平安のお香:熟欝金とは何か
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【要約】:『源氏物語』の箒木の帖に、夜、光源氏が空蝉の部屋に忍び込もうとしたとき、侍女が姿の見えない源氏を匂いで識別したという興味深い一節がある。その香気は薫物を焚き染めた衣服から発したもので、これを衣香と称し、平安貴族にとっては日常生活の一部であった。上流貴族の間ではさまざまな練香を持ち込んで香りの優劣を競う薫物合わせという遊戯も流行した。梅枝の帖では、源氏主催の薫物合わせに4種の薫物が登場する。このうちの侍従・荷葉には熟欝金という類例のない香料が配合され、『拾芥抄』は五香の一つにあげている。欝金という名で表されてはいるが、熟欝金は黄欝金と称するものに四種の香料を配合して製した練香の一種であって、あたかも単品の香料のように薫物に配合される。香道の世界には熟欝金のほかに、黄欝金と青欝金という二種の欝金があり、前者はハルウコンの根茎、後者はアキウコンの根茎を指す。本草では青欝金は鬱金、黄欝金は姜黄に相当するので、香道と認識が異なることに留意しなければならない。本草にはいわゆる鬱金とは別に鬱金香という類名があるが、名前の類似性とは裏腹に、その基原はサフランという全く別の植物種に由来する。鬱金香がサフランであることは『冊府元亀』における詳細な形態学的記述と『佛説摩訶刹頭経』の欝金香を水の中で揉み出すと赤水になるという記載によって揺るぎない事実である。ところが『本草綱目』(李時珍)は『周禮』の「鬱人」に対する鄭玄註と『説文解字』の関連文字の字解および諸家の学説を支持するゆえ、鬱金香を鬱金の花とも受け取られかねないあいまいな解釈に至ってしまった。一方で李時珍はサフランを番紅花一名洎夫藍とし、鬱金・鬱金香の芳草とは別の湿草類に分類しているので、鬱金香がサフランであることはおよそあり得ない。仏典の『金光明経』にある茶矩麽香を鬱金香の一名とするが、李時珍はそれがサンスクリット語のकुङ्कुम(kuṅkuma)に由来することに気づかなかったため、結論を誤ったのである。ちなみにサンスクリット語でウコンをहरिद्रा(haridrā)、गौरी(Gauri)と称し、それぞれの字義は"yellow"および"light and shining"である。すなわち鬱金という漢名はそれらサンスクリット語名から訳出したものである。インド以西ではウコンをIndian saffronと称されていたため、ウコンとサフランが混同され、その結果、ウコンに対してكُرْكُم(kurkum)というアラビア語名が発生した。両名の混同は中国にも及び、基原植物の系統ならびに形態に関係がないにもかかわらず、鬱金香という紛らわしい名が生み出されたのである。わが国の資料でも欝金香の名を見るが、『香字抄』『香要抄』の当該条で中国本草の鬱金の主文がそのまま転記され、基原が正しく理解されていなかったことを示している。わが国にサフランが渡来したのは江戸時代中期以降であるから、平安時代に大陸との交易で輸入された欝金香そのものがハルウコンあるいはアキウコンだったことも明らかとなる。
TITLE:On the origin of juku-ukon blended in Jijū, one of six major compound incenses in Heian period
SUMMARY: There is an interesting passage in Chapter Hahakigi (箒木) of "The Tale of Genji" as follows: when Hikaru Genji tries to sneak into Utsusemi's room at night, the maid identifies the invisible Genji by smell. It refers to "Ikō (衣香)", the scent emanated from clothes smoked with burning compound incense (薫物), which was a part of daily life for the Heian aristocrats. A game called "takimono-awase (薫物合わせ)", where participants bring in various types of compound incense to compete for superiority of scent, was also popular among the upper-class aristocrats. In Chapter Mumegae (梅枝), four types of compound incense appear at the competition of takimono-awase hosted by Genji, and among these Kayō (荷葉) and Jijū (侍従) contain a unique fragrance called "juku-ukon (熟欝金)", which "Shugaishō (拾芥抄)" lists up as one of the five highly prestigious incenses. Although it is expressed by the name "ukon (欝金)", it is a kind of compound incense made by blending four other kinds of fragrances with what is called "kō-ukon (黄欝金)", and is blended into other incenses as if it were a single fragrance. In the world of Kōdō (香道), there are two types of ukon other than "juku-ukon", "kō-ukon" and "shō-ukon (青欝金)", the former of which refers to the rhizome of Curcuma aromatica, and the latter of which refers to that of C. longa. It should be noted that in Chinese Herbalism "shō-ukon" corresponds to C. longa (鬱金; turmeric), and "kō-ukon" corresponds to C. aromatica (姜黄; wild turmeric), that is, there is subtle difference in recognition of each incense between Kōdō and Herbalism. In addition to what is called ukon (鬱金), there is a confusing herbal name called ukonkō (欝金香) in Chinese Herbalism, and contrary to the similarity of names, it originates from a completely different plant species called saffron. It is a firmly established fact that ukonkō is derived from saffron based on the descriptions in "Cè fǔ yuán guī (冊府元亀)" which concerns its detailed morphology and "Butssetsu Makasettoukyo (佛説摩訶刹頭経)" which concerns its distinguished property of the water turning red when ukonkō is crumpled in water. However, Lǐ Shí zhēn, the author of "Bencao Gangmu (本草綱目)", supports Zheng Xuan's notes(鄭玄註) on yùrén (鬱人) of "Zhōu lǐ (周禮)" and the interpretations of related letters (鬱、) in "Shuō wén jiě zì (説文解字)" in addition to other theories of various schools. Thus it has resultantly come to an ambiguous interpretation that could lead to ukonkō being taken as its flowers of ukon. On the other hand, Lǐ classifies saffron (番紅花;洎夫藍) as marsh herbs (湿草類), and is thus distinguished from aromatic herbs (芳草類) that ukon (鬱金) and ukonkō (鬱金香) belong to. Therefore it is absolutely unlikely that ukonkō is saffron according to Li's viewpoints. Although "Butssetsu Makasettoukyo" assigns a name for ukonkō to kukuma (茶矩麽), Lǐ did not realize that it was derived from the Sanskrit name कुङ्कुम (kuṅkuma), which inebitably led him to a wrong conclusion. In Sanskrit, ukon (turmeric) is called हरिद्रा (haridrā) and गौरी (Gauri), which literaly mean "yellow" and "light and shining", respectively. In other words, the Chinese name ukon (鬱金) is a translation from these Sanskrit names. In the area west to India, turmeric was called "Indian saffron". The Arabic name "kurkum" for turmeric results from the linguistic confusion of both names. The confusion between the two names also extended to China, where the name ukonkō (欝金香) was created, despite the fact that there is neither systematic nor morphological relation between both of the original plants. The name ukonkō is also found in Japanese literary sources, but the corresponding article in "Kōjishō (香字抄)" and "Kōyoshō (香要抄)" simply transcribe the main text of ukon in the Chinese herbalism, indicating that its origin was not understood correctly. Since saffron was introduced to Japan after the mid-Edo period, it also becomes clear that the one imported under the name of ukonkō through trade with the Continent was actually Harukon (C. aromatica) or Akiukon (C. longa).
1.平安文学とお香−序論−

 香薬は仏教との結びつきが強く、インド・東南アジア原産の香料は仏教の伝来とともに中国にもたらされ、中国経由でわが国へ渡来した。香料を焚いて燻らすことを薫香くんこうというが、その歴史的な起源は仏前に供えて燻らす名香みょうごうにあり、もともとは諸々の汚れを祓って仏に接するという宗教的な意義が背景にあり、一般には“お香”と呼ばれる。お香は英語のincenseに相当するが、もともとはラテン語のincendereに由来し、「燃やす」の義である。古代ローマ時代から香料は神々への捧げ物として燃やされており、その伝統はキリスト教にも受け継がれ、スパイクナード(甘松香かんしょうこう)やフランキンセンス(乳香にゅうこう)などはカトリック教会でよく焚かれる。のみならずイスラム教やユダヤ教でも乳香などを焚く習慣があり、そういう意味ではお香は必ずしも仏教に特有ではない。仏教が渡来して数百年経た平安時代になると、宗教行事から離れて香りそのものをを楽しむ芸道が発生した。しかし、現在に継承される香道こうどうとは少々趣が異なるので、古典文学の解釈では注意を要する。今日、香道では“香りを聞く”という表現がしばしば使われるが、香りを嗅ぐことによって香りの種類を当てることを聞香ききこうという。音読みして“ぶんこう”、“もんこう”ということもある。本居宣長は国文学者ながら「カウきクといふは、もと漢言にて、いにしへの詞にあらず云々」(『玉勝間』七 「香をきくといふは俗言なる事」)と述べ、「香を聞く」とは漢語由来で、それほど古い詞ではないと主張する。実際、漢籍、ここでは唐詩を博捜してみると、白居易の「二年三月五日さいをわを開き、しょくたりて偶吟ぐうぎんし、妻弘農郡こうのうぐん君に贈る」(『全唐詩』巻四百五十九)の一節「老いて憐む口のうまきをたふとぶを 病みて喜ぶ鼻の香をぐを」に行きつき、名詞形ではないが、確かに「香を聞く」という表現が存在する。通釈すれば、年をとってもなおうまいものをありがたがるのを哀れに思い、病気になっても鼻で香りを嗅げる時は嬉しく思うという、白居易が妻とともに斎戒ものいみ明けで久しぶりに珍味に舌鼓を打つ様子を詠んだ詩である。したがって、ここでいう「香を聞く」とは、ただ単に鼻という感覚器官で香りを感じるに過ぎず、芸道の聞香とはニュアンスがまったく異なる。もう一例、李白の「長相思」(同巻一百六十五)では「美人在りし時、はなだうに滿ち 美人去りし後、空しく床を餘す 床中しゃうちゅうしう巻かられて寢ず 今に至って三載猶ほかうを聞くがごとし 香亦たつひに滅せず 人亦た竟に來らず」とあり、通釈すると、“美人がいた頃は花がいっぱいあって香りで満ちていたが、去った今はただ床もからっぽで、床の中も美しい縫い取りで巻かれていて寝る人はいないが、三年経った今でもまだ香りを嗅ぐような感じがして、いったんしみついた香は消えることはないが、去った人だけはとうとう帰ってくることはない”となる。これだと白居易の詩より芸道の聞香の義に近くなるが、香薬の香りというより花の香りを暗示しているから、やはり聞香ききこうとは似て非なるものの印象は拭えまい。ちなみに、「聞」の字義は、主たる漢籍字書に“嗅ぐ”という意は見当たらないが、『集韻しゅういん』には「䛙 䜡䛙は香を聞ぐさま」「䜡 䜡䛙は香を聞ぐさま(巻九)とあって、「䜡䛙いくちく」という語彙はあっても実際の用例はほとんどない。以上、「聞香」の意は日中間でかなりの乖離があるので、湯桶ゆとう読みして「ききこう」とするのがよいだろう。前述したように、国学者の本居宣長は聞香という表現は古くはないと述べたが、『日葡にっぽ辞書じしょ(1603〜04年)に「Couo (カウヲ) キク」とあるように、“香を聞く” という表現を収録している。国書では長寛年間(1163年〜65年)に刑部卿ぎょうぶきょう藤原ふじわらの範兼のりかねが勅命により抄集したといわれる『薫集くんじゅう類抄るいしょう』の「菊花方きくかほう」の条に、「菊花方〜聞者〜」とあり、実質的には当該の表現の初見と思われる。ただし、同書は合香専門書であるゆえの特殊な用例である。一般の平安古典文学で薫物に言及した作品は少なくないが、それらの中に聞香をかかる義で用いた例は見当たらない。一般書としてはずっと時代を下って『筑紫道つくしみち宗祗そうぎ、1480年)に「夜に入り、香などたがひに聞き合ひて云々」とあるのが初見となる。
 さて、ここでもっと具体的な話題に転じよう。平安時代の摂関政治の最盛期に、藤原北家小野宮流の上級貴族藤原ふじわらの実資さねすけは、当時の政治・有職故実・文化・世相などの状況を詳細に記し、それは日記『小右記しょうゆうき』として集大成されて今日に伝わり、歴史資料としての評価は極めて高い。永祚元(989)年1月9日の条に「頭中將來りて薫物を向志す」とある記述は、まだ頭中将だった若かりし頃の藤原ふじわらの公任きんとうが薫物を所望したことを示唆し、平安時代の公家社会では香料を燻らすことが日常的に行われていたことを示唆する。公任もまた名門小野宮流出身で実資の従兄弟に当たり、正二位権大納言止まりで家格に見合った官職こそ恵まれなかったが、道長との強い関係を維持することで朝廷内で安定的な地位を確保し、和歌や有職故実などの分野で才覚を発揮して文化人としての地位を不動のものにした。お香に対して造詣が深かったことは一般にあまり知られていないが、平安後期に成立した薫物の専門書『薫集類抄』上において次のように公任の名を見るのは当該分野において一定の名声を得ていたことを示唆する。

梅花ばいか
小一條皇后 城子。三條院女御。小一條大將済時の一女。大納言公任同じく之を用いたり。
八兩二分 占唐一分三朱 甲香三兩二分 甘松一分 白檀二分三朱 丁子二兩二分 薫陸一分 麝香二分 已上小十六兩二分大五兩二分
以下略
黒方くろぼう
滋宰相 小一條皇后の方、此の方と相違無く、公任卿同じく之を用いたり。小一條院の方、又之に同じ。入道一晶宮の女房陸奥の方、之に同じ。参議師成、又之に同じ。
四兩 丁子二兩 甲香一兩、或は二分 薫陸一分、或は二分 白檀一分、或は二分 麝香二分 已上大八兩二分
六兩 丁子三兩 甲香二兩一分 薫陸一分三朱 白檀一分一朱 麝香三分 已上小十二兩三分
四兩 丁子二兩 甲香一兩二分 薫陸一分 白檀一分 麝香二分 已上小八兩二分

ただし、『薫集類抄』裏書勘物に「公任卿、和香の傳は見えず」とあるから、公任は自ら薫物を調合することはなかったようである。祖父の保忠やすただは、梅花・侍従じじゅう・黒方などの条のほか、同書下巻の合香法でも八条大将の名で頻出するので、父頼忠よりただを経て薫物を相伝したと思われる。公任は百人一首では四条大納言の名で知られるが、この名は『薫集類抄』の上下巻に頻出する。しかし、公任とは別人であって嵯峨天皇の子(嵯峨第六源氏)みなもとのさだむのことである。いずれにせよ、公任が薫物に強く耽溺していたことは次に示す和歌(いずれも『公任集』)によく表されている。
1.たき物あはせてうへにおきていで給ひにければ、すこしとどめ給うて、女御の御
 残りなく 成りぞしにける 薫物の 我ひとりにし まかせてしかな
2.父大臣おとゞうせ給ふての比、たきもの人のこひたるつかわすとて
 花だにも 散たる宿の 垣ねには 春の余波も すくなかりけり
1は残り少なくなった薫物を自分一人だけの思うがままにしてもらいたいものだという意で、公任の薫物に対する強い独占欲が見て取れるのは公任家に薫物が代々受け継がれてきたことを示唆するものだろう。2の歌は、父の死後に人が薫物を求めてきたので与えるという題詩で詠まれたのであるが、祖父の代から受け継がれた薫物(梅花または黒方)が一定の評価を受けていた名香めいこうだったことがうかがえよう。

2.『源氏物語』に登場する薫物

 『源氏物語』は、平安の貴族社会という狭い社会を舞台としながら、当時の政治の舞台の中枢を背景に取り入れて実に多様なキャラクターを登場させ、驚くほど細かい人間関係の心理描写を通してストーリーを展開し、千年も前の小説とは思えないほどのスケールの大きな傑作である。作者紫式部は女房として内裏の中枢に出仕していたので、当時の宮廷社会における有職故実に深く接する機会があり、そこで得た見聞を物語の情景に取り込んで豊かな感性をもって描写する。その中で特筆すべきは、五感の一つであるゆえに言葉で表すのが難しい平安の「匂いの文化」たる薫物たきものを随所に取り込んでいることであろう。あらかじめお断りしておくと、薫物に言及した文学作品は数多いが、とりわけ洗練された形で薫物を情景に溶け込ませて記述した作品は『源氏物語』においてほかはないので、ここでは同書だけを俎上にあげて平安の薫物文化について論じて見たい。参考のため、他作品における薫物の出現例も本ページ末に一括して掲載してあり、随時、引用して比較考証する。まず始めに『源氏物語』の第2帖の箒木ははきぎを一例に取り上げるが、主人公の光源氏が左馬頭さまのかみ頭中将とうのちゅうじょう藤式とうしき部丞ぶのじょうとともに女性体験をもとにそれぞれの好みの女性について語り合った「雨夜あまよ品定しなさだめ」のあとに、頭中将が勧めた「中の品」の女性に当たる空蝉うつせみに興味を持ち、深夜に忍び込んで一夜を共にするという官能的なシーンである。

(空蝉)「人たがへにこそ侍るめれ」といふも、息の下(息絶え絶え)なり。(空蝉の)消えまどへる気色けしき、いと心苦しくらうたげ可愛らしくなれば、(源氏は空蝉を)をかし美しい」と見給ひて、(源氏)たがふべくもあらぬ心のしるべを(わが心の導くままなのに)思はず意外にもおぼめい給ふかな(おとぼけするのですね)。 好きがましきさまには(一時の出来心と)あなた空蝉から)よに見えたてまつらじ(思われたくありません)(私の)思ふことすこし聞こゆべきぞ(申し上げましょう)」とて、(空蝉は)いと小さやかなれば、(光源氏は空蝉を)かき抱きて障子さうじのもとで給ふにぞ、(空蝉が)求めつる中将(女房の「中将の君」)だつらしき人、(源氏に)あひたる。(源氏)「やゝ」とのたまふに、(中将が)あやしくて(声のする方に)探り寄りたるにぞ、(周囲に)いみじく満ちて、顔にもくゆりかゝる(匂いが立ち上る)するに、(中将は源氏だと)思寄りぬ。(中将は)あさましうあきれて、「こはいかなることぞ」と思ひまどはるれど、(源氏に)こえむかたなし(問いかける言葉もない)並々なみなみの人ならばこそ、あららかにもきかなぐらめ(空蝉を引き離そうとするのだが)、それだに人のあまた(このことを)知らむは、いかゞあらむ。(中将は)心もさわぎて、(源氏の後を)したたれど、(源氏は)どうもなくて、おくなる御座おましり給ひぬ。

この一節における源氏の行動は、端的にいえば、契りを結んでいない女性(空蝉)に対する夜這よばいであり、しかも相手に「人違い」と言わしめているから、今日であれば確実に不同意の性行為として処罰の対象になるところだが、平安の貴族社会ではむしろ日常茶飯事のことだった。物語では空蝉に仕える中将の君が、夜這いをもくろむ光源氏の声に反応して探り寄ると匂いがぷんぷんとしたので、空蝉のもとに通ってきたのは源氏だと直感したという設定であるが、当時の上級貴族は衣服にふんだんに香りを焚きしめる習慣があり、ときにその匂いで相手が誰であるのかわかるほど、各自が個性的な香りを焚き込んでいたことがうかがえる。それは衣香いこうという薫物の一種で、紫式部は官能的な情景を暗示する描写の中に、平安期の「匂いの文化」をさりげなく潜り込ませたのである。これなどは個人ごとに思い思いの複数の香水を噴霧して相手にそれとなくアピールする今日のパーヒュームによく似ており、とりわけ照明が未発達の薄暗い中では目視で相手を同定するのは心許なく、焚き込まれた匂いの種類を嗅ぎ分ける方がずっと有効だったのかもしれない。香りの焚き込みは衣服に限らず、宮中の女性にとって必需品たる扇子や、和歌を書き記し手紙を書いて殿御に送りつけるのに欠かせない紙にまで及んだ。たとえば、「若菜わかなの帖(上)」において源氏の愛人明石上あかしのうえ明石あかしの入道にゅうどうの手紙を明石あかしの女御にょうごに読み聞かせるシーンにおける「このふみ(入道の消息文)言葉ことば、いとうたてこは(非常にひどくて堅苦しく)、にくげなるさまを、陸奥国紙みちのくがみにて、年経としへにければ、ばみ厚肥あつごえたる五六枚、さすがにかうにいとふかくしみたるにき給へり」という描写で暗示されている。平安時代では紙屋院かみやいんで作られた和紙や高麗こま渡りの紙のようにきめが細かで柔らかく薄めの紙が好まれていた。一方、陸奥紙はコウゾを原料として作られ、現代の視点で見ればきわめて上質であるが、宮中では人気が今一つであった。その厚ぼったく年数を経て黄ばんだ野暮ったい陸奥紙ですら、深く香が沁み込んでいたというから、平安貴族が可能な限りのさまざまなものに香りを焚き込んでいたことが示唆される。また、「若紫わかむらさきの帖」では、源氏が理想の女性として見出した若紫の素性を聞こうとして、彼女が住む北山の僧都の坊に一泊するシーンがあり、「いと心ことによしありて、おなじ木草をもゑなし給へり(ほかにあるような草木であっても非常に趣があるように植えあつらえてあった)。月もなきころなれば、やり水にかゞり火ともし、灯籠とうろなどにもまゐりたり(灯籠などにも灯りをともした)南面みなみおもていときよげにしつらひ給へり、こころにくゝかをで、名香(みゃうがう)など、にほひみちたるに、君の御追風おひかぜ(源氏の君が動くときに起きる空気の揺らぎに乗って源氏の衣香が薫り出ること)いとことなれば、(御簾の)うちの人々も、心づかひすべかめり。」という描写の中に、こざっぱりとした邸内で、室内などもっと広い生活空間に香りをただよわせる空薫物そらたきもの(来客などのため、目につかないようにさりげなく焚く香)が登場する。若紫は祖母の尼君と同居していたから、当然ながら仏前から名香みょうごうが匂いわたり、それに加えて源氏の衣香を“追風”なる巧みな表現で暗示するなど、三種の薫物が相混じる光景は紫式部の「香り」への強いこだわりを示すものであり、ほかの平安の古典文学には見当たらないきめの細かさが見えてくるのである。興味深いことに、空薫物は貴族の奥ゆかしい遊び心のなせる技かと思いきや、「はなえん」の帖における右大臣邸の藤の花の宴の情景では「そらだき物、いとけぶたうくゆりて、(女たちが)きぬおとなひ(衣服の音擦れを)、いとはなやかに、うちふるまひなして、こゝろにくゝ、おくまりたるけはひはちおくれ(奥ゆかしさは劣り)、いまめかしきことをこのみたるわたりにて(珍奇を好む今風の一門だから)、やむごとなき御方々かたがた(今日の宴を)ものたまふとて、この戸ぐちたまへるなるべし」とあるように、時に過剰な香烟こうえんくゆらせることもあった。ただし、この情景に至るまでの筋書きを知らないと、この意味するところを的確に把握するのは難しいので説明しておく。源氏は宮中で開かれた桜の宴を利用し、生涯でもっとも憧れた初恋の人藤壺ふじつぼの中宮ちゅうぐうに会いたいと思い、邸内を徘徊して見つけたのが源氏とは敵対関係にある右大臣の娘ろくみやであり、邸内のほかの女性とは一味違う奥ゆかしさに惹かれて、源氏は扇子を交換し契りを結んでしまう。源氏は六の宮が東宮とうぐう入内じゅだいが決まっていたことを知らなかった。藤の宴が開かれたのは1ヶ月後、招待された源氏は邸内を探し回り、六の宮と思しき姫君を見つけ、几帳越しに手を握ってしまう、これで六の宮の入内は取り消しとなり、源氏にとっても波乱万丈の人生の幕開けとなったという次第である。人間の嗅覚は個人差が激しいから、人によっては“もっと香りを”といって極端に走ることはけっして不自然ではないが、この情景において紫式部が演出しようとしたのは、源氏ファミリーとは敵対する右大臣側を“奥ゆかしさに欠け派手好みの目立ちたがり屋”と暗に揶揄し、それとは対極の性格の娘の六の宮を源氏と一時的に結ばせることで、その両極端を際立たせることであり、実に細かく計算し尽くした心憎い演出といえよう。いわゆる薫物は以上の名香みょうごう衣香いこう空薫物そらたきものの三種に大別されるが、平安時代では単味の香料を燻らすことはまれで、さまざまな香料を調合して造る“合わせ香”が一般的であった。いい換えれば各自の好みに応じて“匂いをデザイン”して自己アピールに利用したも考えられるのだ。一般的な造香のプロセスは、まず好みの香薬原料に甲香こうこうを加え、細末としたのち篩にかけて均一とし、さらに甘葛煎あまづらせんか時に蜂蜜や膠飴こうい(デンプンを発酵で麦芽糖にまで分解したいわゆる水飴のこと)などの蜜を結合剤バインダーとして加え、練り合わせて適当な大きさに丸めたものを練香ねりこうといい、これを薫物に用いる。多くの場合、土の中に一定期間埋めて熟成させる。『薫集類抄』では以上の合香プロセスを次のように分類し、各合香家のノウハウを記載するが、秘伝の部分が多いので、それでもって完全に合香を再現できるわけではない。

和合時節:数は少ないが調合時期にこだわる合香家もいる。たとえば、山田尼やまだのあま(詳細は後述、合香のプロフェッショナルとして紫式部と同時代に活躍した)は「春むめのはなさかり二三月秋蘭菊のかうばしき八九月」と述べ、二〜三月と八〜九月を、合香の種を問わず、適した時期とする。
甘葛あまずら:甘葛煎はナツヅタの茎から出る樹液を煮詰めたもので、合香で繁用され結合剤の標準というべきものである。樹液を煮詰めるので、加熱温度によって粘度が変わってくるから、合香家によってそれぞれ独自のノウハウがある。
甲香こうこう:“へなたり”と呼ばれるウミニナ科アカニシなど巻貝の蓋を火で炮ったもので、生薬学でいう黒焼くろやきに似る。化学的には炭酸カルシウムを主成分とし、いわゆる石灰と変わらないので、貝殻であれば何でもよいように思えるが、わざわざ貝蓋を用いるのは堅く緊密な質が好まれたようだ。ほとんどの合香家は酒に浸すが、海産物特有の臭みを除くためと思われる。ただ一人四条大納言(前述したように、藤原ふじわらの公任きんとうとは別人)は甘葛煎を塗るがやはり目的は同じであろう。
:臼で香薬をつくこと。香薬ごとについて混ぜ合わせることもあれば、予め香薬を混ぜておき、まとめてつくこともあり、各家さまざまである。生薬であれば石製や金属製の薬研やげんという専用の道具があるが、香薬の場合は鉄臼かなうすを用いる(『源氏物語』「梅枝」に出てくる、後述)
ふるニテ:香薬の粉末を篩にかけて粒度をそろえるために行い、荒目の絹の薄衣うすぎぬを用いる。
篩後しご斤定きんてい:篩にかけた香薬末を秤量すること。律令制では24銖を1両、16両を1斤とする。1銖は中程度の大きさのきび100粒の重さと規定された。以上は小斤といい、別に三両を大両として規定された大斤があり、重いものをはかる単位とされた。『延喜式』では湯薬をはかる場合に小斤を用いるが、香薬もこれに準じたと考えてよいだろう。
合篩ごうし:各香薬を搗いて散剤としたものを合わせた後に荒目の絹の薄衣で篩にかけることをいう。
和香わこう次第しだい:香薬を和合する順序など定めで合香家によって異なる。
合和ごうわ:香薬の和合に際しての注意事。心構えを説くこともあれば、香薬を季節によって加減するなど微妙な調整法に関するものもあり、合香家によってさまざまである。
合舂ごうしょう:香薬を臼でつく回数。合香家によってつき数を指定したり、単に「多ければよい」とあいまいな指示もありさまざまであるのは合香が各家で秘伝とされるからであろう。生薬では粗末、中末、細末、微末に分類されるが、通例、中末〜細末とする。香薬では微末にするのが普通(薄衣で篩に掛けるから)だから時に数千回つく必要がある。実際、線香の原料は水車の水力を利用して数日かけて微末ににしている事実がある。後述の『源氏物語』ではご婦人方が鉄臼で香薬をつく情景が出てくるが、このプロセスは労力の負担が大きく、およそ非力な女子には無理である。
メル日数:合香の香薬を地中に埋めるのはどの合香家も実践しているが、日数はさまざまで大方三日〜七日程度、合香の種類によっては三十日の長期にわたる場合もある。公忠きんただの朝臣あそん(源公忠;889−948)の黒方・侍従は、春秋は五日、夏三日、冬は七日と季節によって埋日数を変える。埋める場所も梅・桜・松などの木の下を指定することもある。『源氏物語』の「梅枝」の帖に「右近のぢん御溝みかは水のほとりになずらへて、西のわた殿のしたより出づるみぎはちかくうづませたまへるを、惟光これみつさい相の子の兵衛のじょうりてまゐれり」というように光源氏の調合して埋めた合香を掘り出すシーンがあり、“右近の陣の御溝水のほとり”に植えられている桜の下に埋めるのに倣って云々というから、紫宸殿では合香を桜の下に埋めることがあったことを示唆し興味深い。埋める深さについては一部の合香家は三尺に指定するが、特に言及していなくとも、地中に埋めるといえば大体その程度になるだろう。仮に地下1mとすれば、一年の平均地温は外気の年平均気温より1〜2度高くなるが、湿気はほぼ一定となり、昼夜の日較差はほぼゼロ、年較差も小さくなり、外部気温の影響はかなり小さくなる。すなわち埋日数が1ヶ月以内であれば昼夜も温度は一定となり、夏はひんやり、冬は暖かく感じる。香薬を地中に埋める意義はよくわからないが、短期間ベースで温度・湿度がほぼ一定であることと無関係ではないだろう。

薫集くんじゅう類抄るいしょう』には同書の平安中期〜末期のわが国で流行し、後の香道の源流となった薫物たきもの合わせの六つの基本合香方が列挙され、一般に「六種むくさの薫物」と呼ばれる。

黒方くろぼう 沈四兩 丁子二兩 白檀一分 甲香一兩二分 麝香二分 薫陸一分、已上大
侍從じじゅう 沈四兩 丁子二兩 甲香一兩、已上大 甘松一兩 熟欝金一兩、已上小
梅花ばいか 沈八兩二分 占唐一分三朱 甲香三兩二分 甘松一分 白檀二分三朱 丁子二兩二分 麝香二分 薫陸一分
荷葉かよう 甘松花一分 沈七兩二分 甲香二兩二分 白檀二朱、或本に三朱 熟欝金二分、麝香に代ふ 藿香四朱 丁子二兩二分 安息一分、或は無し
菊花きくか 沈四兩 丁子二兩 甲香一兩二分 薫陸一分 麝香二分 甘松一分
落葉おちば 沈九兩 丁子四兩 甲香一兩二分 麝香二分 香附子三分 薫陸一分 白檀二分二朱、或は二朱 蘓合一兩

 原典では菊花と落葉の配合成分は全く重複し誤写と考えられるので、『類聚るいじゅう雜要抄ぞうようしょう』から補録した。六種の全てに配合されるのは沈香・丁子・甲香である。このうち甲香は本質的に無機物であって合香の基材というべきものであるから、もっとも汎用的な香料は沈香、丁子であり、いずれもわが国どころか中国にすら産出しない高級な香料として知られ、正倉院に所蔵される蘭奢待らんじゃたいは沈香といわれる。六種のうち、侍従と荷葉には熟欝金ジュクウコンという香料が配合される。六種のうちの2種の薫物に配合されるにすぎないが、鎌倉末期〜南北朝時代初期に成立したとされる有職故実書『拾芥抄しゅうがいしょう』の寳貨部第廿六に「五香 沈 丁子 白檀 龍腦 欝金」とあり、熟欝金とは関係浅からぬべき欝金ウコンが、沈香・丁子とともに五香の一つに列せられることは、その香薬としての地位は他品と比べてけっして低くないことを示す。前述の六種の薫物のうちで落葉を除く五方について、『拾芥抄』の薫物方第廿五に「其の方其の香は少し香を入ると雖もおのおの所法有るなり。黒方は麝香薫陸を以て其の香と爲し、侍從方は欝金を以て其の香と爲し、梅花方は丁子甘松を以て其の香と爲し、荷葉方は藿香白檀を以て其の香と爲し、菊花方は甘松薫陸を以て其の香と爲す。甲香は衆香を以て混合の用有るなり。此れもとは大法性寺殿(藤原忠通)真筆本之を冩す。」と記載している。これによって各方で中核となる香薬が規定され、他香をもって代えがたいと考えられていたことがうかがえる。それによれば欝金は侍從方の中核をなす香薬であり、香薬をランクづけしたとしておよそ下位ではないことがこれによっていっそう明らかになると同時に、熟欝金が単に欝金と表記されることからわかるように、時に両名が混同されることも示唆している。したがって考証に際しては最新の注意が求められなければならない。ただし、“熟欝金”という名は仏典や本草書ほかいかなる漢籍にも見当たらないが、香薬の専門書では、後述するように、熟鬱金に加えて⿈鬱金コウウコン⾭鬱金ショウウコンというこれまたわが国特有の香薬名が出てくるので、その基原が何であるか合わせて考証することにする。

3.「梅枝むめがえの帖」の薫物合わせ

 『源氏物語』でもっとも薫物の情景が多出するのは「梅枝むめがえの帖」であり、この帖の冒頭からして香薬談義がふんだんに出てくる。「正月むつき晦日つごもりなれば、おほやけ、わたくし、のどやかなる( 公私とも落ち着いてゆとりのある)ころほひに、薫物たきものあはせさせたまふ」という描写は、光源氏とその愛人明石上との間に生まれた明石あかしの姫君ひめぎみ御裳着おんもぎの儀(男子の元服に対応する儀式で、公家の女子が成人の印として初めて裳を着ることをいう)を当年の二月に行い、ほぼ同時期に東宮の元服の儀が予定されているので、娘の入内を視野に入れて源氏が入念に準備している情景を表す。太政大臣となった源氏にとって、娘の入内は自らの権力基盤をいっそう強固にするためのマヌーバーというべきものであるから、薫物合わせは合香の優劣を競う遊戯という趣味の範疇に留まるようなものではなく、最高の薫物を選抜して娘の御裳着とその先に目論む入内をつつがなく進めるため、自らの権勢を誇示する手段でもあっのだ。“薫物あはせさせ給ふ”とは一見わかりにくい表現であるが、高度の尊敬と使役の二通りの解釈が可能であり、前者だと太政大臣の源氏が自ら薫物の“あはせ(合香)”をなさるという意、後者では誰かに命令して“あはせ(合香)”をさせるという意になってニュアンスはまったく異なってくる。日本古典文學大系本によれば、諸本は“薫物あはせ給ふ”として解釈するというが、これだと単に“薫物を調合なさる”という意にしか取ることができない。したがって、“薫物あはせさせ給ふ”はあいまいな表現のように思えるが、源氏自身が調合したことは、「大臣おとゞは、しん殿にはなれおはしまして、承和しょうわの御いましめのふたつのはふを、いかでか御耳にはつたへ給ひけん、心にしめて(気を引き締めて;本来ならほかの人物がすべきことを太政大臣たる自分が行うのであるから、“ひっそりと、密かに”の意を込める)あはせ給ふ」という描写から明らかであり、太政大臣が自ら合香に汗を流すとあれば、“給ふ”より高い尊敬の意を表す“させ給ふ”の方が相応しいといえる。しかも、源氏自身が引きこもって“承和の帝の御秘伝の二つの調合法”(後述)を行ったことも加味しなければならないから尚更である。また、古渡り・新渡りの香薬をご婦人方に配って調合を依頼し、「所々の(ご婦人方の)御心くしたまへらんにほひどもの、すぐれたらむどもを、(源氏自ら)かぎはせて、瑠璃青磁製の香壺に)とゝのへれむとおぼすなりけり」とある描写から、最高の合香を得んがための源氏の強い意図を読み取ることができる。御裳着の儀の直前の二月十日に薫物合わせが行われ、合香の名前と判定結果は以下のようであった。

⚪︎さい院の御黒方くろばう、さはへども、こゝろにくゝ、しづやかなるにほひ、ことなり
⚪︎侍従じゞゆうは、大臣おとゞ(太政大臣源氏)のをぞ、「すぐれてなまめかしうなつかしきなり」とさだたま
⚪︎たいうへ(紫上)おほんは、三種みくさ(黒方・侍従・梅花)ある中に、梅花ばいくゎは、はなやかに、いまめかしう(今風の)、すこしはやき(少々きつめの匂いの)心しらひ(工夫)へて、めづらしきかをくははれり
⚪︎夏の御かた(花散里)には、人びと女御方の、かう心々こゝろごゞろいどみ給ふなる中に、数々かずかずにしもたちでずや(他の方々から抜き出て目立つことはしないよ)と、けぶりをさへおもえ給へる御心にて(香の煙すら思い沈めてしまわれるような控えめなお気持ちで)、たゞ荷葉かえふ一種ひとくさあはせ給へり。さま変はり(趣が変わって)しめやかなる香して、あはれになつかし。
⚪︎冬の御かた(明石上)にも、時々によれる(時節に合わせて)にほひのさだまれるに、たれんはあいなしと(圧倒されるのは気に入らないと)おぼして、薫衣香くのえかうはふのすぐれたるは、さきの朱雀院の(法)をうつさせ給ひて (伝承なさって)公忠きむたゞの朝臣あそんの、ことにえらびつかうまつれりし、百歩ひゃくぶはうなどおもて、ずなまめかしきを、 (明石上が)とり集あつめたる、心おきて (気配りは)すぐれたりと、(兵部卿宮;源氏の弟で薫物合わせの判者)いづれをも無徳むとくならずさだめ給ふ(どれも取り柄があるように判定なさる)

2で前述したように、梅花ばいか荷葉かよう菊花きくか落葉おちば侍従じじゅう黒方くろぼうの六方を「六種むくさ薫物たきもの」と称し、平安期の薫物合わせで用いられるもっとも標準的な薫物と考えられている。そのうちで『源氏物語』の梅枝むめがえに登場するのは梅花・荷葉・侍従・黒方の四方であり、菊花・落葉は他帖にもでてこない。菊といえば重陽ちょうようの節句を想起し、そして落葉といえば季節の移り変わりで起きる自然界の現象であり、詩文ではいずれも秋〜冬を表す季語である。すなわち名前が秋に由縁のある薫物が『源氏物語』にないのは意外に思えるが、むしろ何らかの理由が背景にあると見るのが自然であろう。鎌倉後期に成立したといわれる『後伏見ごふしみ院宸翰いんしんかん薫物方たきものほう(後伏見天皇)は六種の薫物と季節の相関を次のように記している。梅花を除いてネーミングが季節の情感を表すとは思えないが、平安期の『源氏物語』の成立前後において、この相関が支持されていたかいささか疑問があるものの、『源氏物語』の各注釈書はこれに若干の修正を加え、薫物と季節の取り合わせがあったとする認識は支持されている。

梅花 春  春は梅花、むめの花の香に似たり
荷葉 夏  夏は荷葉、はすの花の香に通へり
侍従 秋  秋風蕭颯たる夕、心にくきおりふしものあはれにて、むかし覚ゆる匂によそへたり
菊花 冬  冬は菊花、きくのはなむら々々うつろふ色、露にかほり水にうつす香にことならず
落葉 秋  秋は落葉、もみぢ散頃ほ(ひ)に出てまねくなるすゝきのよそほひも覚ゆなり
黒方 冬  冬ふかくさえたるにあさからぬ気をふくめるにより

実は『源氏物語』の梅枝むめがえに各季節で旬の薫物が規定されていたことを示唆する記述がある。「冬の御かたにも、に〜」とある記述は、まさしくそれぞれの季節にふさわしい合香方が決められていたことを示唆し、それは原作者紫式部の薫物に対する認識を反映したと考えて間違いあるまい。源氏が主催する薫物合わせは二月十日に行われているから、仲春すなわち春の盛りに当たる時期である。『薫集類抄』にも「梅花の香をなぞらふなり。春にもっとも之を用ふべし。」と注記しているから、梅花方が「春の香」と認識されていたことに疑問の余地は寸分もない。だが、二月十日という時節は現代では梅の花がようやく咲き始める時期であって盛りとは程遠い。これだと六種の薫物のうちで唯一仲春に適合するはずの梅花方ですら、肝心の梅の開花がそんな状況では、二月十日の薫物合わせに物足りなさを感じてしまうだろう。ただし、旧暦と現代の新暦とでは、暦のシステムが根本的に異なるので、季節認識のずれがあることを考慮せずにそう断じるのは性急すぎる。梅枝むめがえの帖では、「二月きさらぎの十日、あめすこしりて、(源氏の)御まへちか紅梅こうばいさかりに、云々」とあって、当日は梅の花が満開だったという情景設定になっているので、まず始めに『源氏物語』の季節設定が妥当なのか検証することから始めよう。『源氏物語』では単に“二月十日”とあるだけで、陰暦の何年であるのか提示していないので、とりあえず作者の紫式部が活躍した長徳元(995)年から寛弘九(1014)年までの二十年間で、“二月十日”という日付に旧暦と新暦との間ではどれほどのずれが生じるのか明らかにする必要がある。国立天文台の日本の暦日データベースによれば、二月二十六日から三月二十六日まで1ヶ月もの大きなずれがあるのに、これまで国文学で言及されたことを聞かない。旧暦では約三年に一度閏月うるうげつを置くので、同じ日付でもこれほどの日月の差が生じてもけっしておかしくはないのである。近年、大気中の温室効果ガスの濃度の上昇で、地球規模の気象の温暖化が進行し、現時点での京都地方における梅の開花の見頃は二月中旬から三月中旬とされている。一方、平安時代とりわけ紫式部が活躍した摂関政治の最盛期は大飢饉がなく感染症が蔓延した時代であったから、今日と大差ない気象環境にあったと考えられ、薫物合わせが行われた梅枝むめがえの“二月きさらぎの十日”は新暦の三月上旬に相当すると推定される。したがって梅の花の最盛期であるから、梅花方を焚くには絶好の時節といえ、紫式部の季節設定は正鵠を射ていることがわかる。そのほかの荷葉・侍従・黒方は梅枝むめがえの焚き物合わせにあっては季節外れになるが、ここで『源氏物語』においてこれら三方の季節が通説の通りに認識されているのか、すなわち紫式部が同じ認識をもっていたのか、物語の背景を精査することにより検証してみる。まず荷葉方は、『薫集類抄』で「はすなぞらふなり。夏月、殊に芬芳を(よい香りを一面に漂わせる)。」と注記されているので、合香専門書では確かに夏の方と認識されたことがわかる。『源氏物語』では鈴虫すずむしの帖の「閼伽あか(仏に手向ける水を入れておく容器)は、れいの、きはやかにちひさくて、あをき、しろき、むらさきはちす調とゝのへて、荷葉かえふはうを合はせたる名がうみちかくしほほろげて(甘葛煎を少な目に配合してばらばらにほぐして)、たきにほはしたる、(百歩の衣香と)ひとつかをりににほひて、いとなつかし」という描写の中で、字義の上ではハスの葉にすぎない荷葉をハスの花(青・白・紫の花)に対比させていることが読み取れる。そもそもこの帖は「夏ごろ、はちすの花のさかりに、入道の姫宮の御持ごぢ佛どもあらはしたまへる、供養くやうぜさせたまふ」というように、わざわざ夏のハスの花の盛りであることを明記しているから、『源氏物語』で荷葉方を“夏の香”と位置付けていることが確認できる。梅枝むめがえの薫物合わせにおいては季節外れであることに変わりはないが、「夏の御かたには、(中略)、ただ荷葉を〜」というくだりの中に、荷葉の製作者名をわざわざ“夏の御かた”とすることで、荷葉方が夏に由縁があるようにきちんと設定されているのは紫式部が薫物と季節との相関に強いこだわりをもっていたことを示唆する。しかし、キャラクターの「夏の御方」の素性を熟知していないとそのように理解するのは難しいが、その名は薫物が頻出する梅枝の帖にあっては、源氏の細君がお造りになった合香という特別の意味をもつ縁語であることに気づけば、紫式部が荷葉方を夏に位置付けられる合香方と認識していたことがいっそう明確となる。梅枝の帖には「夏の御かた」と相対する「冬の御かた」という微妙な意味合いの名も出てくるので、それぞれの名の由来について4-3で改めて述べることとする。次に侍従方は『薫集類抄』で「秋風しうふう蕭颯せうさつとして心にくきをりによそえたるべし」と記載されているが、梅花・荷葉とは違って、侍従という名と“秋という季節”との接点はさっぱり見出し得ない。おそらくこの記述でいう「心にくし」とは“奥ゆかしい”という意ではなく、不安感や不審感などネガティブな意が込められたと解すべきであり、秋風蕭颯云々という記載は侍従という官職に関連した何らかの特別の意味をもつ表現と思われる。侍従は和語で御許人おもとびとというように、律令制では中務省に属し天皇に近侍する官職であったが、810年、蔵人所くろうどどころが新設されると、侍従の職掌の多くは蔵人に吸収されてもっぱら儀式的な存在となり、勅命の伝達、上奏の取次ぎを担う蔵人頭くろうどのとうのみが天皇に近侍し得る身分とされた。すなわち侍従という官職の職務が、かつては従五位という低い官位ながら、天皇の御前に伺候する“まえつぎみ”と実質的に変わらない処遇であったのが、単なる殿上人として実質的に格下げになったのである。かかる処遇の変更は、左遷と同じく、ものさびしさの感をもって当事者には受けとめられたはずで、その結果、「秋風蕭颯云々」と相成ったと推測される。『薫集類抄』に「侍従 亦の名は拾遺補闕」とあるが、『通典つてん』に「補闕・拾遺 武太后武則天ぶそくてん、中国史上唯一の女帝)垂拱すいきょうの中(天下がよく治まっているうちに、のちに武太后は独裁色を強め政治は混乱した)、補闕、拾遺の二官を置き、以て供奉ぐぶ諷諫ふうかん(君主を支え、その治世に問題が生じれば、他の事に喩えてそれとなく諌めること)を掌る。(中略)開元より以來、尤も清選と為し、左右補闕各二人、内供奉ないぐぶなる者(宮中の内道場に奉仕し、毎年御斎会ごさいえが行なわれる時に読師どくしなどの役をつとめ、国家鎮護の任を負った僧)各一人、左右拾遺亦た然り。」(「職官三 宰相」)とあるように、唐制で“君主をたすけてその過失を補う官職を拾遺しゅうい補闕ほけつといい、君主に直接仕える身分だったため、わが国では侍従に相当すると見なされた。拾遺と補闕はそれぞれ役割が異なるが、わが国では侍従に合わせてあたかも一官職のように解釈された。平安貴族に熱く支持された白居易は諫官たる左拾遺だったことがあり、新楽府で政局を批判する詩を発表したことで知られる。白居易はしばしば左遷され挫折を味わっているので、実際の左遷理由は諫言とは無関係であるが、わが国では白居易の処遇から拾遺といえば左遷というイメージを優先して解されたと考えられる。したがって、侍従は「秋の香」になぞらえられるとはいっても、季節の風物とは無関係な観念的視点からつけられた呼称であることに留意しなければならない。『源氏物語』ではもう一ヶ所、初音はつねの帖に“侍従”が登場する。太政大臣の源氏が明石御方のもと(冬の御殿、この名のいわれは4-3で述べる)に通うシーンで、「暮れ方になるほどに、明石あかしの御方に渡りたまふ。(中略)から東京錦とうぎゃうきのことごとしきはしさしたるしとね(唐渡りの錦のように大袈裟な刺繍の縁取りをした敷物の上に)、をかしげなるきんうち置き、わざとめきよしある(格別に心配りしているように見えて風情のある)火桶ひをけに、侍従じじゅうをくゆらかして、物ごとにしめたるに、衣被香えひかう(衣裳に焚きしめる香で匂い袋に用いる)のまがへる(「混じっているのは)、いとえんなり(非常に優美で風情がある)。」と出てくる。この帖では侍従を季節感と関連づけていないように見えるが、舞台が「冬の御殿」であることを鑑みれば、“冬の香”と位置付けられたと考えることが可能だ。というのは侍従が左遷の悲哀と重ね合わせてつけられた名称であるならば、冬とて秋と何ら変わりないからだ。そもそも「冬の御方」という呼称は、薄雲うすぐもの帖の冒頭にある次の描写に由来する。

ゆきあられがちに、(明石御方は)ぼそさまさりて、「あやしくさまざまに(不思議なほど様々に)物思ものおもふべかりける身かな(気苦労しなければならない身の上だことよ)」と、うちなげきて、つねよりもこの君(姫君)でつくろひつゝたり(髪を撫でたり櫛づくろいをしている)。雪、かきくら(雪は空が暗くなるまで)つもあした(明石御方は)かたすゑのこと(これまでとこれからのこと)のこらずおもつゞけて、れい(いつもは)こと端近はしちか(家の中の出入り口の近く)なるなどもせぬを、みぎはこほりなどやりて、しろきぬどもの、なよゝかなる(柔らかくなってしまったものを)、あまたて、ながめゐたる様体やうだいかしらつき(髪の形)うしろ(後ろ姿)など、「限りなき(身分の高貴な)人ときこゆとも、かうこそはおはすらめ(この程度でいらっしゃるのだろう)」と、ひとびと(女房等)る。つるなみだをかきはらひて、(明石御方)「かやうならむ日(このような雪の降る日は)、まして、いかに、おぼつかなからむ(頼りなく寂しいことだろうか)」と、らうたげ(かわいらしげ)にうちなげきて、

 雪深ゆきふかみ 深山みやまみちは れずとも なほふみかよへ あとえずして(雪が深い深山の道は、晴れ間がなく雪が降り続いても、雪の道を踏み通えば足跡が絶えず道がわかるように、別れた後も途絶えることなくお便りをくださいませ)

とのたまへば、乳母めのと、うちきて、

 雪なき 吉野よしのの山を たづねても こゝろのかよふ あとえめやは(たとえ雪の晴れ間がない吉野の山をお尋ねしても、私の心の通っていく足跡は絶えましょうか、いや絶えることはありません)

なぐさむ。

松風まつかぜの帖に“人々(女房等)もかたはらいたがれば(きまり悪がっているので)(明石御方は)しぶしぶにゐざりでて(座ったまま膝で進み出る)(部屋を仕切るつい立て)に、はたかくれたるかたはら目(横顔は)、いみじうなまめいてよしあり(非常に優美な趣があって)、たをやぎたるけはひ(おしとやかな雰囲気があり)親王みこたちとはむにもりぬ(遜色ない)”とあるように、物語では明石御方の出自はけっして悪くないとされ、4-3で後述するように、むしろ高貴の身分の出身であるが、その割に辛酸を舐めざるを得ない立場に置かれ何かと心労の尽きないさまを、冬の寒さの厳しい明石の自然と重ね合わせて、紫式部は明石御方に「冬の御方」の別称をつけたと思われる。ただし、明石御方はそのほかの類名を含めれば21帖に多出するにもかかわらず、「冬の御方」は梅枝の帖だけに登場するのはいかにも意味ありげに見える。また実際の明石の地はむしろ京より気候が温暖であり(千年前とて変わるまい)、物語における明石とは雲泥の差があるのも奇妙である。明石あかしの帖の冒頭は源氏が須磨から明石へ移動したときの情景を描写するが、冒頭から暴風雨と高潮が襲来し、しかも何日も続くとあり、明石は気候の厳しい地と紫式部は位置付けているように見える。おそらく旅行など人の移動が現代よりはるかに少ない平安期にあっては紫式部でも実在の明石の気象状況は知り得なかったと思われる。したがって『源氏物語』にいう明石の地は実在の明石とは切り離して架空の地名として解釈すべきで、紫式部は梅枝むめがえの帖のためにのみ「冬の御方」という名を用意したとすればつじつまが合うだろう。黒方については、『薫集類抄』は「冬、こほる時、深く其の匂有り、寒に封ぜられず」と注記し、自然科学的に真の現象とは思えないから、これも観念的視点から「冬の香」とされたことは想像に難くない。以上の侍従と黒方の二方については別の視点から、また梅花・荷葉の製作者および継承者については後に概述する。最後に、『源氏物語』に登場しない薫物名についても説明しておこう。まず菊花方について、『薫集類抄』は「菊花ににたるにほひにやあらむ」と注記する。そして合香の構成を「沈四兩 丁子二兩 甲香一兩二分 薫陸一分 麝香二分 甘松一分」と記すが、この合わせ香の製作者および継承者の名はなく、単に「誰れ人か知らず」とあるだけで、以下のような説明書を付す。

清慎公云ふ、菊花方は長生ちゃうせい久視きうし(長生きしてしかも視力が落ちないこと)の香なりと。之のかをるを聞く者はおいしりぞけていのちを増す。枇杷の左大臣、習ひて之を傳ふ。亭子院の前栽合せんざいあはせにて、左方は菊花方を用ひ、右方は落葉方を用ふ云云。我は此の方を好みて常用す。但し、麝香一分、之を加進せしむべし。菊花盛んに開き其の香芬馥ふんぷくの時、花を折りて傍らに置き之に和合す。或人云ふ、𦾔ふるくは菊花一兩ばかりを干して之に加ふ云云、水邉の菊の下に之を埋め、二七日ばかり経て 瓷瓶しびんに入れ堅く口を封ず 取り出し、又、七日許り経て之を用ふ。し急用(危急の問題)有れば、此の説を用ひずしてめよ。

合香方の製作者(発明者)は不詳であるが、清慎公や枇杷の左大臣、亭子院ていじいんという錚々たる面々に継承されたことは説明書の中に示されている。ちなみに清慎公せいしんこうは藤原北家小野宮流の摂政・関白を務めた藤原ふじわらの実頼さねよりであり、藤原ふじわらの実資さねすけの養父として知られる。一方、枇杷の左大臣とは藤原ふじわらの仲平なかひらのことで摂政・関白藤原ふじわらの基経もとつねの次男である。亭子院とは宇多法皇で、延喜元(901)年8月25日に前栽合せんざいあわせ(様々な草木を御殿の前庭や壺に植えたものを前栽といい、参加者を左右に分け、それぞれが集めた草木類の優劣を判じ、題を設定して歌を出し合い、風流を競う遊戯)を主催したことが『日本にほん紀略きりゃく』に記載され(前栽合が行われた文献上の初見)、菊花方とともに落葉方を燻らせたという。『薫集類抄』では落葉方と菊花方との合香の組成はまったく同じとなっているが、前述したように、編纂上の誤謬であろう。ただいずれも「誰れ人か知らず」とされ、説明書もなく製作者・継承者ともに不詳であるのみならず、どの季節の香りに当たるのかを示す注記もない。植物の葉が落ち、菊の花が咲く季節は晩秋ないし初冬だからいうまでもないということかもしれない。しかし、以上の二方は『源氏物語』ほか平安の古典文学に言及された例はない。その出自に不明瞭さがあるからかもしれないが、菊花についていえば、中国に由来する風習である重陽ちょうようの節句との結びつきがきわめて強い一方で、わが国では重陽の日に黄色に染めた真綿で菊の花を被い、翌朝に朝露を含んだ綿をとって顔や身体をぬぐえば無病長寿になるという「綿わた」という独特の風習が発生し、和歌にも多く詠まれているとい事実がある。前述の説明書「菊花方は長生久視の香なり」とあり、重陽の節句の大きな影響のもとに創出されたことがうかがえよう。これについては拙著『和漢古典植物名精解』の第23章第1節1-2に詳述してあるので、詳細はそちらに譲るが、紫式部は着せ綿の体験を次のように記している。

(九月)九日、菊の綿を、兵部のおもと(中宮彰子付きの侍女で氏名不詳の紫式部の同僚)のもてきて、これ、殿のうへ(藤原道長の正室源倫子)の、(あなた、すなわち紫式部のために)とりきて(特別扱いということで)(菊の綿で)いとようおいのごて給へと、のたまはせつるとあれば、

 菊の露 わかゆばかりに 袖ぬれて 花のあるじに 千代はゆづらむ

とて返し奉らむとするほどに、あなた(あちら、道長正室倫子の居室“北の対屋たいのや”)にかへりわたらせ給ひぬとあれば、ようなさに(無用になったので)(菊の綿を)とどめつ(『紫式部日記』)

藤原道長の正室みなもとの倫子みちこより菊花の露を含ませた綿を、老いを念入りに拭い去るようにとの伝言とともに、特別なはからいで賜ったが、返歌に戸惑っているうちに倫子が帰ってしまい、菊の綿を返すことができなかったという実話を記した。ついでながら、返歌を通釈すると、菊の露は袖に少し含ませて肌に触れるにとどめ若やいだ気分にひたるほどにして、この花のあるじ(倫子)に菊の綿をお返しして千年の寿命をお譲り申し上げましょうとなり、もらったものを返すというのであれば、菊の綿はそれほど貴重なものと認識されていたことになる。以上、私生活で菊の綿の風習を体験しているにもかかわらず、紫式部は『源氏物語』で重陽の節句に言及するのはわずかにまぼろしの帖に「九月になりて、九日、(源氏は)綿わたおほひたるきくを御らんじて、“もろともに おきゐしきくの 朝露あさつゆも ひとりたもとに かゝる秋かな“」とごく簡潔な描写にとどめている。この帖では、紫の上が逝去して源氏がその悲しみから立ち上がれない状態が続き、一周忌法要を終え、源氏が出家を決断する直前であるから、長寿を祈願する重陽の節句はおよそ情景に合わなかったかもしれない。それは、去年までは紫の上とともに朝に起きて朝露のしみ込んだ菊の綿をとって互いの体に置いて長寿を祈願したのに、今は私一人の袂にかかる涙のようで寂しい秋であることよ、という意の和歌にもっとも端的に表されている。紫式部はかくも長期的視野に立ってストーリーを組み立てた上で敢えて梅枝むめがえの帖で菊花方を登場させなかったのかもしれない。
4.梅枝むめがえの薫物合わせの合香の背後にあるもの
4-1.光源氏の選択したミステリアスな薫物
 薫物合わせの主催者である源氏は各参加者にそれぞれ二種の合香を依頼するが、一方で源氏自身も参加者の一人として何某かの合香を造る義務を負う。主催者であってもコンテストの判者として参加するのはけっしておかしくはないのだが、原作者の紫式部は敢えて源氏にも合香を造らせ、薫物合わせの一参加者とするストーリーの展開を選択したのである。そして単なる薫物造りに留まらず、源氏のために特別に課したトリックが「承和しょうわの御いましめのふたつのはふ」にほかならない。かなりミステリアスなネーミングであり、読者側からすれば謎解きを押し付けられたようにも見える。しかし、それは歴史の一次資料に名を見るれっきとした合香方であって、香薬や有職故実の専門書にも記載されているから、けっして謎めいたものではないが、合香に関する基礎知識がなければまともな解釈は困難である。薫物が身の回りにない現代人のみならず、カルチャーとして大流行した平安期の貴族でさえ、容易ではなかったに違いない。まず合香の専門書たる『薫集類抄』の侍従の条で、閑院かんいんの大臣だいじん賀陽宮かやのみや滋宰相しげのさいしょうに続いて八條宮はちじょうのみやの項に次のような記載があり、承和の方の“謎解きのヒント”はここに隠されているのだ。

A 沈四兩 丁子二兩 甲香一兩 甘松一分二朱
B 沈四兩 丁子二兩 甲香一兩 已上大 甘松一兩 熟欝金一兩 已上小
一説に麝香を入れ、一説に黄欝金を入れ、或は占唐小一分を加え合して六種なりと。而れども此れもと之無し。蜜に和しくこと三千ばか(杵にて搗くこと三千回の意)。此の二方は男に傳へず、是れ承和じょうわ仰事おほせごとなり。延喜六年二月三日典侍ないしのすけ滋野しげのの直子なほいこ朝臣あそんたてまつる所なり。(『薫集類抄』上)

ここに“承和じょうわ仰事おおせごと”としてA、Bの二方は“男子には伝えない”という注記があり、表現にニュアンスの微妙な違いはあるが、これこそ物語にいう「承和の御戒めの二法」に相当すると考えられる。一方、『薫集類抄』よりやや早く成立した有職故実書『類聚雜要抄』には、「此の方は承和秘方に同じ」という注記をつけられた坎方かんほうほか六方が以下のように記載され、同じ“承和”の名が出てくるとはいえ、両書には大きな記述の相違がある。ちなみに「𣴎」は「承」の異体字であるが、ここでは原典の表記にしたがっている。

黒方一劑 實の名は薫衣香云々。沉四両 丁子二両 甲香一両二分 薫陸一分 白檀一分 麝香二分 已上大目八両二分
(略)
くろ 沉大四両 丁子大二両 白檀大一分 甲大一両 或る本は二分を加へしむ。古説なり 麝香大二分 薫陸大一分 已上大目八両 小廿四両
坎方 沉大四両 丁子大二両 麝香大二分 甲大一両二分 白檀大一両 薫陸大一分 已上大目九両一分、小廿七両三分 此の方は𣴎和秘方に同じ
(略)
侍従 沉大四両一分 或二分 丁子大二両二分 甲香大二両 甘松小一両 熟欝金小一両
右の二方は是れ八条大将の家方なり。彼の大将 大納言保忠是れなり。父時平大臣、母本康親王の女なり 。故八条式部卿親王の孫なり。然れば則ち傳来方は𣴎和方に同じなるべし。而れども相誤有るに甚しく之を疑ふべし。
拾遺 沉大四両 丁子大二両 甲大一両 甘松小一両 熟欝小一両 占唐小一分
今尋ぬ。一説に麝香を入れ、一説に黄欝金を用ふと。或本は占唐十之。又云ふ、若し欝金くば、其の代はりに麝香小二分加へよと。或は又、占唐小三分を之に加ふ。或る口傳に云ふ、蜜に和して研り合はせ搗くこと三千杵、甲香を炮り蜜に和して之を塗れと。黒黄合はせるに黒を過ぐるを得ず。此れ両種方は男に傳へず。是れ𣴎和の仰事なり。延喜六年二月二日或は六月三日、故典侍滋野子朝臣、獻る㪽の方なり。 或は宜子是れなり。公忠朝臣の女なり。
補闕方 沉大四両 丁子二両 甲大一両 欝大一分 甘松大一両
(略)
右の六方、是れ藏人㪽の小舎人大和常生の秘方なり。件の常生、延喜(原文は“木”)の聖代に公忠朝臣と同時相並に合香の役を奉れり。(『類聚雜要抄』巻第四)

ここにある“黒方一劑”は『薫集類抄』上で、薫衣香くぬえこうの直前、坎方かんほうの直後に置かれた“承和秘方”と配合の組成ならびに分量がまったく同じであり、また「坎方 或は黒方と注す」とあるように、黒方とは密接な関連を示唆する注記がつけられている。一方、『類聚雜要抄』でも坎方は“承和秘方に同じ”という注記をつけられ、『薫集類抄』で独立の合香として条出された“承和秘方”とは、香薬の組成は同じであるが、白檀の分量が一から一となっているところだけが異なる。六剤のうちの一剤、しかも分量の単位の違いにすぎないから、編纂あるいは書写の過程における軽微なミスに基づく誤謬と考えてよいだろう。烏方は『薫集類抄』では「或烏方」とあり、閑院大臣ほか各家の調合の組成およびそれぞれの分量はごく一部を除いて同じである。以上から二つあるという“承和秘方”の一つは黒方一名烏方一名坎方としてよいだろう。『薫集類抄』で滋野直子朝臣が献上し、承和の仰事として男子不伝とされた八條宮の二方(AとB)のいずれも黒方に該当せず、同書では侍従方の又方という位置付けで収録される。同条の追記によれば、“或は占唐を加へ、六種に合す”とあるから、AとBのいずれも五種の香薬から構成されることを示す。したがってAは侍従方のネイティブの構成成分であるべき熟欝金一種を欠き、“一説に麝香を入る”とは、大和おおやまとの常生つねなりの侍従方に「欝金二分、若し無くば麝香を以てこれに代ふ」とある注記に準じて考えればよいだろう。したがってA、Bの違いは分量のみが異なる軽微なバリエーションであり、分類学における基本種と品種あるいは変種の違いに例えられ、広義の侍従方と考えられる。以上から“承和秘方”は黒方および侍従となり、光源氏が造る合香もこの二種であることが明らかになる。しかし、“黒方一劑”から“補闕方”までの六方が大和おおやまとの常生つねなりという人物の“秘方”とされていること、そして拾遺しゅうい補闕ほけつ方という『薫集類抄』では合香の組成が提示されておらず、ただ一ヶ所の注記だけに出てくる合香名について、有効な解明をしなければ画竜点睛を欠く。まず『類聚雜要抄』ではA(侍従)に「占唐小一分」を加えた方を拾遺と称し、侍従に対して「承和方に同じ、而れども相誤有るに甚しく之を疑ふべし」とあるところが異なる。また、「唐史拾遺は本朝の侍従なり。すなはち名を取るか(原文は“㪽方歟”、早稲田大学所蔵流布本から補録)。」とあり、異称とも受け取れる一方で、別条では「侍従 拾遺 補闕方 皆一名のみ」とあって、これだと同方異名と受け取れる。『薫集類抄』における滋宰相の侍従方で「或は占唐大一分を加ふ」という追記があり、前述した八條宮の方でも同じような追記があり、『薫集類抄』では「侍従 亦の名は拾遺補闕」とあるから、侍従・拾遺・補闕は同方異名と解釈するのがよいだろう。ちなみに拾遺補闕の意味するところは前項「2.『源氏物語』に登場する薫物」で詳述してあるから、ここで烏方・坎方についてもその字義を考えてみよう。カラスは全身が黒一色であるから、烏方と黒方は字義で相通じることは容易に理解できる。『類聚雜要抄』では「黒方 烏方 坎方 崑崙コンロン 皆是れ一名なり」とあって崑崙方なる新名が出てくる。追記に「或は云ふ、崑崙の仙人傳ふるところと。すなはち曰く、崑崙方、後人之を図して通音して之と稱す云々」とあり、「黒方」の真の語源は「崑崙方」にあり、「こんろん→くんろん→くろ」と訛って発生した名という。一方、坎方については『設文解字』に「坎 陷なり、險なり。又、穴なり。」とあるから、易の六十四卦の一つの習坎しゅうかんに関連があるかと思われるが、これでも薫物の方名として今一つしっくりせず、「烏」のように黒との関連はまったく見出し得ない。最後に、大和常生については『薫集類抄』上で梅花方の製作者として名を見るが、「延喜の御時、御蔵みくらの小舎人こどねり(蔵人所の下級職員)なり」という出自を表す注記が見えるが、生没年などは不明である。ただし、前述の『類聚雜要抄』の黒方一剤〜補闕方の右の六方の件で「延喜の聖代せいたいに公忠朝臣と同時相とも合香がうかうの役を奉れり」とあるので、公忠きんただ朝臣あそんすなわちみなもとの公忠きんただと同時代の人で、公忠とともに延喜の聖代すなわち醍醐天皇の治世で「合香の役」を務めた人物である。公忠は合香製造者として『薫集類抄』に収録される薫物のほとんどに名を連ねる香薬界の著名人big nameであり、また三十六歌仙の一人として滋野しげの井弁いのべんと号する歌人でもある。一方、常生は梅花方のほかに名が載る合香はなく、わずかに舂香しょうこうの項に名が挙げられるにすぎない。それに公忠は受領ずりょう(国司)クラスよりやや上の従四位下右大弁まで上り詰めたが、常生は蔵人所の小舎人こどねりに留まり、両名の官位に大きな差がある。ここで気になるのは『類聚雜要抄』で「黒方一劑〜補闕方の六方」が常生の秘方と記載され、そのうち“承和の仰事”という侍従・拾遺の二方は『薫集類抄』と『類聚雜要抄』のいずれでも典侍滋野直子が献上した男子に伝えない“御戒めの法”とされ、その記載に少なからぬ矛盾が認められることだ。延喜の聖代にともに「合香の役」を務めたとはいえ、身分的に対等ではなかったはずだからだ。また『薫集類抄』上の梅花方の製作者として挙げられる右大弁公忠(源公忠、従四位下・右大弁に任ぜられたゆえにかくいう)の注記に「母は滋野直子なり」とあり、滋野しげのの直子なおいこは常生より一世代上の人物で、しかも滋野直子は典侍として正四位下に任じられているので、常生よりはるかに格上である。『薫集類抄』でも典侍直子朝臣の名で公忠朝臣とともに炮甲香におけるノウハウ(口訣)を載せ、合香の実務においても常生に劣らないキャリアをもつ。したがって件の“右の六方”には滋野直子の献じた侍従が“男子不伝の方”として含まれているから、大和常生の秘方とするのは論理的にも矛盾する。一方、“禁制”のはずの合香(侍従、黒方も含む)を継承しているのは、圧倒的に男子であるから、有名無実と化していることも事実である。“男子禁制”とされたのは事実としても滋野直子の世代のごく短期間の限定だったかもしれない。
4-2.斎院と紫の上の造った薫物
 斎院いつきのみやとは上賀茂神社・下鴨神社の祭祀に奉仕する未婚の皇女で、通例、音読みして「さいいん」と呼ぶ。宮中で二年間の潔斎けっさい(物忌み、酒肉の飲食その他の行為を慎み、沐浴などで心身を清めて神事・仏事に臨むこと)の後、平安京の北の紫野に置かれた斎院御所に居住した。紫式部の世代では村上天皇の第10皇女選子のぶこ内親王が務め、在任期間は歴代最長の56年に及び、大斎院おおさいいんと称された。『紫式部日記』にも「をかしき夕月夜(夕月のある日暮れ)、ゆゑ(趣)ある有明(有明の月のある暁)、花のたより(花見に便利な所)時鳥ほととぎすのたづねどころ(ホトトギスの鳴く声の聞ける所)まゐりたれば、院はいと御心のゆゑおはして(非常に豊かな情趣の心をお持ちで)、所のさまはいと世はなれ(俗間から離れて)かんさびたり(神々しい)。またまぎるることもなし(俗事にあくせくすることがない)。」とあり、大斎院との実際の交流を通してその人柄を評価する部分がある。『源氏物語』で登場する朝顔あさがおきみは桐壺帝の弟・桃園式部卿宮の姫君で、源氏の従姉妹に当たり、出自は高い。若いころの源氏が恋焦がれた女君の一人で、一時期は朝顔自身も源氏に好意を寄せていた。梅枝むめがえでも、蛍兵部ほたるひょうぶ卿宮きょうのみやが花の残る梅枝に結びつけた手紙を朝顔から託されて源氏に届けた折に、「宮、(源氏と朝顔の関係を)こしめすこともあれば、 ”いかなる御消息せうそこのすゝみまゐれるにか”(どのようなお便りを朝顔が源氏に差し出されたのか)とて、をかしうおぼしたれば、云々」なる描写は、蛍兵部ほたるひょうぶ卿宮きょうのみやは異母兄である源氏の女性関係に並々ならぬ関心を示唆し、男女間のつまらないゴシップについ無意識のうちに引き込まれてしまう現代人的好奇心にも通じて興味深い。結局、朝顔の方から源氏を遠ざけてそのまま独身を通して斎院となり、最後は出家して物語の表舞台から退場することになる(出家は若菜わかな下の帖で梅枝むめがえの帖の後だから、帖中に「前のさい院より」とあるのは矛盾する)ので、蛍兵部ほたるひょうぶ卿宮きょうのみやが関心を示したのは朝顔に還俗の噂があるのを聞き、あわよくば朝顔をという魂胆があるのかもしれないが、物語ではそのような動きはついになかった。さて、物語には朝顔が造った薫物は黒方とあるが、「はいへど、こゝろにくく、しづやかなるにほひ、ことなり」とある“はいへど”とは手紙に記された「花のは りにし枝に とまらねど うつうつらむ袖に あさまめや」(梅の花の香は散ってしまった枝には残りませんが、それとは違って、私の調合した薫物の香は、それを焚き染めた人の袖に移れば浅く染み込むでしょうか、いや深く染み込むことでしょう)という歌を受けたもので、朝顔が造ったもう一つの合香は、4-4で後述するように、梅を彫りつけた白瑠璃の香壺に入れているから、梅花方と考えてほぼ間違いあるまい。
 一方、紫の上は光源氏に次ぐ『源氏物語』のヒロインとしてもっとも重要なキャラクターの一人であり、紫式部はあらゆる面で理想的な女性として描写している。ただし、梅枝むめがえではほかの帖とは少々趣が異なり、これについては別に改めて述べる。紫の上は藤壺中宮の兄の兵部卿宮、母は藤壺の姪で按察使大納言の娘であるが、母は正室ではなく庶流という設定となっている。高貴の出自とはいえ、その生い立ちはけっして順風満帆ではなく、生まれてすぐ母は亡くなり、父親の正室の圧力もあって兵部卿宮のもとを離れ、母方の祖母である北山の尼君に育てられた。病気療養のため北山にきた源氏はたまたま紫の上に遭遇し、源氏が幼い頃から憧れた藤壺中宮と生き写しで才色兼備の紫の上に一目惚れする。祖母の死後、まだ幼い紫の上(若紫と称された)を引き取り、周囲には知らせずに理想の女性に育てようと務める。源氏の正室葵の上が没すると同床の関係をもつも、正式の婚姻には至らなかったが、今日の事実婚に近い形で周囲から認知される。子供には恵まれなかったが、明石あかしの姫君ひめぎみを養女とし梅枝むめがえの帖では東宮に入内させるまでに至る。さて、次に示すような紫の上の合香に対する心構えからは、ほかの帖とはかなり異なる紫の上のイメージが見えてくる。

うへ(紫の上)は、(六条院の)ひむがしたいなか放出はなちいでに、御しつらひ(几帳を立て)ことに深くしなさせたまひて(特別に奥深いところに座を設けなさって)、八条の式部卿の御はふつたへて、(源氏と)かたみに、いどみはせ給ふほど、(紫の上は)いみじうしたまへば、(源氏)にほひのふかあささも、勝負かちまけさだめあるべし(匂いの深い浅いも勝負の判定とすべきだ)」と大臣おとゞ(源氏、この時太政大臣だった)、の給ふ。人の御おやげなき御あらそひ心なり(人の親らしさのない競争心でいらっしゃる)

この描写を読む限りでは、薫物合わせでは源氏も紫の上も互いにライバル心を露わにして張り合っているとしか思えない。しかも源氏は一人寝殿にこもり、紫の上は東の対(六条院における紫の上の居所、寝殿の東側の対屋で寝殿へは渡殿を通る)の中央の放出はなちいで(庇の間を几帳類で区切った臨時の部屋)という特別に奥深い座を設けて、それぞれが秘密裏に調合するというのである。源氏に至ってはその競争心たるや夕霧・明石あかしの姫君ひめぎみという子を持つ親とは思えないほどと描かれている。そんな中にあって紫の上は八条の式部卿すなわち仁明天皇の第五皇子の本康親王という歴史上の合香の第一人者の梅花方を調合したことになっている。『薫集類抄』では八條宮(本康親王の号名)の方として収録され、組成は「沈八両二分 詹唐一分三朱 甲香三両二分 甘松一分 白檀二分三朱 丁子二両三分 麝香二分 薫陸一分」となっており、黒方や侍従などと比べるとかなり重厚長大な合香である。ただし、紫の上が源氏の依頼に応じてもう一種の薫物を調合したかは物語の上ではまったく見えてこない。花散里(夏の御方)はただ一種のみ調合したとあるから、紫の上もそれに追随した可能性もあるかもしれない。あるいは斎院が六条院での薫物合わせに部外者として特別参加している状況に鑑みて、紫式部は黒方の調合を暗示したのかもしれない。とすれば、斎院と紫の上は同じ練香をもって薫物合わせに臨んだことになるので、それが紫式部の計算のうちかもしれない。
4-3.夏の御方・冬の御方の造った薫物
 まず、夏の御方・冬の御方の「夏」「冬」の意味を説明しなければなるまい。紫式部は物語の舞台として六条院という四つの町を含む架空の邸宅街を設定した。四町の配置については、乙女おとめの帖の「八月にぞ、六条院つくりはてゝ、わたり給ふ(お引越しなさる)未申ひつじさるまちは、(秋好)中宮の御ふる宮なれば、(中宮は)やがておはしますべし。辰巳たつみは、殿(源氏)のおはすべきまちなり。丑寅うしとらは、ひんがしの院にみ給ふたいの御方(花散里)戊亥いぬゐまちは、明石あかしの御方」と、(源氏は)おぼしおきてさせ給へり(お思いになっておられた)」という描写からうかがえ、また“東の院に住み給ふ対の御方”は丑寅の町に、“明石の御方”は戊亥の町に住むなどと、源氏の周辺の主たる女君の居所も指定される。ちなみに“東の院に住み給ふ対の御方”が花散里であることは、松風まつかぜの帖に見え、「ひむがしの院つくりたてゝ、花散里ちるさとと聞こえし(方を)うつろはし給ふ。西にしたいわた殿などかけて、政所まんどころ家司けいしなど、あるべきさまに、しかせたまふ。」という描写によって、源氏が二条東の院の完成後に花散里を西の対に住まわせたことに由来する名であることがわかる。丑寅の町は「北のひんがしは、すゞしげなるいづみありて、なつかげ(木陰)によれり(準じて造ってある)前近まへちか前栽せんざい(に)くれ(を植えて)したすゞしかるべく(涼しく下風が吹き通るようにして)木高こだかもりやうやうなる木ども木深こぶかくおもしろく、山ざとめきて(山里のようで)の花くべき垣根かきねことさらにしわたして、昔おぼゆる花たちばな撫子なでしこ薔薇さうび、くたに(『大和本草』巻六に「龍膽 倭名リンダウ一名クタニ」にしたがいリンドウとする。『本草和名』に龍膽の和名で一名尒加柰にがなとあり、これを苦膽として音読みしたと考えられる。)などやうの花、草々くさぐさゑて、春秋の木草(を)、(そ)の中にうちぜたり。」と描写されているので、これをもって“夏の町”と称され、ここに居住する花散里が“夏の御方”と呼ばれる由縁である。一方、戊亥の町は「西にしまちは、北面きたおもてけて(北面を築地で分けて)御蔵町みくらまちなり(蔵を建てて造った町である)へだてのかきに、からたけ(中国より渡来した唐竹、あるいは幹竹すなわちマダケないしハチクかという)ゑて、まつの木しげく、雪をもてあそばん便たよりによせたり(雪を鑑賞する便を図ってあった)。冬のはじめのあさ霜、むすぶべき菊のまがき(降りるはずの菊の籬)、われはかほなる(これ見よがしの)柞原はゝそばら、をさをさ(ほとんど)らぬ山木どもの、木深こぶかきなどを、うつゑたり」とあるように、冬の趣をもつようにしつえられているので“冬の町”という。したがって、明石の御方は“冬の御方”と称される。
 花散里は、源氏の父桐壺帝の妻の一人麗景殿女御の妹“さんみや”であり、花散里はなちるさとの帖で源氏の恋人として初登場したゆえ、帖名で呼ばれるようになった。玉鬘たまかずら梅枝むめがえ藤裏葉ふじのうらは若菜わかな下・まぼろしでは「夏の御方」、一方、玉鬘たまかずらほたる野分のわきでは「東の御方」の名で登場し、居所を表す名もあるので注意を要する。源氏の妻としてむらさきうえに次ぐ重要なキャラクターであり、出自の高さゆえに“御方”と称されるが、若菜わかな下に「夏の御方は、(紫の上が)かくとりどりなる御むまごあつかひをうらやみて(このように自分の子でないいろいろな孫君の世話をなさるのを羨ましく思い)、大将の君(夕霧)の、内侍のすけばら(藤典侍の腹)の君(三君と次郎)を、せちに迎えてぞ(懇願して迎え)、かしづき給ふ(世話をなさる)」とあることから、源氏との間に子はいない。さて、夏の御方は、物語で人々が思い思いに競争している中で、人並みにいろいろと表立つことはしたくないというような、薫物なのに煙すら出すまいというような消極的で控えめな性格のキャラクターとして描かれ、その結果、ただ一種荷葉方だけを調合したことは前述した通りである。
 一方、明石上は明石に下向した源氏の不遇の時代にあって愛人となり、一般には明石あかしの御方おんかたの名で知られ、ほかに明石上・明石方・明石君など物語ではさまざまな名で呼ばれる。紫の上、花散里に次ぐ源氏の第三の妻となり、のちの明石あかしの中宮ちゅうぐうとなる娘(源氏にとって唯一の娘)明石あかしの姫君ひめぎみを産んだ。父親は源氏の母桐壺更衣の従兄弟にあたる明石あかしの入道にゅうどう、母は中務宮の孫明石あかしの尼君あまぎみであり、その高貴の血筋のゆえに“御かた”の名で呼ばれる。「冬の御方」すなわち明石上が調合したのは何であるか物語中には明確に示唆されていない。ただし、季節ごとに合わせ香が決まっているので、型通りに冬の合香をして圧倒されるのはつまらないという明石上の文言から、冬の合わせ香なるものがあり、ほかにもそれを調合する人物がいたことを暗示する。結果的にはそれは前述したように源氏と斎院であり(後述するように、おそらく紫の上もまた調合していたと推測される)、ともに黒方を造っている。そこで薫衣香くぬえこうという、いかにも明石上が調合したかのようにあいまいな描写でもって、そもそも薫衣香なるものは衣服を薫きしめることに特化した薫物合わせの出し物として場所違いな薫物を登場させるのである。六種の薫物とは違って特定の季節に帰する合わせ香ではないが、梅枝むめがえの帖だけに「冬の御方」という名を登場させ、明石上には読者の目の触れないところで冬の合香を造らせるというトリックを紫式部は策定したと考えられる。したがって、“前の朱雀院の方”(実在の朱雀院の方;物語で登場する朱雀院と区別するため“前の”を付した)を後の帝がお引き継ぎになって、公忠朝臣が格別に選んで調合して奉じた百歩の方などを思いついて世に比類なき上品な香を調合するという筋書きにおいて、“前の朱雀院の法”と“百歩の方百歩ひゃくぶ薫衣香くぬえこう”がトリックを解く鍵となるのである。しかし、「前の朱雀院」とは誰を指すのか、物語に登場する源氏の兄の朱雀帝との関係の有無という問題点が浮上して新たに読者を狼狽させることになり、この辺りは各注釈書でも見解が分かれるところである。まず朱雀院とは、平安京の右京、三条と四条の間にあって朱雀大路に面した邸宅のことで、天皇が退位後に居所とした場合にその名を号することがある。ただし、実際に後院として利用した天皇は限られ、よく知られるのは宇多天皇(在位:887年~897年)と朱雀天皇(在位:930年~946年)であるが、『日本紀略』によれば、公忠朝臣すなわち源公忠が仕え信望を得たのは醍醐・朱雀天皇であるから、宇多天皇とは時代が隔たりすぎ、必然的に朱雀天皇となる。宇多天皇が直接薫物の合香に関わっていたとする資料は見当たらないが、朱雀天皇であれば合香の専門書『薫集類抄』に朱雀院の名をもつ合香が二種載っており、有力な論拠となり得る。

朱雀院 東三条院之を用ふ
(侍従)沉四兩 丁子二兩 甲香一兩 甘松一分三朱  一分三朱 已上小
右の方、天暦の御時おほんときより傳へしめ給ふ所なり。煎蜜甘葛煎あまづらせんを取りすこき以てふるふ。占唐に蜜を入れ、且つ煎じ且つ攪ぜ、撥合の後、もろもろかうを入れ、さじを以て調ととのへ和す。先ず目笇もくさん(目算;目分量)を以て搗き香の程を計り、占唐の蜜を調へれば蜜の程はかうより多く、少なければもっとも拙と爲す。以て能く均しく成し、巧合こうがう(いい具合の調合)と爲せばをはる。搗くこと三千六百杵、をはれば取り出してぐゎんす。斤量せきりゃうの後、瓷壺じこに入れ水邉みづべ陽氣やうきを得る地に埋めよ。
(黒方)沉四兩二分 薫陸一分 白檀一分 丁子二兩 甲香一分 麝香一分四朱 已上小

侍従方に「天暦の御時より傳へしめ給ふ」とある説明書きは朱雀天皇の後任の村上天皇から伝えさせたことを示し、朱雀天皇の時代に作られたこの合香が村上天皇以降に引き継がれたと解釈できる。したがって合香との関わりが見えない宇多天皇を朱雀院と考えて解釈するのは、敢えて誤りとはいわないが、考えにくいことがこれでわかるだろう。物語りの中に盛り込まれた史実を殊更に強調して解釈するのはいっこうに構わないが、それによって物語の解釈にバイアスが生じるとなれば話は別である。物語の“朱雀院の帝”と実在の朱雀院は、同じ朱雀の名が共通するので、実に紛らわしいのであるが、前者は朱雀院を居所とする帝の意であって“帝の名前”そのものではあるまい。現実世界では存命中の天皇は名前で呼ばれることはなく、例えば昭和の時代にあっては昭和天皇ではなく、今上天皇もしくは単に天皇と呼ばれたはずだ。ただし、いったん歴史上の人物になれば何らかの名前で呼ぶしかないので、歴史上の人物である朱雀院のように諡号しごうをつけることになる。古くは天皇と退位した上皇、さらに出家すればまた別の諡号がつけられるから紛らわしくなってしまうのである。史実をあいまいにあるいは中途半端に解釈すれば、統計学の交絡因子のように作用してストーリーの解釈を撹乱、曲解させるゆえに、その結果として研究者を余計に悩ませることになる。実在の朱雀天皇(この時は上皇だが)は、『扶桑ふそう略記りゃくき皇円こうえん;1094年)に「太上天皇 朱雀院 落餝入道、一に云ふ、六年三月出家、佛陀寺に御すと」(巻第廿五「天暦三年己酉三月十四日」)、『醍醐寺だいごじ雑事記ぞうじき』に「李部りぶ王記わうき云ふ、〜(天暦六年)四月十五日夜、太上天皇、仁和本院に還御す。康子内親王の御願なり」(『群書類從』第二十五輯 雑部所収)とあり、以上をもって実在の朱雀天皇が天暦六年(952)年三月に出家、四月に仁和寺に遷御したという歴史的事実を見ることができる。実はこの史実は『源氏物語』の若菜わかな上に「(朱雀院は)西山なる御寺造てらつくりはてゝ、(女三宮を)移ろはせ給はむほどの御いそぎ(準備)を、せさせ給ふにへて(なさるに加えて)、云々」とある情景描写によく似ているのだ。実際、西山を仁和寺と断じる見解すらあり、史実が交絡因子として作用した典型的な例といえ、紫式部の意図というわけではなく無意識の結果と考えるべきだろう。当該の件において重要なことは、明石上がどんな薫物を造ったのかということであって、それをさておいて史実と情景描写の類似性を追求し過剰評価するのは本末転倒というべきである。“前の朱雀院”を宇多天皇とすれば御製の薫物は合香の専門書ですら記載がなく、何故に“前の朱雀院の(法)をうつさせ給ひて、公忠朝臣の、云々”と描く必要があるのか説明が困難になってしまう。“前の朱雀院”はすなわち実在の朱雀院(朱雀上皇)であり、その合香方を村上天皇が引き継ぎ、同天皇の信望の厚かった源公忠が格別に選んで、(合香に)お仕え申し上げ、(その過程で)百歩の法など思いついて、冬の御方は合香に臨んだというのがもっとも無難で現実的な解釈ではなかろうか。ちなみに『薫集類抄』の目次では単に百歩香とあるので、承和じょうわ百歩香ひゃくぶこうと考えがちであるが、「此の方は四条大納言家より出づ。大江千古の上る所のみ。」とある注記によって本件とは無関係であることが知られる。ちなみに、前述したように、ここにいう“四条大納言”とは源定であって藤原公任ではない。“百歩の法”とは、特定の合香を名指ししたわけではなく、単に香りが遠くまで匂う名香みょうごうはみなそう呼ばれてきたにすぎないのである。『薫集類抄』に載る公忠朝臣の合香は以下の4方である。

荷葉
公忠朝臣 天暦六年二月廿一日甲午之をたてまつ
甘松花一分 沉七两二分 甲香二两二分 白檀二朱 或本三朱 熟欝金二分 代麝香 藿香四朱 丁子二两二分 安息一分 或は無し
甘松三朱 沉三两二朱 甲香一两一分 白檀一朱 或る本無し 熟欝金一分 藿香二朱 丁子一两一分
侍從
公忠朝臣
沉六两 丁子三两 甲香一两二分 甘松二分 熟欝金二分 占唐三朱 皆小
黒方
公忠朝臣
沈四两 丁子二两 少軽 甲香二分 少軽 薫陸一分 少軽 白檀一分 少軽 麝香二分
上品の香等、頗る軽きを用意すべし。例の若く香は两数の如し。
薫衣香 一名躰身香
公忠朝臣
沈三两 丁子五两 欝金二两 甘松二两 白檀二两 香附子一两 麝香一两 或は藿香一两
く合(し)て絹袋に入(れ)て透間すきま無きはこ(の)中に置(き)て其上を又裹(み)て能くあたたかにして酒作るかめのうへに置てにほはせよ

およそ明解とは程遠い当該の描写の記述(既出)を、すでにここで取捨選択してきた論考要素を因果推論によって読み解いてゆくと、冬の御方が調合した合香としては以上の公忠朝臣の四方のいずれかとなろう。このうちでまず季節との結びつきが見えない薫衣香が排除される。次に黒方、荷葉と侍従のいずれかとなるが、黒方の「上品の香等、頗る軽きを用意すべし」とある追記こそ、“百歩の法など、思いえて、世に似ずなまめかしきを、とり集めたる”ことを示唆し、また冬の御方と名の通ずることもこの方を選択する十分な論拠となり得る。
4-4.梅枝の薫物合わせの総括-紫式部の意図
 ここで改めて二月十日に薫物合わせを行うに至った経緯を振り返ってみよう。薫物合わせとは各人が調合した練香ねりこうを持ち寄り焚いて、判者がその香の優劣を判定する宮廷遊戯であり、通例、参加者は思い思いの装束を着て臨席するのが通例である。しかし、梅枝の薫物合わせは、もともと行事としてきちんと計画されたものではなく、主催者の光源氏がふとした思いつきで行うに至ったこと、参加者は源氏および近しい関係にある女性に限られている点でかなり趣を異にする。この“薫物合わせの舞台”において表向きの参加者は源氏と判者を依頼された蛍兵部ほたるひょうぶ卿宮きょうのみやのみであり、源氏から依頼されて練香を造った御方々は実質的には舞台裏behind the sceneで参加するというきわめて異例の薫物合わせであり、厳密には遊戯といえないものであることに留意する必要がある。その発端はある年の正月末に始まり、その時の源氏の脳裏には一人娘明石あかしの姫君ひめぎみの東宮への入内じゅだいを視野に入れた御裳着おんもぎの儀しかなかったが、公私ともに時間的余裕のあった時期だったこともあり、入内においていずれ必要となる薫物の調合を始めた(『後二条ごにじょう師通記もろみちき』寛治五年十月廿五日の篤子あつこ内親王の入内装束次第に「香壺筥一雙 一合納壺四口、各納侍從・黒方・荷葉・梅花」とあり、練香は入内に際し持参品として必需品だったという歴史的事実がある)太宰だざいの大弐だいにから献上された今渡いまわたりの香木を見ているうちに、香木に限らず、今の衣料や調度品などは昔のものと比べて劣っているのではと思い、二条院から取り寄せた各種の唐物を見るにつけ、その感は増幅するばかりだった。その中のあるものは女房たちに下賜し、その過程で古渡こわた今渡いまわたの香木を取り揃えて御方々(紫の上ほか六条院に住む源氏の妻と院外の斎院)に配布し、まったくの思いつきというのだろうか、二種類の練香を造るよう依頼する。なぜか六条院の居住者ではないかつて源氏が恋焦がれた斎院(朝顔の君)にも依頼することになる。薫物の調合は伝承する各家の秘伝だったから、源氏ほか紫の上までが調合をひた隠しにし、競争心を露わにして調合に熱中した。二月十日になって斎院の使者が源氏から依頼された斎院の二種の薫物を届けにきた。明石あかしの姫君ひめぎみの御裳着の支度で多忙の源氏をお見舞いするという名目で六条院を訪れた蛍兵部ほたるひょうぶ卿宮きょうのみやは、源氏がひそかに練香の依頼をしたと悟り、源氏が背後で未だに斎院と通じているのではとあやしんだ。斎院の二種の薫物は、それぞれ五葉松ゴヨウマツの枝を彫りつけた紺瑠璃こんるり香壺こうごと梅を彫りつけた白瑠璃はくるりの香壺に入れてあり、さらに沈香ジンコウ製の心葉こころば(香壺、洲浜すはまなどの調度品の装飾などに立てたり、大嘗会・新嘗会などの神事奉仕の官人や采女が挿頭かざしの花として頭につける造花のこと)をしつらえた香箱こうばこに納められ、その中に忍ばせてあった手紙に書き付けてあった和歌がうっすらと透けて見えたが、手紙は源氏が取り上げてこっそり隠してしまう。それで蛍兵部ほたるひょうぶ卿宮きょうのみやの疑念(この内容は物語には記載されていない)はいっそうつのったのであろう、わざとらしく口ずさんだ。蛍兵部ほたるひょうぶ卿宮きょうのみやは手紙の内容についても源氏に詮索した。源氏は薫物の調合の御礼として豪華な紅梅襲こうばいがさねの唐織物を斎院の使者に託し、返事を紅梅染めの色紙に書き付け、庭先の紅梅の枝を折りとって付けた。その返事に何が書いてあるのか蛍兵部ほたるひょうぶ卿宮きょうのみやは気になって仕方ないのだが、源氏を問い詰めてものらりくらりとはぐらかされてしまう。六条院の部外者にもかかわらず、斎院を薫物合わせに引き込んだのは、未だに源氏が朝顔への未練を捨てきれないことを暗示し、梅枝むめがえにおいては完全に裏舞台で登場するにすぎないが、その存在感は三人の源氏の妻にまったくひけをとらない。蛍兵部ほたるひょうぶ卿宮きょうのみやここまでしつこく迫るのは、前述したような、ゴシップに対する個人的興味の枠を越えているとしかいいようがあるまい。『源氏物語』には兵部卿宮の名で登場するのは3人いる。蛍兵部ほたるひょうぶ卿宮きょうのみやはその一人で桐壺帝の皇子にして源氏の異母弟であり、ほかに桐壺帝の中宮藤壺宮ふじつぼのみやの兄で紫の上の父親(先帝の血を引き、のちに式部しきぶ卿宮きょうのみやに昇任する)と、朱雀帝の息子の今上帝と明石の上との間に生まれた匂兵部におうひょうぶ卿宮きょうののみや匂宮におうみや)がいて非常に紛らわしい。しかし、各帖ではいずれかの一人が登場するので何とか登場人物としての整合性は維持されているが、原作者の紫式部は藤壺中宮の兄宮たる兵部卿宮を蛍兵部ほたるひょうぶ卿宮きょうのみやに重ね合わせ紫の上の父親役を暗示させることで、読者の興味を引き寄せる効果を狙ったのかもしれない。とすれば、蛍兵部ほたるひょうぶ卿宮きょうのみやのしつこい追求も、紫の上の父たる藤壺中宮の兄宮に代わって斎院と源氏の間柄を訝っているからだと考えることができる。蛍兵部ほたるひょうぶ卿宮きょうのみやと源氏は、源氏の須磨下向で関係を断つものが続出しても、維持されるほど絆が深く、一方、藤壺中宮の兄宮との関係はけっしてよくなかったから、かく描写することで源氏・紫の上との関係改善を暗示しているのかもしれない。
 さて、これまで源氏およびその周辺の御方々がどんな練香を造ったのか4-1〜4-3で詳細に考証した結果を簡潔にまとめると以下の通りになる。括弧で示した練香は物語の中には登場せず、考証の過程で推論したものであることを示す。紫の上を「春の御方」としたのは、源氏とともに春の町の館に居住しているからであり、花散里・明石上がそれぞれ夏の町の館、冬の町の館を居所にしているのと同じ理由による。ただし、「春の御方」という呼称は、通称あるいは俗称にすぎず、物語中には出てこない。

斎 院朝顔の君 黒方 (梅花)
源 氏太政大臣 黒方 侍従
紫の上春の御方 梅花 (侍従?)
花散里夏の御方 荷葉 (--)
明石上冬の御方 黒方 (?)

以上の御方々は源氏とともに六条院で練香を調合したが、斎院は六条院外で造り、薫物合わせが行われた六条院にはいなかった。今風にいえば特別参加であり、源氏が斎院を諦め切っていなかったこと、逆に斎院も完全に源氏との関係を断ち切っていなかったことを示し、相互に連絡を取り合っていたことが知られよう。一方、春・夏・冬の御方々は、明石あかしの姫君ひめぎみの御裳着の儀に出席しなければならないから、六条院にはとどまっていたが、薫物合わせにおいて、判定結果を判者から直接伝えられることはなく、少なくとも物語の流れの中では顔の見えないあるいはあっても人形のような存在であったと考えられる。実はもう一人、秋に由縁のある御方がこの帖に姿を見せている。それは秋好あきこのむ中宮ちゅうぐうであり、六条ろくじょうの御息所みやすどころの一人娘で源氏の従妹にあたる。物語では斎宮いつきのみやあるいは前斎宮さきのいつきのみやなどさまざまな名で登場し、御息所の死後、秋の町の館に居住したので秋好あきこのむの名で呼ばれる。ただし、薫物合わせとの関わりはまったくなく、梅枝の帖では明石あかしの姫君ひめぎみの御裳着の腰結こしゆいの役袴着はかまぎ裳着もぎの儀で腰のひもを結ぶ役で、高貴の女性が選ばれた)として同帖の後半に登場し、これで源氏にもっとも近い女性が勢揃いしたわけで、秋好中宮の存在はけっして軽いものではない。さて、蛍兵部ほたるひょうぶ卿宮きょうのみやが判者として判定を下したのは各人とも二種のうちの一種(太字で示してある)だけであった。それが優れた方を選んだ結果かどうかは定かではない。練香が競合しなかったのは自らの意思で荷葉かよう一種のみを調合した花散里はなちるさとだけであり、一風変わったしめやかな香で趣があって懐かしい感じと判定された。花散里が子供のいない第二夫人として地味で目立たない存在という位置付けと符合するものだろう。一方、斎院と明石上は黒方くろぼうで競合した。まず前者について、斎院が源氏に贈った「花の香は散ってしまった枝には残らないが、香を焚きしめた袖には深く残りますよ」という内容の和歌を受けた上で、そうはいっても奥ゆかしく落ち着いた匂いは格別だと評した。和歌の内容からすれば、斎院の本命とする薫物はどうみても梅花ばいかのはずだが、判者は肩透かしするかのように敢えて黒方を取り上げ、和歌の筋ちがいな解釈をしてまであからさまに偏向とわかる判定を下した。一方、紫の上の梅花方を、黒方・侍従・梅花の三種(斎院・源氏・紫の上の練香のすべて)のうち、梅花が当世風で少し匂いを鋭く立つように仕立てられてすばらしい薫りが加わっていて、この時期の春風に薫らせるにはこれ以上のものはないと絶賛する。春のたけなわで邸内は梅の花が薫り、演奏する楽曲の謡は「梅枝むめがえ」だから、梅花方が時節がらもっとも合う薫物であることは当然のことであり、仮に斎院の梅花であっても、公正に評価すれば、似た判定結果になっただろう。あたかも紫の上の父たる兵部卿宮が蛍兵部ほたるひょうぶ卿宮きょうのみやに憑依して身内贔屓の判定をしたかのようであるが、斎院が依然として紫の上の地位を危うくする存在であることを紫式部が暗に演出した結果と考えられ、蛍兵部ほたるひょうぶ卿宮きょうのみやをして源氏を強く追求せしめたのもその一環であろう。すなわち、兵部卿宮という一つのタイトルを、和歌の掛詞の修辞法のように、複数の人物の役割を演じさせるという前例のない手法を紫式部は採用したと考えられるのである。明石上の黒方に対して判者は、この世とは思えぬほどのなまめかしさを練り込んだ、そのコンセプトが素晴らしいと絶賛したが、朱雀院由来の名香を公忠朝臣が洗練させて百歩の方としたものをベースにしているのだから、文句のつけようがあろうはずがない。源氏は承和の秘方という、これまた由緒ある練香を調合して臨んだが、判者は斎院と明石上と競合する黒方を避け、「侍従は、大臣おとゞのをぞ」といういかにも舌足らずないいぶりで、たいそう優雅でやさしさのある香との無難な判定を下した。諸本によって“大臣おとゞおほむは”とあるのは、後人が苦慮して訂正を企てたからであり、原作者紫式部が意識的に不完全な表現としたと考えるべきだろう。結果として源氏の意気込みは空振りに終わり、蛍兵部ほたるひょうぶ卿宮きょうのみやを「心ぎたなき判者」とののしり、不快の念を露わにしたところで梅枝の薫物合わせは閉幕する。結局、この薫物合わせの勝者は誰であろうか。斎院は黒方でもって明石上と暗に対決させられ、“由緒ある練香の系統”という観点から、明石上に勝ち目があろうはずがなかった。紫の上は父親の役割を擬せられた判者の巧妙な偏向的解釈で斎院から勝ちをもぎ取った形となった。舞台背景は紫の上にスポットライトが当てられたように見えても、いろいろと苦労を重ねたが、三夫人の中で唯一源氏との間に姫君を授かりって御裳着までこぎつけ、しかも東宮への入内まで視野に入れた明石上が真の勝者だったといえまいか。何事も凡庸さを好む花散里はレースに参加したといっても最初から勝敗に興味のなかったし、もともと勝ち負けに無関係の立場にある斎院をゲストとして特別参加させ、紫の上まで源氏に対峙させたのも、すべて明石あかしの姫君ひめぎみの御裳着を中心テーマとして際立たせるために紫式部が巧妙に仕組んだ演出と見ることができるのだ。源氏にとってはとんでもない役柄を押し付けられた形になったが、ただ紫式部はそういう源氏に書道談議という逃げ道を用意して面子を保つようにし、それがこの帖の後半のトピックとなっている。

5.熟欝金とは何か、漢籍を博捜する
5-1.中国本草にある鬱金、鬱金香とは

 まずはじめにお断りしておくが、「うこん」「うこんこう」の漢名表記は、地の文で一般名として引用する場合は、原則として鬱金・鬱金香とする。そして古典資料より引用する場合は、引用資料に忠実な表記を用い、デジタル機器の機種によっては表示できないこともあるので、汎用性を期して画像で表すこともある。『源氏物語』に登場する4種の薫物のうちで、侍従と荷葉が熟欝金を配合し、侍従では合香の要として重要な地位を占めることはすでに述べた通りである。香料は広く香薬とも称されるゆえ、その基原を考証するに際しては、まず専門書たる本草書の記載を検討するのが常道である。熟欝金の名を載せる本草書はないから、取り敢えず欝金とは何かを考えるほかはない。実は本草に鬱金(本草では鬱金と表記するのが普通なので、以下これを通す。ただし、欝金は単に鬱の俗字にすぎず、けっして誤りではない。)のほかに鬱金香という品目が別条に収載されている。現存漢籍本草書では『重修じゅうしゅう政和せいわ經史けいし證類しょうるい備用びよう本草ほんぞう唐慎微とうしんび、いわゆる『證類本草』の晦梅軒刊本)の草部中品之下に鬱金ウコン、木部中品に鬱金香ウコンコウが収載され、名前からして鬱金香が香薬たる熟欝金に関連すると考えがちであるが、実際はそれほど単純な話ではなく、結論からいえば大きく外れていることをあらかじめ申し上げておく。まず以下に鬱金と鬱金香の詳細を説明するが、結果的には全くの別品であるにもかかわらず、名前の煩わしさもあっていずれの条でも相互に言及し、その記述はけっして明解とはいい難い。『證類本草』は多くの品目に附図を掲載するが、鬱金の条にある潮州鬱金の図は一見してショウガ科ウコン属種とわかるほど精緻であり、記載内容にも矛盾はないので、今日の生薬市場で鬱金として取り引きされているものと考えてまず間違いはない。一方、鬱金香については附図はなく、主文では「陳氏云ふ、其れかをること十二葉にして百草のはならん。按ずるに魏略云ふ、秦國に生ずと。二月、三月に花有り、狀は紅藍の如し。四月、五月に花を採れば即ち香るなり」(巻第十三「木部中品」)と記載されている。通説では鬱金香の基原をサフランとするが、性状の記載から比定されたわけではなく、“魏略云ふ、秦國に生ず”という記述が決め手となっている。補足しておくと、この記述には誤りがあり、同書草部中品の鬱金ウコンの条にある『圖經ずけい本草ほんぞう』を引用したほぼ同内容の記述では“”となっていること、また「6.平安時代に知られていた欝金香は何か?」で後述するように、『香字抄』『香要抄』の引用する『開寶重定本草』の記述でも同様であり、これがローマ帝国を表す正しい漢名である。すなわち鬱金香は中国に産出せず、西洋から渡来したというのである。前述したように、本草における鬱金香(サフラン)の記述は極めて不正確であり、「陳氏云ふ〜」の記載も具体的に何に言及するのかさっぱり理解できない。実は鬱金香を正品として収載したのは『證類本草』が最初ではなく、また初めて同品を記載した本草書も別にあって、いずれもすでに散佚して伝存しない。まず、混乱をさけるため、以上で述べた本草書の書誌学上の関係を以下に整理しておく。
 『證類本草』は11世紀末に成立した現存する中国最古の正統本草書であるが、鬱金香の条の主文の末尾に「今附」とあるのは『開寶かいほう本草ほんぞう』で新規収載されたことを示し、「今すなわち当書にて(初めて)附す」の意である。『新修本草』の後継書として300年以上経て973年に成立した国定本草書が『開寶かいほう新詳定しんしょうてい本草ほんぞう劉翰りゅうかん馬志ましであるが、その翌974年には早くも同一編者によって改訂された『開寶かいほう重定じゅうてい本草ほんぞう』が刊行された。後述するように、平安末期に成立したわが国の香薬書『香字抄こうじしょう』の“欝金香”の条に「開寶重定神農本草」とあるので、改定本で新収載された可能性もあるが、通例、両書をあわせて『開寶本草』と称しているのでほとんど問題視されることはない。それから1世紀ほど経た1060年には記載文を主とし附図を伴わない『嘉祐かゆう補註ほちゅう本草ほんぞう掌禹錫しょううしゃくが、その翌年には附図を伴う『圖經ずけい本草ほんぞう蘇頌そしょうが相次いで成立した。性格の異なる国選本草書の両立は利用者にとって不便なこともあって、唐慎微とうしんびは両書を統合しさらに約660品目の新載薬物と多くの医書、傍流本草書からの引用文を加えて『經史けいし證類しょうるい備急びきゅう本草ほんぞう(1090年ごろ)を編纂し、これを狭義の『證類本草』と称する。同書の成立の経緯から唐慎微による注釈はごく少ないが、本草書としての資料価値は『本草ほんぞう綱目こうもく』より高いといわれる。唐慎微による原本は伝存しないが、大観二(1108)年に艾晟がいせいが校正した大観たいかん本草ほんぞうと、さらに政和六(1116)年に曹孝忠そうこうちゅうらが校正して刊行した政和せいわ本草ほんぞうの2系統の刊本が現存し、以上の2本を合わせて広義の『證類本草』と称する。
 以上の書誌学的経緯からすれば、鬱金香に初めて言及した本草家は“陳氏”すなわち陳蔵器ちんぞうきであり、739年に成立した傍流本草の『本草ほんぞう拾遺しゅうい』が出典となる。すなわち、前述の記述のさわりは陳蔵器注の引用であるが、『本草拾遺』は散佚し、『證類本草』の各条に「陳蔵器注」、あるいは各巻末に『本草拾遺』で初めて収載された品目が「陳藏器餘」として収録されているにすぎない。いずれにせよ、本草による鬱金香の記載はおよそ正確とは程遠いのであるが、大秦國ローマ帝国より伝えられたことをもって辛うじてサフランと考定しているのである。実は本草よりもっと正確に記載した文献があり、以下に順次紹介していく。まず鬱金香が中国に伝えられたことを初めて記したのは唐代の正史であり、ここでは『舊唐書くとうじょ』の記述を引用する。

貞觀十五(641)年、尸羅シラ逸多イッタ自ら摩伽陀マカダ王と稱し、使をつかはして朝貢せり。太宗、璽書じしょを降して慰問す。尸羅逸多大いに驚きて諸國の人に問ひて曰ふ、いにしへより曾て摩訶震旦(『新唐書しんとうじょ』の西域傳によれば「戎、中國を言ひて摩訶まか震旦しんたんと爲す」とあるが、震旦が中国を指し摩訶は“偉大な”という意で中国人の自称)の使人吾が國に至ること有るやと。皆曰く、未だ之有らずと。すなは膜拜もはい(両手をあげ地に伏して拝礼)して詔書を受け、因りて使を遣はして朝貢す。太宗、其の地遠きを以て之に禮すること甚だ厚く、復た衛尉丞ゑいいじょう李義表を遣はして使に報ふ。尸羅逸多、大臣を遣はして郊迎し、傾城の邑縱觀しょうくゎん(自由気ままに見物すること)を以てし、香を焚き夾道けふだう(市民が道の両側に並んで歓迎した)。逸多、其の臣を率ひて東面に下り、敕書を拜受し、復た使を遣はして火珠くゎしゅ及び鬱金香(『新唐書』では単に鬱金とある)、菩提樹を獻ず。〜
〜中天竺王、姓は乞利咥クシャトリヤ氏、或は剎利氏と云ふ。よよ其の國あり、篡弒さんし(君主を殺し、王権を転覆させること)はず。の土はひくく濕暑にして熱く、稻は歲に四熟す。金剛有り、紫石英に似て百煉してとけず、以て玉に切るべし。又、旃檀、鬱金の諸香有り。大秦と通じ、故に其の寶物或は扶南ふなん(紀元1世紀末ごろ、メコン川下流にあった王朝で現在のカンボジア周辺に当たる地域)交趾かうし(ベトナム北半部、唐代まで中国の直轄領だった)の貿易に至らん。(巻一百九十八「天竺」)

これによれば、641年に天竺摩伽陀王摩伽陀まかだはガンジス川中流にある仏教発祥の地)尸羅逸多Siilādityaが鬱金香を献上したという。火珠とはガラスのことで、当時の中国にはない貴重品であったから、鬱金香も同じく貴重品であったことは想像に難くあるまい。また中天竺國(インドを西・南・北・中の五つに分け中央にあたる国をいう)大秦國だいしんこくと通商し、扶南ふなんを経て当時の中国の直轄領であった交趾こうしとも貿易をしていたことを示唆する注目すべき記述もある。これに関連すると思われる記述が『後漢書ごかんじょ』にあり、「桓帝延熹九(166)年に至り、大秦王だいしんわう安敦あんとん(ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス)、使を遣して日南(後漢の日南郡、現ベトナム中部)徼外けうぐゎい(国外・塞外)より象牙ざうげ犀角さいかく瑇瑁たいまいを獻じ、始めて乃ち一通す。其の表貢へうこう(公式の貢進)する所は、べて珍異無く、疑ふらくは傳者あやまつらん。」(巻一百十八「西域傳第七十八 西域」)と記述され、ずっと古く後漢の時代にローマ帝国アントニヌス皇帝の使節がやはり当時の中国領だったベトナムに到来して方物を献上したというのである。それが本当にローマ皇帝の正式な使節であったか甚だ疑問であるが、興味深いことに、ベトナム南部のオケオO'keo遺跡からアントニヌス帝を象った金貨が出土しており、少なくともローマ帝国の商人が通商を求めてインドを経てベトナム南部まで到来したことは歴史的事実と考えてよいだろう。当時のインドはすでに西洋原産の鬱金香サフランが伝わりあるいは栽培化されていた可能性もあり得るので、2世紀ごろにインドからベトナム経由で中国に鬱金香が伝わり民間で知られていた可能性は高いと思われる。前述したように、本草における鬱金香の記載はどれも貧弱かつ不正確であるが、その形態的特徴をもっとも詳しく正確に記したのは『冊府さっぷ元龜げんき』であり、「[貞觀二十一(647)年]三月、帝おもへらく、遠夷はおのおの方物、珍果を貢ぎてみな至るに、其の草木、雜物常より異なること有るは、みことのりして皆詳錄せしむ。〜伽毗かひ(インドのどこかの国であろうが不詳)、鬱金香を獻ず。葉は麥門冬に似て、九月に花開き、狀は芙蓉の如く、其の色は紫碧にして香ばしく、數十步ぐ。華さきて實らず、ゑんと欲すれば其の根を取る。」(巻九百七十」「外臣部十五 朝貢第三」)とある。実際、サフランの葉は幅が狭くて長くジャノヒゲ麦門冬バクモンドウに似ており、花は10月中旬(旧暦では9月ごろ)に咲き始め、紫色の大きな花被片はフヨウの花に比せられ、香りが強く、また不稔性であることも指摘しているので、この記述は欝金香がサフランであることを示す決定的なエビデンスといってよい。ただし伝統的な中国本草等の記載法とはかなり異なるので、西洋のいずれかの文献の記載を漢訳転載したものと思われる。そのほか、『佛説ぶっせつ摩訶まか刹頭經せっとうきょう(西秦沙門・聖堅しょうけん訳、西秦は五胡十六国時代に鮮卑乞伏部の乞伏きつぶく国仁こくじんが建てた国)にある「都梁とりゃう藿香くゎくかう艾納がいなふ、三種の草香さうかう合し(原文の「挼」を改め、以下同じ)みて之を漬く。くすれば則ち青色の水となる。し香少なくば紺黛たいこん秦皮じんぴを以てはかり之に代ふべし。欝金香、手に捼み之を水中に漬け、之を捼めば以て赤水と作す。」(四月八日浴佛法)という記述も鬱金香がサフランである有力な科学的エビデンスとなり得る。すなわち水中で揉むと“赤水”になるという明解な記述によって、鬱金香がショウガ科ではなくアヤメ科クロッカス(Crocus)属種であることを科学的側面から支持する。というのはサフランは水溶性色素クロシンを含み、水に溶けると黄赤色を呈するが、一方、鬱金の色素クルクミンは非水溶性で“赤水”にはならないからである。

5-2.通説と大きく異なる李時珍の見解

 ずっと時代を下って明代後期に成立した『本草綱目』(李時珍)は中国本草の最高峰とされ、わが国でも3系統14種の和刻本が刊行され(後述)、本邦本草家に与えた影響は極めて大きい。意外なことに、自他ともに本草学の泰斗として君臨する李時珍りじちんは鬱金、鬱金香の基原に関して、以下に示すように、通説とはまったく異なる見解を示しているので、いかなる論拠をもってそう結論するに至ったのか、また完全に否定し切れるのか、ここで考えてみたい。両品に対する李時珍注の全文を以下に示す。


【釋名】酒にちゃうを和し、昔人言ふに、是れ大秦國だいしんこくに産する所の金の花の香なりと。だ鄭樵の通志に言ふ、即ち是此金なり。其れ大秦は三代(夏・殷・周)の時に未だ中國と通じざるに、いづくんぞ此の草有るを得んやと。羅願の爾雅翼亦た云ふ、是此の根、酒に和して黄ならしめて金の如くす。故に之を黄流と謂ふと。其の説ともに通ず。此の根の形狀は皆莪蒁がじゅつに似て馬病をやす故に馬蒁ばじゅつと名づく。
【集解】金に二つ有り、金香は是れ花を用ふること本條に見ゆ。此是れ根を用ふる者、其の苗は薑生薑ショウキョウすなわちショウガ)の如く、其の根の大小は指の頭の如く、長きは寸ばかり、體まるく橫紋有りて蟬腹の狀の如く,外は黄にして内は赤し。人以て水に浸して染色し、亦たわづかに香氣有り。(巻十四「草之三 芳草類」)
金香
【釋名】漢の林郡は即ち今の廣西貴州、じんりうようひんの諸州の地なり。一統志、惟だ柳州羅城縣に金香を出だすと載すは即ち此なり。金光明經、之を茶矩麽さくまかうと謂ふ。此は乃ち金花の香にして、今時用ひる所の金根と名は同じく物は異なれり。唐慎微本草(『證類本草』)、此を收めて彼の下(木部中品)に入るは誤れり。按ずるに、趙古則の六書本義いふ、鬯の字は米の噐の中に在りて匕を以て之を扱ふの意、の字は臼にしたがひ缶を奉して⼏上に置き、鬯に彡有るは五体を飾るの意にかたどると。俗にに作る。則ちは乃ち花を取り酒を築くの意にして、地(地下部のこと)を指して言ふに非ず、地は乃ち此の草に因りて名を得るのみ。
【集解】按ずるに鄭玄云ふ、欝草は蘭に似たりと。楊孚の南州異物志に云ふ、金は罽賓けいひん(インド北部カシミール辺りという)に出でて,人之をゑ、先づ以て佛に供すること數日して萎れ、然る後に之を取る。色は正に黄色、芙蓉の花とつつみたるわかき蓮は相似て、以て酒をかうすべしと。又、唐書云ふに、太宗の時,伽毘國金香を獻じ、葉は麥門冬に似て、九月に花開き、狀は芙蓉に似て、其の色は紫碧、香ること數十歩を聞き、花さいて實らず、種ゑんと欲すれば根を取れと。二説皆同じ、但だ花の色同じからず、種或は一ならざるなり。古楽府こがふに云ふ、中に金蘓合香有れば、是此の欝金なりと。晋の左貴嬪に金のしょう有りて云ふ、れ竒草有り名づけて金と曰ひ、殊域より越えて、の珍なる來尋す。芳香は酷烈にして、目よろこび心やはらぐ。明徳かぐはし、淑人是れつつしむと。(巻十四「草之三 芳草類」)

李時珍は金香(金陵本『本草綱目』による正名の表記)の釈名で、その名の字義に関連して極めて難解な説明をしているので、ここで詳しく説明しておく。また見出し名では「鬱」「」と区別しながら、各条の釈名・集解で両字が交錯するほかに、「」「」「欝」という微妙に異なる字体を交えて論考しているので実にわかりにくい。それは他書から引用した場合は原典の表記にしたがったためと見受けられ、結論を先に述べておくと、李時珍の用字は金陵本に関する限りにおいてほぼ首尾一貫している(詳細は後述する)。ここでは再版時における誤植・誤写による換字の可能性を排するため、慎重を期して明・万暦年間に刊行した初版の金陵本『本草綱目』より忠実に引用してある。まず鬱金の釈名において「酒に鬯を和し」というのは『周禮しゅらい注疏ちゅうそ』の「鬱人は祼器をつかさどる。凡そ祭祀、賓客ひんかくの祼事は、鬱を鬯に和するに實彝じついを以てし、而うして之をぶ。」(春官宗伯・鬱人、「utsu」の字は引用文献の原文のママ)とある難解な記載に対して、鄭玄じょうげん(127—200)が「鬱金を築くに、之を煑て、以て鬯酒ちゃうしゅに和す。鄭司農云ふ、鬱は草名にして、十葉を貫と爲し、百二十貫を築と爲し、以て之を鐎中に煑て、祭の前に停めば、鬱は草と爲りてらん(蘭草、キク科フジバカマのことで中国では古くから最高級の香料とされた)ごとしと。」と注釈したことに基づく(同上)。鄭玄は紀元2世紀の後漢の学者であり、5-1で述べたように、その頃にベトナム経由で伝わった可能性に鑑み、ここでいう“鬱金”は金香(金陵本『本草綱目』に準じ、当節では以下同じ。しかし、あくまで便宜上のことであって必ずしも李時珍の見解を支持するものではない。)をイメージしたと考えられ、鬯酒とは香りをつけたにおい酒のこと、すなわち金香でもって酒を香り付けしたことに言及しているのである。鄭玄はさらに鄭司農ていしのう(?—83、本名を鄭衆ていしゅうという)を引用して「十葉を貫〜、百二十貫を築〜」とも述べているが、5-1で言及した陳蔵器注はこれをそのまま引用した(『證類本草』・『開寶本草』の“陳氏云”、既出)。それが具体的に何を意味するのかよくわからないが、紀元100年ごろに成立した古字書『説文せつもん解字かいじ許慎きょしんにも「 芳艸なり。十葉を貫と爲し、百廾貫築き以て之を煮てと爲す。𦥑冂缶鬯にしたがひ、彡は其の飾なり。一に曰ふ、鬯、百艸ひゃくさうの華にして、遠方の人貢ぐ所の芳艸、合して之を釀せば以て神を降すと。は今の林郡なり。」(鬯之屬)という同様な記述が見える。ここにいう鬱林郡うつりんぐん(歴史的名称なので通用漢字で表す)とは漢代から隋代にかけて現在の広西チワン族自治区中部辺りに設置された郡名であり、『説文解字』は『周禮』にいう「鬱」を地名とし、鬱金香(ここでは敢えて通用名を用いておく)を「鬱人」が伝えた芳草と解釈し、「木の叢生する者」なる意として林之屬に分類する「鬱」と区別して、「」を、おそらく鬯酒に所以があると考えたのであろう、鬯之屬に置く。しかしながらこの文字分類はほとんど支持されていない。ちなみに『康熙こうき字典じてん』は「」と「鬱」のいずれも鬯部に分類し、どちらもほぼ同義で相互に通用するとしており、今日の標準的解釈となっている。今日ではまれに用いる「欝」は「鬱」の俗字とされ、「」の異体字の一つとされる「」は韋部に分類されるなどややこしいが、どちらも芳草の義である。それはさておくとして、鄭玄註にいう鬯酒に和す芳草とはまず金香と考えてよく、ここでは敢えて『説文解字』の「」を冠して区別しておく。李時珍の「金香」は、釈名で「」をわざわざ「」の俗字と断り書きしているので、用字上の矛盾はなく基本的に『説文解字』の解釈にしたがったものである。ただし、字解を『説文解字』ではなく明・趙撝謙ちょうぎけん(1351—1395)の『六書本義』の見解を引用して説明したところが異なる。ついでながら今日の通用字体「鬱」の字解もあわせて説明、補足しておく。『詩經しきょう』・國風こくふう豳風そうふうの「六月食欝及薁」に対して孔穎達くようたつ(唐、574—648)は「欝は是れ唐棣たうてい(ニワウメ)なり」(『毛詩もうし正義せいぎ』)陸璣りくき(呉、183年〜245年)は「其の樹(欝)高さ五六尺、其の實は大いさ李の如く、色は正に赤く、之を食へば甘し」(『毛詩もうし艸木そうもく鳥獸ちょうじゅう蟲魚疏ちゅうぎょそ』)と注釈しており、まさに『説文解字』にいう「鬱は木の叢生する者なり。林に从ひ、省聲(「鬱」は「林」を音符として「」から構成される形声文字ということ)。」(林之屬)に相当する。ただし、ショウガ科ウコンの用字としては『説文解字』の字義とはおよそ合わないが、5-3で後述するように、この場合の「鬱」は別の義に基づく。現在、通用する「鬱」は明朝体の標準字体であるが、康煕字典体を採用したもので(ちなみに「」の康煕字典体は「」である)、もともとは)を本字として「欝󠄁」はその俗字とされ、そのほかなど多くの異体字があるが、スマートフォンやタブレットでは表示されず、またPCでも環境によっては表示されないので注意を要する(そのため本ページではグラフィック文字で置き換えてある)。一方、李時珍は、“大秦國に産する所の金の花の香を鬯酒に和す”という学説の金を(鄭玄註を引用したと思われるが、鄭玄は鬱金(香)を大秦国より渡来したとは述べていない)、周代に通商のない大秦国産の“金香“が入手できるはずがないという『通志略つうしりゃく鄭樵ていしょうの説を支持し、実質的に鬱金香サフラン(今日の通説による表記)ではないと暗示した。さらに鬯酒は黄色に染めたものだという『爾雅翼じがよく羅願らがんの説も受け入れ、また金香の釈名では金花の香であり、金根と名は同じでも異なる物だという微妙な表現で以て述べている。一般に(薬用として)用いられる金根ではなく、敢えて金根としていることから、金香の根に言及したものと考えざるを得ない。爾雅翼はいわゆる鬱金酒に言及したものであり、必ずしも鄭玄注の鬱鬯酒に同じとは限らないが、金香の根にも黄色色素が含まれるかのような解釈が可能であり、これだと鬱金とは実質的に変わらず、あたかも金香をショウガ科ウコンの花と考えたように見える。ただし鬱金の集解では「金に二つ有り、金香は是れ花を用ふ〜。此是れ根を用ふる者、〜」と述べており、ここでは本字の「」を用いて、“うこん”に二つあるとするが、同物異名と考えればつじつまは合うだろう。一方で、集解には前述の『冊府元龜』とほとんど変わらない「葉は麥門冬に似て、九月に花開き、狀は芙蓉に似て、〜」という記述があり(李時珍は『唐書』とするが、『新唐書』・『舊唐書』のいずれにもなく、『冊府元龜』は北宋の成立だから、”唐の書籍”という意でもなく誤りである)、決して明解とはいい難い「南州異物志」の記述内容と同一視し、ただ花色が同じでなく種は一つではないと述べるなど、それまでの記述との整合性はおよそ困難である。前述したように、この形態上の記述は実に精緻であってサフランのほかは考えにくいのであるが、5-4で述べるように、李時珍は正真正銘のサフランを番紅花バンコウカ一名洎夫藍一名撒法郎サフランの名で新規収載して「草之四 濕草類」に分類しているので、李時珍の考える金香は断じてサフランではない。あるいはサフランに似た形態の植物を金香の基原として想定しているのかもしれないが、中国においては薬用等の実績がある植物で思い当たるものはなく、結局、李時珍の論考では金香の基原を比定するのは困難という結論に至り、李時珍説がほとんど支持されない理由はそこにある。
 さて、江戸時代のわが国では3系統14種類の和刻本の『本草綱目』が刊行されたが(国立国会図書館ホームページ「博物誌発展のきっかけ―17世紀」)、翻刻の過程で以上の複雑な用字がきちんと認識されたのか気になろう。ここでは『新校正本草綱目』稲生いのう若水じゃくすい、1714年)について検証した結果を述べる。あらかじめ断っておくが、「鬯」の下部が「」「」のいずれであっても字体の違いにすぎないので(康熙字典体は「」、一方、中国語フォントでは「」を採用する)、字義にはまったく影響しない。しかし、「鬱」の上部が「」と「」のいずれにしたがうのかによって意味が異なり、また「」「」も多少ともニュアンスの違いを生じる可能性もあり得るので看過できない。まず金陵本の「鬱金」が金、同「金香」は金香となっていて用字がまったく逆転することに驚かされる。そのほか「金」の釈名において、「鄭樵の通志は言ふ、即ち是此れ金なり」が「〜金なり」、「酒に鬯を和し」は「酒に鬯〜」、また同集解でも「金に二つ有り」が「金に〜」となっている。一方、「金香」の釈名では「の字は臼に从ひ」が「の字は〜」とあり、同集解で「按ずるに鄭玄云ふ、欝草(李時珍は『周禮』・鄭玄注の「鬱」を俗字で表すので字義は変わらない)は蘭に似たり」は「〜草は蘭〜」となっている。金陵本における李時珍の用字は、以上説明したように、整然と筋が通っているが、新校正本の用字は一貫性を欠いて混乱しており、字義をほとんど考慮しなかったようである。ここでは詳述しないが、ほかの和刻本もそれぞれ異なり、「鬱」の字義を重視していないように見受けられる。

5-3.全く基原の異なるのになぜ類名が付けられたのか

 以上、本草書ほか各種典籍を博捜し、鬱金香(以下、通用名で表す)の基原がアヤメ科サフランで間違いないことを明らかにしてきた。しかし、鬱金香はしばしば「香」を省いて鬱金とも表記されるが、なぜこんなに紛らわしい表記が許容されるのか、鬱金を冠するからには李時珍の主張するように、真の鬱金ウコンなのではという疑心暗鬼を生ずることもあり得るので、冷静かつ客観的な視点から真摯に考えてみる必要もあろう。前述したように、掌禹錫が陳蔵器注として引用した“魏略云”は、『藝文げいもん類聚るいじゅう』にも引用され、「大秦國に鬱金をだす」(巻八十一「藥香草部上 鬱金」)と記述され、単に鬱金と表記される格好の一例である。というのは大秦國ローマ帝国に熱帯アジア原産の鬱金ウコンは産せず、この鬱金は正真正銘の鬱金香サフランでなければならないからだ。しかし、必ずしも『藝文類聚』が誤って表記したとはいい切れない。というのは後述する『金光こんこう明經みょうきょう』ほか多くの仏典でも類例が頻出するから、相応の理由があって両名が混用されてきたと考えざるを得ないのである。結論を先に述べておくと、西洋とインドとは地理的にほぼ中間にあるアラビア大食国ペルシア波斯国を介して紀元前より比較的頻繁な交流があり、交易の仲介をした古代の近東諸国が歴史的にインドあるいはその周辺熱帯に原産する鬱金ウコンIndianインディアン saffronサフランの名で呼んでいたことに起因すると推定されるのだ。それを示す文献上の確証を見出すのは困難であるが、東西両洋で古くから有用植物として利用されたウコン・サフランという植物名の言語学的解析からある程度推定し得るので、その詳細を以下に述べる。まず、鬱金の基原植物はショウガ科ウコンCurcuma longaであるが、この属名Curcumaはアラビア語でturmericウコンを意味する“كُرْكُم” (Kurkum)(ペルシア語でも同じ音名で呼ぶ)に基づいて命名したことは植物学の世界ではよく知られた事実である。近東においてサフランを意味する語彙としてヘブライ語のכרכום (karkóm)、アラム語の כרכמא (kurkama)という音韻的にアラビア語名から派生したと考えられる微妙な名前があるが、サフランを表す名でもっとも古い古代ギリシア語名のκρόκος (krókos)に由来するとは考えにくい。意外なことにサフランを原産しないインドに“kuṅkuma”(कुङ्कुम)というサンスクリット名が存在し、これが音韻的にアラビア語名にもっとも近い。アヤメ科とショウガ科が植物学的にまったく類縁性がなく、また両種の形態もまったく異なるという先入観にとらわれる限りにおいては荒唐無稽に感じられる。しかし、地中海東部と古代インドとの交易を仲介したアラビア・ペルシアが、前述したように、インド原産の鬱金(ショウガ科基原)を“Indian saffron”の名で呼んでいたという前提に立てば以上の違和感は氷解するだろう。しかしながら両種に何らかの特徴に基づく共通の接点がなければ、両種を“サフラン”という共通名で呼ぶことはあり得ないだろう。鬱金ウコン鬱金香サフランの基原植物は、形態・系統ともにまったく異なるにもかかわらず、成分としては別系統ながら、前者はCurcuminクルクミン、後者はCrocinクロシンという黄色系の色素を含み、香辛料として利用されてきた長い歴史において、それぞれ化学的には異なるものの、いずれの成分も有用物質として果たしてきた役割は類似する。その認識はインド経由で鬱金ウコン、サフランを受容した古代の中国でも共有されたことは想像に難くあるまい。その結果、サフランに鬱金香という紛らわしい名前をつけ、本草では鬱金ウコンと区別するため、草部を避けて木部に収録せざるを得なかったという推論も難なく成立しよう。前述したように、鬱金香のインドから中国への渡来時期は早ければ紀元2世紀までさかのぼるが、その時期は多くの仏典も流入した時期であり、サフランの植物文化的意義は西洋とは大きく異なり、インド化されて仏教と深い由縁のある植物として多くの香料とともに伝えられたと推定される。
 再び『本草綱目』の鬱金香に話を戻すが、李時珍は釈名で「鬱香(『太平御覽』)、紅藍花(『本草綱目』)、紫述香(同)、草麝香、茶矩摩(佛書)」を鬱金香の異名に挙げている(5-1の釈名では省略したのでここに示す)。このうち、まったく理解に苦しむのは紅藍花コウランカであり、本来ならキク科ベニバナを基原とする生薬の正名のはずである。5-3で後述するように、李時珍はアヤメ科サフラン番紅花バンコウカなる新名をつけて条出し、紅藍花の類縁種と考えたのである。この延長線上であれば、鬱金香に紅藍花なる異名をつけるのは理解できるのであるが、すでに述べたように、李時珍は「此れ乃ち鬱金花香にして、今時用ひる所の鬱金根とは名同じくして物異なれり」(巻第十四「草之三 芳草類 鬱金香」、前項に既出)と述べ、ウコンの花を鬱金香、その根を鬱金としているのだから、ウコンの花たる鬱金香にベニバナの花たる紅藍花の異名をつけるのはまったく矛盾することになる。次に「佛書」にあるという茶矩摩については、出典を『金光明經』とするが、一般にはダルマ法師として知られる曇無讖どんむせんが5世紀初めにインド原仏典「सुवर्णप्रभासोत्तमसूत्रेन्द्रराज」(Suvarṇa-prabhāsa Sūtra)を漢訳したもので、わが国には唐・義浄ぎじょう訳の『金光明こんこうみょう最勝王さいしょうおうきょう(7〜8世紀)が伝わり、聖武天皇がこれを写経して全国に配布し、天平十三(741)年、全国に国分寺を建立したことは広く知られる歴史的事実である。同書の巻第七に三十二種の香薬の一つとして茶矩麼が出てくるが、李時珍のいう茶矩摩と同音であるから、実質的に同名であることはいうまでもない。仏教において香料は洗浴すなわち心身を浄めるという意義があり、後出することもあり、その序に相当する部分を含めて以下に引用する。ただし、呪文の部分は直接の関連性はないので省略する。

 金光明最勝王經大辯才天女品第十五之一
爾時、大辯才天女、大衆の中の於いては卽ち座より起ち、佛足に頂禮し佛にまうして言はく、「世尊。し法師有り、是れ金光明最勝王經を説く者は我れまさに其の智慧を益し、言説の辯を具足莊嚴すべし。若し彼の法師、此の經中に於いて文字句義を忘失する所有らば、皆憶持して能善よくよく開悟せしめ、復た陀羅尼(dhāraṇī、總持と訳す)無礙むげあたへん。又、此の金光明最勝王經、彼の有情うじゃう、已に百千佛所に於いてもろもろの善根をゑ、常に受持する者の爲に贍部洲せんぶしうに於いて廣行流布し、速やかに隱沒おんもつせしめざらん。復た無量有情の是の經典を聞くものをして、皆不可思議の捷利せふり辯才べんさい無盡むじん大慧だいゑを得しめ、善く衆論及び諸伎術を解せしめ、能く生死を出でて速やかに無上むじゃう正等しゃうとう菩提ぼさつに趣かしめん。現世中に於いて壽命、資身の具を增益し、ことごとく圓滿ならしめん。世尊。我れ當に彼の持經法師及び餘の有情、此の經典に於いて聽聞を樂しむ者の爲に、其の呪藥、洗浴の法を説かん。彼の人の所有あらゆる惡星災變、初生時に與へし星屬の相違、疫病の苦、鬪諍とうじゃう戰陣せんじん、惡夢、鬼神きしん蠱毒こどく厭魅えんみ、呪術、起屍きしくの如き諸惡の障難と爲す者は悉く除滅せしむ。諸の智有る者は應に是くの如く洗浴の法をすべし。當に香藥三十二味を取るべし。謂ふ所の菖蒲 跋者 牛黄 瞿盧折娜 苜蓿香 塞畢力迦 麝香 莫迦婆伽 雄黄 末㮈眵羅 合昬樹 尸利灑 白及 因達囉喝悉哆 芎藭 闍莫迦㺃 杞根 苫弭 松脂 室利薜瑟得迦 桂皮 咄者 香附子 目窣哆 沈香 惡掲嚕 栴檀 栴檀娜 零凌香 多掲羅 丁子 索瞿者 欝金 茶矩麼 婆律膏 掲羅娑 葦香 捺剌柁 竹黄 路戰娜 細豆蔲 蘇泣迷羅 甘松 苦弭哆 藿香 鉢怛羅 茅根香 嗢尸羅 叱脂 薩洛計 艾納 世黎也 安息香 窶具攞 芥子 薩利殺跛 馬芹 葉婆儞 龍花鬚 那伽雞薩羅 白膠 薩折羅婆 青木 矩瑟侘、皆等分し布灑星日を以て一處にふるひ、其の香末を取り、當に此の呪を以て呪すること一百八遍すべし。呪曰く、(以下省略)

ここでは各香薬の漢名と梵語名すなわちサンスクリット語を音写した漢名が併記されている。サンスクリット名は“kuṅkuma”であり、強いて音読表記すれば、「ククマ」となる。一方、鬱金(香)に対する梵語名の茶矩麼は、「茶」の音は“ちゃ”ないし“さ”であるから、サンスクリット名の音写の割には語頭の音韻の違いが過大に思える。『大佛頂だいぶっちょう廣聚こうじゅ陀羅尼だらにきょう(訳者未詳、唐代)の巻五「燒香方」に「鉢多羅香 霍香是れなり 薫陸香 栴壇香 白壇是れなり 咄欠字瑟迦香 蘇合香是れなり 沈香 惡掲魯 寠具羅 安悉香 安膳香 薩若羅婆香 婆律膏是れなり 甲香 龍腦香 麝香 共矩麼 欝金香是れなり。此れ十二味、是れ一切の香王、壇上に用て之を燒く。又、種種の音樂を著け供養す 呪師便すなはち作法に」とあり、梵語を見出し名として「共矩麼」とある。「共」の呉音は“く”であって「ククマ」と音読され、“Kuṅkuma”の音写にほぼ合致するが、なぜかこの一例を除いて仏典ではことごとく茶矩麼(摩)とある。「 6.平安時代に知られていた欝金香と熟欝金の関係」でも述べるが、『香要抄こうようしょう』の欝金香の条では「梵云 恭矩麼 出㝡勝王經(梵字のルビあり、ククマと読まれる)とあり、「恭」も呉音で「く」と読める。「茶」と「恭」は筆記体ではしばしば似るので、もともとは「恭矩麼」だったとすれば、「共」はその減画略字と考えれば、以上の問題点はすっきりと解決できるように思える。しかしながら茶矩摩(麼)の用例が大半を占め、李時珍もこれを引用しているから、別の理由があったと考えねばなるまい。「茶」の本字は「荼」とされ、また字体も一画違いで酷似するから、茶矩摩(麼)はもともとは矩摩(麼)だったと推定される。「茶」の呉音は「ど」、漢音で「と」と読まれ、o→uの音韻転化により「どぅ」あるいは「とぅ」になる。かく考えれば、梵語名は「トゥクマ」となり、サンスクリット名の“kuṅkuma”「ククマ」からの転訛に無理はないだろう。これによって古代中国が欝金香サフランのサンスクリット音名を受容したことが改めて明確になる。
 再び『本草綱目』の記載(鬱金香の集解)にもどるが、李時珍は他書の引用して「鬱金香の葉は麦門冬に似ている」「(旧暦)九月にフヨウに似た紫碧色の花をつける」「花は咲いても実をつけない」(巻第十四「草之三 芳草類 鬱金香」)と述べ、どう見てもウコン属よりサフランを表した記述としか思えないが、これでも李時珍がウコンにこだわったのは、生品の現物を見たことがなく文献上の記載だけで論考したからだろう。せっかく仏典を引用しながら、鬱金香を水中でもみだすと水が赤くなると記述した『佛説摩訶刹頭經』(既出)を見落としたらしく、結局、誤った結論に至ってしまった。惜しむらくは鬱金ウコンのサンスクリット名が“हरिद्रा haridrā”(“Yellow”)、 “गौरी Gauri” (“Light and Shining”)、“काञ्चनी Kāñcanī” (“Golden Goddess”) であること、鬱金香の梵語の音名がそのいずれとも大きく異なることに李時珍は気づかなかったことである。今日の北部インドではウコンを“haldi”と呼び、古代のサンスクリット名と大差ない。インドに比較的近い東南アジアでは、タイ語で“kʰamîncʰan”といい、サンスクリット語の別名“Kāñcanī”から派生したと推定されるが、ベースとなる梵語名を取り違えたため、西洋と東アジアでウコンの名前の系統まで異なることになった。ちなみにインドネシア語・マレー語では“kunyit”というが、サンスクリット語名との音韻上の関連は見出し得ないので、根茎の切り口の黄色を意味する現地語の“kuning”、“kunij”に由来するマレー語のネイティブ名であろう。一方、中国語名の鬱金については、漢代の『輶軒ゆうけん使者ししゃ絶代ぜつだい語釋ごしゃく別國べっこく方言ほうげん』に「鬱、の長きなり」(第十二)、『爾雅じが』に「緝烈顯昭皓熲は光なり」(釋詁)とあり、「熙(煕)」は「ひかり、かがやく」という義であるから、鬱金は“shining golden yellow”という意味になり、ウコンの二つのサンスクリット語名“haridrā”、“Gauri”から巧妙に訳出したことがわかるだろう。すなわちインドのウコンがIndian saffronと呼ばれていたことが中国語でも鬱金香という類名を発生させる主因となったことが明らかになる。ちなみに和名の“うこん”が漢名鬱金の音読みに由来したことは、『本草ほんぞう色葉抄いろはしょう(惟宗具俊、1284年)では「部第廿四」に欝金を収録し、「金」を冠する薬物名はことごとく「部第卅八」に収録されるから、鬱金は「うつきん」と読まれたと思われる。沖縄語でウコンを「うっちん」(沖縄語では「き」を「ち」に訛るのはごく普通である)と称するのはまさにその名残である。江戸中期の『大和やまと本草ほんぞう(貝原益軒、1708年)では「鬱金ウコン(詳細は後述)と条出され(付録巻之一 鬱金)、今日名と同じである。『和漢わかん三才さんさい圖會ずえ(1712年)でも「鬱金 うこん」(「巻九十三 芳草類」)とあって、江戸時代の初期には「つ」は促音化して略され、「うこん」と訛って今日に至る。ちなみに金の呉音読みは「こん」、漢音読みは「きん」であり、近世になって呉音読みが一般化したのは仏教との深い由縁によるものと考えられる。
 中国では鬱金香を詠み込んだ唐詩がいくつか知られている。しかし、仏教色はごく稀薄であり、サフランとはいい難いものもあるかもしれない。ここではわが国でもよく知られた詩人である白居易と李白の詩を紹介し、それぞれの鬱金香がどんなものであるか考証してみよう。まず白居易の「盧侍御ろじぎょ小妓せうぎ詩を乞ひしに座上に留め贈る。」(『全唐詩』巻四百三十八)を紹介するが、さてこの鬱金香はサフランでよいだろうか。



鬱金香の歌巾かきんつつ

山石榴やまつゝじの花、舞帬ぶくんを染む

文君ぶんくんよりた酒に對し

神女しんじょに勝るも雲にせず

夢のうちなんぞ覺時見るに及ばん

宋玉そうぎょく荊王けいわうまさに君をうらやむべし


まずはじめに簡単に語彙の説明をしておく。詩題にある盧侍御は盧という名の天子の側用人のことで、李白の「廬山ろざんうた、盧侍御虚舟きょしうす」(『全唐詩』巻三百六十五)にも詠まれるが、時代が異なるので別人、あるいは盧侍御という官職が代々世襲とすれば、その子孫の可能性もあるかもしれない。小妓は半人前の芸妓をいい、京都の舞妓に相当すると考えればよいだろう。“鬱金香の汗”はいわゆる“あせ”ではない。本草に「質汗シツカン」といういくつかの薬物より製した一品があり、『本草綱目』は香木類に収録し、樹脂の混合物からなる。しかし、ウコン、サフランのいずれであれ、樹脂を含まない。通例、香薬は精油に富むが、植物から精油を取り出す技術は当時の中国にはなく(大航海時代以降に欧州から渡来した)、エッセンスを液体の汗と認識する感性はなかった。ただし、『宋史そうし』によると、至道元(995)年に大食國アラビア船が「薔薇水二十琉璃瓶」(薔薇水はローズ油のこと)を献上したという(巻第四百九十「外國六」)。アラビア人は9世紀ごろには精油製法を確立したといわれるので(Michelle Walton, “Imperfect Perfection - Early Islamic Grass (Eng. Edn.)”, A & C Black, 2013)、772年生まれ846年没の白居易がそれを知っていた可能性はあり得ると考え、ここでは「汗」は香気すなわちエッセンスと解し、「気」に通じるから、敢えてと訓じておく。歌巾はコンテクストから衣服以外に考えにくいが、白居易は小妓に贈ろうとしている詩歌を意識してかく表現したのであろう。舞帬(=舞裙)は小妓の舞衣装、文君は才女の誉れが高かった漢・司馬相如の妻卓文君たくぶんくんを指していう。“好文君”は“勝神女”の対句で、比較語法の“於”と同じく、“似”も「〜よりも」と訓ずることに留意する。“好”は容姿・才気ともにすぐれること。第四連以下は楚・宋玉の高唐賦こうとうふ(『文選もんぜん』所収)にある故事がベースになっていることを知らないと正しく解釈できない。まず、神女とは“巫山ふざんの神女”のことで、天帝の愛人として未婚のまま死に、巫山に葬られて巫山の神となり、当地を訪れた楚の懐王・襄王と夢の中で出会い、「あしたに朝雲となりゆうべに行雨となる」と述べて契りを結んだというストーリーは後世に語り継がれた。これから男女の情交を表す「雲雨の情」という成句が発生した。第六連の荊王とは荊楚の王すなわち懐王・襄王を指す。通釈は以下の通り。

鬱金香の香気は小妓の衣服に浸透し、その舞衣装はヤマツツジの紅い花で染まったような色相だ。それと相俟ってあの卓文君よりも麗しく才気があふれ、お酒の相手までしてくれるのだ。伝説の巫山の神女にすら勝るほどで、しかも神女のように雲となって目の前から消えるようなことはしない。そういう才色兼備の美人は夢の中よりも目が覚めている時に見るのには及ばない。宋玉も荊楚王もまさしく君を羨ましく思うにちがいない。

この詩の情景は京都の祇園の茶屋を想起させ、高級官僚でないと手の届くところではない。とはいえ天子の側近たる侍御に誘われ、相手をしてくれた小妓の求めに応じてこの詩を贈ったほどだから、この時期の白居易はある程度高い官位を得ていたのであろう。「歌巾を裛む」とは何となく後述の薫物たきものを彷彿させるから、唐代において鬱金香が高級な香草と認識されていたことがこの詩から読み取れる。したがってこの鬱金香はサフランの可能性が高く、天子の側用人の接待をするほどの小妓がつける以上、安物の香料であろうはずはあるまい。次は李白の「客中行」(『全唐詩』巻一百八十一)を紹介する。



客中行かくちゅうかう

蘭陵らんりょう美酒びしゅ鬰金香うつこんかう

玉碗ぎょくわん盛りきた琥珀こはくの光

但だ主人をしてかくはしめば

いづれの處か是れ他鄕たきゃうなるを知らず

詩題の客中行は旅先で作った歌の意。李白は旅先のどこかで酒宴に招かれ、この詩を詠んだのであろう。蘭陵は漢代に現在の山東省棗庄そうしょうの南東に置かれた県名で、戦国時代のゆうに相当する由緒ある地名。あるいは中国江蘇省武進県の地名ともいい、酒の名産地というから、酒がらみの詩であることを考えると武進県で良さそうに思えるが、通説は山東省とする。雅楽の曲目として知られる蘭陵王(陵王ともいう)は、六朝北斉ほくせいの優れた武才とともに大変な美男子として知られた高長恭こうちょうきょうをモデルとした舞曲であるが、その蘭陵とは無関係のようである。玉椀は椀の美称。琥珀は樹木の樹脂が化石となったもので、透明感のある黄褐色をなし、これを琥珀色という。李白の嗜んだ欝金香の美酒はサフランで香りを付けた酒であって、色素クロシンが溶け出した色を“琥珀の光”と表現し、文字では伝わらない香りをカバーしているのであろう。第四連は酒に酔い潰れ酩酊状態になって何処にいるのかわからないという意ではなく、程よい酔いと主人のもてなしが故郷と他所との垣根を取り払ってくれて安らいだ気分になったことをいう。通釈は以下の通り。

蘭陵の美酒は鬰金香で香り付けしており、玉碗にこれを盛ると琥珀色に光輝く。但だ主人がこの酒で客を酔わせてしまうから、故郷か他郷のどこであるかわからなくなってしまうような美酒はまことにありがたいものだ、主人に感謝せねばなるまい。
5-4.別ルートで中国に渡来したサフランもある

 さて、大帝国の唐が滅亡し、混乱の時代を経てモンゴル族によって併合され、版図が中央アジア〜ペルシア、欧州の東部まで及ぶ世界史上でも空前の大帝国モンゴル帝国(元)が成立し、西方の産物が直接中国大陸にもたらされるようになると、それまでとは大きく事情が一変する。元代の薬膳書『飲膳いんぜん正要せいよう忽思慧こつしけい、1330年)には「咱夫蘭 味は甘く平にして無毒。心憂鬱積、氣悶して散ぜざるをつかさどる。久しく食すれば人心をして喜ばしむ。即ち是れ回回(後述)の地面の紅花、未だ是否つまびらかならず」とあり、ここで初めて“咱夫蘭サフラン”という西洋名を忠実に音写した漢名が登場する。“咱”は現代中国語では“zá”あるいは“zán”の音であるが、『康熙こうき字典じてん』は“咱”の音を「咂」(『篇海』)あるいは「査」(『中州音韻』)としているから、古くは“さ(sa)”と音読されたことはまちがいない。とはいえ類名は皆無というわけではなく紅花(紅藍花)を挙げているが、鬱金香に対する鬱金のように、名前には系統的類似性はない。後述するように、良質な紅花はほとんど赤い花冠からなるため、サフランの柱頭とよく似ており、それが“即ち是れ回回の地面の紅花”と呼ばれた所以と考えられる。ところが漢民族が再び中国大陸の支配権を回復し、明国が成立した後に刊行された『本草ほんぞう綱目こうもく李時珍りじちん番紅花バンコウカという新名を立てて『飲膳正要』の夫蘭とは微妙に異なる夫蘭をその異名とした(巻第十五「草之四 番紅花」)。その釈名と集解における李時珍の注釈を以下に示す。

番紅花
【釋名】 洎夫藍綱目 撒法郎
【集解】 時珍曰ふ、番紅花は西番の回回(後述)の地面及び天方國(後述)に、即ち彼の地の紅藍花なり。元時、以て食饌に入り用ふ。按ずるに、張華博物志言ふ、張騫、紅藍花のたねを西域に得たれば則ち此即これのみ(=即此)一種、或は方域の地氣やや異なることに有るらん。

李時珍は『飲膳正要』の“咱夫蘭”を見出し名に採用せず、張騫ちょうけんが西域で入手したという紅藍花ベニバナの生育地の地味の違いによる変異であるかのように解釈し、サフランに敢えて番紅花の新名をつけた。「西番(新疆とその外境)、回回の地面(イスラム圏の地)及び天方國(アラビア)」に産するというのは『飲膳正要』からの引用であるが、当時、すでに大秦国すなわちローマ帝国は滅亡し、その後に欧州東部〜中東を支配したイスラム圏諸国を打ち破って支配下に治めたモンゴル帝国の地理的認識に基づいた認識であり、“蛮”は“番”に通じるから「蛮種の紅花」の意として実に明解なネーミングといえる。そして咱夫蘭とは微妙に異なる洎夫蘭を異名としたが、これに対して『用藥ようやく須知すち(松岡恕庵、1726年)は「近來番舶ニチ來ル所(ノ)ト云モノアリ。本草綱目ノ番紅花是也。一名洎夫キフラン一名撒夫郞サフラン。」(巻之二 紅花条内)と記載し、saffronの音写とは明らかに異なる訓「きふらん」をつけた。『康熙字典』によれば、“洎”の音は「墍」「曁」あるいは「䀈」の同音とされ、いずれも“き”あるいは“ぎ”の音であるから、松岡恕庵は漢籍字書に則って正しく音読したことがわかる。『本草綱目』はもう一つの異名「撒法郎」を載せ、その音は“săfăláng”(アラビア語名の音写と推定される)であるから、これによって李時珍が“咱”を字体の酷似する“洎”と取り違えたイージーミスであることが明らかになる。しかしながら、今日でも李時珍の“洎夫蘭”はサフランの漢名として広く通用し、わが国では広く「さふらん」と音読されているのは皮肉としかいいようがなく、「咱夫蘭さふらん(出典:飲膳正要)」とするのが正しい。李時珍は元の時代になって食饌に入れ用いるようになったと認めているので、『飲膳正要』を直接あるいは間接的に参照したことに疑問の余地はないが、同書の“未だ是否詳らかならず”(すなわち咱夫蘭と称するものは張騫が西域から持ち込んだ紅藍花とよく似ていて同じものかどうかまだわからないという意)とあるのを、一方的に“彼の地の紅藍花”と断じてしまった。キク科ベニバナとアヤメ科サフランは系統・形態のいずれもまったく類縁性はないが、それはあくまで生品の植物に限った話であって、市場などで実際に取引される生薬の形態からいえば、李時珍の考定はけっして荒唐無稽というわけではない。市場で流通するサフランは真紅の柱頭を乾燥したもの、一方、紅藍花とりわけ良質なものは赤い花冠を採取、選別して乾燥したものだから両者を細かく見比べないと区別は難しい。したがって単に李時珍がオリジナルの基原植物に関心をもたなかったともいえよう。とはいえ、異名の“洎夫蘭”を、たとえ意識的に“咱”を“洎”に取り替えたとしても、出典元の『飲膳正要』を引用せず、あたかも『本草綱目』で初めて採用した新称であるかのように記載しているのは穏当ではあるまい。前述したように、李時珍は「鬱金は二つ有り、鬱金香は花を用ひ、本條に見る此れは根を用ひる者〜」(巻第十四「草之三 芳草類 鬱金」、前項に既出)と述べ、鬱金香をウコンの花、同じ基原でウコンの根茎を鬱金として同じ「芳草類」に置き、同一基原植物で部位の違いという認識を鮮明にしている。一般に、本草では部位の違いであれば同一条で記載するから、別条に区別して収載することは異例中の異例といわねばならない。一方、新たに条出した番紅花を「濕草類」(一般には雑草に近いイメージを持たれている)に分類しているのは、やはり鬱金香の基原を『説文解字』の字解及び『周禮』・鄭玄註の伝統的解釈にこだわって考定したからと考えざるを得ない。香りの強いサフランを芳草から排除する一方で、ウコンを芳草類に留めたことは、『本草ほんぞう衍義えんぎ』で寇宗奭こうそうせきをして「鬱金かをらず」と言わしめた事実に反することになり(『本草衍義』;『證類本草』前掲「鬱金」に所収)、関連する薬物の著しい気味のねじれを放置してしまった誹りは逃れられないだろう。
 さて、わが国には中国経由で仏教が伝来したが、当然ながらそれに付随する文化も受容している。多くの仏典にその名がある鬱金香は、わが国に多大な影響を与えた白居易の詩に詠まれるほどだから、平安時代のわが国に渡来していたとしてもおかしくはない。まず鬱金香はさておくとして、サフランという西洋の原名が国書で初見するのは江戸初期を代表する本草書『大和本草』(貝原益軒)であり、「暹羅シャムヨリ來ルト云染物ニ用ユ。唐人ハ魚肉ノ料理ニ用ユ。寒ヲ畏ル。寒國ニハ不カラ(付録巻之一 鬱金)と記載されている。サフランは冬季に地上部は枯れるが、それが自然の生態であってけっして寒い地域で栽培が不向きというわけではないから、益軒はサフランと熱帯植物のウコンとを混同したと思われる(江戸時代ではウコンは亜熱帯の沖縄から輸入されていた)。また「鬱金ウコン」という条項のもとでかくの如く述べているから、西洋のサフランが鬱金香と同品であること、鬱金と鬱金香は異なる基原であることを認識していたのか極めて微妙といわざるを得ない。前述したように、『用藥須知』(松岡恕庵、1726年)も「紅花」の条内でサフランに言及するが、『本草綱目』が別条に区別した鬱金香を載せず、また鬱金の条(巻之二「草部」;項目名「欎金」)でも鬱金香に関する言及はなく、同一基原で薬用部位の違いとする李時珍説に対して松岡恕庵がどう考えていたかわからないが、少なくとも同意しているとはいい難い。一方、『和漢三才圖會』(寺島良安、1712年)では「鬱金 うこん」とは別条に「鬱金香 うきんかう」(いずれも「巻九十三 芳草類」)を載せ、同じ漢名ながら音を変えて区別しているのは意味深に見える。鬱金の附図はまさにショウガ科ウコンそのものであるが、鬱金香はいくらかサフランに似せたものを載せ、おそらく蘭人から見聞した結果を記しただけで、現物までは見てはいないと思われる。慶長九(1604)年までに漢土から『本草綱目』が伝わり、しかも寛永十四(1637)年に最初の和刻本が刊行されているから、益軒や恕庵は李時珍注の影響を強く受け、その呪縛から完全は逃れることはできなかったと考えられる。その中にあって寺島良安はサフラン(鬱金香)に対する理解度は益軒や恕庵に比べてずっと進んでいたことは特筆に値しよう。享保年間に徳川幕府が洋書の輸入を解禁すると事情は一変し、それまで中国経由で得ていた西洋の進んだ知識が堰を切ったようにわが国に流れ込んできた。サフランに関しては1763年初刊の『物類ぶつるい品騭ひんしつ(平賀源内)がその先駆けであり、『本草綱目』の誤った見出し名“夫藍”を採用しながら、「ラテイン語サフラン紅毛語オランダ語フロウリスヱンタアリス又コロウクスヲリエンタアリ」という、その記述は漢籍専門書とは大きく一線を画しているところが注目される。この外来名は、『本草ほんぞう綱目こうもく啓蒙けいもう(小野蘭山、1803年)によれば、いずれの名も花といい(巻之十一「草之四 番紅花」)、「植物」という意に解すれば必ずしも間違いではないが、“flower”とするならとんでもない勘違いである。「フロウリスヱンタアリス」は“Floris entalis (entallis?)”かと思われるが、まともな意味をなす外来語は見当たらない。一方、「コロウクスヲリエンタアリ」は辛うじてCrocus orientaleと読み取れ、ネット検索で博捜すると、15世紀ドイツの“Gelb farb zu machen(訳:黄色を作るには)”というタイトルの文献に出てくるArtechne database。いかにも植物のラテン学名のように見えるが、サフラン(Crocus)属各種の正名・異名に該当するものは見当たらず、Artechne databaseはCrocus orientaleをhistorical nameとし、current nameを“Crocus sativus L. (Saffron) colorant”としているので、いわゆるラテン学名ではなく、サフランを用いた染色技術に関連のある語彙のように見え、いわゆる植物ラテン学名の原型はかなり古くから西洋文化の至る所で使われていたことを想像せしめ興味深い。すなわち、『物類品隲』はこのようなかなりマニアックな情報まで載せているのであるが、同書の成り立ちの経緯を知れば理解できる。平賀源内は同好の士に呼びかけて各種の珍品を持ち寄って研究発表や情報交換をするのに熱心で、「薬品会(物産会)」を数度にわたって主催している。そこで出品された2000余種のうちから360種を選び、解説を加えて刊行したのが全6巻からなる博物書『物類品隲』である。第五巻に36種の珍品の図絵が掲載され、その一つに洎夫藍サフランが含まれるが、「此の一圖、紅毛本草を以て臨む」の注記が示すように、オランダ人博物学者Rembertusレンベルトス Dodoneusドドネウスの『CRUYDT-BOECK(草木誌)』(1554年)の原著あるいは仏語・ラテン語訳本を入手して書き写したものである。平賀源内によると、サフランの生品も伝わっていたようであるが、絶滅したと述べている。とはいえ、乾燥花(柱頭)はかなり自由に入手できたらしく、『廣惠こうけい濟急方さいきゅうほう(1789年)では通理方に、また『救急方』でも洎夫蘭を用いた処方を記載し、“血の道”(月経、妊娠、更年期障害など、女性に特有の病症に関連するものを総称していう)に用いるとあるように、当初では李時珍の影響を強く受けて紅藍花コウランカ紅花コウカ、ベニバナの花を基原とする生薬)に準じて用いられた。無論、蘭学書の『遠西えんせい醫方いほう名物考めいぶつこう(宇田川榛斎訳述・榕菴校補、1822年)雜腹サフラン丁幾ティンキ去爾テゥルすなわちサフランのチンキ剤(saffran tincture)について記載し、薬能を「蒸氣及ビ汗ヲ發病、毒、惡液ヲ皮表ニ驅發ス。惡性ノ痘、潜伏内攻シテ危險ノ諸症ヲ發スルニ用ヒテ速ニ排泄シ其諸症ヲ治ス」(巻十九 「左」)と記述し、当然ながら漢方とは大きく異なる。江戸後期を代表する本草家といえば小野蘭山であるが、『本草綱目啓蒙』(小野蘭山、1803年)は、まず漢土からの渡来品および和産はなく詳ならずと断り書きした上で、「蠻人携來ル花譜ニコノ花ノ圖ヲ載ス。葉ハ水仙葉ノ如ク花ハ罌粟けし花ノ如クニシテ色ニ數品アリ」(巻之十 芳草 金香)とし、李時珍の見解をいっさい引用せず、また名こそ出さなかったが、オランダ渡来の花譜の附図(前述の『物類ぶつるい品隲ひんしつ』に掲載されたものと同じであろう)にあるサフランと認識していたことは間違いない。また蘭山は「郷藥本草ニ以テ鬱金ノ花ト爲シ郷名深黃花ト云ハ誤ナリ」と述べているが、”郷藥本草”(「郷藥集成方」)いう朝鮮の希本を引用しているので、ついでながら説明しておこう。“深黄”とは鬱金の朝鮮ネイティブの名称であり、原典にある「陳氏云ふ、百草の英と爲し、既に云ふ、百草の英乃ち是れ草類なり。又、此と同名にして木部に在るは非なり。」(巻之八十「木部中品 鬱金香」という記述から、蘭山は鬱金香を鬱金の花と解釈したらしい。この記述から鬱金香を草類であることは連想し得ても鬱金ウコンと基原が同じと決めつけるのはかなり無理がある。おそらく両品ともに“鬱金“の名をもつ故の先入観のなせる業と思われる。蘭山が李時珍を引用しなかったのは、鬱金と鬱金香が基原植物を同じくし部位が異なるという見解は、朝鮮の本草家に由来すると蘭山は考えていたからかもしれない。“郷藥本草”とは李氏朝鮮初期の1433年に成立した『郷藥きょうやく集成方しゅうせいほう全八十五巻』の「本草の部」(巻之76〜巻之85)の通称であり、蘭山の解釈が正しいとすれば、『本草綱目』より160年ほど前に鬱金香を鬱金の花と断じたことになるが、そもそも李時珍の見解はほとんど支持されていないから注目度はごく稀薄である。以上、サフランの生品がわが国に伝わったのは、平賀源内のいうように江戸中期であるが、定着して図絵に表されたのは幕末の1863年にフランスから球根を取り寄せて以降であり、伊藤圭介著『植物しょくぶつ圖説ずせつ雜纂ざっさん』に彩色図絵とともに詳しい記載文も記されている(191)。ただし、秋咲きの真生サフランのみならず、紫斑花、黄花、白花の春サフランや花サフランなどと呼ばれる園芸種も含まれ、また「紅毛オランダニテト呼モノ」は前述のIndian saffronではなくサフランの意であり、蘭人との交流で「インデアサフラン」を聞き知った時、それがウコンであることを理解できなかったのである。すなわち、この時期に薬用サフランと園芸サフランも合わせて渡来したことと、Indian saffronという名がまだ世界に残っていたことが明らかになった。
6.平安時代に知られていた欝金香と熟欝金の関係
 5-4で江戸中期以降になってサフランの詳細な図譜がわが国にもたらされ、後期には生品も渡来したことを述べたが、鬱金香についても正しい認識が浸透していた。時代的に前後してしまったが、鬱金香あるいは鬱金という名であれば、平安期の香薬書に頻出する。仏教との所以が深く主として仏典を通して知られていたのであるが、不思議なことに江戸時代の本草家のみならず儒学者なども含め、ごく一部を除いて言及されることはなかった。平安時代と江戸時代の間で鬱金香に対する認識において相違があるか否か興味が持たれるが、これまでほとんど検討されることはなかった。平安時代には『和名抄』みなもとのしたごう、930年代)という今日の百科事典に相当する書籍があり、「香藥部」に比較的多くの香薬を収載するが、鬱金香は項目名のみで記載文を全く欠く。したがって当時の鬱金香に対する基原認識を明らかにするには、やはり香薬専門書を紐解いて関連する記述を詳細に再検討する必要がある。江戸時代の本草家で香薬に言及することが寡聞なのは、基本的に貴族文化の所産というべき香薬が江戸時代の文化を支えた武士・町人には無関心だったからであろう。前述したように、鬱金香は『開寶本草』で初めて収載されたが、「陳氏云」「陳蔵器云」という形で引用されても、「陳藏器餘」として条出されることはなかった。おそらく陳蔵器著『本草拾遺』でも鬱金香という新品目を条出せず、『新修本草』の鬱金の補遺に徹したからと思われる。『本草和名』深根ふかねの輔仁すけひと、920年ごろ)は実質的にわが国初の本草書といってよいが、基本的に『新修本草』に準拠するので、同書以降に成立した本草書の新載品を載せることはない。しかし『開寶本草』で初めて収載された甘松香かんしょうこう零陵香れいりょうこう艾納香かいのうこう、傍流の『海藥かいやく本草ほんぞう李珣りじゅん、10世紀初頭)で収載された兜納香とのうこうは、巻末の「本草外藥」において例外的に注釈文なしで名前だけが列挙されている。以上の四品は香薬であり、前述したように、鬱金香も含めて仏教に所縁が深く、各種の仏典に登場する。鬱金香も仏典に頻出するから「本草外藥」に名を連ねてもおかしくはないが、『本草和名』のどこにもその名を見ないのは奇妙に思える。やはり香薬について考証するには本草書では限界があり、相応の専門書の記述を読み解くしかないが、これまで香薬の基原について香薬専門書から検討されることがなかったのは多くが薫物の合香について記述され、本草研究者の興味の対象とならなかったからと推察される。結論を先にいえば、香薬専門書は本草ほか仏典などからの引用が大半であり、得られる情報量は多いとはいい難い。とはいえ、『本草和名』になぜ鬱金香が列挙されなかったのか、また「2. 『源氏物語』に登場する薫物」で言及した熟欝金ならびに後述する黄欝金・青欝金なる類名のが何であるのか、明らかにするにはやはり香薬書の記載を詳細に読み解くことは必須と思われる。ただし、仏典における香薬すなわち“お香”の主要な原料はほぼ全てがインドおよびその周辺地域と西洋に由来し、中国本草をはじめとする漢籍の記載は中国的解釈すなわち中国化というフィルターを通して記載され、その結果がわが国の香薬書や本草書の基礎資料となっている事実を予め理解しておく必要がある。それは『新修本草』において桂皮三品牡桂ボケイ箘桂キンケイケイをのぞいて、沈香ジンコウ薫陸香クンリクコウ鶏舌香ケイゼツコウ藿香カッコウ詹糖香セントウコウ楓香フウコウの六品が「木部上品」の中の一条にまとめられて記載され、陶弘景注・蘇敬注のいずれも記載が不正確であることによって如実に示唆される。先行研究はしばしばこの視点を欠くため、客観的視点を逸脱して論考するケースが少なくないのである。鬱金香について本格的な考証を進める前にここで参照する香薬専門書三点の概略を紹介しておく。
 『香字抄こうじしょう(前掲)は平安時代後期に成立し、密教の修儀に必要な香薬の知識を簡便な形で記載し、四十数種の香薬の性効・産地・採取法・異名などをあげ、本草書・医書・仏典のほか詩文などに至るまで引用しているのが特徴である。各種の古写本が知られるが、ここでは高山寺旧蔵本(京都大学・大東急記念文庫分蔵)を参照した。『香要抄こうようしょう』も平安時代後期に成立したが、『香字抄』を増補改訂したものであるから、成立は『香字抄』より後である。二巻からなり、四十九種の香薬を記すが、特筆すべきは附図が多いことで、政和本草の附図に酷似しているので、もともとは『圖經本草』に由来すると思われる。古写本として石山寺本(天理図書館蔵、重要文化財)・醍醐寺本(武田科学振興財団蔵、同)があり、ここでは天理図書館善本叢書に収められて影印刊行されている前者を参照した。一方、『薫集くんじゅう類抄るいしょう』は上下二巻からなる香道書で、梅花・荷葉・落葉・侍従・菊花・黒方の6種の薫物のほか、各種の練香について配合の方法を記す。すなわち各薫物の製法のみならず、創出した人物そして継承した人脈を詳細に記載する点で前二書と大きく性格を異にし、一方で各香薬に関する各論を欠く。『香字抄』と『香要抄』を本草薬物書に喩えれば、『薫集類抄』は医療処方集に相当するといえるかもしれない。まず、『香字抄』の鬱金香に関する記述を以下に示し、①〜⑦の7つに区分けして詳しく注釈する。

欝金香
開寶重定神農本草云ふ
 其の味は辛、苦、寒にして無毒。血積けっしゃく(大病の後に体内に生じるとされる血の塊をいう)、氣を下し、肌を生じ、血を止め、惡血(病毒のもとになる血)を破り、血淋尿血(尿中に血液が混じる病症)、金瘡(刃物による切り傷)つかさどる。
 注云ふ
苗は姜黃に似て花は白く質は紅く、末秌秋の暮に莖心を出だし、實無く根は黃赤なり。四畔の子根を取り、皮を去り火にて之を乾かす。蜀地(古代中国の地名・国名で現四川省、特に成都付近の古称)及び西戎(ほぼ西域に同義)に生ず。馬藥に之を用ひ、破血(血液の滞りを除く)而うして補ひ、胡(人;他書より補録)之を馬朮と謂ふ。嶺南なるは實有りて小豆蔲(原文:;ショウガ科カルダモンElettaria cardamomumに似てふに堪へず。

「開寶重定神農本草」とは『開寶重定本草』(974年)のことで、わが国には『開寶新詳定本草』(973年)の改訂版が伝わっていたことがわかる(以上、5-1で既出)。しかし、驚くことに同書の“鬱金の条”の主文をそのまま“鬱金香”として転記しており、ここにいう「注云」も唐本注すなわち『新修本草』の蘇敬注であるが、不思議なことにこれまで先行研究で言及されたことは聞かない。『香字抄』の記述の大半は難解な仏典などから引用されているので、本草・古典医学研究者に重視されてこなかったからだろう。唐本注に「姜黃に似て〜」とあるように、鬱金の類品にショウガ科同属別種の姜黄キョウオウがあってしばしば混同されるので、ここで両種の違いを簡単に説明しておく。唐本注は姜黄(『證類本草』における項目名は薑黃)について「葉、根はすべて鬱金に似たり。花は春に根より生じて、苗とともに出でて、夏に花は爛れて子無し。」(『證類本草』巻第九「草部中品」)と記述し、この特徴は春咲きのCurcuma aromaticaとよく合い、わが国では春ウコンと俗称する。一方、鬱金については①の唐本注にいうように、花は白く秋になって茎を出して花をつけるのでCurcuma longaに相当し、俗に秋ウコンと呼ばれる。ただ注意すべきことは、わが国で鬱金ウコンと称するものは中国では薑黄(姜黄)に相当すること、そして春ウコンが中国では鬱金と称され、さらにややこしいことにCurcuma属種であればどれでも主根茎から生じる塊根(子根)を鬱金と称することである。ただし以上の認識はあくまで中国の生薬市場における現況に基づくものであり、古典籍に記載される鬱金・薑黄については、以上述べた“日中間の種認識のねじれ”をリセットした上で、客観的視点に則って検証を進める必要がある。

又云ふ、嶺南なる者は實有り小豆蔲(原文:小荳;『薫集類抄』ではとある)に似て之をふに堪えず。又、青欝金黄欝(原文は「欝」を欠く)金有り、又熟欝金なる者有り。其の中に五種の香(原文:「䓁」)を以て之を造る。又、一種を以て之を造る香有り。
 之をかんがふるに、欝金種々くさぐさあり、其の真なる熟欝金、其の色紫云々を知り難し。
 或抄に云ふ、熟欝金を造る法 大唐僧長秀勧進するところ
 黄欝金小十両 麝香小七両 沈香小七両 紫檀小十両四分 唐青木小七両
 右の五物、ふるひ和して合し、暖めて之を瑠璃壺に
 或抄に云ふ、塗器に納るが良し

②の「又云ふ、〜」において、「嶺南なる者〜噉ふに堪えず」とある部分は唐本注あるいは『證類本草』の蘇頌注(すなわち『圖經本草』)にも出てくるが、残りの部分は『開寶本草』を累積引用したはずの『證類本草』にまったく見当たらない。コンテクストからすれば蘇敬注あるいは『開寶本草』の「馬志注」と解釈し得るので本草逸文の可能性もある。ただし、ここには青欝金ショウウコン(さううこん)黄欝金オウウコン(きなるうこん)熟欝金ジュクウコン(すゝうこん)という漢籍に見当たらない3名があり(以上の和訓は『薫集類抄』による)、ほぼ同じ記述が『薫集類抄』の下巻裏書にも見られ、「この香はさまざまあり。熟欝金といふは紫苔むらさきのりちたるやうにていとかうばし。なる欝金はまろだちて椶櫚すろいろなり。青欝金といふははじかみをしたるさまにてりたれば黄朽葉きくちば深沓ふかくつみたるやうにぞある。」(以上、原文のひらがな部分を漢字に置き換えてルビをつけた)とある記述は三品の外見に関する観察結果を記したものと考えて間違いない。『薫集類抄』ではこの説明書きは無記名であるが、『香薬抄』の裏書に「薫爐方説いて云ふに、山田尼と云ふと」とあって内容的にはほぼ同じ内容をカタカナ文で記す。『薫集類抄』上によれば、「山田尼 小一条皇后侍女 山田やまだの中務なかつかさ 後拾遺作者 因幡権守致貞女むねさだのむすめ」とあり、小一条院の在位は長和五(1016)年〜寛仁元(1017)年であるから、藤原道長の摂関政治の最盛期に侍女として活躍し、勅撰集にも名を連ねた歌人であった。とはいえ『後拾遺和歌集』にわずか一首、「そなはれし たまのをくしを さしなから あはれかなしき あきにあひぬる」(五四八)という歌を残すに留まり歌人としてはほとんど無名であるが、『薫集類抄』ではさまざまな合香法にその名を連ねるスペシャリストと見え、また自ら多くの造香に携っていたことは、和文で具体的なプロセスを詳細に記した注釈文から、香薬分野においては著名人であったことがうかがえる。そういう意味では、合香方の「侍従」の異称を「拾遺」と称することもあるので、“後拾遺作者”とは『後拾遺和歌集』に入集した和歌の作者という意味ではなく、「拾遺方」の後継の合香方名とも解釈できるが、博捜してもその名は見当たらない。青欝金・黄欝金・熟欝金のうち、熟欝金は黄欝金に4種の香薬を調合して製した二次的香薬というべきものであるから、山田尼の熟欝金に対する記載は、黄欝金が鬱金香・鬱金のいずれであっても、基原の原型を留めていないことに留意しなければならない。ただし、青欝金と黄欝金は、熟欝金のような加工プロセスを記した文献上の記載がないから、まず一次原料と考えて間違いない。いずれであれ、本草を博捜する上で、秋ウコン(鬱金)とその類品の春ウコン(薑黄)に加えて“真の鬱金香たるサフラン(前述)の3種の特徴の概略を知っておくことは無駄ではあるまい。春ウコンの花は赤紫色、秋ウコンの花は白ないし縁に若干の薄紅色を帯び、いずれの形もよく似るが、熱帯植物だけに普通の植物の花とは大きく形態が異なる。このいずれも大きな葉が根出して叢生し、根茎は発達してその形は香辛料のショウガに似た塊根を形成する。根茎の切り口は春ウコンでは淡黄色、秋ウコンは濃い橙黄色であり、この色相の微妙な違いは色素クルクミン含量の差に基づく。秋ウコンのクルクミン含量は春ウコンの10倍ほど高く、それが切り口の色相の差として顕在化するのであるが、水につけても色素が溶出することはない。精油含量は秋ウコンの方が若干高い程度で大きな差はないが、味では秋ウコンは苦味があるものの辛味はなく、春ウコンは辛味が突出するという顕著な差がある。一方、アヤメ科のサフラン(鬱金香)はショウガ科植物とは大きく異なり、ジャノヒゲに似た細い線形の葉が根出して叢生し、花茎が葉とは別に伸びて頂端にチューリップのように大きな花を単生する。含有色素のクロシンは水溶性で、花を水に漬けると黄赤色に染まる。以上に加えてサフランが春秋ウコンと比べてずっと小型の草本であることも含めて念頭におけば、黄欝金すなわち“黄なる欝金”とは、山田尼がシュロの実の色といい、また「まろだちて」すなわち丸っこいというのは根茎の形を指したと考えられるから、根茎の切り口が明るい黄色の春ウコンと考えるのがよいかと思う。“深沓”とは牛革製で表面を黒漆で塗りこめた公家の外出用の履物の一種であり、『後照ごしょう念院ねんいん殿装でんしょう束抄ぞくしょう(鷹司冬平、12世紀末〜13世紀初)の「雨日着深沓事」に「永承五(1050)年東北院に行幸、雨降り、公卿深沓ふかくつはく。(中略)深沓は雪の時に之を相具あひぐし、靴はかず、半靴はかず、花仙無し。」とある。『枕草子』にも「風のいたう吹きて、横さまに雪を吹きかくれば、すこしかたぶけてあゆるに、深きくつ半靴はうくわなどのはばきまで、雪のいよ白うかかりたるこそをかしけれ」(二三〇段「雪高う降りて、今もなほ降るに」)と出てくる。使い込んだ深沓はウルシが剥がれるので、「黄朽葉の深沓浸みたるやうに」とは黄朽葉色の皮革が露出して雨雪が浸み込んだ状態と解釈でき、青欝金とは切り口が黄土色の秋ウコンと考えられ、ハジカミすなわち生姜を干したようだというのは乾燥した根茎を指し、ウコンの根茎を見たことがあれば容易に直観できるはずだ。「之をかんがふるに、欝金種々あり〜」という著者の注釈で、“其の色紫”とは春ウコン(すなわち黄鬱金)の花色に言及したと思われ、その黄欝金から熟欝金を造るとはおよそ知り難きことと正直な感想を吐露したと考えられる。前述したように、サフランは黄花の品種や同属種もあるから黄欝金がサフランの可能性もあり得るが、平安期のわが国に渡来した痕跡がない。ではショウガ科の春ウコン(薑黄)、秋ウコン(鬱金)についてはどうであろうか。『本草綱目啓蒙』に「薑黄 本邦藥舗ニテ金莪荗ノ中ヨリ根ニ枝アリテ生薑ノ形ノ如ク節アリテ重キモノヲ撰ビ出シコレヲ薑黃ト名ケ賣ル」(巻之十「草之三 芳草類」)とあるように、江戸時代のわが国ですら両種は分別されておらず、また『證類本草』の附図でも鬱金と薑黄はよく似ているから(巻第九「草部中品」)、平安期の邦人は区別できず、鬱金の一名で済ませていたと考えられる。『醫心方いしんぽう(丹波康頼、984年成立)に「僧深方 目盲十歲、百醫治すこと能はざるを治す鬱金散方 鬱金二兩 黃連二兩 礬石二兩(巻第五)と「赤斑瘡を治す方 土龍子一條 赤小豆少許り 牙屑六分 薰陸香少許り加ふ、無くば鬱金を以て之に代ふ(巻第二十五)たり、わずかながら鬱金を配合する処方が収載されていること、『小右記しょうゆうき(藤原実資)の長和二年七月廿五日に「(藤原)藏規朝付亮範進唐物、雄黃二分二銖、甘松香十兩、荒欝金香十兩、金青五兩、紫草三枚、」、同廿六日に「(平)明範朝臣付勝岡進唐物等、甘松四兩、荒欝金三兩、金青三兩、」とあり、文献上では大陸との交易で欝金・欝金香を得ていたことになっている。ちなみに藤原ふじわらの蔵規まさのり大宰だざいの権帥ごんのそち藤原隆家の郎党で大宰大監を務め、隆家は道長の長兄で関白を務めた道隆の次男で長徳の変で失脚した人物である。前述した仏典や『證類本草』の考証結果と相容れないが、香薬の専門書たる『香字抄』や『香要抄』の記載において本草の鬱金の記述をそっくり引用するほど杜撰だから、鬱金香の真品が当時入手できたのか甚だ怪しい。また、『香要抄』の載せる欝金香の附図が『證類本草』(おそらく『圖經本草』『開寶本草』でも同様と思われる)巻第九「草部中品」の鬱金の条にある潮州鬱金の附図ときわめてよく似ている(少なくとも元図が同じで同系統)ことからも明らかである。すなわち当時の邦人は鬱金と鬱金香そして薑黄とも分別ができず、『香要抄』の著者は鬱金香が鬱金の類品であると確信して附図を載せ、それによって混乱状態に陥ったと考えざるを得ないのである。
 次に「熟欝金を造る法」は“大唐僧長秀勧進する㪽”なる注記を付す。これに関しては『薫集類抄』の裏書きに興味深い記事があり、ここにも唐僧長秀の名が見えるので全文を紹介する。

凡そ合香法、管窺くゎんき(見識がないこと)の輩多く其の能を稱す。然るに頗る其の道を得たる者は公忠きんただ朝臣、随時よりとき朝臣(原文:「」)なり。公忠なるは典侍ないしのすけ直子なおいこの説を傳へ雄と称す。随時なるは八条李部王の孫を以て名を得たり。此の兩人、其の流は同じと雖も其の派は猶ほ異なるがごとく、口説くぜつ相違ひ、手方は相乖す。公忠は先づ諸香を搗きて散と作し、和合せし後に麁きうすぎぬを以てふる なづけて合篩と曰ふ。篩ひをはりて蜜を入れ、更に和合し良久しばらくやし 鑯臼に取り入れ擣くこと三千ばかり、杵にて搗きをはれば斤定む(秤量すること)。蜜欠けたるを知ればしばしば取り出して丸の如くす。瓷壺に入れ埋むこと七日。随時はた)諸香をき、蜜に和して了る。くことかぞふること無く、多きを以て能しと爲す 埋むこと前法の如した公忠、熟欝金に代へて麝香を用ひ、随時は黄欝金を以て通用す。其の説くこと一つに非ず、其の論ずること定め難し。今、拾遺本草を見るに、随時の陳ぶる(=所) 、陳ぶるに以て相違ふ。た大唐僧長秀云ふ、熟欝は欝金の花を摘(原典:「槁」、“註本無此字”の傍書あり)み、白蜜に和して作るの物なり云云と。此の兩種を見れば其れ同じならざるなり。通用すべからず。

まず唐僧長秀とはどんな人物かについては、『扶桑ふそう略記りゃくき皇円こうえん;1094年)に「延喜廿(920)年庚辰、〜同じころ、唐僧長秀、其の父と共に波斯はし(ペルシア)に行く時、海路を漂蕩し、燈爐嶋(所在不詳)に寄る。洋(原文:「操」を改める)中、數月經廻の間、其の父風痾ふうあ(広義の風邪)發動して胸病に惱み、たまたまおもはずして便船に遇ひ(偶然遭遇した船に助けられて)僅かにやっとのことで日本國に到著す云々」(巻廿四、醍醐天皇下)とあり、悪天候によって遭難し日本に漂着したらしい。『扶桑略記』ではたまたま本邦に漂着した旨だけを記すが、『今昔こんじゃく物語集ものがたりしゅう』では「もと医師ニテナム有ケレバ、鎮西(九州)ニ來ケルガ居付テ不返かへるマジカリケレバ、京ニ召上テ、医師ニナム被仕つかはれケル」(巻二十四 震旦僧長秀、此のてうに來りて醫師に仕はるる語り第十)とあり、この物語では長秀は医薬学の素養があり(僧が医師を兼任するのは珍しいことではない)、本邦にとどまって貴族邸で唐産より良質という桂心ケイシンを発見したと記載されている。わが国に自生する桂心の類といえば、これまではヤブニッケイぐらいしかなく、唐産より良質というのはあまりに荒唐無稽のように思える。しかし、『延喜式』(延喜年間成立)の「元日御藥」(巻第三十七「典藥寮」)に“桂心三分”、「朧月御藥」に“桂心四兩”、「雜給料」に“桂心十兩”とあり、下級官人にも桂心を支給していたこと、『古事記』の海幸彦・山幸彦伝説の中に「其れ綿津見神の宮ぞ。其の神の御門に到りましなば、傍の井の上に湯津ゆつ香木かつらのき有らむ。」とある湯津香木はヤブニッケイCinnamomum yabunikkeiが有力視されていること、近年、中国渡来種と考えられていたニッケイCinnamomum sieboldiiが本邦南部に自生する固有種であることが明らかにされている。したがって『延喜式』の桂心は邦産のニッケイあるいはヤブニッケイの可能性が高いと考えられる。ヤブニッケイ、ニッケイの根皮(俗称:ニッキ)であれば、薬味は辛くて真品の桂心のそこそこの代用品にはなり得るからだ。『薫州類抄』において山田尼や四条大納言などとともに長秀の名が見えるゆえに、香薬の製法をわが国に伝えた“薫物の始祖”としばしばいわれるが、必ずしも正しい認識とはいい難い。前述の同書の裏書で合香法の雄と称されたみなもとの公忠きんただは光孝天皇の第十四皇子である大蔵卿・源国紀(?-909年)の次男で、従四位下・右大弁を務めた平安前期〜中期に活躍した貴族・歌人である。もう一人の雄であるたいらの随時よりときは仁明天皇の第五皇子本康親王の子である左馬頭・雅望王の三男で、官位は正四位下・参議であった。随時よりときが合香法のノウハウを継承したという藤原直子は874年から902年まで宇多天皇の典侍を務めた。これによって長秀が渡来する以前にわが国では合香法が確立していたのであり、長秀は唐土より持ち込んだのではなく、桂心の代用品を発掘したように、大半の原料が国内で調達できないという状況のもとで代用の合香に携わったというのが真実であろう。“熟欝は欝金の花〜”というのはまさにそれを象徴し、本来の欝金香(サフラン)は花、それも後述の「遁麟記」(⑤)に「花を取りて一處に安置し爤るを待ち汁を壓して取り〜」とあるように生品でなければならない。植物の花は乾燥すると香気成分の大半は揮散し使い物にならなくなってしまう。国内になければ海外から輸入するにしても、原料植物の生品を導入して栽培増殖するしかないが、平安時代のわが国に渡来した形跡はない。サフランの生品が調達できないもとでは、同じ“欝金の名をもつ”黄欝金すなわち春ウコンよりわざわざ高級な香料の麝香・沈香を配合するのもやむを得ないことであり、もともと鬱金が香料として劣等である(『本草衍義』;前掲)から、さらに紫檀・青木香を加えて香料らしく製したのが熟欝金と考えれば理解しやすいだろう。したがって熟欝金は中国ではあり得ない発想で造られた合香であり、長秀の個人的創意工夫が反映されたと考えればよいだろう。したがって本邦にあっては熟欝金は欝金香の代用と見るべきで、各合香方にいう欝金もまた同じである。最後になってしまったが、黄欝金・麝香・沈香・紫檀・唐青木の五物を搗いて篩にかけて、暖めて〜というのは『薫州類抄』の下巻裏書にある“薫爐方”に基づくプロセスである。

一条院 御製
 菊爲九日花
 歩暦風妻秌雪白佳期兩若欝金香
或抄に云ふ
 欝金 芳草なり。葉は貫と爲し、百廾貫。色は正に黄なり。

③の「一条院 御製」は一条天皇御製の意、「菊爲九日花(菊は九日の花り)」という詩題で重陽の節句において詠んだ漢詩の一節のようであるが、早稲田大学図書館所蔵の流布本はこの部分を欠く(ほかの数カ所に漢詩文が引用されるが、そのいずれも早稲田本は欠く)。一条帝時代(986年〜1011年)は清少納言、赤染衛門、紫式部ほかの女流文学が隆盛を極めた時代の印象が強いが、一方で一条帝は漢詩文に造詣が深く、『本朝ほんちょう麗藻れいそう』という平安期を代表する漢詩集の成立に尽力した。この七言二句は平安期のいずれの漢詩集にも該当する詩が見当たらないので、あるいは『本朝麗藻』の散佚した上巻首尾に収録されていたのかもしれない。とりあえず訓読すると、「こよみす風すさま(原文の「妻」を改める)じく秌雪しうせつ白し 佳期、ともに欝金香のごとし」となるが、オリジナルの詩はもっと長く、“欝金香”の詠まれた部分だけを抜き出したと思われる。“歩暦”は『菅家かんけ文草ぶんそう』巻一に所収の「秋日山行二十韻」に「暦を歩す三秋の暮 家を離る五日の朝 行行すれど山盡きず 念々意無聊ぶれうなり 〜」という用例があり、漢籍でもきわめてまれな表現である。一条帝の詩の前半を通釈すると、上句は大空の天候をあれこれうかがっていたら風が凄まじく、遠くの山では秋雪が積もって白くなっていたとなる。京の都から見えて雪が積もる山といえば比叡山しかない。一条帝の在位は986年(寛和2年)〜1011年(寛弘8年)と25年の長きにわたるが、元服したのは990年、11歳であったが、漢詩を詠むにはまだ早すぎ、常識的に考えれば16歳以降であろう。996年以降で旧暦の重陽の節句9月9日が新暦の10月半ば以降となるのは、996年(10月23日)、999年(10月20日)、1002年(10月17日)、1004年(10月25日)、1007年(10月22日)と1010年(10月18日)の6日のみであり、標高848mの比叡山なら年によっては秋雪が観測されてもおかしくはないからこのいずれかの日であろう。一方、下句はちょうど菊の花が満開になるいい時期になった、欝金香のようだとなり、断片的ながら白居易の「園に滿つ花菊、鬱金の黃 中に孤叢有り、色霜に似たり」(『全唐詩』巻四五〇「重陽の席上にて白菊に譜す」)と色感の相通じるところがあり、菊の花色が鬱金のように鮮やかな黄菊と、秋雪に擬えた白菊が混在する情景を詠んだと推定され、白菊の花心の黄色と黄菊の花色を合わせて欝金香のようだと解釈されるから、やはり黄欝金すなわち春ウコンと認識していたことを示唆する。④の「或抄に云ふ」とはいかなる出典であるのかわからないが、内容的には『説文解字』の記述(既出)を簡略化し、「色は正に黄なり」は後述の『香要抄』の引用する「南州異物志」にこの文節がある(『本草綱目』の鬱金香の集解にも引用される、既出)。ただし、「鬱」「欝」ではなく、微妙に字体の異なる「」であることに留意しなければならない。

遁麟記云ふ
 欝金は是れ樹名にして罽賔けいひん(印度の北部、今のカシミールにあったという国)に出づ。其の花黄色(原文は「藂」、『香要抄』『一切經音義』にしたがい改める)、花を取りて一處に安置しただるを待ち汁を壓して取り、物を以て之に和し香と爲す。花粕(原文の「䄸」を改める)猶ほ香氣有るがごとく、た)用ひて香(大蔵経DBでは「香花」とある)と爲すなり。
 西域記云ふ、 第八摩掲陀國上
 西域記云ふ、菩提樹の垣の西遠からず窣堵波卒塔婆有り、欝金香と謂ふ(1)高さ四十餘尺、漕炬吒そこた國の商主の建つる所なり。昔、漕炬吒國に大商主有り。天神の祠に宗事つかへて福利を求む。佛法を輕蔑して因果を信ぜず。其の後、もともろの商侶をひきゐて有無を貿遷し、舟を南海にうかべて風に遭ひ路を失なふ。波濤はたう飄浪へうらうの時、三歲を經たり。資糧罄竭けいかつし糊口に充たず。同舟の人、朝にして夕に謀らず、力をあはせて志を同じうし、つかふる所の天に念ず。心慮已につかれて冥功濟ならず。俄かに大山の崇き崖峻しき嶺を見て、兩日かがやきを聯ねて重明照朗たり。時に諸の商侶更めて相慰めて曰ふ、我がともがらに福有りて此の大山を過ぐ。宜しく中に於いて止まり自ら安樂を得るべし。商主曰ふ、山に非ず、乃ち摩竭魚(インド神話に出てくる海の怪物マカラmakara)のみ。崇き崖峻しき嶺は須鬣たてがみなり。兩日、暉を聯ねたるは眼光なり。言聲未だ靜かならず、舟の帆飄へりあつままりぬと。是に於いて商主、諸侶に告げて曰ふ、我れ觀自在菩薩を聞けり、諸の危厄に於いて能く安樂を施すと。宜しくおのおの至誠ねんごろに其の名字を稱すべしと。遂に即ち聲を同じうして歸命きみゃう稱念しょうねんす。崇山既に隱れて兩日して亦た沒す。俄に沙門の威儀、庠序しゃうじょあらはれ、錫を杖きて虛を凌ぎて來り溺るるをすくふ。時をえずして本國に至りぬ。因りて即ち信心貞固にして福を求むることよこしまならず、窣堵波を建てて式修供養し、欝金香泥を以て而うしてめぐらし上下を塗る。既に信心を發して其の同志を率ゐてみずか聖迹せいせきに禮し菩提樹を觀る。(2)未だここに歸するに暇あらざれば、已に晦朔にく。商侶同じく遊びて更に相謂ひて曰ふ、山川悠かにへだち郷國はるか遠し。昔、建立する所の窣堵波は、我がともがらここに在りて誰か其れ灑掃さいそうせんと。言ひはりて旋繞して此に至ればたちまちに窣堵波を見る。おどろき其の致るに由りて即ち前に瞻察せんさつすれば乃ち本國に建てたる所の窣堵波なり。故に今の印度因りて欝金を以て名と爲さむ(3)

遁麟記とんりんき」の出処は不詳であるが、『香要抄』に『一切經いっさいきょう音義おんぎ』を引用して同じ記述が見える。『一切經音義』には2系統あり、7世紀半ばに唐・玄応げんのうが著したものは『玄応げんのう音義おんぎ』と通称され未完に終わった。それを慧琳えりんが引き継いで807年に完成させたのが『一切經音義』であり、「遁麟記」は同巻第七十に収録されている。『香字抄』が引用するこの記述が玄応、慧琳のいずれの音義に由来するのかわからないが、もともとが仏典をベースとした記載であるから、欝金といえばショウガ科ウコンではなく鬱金香サフランと考えるのが順当と思われる。欝金の花色が黄色とされているが、サフランの同属種や品種を含めれば、Crocus ancyrensisほか黄花品がいくつかあるので問題ないだろう。ただし、これはあくまで文献上の記述であって、前述したように、わが国においてサフランおよびその類縁種が合香原料として用いられたことを意味しない。そのほか欝金を「樹の名」としているが、初めて欝金香を収載した『開寶本草』において「木部中品」に分類されたことと相通ずる。その矛盾に対する答えは次の「西域記云」に暗示されているのであるが、これも早稲田大学図書館所蔵の流布本に見当たらず、『香要抄』でも「西域第一云ふ、欝金黒嶺國に出づと」とあるだけで、「第八巻」ではなく「第一巻」のごく一部を簡略化して記述するに過ぎない。「西域記」とは『大唐だいとう西域記さいいきき(唐・玄奘げんじょう撰譯、646年成立)で“第八「摩揭陀國上」”の一節を引用したものである。確かに欝金・欝金香の名が出てくるが、精読すればいずれも基原植物とは無関係の記述であることがわかる。まず下線部(1)は窣堵波stupaが「欝金香」と呼ばれ、“高さ四十餘尺”とは卒塔婆の高さであって、それを欝金香という植物の高さと読み違えれば、欝金香を「樹の名」と勘違いしても不思議ではない。ちなみに唐代に用いられた尺に大尺(約30 cm)と小尺(約24.6 cm)の二種があり、このいずれであっても40尺は9.8 m〜12 mに相当するから、常識的に考えて樹木と考えざるを得ない大きさである。前述の『一切經音義』は651年〜654年に玄奘によって訳された(『国史大辞典』、吉川弘文館)といわれる『阿毘あび達磨だつま倶舎論くしゃろん』三十巻のうち「第十三巻」のうちの鬱金ママに対する音義であるから、欝金を「樹の名」としたのは646年成立の『大唐西域記』の影響を受けたことは間違いあるまい。下線部(2)では欝金香泥とあるが、卒塔婆を建てて塗るとあるので、いわゆる塗香ずこうすなわち香を塗って穢れを除くという仏教の習俗に言及したにすぎない。『不空ふくう羂索けんじゃく神變じんぺん眞言經しんごんきょう』に「瞿摩夷くまい(『千手千眼觀世音菩薩治病合藥經』によれば「瞿摩夷なるは烏牛まいの屎是なり」とあり、『和名抄』に「烏牛 黒牛也」とある)、香水を以て黄土に和してでいとし、塗摩(=摩塗;なおすこと)、拭治ぬぐること)して四門を開廓す。白螺末を以て界壇標界。内に一百八葉の開敷かいふ蓮花れんげ(修業を経て悟りを得た状態を開花した蓮華に擬す)を圖り、白栴檀香泥を葉と爲し、欝金香泥を臺と爲す。」(巻第七「祕密灌頂品第八」)とあり、各種香薬を「香泥こうでい」となして仏像や祠などの汚れ落としに用いたことが知られる。「遁麟記」にいう「物を以て之に和し〜」とは鬱金香泥を造るプロセスに言及したと推定される。下線部(3)は単に卒塔婆に欝金の名をつけた由来に言及しただけで、この長い引用文の割には植物としての欝金の基原に言及した記述はどこにもないという結論に至る。

(金;原文は欠)
本草云ふ
味は苦、温にして無毒。蠱野こや(自然界に巣食う目に見えない病気のもと)もろもろの毒、心氣(病気についてあれこれ気をもむこと)鬼疰きしゅ(おそらく鬼注きちゅうに同じと思われ、病邪の根源たる鬼が体内に住みつくという意;詳細は拙著『續和漢古典植物名精解』第一章第七節③-1を参照)鴉鶻あこつ等の臭カラスハヤブサなどの肉の臭味;食饌に用いることを示唆し、病気とは無関係の記述が主文にあるのは極めて異例である)つかさどる。陳氏云ふ、其の香の十二葉、百草の英と爲す。按ずるに、魏略云ふ、秦國に生ずと。二月、三月に花有り狀は紅藍の如く、四月、五月に花を採れば即ち香なりと。今附
一名馬蒁 胡人之と名づく。仁諝音巡聿反 一名黄帝足 根の名なり。五金粉薬决(に出づ:『本草和名』より補録)楊音食◻︎

欝金香という見出し名とともに「本草云ふ」(いうまでもないが、『開寶重定神農本草』のこと)を再条出させているのは、これこそ鬱金香に関する本草の真の引用文であり、『開寶重定本草』における鬱金香の条文をそっくりそのまま転記したのである。ちなみにその末尾にある「今附」とは『開寶本草』において鬱金香が新載されたことを示し、「陳氏云ふ〜」以下の編者注は、通例、“今注” (今注するに;付け加えるとの意)として主文の後に小文字で付記するのであるが、鬱金香の条では主文と注釈を統合した形になっている。サフランという植物を見たことの有無を問わず、この記載はサフランと気付くには不十分すぎるが、春ウコン秋ウコンを知っていれば、鬱金香はショウガ科ではないと思うだろう。平安期の邦人はいずれの生品を見たことがないゆえに、以上のようなちぐはぐな記載様式を余儀なくされたのである。ちなみに『香要抄』でも冒頭の欝金香の後に「重定本草云ふ、欝金、味は辛、苦にして寒、無毒。血積、氣を下し、肌を生じ、血を止め、惡血を破り、血淋、尿血、金創を主る」とあり、本草の鬱金の主文を載せるが、同唐本注を経て「木部中品に欝金香有りて云ふ」の後に⑥の鬱金香の主文が続き、驚くことにこの後に「按藥性論云」(略)、「圖經曰ふ、欝金、本經は州土に出づる(ところ)を載せず。蘇恭云ふ、〜以下略」とあり、『嘉祐本草』と『圖經本草』を統合した直後の陳承著『重校じゅうこう補註ほちゅう神農しんのう本草ほんぞうならびに圖經ずけい(1092年)あるいは唐慎微著『經史けいし證類しょうるい備急びきゅう本草ほんぞう(1090年ごろ)の“欝金の条”から引用しているのである。これについては後に改めて述べる。⑦は、結論からいうと、『本草和名』の欝金の条をそのまま転記し、“楊音食◻︎”は『香字抄』の著者が挿入したのであるが、その意図はわからない。“馬蒁”は唐本注が鬱金の別名として言及し、“黄帝足”は『本草和名』の著者深根輔仁が「五金粉薬决」(『本草ほんぞう色葉抄いろはしょう』の数カ所で引用される)という散佚漢籍から拾い上げた鬱金の別名である。『香要抄』では欝金香の見出し名の直下に「梵云ふ 恭矩麼 㝡勝王經に出づ(梵字のルビあり;以上、既出)とあるにもかかわらず、『本草和名』の欝金の条文を部分的に引用して置いているのは、当時の邦人が欝金・欝金香の分別をしていなかった決定的な証左といってよい。
 以上が『香字抄』における“欝金香”の記載文のすべてであるが、香薬専門の姉妹書というべき『香要抄』における欝金香の記載文について『香字抄』との違いを述べてみたいと思う。冒頭に「重定本草云」とあって、『開寶本草』の鬱金の条の主文を引用し、その後に「唐本注云」(『香字抄』では単に「注云」とある)を置いてあるところは『香字抄』と同じである。しかし、それに続いて欝金香の主文を「又云」と引用し、しかも『開寶本草』では主文に一体化されていた「陳氏云」「按魏略云」を主文の本文から分離して記載するところは、あたかも欝金香が欝金の条内に記載されているかのような印象を受けてしまう。これもまた当時の邦人が鬱金香と欝金を分別できず、むしろ別々に条出することに違和感をもっていた証左といえるかもしれない。ただし、『香要抄』には『香字抄』にない「按藥性論云」「圖經曰」なる『證類本草』(あるいは前述したように、『重校補註神農本草幷圖經』)に由来すると思われる引用文がある。前述の「唐本注」も『證類本草』ではごく普通に見られる引用形式なので、同書から直接引用された可能性が高く、『新修本草』の引用ではないと思われる。唐本草の新載にもかかわらず、鬱金は引用文の末尾につくはずの“唐本先附”がなくその可能性はないように見えるが、同じく唐本草新載品である楓香の条でも省略されているから、『香要抄』の編者が意識的に省略した可能性も捨てきれない。「按藥性論云」は正しくは「臣掌禹錫謹按藥性論云」であり『嘉祐補注本草』からの引用注釈文、「圖經曰」はいうまでもなく『圖經本草』であり、『香要抄』に附図(前述したように、『圖經本草』あるいは『政和本草』から転写された)が掲載されているのも、同書の編纂時に『嘉祐補注本草』(1060年)と『圖經本草』(1061年)あるいは『政和本草』(1116年ごろ)が伝わっていたことを示唆する。したがって、『香字抄』の成立時期は1060年以前、一方、『香要抄』は『圖經本草』の成立した1061年あるいはもっと遅く『證類本草』の成立した1090年ごろ以降であることが明確となる。通説では『香字抄』の成立は11世紀末から12世紀初頭とするが(『国史大辞典』による)、同書の引用する『開寶重定本草』は974年の成立であるから、『嘉祐補注本草』『圖經本草』の引用がない『香字抄』の成立は11世紀半ばまではさかのぼる可能性がある。そのほか「文士傳曰」の「朱穆しゅぼく、字は公叔こうしゅく、鬱金賦を作りて曰ふ、云々」とあるのは、『太平たいへい御覽ぎょらん』の「香部一 鬱金」に引用収録されているものと同じであるが、内容的に本稿との関連性は薄いのでこれ以上の言及は控える。一方、「南州異物志曰」と「相感志云」は、以下に示すように、内容的に大いに関連があるのでここに引用し詳細に検討する。

南州異物志曰ふ、欝金は罽賔けいひん(既出)に出でて、國人之をう。先づ取りて佛にたてまつること積日してれれば(原文の「熇」を改める)すなはことごとく之を去る。然(原文の「燃」を改める)る後、賈人こじん之を取る。欝金、色は正に黃にして細く、扶容芙蓉華褁はなふさひら(原文の「被」を改める)く蓮なる者と相似たり。香酒を以てすべし。故に天子に欝酒有るなり。

相感志云ふ、欝金草は伽毗かひ國に生じ、麦門冬に似たり。九月に花開き、狀は芙蓉ふようごとく其の色は紫碧、香は數十步に聞く。花つけて實らず、但し其の根を取れば能く熱疾を治す。今の欝金、香ゆるもの多く、即ち伽毗のめづらしきに如かざるなり。

「南州異物志」は散佚して現在に伝わらないが、『藝文げいもん類聚るいじゅう』『太平御覽』などの類書や『證類本草』以降の正統本草によく引用される。『隋書ずいしょ(巻三十三志第二十八 經籍二)に「南州異物志一巻 呉丹陽太守萬震撰」とあり、著者は三国時代呉で丹陽県の太守(長官)を勤めた万震ばんしんという人物であることはわかるが、生没年ほか出自の詳細はまったく記録がない。「南州異物志」は『舊唐書』には出てくるが(巻四十六 志第二十六 經籍上)、『宋史そうし』にその名を見ないので、唐代末期以降には散佚したと思われる。国書では『香字抄』に3カ所、『香要抄』で7カ所、『薫集類抄』でも1カ所に引用されるが、『日本國にほんこく見在書げんざいしょ目錄もくろく藤原ふじわらの佐世すけよ勅撰、891年ごろ)に収録されていないので、いずれも漢籍からの二次引用と考えられる。『香要抄』の引用文は、『證類本草』までの本草書や仏典に見えず、「文士傳」と同じく『太平御覽』(977年〜983年に成立したといわれる)とほとんど同じであるのは偶然ではあるまい。仮に同書から引用とすれば、わが国への伝来は治承三(1179)年といわれるので(大庭脩 「日本における中国辞書の輸入」 関西大学 1994年)、『香要抄』は通説より後に成立した可能性がある。その引用の経緯はさておくとして、欝金サフランが罽賔國に産することは「遁麟記」(⑤)にも記載され、古代中国の周辺地域でサフランの利用状況を記したものであろう。“香酒”、“欝酒”は『周禮』「鬱人」に対する鄭玄註(既出)で言及された“鬯酒”に同じで、鬱鬯酒うっちょうしゅとも香り酒ともいい、「天子に欝酒有るなり」とは古く中国で天子の宗廟に捧げたからである。それは『文獻ぶんけん通考つうこう』に「按ずるに肆師しし(『周禮』「春官」)云ふ、大喪たいさうかゆを築して則ち此れ鬯酒中に兼て鬱金香草有り。故に香美を得るなり。(鄭)司農云ふ、釁讀きんどくしてしるしと爲すは鬯を以てしかばねる。故にしるしを以て莊飾の義と爲すなりと。鬱人、大喪の水弭すゐび、其の肆器しきを共すと。」(巻一百二十「王禮考十五 右為銘」注)とある記述において難解ながらうかがい知ることができる。一方、「相感志」は『宋史』に「僧贊寧さんねい 物類相感志十巻」(志第一百五十八「藝文四  子類一」)と「釋贊寧しゃくさんねい 物類相感志五巻」 (志第一百五十九「藝文五 子類二」)に重出し、これだと十巻本と五巻本の二種類があったことになる。『宋朝そうちょう事實じじつ類苑るいえん江少虞こうしょうぐ、1145年)によれば、「僧贊寧、文學有り、洞古博物にて著書に數百巻あり。王元之禹偁、徐騎省鉉疑ふらくは則ち就きてここ(贊寧)ただし、二公(王氏と徐氏)皆之を拜す。」(巻第五十九)とあるように、非常に博識の人物だったらしい。一般には『筍譜じゅんふ』十巻を著したことで知られるが、『宋史』列傳では「嘗て沙門贊寧と竹事を談じ、たがひに所記(書物・文書の内容)しるし、昱銭昱せんいく銭就之せんしゅうし百餘條を得たり。因りて集めて竹譜三巻と爲す」(列傳第二百三十九世家三「錢昱」)とあるように、銭就之の『竹譜ちくふ』三巻の成立に協力したという。「相感志」はすなわち「物類ぶつるい相感志そうかんし」と考えてよいが、一般に知られるのは蘇軾そしょく著『物類相感志』(あるいは「東坡先生物類相感志」ともいう)であって日常生活の話題を扱い、『香要抄』に引用された記述は見当たらず、まったくの別本と思われる。『本朝食鑑』や『本草綱目啓蒙』が引用するのも贊寧本ではなくいずれも「東坡物類相感志」である。平安後期の仏典『祕藏ひぞう金寶鈔こんぽうしょう (実運じつうんに「天木香の事。(中略)三十巻經カシ木と云ふ。金輪儀軌ハジノ木と云ふ。人師にんし釋して云ふ堅木と。物類相感志三云ふ、相思樹の事と。」(十)とあるのは、贊寧本で間違いなさそうである。ただし、『本草綱目』にも内容的によく似た記述があるが(既出) 、“唐書云”からの引用とし、しかも“太宗時”に伽毗國から献上されたという。新旧いずれの「唐書」にも当該の記述は見当たらず、前述したように、太宗時代の貞観15(641)年にインドの摩伽陀まかだ尸羅シラ逸多イッタが鬱金香を献上したという記事が『舊唐書』にある(既出) 。ただし、『新唐書』にはなく、代わりに玄宗時代の開元7(719)年に東安という小国の王篤薩波提Tughshadaが鬱金香を献上したとある。実は李時珍が引用したのは『冊府さっぷ元⿔げんき』の貞観二十一年の記事であり(巻九百七十「外臣部 朝貢第三」)、ここで記載される欝金草は正真正銘のサフランに関するものであるが、『香要抄』の著者がそのような認識を持っていなかったことはいうまでもない。
 以上、わが国の香薬専門書の記述を解読した限りでは、以下のような結論になる。
鬱金
 本草:ハルウコン(中国)
    アキウコン(日本)
鬱金香
 本草:サフラン(中国、日本)
 平安期の欝金・欝金香:区別せず
     黄欝金:ハルウコン
     青欝金:アキウコン
     熟欝金:黄欝金・麝香・沈香・紫檀
         唐青木香を調合して製したもの

7.主な平安文学に登場する薫物
堤中つつみちゅう納言なごん物語ものがたり
春のものとて、ながめさせたまふ昼つかた、台盤所だいばんどころなる人々、「宰相さいしゃうの中将ちゅうじゃうこそ、参りたまふなれ。れい御にほひ(いつもの薫物の匂い)、いとしるく」など言ふほどに、(中将は)つい居たまひて(中宮の前におひざまずきになって)、「昨夜よべより、殿(の邸に)さぶらひしほどに、やがて御使つかひになむ(申しつかりました)。『ひんがしたい紅梅こうばいの下に、うづまませたまひし薫物たきもの今日けふのつれづれにこころみさせたまへ』とてなむ」とて、えならぬ(何とも言えない素晴らしい)枝に、(薫物を入れた)白銀しろがねつぼに二つ付けたまへり。(このついで)
落窪おちくぼ物語ものがたり
薫物たきものは、この御裳着もぎたまはせたりしも、ゆめばかり(少しばかり)包み置きてはべり」とて、いとかうばしう(衣に)きにほはす。
榮花えいが物語ものがたり
(中宮彰子は)このごろ薫物合たきものあはせせさせたまへる(薫物の調合をおさせになって)(調合した薫物を)人々(女房等)にくばらせたまふ。御前おまへにて御火取ひとり(香炉)ども取り出でて、さまざまの(練香)を試みさせたまふ。(はつはな)

いづみの上の渡殿わたどのに、四条しでうの中納言まゐりたまへるに、出羽弁いではのべん対面したるに、殿(頼道)うちより御火取ひとり持ちておはしまして、空薫物そらだきもの(来客などのため、目につかないようにさりげなく焚く香)せさせたまひて、(出羽弁のそばに)添ひおはします。なかなかいとつつましく(かえって気後れして)(出羽弁が公任の息子定頼に)もの聞こえたまふも(申し上げようにも)、打ちでにくくおぼえけり(言いにくく思われるのだった)。(謌合)

打橋うちはし渡らせたまふよりして、(漂ってくる)この御方(彰子)にほひは、ただ今あるそら薫物だきものならねば(今どこにでもあるような空薫物ではないので)、もしは何くれのかうにこそあんなれ、何ともなくしみかをらせ、渡らせたまひての移香うつりが(お部屋に入られてからの移り香)こと御方々(彰子以外の中宮定子、元子、義子、尊子らのこと)に似ず思されけり(かがやく藤壺)

麗景殿ののぼりたまふ女房のきぬおと(衣がすれて出る音)空薫物そらだきものかをりなど、近きほどにてをかしう心にくし。薫物のなんすぐれたりける。(暮まつほし)

くれなゐ打衣うちぎぬ(ベニバナの花で染めた打衣)は、なほせいありとて(禁色の制限がまだあるといって)山吹やまぶきの打ちたる(クチナシの実で黄色に染めた打衣)、黄なる表着うはぎ苅安かりやすで染めた黄色の上着)竜胆りゆうだむ唐衣からぎぬ龍膽襲りんどうがさね;表淡蘇芳裏青の色目)なり。空薫物そらだきものなんすぐれたりける。(布引の滝)

ひぬがしひさしなかぞ、殿との(道長)御前おまへの御念誦ねむずの所にはせさせたまへる。〜にほひいろいろに見えてめでたし。火舎ほや(密教で用いられる香炉の一種)黒方くろぼうをたかせたまへり。花水けすいの具(仏前に花や水を備える道具類)などあり。これは供養法くやうほふのをりの御座なるべし。(たまのうてな)

この殿とのばらの(衣に焚き染めた)かをりにほひ、さまざまめでたく吹き入るるに、また、うちには、梅花ばいくゎをえもいはず(何ともいいようがないほど)たき出でたまふ。今日けふ侍従じじゅうは、左右大臣にもまさりぬべくなん(侍従は官職では高くはないが、薫物の侍従の香の素晴らしさを官職に例えたら、左右大臣に勝るに違いないと)人々おぼされける。御前おまへには、ひぬがしらうの前のかたにやや西に出でて、楽人らくにんどもさぶらふ。御前の火焚屋ひたきやのもとの梅の、人繁ひとしげきけはひの風に散り来る薫もめでたし。(わかばえ)
『うつほ物語ものがたり
かくて、の時、うちくだりてのほどに(巳の刻の終わりごろに)(お召しの着物は)青鈍あをにびれうの袴、柳襲やなぎがさね(表白裏淡青の襲の色目で、通例、春の色とされる)などいと清らにて、今日の移しは、麝香ざかう薫物たきもの薫衣香くんのえかう、ものごとにし変へたり(衣ごとに焚き染めてある)(蔵開中)

きじはしには黒方くろぼう(そのほかは)みな白銀しろがねどもなり。鳩は黄金こがね、その嘴には黄金入れたり。小鳥には、黒方をまろがしたり。折櫃おりびつは白銀、ぢんの鰹、黒方の火焼ほやきのあはび海松みる、青海苔のりは糸、甘海苔に綿を染めて、下にはあや衝重ついがさね二十六、蘇枋すはうのもの(蘇芳の作り物)入れたり。(蔵開下)

(昇殿の殿上人が)集まり興じて、みな取り据ゑて参るほどに(配膳して食べていると)、大いなる白銀の提子ひさげ(つるのある小鍋形の銚子)に、若菜のあつものなべふたには、黒方くろぼうを大いなるかはらけ(土器)のやうに作りくぼめて、覆ひたり。(蔵開中)

瑠璃るり(色名)の大きやかなる餌袋二つに、白銀の銭一餌袋に、黒方くろぼう日乾ひぼしのやうにしなして一餌袋、沈を小鳥のやうに作りなして一餌袋、鳥の毛をき集めて、青き薄様一重づつ覆ひて結ひたり(蔵開上)

御供の人、品々装束さうぞきて(それぞれの身分に応じた装いで)、日の暮るるを待ちたまふほどに、仲忠の中将の御もとより、蒔絵まきゑ置口おきぐちの箱(蒔絵で縁飾りした箱)四つに、ぢん挿櫛さしぐしよりはじめて、よろづに、梳櫛けづりぐしの具、御髪上みぐしあ(貴人の髪を結うこと)の御調度、よき御仮髻すゑ(女性の添え髪)蔽髪ひたひ(女官が礼装のときに用いた髪の飾り)釵子さいし(かんざしの一種)元結もとゆひもとどりを結び束ねる紐)衿櫛えりぐし(装飾用の模様を彫りつけた櫛、彫櫛ともいう)よりはじめて、ありがたくて、御鏡、畳紙たたうがみ(折りたたんで懐中に入れる紙)、歯黒めよりはじめて一具ひとぐ薫物たきものの箱白銀しろがねの御箱に唐の合はせ薫物入れて、沈の御膳おものに白銀の箸、火取ひとりかひ、沈の灰入れて、黒方くろぼうを薫物の炭のやうにして、白銀の炭取りの小さきに入れなどして、こまやかにうつくしげに入れて奉るとて、御櫛の箱にかく書きて奉れたり(あて宮)

かくて、しばしあれば、御桶火をけび参る。ぢん火桶ひをけ白銀しろかねほとき、沈を火箸ひばしにして、黒方くろぼうを鶴のかたにて、白銀のはしなどして、帝(院の帝、嵯峨院)きさき御前おまへに参る。御台(食膳)参る。(菊の宴)

東宮は、白銀しろかね黄金こがねの結びものどもこぼたせたまひて(編み込んだものをほぐして)、ほかなるほかなる、屋外の)竹原たかはらにして、下には白銀の細皮ほそかは結び、餌袋ゑぶくろのやうにして、黒方くろぼうを土にて、ぢんたかうなもなく(隙間なく)植ゑさせたまひて、ふしごとに水銀みづかねの露据ゑさせて、藤壺に奉らせたまふ。(国譲上)

右大将殿(仲忠)、大いなる海形うみがたをして、蓬莱ほうらいの山の下の亀の腹には、香ぐはしき裛衣えひを入れたり。山には、黒方くろぼう侍従じじう薫衣香くのえかう合はせものどもを土にて、小鳥、玉の枝み立ちたり。海のつらに、色黒きつる四つ、みなしとどに(皆びっしょりと)濡れて連なり、色はいと黒、白きも六つ。大きさ例の鶴のほどにて、白銀しろかねを腹ふくらにさせたり。それには、麝香ざかう、よろづのありがたきくすり、一腹づつ入れたり(国譲中)

種松(神無備の種松長者、紀伊国のまつりごとに携わる長者という設定)が北の方、君だち三所に、(旅の安全を祈って)ぬさ調じて奉れり。白銀の透箱すきばこ四つづつ、黒方くろぼうの炭一透箱、金の砂子いさごに、白銀、黄金を幣に鋳たる一透箱の上に、歌一つ、やがて結び目に結ひつけさせたり。(吹上上)

かくて、九日(重陽の節句の菊の宴)ここ(吹上)にて聞こし召す。(院の帝の)御前に磨き飾れること限りなし。ませませの垣根、ませがき)の縦木には紫檀、横木にはぢん、結ひ緒にはだんの組して結ひて(色を段にしてグラデーションをつけて組紐を編んで)、黄金の砂子いさご敷きて、黒方を土にしたり。白銀して菊を飾れり(白銀で菊を作って飾る)。移ろへる花などのしたる中に(密集して植えた中に)、紺青、緑青の玉を花の露に(見せて)置かせたり。(吹上下)

かくて、(実忠は)白銀しろかね火取ひとり(香炉)に、白銀の作り覆ひて、ぢんをつきふるひて、灰を入れて、下の思ひ(下燃えの胸中に秘めた思い)に、すべて黒方くろぼうをまろがして(丸く練って)、それに、「ひとりのみ思ふ心の苦しきに(下燃えの)煙もしるく(はっきりと)見えずやあるらむ(そしてきっと)雲となるものぞかし」と書きて〜(藤原の君)
紫式部むらさきしきぶ日記にっき
[中宮彰子の初めての出産の年の寛弘五(1008)年八月]二十六日、御薫物おほんたきものあはせてて、人々にもくばらせたまふ。まろがしゐたる人びと、あまたつどひゐたり。

その夜さり(夜になるころ、夜)(中宮の)御前おまへまゐりたれば、月をかしきほどにて、はし(廂の間のと簀子に近いところ)に、御簾みすの下よりすそなどほころび出づるほどほどに、小少将こせうしゃうの君(源時通の娘)大納言だいなごんの君(源扶義の娘簾子)など、さぶらひたまふ(控えておられる)(中宮は)御火取おほんひとり(香炉)に、ひと日の(一日置いた)薫物たきものとうでて(取り出して、終止形は“とうづ”)こころみさせたまふ(練香を焚いて調合の具合を試みていらっしゃる)

「すこしさだすぎたまひにたるわたりにて(少し盛りを過ぎておられる方だから)、櫛のりざまなむなほなほしき(平凡だ、つまらない)」と、君達きんだち(殿方)のたまへば、今様いまやうのさましきまで(当世風のみっともないほど)つまもあはせたるらしざまして、黒方くろばうをおしまろがして、ふつつかにしりさき切りて(不恰好に前後を切って)、白き紙一かさねに、立文たてぶみ(正式の書状の形式、礼紙らいしで巻き、その上をさらに白紙で包んで、包み紙の上下を筋違すじかいに左、次に右へ折り、さらに裏の方へ折り曲げる)にしたり。
枕草子まくらのそうし
ちごは、あやしき弓、しもとだちたる物細枝しもとのようになった物)などささげて遊びたる。車などとどめて、いだき入れて見まほしくこそあれ。また、さていくに、薫物たきものいみじうかかへたるこそ(たいそう焚き込んであるのこそ)、いとをかしけれ。(ちごは)

薫物たきもの、いと心にくし五月の長雨ながあめのころ、うへ御局みつぼね弘徽殿こきでんにある女房の休息用の部屋)に、小戸ことに、斉信ただのぶの中将(藤原斉信)の寄りたまへりし(よりかかって座っておられた時の)は、まことにをかしうもありしかな。その物のともおぼえず(これそれの薫物の香とも思われなかったという意だが、褒めていることに留意)。おほかた雨にもしめりてえんなる気色けしき(雨の湿り気で香が優美になるようなことは)、めづらしげなき事なれど、いかでか言はではあらむ(どうして言わずにいられようか)。またの日まで、御簾みすみかへりたりし(深く染み込んだのを)、若き人などの(若い女房等が)、世に知らず思へる(この世にないすばらしいものと思ったのも)、ことわりなりや(当然のことである)。(心にくきもの)
宇治うじ拾遺しゅうい物語ものがたり
道すがら堪へがたき雨を、「これに行きたらんにはで帰す事よも(これで行ったら逢わずに帰すようなことはしまい)」と頼もしく思ひて、つぼね(女房等の休憩所)に行きたれば、人(本院侍従に勤めている女人)て、「うへ(奥)になれば、案内あんない申さん」とて、(部屋の)はしかたに入れてぬ。見れば、物のうしろに火ほのかにともして、宿直物とのゐものとおぼしききぬ(宿直のものが着ると思われる衣)伏籠ふせご(半球形の竹籠)にかけて薫物たきものしめたるにほひ、なべてならず(尋常ではない)。いとど心にくくて、身にしみていみじと思ふに、人帰りて(先ほどの女人が帰っていて)、「只今ただいまもおりさせ給ふ(直ちにお帰りなさいます)」といふ。(巻第三 平貞文、本院侍従の事)

平中へいちゅうよろこびて、かくれに(人目につきにくいように)て行きて見れば、かうなる香色こういろの、赤みを帯びた黄色の)薄物うすものの、三重みへがさねなるに包みたり。香ばしきことたぐひなし。引き解きてあくるに、香ばしさたとへんかたかたなし。見れば、ぢん丁子ちゃうじを濃くせんじて入れたり。また薫物たきものをば多くまろがしつつ、あまた入れたり。さるままに香ばしさ推し量るべし。見るにいとあさまし(見ていて唖然としてしまう)。(巻第三 平貞文、本院侍従の事)

昔、陽成院やうぜいゐん位にておはしましける時(陽成院の御代の時)滝口たきぐち道則みちのり宣旨せんじ(天皇の命令書)を承り、陸奥みちのくくだあひだ信濃国しなののくにひくうといふ所に宿りぬ。こほりつかさに宿をとれり。まうけしてもてなして後、あるじの郡司は郎党らうどう引きして出でぬ。(道則は)いもねられざりければ、やはら起きてたたずみありくに、見れば、屏風びゃうぶを立てまはして、畳など清げに敷き、火ともして、よろづ目安きやうにしつらひたり(すべてが見た目に感じよく調えられていた)空薫物そらだきものするやらんと、かうばしき香しけり。いよいよ心にくく覚えてよくのぞきて見れば、年廿七八ばかりなる女一人ひとりありけり。(巻第九 滝口道則、術を習ふ事)
寝覚ねざめ物語ものがたりよる寝覚ねざめ)』
女房も、くだくだしき、かき混ぜなる混ぜず(煩わしきを混ぜることはせず、)、かたち(容姿)、有様(風采)、心ばせ(気だて)、おのおの口惜くちをしからぬかぎりを(見劣りしない者だけを)り出でて、三十人、わらは下仕しもづかへ四人、端者はしたもの(下男、下女)、その御方の人(内侍の督つきの人)やみの夜にもかをりかくれぬばかり、ととのへたまひたり。人々(女房等)装束さうぞくの色あはひ(色相)、重なりかさねの具合)薫物たきもののにほひ、あふぎさし隠したる(扇で顔を隠すさま)など、すべて世にたぐひなきさまに、したてられたり。(五)

あしたの御使つか(帝からの後朝きぬぎぬの使いで御製の和歌や文を后妃に届ける)待ち受けたまふ御心(寝覚の上の心のうちは)、なべてならず。右大臣殿の四位しゐの少将せうしゃう参りたり。(御簾から)いとよきほどに漏りでたる(ちらりと見える)女房の袖口そでぐちすそつま、いと心殊こころことに、薫物たきもののにほひは雲の上までも通るばかり心にくきけはひ、かたはらに多く推しはからるる(傍らにいても推し量られるほどの)御簾みすのうちの気色けしきなり。(八)

(寝覚の上)「ももしきを 昔ながらに 見ましかばと 思ふもかなし しづの苧環をだまき いふな、ゆめ」とて、「あなかしこ」(まことに畏れ多きこと)とて、(使いの)典侍ないしのすけに、御装束さうぞく一領ひとくだり唐衣からぎぬ添へて、心殊こころことなる薫物たきもの白銀しろかねの箱にうるはしく包みて、「今よりは、うとからず思ひきこゆるあまりになむ(親しい間柄と思い申し上げるほどに)[藤原伊尹の「鈴鹿山 伊勢をのあまの 捨て衣 しほなれたりと 人やみるらむ」(後撰和歌集)を受けて、贈り物の衣類などを卑下して]伊勢いせをの海人あま(のように)も、あまりはばかりなく(あんまり遠慮せずに)」とて贈らせたまふ。(一〇)

もてなしなどは(振る舞いなどは)うぐひす羽風はかぜいとはしきまで、たをたをとあえかに(なよなよとして頼りなく)、やはらぎなまめいて(和やかで気品があり)、うちにほふ風も、世のつねの薫物たきものかうに入れしめ(定番の薫物を香として焚き染めて)、心のかつす(心が渇く?、意味不明)百歩ひゃくぶほかまで(香が)止まれる心地ここちして、(帝は)かず(満ち足りず)、なかなかに、宮の御覧ぜむところなども(大皇の宮がご覧になっているのかとかの)はばかりあふまじう(遠慮できるはずはなく)、やがて立ち出でても引きとどむばかりおぼさるるを、こなたかなたも、いとにはかなるべき人目の、我も人も(帝もかの人も)かろかるべききは(身分)ならねば、わびしう念ぜさせたまひて、我も、やをら出でて(ご自身もこっそり抜け出て)(清涼殿へ)帰りわたらせたまふ御心地ここち(寝覚の上をご覧になった後では)いとなかなかなり(大層中途半端である)。(一六)

心知りの(事情を知る)少将、小弁などは、(中の君の御前から引き下がって)うちやすむやうにて(休息するようにみせかけて)、西のたいに入り居て(入り居座って)、御方(対の君)もろともに、乳母めのとつくろひたて(乳母に支度をさせて)、姫君の御襁褓むつき(おむつ、乳児の産着)、御おしくくみ(姫君をお包みするもの)など、なべてならず(格別に)きよげにしたてて、薫物たきものたきしめて、姫君に湯などむせたてまつる。中将の君も、人知れずささめき営みたまふ(こっそりとささやいてあれこれと励んでおられる)。(二三)

かみの君を)御送りに参らむ上達部かんだちめ殿上人てんじゃうびと被物かづけもの(目下の者の功績や労苦に対して与える贈り物)ろくなど、なべてならず、薫物たきものなど早朝つとめてよりたきしめて待ちきこえたまふ。殿(内大臣が)うち添ひたまひて、いとことによそほしくてまかでたまへり(たいへん壮大にご退出された)。上達部など、さるべきかぎりは(上達部ほか同じ立場にある人たちは)みなさぶらひたまふ。父大臣おとどこそおはせねど(亡くなったためいらっしゃらなかったが)、殿のおろかならず扱ひきこへたまふけはひ(内大臣の一通りでないお世話をなさる様子は)、いとはなやかに、(奉仕する人たちは)あなづりにくげなり(きまり悪く思うばかりである)。(五〇)

かの大納言殿も、大殿おほとのにて(大納言の父関白邸にて)、姫君のありきたまふを見たまひて、うつくしみたまひつつ(おかわいがりになり)、「あはれ、(中の君のいる)山里に、いかに思ふことしげ(どれほどか絶え間なく悩み思って)(山里の景色を)ながめたまふらむ」とおぼしやりて、なよらかなる御衣おんぞどもに、薫物たきもの心殊こころことにたきしめて、夕暮に、山里へおはします。(五八)
 引用古典資料(五十音順)
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