【要約】:『源氏物語』の箒木の帖に、夜、光源氏が空蝉の部屋に忍び込もうとしたとき、侍女が姿の見えない源氏を匂いで識別したという興味深い一節がある。その香気は薫物を焚き染めた衣服から発したもので、これを衣香と称し、平安貴族にとっては日常生活の一部であった。上流貴族の間ではさまざまな練香を持ち込んで香りの優劣を競う薫物合わせという遊戯も流行した。梅枝の帖では、源氏主催の薫物合わせに4種の薫物が登場する。このうちの侍従・荷葉には熟欝金という類例のない香料が配合され、『拾芥抄』は五香の一つにあげている。欝金という名で表されてはいるが、熟欝金は黄欝金と称するものに四種の香料を配合して製した練香の一種であって、あたかも単品の香料のように薫物に配合される。香道の世界には熟欝金のほかに、黄欝金と青欝金という二種の欝金があり、前者はハルウコンの根茎、後者はアキウコンの根茎を指す。本草では青欝金は鬱金、黄欝金は姜黄に相当するので、香道と認識が異なることに留意しなければならない。本草にはいわゆる鬱金とは別に鬱金香という類名があるが、名前の類似性とは裏腹に、その基原はサフランという全く別の植物種に由来する。鬱金香がサフランであることは『冊府元亀』における詳細な形態学的記述と『佛説摩訶刹頭経』の欝金香を水の中で揉み出すと赤水になるという記載によって揺るぎない事実である。ところが『本草綱目』(李時珍)は『周禮』の「鬱人」に対する鄭玄註と『説文解字』の関連文字の字解および諸家の学説を支持するゆえ、鬱金香を鬱金の花とも受け取られかねないあいまいな解釈に至ってしまった。一方で李時珍はサフランを番紅花一名洎夫藍とし、鬱金・鬱金香の芳草とは別の湿草類に分類しているので、鬱金香がサフランであることはおよそあり得ない。仏典の『金光明経』にある茶矩麽香を鬱金香の一名とするが、李時珍はそれがサンスクリット語のकुङ्कुम(kuṅkuma)に由来することに気づかなかったため、結論を誤ったのである。ちなみにサンスクリット語でウコンをहरिद्रा(haridrā)、गौरी(Gauri)と称し、それぞれの字義は"yellow"および"light and shining"である。すなわち鬱金という漢名はそれらサンスクリット語名から訳出したものである。インド以西ではウコンをIndian saffronと称されていたため、ウコンとサフランが混同され、その結果、ウコンに対してكُرْكُم(kurkum)というアラビア語名が発生した。両名の混同は中国にも及び、基原植物の系統ならびに形態に関係がないにもかかわらず、鬱金香という紛らわしい名が生み出されたのである。わが国の資料でも欝金香の名を見るが、『香字抄』『香要抄』の当該条で中国本草の鬱金の主文がそのまま転記され、基原が正しく理解されていなかったことを示している。わが国にサフランが渡来したのは江戸時代中期以降であるから、平安時代に大陸との交易で輸入された欝金香そのものがハルウコンあるいはアキウコンだったことも明らかとなる。
TITLE:On the origin of juku-ukon blended in Jijū, one of six major compound incenses in Heian period1.平安文学とお香−序論−
SUMMARY: There is an interesting passage in Chapter Hahakigi (箒木) of "The Tale of Genji" as follows: when Hikaru Genji tries to sneak into Utsusemi's room at night, the maid identifies the invisible Genji by smell. It refers to "Ikō (衣香)", the scent emanated from clothes smoked with burning compound incense (薫物), which was a part of daily life for the Heian aristocrats. A game called "takimono-awase (薫物合わせ)", where participants bring in various types of compound incense to compete for superiority of scent, was also popular among the upper-class aristocrats. In Chapter Mumegae (梅枝), four types of compound incense appear at the competition of takimono-awase hosted by Genji, and among these Kayō (荷葉) and Jijū (侍従) contain a unique fragrance called "juku-ukon (熟欝金)", which "Shugaishō (拾芥抄)" lists up as one of the five highly prestigious incenses. Although it is expressed by the name "ukon (欝金)", it is a kind of compound incense made by blending four other kinds of fragrances with what is called "kō-ukon (黄欝金)", and is blended into other incenses as if it were a single fragrance. In the world of Kōdō (香道), there are two types of ukon other than "juku-ukon", "kō-ukon" and "shō-ukon (青欝金)", the former of which refers to the rhizome of Curcuma aromatica, and the latter of which refers to that of C. longa. It should be noted that in Chinese Herbalism "shō-ukon" corresponds to C. longa (鬱金; turmeric), and "kō-ukon" corresponds to C. aromatica (姜黄; wild turmeric), that is, there is subtle difference in recognition of each incense between Kōdō and Herbalism. In addition to what is called ukon (鬱金), there is a confusing herbal name called ukonkō (欝金香) in Chinese Herbalism, and contrary to the similarity of names, it originates from a completely different plant species called saffron. It is a firmly established fact that ukonkō is derived from saffron based on the descriptions in "Cè fǔ yuán guī (冊府元亀)" which concerns its detailed morphology and "Butssetsu Makasettoukyo (佛説摩訶刹頭経)" which concerns its distinguished property of the water turning red when ukonkō is crumpled in water. However, Lǐ Shí zhēn, the author of "Bencao Gangmu (本草綱目)", supports Zheng Xuan's notes(鄭玄註) on yùrén (鬱人) of "Zhōu lǐ (周禮)" and the interpretations of related letters (鬱、) in "Shuō wén jiě zì (説文解字)" in addition to other theories of various schools. Thus it has resultantly come to an ambiguous interpretation that could lead to ukonkō being taken as its flowers of ukon. On the other hand, Lǐ classifies saffron (番紅花;洎夫藍) as marsh herbs (湿草類), and is thus distinguished from aromatic herbs (芳草類) that ukon (鬱金) and ukonkō (鬱金香) belong to. Therefore it is absolutely unlikely that ukonkō is saffron according to Li's viewpoints. Although "Butssetsu Makasettoukyo" assigns a name for ukonkō to kukuma (茶矩麽), Lǐ did not realize that it was derived from the Sanskrit name कुङ्कुम (kuṅkuma), which inebitably led him to a wrong conclusion. In Sanskrit, ukon (turmeric) is called हरिद्रा (haridrā) and गौरी (Gauri), which literaly mean "yellow" and "light and shining", respectively. In other words, the Chinese name ukon (鬱金) is a translation from these Sanskrit names. In the area west to India, turmeric was called "Indian saffron". The Arabic name "kurkum" for turmeric results from the linguistic confusion of both names. The confusion between the two names also extended to China, where the name ukonkō (欝金香) was created, despite the fact that there is neither systematic nor morphological relation between both of the original plants. The name ukonkō is also found in Japanese literary sources, but the corresponding article in "Kōjishō (香字抄)" and "Kōyoshō (香要抄)" simply transcribe the main text of ukon in the Chinese herbalism, indicating that its origin was not understood correctly. Since saffron was introduced to Japan after the mid-Edo period, it also becomes clear that the one imported under the name of ukonkō through trade with the Continent was actually Harukon (C. aromatica) or Akiukon (C. longa).
香薬は仏教との結びつきが強く、インド・東南アジア原産の香料は仏教の伝来とともに中国にもたらされ、中国経由でわが国へ渡来した。香料を焚いて燻らすことを薫香というが、その歴史的な起源は仏前に供えて燻らす名香にあり、もともとは諸々の汚れを祓って仏に接するという宗教的な意義が背景にあり、一般には“お香”と呼ばれる。お香は英語のincenseに相当するが、もともとはラテン語のincendereに由来し、「燃やす」の義である。古代ローマ時代から香料は神々への捧げ物として燃やされており、その伝統はキリスト教にも受け継がれ、スパイクナード(甘松香)やフランキンセンス(乳香)などはカトリック教会でよく焚かれる。のみならずイスラム教やユダヤ教でも乳香などを焚く習慣があり、そういう意味ではお香は必ずしも仏教に特有ではない。仏教が渡来して数百年経た平安時代になると、宗教行事から離れて香りそのものをを楽しむ芸道が発生した。しかし、現在に継承される香道とは少々趣が異なるので、古典文学の解釈では注意を要する。今日、香道では“香りを聞く”という表現がしばしば使われるが、香りを嗅ぐことによって香りの種類を当てることを聞香という。音読みして“ぶんこう”、“もんこう”ということもある。本居宣長は国文学者ながら「香を聞といふは、もと漢言にて、古の詞にあらず云々」(『玉勝間』七 「香をきくといふは俗言なる事」)と述べ、「香を聞く」とは漢語由来で、それほど古い詞ではないと主張する。実際、漢籍、ここでは唐詩を博捜してみると、白居易の「二年三月五日斎畢り素を開き、食に當たりて偶吟し、妻弘農郡君に贈る」(『全唐詩』巻四百五十九)の一節「老いて憐む口の美きを尚ぶを 病みて喜ぶ鼻の香を聞ぐを」に行きつき、名詞形ではないが、確かに「香を聞く」という表現が存在する。通釈すれば、年をとってもなおうまいものをありがたがるのを哀れに思い、病気になっても鼻で香りを嗅げる時は嬉しく思うという、白居易が妻とともに斎戒明けで久しぶりに珍味に舌鼓を打つ様子を詠んだ詩である。したがって、ここでいう「香を聞く」とは、ただ単に鼻という感覚器官で香りを感じるに過ぎず、芸道の聞香とはニュアンスがまったく異なる。もう一例、李白の「長相思」(同巻一百六十五)では「美人在りし時、花堂に滿ち 美人去りし後、空しく床を餘す 床中、繡巻かられて寢ず 今に至って三載猶ほ香を聞くがごとし 香亦た竟に滅せず 人亦た竟に來らず」とあり、通釈すると、“美人がいた頃は花がいっぱいあって香りで満ちていたが、去った今はただ床もからっぽで、床の中も美しい縫い取りで巻かれていて寝る人はいないが、三年経った今でもまだ香りを嗅ぐような感じがして、いったんしみついた香は消えることはないが、去った人だけはとうとう帰ってくることはない”となる。これだと白居易の詩より芸道の聞香の義に近くなるが、香薬の香りというより花の香りを暗示しているから、やはり聞香とは似て非なるものの印象は拭えまい。ちなみに、「聞」の字義は、主たる漢籍字書に“嗅ぐ”という意は見当たらないが、『集韻』には「䛙 䜡䛙は香を聞ぐ皃」「䜡 䜡䛙は香を聞ぐ皃」(巻九)とあって、「䜡䛙」という語彙はあっても実際の用例はほとんどない。以上、「聞香」の意は日中間でかなりの乖離があるので、湯桶読みして「ききこう」とするのがよいだろう。前述したように、国学者の本居宣長は聞香という表現は古くはないと述べたが、『日葡辞書』(1603〜04年)に「Couo (カウヲ) キク」とあるように、“香を聞く” という表現を収録している。国書では長寛年間(1163年〜65年)に刑部卿藤原範兼が勅命により抄集したといわれる『薫集類抄』の「菊花方」の条に、「菊花方〜聞之薫之者〜」とあり、実質的には当該の表現の初見と思われる。ただし、同書は合香専門書であるゆえの特殊な用例である。一般の平安古典文学で薫物に言及した作品は少なくないが、それらの中に聞香をかかる義で用いた例は見当たらない。一般書としてはずっと時代を下って『筑紫道の記』(宗祗、1480年)に「夜に入り、香などたがひに聞き合ひて云々」とあるのが初見となる。
さて、ここでもっと具体的な話題に転じよう。平安時代の摂関政治の最盛期に、藤原北家小野宮流の上級貴族藤原実資は、当時の政治・有職故実・文化・世相などの状況を詳細に記し、それは日記『小右記』として集大成されて今日に伝わり、歴史資料としての評価は極めて高い。永祚元(989)年1月9日の条に「頭中將來りて薫物を向志す」とある記述は、まだ頭中将だった若かりし頃の藤原公任が薫物を所望したことを示唆し、平安時代の公家社会では香料を燻らすことが日常的に行われていたことを示唆する。公任もまた名門小野宮流出身で実資の従兄弟に当たり、正二位権大納言止まりで家格に見合った官職こそ恵まれなかったが、道長との強い関係を維持することで朝廷内で安定的な地位を確保し、和歌や有職故実などの分野で才覚を発揮して文化人としての地位を不動のものにした。お香に対して造詣が深かったことは一般にあまり知られていないが、平安後期に成立した薫物の専門書『薫集類抄』上において次のように公任の名を見るのは当該分野において一定の名声を得ていたことを示唆する。
梅花
小一條皇后 城子。三條院女御。小一條大將済時の一女。大納言公任同じく之を用いたり。
沈八兩二分 占唐一分三朱 甲香三兩二分 甘松一分 白檀二分三朱 丁子二兩二分 薫陸一分 麝香二分 已上小十六兩二分大五兩二分
以下略
黒方
滋宰相 小一條皇后の方、此の方と相違無く、公任卿同じく之を用いたり。小一條院の方、又之に同じ。入道一晶宮の女房陸奥の方、之に同じ。参議師成、又之に同じ。
沈四兩 丁子二兩 甲香一兩、或は二分 薫陸一分、或は二分 白檀一分、或は二分 麝香二分 已上大八兩二分
沈六兩 丁子三兩 甲香二兩一分 薫陸一分三朱 白檀一分一朱 麝香三分 已上小十二兩三分
沈四兩 丁子二兩 甲香一兩二分 薫陸一分 白檀一分 麝香二分 已上小八兩二分
ただし、『薫集類抄』裏書勘物に「公任卿、和香の傳は見えず」とあるから、公任は自ら薫物を調合することはなかったようである。祖父の保忠は、梅花・侍従・黒方などの条のほか、同書下巻の合香法でも八条大将の名で頻出するので、父頼忠を経て薫物を相伝したと思われる。公任は百人一首では四条大納言の名で知られるが、この名は『薫集類抄』の上下巻に頻出する。しかし、公任とは別人であって嵯峨天皇の子(嵯峨第六源氏)の源定のことである。いずれにせよ、公任が薫物に強く耽溺していたことは次に示す和歌(いずれも『公任集』)によく表されている。
1.たき物あはせてうへにおきていで給ひにければ、すこしとどめ給うて、女御の御
残りなく 成りぞしにける 薫物の 我ひとりにし まかせてしかな
2.父大臣うせ給ふての比、たきもの人のこひたるつかわすとて
花だにも 散たる宿の 垣ねには 春の余波も すくなかりけり
1は残り少なくなった薫物を自分一人だけの思うがままにしてもらいたいものだという意で、公任の薫物に対する強い独占欲が見て取れるのは公任家に薫物が代々受け継がれてきたことを示唆するものだろう。2の歌は、父の死後に人が薫物を求めてきたので与えるという題詩で詠まれたのであるが、祖父の代から受け継がれた薫物(梅花または黒方)が一定の評価を受けていた名香だったことがうかがえよう。
『源氏物語』は、平安の貴族社会という狭い社会を舞台としながら、当時の政治の舞台の中枢を背景に取り入れて実に多様なキャラクターを登場させ、驚くほど細かい人間関係の心理描写を通してストーリーを展開し、千年も前の小説とは思えないほどのスケールの大きな傑作である。作者紫式部は女房として内裏の中枢に出仕していたので、当時の宮廷社会における有職故実に深く接する機会があり、そこで得た見聞を物語の情景に取り込んで豊かな感性をもって描写する。その中で特筆すべきは、五感の一つであるゆえに言葉で表すのが難しい平安の「匂いの文化」たる薫物を随所に取り込んでいることであろう。あらかじめお断りしておくと、薫物に言及した文学作品は数多いが、とりわけ洗練された形で薫物を情景に溶け込ませて記述した作品は『源氏物語』においてほかはないので、ここでは同書だけを俎上にあげて平安の薫物文化について論じて見たい。参考のため、他作品における薫物の出現例も本ページ末に一括して掲載してあり、随時、引用して比較考証する。まず始めに『源氏物語』の第2帖の箒木を一例に取り上げるが、主人公の光源氏が左馬頭・頭中将・藤式部丞とともに女性体験をもとにそれぞれの好みの女性について語り合った「雨夜の品定め」のあとに、頭中将が勧めた「中の品」の女性に当たる空蝉に興味を持ち、深夜に忍び込んで一夜を共にするという官能的なシーンである。
(空蝉)「人違へにこそ侍るめれ」といふも、息の下(息絶え絶え)なり。(空蝉の)消えまどへる気色、いと心苦しくらうたげなれば、(源氏は空蝉を)「をかし」と見給ひて、(源氏)「違ふべくもあらぬ心のしるべを(わが心の導くままなのに)、思はずにもおぼめい給ふかな(おとぼけするのですね)。 好きがましきさまには(一時の出来心と)、(あなたから)よに見えたてまつらじ(思われたくありません)。(私の)思ふことすこし聞こゆべきぞ(申し上げましょう)」とて、(空蝉は)いと小さやかなれば、(光源氏は空蝉を)かき抱きて障子のもと出で給ふにぞ、(空蝉が)求めつる中将(女房の「中将の君」)だつ人、(源氏に)来あひたる。(源氏)「やゝ」との給ふに、(中将が)あやしくて(声のする方に)探り寄りたるにぞ、(周囲に)いみじくにほひ満ちて、顔にも燻りかゝる(匂いが立ち上る)心地するに、(中将は源氏だと)思寄りぬ。(中将は)あさましう、「こはいかなることぞ」と思ひ惑はるれど、(源氏に)聞こえむ方なし(問いかける言葉もない)。並々の人ならばこそ、荒らかにも引きかなぐらめ(空蝉を引き離そうとするのだが)、それだに人のあまた(このことを)知らむは、いかゞあらむ。(中将は)心も騷ぎて、(源氏の後を)従ひ来たれど、(源氏は)動もなくて、奥なる御座に入り給ひぬ。
この一節における源氏の行動は、端的にいえば、契りを結んでいない女性(空蝉)に対する夜這いであり、しかも相手に「人違い」と言わしめているから、今日であれば確実に不同意の性行為として処罰の対象になるところだが、平安の貴族社会ではむしろ日常茶飯事のことだった。物語では空蝉に仕える中将の君が、夜這いをもくろむ光源氏の声に反応して探り寄ると匂いがぷんぷんとしたので、空蝉のもとに通ってきたのは源氏だと直感したという設定であるが、当時の上級貴族は衣服にふんだんに香りを焚きしめる習慣があり、ときにその匂いで相手が誰であるのかわかるほど、各自が個性的な香りを焚き込んでいたことがうかがえる。それは衣香という薫物の一種で、紫式部は官能的な情景を暗示する描写の中に、平安期の「匂いの文化」をさりげなく潜り込ませたのである。これなどは個人ごとに思い思いの複数の香水を噴霧して相手にそれとなくアピールする今日のパーヒュームによく似ており、とりわけ照明が未発達の薄暗い中では目視で相手を同定するのは心許なく、焚き込まれた匂いの種類を嗅ぎ分ける方がずっと有効だったのかもしれない。香りの焚き込みは衣服に限らず、宮中の女性にとって必需品たる扇子や、和歌を書き記し手紙を書いて殿御に送りつけるのに欠かせない紙にまで及んだ。たとえば、「若菜の帖(上)」において源氏の愛人明石上が明石入道の手紙を明石女御に読み聞かせるシーンにおける「この文(入道の消息文)の言葉、いとうたて強く(非常にひどくて堅苦しく)、にくげなるさまを、陸奥国紙にて、年経にければ、黄ばみ厚肥えたる五六枚、さすがに香にいと深くしみたるに書き給へり」という描写で暗示されている。平安時代では紙屋院で作られた和紙や高麗渡りの紙のようにきめが細かで柔らかく薄めの紙が好まれていた。一方、陸奥紙はコウゾを原料として作られ、現代の視点で見ればきわめて上質であるが、宮中では人気が今一つであった。その厚ぼったく年数を経て黄ばんだ野暮ったい陸奥紙ですら、深く香が沁み込んでいたというから、平安貴族が可能な限りのさまざまなものに香りを焚き込んでいたことが示唆される。また、「若紫の帖」では、源氏が理想の女性として見出した若紫の素性を聞こうとして、彼女が住む北山の僧都の坊に一泊するシーンがあり、「いと心ことによしありて、同じ木草をも植ゑなし給へり(ほかにあるような草木であっても非常に趣があるように植えあつらえてあった)。月もなき頃なれば、遣水に篝火ともし、灯籠などにも参りたり(灯籠などにも灯りをともした)。南面いと清げにしつらひ給へり、そらだきもの心にくゝ薫り出で、名香の香など、匂ひみちたるに、君の御追風(源氏の君が動くときに起きる空気の揺らぎに乗って源氏の衣香が薫り出ること)いと殊なれば、(御簾の)うちの人々も、心づかひすべかめり。」という描写の中に、こざっぱりとした邸内で、室内などもっと広い生活空間に香りをただよわせる空薫物(来客などのため、目につかないようにさりげなく焚く香)が登場する。若紫は祖母の尼君と同居していたから、当然ながら仏前から名香が匂いわたり、それに加えて源氏の衣香を“追風”なる巧みな表現で暗示するなど、三種の薫物が相混じる光景は紫式部の「香り」への強いこだわりを示すものであり、ほかの平安の古典文学には見当たらないきめの細かさが見えてくるのである。興味深いことに、空薫物は貴族の奥ゆかしい遊び心のなせる技かと思いきや、「花の宴」の帖における右大臣邸の藤の花の宴の情景では「そらだき物、いとけぶたう薫りて、(女たちが)衣の音なひ(衣服の音擦れを)、いと花やかに、うちふるまひなして、心にくゝ、奥まりたるけはひは立ちおくれ(奥ゆかしさは劣り)、いまめかしきことを好みたるわたりにて(珍奇を好む今風の一門だから)、やむごとなき御方々、(今日の宴を)物見給ふとて、この戸口は占め給へるなるべし」とあるように、時に過剰な香烟を燻らせることもあった。ただし、この情景に至るまでの筋書きを知らないと、この意味するところを的確に把握するのは難しいので説明しておく。源氏は宮中で開かれた桜の宴を利用し、生涯でもっとも憧れた初恋の人藤壺中宮に会いたいと思い、邸内を徘徊して見つけたのが源氏とは敵対関係にある右大臣の娘六の宮であり、邸内のほかの女性とは一味違う奥ゆかしさに惹かれて、源氏は扇子を交換し契りを結んでしまう。源氏は六の宮が東宮に入内が決まっていたことを知らなかった。藤の宴が開かれたのは1ヶ月後、招待された源氏は邸内を探し回り、六の宮と思しき姫君を見つけ、几帳越しに手を握ってしまう、これで六の宮の入内は取り消しとなり、源氏にとっても波乱万丈の人生の幕開けとなったという次第である。人間の嗅覚は個人差が激しいから、人によっては“もっと香りを”といって極端に走ることはけっして不自然ではないが、この情景において紫式部が演出しようとしたのは、源氏ファミリーとは敵対する右大臣側を“奥ゆかしさに欠け派手好みの目立ちたがり屋”と暗に揶揄し、それとは対極の性格の娘の六の宮を源氏と一時的に結ばせることで、その両極端を際立たせることであり、実に細かく計算し尽くした心憎い演出といえよう。いわゆる薫物は以上の名香・衣香・空薫物の三種に大別されるが、平安時代では単味の香料を燻らすことはまれで、さまざまな香料を調合して造る“合わせ香”が一般的であった。いい換えれば各自の好みに応じて“匂いをデザイン”して自己アピールに利用したも考えられるのだ。一般的な造香のプロセスは、まず好みの香薬原料に甲香を加え、細末としたのち篩にかけて均一とし、さらに甘葛煎か時に蜂蜜や膠飴(デンプンを発酵で麦芽糖にまで分解したいわゆる水飴のこと)などの蜜を結合剤として加え、練り合わせて適当な大きさに丸めたものを練香といい、これを薫物に用いる。多くの場合、土の中に一定期間埋めて熟成させる。『薫集類抄』では以上の合香プロセスを次のように分類し、各合香家のノウハウを記載するが、秘伝の部分が多いので、それでもって完全に合香を再現できるわけではない。
和合ノ時節:数は少ないが調合時期にこだわる合香家もいる。たとえば、山田尼(詳細は後述、合香のプロフェッショナルとして紫式部と同時代に活躍した)は「春むめのはなさかり二三月秋蘭菊のかうばしき八九月」と述べ、二〜三月と八〜九月を、合香の種を問わず、適した時期とする。
煎二ズ甘葛一ヲ:甘葛煎はナツヅタの茎から出る樹液を煮詰めたもので、合香で繁用され結合剤の標準というべきものである。樹液を煮詰めるので、加熱温度によって粘度が変わってくるから、合香家によってそれぞれ独自のノウハウがある。
炮二ク甲香一ヲ:“へなたり”と呼ばれるウミニナ科アカニシなど巻貝の蓋を火で炮ったもので、生薬学でいう黒焼に似る。化学的には炭酸カルシウムを主成分とし、いわゆる石灰と変わらないので、貝殻であれば何でもよいように思えるが、わざわざ貝蓋を用いるのは堅く緊密な質が好まれたようだ。ほとんどの合香家は酒に浸すが、海産物特有の臭みを除くためと思われる。ただ一人四条大納言(前述したように、藤原公任とは別人)は甘葛煎を塗るがやはり目的は同じであろう。
舂レク香ヲ:臼で香薬をつくこと。香薬ごとについて混ぜ合わせることもあれば、予め香薬を混ぜておき、まとめてつくこともあり、各家さまざまである。生薬であれば石製や金属製の薬研という専用の道具があるが、香薬の場合は鉄臼を用いる(『源氏物語』「梅枝」に出てくる、後述)。
篩レウ絹ニテ:香薬の粉末を篩にかけて粒度をそろえるために行い、荒目の絹の薄衣を用いる。
篩後斤定:篩にかけた香薬末を秤量すること。律令制では24銖を1両、16両を1斤とする。1銖は中程度の大きさのきび100粒の重さと規定された。以上は小斤といい、別に三両を大両として規定された大斤があり、重いものをはかる単位とされた。『延喜式』では湯薬をはかる場合に小斤を用いるが、香薬もこれに準じたと考えてよいだろう。
合篩:各香薬を搗いて散剤としたものを合わせた後に荒目の絹の薄衣で篩にかけることをいう。
和香次第:香薬を和合する順序など定めで合香家によって異なる。
合和:香薬の和合に際しての注意事。心構えを説くこともあれば、香薬を季節によって加減するなど微妙な調整法に関するものもあり、合香家によってさまざまである。
合舂:香薬を臼でつく回数。合香家によってつき数を指定したり、単に「多ければよい」とあいまいな指示もありさまざまであるのは合香が各家で秘伝とされるからであろう。生薬では粗末、中末、細末、微末に分類されるが、通例、中末〜細末とする。香薬では微末にするのが普通(薄衣で篩に掛けるから)だから時に数千回つく必要がある。実際、線香の原料は水車の水力を利用して数日かけて微末ににしている事実がある。後述の『源氏物語』ではご婦人方が鉄臼で香薬をつく情景が出てくるが、このプロセスは労力の負担が大きく、およそ非力な女子には無理である。
埋メル日数:合香の香薬を地中に埋めるのはどの合香家も実践しているが、日数はさまざまで大方三日〜七日程度、合香の種類によっては三十日の長期にわたる場合もある。公忠朝臣(源公忠;889−948)の黒方・侍従は、春秋は五日、夏三日、冬は七日と季節によって埋日数を変える。埋める場所も梅・桜・松などの木の下を指定することもある。『源氏物語』の「梅枝」の帖に「右近の陣の御溝水のほとりになずらへて、西の渡殿の下より出づる汀ちかく埋ませたまへるを、惟光の宰相の子の兵衛の尉、堀りて参れり」というように光源氏の調合して埋めた合香を掘り出すシーンがあり、“右近の陣の御溝水のほとり”に植えられている桜の下に埋めるのに倣って云々というから、紫宸殿では合香を桜の下に埋めることがあったことを示唆し興味深い。埋める深さについては一部の合香家は三尺に指定するが、特に言及していなくとも、地中に埋めるといえば大体その程度になるだろう。仮に地下1mとすれば、一年の平均地温は外気の年平均気温より1〜2度高くなるが、湿気はほぼ一定となり、昼夜の日較差はほぼゼロ、年較差も小さくなり、外部気温の影響はかなり小さくなる。すなわち埋日数が1ヶ月以内であれば昼夜も温度は一定となり、夏はひんやり、冬は暖かく感じる。香薬を地中に埋める意義はよくわからないが、短期間ベースで温度・湿度がほぼ一定であることと無関係ではないだろう。
『薫集類抄』には同書の平安中期〜末期のわが国で流行し、後の香道の源流となった薫物合わせの六つの基本合香方が列挙され、一般に「六種の薫物」と呼ばれる。
黒方 沈四兩 丁子二兩 白檀一分 甲香一兩二分 麝香二分 薫陸一分、已上大
侍從 沈四兩 丁子二兩 甲香一兩、已上大 甘松一兩 熟欝金一兩、已上小
梅花 沈八兩二分 占唐一分三朱 甲香三兩二分 甘松一分 白檀二分三朱 丁子二兩二分 麝香二分 薫陸一分
荷葉 甘松花一分 沈七兩二分 甲香二兩二分 白檀二朱、或本に三朱 熟欝金二分、麝香に代ふ 藿香四朱 丁子二兩二分 安息一分、或は無し
菊花 沈四兩 丁子二兩 甲香一兩二分 薫陸一分 麝香二分 甘松一分
落葉 沈九兩 丁子四兩 甲香一兩二分 麝香二分 香附子三分 薫陸一分 白檀二分二朱、或は二朱 蘓合一兩
原典では菊花と落葉の配合成分は全く重複し誤写と考えられるので、『類聚雜要抄』から補録した。六種の全てに配合されるのは沈香・丁子・甲香である。このうち甲香は本質的に無機物であって合香の基材というべきものであるから、もっとも汎用的な香料は沈香、丁子であり、いずれもわが国どころか中国にすら産出しない高級な香料として知られ、正倉院に所蔵される蘭奢待は沈香といわれる。六種のうち、侍従と荷葉には熟欝金という香料が配合される。六種のうちの2種の薫物に配合されるにすぎないが、鎌倉末期〜南北朝時代初期に成立したとされる有職故実書『拾芥抄』の寳貨部第廿六に「五香 沈 丁子 白檀 龍腦 欝金」とあり、熟欝金とは関係浅からぬべき欝金が、沈香・丁子とともに五香の一つに列せられることは、その香薬としての地位は他品と比べてけっして低くないことを示す。前述の六種の薫物のうちで落葉を除く五方について、『拾芥抄』の薫物方第廿五に「其の方其の香は少し香を入ると雖も各所法有るなり。黒方は麝香薫陸を以て其の香と爲し、侍從方は欝金を以て其の香と爲し、梅花方は丁子甘松を以て其の香と爲し、荷葉方は藿香白檀を以て其の香と爲し、菊花方は甘松薫陸を以て其の香と爲す歟。甲香は衆香を以て混合の用有るなり。此れ本は大法性寺殿(藤原忠通)真筆本之を冩す。」と記載している。これによって各方で中核となる香薬が規定され、他香をもって代えがたいと考えられていたことがうかがえる。それによれば欝金は侍從方の中核をなす香薬であり、香薬をランクづけしたとしておよそ下位ではないことがこれによっていっそう明らかになると同時に、熟欝金が単に欝金と表記されることからわかるように、時に両名が混同されることも示唆している。したがって考証に際しては最新の注意が求められなければならない。ただし、“熟欝金”という名は仏典や本草書ほかいかなる漢籍にも見当たらないが、香薬の専門書では、後述するように、熟鬱金に加えて⿈鬱金、⾭鬱金というこれまたわが国特有の香薬名が出てくるので、その基原が何であるか合わせて考証することにする。
3.「梅枝の帖」の薫物合わせ『源氏物語』でもっとも薫物の情景が多出するのは「梅枝の帖」であり、この帖の冒頭からして香薬談義がふんだんに出てくる。「正月の晦日なれば、おほやけ、わたくし、のどやかなる( 公私とも落ち着いてゆとりのある)頃ほひに、薫物あはせさせ給ふ」という描写は、光源氏とその愛人明石上との間に生まれた明石姫君の御裳着の儀(男子の元服に対応する儀式で、公家の女子が成人の印として初めて裳を着ることをいう)を当年の二月に行い、ほぼ同時期に東宮の元服の儀が予定されているので、娘の入内を視野に入れて源氏が入念に準備している情景を表す。太政大臣となった源氏にとって、娘の入内は自らの権力基盤をいっそう強固にするためのマヌーバーというべきものであるから、薫物合わせは合香の優劣を競う遊戯という趣味の範疇に留まるようなものではなく、最高の薫物を選抜して娘の御裳着とその先に目論む入内をつつがなく進めるため、自らの権勢を誇示する手段でもあっのだ。“薫物あはせさせ給ふ”とは一見わかりにくい表現であるが、高度の尊敬と使役の二通りの解釈が可能であり、前者だと太政大臣の源氏が自ら薫物の“あはせ(合香)”をなさるという意、後者では誰かに命令して“あはせ(合香)”をさせるという意になってニュアンスはまったく異なってくる。日本古典文學大系本によれば、諸本は“薫物あはせ給ふ”として解釈するというが、これだと単に“薫物を調合なさる”という意にしか取ることができない。したがって、“薫物あはせさせ給ふ”はあいまいな表現のように思えるが、源氏自身が調合したことは、「大臣は、寝殿にはなれおはしまして、承和の御いましめのふたつの法を、いかでか御耳にはつたへ給ひけん、心にしめて(気を引き締めて;本来ならほかの人物がすべきことを太政大臣たる自分が行うのであるから、“ひっそりと、密かに”の意を込める)あはせ給ふ」という描写から明らかであり、太政大臣が自ら合香に汗を流すとあれば、“給ふ”より高い尊敬の意を表す“させ給ふ”の方が相応しいといえる。しかも、源氏自身が引きこもって“承和の帝の御秘伝の二つの調合法”(後述)を行ったことも加味しなければならないから尚更である。また、古渡り・新渡りの香薬をご婦人方に配って調合を依頼し、「所々の(ご婦人方の)御心尽くし給へらん匂ひどもの、すぐれたらむどもを、(源氏自ら)かぎ合はせて、(瑠璃製の香壺に)とゝのへ入れむと思すなりけり」とある描写から、最高の合香を得んがための源氏の強い意図を読み取ることができる。御裳着の儀の直前の二月十日に薫物合わせが行われ、合香の名前と判定結果は以下のようであった。
⚪︎斎院の御黒方、さはへども、心にくゝ、しづやかなる匂ひ、殊なり
⚪︎侍従は、大臣(太政大臣源氏)のをぞ、「すぐれてなまめかしうなつかしき香なり」と定め給ふ
⚪︎対の上(紫上)の御は、三種(黒方・侍従・梅花)ある中に、梅花は、はなやかに、今めかしう(今風の)、すこしはやき(少々きつめの匂いの)心しらひ(工夫)を添へて、めづらしき薫り加はれり
⚪︎夏の御かた(花散里)には、人びとの、かう心々に挑み給ふなる中に、数々にしも立ち出でずや(他の方々から抜き出て目立つことはしないよ)と、煙をさへ思ひ消え給へる御心にて(香の煙すら思い沈めてしまわれるような控えめなお気持ちで)、たゞ荷葉を一種あはせ給へり。さま変はり(趣が変わって)しめやかなる香して、あはれになつかし。
⚪︎冬の御かた(明石上)にも、時々によれる(時節に合わせて)匂ひのさだまれるに、消たれんはあいなしと(圧倒されるのは気に入らないと)思して、薫衣香の法のすぐれたるは、前の朱雀院の(法)をうつさせ給ひて (伝承なさって)、公忠朝臣の、ことに選びつかうまつれりし、百歩の方など思ひ得て、世に似ずなまめかしきを、 (明石上が)とり集あつめたる、心掟 (気配りは)すぐれたりと、(兵部卿宮;源氏の弟で薫物合わせの判者)いづれをも無徳ならず定め給ふ(どれも取り柄があるように判定なさる)〜
2で前述したように、梅花・荷葉・菊花・落葉・侍従・黒方の六方を「六種の薫物」と称し、平安期の薫物合わせで用いられるもっとも標準的な薫物と考えられている。そのうちで『源氏物語』の梅枝に登場するのは梅花・荷葉・侍従・黒方の四方であり、菊花・落葉は他帖にもでてこない。菊といえば重陽の節句を想起し、そして落葉といえば季節の移り変わりで起きる自然界の現象であり、詩文ではいずれも秋〜冬を表す季語である。すなわち名前が秋に由縁のある薫物が『源氏物語』にないのは意外に思えるが、むしろ何らかの理由が背景にあると見るのが自然であろう。鎌倉後期に成立したといわれる『後伏見院宸翰薫物方』(後伏見天皇)は六種の薫物と季節の相関を次のように記している。梅花を除いてネーミングが季節の情感を表すとは思えないが、平安期の『源氏物語』の成立前後において、この相関が支持されていたかいささか疑問があるものの、『源氏物語』の各注釈書はこれに若干の修正を加え、薫物と季節の取り合わせがあったとする認識は支持されている。
梅花 春 春は梅花、むめの花の香に似たり
荷葉 夏 夏は荷葉、はすの花の香に通へり
侍従 秋 秋風蕭颯たる夕、心にくきおりふしものあはれにて、むかし覚ゆる匂によそへたり
菊花 冬 冬は菊花、きくのはなむら々々うつろふ色、露にかほり水にうつす香にことならず
落葉 秋 秋は落葉、もみぢ散頃ほ(ひ)に出てまねくなるすゝきのよそほひも覚ゆなり
黒方 冬 冬ふかくさえたるにあさからぬ気をふくめるにより
実は『源氏物語』の梅枝に各季節で旬の薫物が規定されていたことを示唆する記述がある。「冬の御かたにも、時々によれる匂ひのさだまれるに〜」とある記述は、まさしくそれぞれの季節にふさわしい合香方が決められていたことを示唆し、それは原作者紫式部の薫物に対する認識を反映したと考えて間違いあるまい。源氏が主催する薫物合わせは二月十日に行われているから、仲春すなわち春の盛りに当たる時期である。『薫集類抄』にも「梅花の香を擬ふなり。春に尤も之を用ふべし。」と注記しているから、梅花方が「春の香」と認識されていたことに疑問の余地は寸分もない。だが、二月十日という時節は現代では梅の花がようやく咲き始める時期であって盛りとは程遠い。これだと六種の薫物のうちで唯一仲春に適合するはずの梅花方ですら、肝心の梅の開花がそんな状況では、二月十日の薫物合わせに物足りなさを感じてしまうだろう。ただし、旧暦と現代の新暦とでは、暦のシステムが根本的に異なるので、季節認識のずれがあることを考慮せずにそう断じるのは性急すぎる。梅枝の帖では、「二月の十日、雨すこし降りて、(源氏の)御まへ近き紅梅さかりに、云々」とあって、当日は梅の花が満開だったという情景設定になっているので、まず始めに『源氏物語』の季節設定が妥当なのか検証することから始めよう。『源氏物語』では単に“二月十日”とあるだけで、陰暦の何年であるのか提示していないので、とりあえず作者の紫式部が活躍した長徳元(995)年から寛弘九(1014)年までの二十年間で、“二月十日”という日付に旧暦と新暦との間ではどれほどのずれが生じるのか明らかにする必要がある。国立天文台の日本の暦日データベースによれば、二月二十六日から三月二十六日まで1ヶ月もの大きなずれがあるのに、これまで国文学で言及されたことを聞かない。旧暦では約三年に一度閏月を置くので、同じ日付でもこれほどの日月の差が生じてもけっしておかしくはないのである。近年、大気中の温室効果ガスの濃度の上昇で、地球規模の気象の温暖化が進行し、現時点での京都地方における梅の開花の見頃は二月中旬から三月中旬とされている。一方、平安時代とりわけ紫式部が活躍した摂関政治の最盛期は大飢饉がなく感染症が蔓延した時代であったから、今日と大差ない気象環境にあったと考えられ、薫物合わせが行われた梅枝の“二月の十日”は新暦の三月上旬に相当すると推定される。したがって梅の花の最盛期であるから、梅花方を焚くには絶好の時節といえ、紫式部の季節設定は正鵠を射ていることがわかる。そのほかの荷葉・侍従・黒方は梅枝の焚き物合わせにあっては季節外れになるが、ここで『源氏物語』においてこれら三方の季節が通説の通りに認識されているのか、すなわち紫式部が同じ認識をもっていたのか、物語の背景を精査することにより検証してみる。まず荷葉方は、『薫集類抄』で「荷の香に擬ふなり。夏月、殊に芬芳を施く(よい香りを一面に漂わせる)。」と注記されているので、合香専門書では確かに夏の方と認識されたことがわかる。『源氏物語』では鈴虫の帖の「閼伽の具(仏に手向ける水を入れておく容器)は、例の、きはやかに小さくて、青き、白き、紫の蓮を調へて、荷葉の方を合はせたる名香、蜜を隠しほほろげて(甘葛煎を少な目に配合してばらばらにほぐして)、たき匂はしたる、(百歩の衣香と)ひとつ薫りに匂ひ合ひて、いとなつかし」という描写の中で、字義の上ではハスの葉にすぎない荷葉をハスの花(青・白・紫の花)に対比させていることが読み取れる。そもそもこの帖は「夏ごろ、蓮の花の盛りに、入道の姫宮の御持佛どもあらはし給へる、供養ぜさせ給ふ」というように、わざわざ夏のハスの花の盛りであることを明記しているから、『源氏物語』で荷葉方を“夏の香”と位置付けていることが確認できる。梅枝の薫物合わせにおいては季節外れであることに変わりはないが、「夏の御かたには、(中略)、ただ荷葉を〜」という件の中に、荷葉の製作者名をわざわざ“夏の御方”とすることで、荷葉方が夏に由縁があるようにきちんと設定されているのは紫式部が薫物と季節との相関に強いこだわりをもっていたことを示唆する。しかし、キャラクターの「夏の御方」の素性を熟知していないとそのように理解するのは難しいが、その名は薫物が頻出する梅枝の帖にあっては、源氏の細君がお造りになった合香という特別の意味をもつ縁語であることに気づけば、紫式部が荷葉方を夏に位置付けられる合香方と認識していたことがいっそう明確となる。梅枝の帖には「夏の御かた」と相対する「冬の御かた」という微妙な意味合いの名も出てくるので、それぞれの名の由来について4-3で改めて述べることとする。次に侍従方は『薫集類抄』で「秋風蕭颯として心にくき折によそえたるべし」と記載されているが、梅花・荷葉とは違って、侍従という名と“秋という季節”との接点はさっぱり見出し得ない。おそらくこの記述でいう「心にくし」とは“奥ゆかしい”という意ではなく、不安感や不審感などネガティブな意が込められたと解すべきであり、秋風蕭颯云々という記載は侍従という官職に関連した何らかの特別の意味をもつ表現と思われる。侍従は和語で御許人というように、律令制では中務省に属し天皇に近侍する官職であったが、810年、蔵人所が新設されると、侍従の職掌の多くは蔵人に吸収されてもっぱら儀式的な存在となり、勅命の伝達、上奏の取次ぎを担う蔵人頭のみが天皇に近侍し得る身分とされた。すなわち侍従という官職の職務が、かつては従五位という低い官位ながら、天皇の御前に伺候する“まえつぎみ”と実質的に変わらない処遇であったのが、単なる殿上人として実質的に格下げになったのである。かかる処遇の変更は、左遷と同じく、ものさびしさの感をもって当事者には受けとめられたはずで、その結果、「秋風蕭颯云々」と相成ったと推測される。『薫集類抄』に「侍従 亦の名は拾遺補闕」とあるが、『通典』に「補闕・拾遺 武太后(武則天、中国史上唯一の女帝)、垂拱の中(天下がよく治まっているうちに、のちに武太后は独裁色を強め政治は混乱した)、補闕、拾遺の二官を置き、以て供奉諷諫(君主を支え、その治世に問題が生じれば、他の事に喩えてそれとなく諌めること)を掌る。(中略)開元より以來、尤も清選と為し、左右補闕各二人、内供奉なる者(宮中の内道場に奉仕し、毎年御斎会が行なわれる時に読師などの役をつとめ、国家鎮護の任を負った僧)各一人、左右拾遺亦た然り。」(「職官三 宰相」)とあるように、唐制で“君主を輔けてその過失を補う官職を拾遺補闕といい、君主に直接仕える身分だったため、わが国では侍従に相当すると見なされた。拾遺と補闕はそれぞれ役割が異なるが、わが国では侍従に合わせてあたかも一官職のように解釈された。平安貴族に熱く支持された白居易は諫官たる左拾遺だったことがあり、新楽府で政局を批判する詩を発表したことで知られる。白居易はしばしば左遷され挫折を味わっているので、実際の左遷理由は諫言とは無関係であるが、わが国では白居易の処遇から拾遺といえば左遷というイメージを優先して解されたと考えられる。したがって、侍従は「秋の香」になぞらえられるとはいっても、季節の風物とは無関係な観念的視点からつけられた呼称であることに留意しなければならない。『源氏物語』ではもう一ヶ所、初音の帖に“侍従”が登場する。太政大臣の源氏が明石御方のもと(冬の御殿、この名のいわれは4-3で述べる)に通うシーンで、「暮れ方になるほどに、明石の御方に渡りたまふ。(中略)唐の東京錦のことごとしき端さしたる茵に(唐渡りの錦のように大袈裟な刺繍の縁取りをした敷物の上に)、をかしげなる琴うち置き、わざとめきよしある(格別に心配りしているように見えて風情のある)火桶に、侍従をくゆらかして、物ごとにしめたるに、衣被香(衣裳に焚きしめる香で匂い袋に用いる)の香のまがへる(「混じっているのは)、いと艶なり(非常に優美で風情がある)。」と出てくる。この帖では侍従を季節感と関連づけていないように見えるが、舞台が「冬の御殿」であることを鑑みれば、“冬の香”と位置付けられたと考えることが可能だ。というのは侍従が左遷の悲哀と重ね合わせてつけられた名称であるならば、冬とて秋と何ら変わりないからだ。そもそも「冬の御方」という呼称は、薄雲の帖の冒頭にある次の描写に由来する。
雪、霰がちに、(明石御方は)心細さまさりて、「あやしくさまざまに(不思議なほど様々に)、物思ふべかりける身かな(気苦労しなければならない身の上だことよ)」と、うち嘆きて、常よりもこの君(姫君)を撫でつくろひつゝ居たり(髪を撫でたり櫛づくろいをしている)。雪、かき暗し(雪は空が暗くなるまで)、降り積る朝、(明石御方は)来し方行く末のこと(これまでとこれからのこと)、残らず思ひ続けて、例は(いつもは)殊に端近(家の中の出入り口の近く)なる出で居などもせぬを、汀の氷など見やりて、白き衣どもの、なよゝかなる(柔らかくなってしまったものを)、あまた着て、眺めゐたる様体、頭つき(髪の形)、後で(後ろ姿)など、「限りなき(身分の高貴な)人と聞ゆとも、かうこそはおはすらめ(この程度でいらっしゃるのだろう)」と、人びと(女房等)も見る。落つる涙をかき払ひて、(明石御方)「かやうならむ日(このような雪の降る日は)、まして、いかに、おぼつかなからむ(頼りなく寂しいことだろうか)」と、らうたげ(かわいらしげ)にうち嘆きて、
雪深み 深山の道は 晴れずとも なほふみ通へ 跡絶えずして(雪が深い深山の道は、晴れ間がなく雪が降り続いても、雪の道を踏み通えば足跡が絶えず道がわかるように、別れた後も途絶えることなくお便りをくださいませ)
とのたまへば、乳母、うち泣きて、
雪間なき 吉野の山を 訪ねても 心のかよふ 跡絶えめやは(たとえ雪の晴れ間がない吉野の山をお尋ねしても、私の心の通っていく足跡は絶えましょうか、いや絶えることはありません)
と言ひ慰む。
松風の帖に“人々(女房等)もかたはらいたがれば(きまり悪がっているので)、(明石御方は)しぶしぶにゐざり出でて(座ったまま膝で進み出る)、几帳(部屋を仕切るつい立て)に、はた隠れたるかたはら目(横顔は)、いみじうなまめいて由あり(非常に優美な趣があって)、たをやぎたるけはひ(おしとやかな雰囲気があり)、親王たちと言はむにも足りぬ(遜色ない)”とあるように、物語では明石御方の出自はけっして悪くないとされ、4-3で後述するように、むしろ高貴の身分の出身であるが、その割に辛酸を舐めざるを得ない立場に置かれ何かと心労の尽きないさまを、冬の寒さの厳しい明石の自然と重ね合わせて、紫式部は明石御方に「冬の御方」の別称をつけたと思われる。ただし、明石御方はそのほかの類名を含めれば21帖に多出するにもかかわらず、「冬の御方」は梅枝の帖だけに登場するのはいかにも意味ありげに見える。また実際の明石の地はむしろ京より気候が温暖であり(千年前とて変わるまい)、物語における明石とは雲泥の差があるのも奇妙である。明石の帖の冒頭は源氏が須磨から明石へ移動したときの情景を描写するが、冒頭から暴風雨と高潮が襲来し、しかも何日も続くとあり、明石は気候の厳しい地と紫式部は位置付けているように見える。おそらく旅行など人の移動が現代よりはるかに少ない平安期にあっては紫式部でも実在の明石の気象状況は知り得なかったと思われる。したがって『源氏物語』にいう明石の地は実在の明石とは切り離して架空の地名として解釈すべきで、紫式部は梅枝の帖のためにのみ「冬の御方」という名を用意したとすればつじつまが合うだろう。黒方については、『薫集類抄』は「冬、凍み氷る時、深く其の匂有り、寒に封ぜられず」と注記し、自然科学的に真の現象とは思えないから、これも観念的視点から「冬の香」とされたことは想像に難くない。以上の侍従と黒方の二方については別の視点から、また梅花・荷葉の製作者および継承者については後に概述する。最後に、『源氏物語』に登場しない薫物名についても説明しておこう。まず菊花方について、『薫集類抄』は「菊花ににたるにほひにやあらむ」と注記する。そして合香の構成を「沈四兩 丁子二兩 甲香一兩二分 薫陸一分 麝香二分 甘松一分」と記すが、この合わせ香の製作者および継承者の名はなく、単に「誰れ人か知らず」とあるだけで、以下のような説明書を付す。
清慎公云ふ、菊花方は長生久視(長生きしてしかも視力が落ちないこと)の香なりと。之の薫るを聞く者は老を却けて壽を増す。枇杷の左大臣、習ひて之を傳ふ。亭子院の前栽合にて、左方は菊花方を用ひ、右方は落葉方を用ふ云云。我は此の方を好みて常用す。但し、麝香一分、之を加進せしむべし。菊花盛んに開き其の香芬馥の時、花を折りて傍らに置き之に和合す。或人云ふ、𦾔くは菊花一兩許りを干して之に加ふ云云、水邉の菊の下に之を埋め、二七日許り経て 瓷瓶に入れ堅く口を封ず 取り出し、又、七日許り経て之を用ふ。若し急用(危急の問題)有れば、此の説を用ひずして已めよ。
合香方の製作者(発明者)は不詳であるが、清慎公や枇杷の左大臣、亭子院という錚々たる面々に継承されたことは説明書の中に示されている。ちなみに清慎公は藤原北家小野宮流の摂政・関白を務めた藤原実頼であり、藤原実資の養父として知られる。一方、枇杷の左大臣とは藤原仲平のことで摂政・関白藤原基経の次男である。亭子院とは宇多法皇で、延喜元(901)年8月25日に前栽合(様々な草木を御殿の前庭や壺に植えたものを前栽といい、参加者を左右に分け、それぞれが集めた草木類の優劣を判じ、題を設定して歌を出し合い、風流を競う遊戯)を主催したことが『日本紀略』に記載され(前栽合が行われた文献上の初見)、菊花方とともに落葉方を燻らせたという。『薫集類抄』では落葉方と菊花方との合香の組成はまったく同じとなっているが、前述したように、編纂上の誤謬であろう。ただいずれも「誰れ人か知らず」とされ、説明書もなく製作者・継承者ともに不詳であるのみならず、どの季節の香りに当たるのかを示す注記もない。植物の葉が落ち、菊の花が咲く季節は晩秋ないし初冬だからいうまでもないということかもしれない。しかし、以上の二方は『源氏物語』ほか平安の古典文学に言及された例はない。その出自に不明瞭さがあるからかもしれないが、菊花についていえば、中国に由来する風習である重陽の節句との結びつきがきわめて強い一方で、わが国では重陽の日に黄色に染めた真綿で菊の花を被い、翌朝に朝露を含んだ綿をとって顔や身体をぬぐえば無病長寿になるという「着せ綿」という独特の風習が発生し、和歌にも多く詠まれているとい事実がある。前述の説明書「菊花方は長生久視の香なり」とあり、重陽の節句の大きな影響のもとに創出されたことがうかがえよう。これについては拙著『和漢古典植物名精解』の第23章第1節1-2に詳述してあるので、詳細はそちらに譲るが、紫式部は着せ綿の体験を次のように記している。
(九月)九日、菊の綿を、兵部のおもと(中宮彰子付きの侍女で氏名不詳の紫式部の同僚)のもてきて、これ、殿のうへ(藤原道長の正室源倫子)の、(あなた、すなわち紫式部のために)とり分きて(特別扱いということで)、(菊の綿で)いとよう老拭ひ捨て給へと、宣はせつるとあれば、
菊の露 わかゆばかりに 袖ぬれて 花のあるじに 千代はゆづらむ
とて返し奉らむとするほどに、あなた(あちら、道長正室倫子の居室“北の対屋”)にかへりわたらせ給ひぬとあれば、ようなさに(無用になったので)(菊の綿を)とどめつ(『紫式部日記』)
藤原道長の正室源倫子より菊花の露を含ませた綿を、老いを念入りに拭い去るようにとの伝言とともに、特別なはからいで賜ったが、返歌に戸惑っているうちに倫子が帰ってしまい、菊の綿を返すことができなかったという実話を記した。ついでながら、返歌を通釈すると、菊の露は袖に少し含ませて肌に触れるにとどめ若やいだ気分にひたるほどにして、この花のあるじ(倫子)に菊の綿をお返しして千年の寿命をお譲り申し上げましょうとなり、もらったものを返すというのであれば、菊の綿はそれほど貴重なものと認識されていたことになる。以上、私生活で菊の綿の風習を体験しているにもかかわらず、紫式部は『源氏物語』で重陽の節句に言及するのはわずかに幻の帖に「九月になりて、九日、(源氏は)綿おほひたる菊を御覧じて、“もろともに おきゐし菊の 朝露も ひとり袂に かゝる秋かな“」とごく簡潔な描写にとどめている。この帖では、紫の上が逝去して源氏がその悲しみから立ち上がれない状態が続き、一周忌法要を終え、源氏が出家を決断する直前であるから、長寿を祈願する重陽の節句はおよそ情景に合わなかったかもしれない。それは、去年までは紫の上とともに朝に起きて朝露のしみ込んだ菊の綿をとって互いの体に置いて長寿を祈願したのに、今は私一人の袂にかかる涙のようで寂しい秋であることよ、という意の和歌にもっとも端的に表されている。紫式部はかくも長期的視野に立ってストーリーを組み立てた上で敢えて梅枝の帖で菊花方を登場させなかったのかもしれない。
4.梅枝の薫物合わせの合香の背後にあるもの
4-1.光源氏の選択したミステリアスな薫物
薫物合わせの主催者である源氏は各参加者にそれぞれ二種の合香を依頼するが、一方で源氏自身も参加者の一人として何某かの合香を造る義務を負う。主催者であってもコンテストの判者として参加するのはけっしておかしくはないのだが、原作者の紫式部は敢えて源氏にも合香を造らせ、薫物合わせの一参加者とするストーリーの展開を選択したのである。そして単なる薫物造りに留まらず、源氏のために特別に課したトリックが「承和の御いましめのふたつの法」にほかならない。かなりミステリアスなネーミングであり、読者側からすれば謎解きを押し付けられたようにも見える。しかし、それは歴史の一次資料に名を見るれっきとした合香方であって、香薬や有職故実の専門書にも記載されているから、けっして謎めいたものではないが、合香に関する基礎知識がなければまともな解釈は困難である。薫物が身の回りにない現代人のみならず、カルチャーとして大流行した平安期の貴族でさえ、容易ではなかったに違いない。まず合香の専門書たる『薫集類抄』の侍従の条で、閑院大臣、賀陽宮、滋宰相に続いて八條宮の項に次のような記載があり、承和の方の“謎解きのヒント”はここに隠されているのだ。
A 沈四兩 丁子二兩 甲香一兩 甘松一分二朱
B 沈四兩 丁子二兩 甲香一兩 已上大 甘松一兩 熟欝金一兩 已上小
一説に麝香を入れ、一説に黄欝金を入れ、或は占唐小一分を加え合して六種なりと。而れども此れ本之無し。蜜に和し搗くこと三千許り(杵にて搗くこと三千回の意)。此の二方は男に傳へず、是れ承和の仰事なり。延喜六年二月三日典侍滋野直子朝臣の獻る所なり。(『薫集類抄』上)
ここに“承和の仰事”としてA、Bの二方は“男子には伝えない”という注記があり、表現にニュアンスの微妙な違いはあるが、これこそ物語にいう「承和の御戒めの二法」に相当すると考えられる。一方、『薫集類抄』よりやや早く成立した有職故実書『類聚雜要抄』には、「此の方は承和秘方に同じ」という注記をつけられた坎方ほか六方が以下のように記載され、同じ“承和”の名が出てくるとはいえ、両書には大きな記述の相違がある。ちなみに「𣴎」は「承」の異体字であるが、ここでは原典の表記にしたがっている。
黒方一劑 實の名は薫衣香云々。沉四両 丁子二両 甲香一両二分 薫陸一分 白檀一分 麝香二分 已上大目八両二分
(略)
烏方 沉大四両 丁子大二両 白檀大一分 甲大一両 或る本は二分を加へしむ。古説なり 麝香大二分 薫陸大一分 已上大目八両 小廿四両
坎方 沉大四両 丁子大二両 麝香大二分 甲大一両二分 白檀大一両 薫陸大一分 已上大目九両一分、小廿七両三分 此の方は𣴎和秘方に同じ
(略)
侍従 沉大四両一分 或二分 丁子大二両二分 甲香大二両 甘松小一両 熟欝金小一両
右の二方は是れ八条大将の家方なり。彼の大将 大納言保忠是れなり。父時平大臣、母本康親王の女なり 。故八条式部卿親王の孫なり。然れば則ち傳来方は𣴎和方に同じなるべし。而れども相誤有るに甚しく之を疑ふべし。
拾遺 沉大四両 丁子大二両 甲大一両 甘松小一両 熟欝小一両 占唐小一分
今尋ぬ。一説に麝香を入れ、一説に黄欝金を用ふと。或本は占唐十之。又云ふ、若し欝金⽆くば、其の代はりに麝香小二分加へよと。或は又、占唐小三分を之に加ふ。或る口傳に云ふ、蜜に和して研り合はせ搗くこと三千杵、甲香を炮り蜜に和して之を塗れと。黒黄合はせるに黒を過ぐるを得ず。此れ両種方は男に傳へず。是れ𣴎和の仰事なり。延喜六年二月二日、故典侍滋野子朝臣、獻る㪽の方なり。 或は宜子是れなり。公忠朝臣の女なり。
補闕方 沉大四両 丁子二両 甲大一両 欝大一分 甘松大一両
(略)
右の六方、是れ藏人㪽の小舎人大和常生の秘方なり。件の常生、延喜(原文は“木”)の聖代に公忠朝臣と同時相並に合香の役を奉れり。(『類聚雜要抄』巻第四)
ここにある“黒方一劑”は『薫集類抄』上で、薫衣香の直前、坎方の直後に置かれた“承和秘方”と配合の組成ならびに分量がまったく同じであり、また「坎方 或は黒方と注す」とあるように、黒方とは密接な関連を示唆する注記がつけられている。一方、『類聚雜要抄』でも坎方は“承和秘方に同じ”という注記をつけられ、『薫集類抄』で独立の合香として条出された“承和秘方”とは、香薬の組成は同じであるが、白檀の分量が一分から一両となっているところだけが異なる。六剤のうちの一剤、しかも分量の単位の違いにすぎないから、編纂あるいは書写の過程における軽微なミスに基づく誤謬と考えてよいだろう。烏方は『薫集類抄』では「黒方」とあり、閑院大臣ほか各家の調合の組成およびそれぞれの分量はごく一部を除いて同じである。以上から二つあるという“承和秘方”の一つは黒方一名烏方一名坎方としてよいだろう。『薫集類抄』で滋野直子朝臣が献上し、承和の仰事として男子不伝とされた八條宮の二方(AとB)のいずれも黒方に該当せず、同書では侍従方の又方という位置付けで収録される。同条の追記によれば、“或は占唐を加へ、六種に合す”とあるから、AとBのいずれも五種の香薬から構成されることを示す。したがってAは侍従方のネイティブの構成成分であるべき熟欝金一種を欠き、“一説に麝香を入る”とは、大和常生の侍従方に「欝金二分、若し無くば麝香を以てこれに代ふ」とある注記に準じて考えればよいだろう。したがってA、Bの違いは分量のみが異なる軽微なバリエーションであり、分類学における基本種と品種あるいは変種の違いに例えられ、広義の侍従方と考えられる。以上から“承和秘方”は黒方および侍従となり、光源氏が造る合香もこの二種であることが明らかになる。しかし、“黒方一劑”から“補闕方”までの六方が大和常生という人物の“秘方”とされていること、そして拾遺・補闕方という『薫集類抄』では合香の組成が提示されておらず、ただ一ヶ所の注記だけに出てくる合香名について、有効な解明をしなければ画竜点睛を欠く。まず『類聚雜要抄』ではA(侍従)に「占唐小一分」を加えた方を拾遺と称し、侍従に対して「承和方に同じ、而れども相誤有るに甚しく之を疑ふべし」とあるところが異なる。また、「唐史拾遺は本朝の侍従なり。仍ち名を取るか(原文は“㪽方歟”、早稲田大学所蔵流布本から補録)。」とあり、異称とも受け取れる一方で、別条では「侍従 拾遺 補闕方 皆一名のみ」とあって、これだと同方異名と受け取れる。『薫集類抄』における滋宰相の侍従方で「或は占唐大一分を加ふ」という追記があり、前述した八條宮の方でも同じような追記があり、『薫集類抄』では「侍従 亦の名は拾遺補闕」とあるから、侍従・拾遺・補闕は同方異名と解釈するのがよいだろう。ちなみに拾遺補闕の意味するところは前項「2.『源氏物語』に登場する薫物」で詳述してあるから、ここで烏方・坎方についてもその字義を考えてみよう。カラスは全身が黒一色であるから、烏方と黒方は字義で相通じることは容易に理解できる。『類聚雜要抄』では「黒方 烏方 坎方 崑崙方 皆是れ一名なり」とあって崑崙方なる新名が出てくる。追記に「或は云ふ、崑崙の仙人傳ふる㪽と。仍ち曰く、崑崙方、後人之を図して通音して之と稱す云々」とあり、「黒方」の真の語源は「崑崙方」にあり、「こんろん→くんろん→くろ」と訛って発生した名という。一方、坎方については『設文解字』に「坎 陷なり、險なり。又、穴なり。」とあるから、易の六十四卦の一つの習坎に関連があるかと思われるが、これでも薫物の方名として今一つしっくりせず、「烏」のように黒との関連はまったく見出し得ない。最後に、大和常生については『薫集類抄』上で梅花方の製作者として名を見るが、「延喜の御時、御蔵小舎人(蔵人所の下級職員)なり」という出自を表す注記が見えるが、生没年などは不明である。ただし、前述の『類聚雜要抄』の黒方一剤〜補闕方の右の六方の件で「延喜の聖代に公忠朝臣と同時相並に合香の役を奉れり」とあるので、公忠朝臣すなわち源公忠と同時代の人で、公忠とともに延喜の聖代すなわち醍醐天皇の治世で「合香の役」を務めた人物である。公忠は合香製造者として『薫集類抄』に収録される薫物のほとんどに名を連ねる香薬界の著名人であり、また三十六歌仙の一人として滋野井弁と号する歌人でもある。一方、常生は梅花方のほかに名が載る合香はなく、わずかに舂香の項に名が挙げられるにすぎない。それに公忠は受領(国司)クラスよりやや上の従四位下右大弁まで上り詰めたが、常生は蔵人所の小舎人に留まり、両名の官位に大きな差がある。ここで気になるのは『類聚雜要抄』で「黒方一劑〜補闕方の六方」が常生の秘方と記載され、そのうち“承和の仰事”という侍従・拾遺の二方は『薫集類抄』と『類聚雜要抄』のいずれでも典侍滋野直子が献上した男子に伝えない“御戒めの法”とされ、その記載に少なからぬ矛盾が認められることだ。延喜の聖代にともに「合香の役」を務めたとはいえ、身分的に対等ではなかったはずだからだ。また『薫集類抄』上の梅花方の製作者として挙げられる右大弁公忠(源公忠、従四位下・右大弁に任ぜられたゆえにかくいう)の注記に「母は滋野直子なり」とあり、滋野直子は常生より一世代上の人物で、しかも滋野直子は典侍として正四位下に任じられているので、常生よりはるかに格上である。『薫集類抄』でも典侍直子朝臣の名で公忠朝臣とともに炮甲香におけるノウハウ(口訣)を載せ、合香の実務においても常生に劣らないキャリアをもつ。したがって件の“右の六方”には滋野直子の献じた侍従が“男子不伝の方”として含まれているから、大和常生の秘方とするのは論理的にも矛盾する。一方、“禁制”のはずの合香(侍従、黒方も含む)を継承しているのは、圧倒的に男子であるから、有名無実と化していることも事実である。“男子禁制”とされたのは事実としても滋野直子の世代のごく短期間の限定だったかもしれない。
4-2.斎院と紫の上の造った薫物
斎院とは上賀茂神社・下鴨神社の祭祀に奉仕する未婚の皇女で、通例、音読みして「さいいん」と呼ぶ。宮中で二年間の潔斎(物忌み、酒肉の飲食その他の行為を慎み、沐浴などで心身を清めて神事・仏事に臨むこと)の後、平安京の北の紫野に置かれた斎院御所に居住した。紫式部の世代では村上天皇の第10皇女選子内親王が務め、在任期間は歴代最長の56年に及び、大斎院と称された。『紫式部日記』にも「をかしき夕月夜(夕月のある日暮れ)、ゆゑ(趣)ある有明(有明の月のある暁)、花のたより(花見に便利な所)、時鳥のたづね所(ホトトギスの鳴く声の聞ける所)に参りたれば、院はいと御心のゆゑおはして(非常に豊かな情趣の心をお持ちで)、所のさまはいと世はなれ(俗間から離れて)神さびたり(神々しい)。またまぎるることもなし(俗事にあくせくすることがない)。」とあり、大斎院との実際の交流を通してその人柄を評価する部分がある。『源氏物語』で登場する朝顔の君は桐壺帝の弟・桃園式部卿宮の姫君で、源氏の従姉妹に当たり、出自は高い。若いころの源氏が恋焦がれた女君の一人で、一時期は朝顔自身も源氏に好意を寄せていた。梅枝でも、蛍兵部卿宮が花の残る梅枝に結びつけた手紙を朝顔から託されて源氏に届けた折に、「宮、(源氏と朝顔の関係を)聞こしめすこともあれば、 ”いかなる御消息のすゝみ参れるにか”(どのようなお便りを朝顔が源氏に差し出されたのか)とて、をかしう思したれば、云々」なる描写は、蛍兵部卿宮は異母兄である源氏の女性関係に並々ならぬ関心を示唆し、男女間のつまらないゴシップについ無意識のうちに引き込まれてしまう現代人的好奇心にも通じて興味深い。結局、朝顔の方から源氏を遠ざけてそのまま独身を通して斎院となり、最後は出家して物語の表舞台から退場することになる(出家は若菜下の帖で梅枝の帖の後だから、帖中に「前のさい院より」とあるのは矛盾する)ので、蛍兵部卿宮が関心を示したのは朝顔に還俗の噂があるのを聞き、あわよくば朝顔をという魂胆があるのかもしれないが、物語ではそのような動きはついになかった。さて、物語には朝顔が造った薫物は黒方とあるが、「さはいへど、心にくく、しづやかなる匂ひ、殊なり」とある“さはいへど”とは手紙に記された「花の香は 散りにし枝に とまらねど 移うつらむ袖に 浅く染まめや」(梅の花の香は散ってしまった枝には残りませんが、それとは違って、私の調合した薫物の香は、それを焚き染めた人の袖に移れば浅く染み込むでしょうか、いや深く染み込むことでしょう)という歌を受けたもので、朝顔が造ったもう一つの合香は、4-4で後述するように、梅を彫りつけた白瑠璃の香壺に入れているから、梅花方と考えてほぼ間違いあるまい。
一方、紫の上は光源氏に次ぐ『源氏物語』のヒロインとしてもっとも重要なキャラクターの一人であり、紫式部はあらゆる面で理想的な女性として描写している。ただし、梅枝ではほかの帖とは少々趣が異なり、これについては別に改めて述べる。紫の上は藤壺中宮の兄の兵部卿宮、母は藤壺の姪で按察使大納言の娘であるが、母は正室ではなく庶流という設定となっている。高貴の出自とはいえ、その生い立ちはけっして順風満帆ではなく、生まれてすぐ母は亡くなり、父親の正室の圧力もあって兵部卿宮のもとを離れ、母方の祖母である北山の尼君に育てられた。病気療養のため北山にきた源氏はたまたま紫の上に遭遇し、源氏が幼い頃から憧れた藤壺中宮と生き写しで才色兼備の紫の上に一目惚れする。祖母の死後、まだ幼い紫の上(若紫と称された)を引き取り、周囲には知らせずに理想の女性に育てようと務める。源氏の正室葵の上が没すると同床の関係をもつも、正式の婚姻には至らなかったが、今日の事実婚に近い形で周囲から認知される。子供には恵まれなかったが、明石姫君を養女とし梅枝の帖では東宮に入内させるまでに至る。さて、次に示すような紫の上の合香に対する心構えからは、ほかの帖とはかなり異なる紫の上のイメージが見えてくる。
上(紫の上)は、(六条院の)東の対の中の放出に、御しつらひ(几帳を立て)殊に深くしなさせたまひて(特別に奥深いところに座を設けなさって)、八条の式部卿の御法を伝へて、(源氏と)互に、いどみ合はせ給ふほど、(紫の上は)いみじう秘したまへば、(源氏)「匂ひの深さ浅さも、勝負の定めあるべし(匂いの深い浅いも勝負の判定とすべきだ)」と大臣(源氏、この時太政大臣だった)、の給ふ。人の御親げなき御あらそひ心なり(人の親らしさのない競争心でいらっしゃる)。
この描写を読む限りでは、薫物合わせでは源氏も紫の上も互いにライバル心を露わにして張り合っているとしか思えない。しかも源氏は一人寝殿にこもり、紫の上は東の対(六条院における紫の上の居所、寝殿の東側の対屋で寝殿へは渡殿を通る)の中央の放出(庇の間を几帳類で区切った臨時の部屋)という特別に奥深い座を設けて、それぞれが秘密裏に調合するというのである。源氏に至ってはその競争心たるや夕霧・明石姫君という子を持つ親とは思えないほどと描かれている。そんな中にあって紫の上は八条の式部卿すなわち仁明天皇の第五皇子の本康親王という歴史上の合香の第一人者の梅花方を調合したことになっている。『薫集類抄』では八條宮(本康親王の号名)の方として収録され、組成は「沈八両二分 詹唐一分三朱 甲香三両二分 甘松一分 白檀二分三朱 丁子二両三分 麝香二分 薫陸一分」となっており、黒方や侍従などと比べるとかなり重厚長大な合香である。ただし、紫の上が源氏の依頼に応じてもう一種の薫物を調合したかは物語の上ではまったく見えてこない。花散里(夏の御方)はただ一種のみ調合したとあるから、紫の上もそれに追随した可能性もあるかもしれない。あるいは斎院が六条院での薫物合わせに部外者として特別参加している状況に鑑みて、紫式部は黒方の調合を暗示したのかもしれない。とすれば、斎院と紫の上は同じ練香をもって薫物合わせに臨んだことになるので、それが紫式部の計算のうちかもしれない。
4-3.夏の御方・冬の御方の造った薫物
まず、夏の御方・冬の御方の「夏」「冬」の意味を説明しなければなるまい。紫式部は物語の舞台として六条院という四つの町を含む架空の邸宅街を設定した。四町の配置については、乙女の帖の「八月にぞ、六条院つくりはてゝ、わたり給ふ(お引越しなさる)。未申の町は、(秋好)中宮の御古宮なれば、(中宮は)やがておはしますべし。辰巳は、殿(源氏)のおはすべき町なり。丑寅は、東の院に住み給ふ対の御方(花散里)、戊亥の町は、明石の御方」と、(源氏は)おぼしおきてさせ給へり(お思いになっておられた)」という描写からうかがえ、また“東の院に住み給ふ対の御方”は丑寅の町に、“明石の御方”は戊亥の町に住むなどと、源氏の周辺の主たる女君の居所も指定される。ちなみに“東の院に住み給ふ対の御方”が花散里であることは、松風の帖に見え、「東の院造りたてゝ、花散里と聞こえし(方を)、移ろはし給ふ。西の対、渡殿などかけて、政所、家司など、あるべき様に、し置かせたまふ。」という描写によって、源氏が二条東の院の完成後に花散里を西の対に住まわせたことに由来する名であることがわかる。丑寅の町は「北の東は、涼しげなる泉ありて、夏の蔭(木陰)によれり(準じて造ってある)。前近き前栽(に)、呉竹(を植えて)、下風涼しかるべく(涼しく下風が吹き通るようにして)、木高き森の様やうなる木ども木深くおもしろく、山里めきて(山里のようで)、卯の花咲くべき垣根ことさらにし渡して、昔思ゆる花橘、撫子、薔薇、くたに(『大和本草』巻六に「龍膽 倭名リンダウ一名クタニ」にしたがいリンドウとする。『本草和名』に龍膽の和名で一名尒加柰とあり、これを苦膽として音読みしたと考えられる。)などやうの花、草々を植ゑて、春秋の木草(を)、(そ)の中にうち混ぜたり。」と描写されているので、これをもって“夏の町”と称され、ここに居住する花散里が“夏の御方”と呼ばれる由縁である。一方、戊亥の町は「西の町は、北面築き分けて(北面を築地で分けて)、御蔵町なり(蔵を建てて造った町である)。隔ての垣に、から竹(中国より渡来した唐竹、あるいは幹竹すなわちマダケないしハチクかという)植ゑて、松の木茂く、雪をもてあそばん便りによせたり(雪を鑑賞する便を図ってあった)。冬のはじめの朝霜、むすぶべき菊のまがき(降りるはずの菊の籬)、われは顔なる(これ見よがしの)柞原、をさをさ(ほとんど)名も知らぬ深山木どもの、木深きなどを、移し植ゑたり」とあるように、冬の趣をもつようにしつえられているので“冬の町”という。したがって、明石の御方は“冬の御方”と称される。
花散里は、源氏の父桐壺帝の妻の一人麗景殿女御の妹“三の宮”であり、花散里の帖で源氏の恋人として初登場したゆえ、帖名で呼ばれるようになった。玉鬘・梅枝・藤裏葉・若菜下・幻では「夏の御方」、一方、玉鬘・蛍・野分では「東の御方」の名で登場し、居所を表す名もあるので注意を要する。源氏の妻として紫の上に次ぐ重要なキャラクターであり、出自の高さゆえに“御方”と称されるが、若菜下に「夏の御方は、(紫の上が)かくとりどりなる御孫扱ひを羨みて(このように自分の子でないいろいろな孫君の世話をなさるのを羨ましく思い)、大将の君(夕霧)の、内侍のすけばら(藤典侍の腹)の君(三君と次郎)を、せちに迎えてぞ(懇願して迎え)、かしづき給ふ(世話をなさる)」とあることから、源氏との間に子はいない。さて、夏の御方は、物語で人々が思い思いに競争している中で、人並みにいろいろと表立つことはしたくないというような、薫物なのに煙すら出すまいというような消極的で控えめな性格のキャラクターとして描かれ、その結果、ただ一種荷葉方だけを調合したことは前述した通りである。
一方、明石上は明石に下向した源氏の不遇の時代にあって愛人となり、一般には明石御方の名で知られ、ほかに明石上・明石方・明石君など物語ではさまざまな名で呼ばれる。紫の上、花散里に次ぐ源氏の第三の妻となり、のちの明石中宮となる娘(源氏にとって唯一の娘)明石姫君を産んだ。父親は源氏の母桐壺更衣の従兄弟にあたる明石入道、母は中務宮の孫明石尼君であり、その高貴の血筋のゆえに“御方”の名で呼ばれる。「冬の御方」すなわち明石上が調合したのは何であるか物語中には明確に示唆されていない。ただし、季節ごとに合わせ香が決まっているので、型通りに冬の合香をして圧倒されるのはつまらないという明石上の文言から、冬の合わせ香なるものがあり、ほかにもそれを調合する人物がいたことを暗示する。結果的にはそれは前述したように源氏と斎院であり(後述するように、おそらく紫の上もまた調合していたと推測される)、ともに黒方を造っている。そこで薫衣香という、いかにも明石上が調合したかのようにあいまいな描写でもって、そもそも薫衣香なるものは衣服を薫きしめることに特化した薫物合わせの出し物として場所違いな薫物を登場させるのである。六種の薫物とは違って特定の季節に帰する合わせ香ではないが、梅枝の帖だけに「冬の御方」という名を登場させ、明石上には読者の目の触れないところで冬の合香を造らせるというトリックを紫式部は策定したと考えられる。したがって、“前の朱雀院の方”(実在の朱雀院の方;物語で登場する朱雀院と区別するため“前の”を付した)を後の帝がお引き継ぎになって、公忠朝臣が格別に選んで調合して奉じた百歩の方などを思いついて世に比類なき上品な香を調合するという筋書きにおいて、“前の朱雀院の法”と“百歩の方(百歩の薫衣香)”がトリックを解く鍵となるのである。しかし、「前の朱雀院」とは誰を指すのか、物語に登場する源氏の兄の朱雀帝との関係の有無という問題点が浮上して新たに読者を狼狽させることになり、この辺りは各注釈書でも見解が分かれるところである。まず朱雀院とは、平安京の右京、三条と四条の間にあって朱雀大路に面した邸宅のことで、天皇が退位後に居所とした場合にその名を号することがある。ただし、実際に後院として利用した天皇は限られ、よく知られるのは宇多天皇(在位:887年~897年)と朱雀天皇(在位:930年~946年)であるが、『日本紀略』によれば、公忠朝臣すなわち源公忠が仕え信望を得たのは醍醐・朱雀天皇であるから、宇多天皇とは時代が隔たりすぎ、必然的に朱雀天皇となる。宇多天皇が直接薫物の合香に関わっていたとする資料は見当たらないが、朱雀天皇であれば合香の専門書『薫集類抄』に朱雀院の名をもつ合香が二種載っており、有力な論拠となり得る。
朱雀院 東三条院之を用ふ
(侍従)沉四兩 丁子二兩 甲香一兩 甘松一分三朱 一分三朱 已上小
右の方、天暦の御時より傳へしめ給ふ所なり。煎蜜(甘葛煎)を取り微し火き以て舂き篩ふ。占唐に蜜を入れ、且つ煎じ且つ攪ぜ、撥合の後、諸の搗き香を入れ、匙を以て調へ和す。先ず目笇(目算;目分量)を以て搗き香の程を計り、占唐の蜜を調へれば蜜の程は香より多く、少なければ尤も拙と爲す。以て能く均しく成し、巧合(いい具合の調合)と爲せば了る。搗くこと三千六百杵、畢れば取り出して丸と作す。斤量の後、瓷壺に入れ水邉の陽氣を得る地に埋めよ。
(黒方)沉四兩二分 薫陸一分 白檀一分 丁子二兩 甲香一分 麝香一分四朱 已上小
侍従方に「天暦の御時より傳へしめ給ふ」とある説明書きは朱雀天皇の後任の村上天皇から伝えさせたことを示し、朱雀天皇の時代に作られたこの合香が村上天皇以降に引き継がれたと解釈できる。したがって合香との関わりが見えない宇多天皇を朱雀院と考えて解釈するのは、敢えて誤りとはいわないが、考えにくいことがこれでわかるだろう。物語りの中に盛り込まれた史実を殊更に強調して解釈するのはいっこうに構わないが、それによって物語の解釈にバイアスが生じるとなれば話は別である。物語の“朱雀院の帝”と実在の朱雀院は、同じ朱雀の名が共通するので、実に紛らわしいのであるが、前者は朱雀院を居所とする帝の意であって“帝の名前”そのものではあるまい。現実世界では存命中の天皇は名前で呼ばれることはなく、例えば昭和の時代にあっては昭和天皇ではなく、今上天皇もしくは単に天皇と呼ばれたはずだ。ただし、いったん歴史上の人物になれば何らかの名前で呼ぶしかないので、歴史上の人物である朱雀院のように諡号をつけることになる。古くは天皇と退位した上皇、さらに出家すればまた別の諡号がつけられるから紛らわしくなってしまうのである。史実をあいまいにあるいは中途半端に解釈すれば、統計学の交絡因子のように作用してストーリーの解釈を撹乱、曲解させるゆえに、その結果として研究者を余計に悩ませることになる。実在の朱雀天皇(この時は上皇だが)は、『扶桑略記』(皇円;1094年)に「太上天皇 朱雀院 落餝入道、一に云ふ、六年三月出家、佛陀寺に御すと」(巻第廿五「天暦三年己酉三月十四日」)、『醍醐寺雑事記』に「李部王記云ふ、〜(天暦六年)四月十五日夜、太上天皇、仁和本院に還御す。康子内親王の御願なり」(『群書類從』第二十五輯 雑部所収)とあり、以上をもって実在の朱雀天皇が天暦六年(952)年三月に出家、四月に仁和寺に遷御したという歴史的事実を見ることができる。実はこの史実は『源氏物語』の若菜上に「(朱雀院は)西山なる御寺造りはてゝ、(女三宮を)移ろはせ給はむほどの御いそぎ(準備)を、せさせ給ふに添へて(なさるに加えて)、云々」とある情景描写によく似ているのだ。実際、西山を仁和寺と断じる見解すらあり、史実が交絡因子として作用した典型的な例といえ、紫式部の意図というわけではなく無意識の結果と考えるべきだろう。当該の件において重要なことは、明石上がどんな薫物を造ったのかということであって、それをさておいて史実と情景描写の類似性を追求し過剰評価するのは本末転倒というべきである。“前の朱雀院”を宇多天皇とすれば御製の薫物は合香の専門書ですら記載がなく、何故に“前の朱雀院の(法)をうつさせ給ひて、公忠朝臣の、云々”と描く必要があるのか説明が困難になってしまう。“前の朱雀院”はすなわち実在の朱雀院(朱雀上皇)であり、その合香方を村上天皇が引き継ぎ、同天皇の信望の厚かった源公忠が格別に選んで、(合香に)お仕え申し上げ、(その過程で)百歩の法など思いついて、冬の御方は合香に臨んだというのがもっとも無難で現実的な解釈ではなかろうか。ちなみに『薫集類抄』の目次では単に百歩香とあるので、承和百歩香と考えがちであるが、「此の方は四条大納言家より出づ。大江千古の上る所のみ。」とある注記によって本件とは無関係であることが知られる。ちなみに、前述したように、ここにいう“四条大納言”とは源定であって藤原公任ではない。“百歩の法”とは、特定の合香を名指ししたわけではなく、単に香りが遠くまで匂う名香はみなそう呼ばれてきたにすぎないのである。『薫集類抄』に載る公忠朝臣の合香は以下の4方である。
荷葉
公忠朝臣 天暦六年二月廿一日甲午之を進る
甘松花一分 沉七两二分 甲香二两二分 白檀二朱 或本三朱 熟欝金二分 代麝香 藿香四朱 丁子二两二分 安息一分 或は無し
甘松三朱 沉三两二朱 甲香一两一分 白檀一朱 或る本無し 熟欝金一分 藿香二朱 丁子一两一分
侍從
公忠朝臣
沉六两 丁子三两 甲香一两二分 甘松二分 熟欝金二分 占唐三朱 皆小
黒方
公忠朝臣
沈四两 丁子二两 少軽 甲香二分 少軽 薫陸一分 少軽 白檀一分 少軽 麝香二分
上品の香等、頗る軽きを用意すべし。例の若く香は两数の如し。
薫衣香 一名躰身香
公忠朝臣
沈三两 丁子五两 欝金二两 甘松二两 白檀二两 香附子一两 麝香一两 或は藿香一两
能く合(し)て絹袋に入(れ)て透間無き筥(の)中に置(き)て其上を又裹(み)て能く暖にして酒作る甕のうへに置てにほはせよ
およそ明解とは程遠い当該の描写の記述(既出)を、すでにここで取捨選択してきた論考要素を因果推論によって読み解いてゆくと、冬の御方が調合した合香としては以上の公忠朝臣の四方のいずれかとなろう。このうちでまず季節との結びつきが見えない薫衣香が排除される。次に黒方、荷葉と侍従のいずれかとなるが、黒方の「上品の香等、頗る軽きを用意すべし」とある追記こそ、“百歩の法など、思いえて、世に似ずなまめかしきを、とり集めたる”ことを示唆し、また冬の御方と名の通ずることもこの方を選択する十分な論拠となり得る。
4-4.梅枝の薫物合わせの総括-紫式部の意図
ここで改めて二月十日に薫物合わせを行うに至った経緯を振り返ってみよう。薫物合わせとは各人が調合した練香を持ち寄り焚いて、判者がその香の優劣を判定する宮廷遊戯であり、通例、参加者は思い思いの装束を着て臨席するのが通例である。しかし、梅枝の薫物合わせは、もともと行事としてきちんと計画されたものではなく、主催者の光源氏がふとした思いつきで行うに至ったこと、参加者は源氏および近しい関係にある女性に限られている点でかなり趣を異にする。この“薫物合わせの舞台”において表向きの参加者は源氏と判者を依頼された蛍兵部卿宮のみであり、源氏から依頼されて練香を造った御方々は実質的には舞台裏で参加するというきわめて異例の薫物合わせであり、厳密には遊戯といえないものであることに留意する必要がある。その発端はある年の正月末に始まり、その時の源氏の脳裏には一人娘明石姫君の東宮への入内を視野に入れた御裳着の儀しかなかったが、公私ともに時間的余裕のあった時期だったこともあり、入内においていずれ必要となる薫物の調合を始めた(『後二条師通記』寛治五年十月廿五日の篤子内親王の入内装束次第に「香壺筥一雙 一合納壺四口、各納侍從・黒方・荷葉・梅花」とあり、練香は入内に際し持参品として必需品だったという歴史的事実がある)。太宰大弐から献上された今渡りの香木を見ているうちに、香木に限らず、今の衣料や調度品などは昔のものと比べて劣っているのではと思い、二条院から取り寄せた各種の唐物を見るにつけ、その感は増幅するばかりだった。その中のあるものは女房たちに下賜し、その過程で古渡と今渡の香木を取り揃えて御方々(紫の上ほか六条院に住む源氏の妻と院外の斎院)に配布し、まったくの思いつきというのだろうか、二種類の練香を造るよう依頼する。なぜか六条院の居住者ではないかつて源氏が恋焦がれた斎院(朝顔の君)にも依頼することになる。薫物の調合は伝承する各家の秘伝だったから、源氏ほか紫の上までが調合をひた隠しにし、競争心を露わにして調合に熱中した。二月十日になって斎院の使者が源氏から依頼された斎院の二種の薫物を届けにきた。明石姫君の御裳着の支度で多忙の源氏をお見舞いするという名目で六条院を訪れた蛍兵部卿宮は、源氏がひそかに練香の依頼をしたと悟り、源氏が背後で未だに斎院と通じているのではとあやしんだ。斎院の二種の薫物は、それぞれ五葉松の枝を彫りつけた紺瑠璃の香壺と梅を彫りつけた白瑠璃の香壺に入れてあり、さらに沈香製の心葉(香壺、洲浜などの調度品の装飾などに立てたり、大嘗会・新嘗会などの神事奉仕の官人や采女が挿頭の花として頭につける造花のこと)をしつらえた香箱に納められ、その中に忍ばせてあった手紙に書き付けてあった和歌がうっすらと透けて見えたが、手紙は源氏が取り上げてこっそり隠してしまう。それで蛍兵部卿宮の疑念(この内容は物語には記載されていない)はいっそうつのったのであろう、わざとらしく口ずさんだ。蛍兵部卿宮は手紙の内容についても源氏に詮索した。源氏は薫物の調合の御礼として豪華な紅梅襲の唐織物を斎院の使者に託し、返事を紅梅染めの色紙に書き付け、庭先の紅梅の枝を折りとって付けた。その返事に何が書いてあるのか蛍兵部卿宮は気になって仕方ないのだが、源氏を問い詰めてものらりくらりとはぐらかされてしまう。六条院の部外者にもかかわらず、斎院を薫物合わせに引き込んだのは、未だに源氏が朝顔への未練を捨てきれないことを暗示し、梅枝においては完全に裏舞台で登場するにすぎないが、その存在感は三人の源氏の妻にまったくひけをとらない。蛍兵部卿宮ここまでしつこく迫るのは、前述したような、ゴシップに対する個人的興味の枠を越えているとしかいいようがあるまい。『源氏物語』には兵部卿宮の名で登場するのは3人いる。蛍兵部卿宮はその一人で桐壺帝の皇子にして源氏の異母弟であり、ほかに桐壺帝の中宮藤壺宮の兄で紫の上の父親(先帝の血を引き、のちに式部卿宮に昇任する)と、朱雀帝の息子の今上帝と明石の上との間に生まれた匂兵部卿宮(匂宮)がいて非常に紛らわしい。しかし、各帖ではいずれかの一人が登場するので何とか登場人物としての整合性は維持されているが、原作者の紫式部は藤壺中宮の兄宮たる兵部卿宮を蛍兵部卿宮に重ね合わせ紫の上の父親役を暗示させることで、読者の興味を引き寄せる効果を狙ったのかもしれない。とすれば、蛍兵部卿宮のしつこい追求も、紫の上の父たる藤壺中宮の兄宮に代わって斎院と源氏の間柄を訝っているからだと考えることができる。蛍兵部卿宮と源氏は、源氏の須磨下向で関係を断つものが続出しても、維持されるほど絆が深く、一方、藤壺中宮の兄宮との関係はけっしてよくなかったから、かく描写することで源氏・紫の上との関係改善を暗示しているのかもしれない。
さて、これまで源氏およびその周辺の御方々がどんな練香を造ったのか4-1〜4-3で詳細に考証した結果を簡潔にまとめると以下の通りになる。括弧で示した練香は物語の中には登場せず、考証の過程で推論したものであることを示す。紫の上を「春の御方」としたのは、源氏とともに春の町の館に居住しているからであり、花散里・明石上がそれぞれ夏の町の館、冬の町の館を居所にしているのと同じ理由による。ただし、「春の御方」という呼称は、通称あるいは俗称にすぎず、物語中には出てこない。
◯斎 院 黒方 (梅花)
◯源 氏太政大臣 黒方 侍従
◯紫の上春の御方 梅花 (侍従?)
◯花散里夏の御方 荷葉 (--)
◯明石上冬の御方 黒方 (?)
以上の御方々は源氏とともに六条院で練香を調合したが、斎院は六条院外で造り、薫物合わせが行われた六条院にはいなかった。今風にいえば特別参加であり、源氏が斎院を諦め切っていなかったこと、逆に斎院も完全に源氏との関係を断ち切っていなかったことを示し、相互に連絡を取り合っていたことが知られよう。一方、春・夏・冬の御方々は、明石
まずはじめにお断りしておくが、「うこん」「うこんこう」の漢名表記は、地の文で一般名として引用する場合は、原則として鬱金・鬱金香とする。そして古典資料より引用する場合は、引用資料に忠実な表記を用い、デジタル機器の機種によっては表示できないこともあるので、汎用性を期して画像で表すこともある。『源氏物語』に登場する4種の薫物のうちで、侍従と荷葉が熟欝金を配合し、侍従では合香の要として重要な地位を占めることはすでに述べた通りである。香料は広く香薬とも称されるゆえ、その基原を考証するに際しては、まず専門書たる本草書の記載を検討するのが常道である。熟欝金の名を載せる本草書はないから、取り敢えず欝金とは何かを考えるほかはない。実は本草に鬱金(本草では鬱金と表記するのが普通なので、以下これを通す。ただし、欝金は単に鬱の俗字にすぎず、けっして誤りではない。)のほかに鬱金香という品目が別条に収載されている。現存漢籍本草書では『重修
『證類本草』は11世紀末に成立した現存する中国最古の正統本草書であるが、鬱金香の条の主文の末尾に「今附」とあるのは『開寶
以上の書誌学的経緯からすれば、鬱金香に初めて言及した本草家は“陳氏”すなわち陳蔵器
貞觀十五(641)年、尸羅シラ 逸多イッタ 自ら摩伽陀マカダ 王と稱し、使を遣つかは して朝貢せり。太宗、璽書じしょ を降して慰問す。尸羅逸多大いに驚きて諸國の人に問ひて曰ふ、古いにしへ より曾て摩訶震旦(『新唐書しんとうじょ 』の西域傳によれば「戎、中國を言ひて摩訶まか 震旦しんたん と爲す」とあるが、震旦が中国を指し摩訶は“偉大な”という意で中国人の自称)の使人吾が國に至ること有るやと。皆曰く、未だ之有らずと。乃すなは ち膜拜もはい (両手をあげ地に伏して拝礼)して詔書を受け、因りて使を遣はして朝貢す。太宗、其の地遠きを以て之に禮すること甚だ厚く、復た衛尉丞ゑいいじょう 李義表を遣はして使に報ふ。尸羅逸多、大臣を遣はして郊迎し、傾城の邑縱觀しょうくゎん (自由気ままに見物すること)を以てし、香を焚き夾道けふだう す(市民が道の両側に並んで歓迎した)。逸多、其の臣を率ひて東面に下り、敕書を拜受し、復た使を遣はして火珠くゎしゅ 及び鬱金香(『新唐書』では単に鬱金とある)、菩提樹を獻ず。〜
〜中天竺王、姓は乞利咥クシャトリヤ 氏、或は剎利氏と云ふ。世よよ 其の國あり、篡弒さんし (君主を殺し、王権を転覆させること)に相あ はず。厥そ の土は卑ひく く濕暑にして熱く、稻は歲に四熟す。金剛有り、紫石英に似て百煉して銷とけ ず、以て玉に切るべし。又、旃檀、鬱金の諸香有り。大秦と通じ、故に其の寶物或は扶南ふなん (紀元1世紀末ごろ、メコン川下流にあった王朝で現在のカンボジア周辺に当たる地域)、交趾かうし (ベトナム北半部、唐代まで中国の直轄領だった)の貿易に至らん。(巻一百九十八「天竺」)
これによれば、641年に天竺摩伽陀王(摩伽陀
ずっと時代を下って明代後期に成立した『本草綱目』(李時珍)は中国本草の最高峰とされ、わが国でも3系統14種の和刻本が刊行され(後述)、本邦本草家に与えた影響は極めて大きい。意外なことに、自他ともに本草学の泰斗として君臨する李時珍
金
【釋名】酒に鬯ちゃう を和し、昔人言ふに、是れ大秦國だいしんこく に産する所の金の花の香なりと。惟た だ鄭樵の通志に言ふ、即ち是此こ の金なり。其れ大秦は三代(夏・殷・周)の時に未だ中國と通じざるに、安いづく んぞ此の草有るを得んやと。羅願の爾雅翼亦た云ふ、是此の根、酒に和して黄ならしめて金の如くす。故に之を黄流と謂ふと。其の説並とも に通ず。此の根の形狀は皆莪蒁がじゅつ に似て馬病を醫い やす故に馬蒁ばじゅつ と名づく。
【集解】金に二つ有り、金香は是れ花を用ふること本條に見ゆ。此是こ れ根を用ふる者、其の苗は薑(生薑ショウキョウ すなわちショウガ)の如く、其の根の大小は指の頭の如く、長きは寸許ばか り、體圓まる く橫紋有りて蟬腹の狀の如く,外は黄にして内は赤し。人以て水に浸して染色し、亦た微わづ かに香氣有り。(巻十四「草之三 芳草類」)
金香
【釋名】漢の林郡は即ち今の廣西貴州、潯じん 、柳りう 、邕よう 、賔ひん の諸州の地なり。一統志、惟だ柳州羅城縣に金香を出だすと載すは即ち此なり。金光明經、之を茶矩麽さくま 香かう と謂ふ。此は乃ち金花の香にして、今時用ひる所の金根と名は同じく物は異なれり。唐慎微本草(『證類本草』)、此を收めて彼の下(木部中品)に入るは誤れり。按ずるに、趙古則の六書本義いふ、鬯の字は米の噐の中に在りて匕を以て之を扱ふの意、の字は臼に从したが ひ缶を奉して⼏上に置き、鬯に彡有るは五体を飾るの意に象かたど ると。俗にに作る。則ちは乃ち花を取り酒を築くの意にして、地(地下部のこと)を指して言ふに非ず、地は乃ち此の草に因りて名を得るのみ。
【集解】按ずるに鄭玄云ふ、欝草は蘭に似たりと。楊孚の南州異物志に云ふ、金は罽賓けいひん 國(インド北部カシミール辺りという)に出でて,人之を種う ゑ、先づ以て佛に供すること數日して萎れ、然る後に之を取る。色は正に黄色、芙蓉の花と褁つつ みたる嫩わか き蓮は相似て、以て酒を香かう すべしと。又、唐書云ふに、太宗の時,伽毘國金香を獻じ、葉は麥門冬に似て、九月に花開き、狀は芙蓉に似て、其の色は紫碧、香ること數十歩を聞き、花さいて實らず、種ゑんと欲すれば根を取れと。二説皆同じ、但だ花の色同じからず、種或は一ならざるなり。古楽府こがふ に云ふ、中に金蘓合香有れば、是此の欝金なりと。晋の左貴嬪に金の頌しょう 有りて云ふ、伊こ れ竒草有り名づけて金と曰ひ、殊域より越えて、厥そ の珍なる來尋す。芳香は酷烈にして、目悅よろこ び心怡やは らぐ。明徳惟こ れ馨かぐ はし、淑人是れ欽つつ しむと。(巻十四「草之三 芳草類」)
李時珍は金香(金陵本『本草綱目』による正名の表記)の釈名で、その名の字義に関連して極めて難解な説明をしているので、ここで詳しく説明しておく。また見出し名では「鬱」「」と区別しながら、各条の釈名・集解で両字が交錯するほかに、「」「」「欝」という微妙に異なる字体を交えて論考しているので実にわかりにくい。それは他書から引用した場合は原典の表記にしたがったためと見受けられ、結論を先に述べておくと、李時珍の用字は金陵本に関する限りにおいてほぼ首尾一貫している(詳細は後述する)。ここでは再版時における誤植・誤写による換字の可能性を排するため、慎重を期して明・万暦年間に刊行した初版の金陵本『本草綱目』より忠実に引用してある。まず鬱金の釈名において「酒に鬯を和し」というのは『周禮
さて、江戸時代のわが国では3系統14種類の和刻本の『本草綱目』が刊行されたが(国立国会図書館ホームページ「博物誌発展のきっかけ―17世紀」)、翻刻の過程で以上の複雑な用字がきちんと認識されたのか気になろう。ここでは『新校正本草綱目』(稲生
以上、本草書ほか各種典籍を博捜し、鬱金香(以下、通用名で表す)の基原がアヤメ科サフランで間違いないことを明らかにしてきた。しかし、鬱金香はしばしば「香」を省いて鬱金とも表記されるが、なぜこんなに紛らわしい表記が許容されるのか、鬱金を冠するからには李時珍の主張するように、真の鬱金
再び『本草綱目』の鬱金香に話を戻すが、李時珍は釈名で「鬱香(『太平御覽』)、紅藍花(『本草綱目』)、紫述香(同)、草麝香、茶矩摩(佛書)」を鬱金香の異名に挙げている(5-1の釈名では省略したのでここに示す)。このうち、まったく理解に苦しむのは紅藍花
金光明最勝王經大辯才天女品第十五之一
爾時、大辯才天女、大衆の中の於いては卽ち座より起ち、佛足に頂禮し佛に白まう して言はく、「世尊。若も し法師有り、是れ金光明最勝王經を説く者は我れ當まさ に其の智慧を益し、言説の辯を具足莊嚴すべし。若し彼の法師、此の經中に於いて文字句義を忘失する所有らば、皆憶持して能善よくよく 開悟せしめ、復た陀羅尼(dhāraṇī、總持と訳す)無礙むげ を與あた へん。又、此の金光明最勝王經、彼の有情うじゃう 、已に百千佛所に於いて諸もろもろ の善根を種う ゑ、常に受持する者の爲に贍部洲せんぶしう に於いて廣行流布し、速やかに隱沒おんもつ せしめざらん。復た無量有情の是の經典を聞くものをして、皆不可思議の捷利せふり 辯才べんさい 、無盡むじん 大慧だいゑ を得しめ、善く衆論及び諸伎術を解せしめ、能く生死を出でて速やかに無上むじゃう 正等しゃうとう 菩提ぼさつ に趣かしめん。現世中に於いて壽命、資身の具を增益し、悉ことごと く圓滿ならしめん。世尊。我れ當に彼の持經法師及び餘の有情、此の經典に於いて聽聞を樂しむ者の爲に、其の呪藥、洗浴の法を説かん。彼の人の所有あらゆる 惡星災變、初生時に與へし星屬の相違、疫病の苦、鬪諍とうじゃう 戰陣せんじん 、惡夢、鬼神きしん 蠱毒こどく 、厭魅えんみ 、呪術、起屍きし 、是か くの如き諸惡の障難と爲す者は悉く除滅せしむ。諸の智有る者は應に是くの如く洗浴の法を作な すべし。當に香藥三十二味を取るべし。謂ふ所の菖蒲 跋者 牛黄 瞿盧折娜 苜蓿香 塞畢力迦 麝香 莫迦婆伽 雄黄 末㮈眵羅 合昬樹 尸利灑 白及 因達囉喝悉哆 芎藭 闍莫迦㺃 杞根 苫弭 松脂 室利薜瑟得迦 桂皮 咄者 香附子 目窣哆 沈香 惡掲嚕 栴檀 栴檀娜 零凌香 多掲羅 丁子 索瞿者 欝金 茶矩麼 婆律膏 掲羅娑 葦香 捺剌柁 竹黄 路戰娜 細豆蔲 蘇泣迷羅 甘松 苦弭哆 藿香 鉢怛羅 茅根香 嗢尸羅 叱脂 薩洛計 艾納 世黎也 安息香 窶具攞 芥子 薩利殺跛 馬芹 葉婆儞 龍花鬚 那伽雞薩羅 白膠 薩折羅婆 青木 矩瑟侘、皆等分し布灑星日を以て一處に擣つ き篩ふる ひ、其の香末を取り、當に此の呪を以て呪すること一百八遍すべし。呪曰く、(以下省略)
ここでは各香薬の漢名と梵語名すなわちサンスクリット語を音写した漢名が併記されている。サンスクリット名は“kuṅkuma”であり、強いて音読表記すれば、「クンクマ」となる。一方、鬱金(香)に対する梵語名の茶矩麼は、「茶」の音は“ちゃ”ないし“さ”であるから、サンスクリット名の音写の割には語頭の音韻の違いが過大に思える。『大佛頂
再び『本草綱目』の記載(鬱金香の集解)にもどるが、李時珍は他書の引用して「鬱金香の葉は麦門冬に似ている」「(旧暦)九月にフヨウに似た紫碧色の花をつける」「花は咲いても実をつけない」(巻第十四「草之三 芳草類 鬱金香」)と述べ、どう見てもウコン属よりサフランを表した記述としか思えないが、これでも李時珍がウコンにこだわったのは、生品の現物を見たことがなく文献上の記載だけで論考したからだろう。せっかく仏典を引用しながら、鬱金香を水中でもみだすと水が赤くなると記述した『佛説摩訶刹頭經』(既出)を見落としたらしく、結局、誤った結論に至ってしまった。惜しむらくは鬱金
中国では鬱金香を詠み込んだ唐詩がいくつか知られている。しかし、仏教色はごく稀薄であり、サフランとはいい難いものもあるかもしれない。ここではわが国でもよく知られた詩人である白居易と李白の詩を紹介し、それぞれの鬱金香がどんなものであるか考証してみよう。まず白居易の「盧侍御
鬱金香の汗
山石榴
文君
神女
夢の中
宋玉
まずはじめに簡単に語彙の説明をしておく。詩題にある盧侍御は盧という名の天子の側用人のことで、李白の「廬山
鬱金香の香気は小妓の衣服に浸透し、その舞衣装はヤマツツジの紅い花で染まったような色相だ。それと相俟ってあの卓文君よりも麗しく才気があふれ、お酒の相手までしてくれるのだ。伝説の巫山の神女にすら勝るほどで、しかも神女のように雲となって目の前から消えるようなことはしない。そういう才色兼備の美人は夢の中よりも目が覚めている時に見るのには及ばない。宋玉も荊楚王もまさしく君を羨ましく思うにちがいない。
この詩の情景は京都の祇園の茶屋を想起させ、高級官僚でないと手の届くところではない。とはいえ天子の側近たる侍御に誘われ、相手をしてくれた小妓の求めに応じてこの詩を贈ったほどだから、この時期の白居易はある程度高い官位を得ていたのであろう。「歌巾を裛む」とは何となく後述の薫物
客中行
蘭陵
玉碗
但だ主人をして能
何
詩題の客中行は旅先で作った歌の意。李白は旅先のどこかで酒宴に招かれ、この詩を詠んだのであろう。蘭陵は漢代に現在の山東省棗庄
蘭陵の美酒は鬰金香で香り付けしており、玉碗にこれを盛ると琥珀色に光輝く。但だ主人がこの酒で客を酔わせてしまうから、故郷か他郷のどこであるかわからなくなってしまうような美酒はまことにありがたいものだ、主人に感謝せねばなるまい。5-4.別ルートで中国に渡来したサフランもある
さて、大帝国の唐が滅亡し、混乱の時代を経てモンゴル族によって併合され、版図が中央アジア〜ペルシア、欧州の東部まで及ぶ世界史上でも空前の大帝国モンゴル帝国(元)が成立し、西方の産物が直接中国大陸にもたらされるようになると、それまでとは大きく事情が一変する。元代の薬膳書『飲膳
番紅花
【釋名】 洎夫藍綱目 撒法郎
【集解】 時珍曰ふ、番紅花は西番の回回(後述)の地面及び天方國(後述)に、即ち彼の地の紅藍花なり。元時、以て食饌に入り用ふ。按ずるに、張華博物志言ふ、張騫、紅藍花の種たね を西域に得たれば則ち此即これのみ (=即此)一種、或は方域の地氣稍やや 異なることに有るらん。
李時珍は『飲膳正要』の“咱夫蘭”を見出し名に採用せず、張騫
さて、わが国には中国経由で仏教が伝来したが、当然ながらそれに付随する文化も受容している。多くの仏典にその名がある鬱金香は、わが国に多大な影響を与えた白居易の詩に詠まれるほどだから、平安時代のわが国に渡来していたとしてもおかしくはない。まず鬱金香はさておくとして、サフランという西洋の原名が国書で初見するのは江戸初期を代表する本草書『大和本草』(貝原益軒)であり、「暹羅
6.平安時代に知られていた欝金香と熟欝金の関係
5-4で江戸中期以降になってサフランの詳細な図譜がわが国にもたらされ、後期には生品も渡来したことを述べたが、鬱金香についても正しい認識が浸透していた。時代的に前後してしまったが、鬱金香あるいは鬱金という名であれば、平安期の香薬書に頻出する。仏教との所以が深く主として仏典を通して知られていたのであるが、不思議なことに江戸時代の本草家のみならず儒学者なども含め、ごく一部を除いて言及されることはなかった。平安時代と江戸時代の間で鬱金香に対する認識において相違があるか否か興味が持たれるが、これまでほとんど検討されることはなかった。平安時代には『和名抄』(源
『香字抄
欝金香
①開寶重定神農本草云ふ
其の味は辛、苦、寒にして無毒。血積けっしゃく (大病の後に体内に生じるとされる血の塊をいう)、氣を下し、肌を生じ、血を止め、惡血(病毒のもとになる血)を破り、血淋尿血(尿中に血液が混じる病症)、金瘡(刃物による切り傷)を主つかさど る。
注云ふ
苗は姜黃に似て花は白く質は紅く、末秌秋の暮 に莖心を出だし、實無く根は黃赤なり。四畔の子根を取り、皮を去り火にて之を乾かす。蜀地(古代中国の地名・国名で現四川省、特に成都付近の古称)及び西戎(ほぼ西域に同義)に生ず。馬藥に之を用ひ、破血(血液の滞りを除く)而うして補ひ、胡(人;他書より補録)之を馬朮と謂ふ。嶺南なるは實有りて小豆蔲(原文:;ショウガ科カルダモンElettaria cardamomum)に似て噉く ふに堪へず。
「開寶重定神農本草」とは『開寶重定本草』(974年)のことで、わが国には『開寶新詳定本草』(973年)の改訂版が伝わっていたことがわかる(以上、5-1で既出)。しかし、驚くことに同書の“鬱金の条”の主文をそのまま“鬱金香”として転記しており、ここにいう「注云」も唐本注すなわち『新修本草』の蘇敬注であるが、不思議なことにこれまで先行研究で言及されたことは聞かない。『香字抄』の記述の大半は難解な仏典などから引用されているので、本草・古典医学研究者に重視されてこなかったからだろう。唐本注に「姜黃に似て〜」とあるように、鬱金の類品にショウガ科同属別種の姜黄
②又云ふ、嶺南なる者は實有り小豆蔲(原文:小荳;『薫集類抄』では山荳とある)に似て之を噉く ふに堪えず。又、青欝金黄欝(原文は「欝」を欠く)金有り、又熟欝金なる者有り。其の中に五種の香等ら (原文:「䓁」)を以て之を造る。又、一種を以て之を造る香有り。
之を案かんが ふるに、欝金種々くさぐさ あり、其の真なる熟欝金、其の色紫云々を知り難し。
或抄に云ふ、熟欝金を造る法 大唐僧長秀勧進する㪽ところ
黄欝金小十両 麝香小七両 沈香小七両 紫檀小十両四分 唐青木小七両
右の五物、擣つ き篩ふる ひ和して合し、暖めて之を瑠璃壺に納い る
或抄に云ふ、塗器に納るが良し
②の「又云ふ、〜」において、「嶺南なる者〜噉ふに堪えず」とある部分は唐本注あるいは『證類本草』の蘇頌注(すなわち『圖經本草』)にも出てくるが、残りの部分は『開寶本草』を累積引用したはずの『證類本草』にまったく見当たらない。コンテクストからすれば蘇敬注あるいは『開寶本草』の「馬志注」と解釈し得るので本草逸文の可能性もある。ただし、ここには青欝金
次に「熟欝金を造る法」は“大唐僧長秀勧進する㪽”なる注記を付す。これに関しては『薫集類抄』の裏書きに興味深い記事があり、ここにも唐僧長秀の名が見えるので全文を紹介する。
凡そ合香法、管窺くゎんき (見識がないこと)の輩多く其の能を稱す。然るに頗る其の道を得たる者は公忠きんただ 朝臣、随時よりとき 朝臣等ら (原文:「」)なり。公忠なるは典侍ないしのすけ 直子なおいこ の説を傳へ雄と称す。随時なるは八条李部王の孫を以て名を得たり。此の兩人、其の流は同じと雖も其の派は猶ほ異なるがごとく、口説くぜつ 相違ひ、手方は相乖す。公忠は先づ諸香を搗きて散と作し、和合せし後に麁き羅うすぎぬ を以て篩ふる ふ 号なづ けて合篩と曰ふ。篩ひ訖をは りて蜜を入れ、更に和合し良久しばらく 研す り黏ね やし 鑯臼に取り入れ擣くこと三千許ばか り、杵にて搗き了をは れば斤定む(秤量すること)。蜜欠けたるを知れば數しばしば 取り出して丸の如くす。瓷壺に入れ埋むこと七日。随時はた(亦ま た)諸香を舂つ き、蜜に和して了る。舂つ くこと數かぞ ふること無く、多きを以て能しと爲す 埋むこと前法の如し。た公忠、熟欝金に代へて麝香を用ひ、随時は黄欝金を以て通用す。其の説くこと一つに非ず、其の論ずること定め難し。今、拾遺本草を見るに、随時の陳ぶる(=所) 、陳ぶるに以て相違ふ。た大唐僧長秀云ふ、熟欝は欝金の花を摘(原典:「槁」、“註本無此字”の傍書あり)み、白蜜に和して作るの物なり云云と。此の兩種を見れば其れ同じならざるなり。通用すべからず。
まず唐僧長秀とはどんな人物かについては、『扶桑
③一条院 御製
菊爲九日花
歩暦風妻秌雪白佳期兩若欝金香
④或抄に云ふ
欝金 芳草なり。葉は貫と爲し、百廾貫。色は正に黄なり。
③の「一条院 御製」は一条天皇御製の意、「菊爲九日花(菊は九日の花爲
⑤遁麟記云ふ
欝金は是れ樹名にして罽賔けいひん 國(印度の北部、今のカシミールにあったという国)に出づ。其の花黄色(原文は「藂」、『香要抄』『一切經音義』にしたがい改める)、花を取りて一處に安置し爤ただ るを待ち汁を壓して取り、物を以て之に和し香と爲す。花粕(原文の「䄸」を改める)猶ほ香氣有るがごとく、た(亦ま た)用ひて香(大蔵経DBでは「香花」とある)と爲すなり。
西域記云ふ、 第八摩掲陀國上
西域記云ふ、菩提樹の垣の西遠からず窣堵波卒塔婆 有り、欝金香と謂ふ。(1)高さ四十餘尺、漕炬吒そこた 國の商主の建つる所なり。昔、漕炬吒國に大商主有り。天神の祠に宗事つか へて福利を求む。佛法を輕蔑して因果を信ぜず。其の後、諸もともろ の商侶を將ひき ゐて有無を貿遷し、舟を南海に汎うか べて風に遭ひ路を失なふ。波濤はたう 飄浪へうらう の時、三歲を經たり。資糧罄竭けいかつ し糊口に充たず。同舟の人、朝にして夕に謀らず、力を戮あは せて志を同じうし、事つか ふる所の天に念ず。心慮已に勞つか れて冥功濟ならず。俄かに大山の崇き崖峻しき嶺を見て、兩日暉かがやき を聯ねて重明照朗たり。時に諸の商侶更めて相慰めて曰ふ、我が曹ともがら に福有りて此の大山を過ぐ。宜しく中に於いて止まり自ら安樂を得るべし。商主曰ふ、山に非ず、乃ち摩竭魚(インド神話に出てくる海の怪物マカラmakara)のみ。崇き崖峻しき嶺は須鬣たてがみ なり。兩日、暉を聯ねたるは眼光なり。言聲未だ靜かならず、舟の帆飄へり湊あつま まりぬと。是に於いて商主、諸侶に告げて曰ふ、我れ觀自在菩薩を聞けり、諸の危厄に於いて能く安樂を施すと。宜しく各おのおの 至誠ねんごろ に其の名字を稱すべしと。遂に即ち聲を同じうして歸命きみゃう 稱念しょうねん す。崇山既に隱れて兩日して亦た沒す。俄に沙門の威儀、庠序しゃうじょ 見あら はれ、錫を杖きて虛を凌ぎて來り溺るるを拯すく ふ。時を踰こ えずして本國に至りぬ。因りて即ち信心貞固にして福を求むること回よこしま ならず、窣堵波を建てて式修供養し、欝金香泥を以て而うして周めぐ らし上下を塗る。既に信心を發して其の同志を率ゐて躬みずか ら聖迹せいせき に禮し菩提樹を觀る。(2)未だ言ここ に歸するに暇あらざれば、已に晦朔に淹つ く。商侶同じく遊びて更に相謂ひて曰ふ、山川悠かに間へだ ち郷國遼はる か遠し。昔、建立する所の窣堵波は、我が曹ともがら 此ここ に在りて誰か其れ灑掃さいそう せんと。言ひ訖お はりて旋繞して此に至れば忽たちまち に窣堵波を見る。駭おどろ き其の致るに由りて即ち前に瞻察せんさつ すれば乃ち本國に建てたる所の窣堵波なり。故に今の印度因りて欝金を以て名と爲さむ。(3)
「遁麟記
欝(金;原文は欠)香
⑥本草云ふ
味は苦、温にして無毒。蠱野こや (自然界に巣食う目に見えない病気のもと)の諸もろもろ の毒、心氣(病気についてあれこれ気をもむこと)鬼疰きしゅ (おそらく鬼注きちゅう に同じと思われ、病邪の根源たる鬼が体内に住みつくという意;詳細は拙著『續和漢古典植物名精解』第一章第七節③-1を参照)、鴉鶻あこつ 等の臭(鴉カラス ・鶻ハヤブサ などの肉の臭味;食饌に用いることを示唆し、病気とは無関係の記述が主文にあるのは極めて異例である)を主つかさど る。陳氏云ふ、其の香の十二葉、百草の英と爲す。按ずるに、魏略云ふ、秦國に生ずと。二月、三月に花有り狀は紅藍の如く、四月、五月に花を採れば即ち香なりと。今附
⑦一名馬蒁 胡人之と名づく。仁諝音巡聿反 一名黄帝足 根の名なり。五金粉薬决(に出づ:『本草和名』より補録)楊音食◻︎
欝金香という見出し名とともに「本草云ふ」(いうまでもないが、『開寶重定神農本草』のこと)を再条出させているのは、これこそ鬱金香に関する本草の真の引用文であり、『開寶重定本草』における鬱金香の条文をそっくりそのまま転記したのである。ちなみにその末尾にある「今附」とは『開寶本草』において鬱金香が新載されたことを示し、「陳氏云ふ〜」以下の編者注は、通例、“今注” (今注するに;付け加えるとの意)として主文の後に小文字で付記するのであるが、鬱金香の条では主文と注釈を統合した形になっている。サフランという植物を見たことの有無を問わず、この記載はサフランと気付くには不十分すぎるが、春ウコン・秋ウコンを知っていれば、鬱金香はショウガ科ではないと思うだろう。平安期の邦人はいずれの生品を見たことがないゆえに、以上のようなちぐはぐな記載様式を余儀なくされたのである。ちなみに『香要抄』でも冒頭の欝金香の後に「重定本草云ふ、欝金、味は辛、苦にして寒、無毒。血積、氣を下し、肌を生じ、血を止め、惡血を破り、血淋、尿血、金創を主る」とあり、本草の鬱金の主文を載せるが、同唐本注を経て「木部中品に欝金香有りて云ふ」の後に⑥の鬱金香の主文が続き、驚くことにこの後に「按藥性論云」(略)、「圖經曰ふ、欝金、本經は州土に出づる(ところ)を載せず。蘇恭云ふ、〜以下略」とあり、『嘉祐本草』と『圖經本草』を統合した直後の陳承著『重校
以上が『香字抄』における“欝金香”の記載文のすべてであるが、香薬専門の姉妹書というべき『香要抄』における欝金香の記載文について『香字抄』との違いを述べてみたいと思う。冒頭に「重定本草云」とあって、『開寶本草』の鬱金の条の主文を引用し、その後に「唐本注云」(『香字抄』では単に「注云」とある)を置いてあるところは『香字抄』と同じである。しかし、それに続いて欝金香の主文を「又云」と引用し、しかも『開寶本草』では主文に一体化されていた「陳氏云」「按魏略云」を主文の本文から分離して記載するところは、あたかも欝金香が欝金の条内に記載されているかのような印象を受けてしまう。これもまた当時の邦人が鬱金香と欝金を分別できず、むしろ別々に条出することに違和感をもっていた証左といえるかもしれない。ただし、『香要抄』には『香字抄』にない「按藥性論云」「圖經曰」なる『證類本草』(あるいは前述したように、『重校補註神農本草幷圖經』)に由来すると思われる引用文がある。前述の「唐本注」も『證類本草』ではごく普通に見られる引用形式なので、同書から直接引用された可能性が高く、『新修本草』の引用ではないと思われる。唐本草の新載にもかかわらず、鬱金は引用文の末尾につくはずの“唐本先附”がなくその可能性はないように見えるが、同じく唐本草新載品である楓香の条でも省略されているから、『香要抄』の編者が意識的に省略した可能性も捨てきれない。「按藥性論云」は正しくは「臣掌禹錫謹按藥性論云」であり『嘉祐補注本草』からの引用注釈文、「圖經曰」はいうまでもなく『圖經本草』であり、『香要抄』に附図(前述したように、『圖經本草』あるいは『政和本草』から転写された)が掲載されているのも、同書の編纂時に『嘉祐補注本草』(1060年)と『圖經本草』(1061年)あるいは『政和本草』(1116年ごろ)が伝わっていたことを示唆する。したがって、『香字抄』の成立時期は1060年以前、一方、『香要抄』は『圖經本草』の成立した1061年あるいはもっと遅く『證類本草』の成立した1090年ごろ以降であることが明確となる。通説では『香字抄』の成立は11世紀末から12世紀初頭とするが(『国史大辞典』による)、同書の引用する『開寶重定本草』は974年の成立であるから、『嘉祐補注本草』『圖經本草』の引用がない『香字抄』の成立は11世紀半ばまではさかのぼる可能性がある。そのほか「文士傳曰」の「朱穆
南州異物志曰ふ、欝金は罽賔けいひん 國(既出)に出でて、國人之を種う う。先づ取りて佛に上たてまつ ること積日して萎な え槁か れれば(原文の「熇」を改める)乃すなは ち盡ことごと く之を去る。然(原文の「燃」を改める)る後、賈人こじん 之を取る。欝金、色は正に黃にして細く、扶容芙蓉 と華褁はなふさ 披ひら (原文の「被」を改める)く蓮なる者と相似たり。香酒を以てすべし。故に天子に欝酒有るなり。
相感志云ふ、欝金草は伽毗かひ 國に生じ、麦門冬に似たり。九月に花開き、狀は芙蓉ふよう の若ごと く其の色は紫碧、香は數十步に聞く。花つけて實らず、但し其の根を取れば能く熱疾を治す。今の欝金、香絶た ゆるもの多く、即ち伽毗の珎めづら しきに如かざるなり。
「南州異物志」は散佚して現在に伝わらないが、『藝文
以上、わが国の香薬専門書の記述を解読した限りでは、以下のような結論になる。
鬱金
本草:ハルウコン(中国)
アキウコン(日本)
鬱金香
本草:サフラン(中国、日本)
平安期の欝金・欝金香:区別せず
黄欝金:ハルウコン
青欝金:アキウコン
熟欝金:黄欝金・麝香・沈香・紫檀
唐青木香を調合して製したもの
『堤中つつみちゅう 納言なごん 物語ものがたり 』
春のものとて、ながめさせたまふ昼つかた、台盤所だいばんどころ なる人々、「宰相さいしゃうの 中将ちゅうじゃう こそ、参りたまふなれ。例れい の御にほひ(いつもの薫物の匂い)、いとしるく」など言ふほどに、(中将は)つい居たまひて(中宮の前におひざまずきになって)、「昨夜よべ より、殿(の邸に)に候さぶら ひしほどに、やがて御使つかひ になむ(申しつかりました)。『東ひんがし の対たい の紅梅こうばい の下に、埋うづま ませたまひし薫物たきもの 、今日けふ のつれづれにこころみさせたまへ』とてなむ」とて、えならぬ(何とも言えない素晴らしい)枝に、(薫物を入れた)白銀しろがね の壺つぼ に二つ付けたまへり。(このついで)
『落窪おちくぼ 物語ものがたり 』
「薫物たきもの は、この御裳着もぎ に賜たま はせたりしも、ゆめばかり(少しばかり)包み置きてはべり」とて、いと香かう ばしう(衣に)薫た きにほはす。
『榮花えいが 物語ものがたり 』
(中宮彰子は)このごろ薫物合たきものあはせ せさせたまへる(薫物の調合をおさせになって)、(調合した薫物を)人々(女房等)にくばらせたまふ。御前おまへ にて御火取ひとり (香炉)ども取り出でて、さまざまの(練香)を試みさせたまふ。(はつはな)
泉いづみ の上の渡殿わたどの に、四条しでう の中納言参まゐ りたまへるに、出羽弁いではのべん 対面したるに、殿(頼道)、内うち より御火取ひとり 持ちておはしまして、空薫物そらだきもの (来客などのため、目につかないようにさりげなく焚く香)せさせたまひて、(出羽弁のそばに)添ひおはします。なかなかいとつつましく(かえって気後れして)、(出羽弁が公任の息子定頼に)もの聞こえたまふも(申し上げようにも)、打ち出い でにくくおぼえけり(言いにくく思われるのだった)。(謌合)
打橋うちはし 渡らせたまふよりして、(漂ってくる)この御方(彰子)の匂にほ ひは、ただ今あるそら薫物だきもの ならねば(今どこにでもあるような空薫物ではないので)、もしは何くれの香かう の香か にこそあんなれ、何ともなくしみ薫かを らせ、渡らせたまひての御移香うつりが (お部屋に入られてからの移り香)は他こと 御方々(彰子以外の中宮定子、元子、義子、尊子らのこと)に似ず思されけり(かがやく藤壺)
麗景殿の下お り上のぼ りたまふ女房の衣きぬ の音おと (衣がすれて出る音)、空薫物そらだきもの の薫かをり など、近きほどにてをかしう心にくし。薫物の香か なんすぐれたりける。(暮まつほし)
紅くれなゐ の打衣うちぎぬ (ベニバナの花で染めた打衣)は、なほ制せい ありとて(禁色の制限がまだあるといって)、山吹やまぶき の打ちたる(クチナシの実で黄色に染めた打衣)、黄なる表着うはぎ (苅安かりやす で染めた黄色の上着)、竜胆りゆうだむ の唐衣からぎぬ (龍膽襲りんどうがさね ;表淡蘇芳裏青の色目)なり。空薫物そらだきもの の香か なんすぐれたりける。(布引の滝)
東ひぬがし の廂ひさし の中なか の間ま ぞ、殿との (道長)の御前おまへ の御念誦ねむず の所にはせさせたまへる。〜匂にほひ いろいろに見えてめでたし。火舎ほや (密教で用いられる香炉の一種)に黒方くろぼう をたかせたまへり。花水けすい の具(仏前に花や水を備える道具類)などあり。これは供養法くやうほふ のをりの御座なるべし。(たまのうてな)
この殿との ばらの(衣に焚き染めた)薫かをり 、匂にほ ひ、さまざまめでたく吹き入るるに、また、内うち には、梅花ばいくゎ をえもいはず(何ともいいようがないほど)たき出でたまふ。今日けふ の侍従じじゅう は、左右大臣にも勝まさ りぬべくなん(侍従は官職では高くはないが、薫物の侍従の香の素晴らしさを官職に例えたら、左右大臣に勝るに違いないと)人々思おぼ されける。御前おまへ には、東ひぬがし の廊らう の前の方かた にやや西に出でて、楽人らくにん どもさぶらふ。御前の火焚屋ひたきや のもとの梅の、人繁ひとしげ きけはひの風に散り来る薫もめでたし。(わかばえ)
『うつほ物語ものがたり 』
かくて、巳み の時、うち下くだ りてのほどに(巳の刻の終わりごろに)、(お召しの着物は)青鈍あをにび の綾れう の袴、柳襲やなぎがさね (表白裏淡青の襲の色目で、通例、春の色とされる)などいと清らにて、今日の移しは、麝香ざかう 、薫物たきもの 、薫衣香くんのえかう 、ものごとにし変へたり(衣ごとに焚き染めてある)(蔵開中)
雉きじ の嘴はし には黒方くろぼう 、(そのほかは)みな白銀しろがね どもなり。鳩は黄金こがね 、その嘴には黄金入れたり。小鳥には、黒方をまろがしたり。折櫃おりびつ は白銀、沈ぢん の鰹、黒方の火焼ほや きの鮑あはび 、海松みる 、青海苔のり は糸、甘海苔に綿を染めて、下には綾あや 、衝重ついがさね 二十六、蘇枋すはう のもの(蘇芳の作り物)入れたり。(蔵開下)
(昇殿の殿上人が)集まり興じて、みな取り据ゑて参るほどに(配膳して食べていると)、大いなる白銀の提子ひさげ (つるのある小鍋形の銚子)に、若菜の羹あつもの 一鍋なべ 、蓋ふた には、黒方くろぼう を大いなるかはらけ(土器)のやうに作りくぼめて、覆ひたり。(蔵開中)
紺瑠璃るり (色名)の大きやかなる餌袋二つに、白銀の銭一餌袋に、黒方くろぼう を日乾ひぼ しのやうにしなして一餌袋、沈を小鳥のやうに作りなして一餌袋、鳥の毛を剥は き集めて、青き薄様一重づつ覆ひて結ひたり(蔵開上)
御供の人、品々装束さうぞ きて(それぞれの身分に応じた装いで)、日の暮るるを待ちたまふほどに、仲忠の中将の御もとより、蒔絵まきゑ の置口おきぐち の箱(蒔絵で縁飾りした箱)四つに、沈ぢん の挿櫛さしぐし よりはじめて、よろづに、梳櫛けづりぐし の具、御髪上みぐしあ げ(貴人の髪を結うこと)の御調度、よき御仮髻すゑ (女性の添え髪)、蔽髪ひたひ (女官が礼装のときに用いた髪の飾り)、釵子さいし (かんざしの一種)、元結もとゆひ (髻もとどり を結び束ねる紐)、衿櫛えりぐし (装飾用の模様を彫りつけた櫛、彫櫛ともいう)よりはじめて、ありがたくて、御鏡、畳紙たたうがみ (折りたたんで懐中に入れる紙)、歯黒めよりはじめて一具ひとぐ 、薫物たきもの の箱、白銀しろがね の御箱に唐の合はせ薫物入れて、沈の御膳おもの に白銀の箸、火取ひとり 、匙かひ 、沈の灰入れて、黒方くろぼう を薫物の炭のやうにして、白銀の炭取りの小さきに入れなどして、細こま やかにうつくしげに入れて奉るとて、御櫛の箱にかく書きて奉れたり(あて宮)
かくて、しばしあれば、御桶火をけび 参る。沈ぢん の火桶ひをけ 、白銀しろかね の瓮ほとき 、沈を火箸ひばし にして、黒方くろぼう を鶴の形かた にて、白銀の嘴はし などして、帝(院の帝、嵯峨院)、后きさき の御前おまへ に参る。御台(食膳)参る。(菊の宴)
東宮は、白銀しろかね 、黄金こがね の結びものどもこぼたせたまひて(編み込んだものをほぐして)、ほかなる(外ほか なる、屋外の)竹原たかはら にして、下には白銀の細皮ほそかは 結び、餌袋ゑぶくろ のやうにして、黒方くろぼう を土にて、沈ぢん の笋たかうな 間ま もなく(隙間なく)植ゑさせたまひて、節ふし ごとに水銀みづかね の露据ゑさせて、藤壺に奉らせたまふ。(国譲上)
右大将殿(仲忠)、大いなる海形うみがた をして、蓬莱ほうらい の山の下の亀の腹には、香ぐはしき裛衣えひ を入れたり。山には、黒方くろぼう 、侍従じじう 、薫衣香くのえかう 、合はせ薫た き物もの どもを土にて、小鳥、玉の枝並な み立ちたり。海の面つら に、色黒き鶴つる 四つ、みなしとどに(皆びっしょりと)濡れて連なり、色はいと黒、白きも六つ。大きさ例の鶴のほどにて、白銀しろかね を腹ふくらに鋳い させたり。それには、麝香ざかう 、よろづのありがたき薬くすり 、一腹づつ入れたり(国譲中)
種松(神無備の種松長者、紀伊国のまつりごとに携わる長者という設定)が北の方、君だち三所に、(旅の安全を祈って)幣ぬさ 調じて奉れり。白銀の透箱すきばこ 四つづつ、黒方くろぼう の炭一透箱、金の砂子いさご に、白銀、黄金を幣に鋳たる一透箱の上に、歌一つ、やがて結び目に結ひつけさせたり。(吹上上)
かくて、九日(重陽の節句の菊の宴)ここ(吹上)にて聞こし召す。(院の帝の)御前に磨き飾れること限りなし。籬ませ (柵ませ の垣根、ませがき)の縦木には紫檀、横木には沈ぢん 、結ひ緒には緂だん の組して結ひて(色を段にしてグラデーションをつけて組紐を編んで)、黄金の砂子いさご 敷きて、黒方を土にしたり。白銀して菊を飾れり(白銀で菊を作って飾る)。移ろへる花などの圧へ したる中に(密集して植えた中に)、紺青、緑青の玉を花の露に(見せて)置かせたり。(吹上下)
かくて、(実忠は)白銀しろかね の火取ひとり (香炉)に、白銀の籠こ 作り覆ひて、沈ぢん をつきふるひて、灰を入れて、下の思ひ(下燃えの胸中に秘めた思い)に、すべて黒方くろぼう をまろがして(丸く練って)、それに、「ひとりのみ思ふ心の苦しきに(下燃えの)煙もしるく(はっきりと)見えずやあるらむ(そしてきっと)雲となるものぞかし」と書きて〜(藤原の君)
『紫式部むらさきしきぶ 日記にっき 』
[中宮彰子の初めての出産の年の寛弘五(1008)年八月]二十六日、御薫物おほんたきもの あはせ果は てて、人々にも配くば らせたまふ。まろがしゐたる人びと、あまた集つど ひゐたり。
その夜さり(夜になるころ、夜)、(中宮の)御前おまへ に参まゐ りたれば、月をかしきほどにて、端はし (廂の間のと簀子に近いところ)に、御簾みす の下より裳も の裾すそ などほころび出づるほどほどに、小少将こせうしゃう の君(源時通の娘)、大納言だいなごん の君(源扶義の娘簾子)など、さぶらひたまふ(控えておられる)。(中宮は)御火取おほんひとり (香炉)に、ひと日の(一日置いた)薫物たきもの とうでて(取り出して、終止形は“とうづ”)、試こころ みさせたまふ(練香を焚いて調合の具合を試みていらっしゃる)。
「すこしさだすぎたまひにたる辺わた りにて(少し盛りを過ぎておられる方だから)、櫛の反そ りざまなむなほなほしき(平凡だ、つまらない)」と、君達きんだち (殿方)のたまへば、今様いまやう のさま悪あ しきまで(当世風のみっともないほど)端つま もあはせたる反そ らしざまして、黒方くろばう をおしまろがして、ふつつかにしりさき切りて(不恰好に前後を切って)、白き紙一重かさ ねに、立文たてぶみ (正式の書状の形式、礼紙らいし で巻き、その上をさらに白紙で包んで、包み紙の上下を筋違すじか いに左、次に右へ折り、さらに裏の方へ折り曲げる)にしたり。
『枕草子まくらのそうし 』
ちごは、あやしき弓、しもとだちたる物(細枝しもと のようになった物)などささげて遊びたる。車などとどめて、抱いだ き入れて見まほしくこそあれ。また、さていくに、薫物たきもの の香か いみじうかかへたるこそ(たいそう焚き込んであるのこそ)、いとをかしけれ。(ちごは)
薫物たきもの の香か 、いと心にくし五月の長雨ながあめ のころ、上うへ の御局みつぼね (弘徽殿こきでん にある女房の休息用の部屋)に、小戸こと の簾す に、斉信ただのぶ の中将(藤原斉信)の寄り居ゐ たまへりし(よりかかって座っておられた時の)香か は、まことにをかしうもありしかな。その物の香か ともおぼえず(これそれの薫物の香とも思われなかったという意だが、褒めていることに留意)。おほかた雨にもしめりて艶えん なる気色けしき の(雨の湿り気で香が優美になるようなことは)、めづらしげなき事なれど、いかでか言はではあらむ(どうして言わずにいられようか)。またの日まで、御簾みす に染し みかへりたりし(深く染み込んだのを)、若き人などの(若い女房等が)、世に知らず思へる(この世にないすばらしいものと思ったのも)、ことわりなりや(当然のことである)。(心にくきもの)
『宇治うじ 拾遺しゅうい 物語ものがたり 』
道すがら堪へがたき雨を、「これに行きたらんに逢あ はで帰す事よも(これで行ったら逢わずに帰すようなことはしまい)」と頼もしく思ひて、局つぼね (女房等の休憩所)に行きたれば、人(本院侍従に勤めている女人)出い で来き て、「上うへ (奥)になれば、案内あんない 申さん」とて、(部屋の)端はし の方かた に入れて往い ぬ。見れば、物の後うし ろに火ほのかにともして、宿直物とのゐもの とおぼしき衣きぬ (宿直のものが着ると思われる衣)、伏籠ふせご (半球形の竹籠)にかけて薫物たきもの しめたる匂にほ ひ、なべてならず(尋常ではない)。いとど心にくくて、身にしみていみじと思ふに、人帰りて(先ほどの女人が帰っていて)、「只今ただいま もおりさせ給ふ(直ちにお帰りなさいます)」といふ。(巻第三 平貞文、本院侍従の事)
平中へいちゅう 悦よろこ びて、かくれに(人目につきにくいように)持も て行きて見れば、香かう なる(香色こういろ の、赤みを帯びた黄色の)薄物うすもの の、三重みへ がさねなるに包みたり。香ばしきこと類たぐひ なし。引き解きてあくるに、香ばしさたとへん方かた かたなし。見れば、沈ぢん 、丁子ちゃうじ を濃く煎せん じて入れたり。また薫物たきもの をば多くまろがしつつ、あまた入れたり。さるままに香ばしさ推し量るべし。見るにいとあさまし(見ていて唖然としてしまう)。(巻第三 平貞文、本院侍従の事)
昔、陽成院やうぜいゐん 位にておはしましける時(陽成院の御代の時)、滝口たきぐち 道則みちのり 、宣旨せんじ (天皇の命令書)を承り、陸奥みちのく へ下くだ る間あひだ 、信濃国しなののくに ひくうといふ所に宿りぬ。郡こほり の司つかさ に宿をとれり。設まう けしてもてなして後、あるじの郡司は郎党らうどう 引き具ぐ して出でぬ。(道則は)いもねられざりければ、やはら起きてたたずみ歩あり くに、見れば、屏風びゃうぶ を立てまはして、畳など清げに敷き、火ともして、よろづ目安きやうにしつらひたり(すべてが見た目に感じよく調えられていた)。空薫物そらだきもの するやらんと、香かう ばしき香しけり。いよいよ心にくく覚えてよく覗のぞ きて見れば、年廿七八ばかりなる女一人ひとり ありけり。(巻第九 滝口道則、術を習ふ事)
『寝覚引用古典資料(五十音順)ねざめ 物語ものがたり (夜よる の寝覚ねざ め)』
女房も、くだくだしき、かき混ぜなる混ぜず(煩わしきを混ぜることはせず、)、かたち(容姿)、有様(風采)、心ばせ(気だて)、おのおの口惜くちを しからぬかぎりを(見劣りしない者だけを)選え り出でて、三十人、童わらは 、下仕しもづか へ四人、端者はしたもの (下男、下女)、その御方の人(内侍の督つきの人)、闇やみ の夜にも薫かを りかくれぬばかり、ととのへたまひたり。人々(女房等)の装束さうぞく の色あはひ(色相)、重なり(襲かさね の具合)、薫物たきもの のにほひ、扇あふぎ さし隠したる(扇で顔を隠すさま)など、すべて世に類たぐひ なきさまに、したてられたり。(五)
朝あした の御使つか ひ(帝からの後朝きぬぎぬ の使いで御製の和歌や文を后妃に届ける)待ち受けたまふ御心(寝覚の上の心のうちは)、なべてならず。右大臣殿の四位しゐの 少将せうしゃう 参りたり。(御簾から)いとよきほどに漏り出い でたる(ちらりと見える)女房の袖口そでぐち 、裾すそ の褄つま 、いと心殊こころこと に、薫物たきもの のにほひは雲の上までも通るばかり心にくきけはひ、かたはらに多く推し量はか らるる(傍らにいても推し量られるほどの)、御簾みす のうちの気色けしき なり。(八)
(寝覚の上)「ももしきを 昔ながらに 見ましかばと 思ふもかなし しづの苧環をだまき いふな、ゆめ」とて、「あなかしこ」(まことに畏れ多きこと)とて、(使いの)典侍ないしのすけ に、御装束さうぞく 一領ひとくだり 、裳も 、唐衣からぎぬ 添へて、心殊こころこと なる薫物たきもの 、白銀しろかね の箱にうるはしく包みて、「今よりは、疎うと からず思ひきこゆるあまりになむ(親しい間柄と思い申し上げるほどに)。[藤原伊尹の「鈴鹿山 伊勢をのあまの 捨て衣 しほなれたりと 人やみるらむ」(後撰和歌集)を受けて、贈り物の衣類などを卑下して]伊勢いせ をの海人あま (のように)も、あまり憚はばか りなく(あんまり遠慮せずに)」とて贈らせたまふ。(一〇)
もてなしなどは(振る舞いなどは)、鶯うぐひす の羽風はかぜ も厭いと はしきまで、たをたをとあえかに(なよなよとして頼りなく)、やはらぎなまめいて(和やかで気品があり)、うちにほふ風も、世のつねの薫物たきもの 、香かう に入れしめ(定番の薫物を香として焚き染めて)、心のかつす(心が渇く?、意味不明)、百歩ひゃくぶ の外ほか まで(香が)止まれる心地ここち して、(帝は)飽あ かず(満ち足りず)、なかなかに、宮の御覧ぜむところなども(大皇の宮がご覧になっているのかとかの)え憚はばか りあふまじう(遠慮できるはずはなく)、やがて立ち出でても引きとどむばかりおぼさるるを、こなたかなたも、いと俄には かなるべき人目の、我も人も(帝もかの人も)、軽かろ かるべき際きは (身分)ならねば、わびしう念ぜさせたまひて、我も、やをら出でて(ご自身もこっそり抜け出て)、(清涼殿へ)帰りわたらせたまふ御心地ここち 、(寝覚の上をご覧になった後では)いとなかなかなり(大層中途半端である)。(一六)
心知りの(事情を知る)少将、小弁などは、(中の君の御前から引き下がって)うちやすむやうにて(休息するようにみせかけて)、西の対たい に入り居て(入り居座って)、御方(対の君)もろともに、乳母めのと つくろひたて(乳母に支度をさせて)、姫君の御襁褓むつき (おむつ、乳児の産着)、御おしくくみ(姫君をお包みするもの)など、なべてならず(格別に)きよげにしたてて、薫物たきもの たきしめて、姫君に湯など浴あ むせたてまつる。中将の君も、人知れずささめき営みたまふ(こっそりとささやいてあれこれと励んでおられる)。(二三)
(督かみ の君を)御送りに参らむ上達部かんだちめ 、殿上人てんじゃうびと の被物かづけもの (目下の者の功績や労苦に対して与える贈り物)、禄ろく など、なべてならず、薫物たきもの など早朝つとめて よりたきしめて待ちきこえたまふ。殿(内大臣が)うち添ひたまひて、いと殊こと によそほしくてまかでたまへり(たいへん壮大にご退出された)。上達部など、さるべきかぎりは(上達部ほか同じ立場にある人たちは)みなさぶらひたまふ。父大臣おとど こそおはせねど(亡くなったためいらっしゃらなかったが)、殿のおろかならず扱ひきこへたまふけはひ(内大臣の一通りでないお世話をなさる様子は)、いとはなやかに、(奉仕する人たちは)あなづりにくげなり(きまり悪く思うばかりである)。(五〇)
かの大納言殿も、大殿おほとの にて(大納言の父関白邸にて)、姫君の這は ひ歩あり きたまふを見たまひて、うつくしみたまひつつ(おかわいがりになり)、「あはれ、(中の君のいる)山里に、いかに思ふこと繁しげ う(どれほどか絶え間なく悩み思って)、(山里の景色を)ながめたまふらむ」とおぼしやりて、なよらかなる御衣おんぞ どもに、薫物たきもの 心殊こころこと にたきしめて、夕暮に、山里へおはします。(五八)