おけら焚きとお屠蘇について
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詳細は拙著万葉植物文化誌」を参照。

 オケラAtractylodes japonicaはキク科の多年草(右写真)であるが、同じキク科で花が似るコウヤボウキPertya scandensと見間違える一般人は少なくない。決して見栄えのする野草ではないが、野草愛好家の間では根強い人気を保ち続けている。それはオケラが万葉集でも詠われた野草であり、古代の息吹を感じさせるからであろう。万葉時代には“うけら”と呼ばれており、今日ではそれがわずかに訛って「オケラ」となった、起源の古い名前である。古くからある名前ということはすなわちオケラが深く日本人の生活に奥深く関わっていることを示唆する。ここではオケラと習俗、文学等との関係を考証し、またそれを通して「オケラ」の名の語源も考えてみたいと思う。テレビのクイズ番組を見てわかるように、語源に関心をもつ人は多い。結論からいってオケラの語源は手がかりすらないほどわからないのであるが、意外に多くの伝統的行事、風習に関わってきたことを知れば、語源だけが興味の対象ではないことがわかるだろう。

1.お屠蘇・うけらの神事の起源とオケラ

 俳人の阿波野あわの青畝せいほ (1899~1992)の句に、「蒼朮はけむりと灰になりにけり」というのがある。蒼朮とは日本薬局方に収載される生薬“ソウジュツ”の漢名であり、オケラの同属近縁種ホソバオケラAtractylodes Lancea(左写真)の根(植物学的には根茎であるが、以降は一般通念にしたがって根で統一して記述する)を基原とする。この知識を得た上でも阿波野の句が何を意味するのか理解できる人は少ないだろう。俳句の季語辞典を見ると「蒼朮(を)焚(焼)く」というのに遭遇する。この場合、蒼朮は“そうじゅつ”と“おけら(をけら、うけら)”と二通りの読み方があり、前者は七音句、後者は五音句とする。日本画家で随筆家としても知られる鏑木かぶらき清方きよかた(1878-1972)は「つゆどきになると、土蔵や納戸、または戸棚の中に 蒼朮そうじゅつ を焚きくゆらすのが、昔はどこのうちでも欠かさぬ主婦のつとめであった」と書き記している(『鏑木清方随筆集』、岩波書店、1987年)。この風習は古くからあって、俳句では「蒼朮を焚く」を梅雨の季語として詠むようだ。一方、オケラの根も生薬として用いられ、日本薬局方ではこれを白朮ビャクジュツと称している。白朮と蒼朮は表面の色に違いがあり、前者は名の通り白いが、後者は黒褐色であり決してあおくはない。俳句では蒼朮を“おけら(をけら)”と読ませることもあるが、ホソバオケラは中国華中の原産であって日本には野生しないので、本来なら「白朮おけらを焚く」とするのが正しい。オケラとホソバオケラはよく似ており一般人には識別が難しいため、在来種のオケラと江戸時代に渡来し栽培されるようになったホソバオケラを区別せず、どちらもオケラと呼ぶようになったようだ。「蒼朮を焚く」のは、湿気を払い邪気と悪臭を去ることを目的として行うのであるが、その起源は正月や節分の日などの社前で篝火にオケラの根を焚いて病の鬼を祓う「おけら焚き(うけら焚きともいう)」に求めることができるだろう(→関東地方では東京都台東区上野の五條天神社のうけらの神事が知られる)。おけら焚きがいつ頃から始まったのか不明であるが、オケラに関連したもう一つの興味深い風習がある。日本では毎年正月になると一年の無病息災ならびに健康を祈願してお屠蘇とそを飲む習慣がある。1712年頃、大阪の医師寺島良安によって編纂されたわが国初の百科事典『和漢わかん三才さんさい図会ずえ』(18)(現代語訳版、平凡社)の「造醸類」の項に、嵯峨天皇の御代弘仁二(811)年の元旦、唐の和唐使からのつかい蘇明が献上した霊薬屠蘇とそ白散びゃくさんを御神酒に浸したものを用いて四方拝しほうはいの儀式を行ったと記載されている。『延喜式えんぎしき(905年)にも合薬剤の項に「神明白散五十二剤。度嶂散二剤。屠蘇二剤」とともに「正月供屠蘇命婦以下嘗薬小兒以上服料」の記載が見えるので、寺島良安の記述は確かであろう。屠蘇散で、『本草ほんぞう綱目こうもく(李時珍、1578年)では赤朮セキジュツ(蒼朮の異名)桂心ケイシン(桂皮のコルク層を除いたもので最良品とされる)・防風ボウフウ菝葜バッカツサルトリイバラの根)・大黄ダイオウ鳥頭ウズ赤小豆アズキを配合したもの、白散は『日本歳時記』(貝原益軒、1688年)によれば白朮、桔梗(キキョウ)、細辛サイシンを調合したものとある。このほかに、度嶂散どしょうさん(配合生薬は不明)というのがあり、宮中では元日から三日間これらの御薬を天皇に献じた。飲み方に順番があり、一献は屠蘇、二献は百散、三献は度嶂散とされた。この中で屠蘇散だけが今日に伝えられており、江戸時代末期から一般庶民の間に広まった“お屠蘇”の起源となった。但し、配合する生薬は時代によって異なるようであり、現在のお屠蘇は桔梗・防風・山椒(サンショウ)・肉桂(ニッケイ)・白朮の5種であり、『本草綱目』にあるような猛毒植物のトリカブトAconitum sp.の根を基原とする鳥頭や瀉下薬である大黄は使われていない。京都下賀茂神社に残る御薬酒おやくしゅ神事しんじも起源は同じでありは、かっては宮中の典薬てんやくのかみ(皇室の医薬を司る典薬寮の長官)から「白散・度嶂散」が奉納され、これを以て御薬酒を調製して宮中に献上したとされことでわかるように、当時は貴重なものであったことがわかる。屠蘇散の名は、今から約1700年前に東晋の葛洪かっこう(283-364)が著した医書『肘後ちゅうご備急方びきゅうほう(人民衛生出版社,影印劉自化本, 1982年)に初めて登場する。それによると屠蘇散は華陀かだ(3世紀頃の魏の伝説の名医)が創製したものであり、元旦にそれを飲めば疫病一切の不正の気を砕くと記されている。つまり、邪気をほふり、魂を蘇生するといわれる屠蘇の効用が書かれており、これをもってお屠蘇の真の起源としてよいだろう。屠蘇散、そして白散にもじゅつ、すなわちオケラまたは近縁種の根が含まれており、これが薬効上もっとも重要といわれてきた。葛洪は著名な神仙家と伝えられ、この書には、へそ(臍)の上に容器を置いてもぐさ(ヨモギの葉を乾燥し揉んで解したもの)を焚くという「薫臍くんさい」療法が記述されている。もぐさ以外の生薬を用いて行うこともあったようで、当時は、薬(生薬)は必ずしも内服するだけではなく、薬草を焚きその煙を浴びることで病邪を払う処方があったことがわかる。おそらく「じゅつを焚く」というのはこれと同系統の治療法であって屠蘇散などとともに日本に伝わってきたと思われる。つまり、「おけら焚き」と「お屠蘇」は同文同種である可能性が高く、その起源は古代中国の医方にあったと考えられるのだ。

2.屠蘇散は漢方薬にあらず

 江戸時代の著名な方派ほうは漢方医である 吉益よします東洞とうどう(1702-1773)は、著書「薬徴やくちょう」の中で、白朮の効用を「主利水也。故能治小便自利不利。」(主として水分の偏在、代謝異常を治す。したがって頻尿、多尿あるいは小便が出にくいものを治す。)と説明している。じゅつは中国最古の本草書である『神農しんのう本草ほんぞうきょう』にも収載される古い歴史をもつ生薬であり、薬効については「治風寒湿痺死肌。痙。疸。止汗除熱。消食。」(リュウマチ、知覚全麻痺、痙攣、腫れ物を治す。汗を止め、熱を去り、消化不良を改善する。)と記載され、東洞の薬徴の内容とはかなり異なっている。オケラは漢方だけではなく民間療法にも多用されているので、栽培かあるいは豊富な野生品の採集で一般に流通していたようである。江戸時代の民間療法書『普救ふきゅう類方るいほう(林良適・丹羽正伯著、1729年)には「耳つぶれて聞こえざるに、蒼朮をけら 一塊、長さ七分ほどにし、上の方は切、平にし、下のかたは細く削り、耳の中へいれ、平かなる上より灸をすへ(全)てよし、或は七壮または十四壮ほども耳の中へ熱み通ずるほどすへ(全)てよし」という記述がある。これは明の医学書である『衛生えいせい易簡方いかんほう胡濚こえい、1427年)から引用したとあり、蒼朮(おけら)と灸の組み合わせが「うけら焚き」とも相通ずる点で興味深い。白朮、蒼朮ともに精油に富むのであるが、成分相にかなりの違いがある。白朮の精油はほとんどatractylonを主成分とするユーデスマン系セスキテルペンから成るのに対し、蒼朮の精油はatractylodinという脂肪酸から生合成されると思われる非テルペノイド系成分を主とする。いずれの精油も匂いは決してよいとはいえないので、香料としては不適である。このように白朮と蒼朮には含有成分相に大きな違いがあるにもかかわらず、古方派漢方医学では白朮と蒼朮を区別せず、どちらも単に朮と称して用いる。漢方医学では朮は水毒を去る駆水薬と考えられており、「蒼朮を焚く」風習が湿気を払うとしているのと相通じるものがある。列記とした生薬を配合した薬方にもかかわらず、屠蘇散、白散、度嶂散のいずれも漢方医学で処方されるものではない。したがってこれらを漢方薬と呼ぶのは誤りである。漢方医学は後漢時代にちょう仲景ちゅうけい (150~219)が編纂した『しょう寒論かんろん』を経典とする伝統医学体系であり、傷寒論に収載されない屠蘇散、白散、度嶂散は漢方薬と見なすことはないのである。中国には様々な伝統医学の流派があり、神仙思想、特に養生術と錬丹術(内丹術)は、「長寿のための健康法」という意味で医学と密接な関係にあった。『神農本草経』にある仙薬というのも神仙思想の影響を受けたものである。日本の漢方医学では神仙思想の影響は薄いのであるが、前述の神事などの風習、すなわち「おけら焚き」、「お屠蘇」の中にその残滓を見ることができる。お屠蘇の風習は、江戸時代になると武士階級、富裕町人に受け入れられ、末期になると庶民まで広がっている。『古今ここん要覧ようらん稿こう(1842年)によれば、「屠蘇散を紅絹の袋に入れ、大みそかの日中に井戸に沈め、元旦のとらの刻(午前4時ごろ)に取り出し、温かい酒の中に浸して飲用する」とある。また、年少者から年長者の順に飲むという風習も、屠蘇散という、一見、漢方薬風でありながら、漢方医学とは無縁であることを示すものだろう。今日では、屠蘇散は漢方製剤メーカーがつくったものを漢方薬局で配布されたりすることが多いが、江戸時代では漢方医が新年の健康祈願のために患者に配っていたという。

3.うけら焚きはお香とは関係がない

 多くの人は「おけらを焚く」ことの起源は「おこうを焚く」ことに何らかの関連があるのではないかと思うかもしれない。「お香」は、仏教とともに伝来したもので、沈香ジンコウ白檀ビャクダン桂皮ケイヒ・丁子チョウジ麝香ジャコウなどの香料を火の上で焚いて仏前を清め(いわゆる焼香のことである)邪気を払う宗教行事「供香くこう」であって、人から邪気を払い去る「おけら焚き」とは性格が根本的に異なる。それはインド起源の仏教思想と中国固有の神仙思想の違いに基づくものである。お香はインドを起源とするものであり、香料原料の大部分は中国には産しないこともそれと関係がある。日本に伝来してから宗教行事としての「供香」は大きく性格を変えていった。平安時代になると衣服に香をたき込め、そこに移った香りを楽しむ「移香うつりが」や「追風おいかぜ」「そで」、部屋に香りをくゆらす「空薫そらだき」などの流儀を生み出した。平安時代の王朝文学の最高峰である『源氏物語』(11世紀初期、紫式部)の「帚木ははきぎ」に「あやしくてさぐり寄りたるにぞ、いみじく匂ひ満ちて、顔にもくゆりかかる心地するに思ひよりぬ。」という「移香」を描写した一節があり、お香が貴族社会で奥深く浸透していることが理解され、ここには宗教色は微塵も感じられない。それが更に発展して室町時代の東山文化の精神文化と結びついて“わが国独特の香道”が成立したのである。因みに、華道、茶道も同じ室町時代に完成したが、いずれも精神文化を伴っている点に留意する必要があり、ここに日本文化の独自性を見出すことができる。一方、仏教の「供香」は、江戸時代の寛文年間に線香が製造されると、葬儀や法事で抹香を焚く以外はほとんど「線香」を用いるように簡素化が進み、起源を同じくしながらも多様な香料を用いる香道と大きく乖離していった。

4.叙情をそそる万葉の名花オケラ

 以上、オケラが中国から持ち込まれたお屠蘇(多分、おけら焚きも)の伝統的風習に深く関わっていることは明らかだが、文献上では平安初期以降のことである。また、お屠蘇やオケラの根を焚く風習は朝鮮半島には伝承されていないようであり、万葉時代にもその風習があったという証拠はない。万葉集には「宇家良うけら」の名前が見えるので、神事などの風習が名の由来に反映されたことは考えにくい。前述したように、オケラの根は後世の漢方医学の要薬である。『延喜式』(905年)の「所須薬種」に「白朮七斤十兩二分」とあるので古くから薬として用いられたことは間違いない。『日本書紀』巻二十九に「天武十四年冬十月癸酉朔 丙子 百済僧常輝封三十戸 是僧寿百歳 庚辰 遣百済僧法蔵 優婆塞益田直金鐘於美濃 令煎白朮 因以賜絁綿布 十一月癸卯朔 丙寅 法蔵法師 金鐘 献白朮煎 是日為天皇招魂之」とあり、685年に百済の僧法蔵、優婆うばそく(三宝に帰依した半僧半俗の在家の男)益田ますだのあたい金鐘こんしょうを美濃に派遣して白朮を求め煎じたものを天皇に献上したことが記されている。同年、九月二十四日、天武天皇は病床にあったという記載が見える。この記述は、白朮が日本列島に産することを当時の日本人が知らなかったことを示すのかもしれない。正倉院には60種の生薬が残されているが、この中には朮に相当するものはない(朝比奈泰彦編、正倉院の薬物、便利堂、1955年)。正倉院薬物は外来産の貴重薬物ばかりであるから、国産で賄うことができた白朮は珍しい薬でないとして正倉院に納められなかったのであろう。万葉の歌に標野しめのがしばしば現れるので、ここにオケラが生え、薬用に採集されていたのかもしれない。万葉集ではオケラを詠める歌は3首ある。

1.恋しけば 袖も振らむを 武蔵野の
  古非思家波 素弖毛布良武乎 牟射志野乃
         うけらが花の 色になゆめ
           宇家良我波奈乃 伊呂尓豆奈由米

巻14 3376 詠人不知

2.我が背子せこを あどかも言はむ 武蔵野の
  和我世故乎 安杼可母伊波武 牟射志野乃
         うけらが花の 時なきものを
           宇家良我波奈乃 登吉奈伎母能乎

巻14 3379 詠人不知

3.安齊可あせか潟 潮干しほひのゆたに 思へらば
  安齊可我多 志保悲乃由多尓 於毛敝良婆
         うけらが花の 色に出めやも
           宇家良我波奈乃 伊呂尓弖米也母

巻14 3503 詠人不知

 いずれの歌も詠み人知らずの相聞歌、すなわち恋歌であり、恋心を「うけらが花」を比喩して詠い込んでいる。野山に花は多いのにオケラの花を選んで詠っているのは、目立ちすぎるほど派手ではなく、かといって地味でもない花の色がやや白色がかって、しかもいているかなきかの微妙な風情を醸し出すからであろう。また「オケラにトトキツリガネニンジン」というほど、今日ではオケラの若芽は山菜として賞味されている。このように典型的な叙情歌として詠われているオケラには、神事などの習俗色はおろか食べられる、薬になるなどの野暮ったい生活色は少なくとも万葉集には全く感じられないのである。『延喜式』の「諸国しょこく進年料しんねんりょう雑薬ぞうやく(巻第37「典薬寮」)に、各地からの白朮の進貢を記録しているが武蔵国の名はない。特に第1、2の歌は「武蔵野のうけら」として地名を出しているのは、オケラが武蔵野に多かったことを示唆すると思われるが、畿内にも豊産したオケラはわざわざ辺境の地から献上するほどの産物ではなかったようだ。すなわち武蔵野は野生植物オケラにとって人間に採集されることのない天国だったのではなかろうか。この万葉集で詠いこまれたオケラのイメージは、後世に武蔵野を代表する風物として多くの歌で詠まれることになった。たとえば、 藤原ふじわらの清輔きよすけ (1104-1177)の「武蔵野のうけらが花の自から開くる時もなき心かな」(清輔朝臣集)は明らかに万葉集の歌そのものを詠みかえたものである。近世では、『萬葉集新考』の著書で知られる幕末の国学者・歌人 安藤あんどう野雁ぬかり (1810-1867)が「武蔵野のウケラが花は春駒に踏まれながらも咲きにけるかも」という歌を残している。江戸時代末期を代表する格調高い座敷長唄「あき色種いろくさ」の中にも「うけら」の名を見ることができる。この例をみてもわかるように、オケラが如何に古典文学の中に根付いているか理解できるだろう。

秋草の 東の野辺の忍草 しのぶ昔や古へぶりに 住みつく里は夏をひく 麻生の山の谷の戸に 朝夕向かう月雪の 春告鳥の あとわけて なまめくが花摺りの 衣も雁がね 声を帆に あげておろして玉簾 端居の軒の庭まがき うけら紫葛尾花 共寝の夜半にの葉の 風は吹くとも露をだに すへじと契る女郎花 其の暁の手枕に 松虫の音ぞ 楽しき 変態繽粉たり 神なり又神なり 新声婉転す 夢は巫山の雲の曲 雲の曙の雨の夜に うつすや袖の蘭奢待 留めつ うつしつ睦言も 何時か無言のかねてより 言葉の真砂敷島の 道の行方の友車 くるとあくとに通ふらん 峰の松風岩越す波に すががく琴の爪調べ 現心に花の春 月は秋風ほととぎす 雪に消えせぬ 楽しみは 尽きせじ尽きぬ千代八千代 常磐堅磐の松の色 いく十返りの花にうたはん

 以上、オケラが身近な習俗にも深い関わりがあり、また有用な漢方薬として病気の治療や健康の維持に役立ってきたことについて述べた。また、草花として地味な存在ながら、古典文学に深く根を下ろしていることも明らかであろう。しかし、これらのいずれからもオケラの語源に結びつく手がかりすら得られていない。百済の僧からオケラが白朮という薬の原料になることを学んだとはいえ、身近な生活空間でオケラの存在に気付いていたことは万葉の叙情歌で理解できよう。万葉集では「宇家良うけら」であるが、『本草ほんぞう和名わみょう』や『心方しんぽう』では「乎芥良をけらとあるので、「うけら」の「う」はwuの音であることがわかる。「うけら」が東国の「武蔵野」と深く結びついているので、これは当時の東国訛りなのかもしれない。「うけら」、「をけら」のいずれも純粋な「大和言葉」の語感をもち、今日までごく軽微な訛りだけで伝承されてきた。結局、「オケラ」の名は現代人では理解できない上代人特有の感性を具現化した名前であり、語源は皆目わからないといわざるを得ない。
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