1.万葉の名花のふるさと「武蔵野」の雑木林とすすき野
万葉集で詠われる草花は166種といわれ、諸外国の古典と比べても多いといわれる。少なくとも文学における草花の存在感は明らかに大きいことは確かといってよかろう。1200年以上も前にそれほどの植物種を認識していたことだけでも感心するが、その大半は食用や薬用などの有用植物ではなく、決して見栄えするわけでもない植物を詩歌の対象にしていたというのはまさに驚異というしかない。その中でムラサキ、オケラは「武蔵野の名花」の称号を得ており、万葉集以来の日本の古典文学史の中で確固たる地位を築いているといえよう。ムラサキ、オケラ、それにキキョウ、スミレなど日当たりのよい草原を好む植物は今日の日本列島では分布が限られるが、日本列島が大陸と陸続きだった氷河期時代(4回あったとされるが、最終氷期でも2万年以上前である!)には満州、朝鮮から日本列島(大陸と陸続きだから、現在の日本列島に相当する地域というのが正しい)まで地理的な連続性をもって広く分布していた。最終氷期が終結してから海進により日本列島が大陸から切り離されてから、気候が温暖になるにつれてこれら草原性植物は日本列島における分布域を縮小していった。植物地理学ではムラサキ、オケラなどを満州、朝鮮半島を経て“流入した”「満鮮要素」植物群と称するが、実際には大陸から切り離されて日本列島として隔離されたのであるから“流入した”という表現は正しくない。大陸から切り離される前の日本列島の気候は現在より乾燥し、自然草原が発達していた。したがってムラサキ、オケラなどはそのような環境に生える草原性の植物であり、鬱蒼たる森林の中には見られないのである。
因みに、現在の日本列島の潜在植生では森林が発達するのでそれらの植物の分布はごく限られたものでしかない。
万葉集で「武蔵野のオケラ」といわれるほどオケラと武蔵野は切っても切れない密接な関係となったが、現在の武蔵野にはオケラはほとんど見ることはない。武蔵野自体もその語感の良さからだろうか、古典文学に限らず近世の文学でもよく引用される。おそらく、武蔵野の名を世に広めた最大の功労者といえば、明治時代の文豪国木田独歩(1871-1908)をおいて他にないだろう。独歩の代表作『武蔵野』(1898年)に次のような有名な一節がある。
昔の武蔵野は萱原のはてなきをもって絶類の美を鳴らしていたように言い伝えてあるが、今の武蔵野は林である。林は実に今の武蔵野の特色といってもよい。すなわち木はおもに楢の類で冬はことごとく落葉し、春は滴るばかりの新緑萌え出ずるその変化が秩父嶺以東十数里の野一斉に行なはれて、春夏秋冬を通じ霞みに雨に月に風に霧に時雨に雪に、緑陰に紅葉に、さまざまの光景を呈するその妙はちょっと西国地方また東北の者には解しかねるのである。
以降、武蔵野と云えば雑木林を連想するほど、独歩のこの感性は後世に大きな文学的衝撃を残したといってよいのであるが、それには原典があった。独歩はツルゲーネフやワーズワースに親しみ、その影響を強く受けた自然主義派文学の巨頭であるが、「武蔵野」にも書かれているように、二葉亭四迷が翻訳したツルゲーネフの短編小説『あいびき』(1888年)の中で描写されたロシアの樺の木の落葉樹林の趣を、独自の感性によって武蔵野の雑木林と重ね合わせ、今日、一般人が思い浮かべるような雑木林のイメージをつくりあげたのである。独歩独特といってよい長い文章中で記述するような雑木林が武蔵野に存在したのは確かであるが、「萱原のはてなきをもって絶類の美を鳴らしていたように言い伝えてある」というような萱原、すなわちすすき野の草原が武蔵野にあったのだろうか。また、それとオケラやその他の草原性植物とはどう結びつくのだろうか。確かに古典文学では武蔵野のすすき野原を示唆するものが少なくない。平安時代初期の小説『伊勢物語』(作者、成立年代ともに不詳)第十二段に「武蔵野は今日はなや(焼)きそ若草の妻もこもれり吾もこもれり」とある歌は野焼きを描写したものであり、『新古今和歌集』(13世紀初期、藤原定家ら撰)の摂政太政大臣作とある歌「行く末は空も一つの武蔵野に草の原より出づる月影」(秋上 四二二)もやはり萱原のはてなき「昔の武蔵野」と同じイメージを思い起こさせる。摂政太政大臣の歌は、後世の文人および芸術家に、「武蔵野といえば秋草の原に月」という連想を植え付けるのに大きな役割を果たした。鎌倉中期の「とはずがたり」正応三年八月の条に、当時の秋の武蔵野の状況が次のように記述されている。
八月のはじめつかたになりぬれば、武蔵野の秋の気色ゆかしさにこそ今までこれらにも侍りつれ、と思ひて、武蔵国へかへりて、浅草と申す堂あり、十一面観音のおはします、霊仏と申すもゆかしくて参るに、野の中をはるばるとわけゆくに、はぎ(萩)、をみなえし(女郎花)、をぎ(荻)、すすき(薄)よりほかは、またまじる物もなく、これが高さは馬にのりたる男の見えぬほどなれば、おしはかるべし。三日にや、わけゆけども、尽きもせず。ちとそばへ行く道にこそ宿などもあれ、はるばる一通りは、こしかたゆくすゑ野原なり。観音堂は、ちとひきあがりて、それも木などはなき原の中におはしますに、まめやかに、草の原よりいづる月かげと思ひいづれば、こよひは十五夜なりけり。雲のうへの御あそびも思ひやらるるに、御かたみの御衣は、如法経のをり、御布施に大菩薩にまゐらせて、いまここにありとはおぼえねども、鳳闕の雲のうへ忘れたてまつらざれば、余香をば拝する心ざしも、ふかきにかはらずぞおぼえし。草の原より出でし月かげ、ふけ行くままにすみのぼり、葉すゑにむすぶ白露は、玉かと見ゆる心ちして、
雲のうへにみしも中々月ゆゑの身の思ひではこよひなりけり
涙にうかぶ心ちして、
くまもなき月になりゆくながめにもなほおもかげは忘れやはする
あけぬれば、さのみ野原にやどるべきならねばかへりぬ。
(玉井幸助校訂「問はず語り」より、括弧内は著者補註)
ここでも「草の原よりいづる月影」の句があり、平安時代から継承した武蔵野の情景美が定着したことがうかがえよう。注目すべきは、それまで単に草原とあったのが、ハギやオミナエシ、オギ、ススキという具体的な植物名が列挙されていることであり、多分、オケラ、ムラサキなどの草花もあったに違いない。「三日にや、わけゆけども、尽きもせず」は、独歩のいう「萱原のはてなきをもって~」を彷彿させるが、額面通りに受け取れば武蔵国の版図を関東一帯に拡大しなければならず、いささか誇張に過ぎることは明らかであろう。この記述のある巻四は諸国遍歴を著したものであり、作者が旅したことは確かだが、旅行日記ではなく、後に記憶を思い起こして記述したと思われる。以上の古典で記述されたような武蔵野のイメージは確実に後世の芸術作品にも反映された。右の絵画は武蔵野の月に憧れて歩く西行法師(1118-1190)が秋草の中の庵で世捨て人の老人の話を聞いている光景を描いたものであり、室町時代の海田釆女佑相保の筆による『西行物語絵』を俵屋宗達(?-1643?)が模写したものである(画像をクリックすると拡大画像になる)。萩やススキ、キキョウ、野菊などの秋草が描かれているが、雄大な萱原の絶景ではないので、作者(原作者の海田釆女佑相保)が実際に武蔵野を見たわけでなく、第三者からの見聞をイメージして描いたのであろう。平安から鎌倉時代の古典文学においても万葉集の「うけらが花」から京の都周辺のオケラの生える草原と重ね合わせて「武蔵野=草原」を連想して創作されたという意見も多いようだが、これも全くの創作とは思われず、第三者からの見聞を参考にしたと考えるのが妥当であろう。
古典文学および美術で描写される武蔵野はいずれも秋の風景である。古典に限らず、武蔵野雑木林のエバンジェリストである独歩も「武蔵野」の中で夏、秋から冬の風情について書き記すのみであって、春については“春は滴るばかりの新緑萌え出ずるその変化が秩父嶺以東十数里の野に一斉に行なはれて---”といいながらその具体的な描写は全くない。万葉集では、山部赤人の「春の野にすみれ摘みにと来しわれぞ野を懐かしみ一夜寝にける(春野尓 須美礼採尓等 来師吾曽 野乎奈都可之美 一夜宿二来)」(巻八 一四二四)などに代表されるように、多くの歌が春の風情を詠っているのときわめて対照的である。万葉時代では「若菜摘み」(→誤解だらけの春の七草を参照)が生活の上で大きな意味をもっていたのが後世では失われ、純粋に文学的芸術的風情を楽しむようになったのであろうか。確かに、美意識の観点から「春野」より「秋野」の方が勝ることは「秋の七草」と「春の七草」を比べればその見栄えからして一目瞭然に見える。ススキやカヤのはてなき秋野と澄みわたった満天の空に浮かぶ月の取り合わせはまさに日本的美意識の極致ではあるが、春野でもおぼろ月がありこの点では秋野に決して劣っていない。にもかかわらず武蔵野の風景からは、古典文学のみならず美術の世界でも、春の光景は完全に無視されているようである。独歩もやはりその例にもれず「春の武蔵野」には冷淡のようである。それは次の記述からも明らかである。
--桜橋という小さな橋がある、それを渡ると一軒の掛け茶屋がある。この茶屋の婆さんが自分に向かって、「今時分、何しに来ただア」と問うたことがあった。
自分は友と顔見合わせて笑って、「散歩に来たのよ、ただ遊びにきたのだ」と答えると、婆さんも笑って、それもばかにしたような笑いかたで、「桜は春咲くこと知らねえだね」と言った。そこで自分は夏の郊外の散歩のどんなにおもしろいかを婆さんの耳にもわかるように話してみたがむだであった。
春といえば桜、これは古来から続く日本文化の定番中の定番であった。「茶屋の婆さん」のいうことを聞き流したばかりか、意識的にこの日本文化の定番を無視しようとしているようである。独歩が手本としたツルゲーネフの故国ロシアには桜はないから、独歩の審美眼から全く除外されているのかもしれないが、それにしても日本の雑木林がもっとも躍動する新緑の季節が、独歩だけでなく古今の文人や芸術家になぜ受け入れられなかったのか不思議というほかはない。また、全く意外なことであるが、秋の武蔵野においてすら、草原や雑木林の林床に生えているはずのノコンギクなどのいわゆるノギク、オケラなど数多くの野草、すなわち秋草(あきくさ)に独歩は全く興味を示さず、もっぱら林全体の立体的な描写だけに視点をおいているようにみえる。森の描写に関して、それまでの日本文学が単調な松林以外に興味を示さなかったから、独歩の文学観はそれだけで画期的ではあるが、一方で原典となったツルゲーネフの自然主義的文学観から脱却しきれていないことを反映しているともいえるのである。日本の伝統的文人の、また日本文学独特といってよい、野草に対する繊細な洞察力を表現しなかったのは残念というしかない。ただ、雑木林を音響的に描写する光景が多いのは、日本古典文学の「松風」を継承したものともいえる。ツルゲーネフの森も音響的に表現されている部分はあるが、きわめて単調かつ平面的であり、研ぎすました神経でもって武蔵野の雑木林を描写した独歩の比ではない。したがって独歩はツルゲーネフの自然主義的文学観をそのまま日本の雑木林に対して模写したわけではないのである。
2.人為的に成立した「武蔵野」の植生
次に植物生態学の観点から武蔵野に草原があったのか、すなわち存在し得たのかを考証して見よう。武蔵野に限らず、東北地方南部以南の日本列島の潜在自然植生(人間の干渉が一切ないとした場合、現存の立地条件で成立し得る植生)は基本的に「シラカシ-アラカシ」を中心とする常緑広葉樹林、すなわち照葉樹林であり、今日でも関東地方の古い神社の社叢にこの面影を見ることができる。古代においては、照葉樹林は生活するには決して快適な環境ではなかったから、古代人は生きていくために森林を焼き払ったことは間違いない。しかし、武蔵野は水利の悪い台地が大半であったから水田には不向きで、もっぱら雑穀栽培が主であっただろう。したがってあまり人口は多くなかったと推定されるので、火入れでつくられた裸地の多くは放置されたであろう。植物生態学から考えると、関東地方の関東ローム層という土壌では、裸地に最初に成立するのはススキを中心としたいわゆる萱原である。ススキなどいわゆる「カヤ類」は萱葺きの原料になるから、定期的に刈り採られたり、また火入れによって新たに焼き畑が営まれたと思われる。ごく近世まで武蔵野の民家はほとんどが萱葺きであって萱の需要は多かったはずだからこれは真実と考えてよいだろう。したがって古代から近世までは武蔵野にかなりの規模で草原が存在したことは疑う余地はなく、前述の古典文学の描写も全くの想像上の産物ではなさそうである。しかし、すすき野も放置するといずれ森林に遷移するが、陰樹であるシラカシ、アラカシなどのもともと生えていた常緑広葉樹は育たず、陽樹である「コナラ-クヌギ」を中心とする代償植生の落葉広葉樹林に遷移する。これが今日見る雑木林の典型(右の写真:八王子市南大沢の丘陵帯で春の新緑時に撮影したもの)であり、コナラ、クヌギなどは薪炭材、薪などに有用であったから定期的に伐採され、そのヒコバエからまた森林が再生する「雑木林更新」を繰り返して維持されてきた。武蔵野台地でも丘陵、山地など平地以外の主要な生態系は雑木林であったと思われる。明治以降は、茅葺き家屋が減り萱の需要が減るとともに、すすき野に手が入らなくなって落葉の雑木の平地林が増え、かくして国木田独歩の「雑木林」が成立したと考えられる。また定期的(約20年間隔)に薪炭材などを採るには下草刈りが必須であったから、これも雑木林の維持に好都合だった。武蔵野の生態系は一つは「ススキの萱原」、もう一つは「コナラ-クヌギ林、すなわち雑木林」であり、いずれも人為の加わった代償植生である。国木田独歩が「林といえばおもに松林のみが文学美術の上に認められていて、歌にも楢林の奥で時雨を聞くというようなことは見当たらない」と述べているように、古典文学が雑木林に全く無関心であったことは確かである。日本では、森は、寺社の社叢に見るように、信仰と深く結びついていることが多いのだが、いわゆる雑木林が崇められているというのは寡聞にして聞かない。落葉樹である楢の仲間はせいぜい200年程度の寿命なので、これでは信仰の対象にはなりようがないからだろう。マツは1000年以上の長命であり、中国では縁起のよいものとされたが、中国文学における描写は極めて単調であり、ひらがな・カタカナの表音文字を得て格段に表現力を増したはずの日本文学でも大差はなかった。国木田独歩の登場によって初めて雑木林の美意識が文学的に評価されたのであるが、その背景には中国より継承した伝統的文学観からの脱却がある。
3.雑木林の「雑」は豊かな生物多様性の意
今まで、「雑木林」という語を無意識に用いてきたが、植物生態学ではそのような語彙は存在しない。また、雑木林といえば真っ先に連想するはずの国木田独歩も短編小説「武蔵野」では武蔵野の林を「楢の落葉林」と描写しているだけで「雑木林」の語は一つも使っていない。雑木林は雑巾や雑兵と同じ雑の字を冠するから、武蔵野をこよなく愛し最大限の美辞麗句で形容したその林を独歩が雑木林と呼ぶことはありえないことだろう。雑木林がよいイメージで見られるようになったのは、その存在が珍しくなったごく近年のことであり、一般には雑木の林と長い間認識されてきたのでなおさらだろう。結論として誰が「雑木林」の語を使い始めたかわからないが、「雑木」という語は貝原益軒の『大和本草』(1709年)に見ることができる。江戸時代の代表的な本草書である同書で、益軒は巻之十~十二(それぞれ木之上、中、下とする)で、木本類を「四木類」(7種)、「果木類」(44種)、「薬木類」(32種)、「園木」(36種)、「花木」(40種)および「雑木」(92種)に大別している。「雑木」として分類されているのはケヤキ、カツラ、ツガ、ハンノキ、ニガキなどのほか、サカキや外来種のコクタンなど神木や高級材となる木も含まれるので、益軒は役に立たない「ザツボク」という意味で「雑木類」という語を使っているわけではないことは明らかである。園木(ヒノキ、スギ、コウヤマキ、マツなどの有用建築材)、花木などを除いたその他全ての多様な樹種を含めるため、「雑木」という語がつくられたのであろう。いわゆる雑木林の構成種であるクヌギ、コナラも「雑木類」に分類されているので、後世の誰かが「雑木林」を造語したと思われる。本来ならば常緑のカシ林も雑木林のはずだが、人里から自然性の常緑林、すなわち潜在植生たる照葉樹林がほとんど消失してしまっているので、代償植生の落葉樹林を意味するようになったのであろう。雑木林はある意味ではもっとも虐げられた森なのではあるまいか。開発至上主義者からは全くの役立たずとされ、ブルドーザーやパワーショベルで破壊され尽くされ、一方、学識者は人手の加わった森には学術的価値なしとしてほとんど見向きもしない。雑木林も長い間薪炭材、薪あるいは椎茸栽培の原木を供給し日本人の生活に役立ってきたのだから「ザツボク」とはほど遠い存在だったはずである。今日では雑というとあまりよい意味をもつとは考えられていないが、昔は雑煮のように必ずしもそうではなかったようだ。雑煮はお正月というもっともおめでたい時期にふるまわれる栄養たっぷりのごちそうだったのであったから、そういう見方からすれば雑木林は(生物多様性の)豊かな森と見ることができるのではなかろうか。貝原益軒の「雑木類」もそのような意味をもっていると考えれば理解しやすいのである。
4.雑木林は手を加えなければ維持できない
雑木林は人為の加わった森なのに自然生の常緑樹林より生物多様性が豊かなことは意外に知られていない。生物多様性の豊かな森というと“原生林”や人手の加わっていない“自然林”を連想し、学識者ですらそう思い込んでいる人が意外に多い。雑木林は、前述したように人為によって成立した代償植生である。最近の植物生態学的研究によれば、よく管理された雑木林は自然の森に比べて約2倍の生物多様度があるという。わが国のような豊かな降水量に恵まれた温帯では植生学的に森林が優先し、草原は特殊な環境を除き発達しない。すなわち、欧州のような牧歌的な草原は自然状態では存在しない。したがってわが国の植物相は木本が圧倒的に優先し、その林床にわずかな草本が生えるにすぎない。日本の自然森は林床に落葉が厚く堆積し、草本にとって決して恵まれた環境とはいえない。しかし、いわゆる里山の森、すなわち雑木林では林床に生える笹類(多くの草本にとっては天敵である)を芝刈りで駆除し、また堆積した落葉(これも小型の草本の生育を阻害する)を定期的に除き、さらに植被度の高い木本類も炭焼きや椎茸の栽培のために間引くので、林床には十分な日照量が確保される。このような人の森に対する干渉は反自然的に見えるが、実は草本が生育するのに都合のよい環境を造り出し、そのため適度な人の手が加わった雑木林は自然の森より草本の種類はずっと豊かとなる。一方、自然植生の森、すなわち常緑広葉樹林では、林内は暗く生育できる種は限られてくるが、雑木林では陽光が深く入り込むため林床には草原性植物も豊富である。火入れや刈り込みによって定期的に手が加えられる草原とともに、雑木林も、最終氷期以降、生息域が縮小して種の存亡の危機にあったムラサキ、オケラなどの草原性植物にとっては、生育するには格好の環境であった。古代から近世までそのような環境が日本列島の至る所で維持されてきたから、これら草原性植物は身近な普通の植物だったと思われる。雑木林や草原に手が加えられず放置された現在では、潜在植生である「シラカシ-アラカシ」を中心とする常緑広葉樹林への遷移が起きつつあり、雑木林では豊富だった草原性植物は激減し、オケラなどは丘陵の尾根筋など木が生えない所にかろうじて生き延びているにすぎない。いわゆる満鮮要素といわれる植物群は、キキョウ、ムラサキなどをはじめ、いずれも現在では幻の植物といわれるほど希少植物となってしまった。しばしば開発などによる自然破壊に起因するとされるが、それは必ずしも真実ではなく、最大の原因は植生の遷移で生息域が狭まったためである。満鮮要素植物群が生き残るには、人の手が加わることで成立した里山生態系の維持が必要であり、この場合、原生の植生を保存したとしても意味はないのである。これを理解しない学識者が意外に多いのも残念なことである。前述したように、雑木林は典型的な代償植生であるが、人の手の加わったものとして生態学者の評価は低い。また、自然保護運動家もやはり人手の入った森は保護に値しないと考える人が少なくないようである。しかしながら、最近では、人と自然との共存に関心が集まり、もっとも理想的な関係として雑木林や里山に対する関心が高まってきたのは好ましい傾向である。雑木林が人々の生活に与えた歴史的恩恵は計りしれないものがある。古代から近世までは、エネルギー源として薪炭材を供給したほか、林縁、林床に生える草本には薬草や食草が多く、先祖代々その自然の恵みを最大限利用してきたことを忘れてはならない。山菜を例にあげれば、タラの芽、ヤマユリの根、キイチゴ類、ヤマノイモなどは常緑の自然林より里山に多く生える。薬草では、葛根湯の原料であり葛デンプンの原料でもあるクズや、下痢止め薬であるゲンノショウコなども里山の主たる産物である。したがって雑木林が成立する地域では日本文化の基層をつくりあげる上で雑木林の存在は大きかったことは間違いない。国木田独歩は、「生活と自然とがこのように密接しているところがどこにあるか」と「武蔵野」の中で述べているが、人間の生活と自然とが共同で作り上げた傑作こそが雑木林といえるのである。
→ホーム