜀杖、新竹に迷ひ 仿佛として胡床、故桑を識る
海に臨みて舊來驃騎を聞き 河を尋ねて本自ら中郎有り
〔語釈〕邊塵:辺境の塵 眾鳥:多くの鳥、任翻の「秋晚途次」に「眾鳥は已に樹に歸り 旅人は猶ほ山を過ぎんとす」(巻727)とある 昏昏:物の区別ができないほど暗いさま 朔氣:北の寒涼の気 依稀:『康熙字典』に「又依稀、猶彷彿也」(人部 依)とあり、この詩でも“仿佛(=彷彿)”に相対し、「さながら」の意であるが、一応、区別してはっきりしないさまの意としておく 蜀杖:白居易の「新昌の新居の事を書す四十韻、因りて元郎中、張博士に寄す」に「緩やかに步きて筇杖を攜へ 徐に吟じて蜀箋に展ぶ」(巻442)とある一節に関係があるかもしれない。興味深いことに、『史記』の大宛列傳に「(張)騫曰く、臣、大夏に在りし時、邛竹杖、蜀布を見る。問ひて曰く、安んぞ此を得るらんと。大夏國人曰く、吾が賈人往きて之を身毒(インド)に市ふ」とあり、今は四川の名産品となっている邛竹杖は大夏国(通説では今日のアフガニスタンという)より渡来したというのである。それを蜀杖と称した可能性が考えられるが、竹の専門書というべき『竹譜』は「笻竹、又の名扶竹、又の名扶老竹、又の名慈悲竹。凡そ二種、西蜀に出づ。廣志云ふ、廣南卭都縣の近地に出づと。一兩節に屈折多くして狗脚の狀の如く、節は極めて大にして莖は細く痩せ、節髙く(節間は長く)中は實して(中身は充実して)狀は人剖の若し。俗に之を扶老竹と謂ふ。」(巻6)と記述する一方で、「山海經いふ、■山に扶竹多しと。注云ふ、卭竹なりと。節髙く中は實して扶老竹と名づくと。南中の僧人、取り拄杖(僧が行脚の際に用いるつえ)に作りて甚だ佳し。然れども擊つべからず、掊擊すれば則ち節斷折するに隨ふ故に、此れ亦た之を慈竹と謂ふ。枝葉は常の竹と異なる無し。昔、張騫、西にいきて大夏に至りしに見る所の者なり」とも記載し、筇(笻)竹は蜀にも産して張騫が大夏で見たものと同じとしている。 新竹:若竹 胡床:胡牀、胡国より伝わった一人用の腰掛け 故桑:新竹に相和して“古い桑”すなわちクワの老木、大木のクワは工芸材として秀逸という事実がある 中郎:中郎将、将軍に次ぐ位 驃騎:本文中
驃騎は将軍の名前、『史記』では漢の武帝が霍去病を驃騎将軍に任じたと記されている。中郎は中郎将の略、将軍に次ぐ位で、以上をもって「漠漠たる邊塵」が辺境地域において異民族との戦争を示唆し、荒漠たる大地を軍馬が駆って粉塵が舞い上がる情景を想像できるのである。しかし、劉禹錫の「金陵五題:生公講堂」(以下に全編を示す)に詠まれた“塵漠漠”はまったくニュアンスが異なる。前句に「生公の說法、鬼神聽く 身後空堂、夜扃ぢず 高坐寂寥、塵漠漠たり 一方明月、中庭に可し」(巻365)とあり、全編を通釈すると、高僧生公の説法は鬼神すら聴くほどだという、ただ高僧の死後は講堂に人気はなく開けたままにされ、かつての高座はものさびしさを感じるばかりで塵がいっぱい積もっている、ただ中庭には明月が高僧の生前と変わらず照らしている、となる。すなわち同じ“塵漠漠”といっても舞い上がる塵と積もる塵(ほこり)の二通りの意がある。白居易の「和答詩十首:和松樹」(巻425)では道の両側に植えられたエンジュ(槐)がもうもうたる塵に包まれているさまを詠み前者に相当する。許渾の「題故李秀才居」(巻534)は故人を偲んで詠んだ歌で、故人の住んでいた家の窓辺に置かれた琴にはほこりが積もり〜とあるから後者に相当する。最後に韋莊の「奉和左司郎中春物暗度感而成章」(巻700)を紹介する。“漠漠たる塵”が舞い上がる塵であることはいうまでもなかろう。この詩は中国の故事が読み込まれているので全編を示す。ただし、詳細な語釈をしてあるので通釈は省略するが、第4連は、自分も心に思うことが多い病を患っているようだが、タメ口風にいえば、それって生前の宋玉そのもじゃん、という意になろう。
韋莊「左司郎中、春の物暗きに、度感して章を成すに奉和す」
才かに喜ぶ新春已に暮春となるを 夕陽吟殺す、樓に倚る人
錦江風散じ霏霏たる雨 花市、香飄ひ漠漠たる塵
今日尚ほ追ふ、巫峽の夢 少年應に洛川の神に遇ふべし
時に自ら患ふ多情の病有るも 是れ生前の宋玉の身莫らんや
〔語釈〕左司郎中:事務の点検を行う検勾官の一職名 暮春:晩春 吟殺:吟に同じ、殺は程度がはなはだしい意を添える 霏霏:雨や雪などがしきりに降るさま 錦江:四川省成都市内を流れる川で岷江の支流、長江水系に属する 巫峽の夢:巫山の夢に同じ。楚の㐮王が高唐に遊び、夢の中で巫山の神女とちぎったが、神女が去るに臨み、「妾は巫山の陽、高丘の岨に在り、旦には雲となり、暮れには行雨となる」と言って立ち去ったが、その通りになったという故事で、『文選』の高唐賦(宋玉)に出典する。巫山は四川省重慶市巫山県にある山、因みに巫峽はその一帯にある長江三峡の一つ。 洛川の神:洛水の女神宓妃のこと、洛神ともいう。『藝文類聚』の魏・曹子の洛神賦に「余、京域從り言東藩に歸り、伊闕に背き、轘轅を越へ、通谷(深い谷)經て、景山を凌し,陽林に容與(ゆったりとくつろぐさま)し、洛川を流眄て一麗人を巖の畔に睹たり。乃ち御者を援けて之に告げて曰く、彼は何人ぞ、斯くの若き豔なるは。御者對へて曰く、臣聞く、河洛の神、名づけて虙妃と曰ふと。君王見る所は乃ち是れなること無からんか。」(巻八 水部上「洛水」)とある。洛水は黄河の支流。巫峽(山)夢・洛川神のいずれも中期以降の唐詩に出てくる。 多情:心に思うことが多いこと 宋玉:戦国時代の詩人で楚の人、頃襄王に仕え、同郷の詩人屈原の弟子といわれる
3−8.その他
その他の“漠漠”は形容の対象が漠然としているものをここに挙げる。まず杜甫の「玄都壇歌寄元逸人」については、玄都とは道教における理想郷すなわち仙郷のことで、仙郷に強い憧れを抱いていた漢の武帝がつくったのが玄都壇である。元逸人は元という逸人すなわち世間をのがれて俗事と交渉を持たない隠士の意であるが、道家であることは第5連によっていっそうはっきりする。少々わかりにくいが、“此の計”は仙経の目的を果たさんがための計りごとをいい、“長往”とはそれによって俗界から長い間離れることをいう。因みに、芝草は霊芝(レイシ)、琅玕は『抱朴子』に「五色の琅玕有り、取り理めて之を服せば、亦た人をして長生せしむ」(內篇・金丹)とあり、いずれも仙経で珍重する仙薬である。“漠漠”は青石を含む玄都壇全体を指して形容するもので、一説に“常”を“松”に作って“松風寒し”と解釈するのは松が不老長寿の瑞木でこの詩の背景に暗示される仙経に叶うからである。青石は碑文を彫るのに適した平らで堅い石として知られるが、玄都壇においても一定の意味がありそうである。それはのちに紹介する孟郊の詩「藍溪元居士草堂」(巻376)でもおぼろげながら示唆される。
杜甫「玄都壇歌、元逸人に寄す」
故人、昔隱る東蒙峰 已に佩ぶ、含景の蒼精龍
故人、今居る子午谷 獨り陰崖に在りて茅屋を結ぶ
屋前、太古の玄都壇 青石漠漠として常に風寒し
子規、夜啼きて山竹裂け 王母、晝下りて雲旗翻る
知れり、君の此の計、長往を成すを 芝草琅玕、日に應に長ずるべし
鐵鎖高く垂れて攀づべからず 身を福地に致す何ぞ蕭爽なる
〔語釈〕玄都壇:本文中 故人:元逸人、現代語とは違い旧知の人の意 東蒙峰:山東省臨沂市にある蒙山のこと、古くは東蒙、東山とも呼ばれた 含景:王昌齡の「華陰を過ぐ」に「雲起つ太華山 雲、山互ひに明滅す 東峰は含景に始む 了了(明瞭なさま)として松雪を見る」(巻141)とあり、地名と思われるが不詳 蒼精龍:仙経に関連するものであろうが不詳 子午谷:陝西省西安市の南、三国志に出てくる 陰崖:北あるいは西向きの崖、陰陽思想では北は西とともに陰とされるのでかくいう 子規:ホトトギス 山竹裂:竹が裂けるのではなく、その時に出る音を指す 王母:西王母、中国神話上の女神で漢の武帝は三千年に一度実る桃の実を授かったという 雲旗:いわゆる旗雲、道教では仙人の行列と考える 芝草琅玕:本文中 鐵鎖:鉄の鎖、転じてきびしい束縛の意もあり、“攀づべからず”は束縛からの解放を暗示する 福地:神仙のすむ地 蕭爽:静かで爽やかなさま
孟郊の詩題にある元居士とは、元という学徳の高い隠者の意で、奇しくも杜甫詩にある元逸人とよく似た存在であるが、同一人物であるかは微妙である。ここに“藍岸青く”、“藍峰碧く”とあり、青い石を産することがうかがえる。ただし、玉ではないことに留意しなければならない。実は白居易も青石を詠んだ詩があり、「⾭石、藍田山より出づ 兼せて車に運載し長安に來る 工人磨琢して何ぞ用いんと欲す 石は言ふこと能はず、我れ代りに言はん 人家の墓前、神道の碣と作すを願はず 墳土、未だ名を幹どらず已に滅せり 官家の道の旁らの德政碑と作すを願はず 實錄を鐫らずして虛辭を鐫る 願はくは顏氏段氏の碑と爲り 太尉と太師とを雕鏤せん」(巻427 ⾭石 忠烈を激ますなり)とある。前述の玄都壇の青石も碑文が刻まれたとは詠まれていないが、漠漠というからには平らなものにちがいない。
孟郊「藍溪、元居士の草堂にて」
市井、義を容さず 義は山谷の中に歸す
夫君宅むは松桂 我れ招き棲むは蒙籠
人樸なりて情慮肅む 境閑なりて視聽空し
淸溪、轉た水を宛らす 修竹、風を徘徊す
木に倦む采樵の子 土に勞る稼穡の翁
書を讀む業異なると雖も 本を敦ぶ志亦た同じ
藍岸⾭く漠漠たり 藍峰碧く崇崇たり
日昏れて各酒を命ず 寒蛩鳴いて蕙叢がる
〔語釈〕藍溪:陝西省藍田県にある山系中の渓谷 元居士:本文中 草堂:草ぶきの家、しばしば自分の家のへりくだっていう 松桂:松や桂樹、上流階級の象徴 蒙籠:草木が乱れ茂るさま、見窄らしさを表す 樸:素朴 境閑:境は境地・境遇、閑はおろそか 修竹:長く伸びた竹 采樵:しばかり・薪を採る 稼穡:農業 崇崇:山の高いさま、崇敬の念を込める 寒蛩:寒くなっても鳴くコオロギ 蕙:香草、高級な香料を蘭蕙という。本草学では零陵香の別名を蕙草と称し、基原はサクラソウ科植物のLysimachia foenum-graecumである。俗間では蕙をラン科のシランとするが、おそらく蘭蕙という語彙を誤って解釈したものであろう。
杜甫の「贈蜀僧閭丘師兄」(巻219)では“漠漠として世界は黑く 驅車(杜甫少陵詩集では驅驅)爭奪繁し”と詠まれ、意味はとりにくいが、“驅驅と“驅車”のいずれであれ、“爭奪”によって人々の先を争うさまをいうから、この世のすべてが真っ黒ということになり、これまでのどのカテゴリーともニュアンスが異なる用例である。白居易の「別行簡」(巻433)もきわめてユニークな用例である。まず行簡とは白居易の弟の名、遠く離れた地に赴く弟に寄せて詠んだ送別の詩である。冒頭に「漠漠たり病眼の花 星星たり愁鬢の雪」と詠むが、前述したように、白居易自身が白内障を患い、白い花のようなものがちらついて視力が落ち、一方で鬢毛だけはきらきら光っているという自らの健康状態を示したものである。白居易はほかにも眼病をストレートに表した詩を残しておりかなり重症だったようだ。したがって“漠漠”は眼の中にちらつく白い花様のものを形容したのである。見かけ上は花に対して漠漠というから、比喩として3−2においてもよいかと思う。許渾の「泊松江渡」(巻527)に詠まれる「漠漠たり故宮の地」とは、昔の宮殿の跡地を偲んで詠んだ。次に全編を示すしておくが、もはや国境(荒戍)となった寂しげな場所の全体を漠漠と描写していることがわかる。広々感より寂しさの方がずっと勝っているから、3−1よりむしろここの方が当たっているのである。
許渾「松江の渡しに泊まる」
漠漠たり故宮の地 月涼しく風露幽かなり
雞鳴く荒戍の曉 雁過ぐ古城の秋
楊柳、北への歸路 蒹葭、南への渡舟
鄕を去りて今は已に遠く 更に上りて望む京樓
〔語釈〕松江:呉淞江の異称で江蘇省南東部から上海西部を流れる黄浦江の支流 故宮:昔の宮殿 荒戍:荒れた軍営 蒹葭:アシ・オギの仲間、詳細は4−2の劉長卿「湘中紀行十首:赤沙湖」にて述べてある 京樓:京の楼閣
李郢の「春日題山家」(巻590)は昆虫の蚕(カイコガ)が繊維を旺盛に吐き出すのを漠漠と表した。紙を生じるとは違和感を感じるかもしれないが、昔は帛書といって絹布に書かれた文書や書物があった。しかしながら動物と植物の違い歴然としているからここに分類せざるを得ない。
4.唐詩における“茫茫”
茫茫は漠漠の211件に対して約1.5倍の305件も出てくる。漠漠は現代語ではほとんど用いることはないが、“ぼうぼう”は草や髪は伸びて乱雑なさまを表すのによく用いられる。その用例は互いに似ていることもあり、前項の類別を踏襲することにする。また、漠漠との間で用例の違いがあれば随所で論議する。4−1〜4−8の末に参照した唐詩のリストを挙げてあるが、そこに出てくる茫茫は、3−1〜3−8と同じく、必ずしも当該項の用例に合致するとは限らない。
4−1.天・海・荒原・水田など広さを標榜する
広々としてはるかなさまの意で用いる用例が多いのは漠漠と同じで、かかる点に関しては顕著な差異は認められない。そのうちで4首を選び詳細な解析を通して意味を考えてみたい。まず、貫休の「茫茫曲」を挙げる。詩題および冒頭句にもいきなり“茫茫”が詠まれ、また末句にも出てくる。まさに“茫茫”づくしといってよい稀有な詩であるが、末句の茫茫は四大すなわちこの世のすべてを指し、まさに広大たるものを表すにふさわしいといえるが、現実の情景における広さが根底にあり、それから概念的な広大さに帰結させている点がこの詩のユニークなところである。人を愁殺するとは、ひどく痛み悲しませる結果、精神的に落ち込んでしまうことをいうが、その原因となるものはこの世のどこにでもあるという意味で“茫茫たる四大”と詠んだのである。第1連の埃塵もちりとほこりだけでなく汚れたものすべてを包含すると解釈すべきことになろう。こう考えるとこの詩は相当に悲観的、自虐的な内容といえる。少々わかりにくいところがあるので全編を通釈すると、世の中は果てなく広大で眼に入ってくるものはみな塵や埃のような汚れたものばかり、頭を見て汚れのなさそうな白髪を多いと喜んではいけない、実は一本一本がみな愁の筋なのだ、工芸の世界でも名人の域に達していなければ粉飾して彫刻しなければならないし、いや名人といわれるようになっても仁道からはずれた人は多いものだ、イバラの薮は浅い深い、高い低いところといわず、どこでもよくはびこるように、広大な世の中には痛み悲しませるものの何と多いことか、となる。このように背景に暗示されていることまで勘案すれば、茫茫の用例の多くは4−8の「その他」に分類してもおかしくはない。
貫休「茫茫曲」
茫茫復た茫茫 眼に滿つるは皆埃塵
白髮多しと言ふ莫れ 莖莖、是れ愁の筋
未だ達せざれば雕偽に苦しみ 及達すれば不仁多し
淺深と高低と 盡く能く棘榛を生ず
茫茫たる四大、人を愁殺す
〔語釈〕埃塵:ちりとほこり 莖莖:理義字(同じ漢字を2つ組み合わせて使う漢字)のように見えるが、ほかに用例が見当たらない。前句の白髪を受け同句の“筋”に関連するから、一莖一莖の略と考え、一本一本の義と解釈する。 雕偽:『孔子家語』の相魯に「路に遺てたるを拾ふこと無く、器に彫偽せず」とあり、彫刻や絵画で文飾をしないこと、すなわち飾り偽ることを戒めているのである 及達:未達に対して“達”の域にあること 不仁:仁の道に背くこと、慈しみのないこと、ここではその人のことをいう 棘榛:榛棘に同じ、刺榛・榛刺とも。また、荊榛・榛荊も同義。イバラの蔓延したやぶのことで、いわゆる厄介者と考えればよい。『説文解字』に「蓁は艸の盛んなる皃なり」とあるが、蓁蓁と榛榛の義はほとんど変わらないから、榛も草木の茂ったさまの意であり、本草でいうカバノキ科ハシバミの漢名ではない。 四大:『道德眞經註』に「四大は道、天、地、王なり」とあり、この世のすべてを指す
白居易の「登西樓憶行簡」(巻439)では秋の長江の膨大な水域を茫茫と表現し、これは現実の情景に基づく。『杜少陵詩集』は漫天を侵天としているので、「天を浸す」と訓読するが、『全唐詩』の漫天でも「天に漫る」と読んで、侵天と同じく江水が天にまで及ぶかと〜と解釈できる。西樓に登って滔々と流れゆく江水が遠く天に溶け込むかのような壮大な情景から人間道路の長さすなわち世界の広さを実感したというのである。因みに、詩題にある行簡とは白行簡すなわち白居易の弟で小説家として名をなした。3年も顔を合わせていない弟を、はらわたがちぎれるほど思いこがれ、いつかは長江の瞿唐峡を無事に渡りきって帰ってきて欲しいという心情を第3・4連で締めくくっている。
白居易「西樓に登りて行簡を憶ふ」
每に樓上の西南を望むに因りて 始めて人間道路の長きを覺ゆ
日を礙ぐる暮山靑く蔟蔟として 天に漫る秋水白く茫茫たり
風波、三年の面を見ず 書信、萬里の腸を傳へ難し
早晚、東に歸り來りて峽を下り 穩やかに船舫に乘りて瞿唐を過ぎん
〔語釈〕人間道路長:世間の広大なること 暮山:夕暮れ時の山 漫天:天にまで長江の水流が及ぼうかということ 秋水:秋の長江 蔟蔟:群がり集まるさま 不見三年面:3年も顔をあわせていないこと 萬里腸:腸は腸斷(斷腸)、遠く離れたところで心が痛むこと 早晚:早かれ晩かれ、いつかの意 瞿唐:瞿唐峡、長江三峡の一つ
次も白居易の詩を紹介する。東方の夕方の海と空の情景を茫茫と表しているが少々説明を要する。中国は歴史的に内陸国家であり、海はすべて東方のかなたにあって辺境と認識する。すなわち海がごく身近な存在である日本と中国では海に対する認識が大きく異なるのである。また長江や黄河をはじめ主たる大河は東へと流れて海に注ぐ。したがって「海天東に望む」といっても実際に海を見ているわけではなく、広大な長江の水面のかなたにある海を想定しているにすぎない。とはいえ江樓から見た夕望は雄大だったはずであり、山河の形勢は広大かつ長大と詠まれていることで明らかになる。したがってこの詩の茫茫は典型的な地形の広大さを表す用例である。第2連では一転して街の隅々まで燈火が行き渡り明るいことを強調する一方で、空を見上げると“天上の大河”たる天の川が流れているという。第3連で情景はがらりと変わるが、おそらく実景を見ているわけではなく、想像上で詠んだと思われるので解釈は一筋縄ではいかない。まず風吹古木とはどういうことなのか。唐詩には方幹が「涼風、古木に吹き 野火、殘營を燒く」(申州を過ぎて作りき 巻649)と白居易の句をほぼそのまま読み込むが意味は今一つはっきりしない。韓愈は「微風、木石を吹き 澎湃(物事が盛んな勢いでわき起こるさま)として韶鈞(韶は舜が作ったといわれる楽曲、鈞は鈞天すなわち天帝の居所)を聞く」(惠師を送る 巻337)と詠み、難解な句ながら、木石を微風が吹いた後に聞こえてくるのは天帝の楽曲のようだと解釈できる。したがって風吹古木もそこから聞こえてくるのは雨音のようだ、となり、因って晴天雨も、お天気雨のほかに、空は晴れてただ雨音に似た音が聞こえるだけでとも解釈できる。第4連の銷暑も難解、銷は、通例、金属を融かすという義だからだ。これも金を氵に作れば消となり、暑さをうち消すとなって意味が通じる。これは普通の漢和辞典にも載っている字義だから決してこじつけではない。
白居易「江樓の夕望に客を招く」
海天東に望めば夕茫茫たり 山勢川形闊くして復た長し
燈火萬家、城の四畔 星河一道、水の中央
風、古木に吹く晴天の雨 月、平沙を照らす夏夜の霜
能く江樓に就きて暑を銷すや否や 君の茅舍に比すれば較淸涼
〔語釈〕山勢川形:山河の形勢 四畔:周辺の隅々 星河:天の川 一道水中央:一道は(天の川の)一筋、水は江樓の前の江水を指し、その中央の真上に天の川が流れている情景を示す 晴天雨:空は晴れているのに雨粒が降るいわゆる「お天気雨」のこと、別の解釈も成り立つが本文中を参照 平沙:広々とした砂原、月に照らされて白いのを夏夜の霜と表現した
張籍の「古苑杏花」(巻384)は主人を失って荒れはてた庭園のさまを詠んだ。一方で、花やかだった頃と同じように咲くアンズを見て、その落差の大きさが道行く人の愁心を極限にまで至らしめるというのである。第2連で新たに掘られた塹と緑の葉陰から半ば露出したたわわに赤い実をつけたアンズの枝、そして第3連で、意味は今一つ理解し難いが、荒れたわだち(花やかだった頃のなごりか)と折れて何やらわからない碑文とを対比させている。“茫茫”が詠まれているのは末句で古い陵墓に掛かり、古苑はそれに付随する施設でかつては豪奢だったと初めてわかる。しかし、古くは壮大だったにちがいないが、長い時を経て、アンズの花が咲く春が過ぎてしまえば、栄華の過去を知るものはいないと締めくくる。陵墓とそれを取り囲むであろう庭園を含め、その壮大・豪奢さを茫茫と詠み、単なる空間の広大さに言及しているわけではない。
張籍「古苑の杏花」
廢苑に杏花在り 行人、愁到の時
獨つ開く新たな塹の底 半ば露はす舊き燒枝
晚色連なる荒轍 低陰覆ふ折れし碑
茫茫たる古陵の下 春盡きて又誰ぞ知らん
〔語釈〕古苑:古い庭園 杏花:アンズの花 行人:道行く、旅人 愁到時:愁が極限に達するとき 燒枝:齊己の「櫻桃を乞ふ」に「嚼破す紅香(赤く熟した果実)換骨(金丹を服して仙骨となる道家の方)に堪ふ 摘殘の丹顆(赤いサクランボの顆粒)、燒枝ならんと欲す」(巻844)とあることをもって、アンズの赤い果実がついた枝をいう 晚色:暮れ方のようす 荒轍:荒れたわだち 低陰:陰気の少ないさま
4−2.花・草木ほか生物の生命力の旺盛さを彷彿させる
前節3で例を挙げて述べたように、漠漠と花・草木などを取り合わせた詩は頗る多いが、それに比べると茫茫はかなり少なめといえる。中でもとりわけ少ないのは特定の植物種に対する詩であり、ここではそれに限って紹介することにする。張籍の「湘江曲」にある白蘋は四葉のシロツメクサに似た葉をつけるシダ植物のデンジソウをいう。茎は長く水中で横走し、浅い水域では埋め尽くすような大きな群落を作るので茫茫をもって表すにふさわしい。白蘋はしばしばシロデンジソウあるいは白色のデンジソウと解釈されるが、“白”を冠するのは胞子嚢あるいは胞子嚢果をつけた個体に対してであり、そのような個体はいつでも存在するわけではないので好ましくない。因みにわが国では水田や浅い自然水域の人為的管理が進み、茫茫といえるほどのデンジソウの群落に遭遇することはほとんどない。
張籍「湘江曲」
湘水に潮無く秋水闊し
湘中に月落ち行人發つ
人を送りて發ち人を送りて歸る
白蘋茫茫、鷓鴣飛ぶ
〔語釈〕湘水:詩題の湘江と同じで洞庭湖に注ぐ長江の支流 秋水:既出、秋の長江、おそらく湘江と長江の合流するところで詠まれたのであろう 白蘋:本文中 鷓鴣:キジ科シャコ属の鳥の総称
次も張籍によって詠まれた詩であるが、冒頭句にある菰草はイネ科マコモをいう。本草名を菰根と称しマコモの根を薬用とする。種子を菰米と称し食用になるが、収量が悪いので救荒作物として利用するに留まる。唐詩では杜甫の「秋興八首」に「波は菰米を漂はして沈雲黑く 露は蓮房に冷やかに墜粉紅なり」(巻230)と詠まれている。マコモも浅い水域に大群生するので茫茫と形容するに値する植物である。わが国ではかつて水田や池沼にまとまった群落は普通に存在したが、最近では畦や水路、水辺の護岸が整備されるにつれて急速に姿を消している。
張籍「重平驛にて作りき」
茫茫たる菰草、平げて地の如し
渺渺たる長堤曲がりて城に似たり
日暮れて未だ投宿の處を知らず
逢人更に問ふ前程に向かへと
〔語釈〕重平驛:不詳 渺渺:遠くはるかなさま 前程:旅のさらに先のこと
次の詩は湘江の船旅で詠まれた。ただし、意外に難解であり、語釈で説明しておいたが、未だ確信に至ってない。葭菼については本草に通じていないと正確な理解は難しい。古くから異説が多く混乱しているが、ここでは『證類本草』が引用する蘇頌の見解が比較的正鵠を射ていると思われるので紹介する。
圖經曰く、〜謹みて按ずるに、爾雅は蘆根を謂ひて葭華と爲す。郭璞は云ふ、蘆は葦なりと。葦は卽ち蘆の成したる者、蒹を謂ひて薕 廉と同じなり と爲す。蒹は萑 音桓 に似て細く長く、髙さ數尺なり。江東の人呼びて薕薖 荻と同じなり と爲す者は菼 他敢切 と謂ひて薍 五患切 と爲す。薍は葦に似て小さく、中は實して、江東呼びて烏蓲 音丘 と爲す者は、或は之を荻と謂ふ。荻は秋に至りて堅く成せば卽ち之を萑と謂ひ、其の華は皆苕 徒雕切 と名づく。
蘇頌に限らず、古今のいずれの学説も整合性という観点から一貫性を欠くが、蘆すなわちイネ科アシについて記したと考えて差し支えない。本草ではアシの正名を蘆とし、根を蘆根と称し、『名醫別錄』に収載されて以来の歴史的薬物である。因みに荻はわが国ではオギに充てるが、中国ではアシの一型と認識されていることに留意しなければならない。したがってこの詩にある“葭菼”もアシとして差し支えない。通例、アシは河川や池沼の水辺に大群落を形成するので、盛んに茂っているさまというよりむしろアシ原の広大さを茫茫と表すと考えるのがよいだろう。
劉長卿「湘中紀行十首:赤沙湖」
茫茫たる葭菼の外 一望一沾衣
秋水、天に連なりて闊く 涔陽、何處にか歸らん
沙鷗、暮雪を積み 川日、寒暉を動かす
楚客來りて相問ふ 孤舟泊りて磯に釣る
〔語釈〕赤沙湖:『大明一統志』に「岳麓寺は岳麓山の上に在り。〜道林寺は岳麓山の下に在り。」とあり(長谷川昌弘「宋代禅と湖南省」による)、杜甫の「岳麓山道林二寺行」に「玉泉の南麓山殊し 道林の林壑爭ひて盤紆(めぐること)す 寺門髙く洞庭野に開き 殿腳は赤沙湖に插入す」(巻223)とある。すなわち道林二寺とは岳麓寺と道林寺を指し、それぞれ岳麓山(湖南省長沙市岳麓区にある低山)の山頂と山下にある。おそらく赤沙湖とは岳麓山麓の道林寺の辺りにある小さな湖であろう。 葭菼:本文中 一望一沾衣:沾衣は“衣を沾す”、すなわち衣服を濡らすという意、したがって見渡してみるとアシ原から上がってきた人の濡れた衣服が目に入ったという解釈になろう 秋水:秋の湘水 涔陽:『廣韻』に「涔は涔陽の地名なり。又、管涔山の名。又、蹄の涔(溜水)は尺鯉を容れず。蹄牛馬跡。」(下平聲 岑)とあり、地名であることは確かであるが、所在は不詳。 寒暉:冬の陽光 川日:沙鷗がカモメ(鷗)に沙を冠し、暮雪が実際に積もるのは砂であるように、寒暉(日)を動かす(日が没する)のは川であるから、日に川を冠したと考える。 寒暉:字義的には寒中の日(太陽)であるが、ここでは寒落暉(寒中の入日)の略と考える 動寒暉:寒暉を日の入りと、日が川に入る(川日)と解釈すれば、日の入りは日々変わるのでそれをもって“動かす”と詠んだ 楚客:楚の地に、あるいは楚の地から来た人、湘江・長江の合流するあたりは楚地であるから地元民に加えて他国の人も含まれる
李益の「野田行」(巻282)は野田を詩題とする。前節でも“漠漠野田”として出てきたが、漠漠を茫茫に置き換えてもほとんど違和感はないように見える。しかし、この詩では古城を出た後に何と茫茫たることかと詠まれ、一方、張籍の「野田」では「漠漠たり野田の草 草中に牛羊の道」(巻386)とあって、ニュアンスはかなり異なる。後者では“野田の草”とあり、野田全体に目が向けられているわけではないからだ。同じ広々感を表すにしても茫茫は漠漠よりスケールアップした情景に用いられるようだ。腹をすかしたキツネが墓の前で吠え、周りに植えられた白楊を焼くような鬼火が出そうなところだが、古い知り合いはまだ泉下の人とはなっていないが、もし墓の下で眠るようなことになれば断腸の思いは逃れられそうもない、という少々気味の悪い内容の詩といえる。
李益「野田行」
日沒して古城を出づ 野田何ぞ茫茫たるや
寒狐、⾭塚に嘯き 鬼火、白楊を燒く
昔人未だ泉下の客と爲らず 行きて此の中に到り曾ぞ斷腸せん
〔語釈〕野田:前節3−2で既出 寒狐:寒中のキツネのこと、この時期は餌の少ない時期であり、ひもじい思いをしているとして解釈する ⾭塚:苔むした墓、青冢ともいう 鬼火:いわゆるキツネ火、夜の墓地で見られるという青色の火だが単なる迷信にすぎない 白楊:既出、ヤマナラシ、貫休の「行路難」に「鬼火熒熒たり白楊の裏」(巻827)とも詠まれているから、墓地によく植えられたらしい 昔人:死んでしまった人の意もあるが、未爲泉下客と続くので昔の人のこと 泉下客:泉下は黄泉、すなわち死後の世界、熊孺登の「寒食野望」に「塚頭、種うる莫れ、花有るの樹を 春色、泉下の人に關せざるに」(巻476)とある
最後に李鹹用の「空城雀」(巻644)を紹介する。ただこの詩では植物は詠まれておらず、“九萬鵬”という想像上の鳥に冠する。『 莊子』の逍遙遊に「鯤の大なる、其の幾千里なるを知らざるなり。化して鳥と爲り、其の名を鵬と爲す。〜諧の言に曰く、鵬の南冥(南方の大海)に徙るや、水擊つこと三千里、扶搖(つむじかぜ)に摶ちて上る者は九萬里、去りて六月を以て息む者なり。」とあり、“九萬鵬”の出典はここにある。因みに、鯤も想像上の巨大魚である。第2・3連はわかりにくいが、スズメほか弱小の鳥類に対してハクチョウ、コウノトリなどの大型の鳥類を指し、空を見上げれば九万里も飛ぶという大きな鳥が飛び交う中で、スズメほか小鳥は控えめなのに対して、中型のキジは臆せずに楽しもうとしていると解釈すればよい。
李鹹用「空城の雀」
啾啾たる空城の雀 一たび啄みては數跳躍
寧ぞ尋ねん、覆轍の餘を 豈に巢危幕に比せんや
茫茫たり九萬の鵬 百雉、且に樂と爲さんとす
〔語釈〕空城:荒城 啾啾:ものがなしく泣くさま 覆轍餘:覆轍は車が転覆すること、覆車に同じでしばしば“覆車の戒め”をいう。李白の「空城の雀」に「君が糠秕の餘を食ひ 嘗に烏鳶に逐はるるを恐る 太行の險を涉るを恥ぢ 覆車の粟を營むを羞づ」(巻164)とあるのもそれを指す。一方、轍はわだち、すなわち車輪の跡の意で覆轍を先人の失敗の意で用いることもある。いずれにせよ何らかの失敗やリスクを表すことに違いはない。 巢危幕:巢危は危巢に同じで高い木の上に作られた巣で安全を、一方、幕は戦場の本営などに張られる幕の上に巣を作る危険性を暗示する。すなわち一般成句の燕巣幕上(燕巣危幕)に同じと考えればよい。この成句の出典は『春秋左傳』の襄公二十九年に「公叔、公子、朝に發ちて曰く、衛に君子多く、未だ患有らざるなり。衛自り晉の如し。將に戚に宿せんとす。鍾聲を聞きて曰く、異なるかな。吾れ之を聞くなり。辯へて德あらざれば、必ず戮を加へらる。夫子、罪を君に獲て以て此に在り。懼れるも猶ほ足らず、而して又何ぞ樂せん。夫子の此に在るや、猶ほ燕の幕上に巢くふがごとし。」という記述に由来する。 九萬鵬:本文中
4−3.雲
雲を詠んだ詩のうち、茫茫を冠するあるいは付すものはかなり多いが、漠漠よりは少ない。用例上の差異は顕著ではないが、単に雲とあるものだけでなく、別の字を付して詠まれる例が漠漠に比べて目立つので、まずそれについて説明しておく。沈佺期の「送友人任括州」に詠まれる雲帆とは雲の字を冠しても雲ではなく、雲のように風に乗る帆のことで、李白の「行路難三首」に「長風浪を破る、會ず時有り 直ちに雲帆を掛けて滄海を濟らん」(巻162)と詠まれるのを見れば一目瞭然である。しかしながら、茫茫を帆に掛けても意味は何とか通ずるが、周辺の情景とは相容れず、やはり雲があってこその表現が成立する。錢起の「鑾駕避狄歲寄別韓雲卿」(巻237)に詠まれる雲海は、現代語では山頂や飛行機から見おろした雲の上面が海面のように見えるさまをいうが、古典にいう雲海は雲の覆う広漠としたところを指す。したがって茫茫とは相性がよいはずだが、錢起のほかにわずかに李白が「明月天山を出づ 蒼茫たる雲海の間」(關山の月 巻163)と詠まれるに留まる。因みに、蒼茫は青々として果てしなく広いことをいい、茫茫とは若干の色彩感を付与しただけで、蒼蒼茫茫(IIで後述するように、独歩も「鹿狩り」で引用する)の略形といってよいかもしれない。李群玉の「自澧浦東游江表途出巴丘投員外從公虞」(巻568)に出てくる雲濤とは、濤が大波の義であることからわかるように、遠望のかなたの水平線を挟んで雲と波とも見分け難いものをいう。ここでは雲のうちに含めて考えるが、白居易の「海漫漫 仙を求むるを戒しむなり」に「雲濤煙浪、最も深き處 人は傳ふ、中に三神山有りと」(巻426)に詠まれるものは遠くから寄せる雲のような波をいい、これをもって「雲濤煙浪」の四字熟語の出典となる。最後に李白の「酬岑勳見尋就元丹丘對酒相待以詩見招」(巻178)にある綠雲については、字義的には“緑色の雲”であるが、これで納得する人はほとんどいまい。李白の「鳳臺曲」に「人は彩簫を吹きて去り 天は綠雲を借して迎ふ」(巻165)とあるように綠雲が詠まれているが、少々説明を要する。彩簫を吹くとは登仙の手段であり、天は綠雲を借して天上に迎え入れたという意である。古い樂府題に擬したものだから神仙譚色が濃く、当然ながら“緑色の雲”というのは神仙譚上の想像上の雲であり、『西遊記』に出てくる金斗雲のようなものと考えなくてはならない。以上は雲に何らかの修飾語ないし別字を付した複合語であるが、雲海四(桂州三月三日 巻51 宋之問)・白雲四(詩三百三首 巻806 寒山)という雲に漢数字の“四”を付した奇妙な語彙もある。実は“四”は四方を略して四つの方位という意もあり、四海・四大などと同じく周囲を表す。したがって雲海四(白雲四)は雲海(白雲)のまわりの広大な空間を指していう。
さて最後になったが、単なる雲として詠む詩を紹介する。まず、難解な語彙は語釈で説明してあるので通釈は必要ないだろう。
錢起「鑾駕、狄歲を避けて、韓雲卿に寄別す」
白髮壯心死すれば 愁ひて看る國步移るを
關山慘して色無ければ 親愛は忽ちに驚離せん
影絕つ龍は劍を分ふ 聲哀しき鳥は枝戀ふ
茫茫たり雲海の外 相憶ふ、相知らざるを
〔語釈〕鑾駕:『説文解字』に「鑾は人君の乘車し、四つの馬の鑣(くつわ)、八つの鑾鈴(車馬につける鈴)あり。鸞に象り鳥の聲、和すれば則ち敬なり。」(巻15 金部)とあり、天子の車駕のこと 狄歲:『通典』に「三千里の中に植ゑ、數萬里の外に散けば、人焉んぞ勞せざるを得んや、國焉んぞ貧せざるを得んや。故に夷狄は歲に驕り、華夏(中国人が自国を誇っていう文化の開けた地の意)は日に蹙む。」(邊防十六 鹽漠念)とあり、農耕民族たる漢民族は農耕を生業とする限り、苦労することはなく貧乏になることもない、だから牧畜を生業とする夷狄は歲単位(季節ごとに枯れ生えたりする牧草を求めて移動しなければならない)で驕り、農耕民族の華夏は日単位(毎日、作物の世話をしなければならない)で謹むのだという意味のようである。すなわち狄歲は夷狄歲に同じことになる。 韓雲卿:不詳の人名 壯心:勇ましく盛んな思い 國步:国運 關山:関所の近くの山 無色:顔色がうかばない、すなわち正体が見えないこと 龍分劍:『晉書』・張華傳に記載される故事に関係があると思われる。それは張公のもっていた二つの宝剣が、別々に失われたにもかかわらず、二頭の竜となってあらわれ、一つになったという話である。興味深いことに、李白の「梁甫吟」にある「張公の兩龍劍 神物合するに時有り」(巻162)もこの故事に言及したものである。これによって“龍は劍を分ふ”の意味がわかる。 鳥戀の枝:白居易の「首夏、諸校正と同じく開元觀に遊び、因りて宿して月を玩ぶ」に「風は淸く新葉の影 鳥は戀ふ殘花の枝」(巻428)、杜甫の「無家の別れ」にも「宿鳥、本の枝を戀ふ 安んぞ且く窮棲するを辭せん」(巻217)と類句が詠まれている。
4−4.雪・霞・水煙・雨
まず始めにこのカテゴリーにおいて漠漠と茫茫との間に差異があるかどうか述べてみたい。雪に対しては茫茫の用例はあるが漠漠は無し、霞は茫茫は無く漠漠はあり、雨は茫茫・漠漠いずれもある。ただし以上のいずれも用例の絶対数は微々たるものである。ある程度の明瞭な差異が認められたのは水煙が漠漠だけにあり、煙水は茫茫だけにあること。水煙は水面上の蒸気を指し、一方、煙水は蒸気の立つ水面を指すという明確な違いがあることは興味深い。というのは茫茫は平面の広がりを、漠漠はもうもうとした空間的広がりを表すと区別されるからである。ただし唐詩に限定し数少ない用例の解析結果であることをお断りしておく。
唐詩には霞のほかに靄・霧も詠まれている。これに加えて水煙・煙水もあり、漢和辞典では、一応、区別されているが、必ずしも今日の気象用語とは一致しないし、そもそも霞は気象用語として定義されていない。現象としてはどれも同じ水蒸気に由来し、発生場所などによって区別されているに過ぎない。中には、すでに3−4でも紹介したが、“煙”を付したものもある。王勃の「寒夜懷友雜體二首」(巻56)に詠まれる煙霧はその一つである。ただし気象用語の煙霧は煙や砂ぼこりによって視界が妨げられたものを指し水蒸気からなる霧とは異なるので注意を要する。王勃詩には“北山の煙霧”として詠まれ、寒夜の気温の低下によって発生したと推定されるので、いわゆる霧に同じと考えてよいだろう。第1連では北山と南津を対比させながら、前者では煙霧、後者は霜月と温度感では逆転している。作者の技巧によるのだろうが、実景ではなく想像上の描写と見るべきかもしれない。第2連は理解しづらいが、前句は遠く故郷へ思いを馳せてもどうしようもないというのは旅をする鴻鳥が夜中に起きて飛ぶと勘違いしているようなものだということだろう。鳥は夜に目が見えないので飛ばないという認識に基づいているが、昔はそう信じられていたことは鳥目という語の存在でわかるだろう。第3連では第2連を受けて江辺の秋を愁思の情を込めて詠む。最後に旧友への思い出を懐かしみ、会えるのを強く希望していても会うことができないと締めくくる。
王勃「寒夜に友を懷ふ雜體二首」
北山の煙霧始めて茫茫たり 南津の霜月正に蒼蒼
秋深し客思已む無きに紛ふ 復た征鴻中夜に起つに値せん
復た合ひ重ぬる樓、浦に向きて開く 秋風明月、江を度りて來る
故人故情に故宴を懷ふ 相望み相思へども相見えず
〔語釈〕霜月:霜夜のさえざえとした月 蒼蒼:青々としたさま 客思:遠く異郷にあって故郷をしのぶこと 紛無已:どうしようもないと取り違えて考えること、それは鳥が夜中に飛ぶに相当することだと後句に続く 征鴻:飛んでいく雁を征雁というに等しく、旅をする鴻鳥(通例、“おおとり”の訓をつけるが、ハクチョウ・オオハクチョウあるいはヒシクイ、コウノトリともいう)のこと、飛鴻に同じ 中夜起:中夜は夜半、起は起きて飛ぶ 故人:旧友のこと 故情:旧友への友情 相思不相見:李白の「寓言三首」に「相思へども相見えず 夢を托す遼城の東」(巻183)のほか、劉禹錫・許渾などがこの句を引用する
次の「夜宿浙江」(巻183)は夜、浙江に宿泊して詠んだようであるが、「煙水茫茫として苦辛多く」が果たして夜の情景であるか疑問の残るところであろう。というのは煙水は水蒸気のたちこめた水面の意であり、現在とは比較にならないほど暗い夜に水蒸気が見えるとはおよそ思えないからである。おそらく昼間の情景を思い浮かべて詠んだのではないかと思う。それに「苦辛多く」というが、何をもってそういうのか、ほかの連から想像される情景にはその影すら見えない。この詩の詠まれたのは長江の河口域であり、潮の満ち引きによって海水が遡上し、第2連の潮がまだ還っていないというのはまだその時間に達していないからである。第3連の越人とは、長江の南が古代の越であるから江南人を指す。因みに、長江を挟んで反対側が呉である。そのほかは難解な語句がないから通釈の必要はあるまい。
孫逖「夜、浙江に宿す」
扁舟、夜に江潭に入り泊まり 露白く風髙く、氣蕭索たり
富春の渚上、潮未だ還らず 天姥岑邊、月初めて落つ
煙水茫茫として苦辛多く 更に聞く江上に越人の吟ずるを
洛陽の城闕、何時か見ん 西北の浮雲、朝暝深し
〔語釈〕 扁舟:小さな舟 江潭:川の深い淵 蕭索:ものさびしいさま 富春:現浙江省杭州市富陽区 天姥岑邊:浙江省にある山名 城闕:城門 朝暝:薄暗い明け方、深とはまだ明ける前の暗い状態をいう
煙水を漠漠を付して詠んだ唐詩はないので、もう1首、茫茫煙水を詠んだ張翬の詩(巻114)を追加しておく。五言絶句の短い詩でしかもこれといって難しい語句も見当たらないから説明を省く。一応、通釈すると、広大な水面上に発生した煙霧の上を、日が暮れてから雨を降らせそうな暗い雲が動いている、こんな中で一人座ってなるべく寂しさに嘆き悲しむことがないように努めているが、湖南では誰が自分のために衣を打ってくれるのだろうか、となる。湖南とあるから、洞庭湖上に煙水が発生したとすれば、茫茫たる煙水を想像するに十分な情景となる。
張翬「絕句」
茫茫たる煙水の上
日暮れて隂雲飛ぶ
孤り坐して愁緒を正す
湖南、誰ぞ衣を擣たん
〔語釈〕隂雲:空を覆う暗い雲・雨雲 愁緒:嘆き悲しむ心、愁心に同じ、李白の「夏十二と岳陽樓に登る」に「雁は愁心を引きて去り 山は好月を銜みて來る」(巻180)と詠まれている 擣衣:光沢をだすために砧で衣を打つこと
李白の「江上秋懷」(巻183)では第4連に「茫茫霧」と出てくる。広大な長江上に発生した霧であり、中洲を取り巻いているという実景を詠んだのである。語釈で十分に説明し尽くしたので、通釈の必要はないかと思うが、一部の連について以下に補足しておく。第1連は、自らを仙法の修行道士に見立てて詠んだのであって、実際に登仙を目指したわけではない。この中で舊壑とは何か理解に苦しむのであるが、唐詩では10件ほど詠まれている。李白も「從弟の幼成、西園を過ぎて贈らるるに答ふ」で「二季(人)、舊壑を過ぎ、四鄰(人)、華軒(車)を馳す」(巻178)と詠み、ここでは舊壑は通過の対象とする。『廣韻』に「壑は溝なり。谷なり。坑なり。虚なり。」(入聲 鐸)とあり、その字義は旧渓の意とする以外は考えにくい。旧には旧知などのように、“古いなじみのある”という意味もあるので、古くから慣れ親しんだ渓谷と推定される。とりわけ山奥の渓谷は道士が好んで修行の場としてきた歴史的事実がある。第5連の黃雲については、華北の黄河流域には広大な黄土砂漠があり、風の強い時期には黄砂を巻き上げて周辺地域を砂塵で覆い、一部は季節風に乗って関東地方にまで達する。これを勘案して、黄砂が巻き上げられ雲に混じった黄砂が黄色に染め、長江流域にまで達したという見解がある(水谷誠 十里黄雲白日曛−「黄雲」ノート)。しかし、雲は微細な水滴あるいは氷晶であるから、黄砂の中でもとりわけ微細な粒子がエアロゾルを形成して共存することになる。微細水滴は太陽光を屈折させるが、結果的にさまざまな方向に乱反射し、また黄砂の微粒子も太陽光を乱反射するから、黄砂が黄色というだけで、黄砂混じりの雲が黄色となるのか物理学的な疑問もある。空に浮かぶ雲(浮雲)が黄色というわけではなく、空が黄色の砂煙で覆われた状態を昔の中国人は黄雲と称したのかもしれない。そもそも第4連に“風、沙を巻き”とあるのは江上の現象であるから黃雲の発生には無関係である。さらに古代中国では黄色は五色の一つで君王の服色ともされた文化的な背景も考慮しなければならない。黃雲は瑞雲と認識されていることも観念的に作られた可能性も考えねばなるまい。。それに季節は秋、稲や麦の実る時期であるから、黄色一色の水田や畑を暗示した可能性もあろう。とすれば“暮色を結ぶ”とは夕日に輝く水田や畑を指すこともあり得るだろう。第7連の蘅蘭は、語釈に示したように、それぞれフタバアオイあるいはその同属種、フジバカマなる香草であるが、通例、乾燥した状態でないと香気を発しない。したがって生気を失っているため、それをものさびしいと考え、後句で長歎云々と詠んだのである。
李白「江上秋懷」
餐霞、舊壑に臥し 散發、遠遊を謝す
山蟬、枯桑に號し 始めて復た天の秋なるを知る
朔雁、海裔に別れ 越燕、江樓を辭す
颯颯として風、沙を卷き 茫茫として霧、洲を縈る
黃雲、暮色を結び 白水、寒流を揚ぐ
惻愴、心自ら悲しむ 潺湲、淚、收め難し
蘅蘭、方に蕭瑟 長歎、人を愁へしむ
〔語釈〕餐霞:仙人が霞を呑み食いすること、転じて飲食物のないことを喩える 舊壑:本文中 散發:冠をせず髪の毛がぼうぼうとなること 朔雁:北方の雁、劉駕の「苦寒行」に「朔雁、南海に到る 越禽、何處にか飛ばん」(巻585)とある 海裔:『廣韻』に「裔は邊なり。苗裔なり。又、容裔なり」とあり、裔は辺すなわち辺境の意、さらに中国で海も辺境を意味する 越燕:『證類本草』の燕屎(卷第十九 禽中)に「陶隱居云ふ、燕に兩種有り、胡有り、越有り。紫胸輕小なるは是れ越燕云々」とある 颯颯:風が吹くさま 惻愴:痛み悲しむ 潺湲:『楚辭』に「橫流する涕潺湲たり、君を隱み思ひて陫側す」(九歌 湘君)とあり、 涙がしきりに流れるさまをいう 蘅蘭:杜蘅(ウマノスズクサ科フタバアオイあるいは同属種)と蘭草(キク科フジバカマ)、いずれも香草、詳細は『続和漢古典植物名精解』を参照 蕭瑟:ものさびしいさま
4−5.煙
該当なし
4−6.砂・土
第1節で『説文解字』を引用して漠の字義を“北方の流沙”であることを明らかにした。皮肉なことに、沙漠を漠漠と描写した唐詩は見当たらないが、茫茫と表した唐詩なら少ないながら存在し、ここにその一首「松滋渡二首」(巻632)を紹介する。語釈に示したように第1連の赫連城は河南省周辺の広大な沙漠地帯にあると考えられ、軍営が置かれたことは第2連の“堡迥の烽”で示唆される。第3・4連では惜別も戦争もないことを期待しながら、結局、饑寒に耐えられず、皆行軍に加わることになるだろうと半ば絶望的な心情を暗示して詠まれている 。
司空圖「松滋の渡二首」
茫茫たる沙漠廣し 漸く遠し赫連城
堡迥の烽相見ゆ 河移、浪旋生す
蟬、折柳に嘶くこと無く 寇、兵を防ぐに似たること有らん
饑寒迫るに耐へず 終に誰ぞ此に行くに至らん
〔語釈〕松滋:湖北省荊州市松滋県 烽:のろし 堡迥:とりでの周り 河移:『水經注』に「河の東岸に石橋有り、橋の本は河、河移に當たる。故に側岸なり。」(巻八 濟水)とあり、河岸の一方をいう 赫連城:『太平御覽』に「裴度(唐の宰相)、蔡州(現河南省駐馬店市一帯)を征ち、計りて赫連城を池口に筑く」(兵部五十六 救援)とある 折柳:張九齡の「崔黃門(黃門は中納言に相当する唐の官職)寓直(宿直)し、夜に蟬を聽くの作に和す」に「蟬は嘶く玉樹の枝 向夕に惠風(春風)吹く」(巻48)とあるが、送別の意を表す柳の枝は玉樹の枝に匹敵するはずなのに、蝉が柳の枝で嘯くことはしないことは送別がなく悲しい思いをする必要はないという意 寇:外敵、侵略者でも戦争(兵)を防ぐようなこともあるだろうと詠む 饑寒:食べ物がなく空腹でこごえること
一方、次の詩「許州途中」(巻349)では砂・土ではなく、単に煙と詠まれている。行軍の遠征中であるから、広大な荒野を疾走する軍馬が舞上げた土煙の可能性が高いのでここに分類した。この詩も難解な語彙が多いが、語釈で詳しく説明してあるが、簡単に説明をしておこう。第1・2連の前句は長安一帯が遠征地のようで、そこから見ると呉越は東の同じ方向にあるという意、第3連は遠征で忙しく故郷に帰れず、近傍の地をみて感傷に浸るのみ、第4・5連はそんな中にあってフラフラしていても春の風光に出会って楽しく遊ぶともあり、森に行けば鳥が啼き、野原はいろいろな花が咲き乱れて芳香を醸し出すのを見ていると、故郷が思い出され悲しく痛ましくなってくる、となろう。
歐陽詹「許州途中」
秦川行き盡くして潁川長し 吳江越嶺、已に同方たり
征途渺渺、煙茫茫として 未だ鄕に還るを得ず近鄕傷む
萍に隨ひ梗を逐へば春光を見る 行樂、臺に登れば鬥は旁に在り
林間に啼鳥、野中芳し 故園に似たる有り皆斷腸
〔語釈〕許州:現河南省許昌市一帯 秦川:長安一帯を指す 潁川:潁水に同じ、源流は河南省鄭州付近、南東に流れて淮河に合流する 吳江越嶺:呉の江(長江)と越の嶺(五嶺、南嶺山脈) 征途:戦時の遠征 渺渺:広くて果てしないさま 近鄕:近在 隨萍逐梗:白居易の「東南行一百韻」に「身は方に萍梗を逐ひ 年は桑榆に近づかんと欲す」(巻439)とある。萍は浮萍すなわちウキクサのこと。因みに、中国最古の本草書である『神農本草經』は水萍の名で収載し、以降の本草書もこの名を踏襲する。萍梗はその直(=梗)なる、すなわち典型的なウキクサの意で宛てもなくフラフラしていることを象徴する。ついでながら桑楡は『後漢書』の馮異傳に「赤眉(農民の反乱軍)破平、士吏(役人、正規軍)勞苦、始め回谿に垂翅すると雖も、終に能く黽池(河南省黽池県)を奮翼せり。之 を東隅に失ひ桑楡に収むと謂ふべし。」とあり、東隅は日の上がるところ、桑楡は日の沈むところをいい、すなわち初めに失敗しても後で失地回復を果たすことをいう。 春光:春の風光 行樂:遊び楽しむこと 故園:古い庭園、この場合はふるさとの意
4−7. 塵
砂塵という語彙があるように、一口に塵といっても4−5と区別の難しい用例もある。前節3ではいわゆる“ちり・ほこり”を詠む詩を紹介したが、次に示す詩は穢らわしいものを象徴するとして塵累という概念的な語に対して茫茫と表している点が目新しい。当然ながら、この世には想像できないほど穢らわしいものが存在するから茫茫でもって表すのはおかしくはないが、実際に目で見えるちり・ほこりをイメージして解釈すべきだろう。詩題が「贈毛仙翁」(巻283)とあって道士に贈った詩であるから、きわめて道教色が濃い内容となっている。それがもっともよく現れているのは第1連の後句である。蜉蝣とはカゲロウ、寿命は数日とごく短いので、不老不死の列仙に相対するものとして詠まれた。『抱朴子』に「蜉蝣は巨鼇(巨大なウミガメ)を校り、白及(原文は日及、白芨に同じ)は大椿を料る、豈に能く及ぶ所ならんや」(內篇 論仙)とあるのもそれを示唆する。因みに、大椿は『莊子』・逍遥遊にいう八千歳をもって春、八千歳をもって秋とするほどの伝説上の長寿の霊木である。第2連の紫霄峰は登仙を目指す道士の修行の聖地であり、白鹿洞に帰って天に中すというのは登仙して天上に行くと解釈される。第3連の簫鳳は、李白の「鳳臺曲」に「人は彩簫を吹きて去り 天は綠雲を借して迎ふ」(巻165)とある彩簫(吹くと登仙できると信じられた)に同じと考えれば、簫鳳を吹いて何代も経ているのにいつになったら登仙できるのか、仙経の教書を得てから何年経つというのだ、という意になる。第4連はいつか日を改めて登仙し天上界から帰ってきたら、東海を桑田に変えようという夢を表した。基本的に内陸国家の中国では豊穰の海という感覚は皆無だからこそかかる発想をするのである。案外、道教がわが国で定着しなかった理由はここにあるのかもしれない。
李程「毛仙翁に贈る」
茫茫たる塵累、腥膻を愧づ 強く蜉蝣を把り列仙を望む
閑して紫霄峰に指して路を下り 卻って白鹿洞に歸り天に中す
簫鳳吹き、去りて何代か經る 茹玉方、傳へ得て幾年ぞ
他日、更めて來り人世看ん 又、應に東海を桑田に變ふべし
〔語釈〕塵累:世の中のわずらわしいこと、世累ともいう 腥膻:なまぐさいこと・汚らわしいこと、あるいはそのもの、塵累に和して世の中のわずらわしさを暗示する 蜉蝣:本文中 紫霄峰:白居易の「元十八、南海に從事し、廬山を出でんと欲し、舊居に別るるに臨みて、泉聲を戀ふの什有り、因りて以て投和し、兼ねて別情を伸ぶ」に「雨露初めて承く黃紙の詔 煙霞別れんと欲す紫霄峰」(巻440)とあり、廬山の美称のようである 白鹿洞:廬山のふもとにある地名 中天:天に中すと読んでおく、太陽など天体が真南にくるのを南中というように、天の真ん中にくるのをいう 茹玉方:仙方の教書のようだが伝存せず不詳 簫鳳:鳳簫、管楽器の一種 他日:いつか別の日 人世:浮世 東海變桑田:劉希夷の「代はりに白頭の翁を悲しむ」に「已に見る松柏摧かれて薪と爲るを 更に聞く桑田變じて海と成るを」(巻82)とある後句をひっくり返したもの。いずれも『神仙傳』にある「麻姑(伝説上の仙女、爪が長かったという)自ら說く、接待以來、已に東海三たび桑田と爲るを見たり。向きて蓬萊(仙経にいう東方海上にあるという仙郷で三神山の一つとされる)に到り、水又往昔より淺く、會時略半ばなり。豈に將に復た還して陵陸(山と陸地)と爲、と。」(巻3 王遠)より引用、改変したことはまちがいあるまい。
姚合の「獨居」(巻498)で詠まれる塵路茫茫とは何も管理していない住居の周りの路上のちり・ほこりをいう。この詩は一人住まいを詩題にして詠んでいる。第1連から、質素な住居を閉じて長い間外に出ることはなく、暇な時に働くよう自ら課しているというから、かなり偏屈な隠士のようで、それは以下を読めばいっそう明確となる。第2連でも口を封じていれば他人と言葉を交わす手間を省けるし、このままの生活を維持すれば手を煩わせることはないと詠む。第3連は、生活は雲のように不安定で定まるところはないし、困窮の悲しみは常に影のようについて回るが、そんなことは百も承知だということであろう。第4連で、結局、振り返って見れば、自分の死に場所はここだし、ちりにまみれた道の中で生活しているが、それを告げ口するのは誰だ、まったく余計なお世話だ、ということであろう。
姚合「獨居」
深く閉づ柴門長く出でず 功夫自ら課す少閒の時
翻音して他人に字を問ふを免る 覆局して何ぞ勞して手棋を對ぜん
生計、雲の如く定まる所無し 窮愁、影の似く每に相隨ふ
到頭、歸りて向く靑山は是れ 塵路茫茫、告げんと欲するは誰ぞ
〔語釈〕柴門:しばを編んでつくった門または質素で閑静な住居 功夫:手間ひまかける・働くこと、ここでは修行などに精進努力することをいう 少閒:わずかな暇のこと 翻音:音は口で発する音、音を翻すとは発言を封じること。問他人字はわかりにくいが、おそらく言葉をかわすという意と解釈しておく。 覆局:局は情勢の意、現況を翻すこと 手棋:『集韻』に「根は柢なり。或は檱に作る。」(巻1 平聲一)とあり、手元の意。『康熙字典』は『韻會』を引用して檱は棋と同じとする。 窮愁:困窮して悲しむこと 到頭:結局 靑山:死に場所・墓地
最後に貫休の詩は「觀地獄圖」(巻837)といういかにも物騒な詩題である。地獄圖は、人の死後に地獄において過酷な刑罰を受ける光景を描いたものであるが、そもそも地獄は実在するものではないから、すべて想像上の創作物である。ただこの詩は絵画として描かれたものを観て詠まれたことになっている。要するに二次元空間で描かれたものをわずか40字という限られた一次元空間でしかも観察した結果を描写するわけだから制約はあまりに大きい。当然、詩人の想像力を膨らませて補うことになる。この詩もまた背景に奥深い故事があるなど詳細な説明なしで理解はおぼつかない。語釈で十分に尽くしたつもりだが補足しておきたい。第1連は、背景が、どうやら劍閣に似た険しい山らしく、よじ登ることができない貧弱な樹木相のようで地獄にしては迫力不足だが、現世に比べればおぞましいというところであろうか。第2連は、地獄となれば仏の慈悲の手が及ぶはずもないが、人々の考えることはなおざりで安易と断じており、これもいわゆる地獄のイメージにほど遠い。第3連は歴史物語が背景にあるので少々説明を要する。周王とは、賢臣の諫言を退けて暴政を行った結果、国勢を凋落させた厲王か、あるいは首都を東遷して春秋戦国の混乱期の発端をつくった幽王のいずれかと想像されるが、“應未雪”というからには地獄に堕ちてもまだ懲りていないといいたいようである。後句で、昭襄王のとき、数々の武功をあげた戦国時代秦の有名な武将白起が登場し、周王の醜態を知ったらどんな顔をするだろうかというのである。しかし、白起は後に宰相の范雎と不和となり、王の信を失って自決したことは暗示されていないようである。 第4連でようやく茫茫塵世と出てくるが、塵世は汚れた俗界のことで、何となく4−1で取り上げた「茫茫曲」を彷彿させる内容であるが、作者が同じ貫休であることを知れば納得できよう。しかも貫休は仏僧であり、道釈画を多く描いたことで名をなしている。とりわけ怪奇な形相の羅漢画で知られ、地獄図といっても羅漢画の背景程度を観て詩を詠んだとすれば納得がいく。この詩も4−8に分類した方がよいかもしれないが、塵というものがあってこそ茫茫という表現が生きてくると思われるのでここに置いた。
貫休「地獄圖を觀る」
峨峨なれど劍閣に非らず 樹有れども攀ぢるに堪へず
佛手遮ぎりて得ざるに 人心は等閑の似し
周王、應に未だ雪がざるべし 白起、何の顏と作さん
盡日、空しく指を彈く 茫茫たり塵世の間
〔語釈〕峨峨:山がけわしくそびえ立っているさま 劍閣:四川省剣閣県の北にある山で広元市に属し、長安から蜀に入る要衝の地 佛手:仏の手助け 人心:人が感じもち、また考えていること 等閑:なおざりにすること 周王・白起:本文中 盡日:一日中 彈指:つまはじき、後悔や非難・警告などの動作をいうが、この場合は過去を悔いて弾指することをいい、無駄なことでひまな時間を潰さざるを得ないような状況に置かれていることを示唆する 塵世:俗世間
4−8. その他
ここに挙げる用例は形容の対象が漠然としているものでかなりの数にのぼるところは漠漠とかわらず、また用例上の差異もあまり認められない。そのうち3詩を選び、順次解説する。
李賀の詩は難解なことで知られるが、「昆侖使者」(巻394)では難解な語彙は少ないものの、内容的には理解しにくい詩といえる。まず詩題および第1連の冒頭に出てくる昆侖は伝説上の山岳で黄河の源と考えられ、道教では仙郷とされていることに留意しなければならない。とはいえ杜甫の「太常張卿に贈り奉る二十韻」に「方丈(三神山の一つ)は三韓の外 昆侖は萬國(後述)の西 標を建つ天地闊く 絕(絶域、遠く隔たったところの意であるが、想像上の仙郷は見つかるはずはなく迷うのは当然のこと)に詣り古今迷ふ」(巻224)で暗示されるように、古代の中国人は一縷の希望をもって信じていた。“使者”は、たとえ命を受けて使いする人物といっても行先が想像上の場所であるから、任務の遂行はもとよりおぼつかないものであった。それは秦の始皇帝の命で東方の三神山に長生不老の霊薬を求めて船出した徐福の有名な故事(『史記』の「淮南衡山列伝」)を想像すればよいだろう。後句に茂陵とあるから、その主である漢の武帝が派遣した使者と推定できる。武帝が仙郷に厚く憧れたことはよく知られるが、使者からの便りがないというから望みは叶えられず、茂陵にもやが立ち込め愁色を生じたというのは武帝の落胆ぶりを表したものである。第2連は武帝が使者を派遣する前の、金の大きな皿に高級酒を汲んで飲み明かし、元氣という目に見えない対象物に茫茫を付すことで、意気揚々たる武帝のさまを表している。すなわち時間軸からすれば第1連と2連は逆転していることになるが、漢詩ではごく普通のことである。第3連では麒麟・虯龍という想像上の動物が登場するが(なぜか李賀の詩には想像上の動物が多出する)、石像あるいは石柱に彫られた装飾と思われ、それぞれ紋様が壊れ、花のついた折れ枝が寄りかかっていることで、古の支配者の栄華が一時の徒花であることを言わんとしている。第4連は、以上を踏まえ、望みを果たせなかった武帝の心を傷ましく思うところはどこにもない、ただ天上高く長い夜に名月が空しく煌々としているだけだとなる。
李賀「昆侖の使者」
昆侖の使者、消息無く 茂陵の煙樹、愁色を生ず
金盤に玉露自ら淋漓たり 元氣茫茫として收むるを得ず
麒麟の背上、石文裂け 虯龍の鱗下、紅枝折る
何處にか偏へに傷まん萬國の心を 中天、夜久しく明月高し
〔語釈〕昆侖:本文中 消息:便り 茂陵:漢武帝の陵墓、陝西省興平県にある 煙樹:靄のたちこめた中の樹木 金盤:黄金の大皿 玉露:玉のような露、この場合は酒のこと 淋漓:滴り落ちる 元氣:万物を産み育てる天地の気、心身の活動の根本の気力 麒麟:想像上の動物で古代中国では霊獣、瑞獣と見なされた 石文:碑、いしぶみ 虯龍:想像上の動物、しばしば“みずち”と和訳される 紅枝:李端の「韋員外東齋、花を看る」に「豔發す紅枝合し 煙垂る綠水幽かなり」(巻285)と詠まれるように、李賀詩には見られないが、花のついた枝をいい、紅といっても必ずしも赤い花に限らない。 萬國心:古代中国は皇帝の下にそれぞれ所領をもつ諸侯が仕えるシステムであったから萬國はすなわち皇帝を指す
次の詩「寄微之」(巻440、微之は元稹の字名)は左遷された元稹に寄せたものであり、難解句は多いものの最初から最後まで一本筋が通っているので、第3連の後句が白居易自身を自虐的に表したことを念頭に入れておけば、解釈はそれほど難しくはない。通釈すると、天はもの言わず、物は物で今一つ得体がしれないが、各々何らかの由来によって傷つくことになるのだ、例えばオウムは人の言葉を返すために自由を奪われて飛べず、亀は長寿でなかなか死に至らないから台座に等しい扱いを受ける、さて君も左遷されたことを嫌がってはならない、暑い中で汗水たらして病気が流行するところにいるよりマシだからだ、生身の体以外の名利がなにごとに関わるようになると、やたらと門戟を列ねて腰章をつけたがるようになるものだ、となる。最後になってしまったが、茫茫の対象物は“物”すなわちあらゆる事象を指し、一つに絞りきれないもの、要するに正体不明のものとして差し支えない。
白居易「微之に寄す」
高天默默、物茫茫として 各來由有り損傷と致す
鸚は能く言ふが爲に長ずれば翅を剪られ 龜は死に難きに緣りて久しく牀を支ふ
冷落して閑地に拋らるるを嫌ふ莫れ 猶ほ炎蒸せられ瘴鄕に臥すに勝れるがごとし
外物は竟に身の底事に關はり 謾りに門戟を排ね腰章を繫く
〔語釈〕微之:白居易の刎頚の友、元稹の字名 默默:静かなるさま 來由:由来 鸚:オウム 冷落:冷遇される 拋閑地:閑地は役に立たない空き地、元稹が左遷されられたことをいう 瘴鄕:瘴気の蔓延する地、瘴気は中国古医学特有の概念で、山川などに巣食う病の因をいう 外物:自分自身の本質のほかに付随する富貴・名利の類、元稹の「樂天に贈る」に「是れ眼前に外物無きにはあらず 心事に經心ならざるに關はらず」(巻412)とある 底事:なにごと 門戟:門前の戟架、『太平御覽』に「楊汝士、時名(名声)有り、遂に淸貴に歷る。其の後、諸子は皆卿に至り、郁して皇族と爲る。居る所は靜恭の里、溫(出世したこと)を知る兄弟、并せて門戟を列ぬ。」(人事部一百一十一 貴盛)とあり、尊貴の人の家では門戟を飾りつけた。もともとは名誉の象徴であるが、白居易は名利として断じた。 腰章:腕につける印章を腕章というように、腰につけるものを腰章という
最後の「寄李儋元錫」(巻188)は韋應物の友人と思われる李儋・元錫に寄せた詩である。これも第1連から4連まで直列で内容が繋がっているので通釈する。去年、花が咲いている時に君と別れ、一年後の今日、また花が咲いた、この世はやたらと煩わしいことがいっぱいあって自分一人で切り盛りするのはできないほど、春といいながら愁いで暗い気持ちでひとり寝起きしているだけだ、体もいろいろと病気がちとなり故郷で元気だった頃を思い出す、村を離れて流浪してろくに働きもしなかったから給料をもらうのが何となく恥ずかしいと思うようになった、聞くところでは、私に尋ねたいことがあるとのこと、でもそれまで西樓から眺める月が何回満ち欠けを繰り返すのだろうか。ここでも世事茫茫とあり、目に見えない概念的対象物を形容する。用例は漠漠よりはるかに多いが、明確な使い分けは認められない。
韋應物「李儋、元錫に寄す」
去年の花の裏に君に逢ひて別れ 今日の花開きて已に一年
世事茫茫として自ら料り難し 春愁黯黯として獨り眠を成す
身に疾病多く、田裏を思ふ 邑に流亡有りて俸錢を愧づ
聞道らく來りて相問訊せんと欲すと 西樓の望月幾回か圓なる
〔語釈〕世事:世間の俗事 黯黯:暗暗に同じで暗いさま・奥深く静かなさま 田裏:田里に同じ(裏→裡→里)、故郷 流亡:さすらうこと 俸錢:俸給 問訊:訊問(尋問)に同じ 望月幾回圓:月を眺めること、幾回圓は月の満ち欠けが何回繰りされたか、すなわち歳月の経過を示す
5.“漠漠”と“茫茫”の違いはあるか
漠と茫の字義の違いでもっとも顕著なのは、漠には茫にはない砂原という意があり、砂原という視覚的に認知可能な対象物が存在することである。だから沙漠という語彙があっても沙茫はない。高等教育で文系の教育を受けたことのない生粋の理系人間がここまで言い切るのは少々気が引けるのであるが、字義において現物の対象物の有る無しを除けば、漠と茫の字義はほぼ観念的描写に関するものばかりとなり、その違いは驚くほど軽微であることが歴然としてくる。唐詩では漠・茫ともに単漢字で用いられる用例は情景描写に限ればほとんどないに等しいので、それぞれ同字を二度繰り返す熟語の漠漠・茫茫について用例を挙げて検証したが、前述したように、両者にほとんど差異は認められず、多くの唐詩の深層解釈を楽しむだけという趣味的な結果に終わってしまった。それをもっとも如実に示す例が長籍の「關山月」である。実はこの詩はもともとは楽府雑曲であり、『全唐詩』に巻18に「橫吹曲辭:關山月」、巻382では「關山月」として重出し、第三連を除いてまったく同じ内容である。唯一異なるところは前者では「海邊漠漠天氣白」、後者では「海邊茫茫天氣白」となっており、古くから漠漠と茫茫はほとんど同意であったことを示唆する。無論、それぞれさまざまな情景の形容に用いられるが、漠漠・茫茫ともほぼ同様に類別されて相互に対応するので、漠漠・茫茫をそれぞれ入れ替えて各詩を鑑賞してもほとんど違和感は感じられない。両字のハイブリッド型というべき茫漠(漠茫はないようである)という語彙もあり、茫漠たる沙漠というふうに用いられる。さすがに漢籍古典には見当たらない熟語であるから、漠・茫の字義が一部を除いてあまりに似ているが故に、時代とともに区別があいまいになってわが国で発生したと推定される。唐詩に漠漠たる沙漠という表現はなく茫茫たる沙漠はある(4−5. 砂・土を参照)と述べたが、そもそも厳密に区別することにあまり意義はないというべきかもしれない。とはいえ漠漠・茫茫の間には用例上のニュアンスの違いは随所に認めらるのはすでに述べた通りである。したがって国木田独歩の“微漠煙浪”はその延長線上の微妙な表現描写だったという結論になる。本来、詩文は朗吟することを前提に作成されるが、ここではもっぱら閲読の視点から唐詩を解析、解釈してきた。断腸が本来の用語なのに腸断という語形で示されるように、文字を反転させた熟語が散見されるのは朗吟上の問題とすれば納得がいく。とすれば漠漠・茫茫も音感を意識して使い分けているのかもしれない。無論、それは古代中国語音に基づくものであるが、独歩が“微漠”に“びばく”では“びばう(現代仮名遣いでは「びばく」)”とルビを振り付けたのはかかる理由からかもしれない。しかし義務教育の教材として用いられたのであるから現場の国語の教師も戸惑いを隠せなかったのではなかろうか。小生のクラスではいなかったが、日本全国に広げればこれに疑義を唱える質問はあったにちがいない。わが国では教科書は検定を経ているはずだし、そもそも編集者はこの問題をどう考えていたのだろうか。残念ながらこれだけは未解決のまま残りそうである。
II.“抹し去る”とはどういう意味か
『大漢和辞典』の“抹”の項に“抹去”という熟語が収録されており、単純に訓読みすれば“抹し去る”となるが、それで問題解決とならず、一筋縄ではいかないのが本項の手強いところである。まず、“抹去”の意味は「取り消す。抹殺する。拭い去る。」となっていて独歩の美文体の情景描写とはまったく相容れず、しかも読みは中国語音の“Mǒ chù”のみが記載され日本語ではない。となれば、“抹”の字解から攻略するほかに解決の術はないが、とりあえず『大漢和辞典』を引用すると、1.する・なでる、2.はく・ぬる、3.化粧する、4.をさめる、5.けす・はらふ、6.すぎる・通過する、7.こな・こなにする、という意味が列挙されている(現代語を除く)。以上のうち、日向地の南端がかすんだ水平線上に吸い込まれるように消えていくという独歩の描いた情景に何とか整合しそうなのは5のみであるが、それでも独歩がいかなる意図をもって“抹す”と“去る”とを組み合わせて複合動詞としたのか理解し難い。というのは“抹す(る)”という動詞はわが国最初の近代国語辞典といわれる『言海』(大槻文彦 1889年初版)ほか、『日本大辞林』(1894年)、『帝国大辞典』(1896年)、『日本新辞林』(1897年)、『ことばの泉』(1898年)、『辞林』(1907年)という明治時代に成立したいずれの辞書にも収録されていないからである。因みに、“抹す”を収録する辞書が散見されるようになったのは、独歩が「鹿狩り」を発表してからずっと後の大正以降である。
『大日本国語辞典』(1919年)まっ−す(他動詞)なすりつく。ぬりつく。塗沫す。運歩色葉「抹 マツスル◼︎」
『言泉』(1928年)まっ−す【動佐變他】なすりつく。ぬりつく。塗沫す。
しかしながら『広辞林』(1934年)や『言海』の増補改訂版の『大言海』(1956年)には収録されていないので、“まっ−す(る)”を収録する辞書はごく限られていたようである。戦後、多くの国語辞典が刊行された中でもっとも定評ある中型辞典の一つ第七班『広辞苑』(岩波書店)には“まっ−する 抹する”がサ変他動詞として収録されている。初めて収録したと考えられる『大日本国語辞典』が古字書『運歩色葉集』を引用しているので、わが国の代表的古字書における“抹す”の収録状況を調べた結果、以下の通りになった。
『伊呂波字類抄』[治承年間(1177-1181)成立]「末」抹 マツス 爲粉也
『下學集』[文安(1444)元年] 噐財門 抹香 樒葉
『文明本節用集(雜字類書)』[文明六(1474)年序]「末−器財門」抹 香 抹茶 異名悪茶
『温故知新書』[文明十六(1484)年序]「ま−器」抹香
『運歩色葉集』[天文十七(1548)年序]「滿」抹香 抹茶 抹藥
『易林本節用集』(室町末期) 抹香 櫁葉
『饅頭屋本節用集』(室町末期)「末」収録無し
『節用集』[慶長年間(1596-1615)成立]「末」抹香 櫁葉
『書言字考節用集』[享保二(1717)年] 器財門「末」抹香 出堤婆品
動詞たる“抹す”の訓を載せているのは『運歩色葉集』と『文明本節用集(雜字類書)』のみで、他は抹香・抹茶・抹藥なる名詞を挙げルビを付すにとどまる。“抹す”については後述するとし、“抹”から構成される名詞としてもっとも頻出する“抹香”について論考してみよう。まず、『書言字考節用集』にある注記「出堤婆品」について説明しておかねばなるまい。“堤婆品”とは仏典『妙法蓮華經』の一編をなす提婆達多品第十二のことで、「SAT大正新脩大藏經テキストデータベース」(2018年版、以下、「SATデータベース」と略す)によれば「諸天人民悉以二雜華 末香 燒香 塗香 衣服 瓔珞 憧幡 寶蓋 伎樂 歌頌一禮拜供二養七寶妙塔一」とあって抹香ではなく“末香”となっていることに留意しなければならない。取り敢えず、『大漢和辞典』を参照してみると、「抹香 マッカウ 沈檀を擣いて粉体としたもの。云々」とあり、仏教の祭祀で用いる“お香”であることがわかる。補足すると、『佛本行集經』の第二十七に「爾時、彼等一切樹神、各將二沈 水 牛頭栴檀 諸末香等一」とあり、ここでは“沈香・水香・牛頭栴檀諸々の末香”とあって、『大漢和辞典』のいう“沈檀”はわが国では入手困難な香料をさすことがわかる。もう一つの文献例を挙げておこう。『虚空孕菩薩經』の卷上に「復雨二種種優鉢羅花 分陀利花 波頭摩花 拘物頭花 沈水等香一。復雨二種種諸末香等一。所謂牛頭栴檀及赤栴檀 白栴檀等。」とあり、前述の諸香に赤栴檀と白栴檀が加わる(以上、「SATデータベース」)。後に『下學集』などの注記にあるように、安価なシキミ(漢名は樒または櫁)の葉の粉末で代用された。「SATデータベース」による検索結果では、“末香”は567巻931件もヒットする一方で、“抹香”はわずか23巻30件にとどまる。大須文庫所蔵の『遍口鈔』の「北斗法事」の一節を以下に示すが、「SATデータベース」では抹茶とある部分は“沫茶”としか読めず、翻刻のプロセスで書き換えたと推定される。“沫茶”という用例がほかになかったからであろうが、“沫”の字義は「あわ(泡)・つばき(唾)・しぶき・あせ(汗)・なみだ(涙)」(『新漢和辞典』 大修館書店)とあるので、論考することなく沫を抹に書き換えるのは安易だったといわざるを得ない。それはさておいても“沫”は“末”とは字義的に無関係であるが、“沫茶”と表記したのは一定の論拠が認められる。というのは茶葉を乾燥して粉末としたものは、温水に入れてかき混ぜると泡立つ性質がある(発泡成分のサポニンが含まれる)ので、これをもって沫茶と表したと考えてもおかしくはないからだ。すなわち沫茶は意識的に表記したもので、決して誤写ではなく、後に字体が酷似した抹茶に転じたとさえ推定できるのだ。『遍口鈔』は『伊呂波字類抄』と大差ない天福元(1233)年に成立しているから大いにあり得るのである。
~蝋燭ニ付火事ハ先本命星。次ハ自貪狼星次第ニ指之。真言各別ニ唱テ可指之。若不暗誦者。只唱其寶号可指也。假令南無貪狼耶[梵字]ト。如此唱テ可指也。是㪽師説也云云自余准知之。茶𤋎(煎の「灬」が「火」)シテ供スル本躰也。或茶葉ヲ入水供之。沫茶又何条事カアラム。同可入水歟銀錢ヲ燒事。~
原料の香料を粉末として用いることを勘案すれば末香が本来の表記であったと推定するのはごく自然である。しかし、わが国では『伊呂波字類抄』が「抹 マツス 爲粉也」と収録したため、抹香も末香の同義とされ、前述したように、『大漢和辞典』はそれに基づいて“抹”の意として“こな・こなにする”を付け加えた。985年に成立した仏教書『往生要集』に「復タ如意ノ妙香、塗香、抹香、無量ノ香ノ芬馥ハ遍ク世界ニ滿ツ」(巻上 大文第二、源信)とあり、ここでも抹香とあるが、奥書に「永元(承元の誤記)四年四月八日刻彫畢云々」とあるので、1210年に印刷された当時に合わせて「末香→抹香」と書き直されたことは想像に難くあるまい。
約八万語を収録する『角川古語大辭典』にも載っていないようなマニアックな語彙をなぜ独歩が使っているのかという疑問も浮上する。『大漢和辞典』も「まつ−す(る)、まっ−す(る)」という読み方を載せていないのであるが、漢籍に“抹す”に該当する用例がないというわけではない。中国本草界の最高峰と称される『本草綱目』(李時珍)に“抹之”の用例がいくつか出てくるのでその一部をここに紹介する。
小兒生癬 豬脂和二シテ輕粉一ニ抹レス之ヲ。直指方(巻第九 石之三 水銀粉)
牛皮癬瘡 石榴皮蘸二シテ明礬末一ヲ、抹レス之ヲ。切リテ勿レクバ用レヒルコト醋ヲ、
即チ蟲沉下ス。直指方(巻第十一 石之五 礬石)
小兒鵞口 滿口白ク爛ル。貝母去レリ心ヲ爲レシテ末ト半錢、水五分、蜜少シ
許リ、煎スルコト三沸、繳淨テ抹レスルコト之ヲ、日ニ四五度。聖惠方
(巻第十三 草之二 貝母)
癰疽不斂 瘡口太ダ深キハ用二テ絲瓜一ヲ擣レキダシテ汁ヲ頻リニ抹レス之ヲ。
直指方(巻第二十八 菜之三 絲瓜)
牙齒疼痛 青荷葉剪リテ取二リ錢蒂七個一ヲ以二テ濃キ米醋一盞一ヲ、煎二ジ半
盞一ニ、去レリ滓ヲ、熬リテ成レシテ膏ト時時抹レスレバ之ヲ妙ナリ。
唐氏經驗方(巻第三十三 果之六 蓮藕荷葉)
『本草綱目』は収録する薬物の基原のほか、医学書の処方例も引用し、“抹之”は後者に集中的に出てくる。一般には、“抹”は旁に当たる“末”に意味があり、その義は“粉・屑や小さい・取るに足らないもの・薄い”とされている。しかし、上記の用例のうち「小兒、癬を生ずるに」を訓読すると「豬脂ヲ輕粉ニ和シテ之ヲ抹ス(直指方)」となり、もっと簡単に説明すれば、輕粉を豬脂に和したもの、すなわち膏に製した薬物を癬(たむし、皮膚病の一種)を生じた小児の皮膚病に“抹す(る)”というのである。したがってこの“抹”は、前述の“末”の義ではまったく意味が通じず、単に末を手偏(扌)に作ったものではないことが明確になる。抹には、『大廣益會玉篇』に「抹 莫葛切、抹は摋滅なり。 摋 蘇割切、手ヲ側メテ擊ツ。」(巻第六「手部六十六」)、『廣韻』に「抹 抹摋は摩なり」(第五「入聲 末第十三」)とあるように、ほかに“こすりつける・塗りつける・こすってなくす・塗りつぶす・こすって粉にする”意があり、『本草綱目』にある“抹レ之”はすべて“こすりつける・塗りつける”の意で用いられている。ただし、同書に引用された医書の原典には該当する記述は見当たらない。わずかに『太平聖惠方』に別の処方の記載で次の2件に、そして主たる医書で“抹レ之”の語句を見るのは『古今医鑑』と『古今醫統大全』、それに加えて医書ではないが『藝文類聚』所引の仙経の教書『抱朴子』に1件あるにすぎない。ただし、『抱朴子』の原典では“末抹之”の部分はなく後世に書き加えられたことを示す。
『太平聖惠方』
治癰腫發背貼方 菖蒲 右を爛らかして搗き、捏ねて餅子と作し、瘡の大小に貼るべし。幹けば卽ち之を易ふ。此の法神異なり。如し冬月或は濕無くば即卽ち乾なる者を以て杵にて末す。驢乳を用て和し搗きて餅子と爲し之を用ふ。如し瘡上に住まらざれば、帛を以て之を抹す。(巻第61)
治發背貼諸方 黃蓮 (他七味、略) 右の件の藥、搗き細羅して散と爲し、酥に入れて和し、投じて餅子と作す。厚さ五錢の如く以て患上に貼る。粗布を用て緊して之を抹す。(巻第62)
『古今医鑑』
體氣を治す 大田螺 巴豆 膽礬 麝香 (中略) 如不盡、再たび藥水を以て之を抹す。(巻之8 秘傳奇方)
玉蟾散 小兒走馬牙疳〜を治す 蚵皮 黃連 麝香 青黛 右を末と為し、濕なれば則ち乾摻し、乾なれば則ち香油に調へて之を抹す。(巻之14 牙疳方)
『古今醫統大全』(卷之60 前陰十証)
絲瓜の汁を外用して五倍子に調へて之を抹して愈ゆべし。
『藝文類聚』(巻96「鱗介部上 蛇」)
抱朴子曰、〜少許りの末を以て之を抹し、雄黃を瘡中に入れば立に愈ゆ。
以上のいずれも『本草綱目』の用例と同じく、薬物を患部に塗りつける意であることが確認できる。
さて、古い仏典の大半が現今の抹茶を末茶と表記していると述べたが、茶の専門書『茶經』でも「飲むに觕茶、散茶、末茶、餅茶なる者有り、乃ち斫り、乃ち熬り、乃ち煬り、乃ち舂く。瓶・缶の中に貯へて湯を以て焉を沃く。之を痷茶(淹の誤りとすれば「ひたす」の意)と謂ふ。」(六之飲)とあり、やはり末茶となっている。因みに、“茶”の音をを唐音の“さ”としたのは、茶は唐代より以前の中国には知られていなかったからである。末茶・末香の“末”はいずれも“こな(粉)”の義であるが、実は“末レ之”という動詞型も存在し、以下に和漢の典籍における実例を示す。
『抱朴子』
亦た鮮明なること水精の如く、得て之を末し、無心草の汁を以て之に和すれば、須臾にして水を成す。一升を服すれば一千歲を得るなり。(仙藥)
『太平聖惠方』
治瘡中惡肉出方 烏梅 一七顆燒きて灰と爲し之を末す 右以て瘡中の惡肉に敷けば立に效あり。(巻第64)
『頓醫抄』(巻第7「積聚上」)
蓬蘽散(聖惠方) 蓬蘽根 牡丹皮 赤芍薬 京三稜 枳殻 梹榔子 右麁末シテ毎服三錢云々
三稜煎圓(聖惠方) 京三稜 芫花 鼈甲 木香 右諸藥ヲ細末シテ云々
諸ノ丁瘡ニハ四方及中心ヲ針シテ針ノ目ニ雄⿈ヲ末シテスリ又タチ㪽ニシルシアリ雄⿈ナクハ⿈土ヲヌルモヨシ
『和漢三才圖會』(巻第百三「阿片」)
赤白ノ久痢ヲ治ス 阿片 木香 ⿈蓮 白朮 各等分研リテ末トス
ここで注目されるのは『和漢三才圖會』が“末ス”ではなく“末トス”とするところである。漢文体の“爲レ末”に相当するが、仮に抹に粉末の義があるのなら“爲レ抹(抹トス)”という表現があって然るべきだが、博捜を尽くしても遭遇したことはない。これまで医方・本草とその関連分野にのみ着目してきたが、“抹”が本来の字義で使われる分野はほかにもある。それは文芸の世界で、次の用例を見れば納得できるだろう。
『杜陽雜編』(巻一)
是の時、文學の相高、公道(正しい道、公平なやり方)大いに振ひて、路を得たる者咸推賢を以て善を進めて意と爲す。制科(古代中国における官吏登用試験の一つ)を試すに宣政殿(唐代の長安城の一つ大明宮の正殿の北にあり、左右に中書・門下省を配した)に上り、或は詞理(言葉や文章の意をよく理解すること)有りて乖謬(誤りを克服すること)する者は卽ち濃筆之を抹して尾(末)に至る。如し輒ち旨に稱ふ者は必ず翹足(足をつまだてて待ち望むこと、すなわちまもなく実現することを意味する)して朗吟せよ。
『太平御覽』(文章一 唐德宗)
制科を試すに宣政殿に上り、或は乖謬有る者は卽ち濃く筆を點け之を抹す、或は旨に稱ふ者は翹足して朗吟す。
おそらく美術工芸分野でも同様で、いずれにせよ特殊な専門領域で用いられる用語であって一般にはほとんど馴染みがない。現代語で用いられる語彙ではわずかに塗沫(ぬりつけること・なすりつけること)ぐらいであろう。
以上、抹を「粉・粉にする」という意味で用いるのは漢籍には見当たらないわが国独自の用字であることが明らかになったと思う。漢籍古典を独学で学ぶうちに、あるいは書写しているうちに、字義が大きく異なるよく似た字体に取り違えることはしばしばあるが、査読(古くは校勘というべきか)という点検・照合のプロセスが不十分な時代にあってはやむを得ないことであろう。とりわけ茶葉には、前述したように、サポニンという天然の発泡成分が含まれ、お湯に浸して撹拌すれば(茶道には茶筅という常道のプロセスがある)微細な泡を生ずるという絶対的事実があるから、末を泡という字義のある沫に置き換えて沫茶と表しても違和感を感じることはほとんどなかっただろう。さらに筆記体では氵と扌の区別は容易ではなく、以上の二段階の取り違えによって末茶は抹茶に転じたと推定できる。独歩は抹を「粉・粉にする」という意ではなく、本来の字義で用いたと思われる。おそらく塗沫という語彙が念頭にあって、文字による情景描写に絵画のような印象を与えることを意図して敢えて用いたと推定する。ただ“去る”は絵画表現とはおよそ結びつき得ないから、本来の意味を知らずに中国語の“抹去”から導入した可能性が高いと考える。
あとがき−考証を終えて−
冒頭ですでに述べてあるが、国木田独歩の「鹿狩り」にある「微漠煙浪のうちに抹し去る」というわずか12字の一節に疑問を持ち続けることおよそ60年、2ヶ月ほど前に一念発起して考証を重ねた結果、気がついたらルビ無しの本文だけで何と85,000字を越し、約9,000字の「鹿狩り」の10倍弱になってしまった。すなわち量的には文系学部の卒業論文程度になり、趣味の領域からは大きく逸脱してしまったのである。前半の“微漠煙浪”は考証を進める過程でも意義そのものがあいまいになり、すっきりしない結末になってしまった。おそらく文系研究としてはまず失格の烙印を押されるだろう。しかし、後半の「抹し去る」については、本草・古典医学の素養がないとここまで納得のいく結論は得られなかったかと思う。論述の過程ですでに解答が得られているので総括は省略する。まさに60年来の疑問の解消の八割ほど、それに論考の過程で別のサブジェクト(斗・斗争の“斗”の由来の問題)の疑問もほぼ解消できたから、合わせ技で目的はほぼ達成できたということであろうか。つい卒業研究と口走ってしまったが、およそ普通の人なら興味を示さないような重箱の隅のまた隅を突いたような取るに足らぬテーマではあるが、個人的には多くの古典史料を博捜したおかげで難解な漢文の深層解釈ができたことで十分に満足している。文系論文はやたら注が多く本文とは離れて記載されているので読みづらいという印象がある。昔は同じページ内のヘッダーに記載されていたから不自由しなかったが、おそらくペイジレイアウトが複雑になりすぎてソフトウエアで対応しきれないなどの問題によるにしても、執筆者自身から読者に広く読んでもらうという視点が欠けてしまったのではなかろうか。一方、理系ではなるべく本文中に含めて論述するのがドゥファクトスタンダードであり、注釈を論文末の引用文献の中に含めるのは推奨されていない。文系理系のカルチャーの違いといえばそれまでだが残念に思えてならない。無論、本編は理系の様式で書いており、引用文献もなるべく本文中にインラインで記してあり、これも文系論文では一般的ではない。もっぱら古典の一次資料を引用し、二次資料のような様式で引用するわけにはいかないので、次に一括して示しておく。