全釈:カミツレ・ローズマリー・サフラン
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(関連ページ)バックナンバー I.カミツレ(Chamomile)

 カミツレがわが国に渡来したのは江戸末期の1818年とされる。当年、大槻玄沢・宇田川榛斎の建言により、幕府はオランダより60種の薬草を取り寄せたが、その中に“Camilla (Camomilla)”という名が見える(「洋舶盆種移植の記」)。英語でカミツレをchamomileカモミールというから、それがカミツレであることに疑問の余地はないが、オランダより渡来したにもかかわらず、オランダ語で記載されていないことに違和感がもたれよう。実際、外来種の植物和名は原語の面影を残さないほど大きく訛ることは珍しくなく多くの例がある。国語学的にも興味深いので、ここで“カミツレ”という和名の由来を詳しく追求してみたいと思う。
 “カミツレ”という名の文献上の初見は蘭方医書の『遠西えんせい醫方いほう名物考めいぶつこう(1822年)であり、「加密列カミツレ(巻六)とある。興味深いことに、長崎出島のオランダ人は漢薬である苦薏クヨクをカミツレの代用にしていたとも記載しているので、ここで若干の補足をしておく。遠く離れた地に長く滞在すれば、常備薬に事欠くこともあったに違いないが、基原がまったく異なり、薬味がかなり異なるものを代替薬にするとは考えにくく、異国の地での薬物収集の一環であった可能性もあるかと思われる。因みに、苦薏は『本草ほんぞう綱目こうもく』で初めて正品として収載された野菊ノギクの異名で、シマカンギクChrysanthemum indicumを基原とし、現行局方では菊花キクカに含められている。さて、カミツレに話を戻すが、以上は単なる文字記録にすぎず、図絵として最初に記録したのは貴志忠美編著『竹園ちくえん草木そうもく圖譜ずふ』であり、「加密列 又アーリヤス 一名カミルレ カモメイリ 苦薏 マトリカリヤ カモミル ラリンナ Kamille 和名カモメ菊」の多様な名とともに写実性の高い彩色図を掲載する(第二冊に収録)。全20巻の同書で記載された年号は天保十一(1840)年〜安政三(1856)年に渡っているので、カミツレの図は1840年〜1850年代のいずれかの時期に成立したと考えるのが自然であろう。まず図については、花冠は黄色、基部に近い部分は赤茶色で表されカミツレとは異なるが、一方で“黄心白弁”のものもあるとも記載され、わが国には、本種のみならず、さまざまな基原の“chamomile”(総称、とりあえず英語名で表しておく)が伝えられたことがうかがえる。多くの名が列挙されている中で、唯一アルファベットで表記された“Kamille”こそ“chamomile”を表すオランダ語名である。しかし、当時の邦人が必ずしもアルファベット表記の外来語を原語通りに読むとは限らないことに留意する必要がある。それは第三・四改正局方に収載された“VANILLAE FRUCTUS”バニラの実を表すラテン薬名、英名ではVanilla Fruit)に対する和名として“ワニルラ”を充てていることを知れば理解できるだろう。それにしたがえばオランダ語名は「カミルレ」となり、『竹園草木圖譜』にも“カミルレ”の名が載っていることから、当時にあってはむしろ標準和名だった可能性もあり得る。今日の日本語では外来語の連続するローマ字を促音そくおんを交えて表記するするのが普通である。“Kamille”は“カミッレ”となるので、通説ではこれが転じて“カミツレ”となったとするが、果たして日本語にない“ll”をそのように読んだのか疑問が残る。興味深いことに、オランダ語ネイティブによる“Kamille”の発音は“カッレ”(傍点にアクセントがある)のように聞こえるので、“カミッレ(カミツレ)”と表記したのは、Kamilleを文字として読み取ったのではなく、実際にオランダ人から聞き取って音写した可能性の方が高いだろう。促音がなかった古い日本語を踏襲した旧仮名遣いでは、促音の表記は一定せず、通常のタ行の“ツ”との区別があいまいであった。かかる日本語表記の特異な事情によって次第に“カミツ(ッ)レ”が促音を含む名であることが忘れ去られ、また促音のない“カミツレ”の方が発音しやすかったため、“カミッレ”は淘汰されたと考えられる。次の“カモメイリ”という名は一見して“カミツレ”とは別系統であり、学名Matricaria chamomiilaの種小名より派生した名であることは容易に想像できよう。この名はさらに古くさかのぼって、小野おの蘭山らんざんの『本草綱ほんぞうこう目啓蒙もくけいもう(1803年)に「此草ヲトスルハ穩ナラズ」(巻之十一「草之四 野菊ノギク」)とあるのが文献上の初見である。因みに、“此草”とは本草でいう野菊一名苦薏のことで、蘭山はアブラギク(シマカンギク)、センボンギク(ノコンギクの基本変種)を充てている。前述したように、出島のオランダ人は苦薏を調達してカミツレの代用にしたといわれるように、蘭山はそれを意識して邦人が蘭薬カミツレを苦薏の代用にしないようにと釘を刺したのであり、当時のわが国では形の似た頭花をつけるキク科植物をカミツレの類品と認識する風潮があったことを示唆する。“マトリカリヤ カモミル”は今日でも有効なカミツレのラテン学名を変則的ながら音写したものである。この種小名の“カモミル”(本来なら“カモミラ”とすべきであるが)が転訛したものが前述の“カモメイリ”という別名である。最後の“和名カモメ菊”は“カモメイリ”から派生した名であることは容易に推測されるが、意外なことに、別の植物名に転じて今日に残っている。カモメギクChrysanthemum seticuspeは江戸時代に栽培されていた園芸植物であったが、今日ではわずかに皇居外苑に植栽されるにとどまる希少種である。ただし、カモメギクの形態的特徴は、東アジアに広く分布する野生種のキクタニギクにおいてすべての形質が認められるので、野生種の一部の変異が固定されたものと考えられ、学名上ではキクタニギクはカモメギクの1品種f. borealeと扱われている(谷口ら、国立科博専報 49 11〜15 2014年)。因みに、カモメギクの語源としては、1.葉がカモメの羽に似るから、2.花色が白または淡黄色でカモメの胸の色のであるから、3.生育場所がカモメが多く見られる海辺であるから、と諸説があるが、いずれも決定的論拠を欠く。『竹園草木圖譜』にカミツレの異名として“カモメ菊”が記載されていること、前述したように、蘭山もまたカミツレ(カモメイリ)を苦薏と誤認されるのを危惧していたことを勘案すれば、“カモメ菊”はカミツレの別名カモメイリより派生した名と考えるのが妥当であろう。
 さて、カミツレは欧州の伝統医学で古くから珍重された薬用植物であったことはいうまでもないが、その原典というべきディオスコリデスの『薬物誌』にあるANTHEMIS、ANTHEMIS PORPHURANTHES、ANTHEMIS MELANANTHESの3種の中のいずれかに該当すると考えられている。いずれも古代ギリシア語であるから、まずそれぞれの字義を考えて見よう。ANTHEMISは“ἄνθεμον” (ánthemon)に同じで“花”を意味し、PORPHURANTHESは「紫色の」という意味の“πορφύρεος” (porphúreos)と“ἄνθεμον” (ánthemon)の複合語であるから“紫色の花”、一方、MELANANTHESは「黒い」という意の“μέλαν” (mélan)と“ἄνθεμον” (ánthemon)との複合語で“黒い花”を意味するから、カミツレは必然的にANTHEMISに絞られる。実際、ディオスコリデスの記述では「金色の花が咲き、周囲に白〜黄色がかった、または紫の葉がある」とあり、この“花”を筒状花からなる花のしん、“葉”を舌状花の花冠と解釈すれば、キク科の頭花に言及したと解釈できる。ついでながら薬能については、煎じ薬として服用または入浴すると、通経に効果があり、中絶(実際は避妊)を促し、結石(尿路、腎臓)を排出するほか、利尿や駆風で腸閉塞を治し、黄疸、肝臓病によく、膀胱の温湿布にも使われるとディオスコリデスは記述する。植物学名は分類学者が命名するのであるが、通例、当該植物の民俗学的あるいは文化的背景を加味してつけられる。したがって、その字義を追求すればその植物と人との関わりが見えてくることがある。カミツレの属名Matricariaは、ギリシア語の“ματρηx” (ラテン語の“matrix”に相当する)に“-aria”という植物学名でしばしば使われる女性形の接尾辞を付した複合語で、“ματρηx”の原義は子宮uterusであるという。この名がつけられたのはカミツレが古くから月経前症候群(PNS)に関連する生理痛や睡眠障害の治療薬として用いられたからという。一方、種小名は、英語でカミツレを表すchamomileカモミールと言語学的に同源であり、古代ギリシア語の“χαμαίμηλον” (chamaimēlon)に由来し、字義としては“χαμαί” (chamai)は“on the ground”、“μήλον” (mēlon)は“apple”の義で、“earth-apple”すなわち「大地のリンゴ」の意となる。ディオスコリデスの記述にも「その香りがリンゴに似ているため、人はchamaemelumと呼ぶ」とある。それはカミツレの類縁種とされるローマカミツレChamaemelum nobileの属名にも採用されている。因みに、ローマカミツレの種小名にラテン語で「高貴な」という意の“nobile”がつけられているのはその薬能がカミツレ(本種と区別してGermanジャーマン chamimileカモミールという)よりも優れていると信じられたからといわれる。ローマカミツレの学名をAnthemis nobilisとする見解もあり、『薬物誌』ではカミツレとともにANTHEMISに含まれた可能性はあり得ないわけではない。しかし、ローマカミツレの自然分布は、全欧州に広く分布するカミツレに比べると。ずっと狭く、フランス以西の欧州大陸とイギリス、それにアフリカ大陸のアルジェリアとモロッコに限られ、肝心のイタリア・ギリシアには産出しないKew Plants of the World Onlineによる)。おそらくローマカミツレの薬能が評価されるようになったのは後世になってからと推定される。『遠西醫方名物考』(巻六、1822年)に、加密列カミツレとともに、オランダ語名の“Roomse kamille”(英語のRoman chamomileに相当)を音写した「羅謨設ロームセ加密列カミツレ」について記載し、これがわが国における本種の文献上の初見である。一方、『竹園草木圖譜』ではいわゆるカミツレに「尋常」、本種に「羅謨設」を冠して区別している。

II.ローズマリー(Rosemary)

 ローズマリーは、1960年代に活躍した米国のフォーク・デュオSimonサイモン & Garfunkelガーファンクルの“Scarborough Fair”に“Are you going to Scarborough Fair? Parseley, sage, rosemary and thyme〜”と歌われているので、多くの日本人はもっとも典型的な西洋ハーブと認識しているのではあるまいか。中国にはわが国より先に伝わっているが、漢名を迷迭香メイテツコウと称することを知る人はそう多くないだろう。この名は傍流本草書の『本草ほんぞう拾遺しゅうい(陳蔵器、739年)に初見し、現存書では『證類しょうるい本草ほんぞう』巻第九の「一十種陳藏器餘」に収載されている。それによると、「魏略云ふ、大秦國に出づと。廣志云ふ、西海に出づと。」と記載されるように、大秦國すなわちローマ帝国より三国時代の魏代には伝わり知られていたという。西海とは西海郡のことで、前漢では現在の青海省の辺り、後漢では同内モンゴル自治区辺りに設置された郡で、西域とほぼ同義と考えて差し支えなく、これによって魏代より前の前後両漢のいずれかの時代に伝わったと推定できる。前漢の張騫ちょうけん紅花コウカ胡蔥タマネギ蒲桃フトモモなどを西域から持ち帰ったという記録が『博物志』に記録されている(『太平たいへい御覽ぎょらん』ほか逸文)から、この時にローズマリーも伝わったのかもしれない。唐代初期に成立した類書『藝文げいもん類聚るいじゅう』は、さまざまな物事を46部に分類し、唐が成立する前の詩文を多く配している。そのうち「藥香草部」に迷迭香を詠んだ詩文五首が収録され、そのうちの“魏陳王曹植迷迭香賦”をここに紹介する(巻第八十一「藥香草部 迷迭」)


西都の麗草を播き 青春にこたへてかがやきを發す

翠葉を繊柯にもとめ 微根を丹墀に結ぶ

繁華の速実を信じて 厳霜に凋られず

暮秋の幽蘭より芳しく 昆崙の英芝より麗し

既に經時して収采し 遂に幽殺し以て芳を增す

枝葉を去りて持御し 綃縠の霧裳に入れん

玉体に附き行止を以てすれば 微風に順ひて舒光す

簡単に語釈をしておく。西都は西域、この場合は美称の意を込める。「播」は『説文せつもん解字かいじ』に「播 うるなり」とあり、「植える」、あるいは同「一に曰ふ、くなりと」とあるので、一面に敷きつめるように植えるという意にとるのがよいだろう。青春は、youthやadolescenceという意ではなく、五行思想に基づいて春に青を配した用語で、陽春・盛春と同義である。繊柯はか細い枝すなわち芽が出たばかりの茎のこと。丹墀は朱色に塗った石の階段で、昔は邪を避ける義があった。繁華は「花が咲き誇る」という意で、劉希夷の公子行に「天津の橋の下、陽春の水 天津の橋の上、繁華の(『全唐詩』巻八十二)とあるように、賑やかなという意味もあるが、ここでは前者の意である。速実は速く結実すること、幽蘭は中国では最高級とされた蘭香の原料になるフジバカマを指す。「昆崙の英芝」とは、芝は中国で瑞草と崇められる霊芝のことで、しかも伝説の霊山崑崙山に生え、誰も見たことがないその花をいうから、比較し得るものは他にないことを表す。幽殺は幽閉して殺すという意だが、採集した葉などを箱などに詰め熟成させて香を強めるプロセスをいう。綃縠は「こめ織り」すなわち織り目をもみ米状に仕立てた絹製品をいい、霧裳は薄地の裳裾で、いずれも貴人の着る高級衣装である。玉体は天子や貴人の身体に対する敬称。行止はふるまうこと、あるいはあちこち移動すること。舒光は、『説文解字』に「舒は伸なり、」とあり、一方、「光」は、栄光というように、「かがやき」「名声」の意で、全体として「ほまれ」が伸びて広がるという意実になる。通釈は以下の通り。

西域の麗しき草である迷迭香を植えたが、春の盛りに芽を出して輝くようだ。青々とした葉は華奢な枝茎を求めるかのように繁り、赤い階段にまで小さな根を張っている。咲い誇る花が速やかに実を結ぶことを信じて、厳しい霜の寒さでも凋れずにいる。芳しきこと晩秋のフジバカマ(蘭)より、また麗しいことといったらあの崑崙の霊芝の花よりも勝る。もう採集の時期になり、ようやく熟成して芳香をいっそう強めくなった。枝葉を去り、縠織りの薄絹の裳裾に入れてみよう。そうして高貴で行動範囲の広い御仁の体に香が移れば、さわやかな風とともに香がもっと広がっていくだろう。

『藝文類聚』の迷迭香賦五首のうち、この詩を含めて三首が魏王によって詠まれていることから、当時の中国の王侯貴族に珍重され、その勢いは蘭香に劣らないほどだったと推測される。わが国では迷迭香を“マンネンロウ”と読ませWikipediaによる)、IMEで“まんねんろう”と入力すると瞬時に“迷迭香”に変換されるが、“めいてつこう”では正しく変換できないのは皮肉としかいいようがあるまい。『本草綱ほんぞうこう目啓蒙もくけいもう』巻第十に「迷迭香 マンルサウ マンネンロウ(小野蘭山、1803年)とある2つの和名の一つとして出てくる。その語源は「万年朗」に由来するといわれている。すなわち「朗」は『説文解字』に「朗は明なり。月にしたがひ良の聲。」とあることから、深読みして「月光のよく澄徹する意」と解釈し、本種が寒い冬でも葉が青々として鮮やかな紫色の花をつけ、しかも強烈な芳香をもつゆえにかくネーミングしたようである。
 わが国における文献上の初見は『草花魚貝蟲類冩生』(狩野常信、1680年)に写生図とともに「らうつまれいな 蘭名」の書き込みがある(巻二「三月」)。オランダ語名はrozemarijnロウゼマレインであるから、人づてに音写を繰り返した結果、「らうつまれいな」(新仮名遣い:ろうづまれいな)に訛ったのであろう。常信の図はかなり写実的でローズマリーの葉や花(1個のみだが)の特徴を表し、延宝8(1680)年8月4日の日付が書き込まれているので、17世紀の後期までにわが国に生品が渡来していたことがわかる。一方、1763年初刊の『物類ぶつるい品騭ひんしつ(平賀源内)では“ローズマレイン”とあって、よりオランダ語音に近いが、オランダ人から直接聞いて音写したのかもしれない。ローズマリーもまた欧州で古くから薬用に供され、『薬物誌』ではLIBANOTIS(附図)に比定されている。薬能は体を温めて黄疸を治し、また疲労回復によいという。旧学名は現学名の種小名の“rosmarinus”が属名であったが、今ではアキギリ(Salvia)属に統合されている。ディオスコリデスは“rosmarinus”を本種に対するローマ人の呼称と記載しているからラテン語の由来である。“rōs”は「しずく」を意味し、「海」の意の“marīnus”を付して「海の雫」の意となるが、俄には理解し難い。本種は精油に富むので、それを「海の雫」に見立てたと考えることもできるが、当時はまだ精油の製法は確立していないので、関連づけるのは難しい。本種の古代ギリシア語名はラテン名とはまったく異なる“λιβανωτίς” (libanōtís)であり、『薬物誌』のLIBANOTISと同じである。この名はギリシャ神話に登場するLibanusリバヌス (“Λίβανος”)に所以がある。リバヌスは生まれる前から神殿で神に仕えていたが、一部の不信心な人々から嫉妬され殺されてしまい、大地の女神Gaiaガイア (“Γαῖα”)は他の神々を讃えて彼の名を冠した植物に変え、同様に神々に捧げた。すなわち、リバヌスが変えられた植物こそ芳香のある小さな低木ローズマリーだったというのである。この名はセリ科イブキボウフウの属名Libanotis(旧属名はSeseliに採用されているが、実は『薬物誌』には別の同名品があり、セリ科イブキボウフウ属などに比定されているからややこしい。ローマ時代になると、LIBANOTISは別の植物の名に転じたため、ラテン名の“rosmarinus”をどこからか引き出して命名したのかもしれない。

III.サフラン(Saffron)

 地中海サントリーニ島のアクロティリ遺跡から、サフランを摘む女性たちが描かれた紀元前16世紀といわれるフレスコ画が発見され、青銅器時代には栽培されていたと考えられている(Moshe Negbi, “Saffron: Crocus sativus L.”, CRC Press, 1999)。しかしながら野生種は発見されておらず、3000年以上前から球根の分割を繰り返して栄養繁殖されたため不稔性となったと説明され、ギリシアのクレタ島にのみ分布するCrocus cartwrightianusを原種とする説がもっとも有力視力されている。そのほかイタリア、ユーゴスラビアに分布するC. thomasii、ブルガリア、ギリシア、クリミア半島、レバノン〜パレスチナ、ルーマニア、トルコ、ユーゴスラビアに分布するC. pallasiiも柱頭が3分裂して長く伸びるので原種の可能性があるとされる。欧州で長い薬用あるいは実用の歴史のあるサフランは、当然ながら、『薬物誌』にも収載され、KROKOS(附図)に比定されている。薬能については、ディオスコリデスは消化を促進し、収斂作用、利尿作用があり、目やにを止め、性病に効果があり、塗ると丹毒に伴う炎症を鎮め、耳の炎症にも効くと記載している。英語でsaffronサフランというが、ラテン語の“safranum”に由来し、アラビア語の“az-za'faran”(زعفران)、ペルシャ語の“zarparān” (زرپران) などとも起源を同じくし、その利用が青銅器時代までさかのぼる古い歴史を物語っている。言語学的には「金の糸が張られた」という意味とされ、鮮黄色の雄しべを指すかあるいは本種の乾燥した雌しべ(柱頭)が高値で取引されることから、黄金に等しい存在であることを暗示しているのかもしれない。属名の“Crocus”は古代ギリシア語の“κρόκος” (“krókos”)に由来し、『薬物誌』のKROKOSも同源である。この名もギリシア神話に所以があり、伝令神Hermēsヘルメース(“Ἑρμῆς”)の同性愛の恋人“Krókos”クロコスは、運動競技の最中、頭にヘルメースが投げた円盤の直撃を受けて致命傷を負い、悲しみに沈んだヘルメースが彼をサフランの花に変身させ、またクロコスの頭から滴り落ちた三滴の血がその花の3分裂した柱頭になったという。一方、種小名の“sativus”はラテン語の男性形で、属名とは一転してその由来にロマンのひとかけらもないが、「作物として栽培される」という意で、女性形の“sativa”、中性形の“sativum”とともに多くの有用栽培植物の種小名に用いられている。
 西洋で3500年の長い歴史をもつ本種が中国に伝わったのは紀元後で、現存漢籍では『證類しょうるい本草ほんぞう唐慎微とうしんびに「陳氏云ふ、其れ香ること十二葉にして百草のはならん。按ずるに魏略云ふ、秦國に生ずと。二月、三月に花有り、狀は紅藍の如し。四月、五月に花を採れば即ち香るなり」(巻第十三「木部中品」)とある鬱金香ウコンコウをもって、中国におけるサフランの文献上の初見とする。補足しておくと、この記述には一部誤りがあり、後述するように、同書巻第九「草部中品」の鬱金の条にある『圖經ずけい本草ほんぞう』を引用したほぼ同内容の記述では“”となっていて、これがローマ帝国を表す正しい漢名である。なぜアヤメ科のサフランが鬱金香というショウガ科ウコンの名を冠しているのか説明する前に、以上で述べた文献の書誌学上の関係が少々複雑なので整理しておく。『證類本草』は11世紀末に成立した現存する中国最古の本草書であるが、鬱金香を最初に収載した正統本草書は、973年成立の『開寶かいほう新詳定しんしょうてい本草ほんぞう劉翰りゅうかん馬志ましか、あるいは翌974年には早くも同一編者によって改訂、成立した『開寶かいほう重定じゅうてい本草ほんぞう』のいずれかである。しかし、通例、両書をあわせて『開寶本草』と称しているのでまったく問題にならない。それから一世紀ほど経て、1060年には記載文を主とし附図を伴わない『嘉祐かゆう補註ほちゅう本草ほんぞう掌禹錫しょううしゃくが、その翌年には附図を伴う『圖經ずけい本草ほんぞう蘇頌そしょうが相次いで成立した。正確の異なる国選本草書の両立は利用者にとって不便なこともあって、唐慎微は両書を統合しさらに約660品目の新載薬物と多くの医書、傍流本草書からの引用文を加えて『經史けいし證類しょうるい備急びきゅう本草ほんぞう』を編纂した。同書の成立の経緯から唐慎微による注釈はほとんどないが、本草書としての資料価値は『本草ほんぞう綱目こうもく』をはるかに上回るといわれる。唐慎微による原本は伝存しないが、大観二(1108)年に艾晟がいせいが校正した大観たいかん本草ほんぞうと、さらに(政和六(1116)年に曹孝忠そうこうちゅうらが校正して刊行した政和せいわ本草ほんぞうの2系統の刊本が現存し、以上を合わせて『證類本草』と呼んでいる。以上の書誌からすれば、鬱金香に初めて言及したのは“陳氏”すなわち陳蔵器ちんぞうきであり、739年に成立した傍流本草の『本草ほんぞう拾遺しゅうい』が出典となる。すなわち、前述の記述のさわりは陳蔵器注を引用したものであるが、『本草拾遺』は伝存せず、『證類本草』の各条に「陳蔵器注」としてあるいは巻末に「陳藏器餘」として引用されている。一方、掌禹錫が陳蔵器注として引用した“魏略云”については、『藝文げいもん類聚るいじゅう』に「魏略に曰ふ、大秦國に鬱金をだすと」(巻八十一「藥香草部上 鬱金」)とあり、ここにサフランに鬱金香という見当違いな名が付けられた理由を知ることができるのである。鬱金香がサフランであるとすれば、大秦國ローマ帝国に産するのは熱帯アジア原産の鬱金ではなく、原産の鬱金香のはずだから、『藝文類聚』は勘違いしていることになるが、それには相応の理由がある。西洋とインドとは中間に位置するペルシアを介して紀元前より比較的頻繁な交流があり、古代の近東諸国においてはインド原産の鬱金をIndianインディアン saffronサフランの名で呼んでおり、その名は今日でも継承されている。両品の基原植物にはまったく類縁関係はないが、成分としては別系統ながら、サフランはCrocinクロシン、鬱金はCurcuminクルクミンという黄色色素を含むという共通性がある。したがって鬱金、サフランのいずれも産しない古代の中国では、サフランに鬱金香という紛らわしい名前をつけ、本草では鬱金と区別して草部を避けて木部に収録せざるを得なかったのである。モンゴル族が中国を併合し、版図が中央アジアからペルシア、欧州の東部まで及ぶモンゴル帝国(元)が成立し、西方の産物が直接中国大陸にもたらされるようになると事情は一変する。元代の薬膳書『飲膳いんぜん正要せいよう忽思慧こつしけい、1330年)には「咱夫蘭 味は甘く平にして無毒。心憂鬱積、氣悶して散ぜざるをつかさどる。久しく食すれば人心をして喜ばしむ。即ち是れ回回の地面の紅花、未だ是否詳らかならず」とあり、ここで初めて“咱夫蘭サフラン”という西洋名を忠実に音写した漢名が登場したのである。“咱”は現代中国語では“zá”あるいは“zán”の音であるが、『康熙こうき字典じてん』は“咱”の音を「咂」(『篇海』)あるいは「査」(『中州音韻』)としているから、古くは“さ(sa)”と音読された。ところが漢民族が再び中国の支配権を回復し明国が成立すると、『本草ほんぞう綱目こうもく李時珍りじちん番紅花バンコウカという新名を立てて『飲膳正要』の夫蘭とは微妙に異なる夫蘭を異名とした(巻第十五「草之四 番紅花」)。これに対して『用藥ようやく須知すち(松岡恕庵、1726年)は『本草綱目』を引用して「近來番舶ニ將チ來ル所(ノ)ト云モノアリ。本草綱目ノ番紅花是也。一名洎夫キフラン一名撒夫郞サフラン。」(巻之二 紅花条内)と記載し、saffranの音写とは明らかに異なる訓をつけている。『康熙字典』によれば、“洎”の音は「墍」「曁」あるいは「䀈」と同音とされ、いずれも“き”あるいは“ぎ”の音であるから、松岡恕庵の訓読は正しいことがわかる。『本草綱目』はもう一つの異名「撒法郎」を載せており、“săfăláng”の音であるから、これによって李時珍が“咱”を字体の酷似する“洎”と取り違えてしまったことが確定的となる。しかしながら、今日でも李時珍の“洎夫蘭”はサフランの漢名として広く通用し、わが国では「さふらん」と音読されている。一方、番紅花という名は、李時珍が集解で「西番(新疆とその外境)囘囘回回の地靣(イスラム圏の地)及び天方國(アラビア)に出づ、即ち彼の地の紅藍花なり」と述べているように、紅藍花ベニバナの類と考えていた。李時珍は「元時、以て食饌に入り用ふ」(前掲」)とも述べているので、『飲膳正要』を直接あるいは間接的に参照したことに疑問の余地はないが、同書の“未だ是否詳らかならず”とあるところに言及することなく、“彼の地の紅藍花”としてしまった。ネーミングとしては、“番”は“蛮”に通じるので、「蛮種の紅花」の意として実に明解であるが、番紅花の異名である“洎夫蘭”を、たとえ意識的に“咱”を“洎”に取り替えたとしてもまったく『飲膳正要』を引用せず、あたかも『本草綱目』における新称であるかのように記載しているのは穏当ではあるまい。
 サフランの国書における初見は前述した『用藥須知』であるが、『本草綱目』が漢土から慶長九(1604)年までには伝わり、しかも寛永十四(1637)年に最初の和刻本が刊行されているから、内容的には李時珍注釈の受け売りにすぎず新鮮味はまったくないと考えられる。したがって実質的な意味では1763年初刊の『物類ぶつるい品騭ひんしつ(平賀源内)に“洎夫”とあるをもってサフランの初見とすべきで、「ラテイン語サフラン紅毛語オランダ語フロウリスヱンタアリス又コロウクスヲリエンタアリ」という、『本草綱目』ほか漢籍専門書に見られない記述が注目される。因みに、この外来名は、『本草ほんぞう綱目こうもく啓蒙けいもう(小野蘭山、1803年)によれば、いずれの名も「花」という(巻之十一「草之四 番紅花)が、「植物」という意に解すれば間違いではないが、“flower”とするならとんでもない勘違いである。「フロウリスヱンタアリス」は“Floris entalis (entallis?)”かと思われるが、まともな意味をなす外来語は見当たらない。一方、「コロウクスヲリエンタアリ」は辛うじてCrocus orientaleと読み取れ、ネット検索で博捜すると、15世紀ドイツの“Gelb farb zu machen(訳:黄色を作るには)”というタイトルの文献に出てくるArtechne database。いかにもラテン学名のように見えるが、サフラン(Crocus)属各種の正名・異名に該当するものは見当たらず、Artechne databaseはCrocus orientaleをhistorical nameとし、current nameを“Crocus sativus L. (Saffron) colorant”としているので、いわゆるラテン学名ではなく、サフランを用いた染色技術に関連のある語彙のように思われる。すなわち、『物類品隲』はこのようなかなりマニアックな情報まで載せているのであるが、同書の成り立ちの経緯を知れば理解できる。平賀源内は同好の士に呼びかけて各種の珍品を持ち寄って研究発表や情報交換をするのに熱心で、「薬品会(物産会)」を数度にわたって主催している。そこで出品された2000余種のうちから360種を選び、解説を加えて刊行したのが全6巻からなる博物書『物類品隲』である。第五巻に36種の珍品の図絵が掲載され、その一つに洎夫藍サフランが含まれるが、「此の一圖、紅毛本草を以て臨む」の注釈が示すように、オランダ人博物学者Rembertusレンベルトス Dodoneusドドネウスの『CRUYDT-BOECK(草木誌)』(1554年)の原著あるいは仏語・ラテン語訳本を入手して書き写したものである。平賀源内によると、サフランの生品も伝わっていたようであるが、絶滅したと述べている。とはいえ、乾燥花(柱頭)はかなり自由に入手できたらしく、『廣惠こうけい濟急方さいきゅうほう(1789年)では通理方に、また『救急方』でも洎夫蘭を用いた処方を記載し、“血の道”(月経、妊娠、更年期障害など、女性に特有の病症に関連するものを総称していう)に用いるとあるように、当初では李時珍の影響を強く受けて紅藍花コウランカ紅花コウカともいい、ベニバナの花を基原とする生薬)に準じて用いられた。無論、『遠西えんせい醫方いほう名物考めいぶつこう(宇田川榛斎訳述・榕菴校補、1822年)では雜腹サフラン丁幾ティンキ去爾テゥルすなわちサフランのチンキ剤(saffran tincture)について記載され、薬能を「蒸氣及ビ汗ヲ發病、毒、惡液ヲ皮表ニ驅發ス。惡性ノ痘、潜伏内攻シテ危險ノ諸症ヲ發スルニ用ヒテ速ニ排泄シ其諸症ヲ治ス」(巻十九 「左」)と記述し、当然ながら漢方とは大きく異なる。以上、本種の生品がわが国に伝わったのは、平賀源内のいうように、江戸中期であるが、定着して図絵に表されたのは幕末の1863年にフランスから球根を取り寄せて以降であり、伊藤圭介著『植物しょくぶつ圖説ずせつ雜纂ざっさん』に彩色図絵とともに詳しい記載文も記されている(191)。ただし、秋咲きの真生サフランのみならず、紫斑花、黄花、白花の春サフランや花サフランなどと呼ばれる園芸種も含まれ、また「紅毛オランダニテト呼モノ」は前述のIndian saffronではなく、インド産のsaffronの意であることに留意する必要がある。すなわち、この時期に薬用サフランと園芸サフランも合わせて渡来したことが明らかになる。
IV.引用古典資料(五十音順)